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クリストファー A. フェララ,Esq.著「ファチマの第三の秘密と公会議後の総崩れ」を読んで

2006年08月19日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで

アヴェ・マリア!


「保守的」カトリシズムの出現



 クリストファー A. フェララ,Esq.著「ファチマの第三の秘密と公会議後の総崩れ (第四部 第五部)」(http://www.d-b.ne.jp/mikami/fn980421.htm)の「保守的」カトリシズムの出現に関する考察はとても興味深かった。以下、ポイントを拾ってみた。

【詳しくは是非とも、http://www.d-b.ne.jp/mikami/fn980421.htmをご覧下さい。】



(前回のまとめ)

 第二バチカン公会議の前にはすべてのカトリック教徒は「伝統主義者」であった。しかし、第二バチカン公会議はすべての断罪を放棄し、リベラル派「カトリック」が教会内に存在するようになった。今日のリベラルなカトリック教徒たちは本来ならば破門されていなければならない人々であった。

 


【「保守派」カトリックの出現】


 リベラルな立場と伝統主義者の立場との間のギャップの中に今「保守的」カトリシズムと呼ばれているものが現れた。


 保守派は、一方において教会を統治する教皇の至上のそして完全な権力(plena et suprema potestas)と、他方においてキリストの代理者[教皇]でさえ所有していない絶対的な権力との間の混同に基づいている。


 「保守派の人々」は、教皇の権威はすべての実践的な目的のために絶対的なものと見なされなければならない、と考える。



 「保守派の人々」は、教皇についてプロテスタントたちが誤ってそうであると主張しているまさにそのカリカチュアを主張し出した。すなわち教皇は専制君主であり、教皇の布告はそれらが教会の共通善を害するものであったとしても、文字通りに遂行されなければならない、とする。



 「保守的」カトリシズムは伝統に対する「真の」忠実と教導職に対する「真の」従順によって動機づけられていると主張する。 「保守的な」カトリック教徒は、どんなことであれ、単純に盲目的に教皇に従う。「私は教皇なしに正しい者であるよりはむしろ教皇ととともに誤った者でありたい」ということが「保守的」カトリック教徒の慰め言葉の一つである。



 保守派の人々は教皇がされることはどんなものであれ何でも定義によって伝統的であると単純に宣言する。


「教会が承認することは定義によってカトリックの諸々の伝統と矛盾しない。なぜなら教会は、特に聖座は、...伝統の決定者であり裁定者であるからである」と。


 こうすることによって、カトリックの伝統から、客観的な内容が奪われ、本質的に何であれ「教皇の望まれること」(主観)=「伝統」へと還元している。



 その結果は、例えば、
 祭壇奉仕の少女たちは、全二千年の教会の歴史にわたって彼女らが禁止されてきたにもかかわらず、そして教皇ヨハネ・パウロ二世によって彼が彼自身の以前の布告を突然逆転されるまでは禁止されてさえいたにもかかわらず「伝統的」となったのである。


 新しい自国語ミサのために伝統的なミサが放棄されたこともまた「伝統的」となる。実際、刷新それ自身が「伝統的」となった。


 保守派の人々は、彼らに加わることを拒否した人々(=伝統主義者たち)を公然と非難する傾向がある。そうすることによって、「保守的な」カトリシズムは、現在の教会の危機を大いに悪化させた。「保守的な」カトリシズムの出現のおかげで、教会史において初めて信頼に足るカトリック伝統主義は一つのののしり言葉となった。


 公会議後の革命の不本意な監視人たち、保守派の人々は、夜盗たちの一団が[カトリック]信仰の王室を掠奪している間まどろんでいるが、しかし、ときどき階段を駈け昇るために立ち上がり、いくつかの「非合法的な」ラテン語ミサを含む彼らのわずかに残った財産をもって屋根裏部屋に避難した伝統主義者たちに吠えついている。そうこうしている間に夜盗たちは妨害されることなく彼らの仕事を続けているのである。


 革命と伝統との間の偽りの「保守的」中間地のまさに存在そのものが、本当のカトリックである伝統主義者たちをマージナル化して外に追い出すことを革命家たちに許した。


 主要なリベラル派の一人であるリチャード・P.マクブライエンはその著書カトリック教会の改造においてこう述べている:「穏健な保守派による極右の批判は穏健な進歩派によるよりも遙かに効果的である。」そうすることによって、保守派の人々は、どれほど不本意にであれ、革命によく奉仕してきた。


 「保守的な人」は、教会の共通善を保存することを委ねられた人々(教会の当局者たち)が教会からその太古の典礼や多くの他の貴重な伝統をほとんど一夜のうちに剥ぎ取りながら、まさにキリストの花嫁のイメージそのものを敢えて変えようとしたことがあたかも言語に絶する一つの不法行為ではなかったかのように、どっちつかずに述べるのである。


 「保守派」はわれわれの信仰が一つの特定の公会議、そしてそれが産み出した革命的な諸改革や新しい態度によって定義されるようになったと言っている。このことが意味していることは、「保守的な」考え方が進歩的あるいはリベラルなカトリシズムの一つの形式そのものだ。




【保守的な人々のための一つの新しい名前】


 「エキュメニカルな運動」を断罪され、そして王たるキリストの祝日を設けられた他ならぬ教皇ピオ十一世はその問題を以下のような言葉で表明された:


 「われわれが経験しつつある危機は歴史において類のないものである...可もなく不可もないものであることはもはや許されない。すべての人は各人が彼の活動の諸々の制約の範囲内で世界をキリストへと立ち帰らせるために果たすべき一つの使命を持っているということを想起する避けられない義務を持っている。右翼の急進派であることによってのみカトリック教徒は左派の急進派に抵抗し、キリストのために世界を征服する力強さを持つであろう。



 スーネンス枢機卿自身が認められた「教会におけるフランス革命」であったもの(=第二バチカン公会議)に直面して「保守的な」カトリック教徒は、増大する伝統的運動が証明しているように、彼の教会における身分への完全な安全を保って合法的に抵抗できたにもかかわらず、破滅的な諸々の変化に対して何の抵抗もしなかった。



 「保守的」カトリシズムは、ネオ・カトリシズムを実践するネオ・カトリック教徒たちと呼ばれるべきである。


 典礼の一致がローマ典礼に回復されるとき、カトリックという言葉が信徒のすべての成員のために同一の意味、そして同一の感覚を回復するとき、伝統主義、リベラル、ネオ・カトリックなど、そのような用語のいかなる必要性もなくなるであろう。



 しかし今は必要がある。ネオ・カトリック教徒たち(=「保守的」カトリック)は正義において、彼ら自身のために健全な正統性のマントを主張し続けることは許され得ない。


 また彼らはもはや、カトリック教徒たちが常に礼拝してきたように礼拝し、そしてカトリック教徒たちが常に信じてきたように信じることに対して伝統主義者たちを、過激主義者ととして表現することを許されるべきではない。

 



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3. 7. 1. 司祭叙階(その1)ルフェーブル大司教の伝記の続き

2006年08月18日 | ルフェーブル大司教の伝記


第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)

7.ローマの司祭、神学博士



司祭叙階(その1)


 しかし近づく司祭叙階は、マルセル神学生を忙しくさせた。 3月 25日に彼は既に、聖ヨハネ・ラテラン大聖堂でポンピリ枢機卿 (Cardinal Pompilj) によって副助祭職を受品していた。そしてカトリック教会と同じく「常に武器を取り、敵に対して停戦することなく争う用意ができている 」レヴィ族の一員として編入された。


 1929年 6月 22日神学修士号 (licence) の試験に合格し、彼はサンタ・キアラの神父たちの激励を受けて、その他の幾人かの神学生とともに、神学博士の学位を取ることで修学を飾るようになった。マルセルは「出世の梯子を登る」ことを望まなかったが、そうすることによって教会にもっとよく奉仕する心構えだった。しかし、司祭職を受けるに必要な過程(cursus)を既に終了していたので、博士号を待つことなく司祭に叙階されることができた。リール教区の司教館は次のように決めた。マルセル・ルフェーブルはローマに一年間帰る前に、リール司教によって叙階される。


 新任司教であるアシーユ・リエナール(Achille Lienart)は、リベラルな環境のリールの呉服問屋家門出身で、当時フランスでの最年少司教で 44歳だった。トゥルクワンにある聖クリストフォロ教会の主任司祭として働いていた当時から、リエナール司教は自ら大胆で新しいやり方にとても開放的であることを見せていた。引退するキイェ司教(Mgr Quilliet)の後を引き継いで 1928年 12月 8日リールの司教に聖別された彼は「現実感覚、可能性に対する正しい判断力及び義務に対する冷情な勇気を持った 」人で思われていた。


 この活動家が「仮説」と呼ばれていたことにかくも深く関与し、原理を守る男ではなかったのは、なんと惜しいことだっただろうか! 彼が青年カトリック労動者組織 (J.O.C.) を無条件に承認したことは、そのことを雄弁に語っている。それに引き替えメルシエ枢機卿 (Cardinal Mercier) は、自分の同類仲間のあいだでする若いカトリック労働者のこの種の使徒職運動にたいして、とても慎重であった 。その理由は JOCの目標が曖昧であり (永遠の救いと社会変革)、さらに教会の社会教義の原理を学習するよりはむしろ活動を重要視したからだった。


 リエナール司教の任期間、ローマはキリスト教労働組合が階級闘争に参加していることを告発するエウジェーヌ・マトン(Eug?ne Mathon )の訴状に対する回答文書を発表した。ローマは、労働組合がカトリック信徒によってのみ構成され、「階級闘争の原理を絶対拒否すること」を条件に、さらに混合仲裁委員会を設立されるということを条件に、労働組合の合法性を再確認した 。


 マルセル神学生はローマの決定を受け入れた。彼はローマが許可したことでありどのような善を成すことができるかもしれないことを排斥することを拒んだ。たとえ(教会の権威から)分離した組合が、ラ・トゥール・ドュ・パン (La Tour du Pin) が提示していたカトリック社会教義の哲学原理に矛盾していたとしても、マルセル・ルフェーブルはあまりにも実際的-----現実実用主義的と私たちは喜んで言うことができるだろう-----であり、神学や自然法に反しない限り、これを哲学の名前で排斥することはしなかった。同じくマルセル・ルフェーブルは、各組合がカトリックであるならば、教皇レオ 13世, ピオ10世及びピオ11世に倣って、たとえそれが聖職者の権威から分離したものであったとしても、それらを受け入れていた 。


 彼の父親であるルネ・ルフェーブルは、確かに新しい司教の懇意な友達ではなかった。一部の人々がそのことをあからさまに示していたのに引き替え、ルネ・ルフェーブルは、司教に対する敵対感を現わさなかった 。 1935年に、父親は地方政治に身を染めることにし、トゥルクワンの地方自治選挙に立候補した。彼の名前は、職業組合と家庭を擁護する候補者名簿の最上欄に掲載された。彼は息子ルネにこう書いて送った。「私の名簿は 1,200票を得たよ。この名簿は、最後の最後にできたもので、何らの広告もしないでお金もないまま作成されたものだよ。・・・家では、それはもう戦場のようだったよ。職業組合あり、家庭あり、アクション・フランセーズあり、まぜこぜだった。お母さんが、最後にこれに賛成して支持してくれたんだ。 」これが、勇気ある工場主の本当にキリスト者らしい社会闘争のようだった。

 

 

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 暑い日が続きますが、ご健康に気を付けて下さい。扇風機の当たりすぎにご注意下さいね。



 


クリストファー A. フェララ,Esq.著「ファチマの第三の秘密と公会議後の総崩れ」を読んで

2006年08月16日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで

アヴェ・マリア!


「保守的」カトリシズムの出現



 クリストファー A. フェララ,Esq.著「ファチマの第三の秘密と公会議後の総崩れ (第四部 第五部)」(http://www.d-b.ne.jp/mikami/fn980421.htmの「保守的」カトリシズムの出現に関する考察はとても興味深かった。
以下、ポイントを拾ってみた。

【詳しくは、http://www.d-b.ne.jp/mikami/fn980421.htmをご覧下さい。】

 



【第二バチカン公会議以前】


 第二バチカン公会議の前にはすべてのカトリック教徒は「伝統主義者」であった


 すべてのカトリック教徒は、非カトリック教徒との「一致」のために教会の諸々の伝統のいかなる妥協もあり得ない、と考えていた。


 典礼に関しては、公会議前までカトリック教徒は古代の言語を含むミサの形式は諸々の時代を超えて聖霊の働きであり、刷新に服従するものではないと信じていた。


 キリスト教一致については、公会議前のカトリック教徒は、カトリック教会こそが別れて行った兄弟たちがそこへ戻らなければならない唯一の真の教会だと見なしてきた。



 カトリック的な正しい教皇像によると、教皇は、教会を統治する上で、至上のそして完全な権力(plena et suprema potestas)をもっている。


 ただし教皇は専制君主ではない。教皇といえどもイエズス・キリストに従わなければならない。教皇といえども、新しい教義を作り出すことが出来ない。


 教会博士聖ロベルト・ベラルミンはこう言っている。

身体を攻撃する教皇に抵抗することが合法的であるように、霊魂たちを攻撃する教皇、あるいは市民的秩序をかき乱す教皇、あるいはとりわけ教会を破壊しようとする教皇に抵抗することもまた合法的である。私は、教皇が命じていることをしないことによって、そして教皇の意志の遂行を妨害することによって教皇に抵抗することは合法的である、と言う。しかしながら、教皇を裁き、教皇を罰し、あるいは教皇を退位させることは合法的ではない。なぜならこれらは上長に固有の行為だからである。」



「人々の真の友人は革命家たちでも革新者たちでもなく、伝統主義者たちである」(教皇聖ピオ十世)

 

 




【第二バチカン公会議の到来によるリベラル派の解放】


 公会議はすべての断罪を放棄した。ヴァチカンが嫌疑を受けていた多くの神学者たちを突然名誉回復した。今日のリベラルなカトリック教徒たちは本来ならば破門されていなければならない人々であった。しかし、リベラル・カトリシズムは今日教会においてはその他の点で一般に大目に見られている。それは少なくとも外的な公共の場では、カトリック的実践および信念の様式として存続するようになってしまった!



 少数のカトリックは、正真正銘のカトリックでありつづけようとした。つまり、カトリックで留まろうとする彼らは「伝統主義者たち」「カトリック伝統主義者たち」「伝統主義カトリック」と呼ばれるようになってしまった! 伝統主義者は、ただ単に、カトリック教徒たちが常に礼拝してきたように礼拝し、そしてカトリック教徒たちが常に信じてきたように信じることをもとめただけだった。



 本来の単なるカトリック(第二バチカン公会議以後は「伝統主義者」と呼ばれるカトリックは、公会議後の革命にその発端から反対した。特に典礼に関する「伝統主義者の」立場は、新しいミサに反対するオッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿とによって表明された。



 オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿とは、パウロ六世の諸改革がトレント公会議によって成文化されたミサの神学からの「著しい逸脱」であり、千五百年以上も続いている典礼の伝統を単純に放棄することができなかった人々の間に「良心の危機」を産み出す「一つの測り知れない誤謬」であると警告した。

[オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙)
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/rappot.html

 


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聖伝のミサにようこそ! WELCOME TO THE TRADITIONAL MASS!

2006年08月16日 | 聖伝のミサの予定

兄弟姉妹の皆様を心から、聖伝のミサにご招待いたします。


アヴェ・マリア!


 ■ 聖伝のミサにようこそ! ■ WELCOME TO THE TRADITIONAL MASS!


 兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。


 聖伝のミサに兄弟姉妹の皆様を、私たちは心から歓迎します! 


(聖伝のミサは、本来なら「ローマ式典礼様式のミサ」と呼ばれるべきでしょうが、第二バチカン公会議以前のミサ、聖ピオ5世のミサ、古いミサ、昔のミサ、旧典礼、ラテン語ミサ、トリエントミサ、トリエント公会議のミサ、伝統的ミサ、伝統ラテン語ミサ、伝統的カトリック・ミサ、・・・などとも呼ばれています。)


聖伝のミサは、
聖ピオ5世教皇様の大勅書によって義務化され永久に有効なミサ聖祭です。

「余によって命ぜられたものより他のやり方でミサ聖祭を捧げる事が無いように。又、何によってであろうともこのミサ典礼書を変更すべく強いられ、強制される事無く、又この手紙が決していつの時代でも変更されることの無く却って〔この手紙が〕常に堅固、且つその適応範囲において有効であるように、同じく余は規定し宣言する。」

「・・・ 故に、絶対に誰一人として、余のこの許可、規定、命令、勅令、決定、認可、許可、宣言、意志、政令及び禁止のページに背反し、或いはそれに大胆にも背く事のないように。もしも、誰かがそれを企てようと敢えてするとしたら、全能の天主〔の憤慨〕及び使徒聖ペトロとパウロの憤激をかうと言う事を覚えよ。」

(1570年7月14日聖ピオ5世の大勅令『クォ・プリームム』)



「聖ピオ5世のミサ典書は、一度も廃止されたこともないし禁止されたこともありません。」

(2006年7月21日、ローマのIメディアのインタビューで、典礼聖省の事務総長、ランジット大司教の言葉)

 

「私たちが今日経験している教会の危機は、「もし神が存在しなかったとしても」(etsi Deus non daretur)の原則に従って行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。」

(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社)



「私はファチマのルチアに対する聖母のメッセージによって心配しています。教会に脅威を与える諸々の危険についてのマリアのこの固執は、信仰と教会の典礼を変更するという自殺行為に対する天主の警告です。

(ピオ十二世の言葉)
http://www.d-b.ne.jp/mikami/fn980217.htm

 


     <2006年8月>


【大阪】大阪市東淀川区東中島1-18-5 新大阪丸ビル本館(JR新大阪駅の東口より徒歩5分)「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」


18日(金)平日(4級)緑      午後5時半
19日(土)証聖者聖ヨハネ・ユード(3級祝日)白     午前11時



【東京】東京都文京区本駒込1-12-5曙町児童会館1F 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
19日(土)午後6時半 グレゴリオ聖歌に親しむ会(http://sound.jp/gregorio/
     午後8時40分 グレゴリオ聖歌による終課

20日(主)午前10時  ロザリオ及び告解
          聖霊降臨後第十一主日(2級)緑 午前10時半
     午後2時半 公教要理の霊的講話
     午後4時半 グレゴリオ聖歌による主日の第二晩課

21日(月)寡婦聖ヨハンナ・フランチスカ・シャンタル(3級祝日)白  午前7時 (予定)

22日(火)聖母マリアの汚れ無き御心(日本の最上位の保護者)(1級祝日)白 午前7時 (予定)

 

 



 詳しいご案内などは、
http://sspxjapan.qp.land.to/holymasstips.htm
http://sspxjapan.qp.land.to/masscentersfaq.htm
http://sspxjapan.qp.land.to/schedule.htm

または
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila351.html

 などをご覧下さい。



それでは、皆様のおこしをお待ちしております。


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天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

 


 


3. 6. 5. 教皇、ローマ精神そして聖なる都市ローマ(ルフェーブル大司教の伝記の続き)

2006年08月14日 | ルフェーブル大司教の伝記

第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)

6.聖トマス・アクィナスの哲学・神学体系(トミズム)とローマ精神 (その5)

 


教皇、ローマ精神そして聖なる都市ローマ


 この神学校当局の信頼は、ルフェーブル神学生が慎ましい引退生活中のビヨ枢機卿を訪問することを許すほどだった。ピオ11世を説得してアクション・フランセーズを断罪しないように手を打つことができなかったことを残念に思っていたビヨ枢機卿は遂に 1927年 9月に枢機卿職を辞任したと知られる 。「ビヨ神父」は従順のためローマ郊外のネミ湖 (Nemi) 岸のガルロ (Galloro) にある修練院に居を置いていた。マルセルは、彼を訪問することを「大きく喜んだ」と、ルフェーブル神学生と一緒に行ったアロイス・アムレンは言った 。 恐れなく、咎めもない教会の代表者に敬意を表し、流されの生活にいる彼を慰める、これがマルセル・ルフェーブルが望んだことであった。しかし彼の仲間は「マルセルがピオ11世尊重して敬っている」ということをよく知っていた。


 ルフェーブル大司教はエコンで神学生たちにピオ11世に対する尊敬心をこう表現したことがある。


「フランス神学校の私たちには、毎年、教皇聖下の謁見を受ける喜びがありました。教皇様は私たちにちょっとした講話をして下さいました。私たちは教皇様を敬っていました。... 私たちがキリストの代理者をどれ程愛しているか、教皇様をどれほど愛するように学んだかを天主がご存じです。 」


 1927年 12月 3日の謁見で、以前にローマの学生だったピオ11世は、自分自身「しばらくの間、カトリック信仰とカトリック精神でいっぱいのこの雰囲気、すなわちカトリック信仰の魂でさえある「ローマ・カトリック精神(romanite)」の中で呼吸することができたのは、天主の下さった最高の聖寵の一つ 」であると思うと神学生たちに打ち明けた。

 

 マルセル・ルフェーブルは、当時はもちろん一生の間、まさしくこのローマ・カトリック精神の泉水をたっぷり飲んだ。彼は後でこう言っている。


「ローマで、私たちは信仰の学校にいるという確信を持っていました。四旬節の指定巡礼教会、数多い使徒及び殉教者たちの至聖所のためです。」


 自分の守護の聖人の教会である聖マルセル教会では、重要な祝日に行列して持ちはこぶ奇蹟の十字架像を敬うためによく行くのを好んだ。教会はマルセルにとってとても大事な二つの信心、すなわち十字架及び悲しみの聖母への崇敬に身を尽くす、セルビトゥス修道会によって運営されていた 。ローマには、教皇謁見や聖ペトロ大聖堂で列聖式もある。


 彼はこう言う。「私は幼きイエズスの聖女テレジアやアルス(Ars)の聖司祭(聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ)の列聖に参加する喜びを受けました。全く素晴らしい儀式でした。この儀式は私たちを天にまで上げてくれました。誰かがローマに滞在ながら、自分のカトリック信仰の活気と熱情が増加しなかったとしたら、彼はローマが何かを何も理解しなかったことになります。


 若いマルセル・ルフェーブル神学生は、自分の家族にローマ・カトリックの熱情を共有させようと思い、家族のために教皇謁見を手配準備した。1929年の復活節の頃、ルネ・ルフェーブル氏は妻と妹であるマルグリット・ルメール-ルフェーブル、そしてマルグリットの娘を一人連れて 、巡礼者グループとともに私的謁見の好意を享受した。教皇は謁見の部屋に入り、座ってから、自分を半輪の形を作って取り囲んで立っている訪問者に語りかけた。


 そうして教皇は、訪問者らの周りをゆっくり回りながら、何人かには祝いの声を掛けて祝福なさった。自分もそこにいたマルセル神学生は、儀式係にこうささやいた。「天主に5名の子供達を捧げた自分の愛する両親を祝福してくださることができれば大変感謝いたします、と教皇聖下に申し上げていただけますか?」


 教皇は近付いて来られ、ルフェーブル神学生の両親は教皇の指輪に口づけをし、マルセルも教皇の指輪に接吻した。教皇は両手を若い神学生の頭の上に置きながら大きい声でこう言った。


「君は教会のために多くの善行をした。 」


 この言葉は親のために言われたものだった。しかし、教皇が息子を祝福するまさにその瞬間にこう言ったということは、若い副助祭の将来に対する天主の摂理の特別な表示のようではなかっただろうか?


 マルセルは、実際に 1929年 3月 30日の聖土曜日以後、副助祭であった。3つの上級品級のうち、最初の品級である副助祭職(そして受品者は完全な貞潔の暗黙の誓願を立てる)を受ける準備のための8日間の黙想会は、副助祭において貞潔の徳がどれほど要求されるのかを強調した。後日彼は次のように回想している。


 「教会の全聖伝は、天主に近づけば近づくほど、ますます貞潔と童貞性を実践しなければならないと私たちに教えているこは、絶対に確実だ。それは天主が地上にいらっしゃる間、ご自身の身近にいるようにお選びになった人々、 すなわち童貞聖マリア、聖ヨセフ、カルワリオまで付き従った使徒聖ヨハネの模範に従って、である。私たちの主は、童貞なる霊魂を選び給うた。そして天主にもっと近づけば近づくほどもっと霊的になり、より肉的ではなくなるということは、全く普通のことだ。何故なら、天主は霊であるからだ。 」


 叙品式は、ラテラン神学校であった。式は枢機卿会議補佐役であるカルロ・ラファエレ・ロッシ (Carlo Raffaele Rossi) 大司教によって挙行された。サンタ・キアラの学生 17人が同じく副助祭職を受けたが、彼らの中にはマルセルが友情を結んだスイス人、すなわちヴァレー(Valais) 州出身のアンリ・ボンヴァン(Henri Bonvin)もいた。マルセルはそのスイス神学生たちを非常に好んだ。ただしマルセルは、彼らをよくからかうことも知っていた。からかわれたアロイス・アムレンによれば、マルセルがアヴィニョンの教皇たちを愛するふりをするしていたのを、アムレンはナイーヴにも信じて軽蔑していたということを信じるならば 。


 いや、そうではない。親愛なるアロイス君、君の友マルセルはローマにある教皇を、すなわちキリスト教世界の霊的な君主でありローマ及びローマ・カトリック国の政治的支配者なる教皇を愛していたのだ。


 1929年 2月 11日、教皇とイタリアの間に結ばれたラテラン条約を祝う喜びが広がる時、アムレンはこういった。


「皆は、新聞を買いに神学校外に急いで出て行った。中には、厳格に禁止されていたアクション・フランセーズさえ買う人々もいた。....神学校では、特にマルセルの場合、雰囲気がかなり沈んでいたのが分かった。私は、ローマ問題が、マルセルが望んでいたのとは違うように解決されたことを感じた。彼の顔つきは苦しげだった。 」


 マルセル・ルフェーブル神学生は、ラテラン協定が、永遠な都市ローマの俗化を承認したこと を惜しんだ。たとえその政教条約 がローマの「神聖な性格」を確認したとしても、そうだった。


 マルセル・ルフェーブルは次のように言っている。


「事実、フリーメーソンはカトリックのローマをバチカン市国に閉じこめることで、ローマ・カトリック精神に根付いているカトリック真理の力を消滅させようとした。協定でローマが「イタリア国の首都」であると認められ、"バチカン内部で自由主義及び近代主義浸透をもたらす" 原因となる "フリーメーソン支部, や売春巣窟, 不潔な映画館" によってローマは侵略されてしまうだろう。 」

 

 

 


(つづく)

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明日は童貞聖マリア様の被昇天の祝日です。佳き祝日をお迎え下さい。


 


新しいミサについて、典礼聖省の新しい事務総長ランジット大司教様のインタビュー

2006年08月13日 | ミサ聖祭


アヴェ・マリア!



兄弟姉妹の皆様、


 新しいミサについて、典礼聖省の新しい事務総長であるランジット大司教様のインタビューをご紹介します。



【質問】:典礼の乱用は現実に多いのですか?


【ランジット大司教】典礼聖省は、新しいミサにおける典礼の乱用を嘆く人々からの手紙を毎日受け取っています。司祭は好き勝手なことをし、司教らは目をつぶっている、或いは司祭たちのすることを「刷新」の名によって正当化しています。・・・私たちは黙っていることができません。気を付けて見張っているのが私たちの責務です。何故なら、ついに人々はトリエント・ミサに与るようになるでしょうし、私たちの教会は空っぽになってしまうだろうからです。トリエント・ミサは、ルフェーブル派の所有物ではありません。

(2006年7月13日、ローマのIメディアのインタビューで、典礼聖省の事務総長、ランジット大司教の言葉)


Q. Les abus liturgiques sont-ils reellement si nombreux ?
R. Chaque jour, nous recevons tellement de lettres, signees, ou les gens se lamentent des nombreux abus : des pretres qui font ce qu’ils veulent, des eveques qui ferment les yeux ou, meme, justifient ce que font leurs pretres au nom du ‘renouveau’… Nous ne pouvons pas nous taire. Il est de notre responsabilite d’etre vigilants. Car, a la fin, les gens vont assister a la messe tridentine et nos eglises se vident. La messe tridentine n’appartient pas aux Lefebvristes.


【詳しくは次をご覧下さい:フランス語】
http://www.dici.org/actualite_read.php?id=1296&loc=Fr
【英語】
http://www.dici.org/actualite_read.php?id=880&loc=US

 



【質問】:聖ピオ5世のミサ典書は、現実に第二バチカン公会議以後、無効となっているのですか?


【ランジット大司教】:聖ピオ5世のミサ典書は、一度も廃止されたこともないし禁止されたこともありません。しかしルフェーブル大司教の信者らに起こったことのために、このミサはある正しくないアイデンティティーを持つようになってしまいました。
(2006年7月21日、ローマのIメディアのインタビューで、典礼聖省の事務総長、ランジット大司教の言葉)


- Le missel de saint Pie V a-t-il ete reellement invalide apres le Concile Vatican II ?
Mgr Ranjith: Il n’a jamais ete aboli ou mis au ban. Mais, a cause de ce qui s’est passe avec les fideles de Mgr Lefebvre, cette messe a pris une certaine identite qui n’est pas juste.


【詳しくは次をご覧下さい:フランス語】
http://www.dici.org/actualite_read.php?id=1296&loc=Fr
【英語】
http://www.dici.org/actualite_read.php?id=880&loc=US




【典礼聖省のランジット(Albert Malcom Ranjith Patabendige Don)大司教様については、次のサイトをご覧下さい。
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila329.html


ランジット大司教 司祭職の危機、司祭のアイデンティティの危機と、典礼で行われている全てのこととが深い関係がある」、「もしも私たちが教会を復興させようと思うなら、もしも私たちが教会に真の刷新をもたらそうと望むなら、私たちはそこからその中心点から始めるべきだ。」


ランジット大司教 教会において典礼と司祭職との両方に本当に問題が存在し、その両者は一緒の問題だ、ということであなた(=フェレー司教)に200%賛成します。私たちはこのことを解決しなければならず、教皇様が真のカトリックのミサを全ての人々のために解放しなければならないのは、疑う余地がありません。私は今からローマに行きますが、そこで私的なチャペルが与えられます。私はミサがそうあるべきであるように捧げるために、聖ピオ5世のミサ典書を入手しました。」

 



 ランジット大司教様の言う通り、聖伝のミサ聖祭は、聖ピオ十世会だけの所有物ではありません! たとえバチカンがエクレジア・デイ委員会を作り、聖伝のミサ聖祭を聖ピオ十世会など特別な団体だけに与え、いわば博物館(動物園?)の檻の中に閉じこめて、大昔生存していた生きている化石、とか恐竜であるかのように取り扱うのを拒否してきました。


 カトリック信仰を守るために、ルフェーブル大司教様と大司教様の創立した聖ピオ十世会はこのミサ聖祭を固守してきましたし、これからも固守します。だからと言って、聖伝のミサが「聖ピオ十世会だけのもの」であるというアイデンティティーは正しくありません!


 聖ピオ十世会は、聖伝のミサについてのそのような「特別の修道会のもの」という間違ったアイデンティティーを受け入れることができません。私たちは、聖伝のミサに、カトリック教会のミサ聖祭である「市民権」を常に主張していますし、主張し続けます。


 だから、聖ピオ十世会は例えばアメリカでイギリスでフランスでまたドイツで、全てのカトリック司祭たちに手紙を送り、聖伝のミサについての認識をもってもらうように努力してきました。

 例えばドイツ管区のこの動きについては次の報道記事「第二バチカン公会議以後の唯一の大罪」をご覧下さい。

Seit dem Konzil gibt es nur noch eine Todsuende
Ein Vertreter der Priesterbruderschaft St. Pius X. sprach in einem Interview von einer unglaublichen "Selbstzerstoerung der Liturgie".
http://www.kreuz.net/article.3662.html




 だからこそ、聖ピオ十世会は、


 まず、(1)ベネディクト十六世教皇様のために天から、トリエント・ミサと呼ばれている永遠のミサ聖祭を完全に解放するために必要な力を勝ち取るために、教皇様に百万環のロザリオの祈りを霊的花束としてお捧げしたいと思っています。


 そして、聖伝のミサの聖寵を通して(2)私たちの主イエズス・キリストの社会的王権が復興するため、また(3)聖母の汚れ無き御心が凱旋するために、祈りたいのです。



 兄弟姉妹の皆様の寛大なご協力をお願い申し上げます。



 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



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3. 6. 4. 司祭という聖父なる天主の修道者(ルフェーブル大司教の伝記の続き)

2006年08月12日 | ルフェーブル大司教の伝記



第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)

6.聖トマス・アクィナスの哲学・神学体系(トミズム)とローマ精神 (その4)

 


司祭という聖父なる天主の修道者


 フレー神父(Frey)の霊的講話を聞きながら、マルセルは特に念祷の大切さを悟った。髪の毛が短く、元気旺盛して器用なこのアルザス人司祭は、1906年から 1939年に永眠するまでずっとサンタ・キアラで教え続けた。彼はル・フロック神父の右腕で、 1933年にベルテ神父を引き継いで学頭となった。彼は 1925年から聖書委員会の事務総長となり、そこで時として間違いに染まった風潮を断罪しなければならなかった。


 彼の霊的講話は、聖トマスに基づいた宗教の徳を取り扱った。彼は次のように言った。「宗教と言うのは、私たちが天主を喜ばせしてあげるためでもなければ、私たちが天主に対してしてあげる奉仕でもない。宗教とは、私たちが天主に当然にしなければならない正義に基づく義務だ。私たちはすべてのものを天主から受けたのだから、すべてのものを天主に返さなければならない。」「霊的な被造物はその定義からして宗教的・修道者的である。そうではなければ霊的な被造物はその本性を変質してしまう。こんな宗教生活の精神を持たない司祭、すなわち持続的に天主の御稜威の御前にない司祭、そして自分の霊魂で内的に天主を礼拝しない「司祭」を想像できるだろうか?」


 マルセル・ルフェーブルはこの精神に浸透され、宗教で満たされることだろう。彼は、天主に対する内的礼拝、また天主の権威に参与する人々に対する敬意、或いは聖寵により聖霊の神殿である人々に対する敬意を表明する典礼の動作を愛した。マルセル・ルフェーブルは、キリスト教文明とはすなわち敬意の文明であることを学んだ。キリスト教文明を作った宗教は、私たちの主イエズス・キリストを中心にし、キリスト教文明の「大いなる祈祷」とはミサ聖祭だ。


 マルセルにおいて、宗教の徳を学ぶ一番実践的な授業は、神学校の典礼部長であるジョゼフ・エギー (Joseph Haegy) 神父のものであった。この司祭は、背が低く、強いアルザス地方のアクセントがあり、小股で素早くちょこちょこ歩き、注意をする時には両手を素早く対称的に動かした。彼は、マルセルを含む式長らの助けを借りて、自分が自ら指揮を執って、ひんぱんな練習を要求した。彼は、細かい部分まで時間を守ることと正確性とを要求して、こう言った。「司祭の信心は、生者や死者のために祈るメメント (Memento) の時にどのほど長い間じっとした状態で祈ったかによって評価されるのでははい。そうではなく、典礼法規をどれ程よく忠実に遵守したかによって計られる。」

 マルセル・ルフェーブル神学生は 1931年にこう書いている。「神父様が完璧を期するために苦心することを通して、私たちは天主なるホスチアの御稜威にどれ程偉大な信仰を持っているかが分かった。神父様は経験を通じて、伝統的な典礼様式が、自分勝手でわがままなやり方に取り替えられているという事がよく起きるということを知っていた。」


 神学校が招請されれば、それが教皇ミサであろうと、あるいは枢機卿の司式する聖体降福式であろうと、神父は「神学校の名誉がかかっている」ので、最高の学生たちを選定し、さらに「万全を期して予期しないことが起こらないために」彼らとともに時間前にその場に行った。


 マルセルは 1927年から 1930年まで大式長だった。彼の先輩には将来司教になるアルフレ・アンセル (Alfred Ancel) やルシアン・ルブラン (Lucien Lebrun) らがいた。マルセル・ルフェーブルはエギー神父の指導を受けた最後の主席大式長だった。エギー神父の健康は衰えていて、ますますより多くをルフェーブル神学生に委任した。マルセルは後にこう言っている。「私は、典礼儀式が終わる度にエギー神父様のもとに行って、すべてがうまく進行したかどうか、司式者が「儀式で混乱しなかったか」どうかを報告をしなければならなかった... 。神父様は私たちを笑わせてくれた。」 この独特なやり方によって、自分の生徒たちに最高の原理を伝授してくれた。この中で一番重要なことは教会の規律の前に自らを消すために、典礼法規をよく熟知するという原理であった。それは、司祭が自分自身を出すことなく、始終キリスト及び教会の行為を輝きださせるためである。


 ルフェーブル神学生が、各挙行者(司式者、助祭、副助祭など)が荘厳ミサあるいは司教ミサで行わなければならない要点を書いた覚え書きは、驚くほど正確だった。彼の典礼の練習もまったく同じく、念入りに行われた。儀式が神学校で行われようと、あるいは頻繁にそうだったように神学校外であろうと、「マルセル・ルフェーブルは大変威厳をもって、そして確信して、式長の役目を果たしていた。」「マルセル・ルフェーブルは、完璧にそれをしていた。」(ジェローム・クリケ神父の証言)


 ルフェーブル大司教は司祭叙階金祝(五十周年)のミサ聖祭の説教でこう言うだろう。「私たちは、祭壇を準備し、典礼儀式を準備することのを大変愛していました。大祝日や大きな典礼儀式が私たちの祭壇の前で行われるべき前日には、私たちにとってお祝いの日でした。私たち若い神学生は、祭壇を愛することを学んだのです。」


 ルフェーブル神学生の同級生たちは彼のことを「とても敬虔で、童貞聖母マリアに対する深い信心のある神学生」であったという思い出をもっている。マルセル・ルフェーブルは「聖なる童貞聖母マリアを愛し、他の人々も聖母マリアを愛するようにするために互いに助け合う」ことを望む神学生たちが属している、聖母マリアの会の一員だった。彼らは定期的に集まりを持っていた。


 他方で「主席香部屋係のルイ・フェラン (Louis Ferrand) 神学生とともに、マルセルは神学校当局の全信頼を受けていたペアーを形成していた。」


 マリ・クリスチアンヌ修母はこう言っている。「式長と香部屋係がともに責任を持ち、彼らの間に何らの論争もなかったということを見るのは、とても良い模範でした。かつて聞いたことも見たこともなかった事ですね。」

 



(つづく)

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3. 6. 3. 頑固なトミズム神学者の熱情(ルフェーブル大司教の伝記の続き)

2006年08月11日 | ルフェーブル大司教の伝記


第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)

6.聖トマス・アクィナスの哲学・神学体系(トミズム)とローマ精神 (その3)



頑固なトミズム神学者の熱情


 今年は司祭叙階の年である。マルセル・ルフェーブルは神学修士 (licence en theologie) の学位を得ようと専心全力をつくして勉強した。グレゴリオ大学の講義は、ルネル (Lennerz) 神父の受け持っていた、天主について、創造について、また聖寵に関する講座があり、また聖書のギリシャ語に補完される旧約及び新約聖書の講座があった。彼は 1929年 6月 22日にポリタトス (polytatus) とも呼ばれる修士試験に合格した。


 神学校では、同僚学生は労を惜しまないで熱心に勉強する彼の態度を驚歎してやまなかった。ジェローム・クリキはこう言う。「彼は深い知性を持ち、集中して勉強し努力家だった。夕方には自由休憩時間があったが、彼は自分の部屋で勉強するのを好んだ。」他の神学生はこう回想している。「私たちの勉強でが何か理解するのが難しい時、彼は常に私たちを助けてくれるが用意ができていた。彼は哲学及び神学的理解水準がとても高かった。」 ある聡明な仲間はこう言った。「ところが私には、彼が知的という感じよりは、活動家という感じがもっと強かった。」 彼が良く好んだスコラ神学の「討論(disputatio)」という立派な知的訓練を無視することなく、ル・フロック神父と同じように霊性生活を養い、使徒的熱心を養成するために、神学の中心概念を観想し、愛する聖トマスの基礎命題に関して黙想するのを好んだ。


 毎週の神学復習の時間には、他の同僚学生によると、
「有能なドグマの教師であるラルニコル神父は、私たちがグレゴリオ大学で学んだことを簡単に復習し、容易に理解することができるようにしてくれ、しばしばそれを深めて展開してくれた。この授業でマルセルはとても積極的に参加した。討論する時には、普通は様々な意見があった。そんな場合に、マルセルはただ聖トマスが教えたこと以外は受け入れなかった。それは時々、他の神学生たちが彼のことを「化石化したドグマ家」とまで呼ぶほどだった。この名は彼に留まり、むしろマルセルはそれを誇りに思っていた! 彼はきわまりなく聖トマスに極めて忠実に留まった!」


 この形容はしばしば「化石化した健全な教理」 sana doctrina petrificata とも呼ばれていた。マルセルにとって教理は、キリスト教的また使徒的生活の知恵の直接的な源泉だったから、決して化石のように死んでいたのではなかった。しかしマルセル・ルフェーブルが確実で信頼に値する立場にたち、この態度を頑強に守りたがったことは事実だった。


 こんな態度裏面には、他の人々をよくからかうのを楽しむ賢人の茶目っ気があった。これは、彼の多くの同僚学生たちが後で思い出して証言している彼の性格の特徴だった。「彼は神学校にいるうちから頑固になっているように見えた。」と彼らの一人が言っている。そしてまた別の同級生は次のように明らかにしている。


「素晴らしい、そして手強い学生、何年も年月が経ってみて、私たちにこのようにマルセル・ルフェーブルという人物が見えてくる。素晴らしいとは、聖トマス・アクィナスに基づいく、彼の真理に対する希求心のためだ。そして手強かった、何故なら自分の見解と一致しない者等については手強かった! 彼の信仰は神学的ニュアンスをもてあそぶアマチュアを敗走させた。彼は天性的に「妥協」する体質ではなかった。主は彼をこのように創ったのだ。」


 「このように」マルセル・ルフェーブルは存在していた。しかし彼のトミズム神学に対する熱情は根が極めて深かった。彼は手引き書や教科書では決して見つけることができないことを、聖トマス・アクィナスの著作それ自体の中に見つけた。彼はこう説明している。「彼らは皆、聖トマスから霊感を得ることはしても、彼らには聖トマスを息吹く聖霊, まさにその精神がない。事実。聖トマスは読んでも無味乾燥だ。しかし教えの霊的な側面を要約し、眼を打つ一、二の極めてうまい言い回しがたびたび存在している。」


 マルセル神学生は、ピオ11世のように「天使的博士、すわなち聖トマス・アクィナスにおいて、教理と信心、神学的学識と聖徳、真理と愛徳との例外的な完全な結合が実現しているのを見いだしていた」のであった。そして、これは、サンタ・キアラで力強く勧められていたことであった。マルセル・ルフェーブルは、教皇と同じく、愛する聖トマス・アクィナスにおいて、「聖パウロが "智慧の御言葉" と言っていること、そして、謙遜と祈祷を愛する精神、また天主の愛とがとてもよく調和しあっている、天主から超自然的に注入された智慧と体験によって獲得された智慧との2つの智慧の結合」を感嘆していた。



(つづく)

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スウェーデンのルター派教会の牧師のカトリック教会への改宗について

2006年08月10日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!


兄弟姉妹の皆様、

こんにちは! シュティン師らの帰正式について、もっと知りたいという方々のために、ブラザー・ヨアキムによる説明をご紹介します。


*****


 シュティン・サンマーク師はルター派教会の中で存在する唯一のアウグスティノ会修道会(そしてスウェーデンの唯一のアウグスティノ会修道院)の創立者かつ修道院長であった。


 シュティン・サンマーク師は、十年以上カトリック教会と接触を試みていた。しかしストックホルムの唯一のカトリック司教は、シュティン・サンマーク牧師にこう言った。
「あなたはルター派教会に留まりなさい。エキュメニズムのためだ。」


 シュティン・サンマーク師は、1964年にカトリックのミサ聖祭に与ったことがある。そしてカトリックへと帰正を始めた。しかし数年後、ラテン語のミサ聖祭はなくなり、カトリックへの改宗を停止した。1990年、シュティン・サンマーク師は修道院ごとカトリック教会へと改宗することを望んだ。しかし公式のカトリック教会は彼らがカトリックにならないようにあらゆる手を尽くした。


 シュティン・サンマーク師は、カトリック教会に帰正するのを30年以上も望み続け待ち続けた。
 しかしカトリック教会はそれについて全く興味を持たなかった。シュティン・サンマーク師とその共同体はそれを大変苦しんだ。
ついに聖ピオ十世会にコンタクトを取った。最初はミサ典書を入手するためだった。そして聖ピオ十世会の下の一つの組織である UNEC がスウェーデンに巡礼に行き、シュティン・サンマーク師の教区教会に立ち寄った。シュティン・サンマーク師は巡礼団を歓迎した。その後、シュミットバーガー神父様がシュティン・サンマーク師と会いに行き、師はエコンの神学校や聖ピオ十世会関係の教会を訪問した。


 スウェーデンのカトリック司教と事務総長はシュティン・サンマーク師たちにたいへん厳しい態度を取った。スウェーデンの公式のカトリック教会は、シュティン師らの改宗を拒否した。シュティン師らといかなる関係も持ちたくないと拒絶の態度を取った。師にとってそれは辛いことだった。


 ルター派教会も改宗の話に激怒した。師は一万二千名の教区の牧師であり責任者で、教会には42名の職員がいた。師はいわば「司教座聖堂参事会員(カノン)」であり、アウグスティノ会修道会の創立者修道院長であった。スウェーデンのルター派教会の監督(司教に相当する)たちは怒り、ルター派教会の最上責任監督(大司教に相当する)もわざわざ直々に師のところに訪ねてきて改宗をするなと要求した。


 しかしシュティン・サンマーク師は真理を求めていた。カトリック教会が常に信じていた真理を求めていた。そこでこのスウェーデン最高のルター派教会監督にこう説明した。
「私たちはイエズス・キリストに従わなければなりません。そしてイエズス・キリストの選んだものはペトロ(カトリック教会)でした。私たちはキリストの選んだものに従わなければなりません。私たちにはそれ以外の何もできません。」


 シュテン・サンマーク師がカトリック教会に帰正すると、アウグスティノ会修道会は自動的に閉会となる。師は帰正の前に総会(chapter)を開き、会を終了させる。


 シュテン・サンマーク師は、アップサラ大学(University of Uppsala)で6年間、神学と哲学を学び、31年以上、自分の生涯の時間のほとんどをカトリック信仰を学ぶことに費やした。


 シュテン・サンマーク師は何年もかけて教区において、ルター派の典礼を廃止させようと試みた。師の「ミサ」はほとんどカトリック教会の聖伝のミサのようであった。シュテン・サンマーク師が捧げる「ミサ」を教区民は好んだ。その他の牧師たちは、とんでもないやり方で「ミサ」をしているからだ。師の教区民たちは、シュテン・サンマーク師を愛している。師以外のどの牧師も受け入れないだろう。シュテン・サンマーク師がカトリック司祭としてスウェーデンに戻って来ると、彼らはなぜ私たちがカトリックにならなければならないかという説教を聞き、それを理解し、それに従うだろう。


【以上は、Swedish Lutherian pastor converts to Catholicism.
http://angelqueen.org/forum/viewtopic.php?t=7419
より】



A link to our convent and to Father Sten’s parish:
http://www.svenskakyrkan.se/klostren/augustinerorden.htm

【スウェーデン語】
http://www.svenskakyrkan.se/oskarshamn/

【英語 Church of Sweden in Oskarshamn on-line】
http://www.svenskakyrkan.se/oskarshamn/indexe.htm

 


 UNEC は、堕胎をすることを考えている母親と胎児を助けるために働いている。1995年以後、278名の胎児の命が救われている。
http://www.radio-silence.tv/index.php?menug=9&menuh=2&idRu=135

 



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2006年7月30日に、カトリックへの帰正式を行ったシュティン・サンマーク師の紹介

2006年08月09日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!


 シュテン・サンマーク(Sten Sandmark)牧師とは?


 2006年7月30日に、パリのサン・ニコラ・ドュ・シャルドネ教会でティシエ・ド・マルレ司教様の前で帰正式を行ったシュティン・サンマーク(Sten Sandmark 異端放棄宣言の録音ファイルによると自分のことをシュティン・サンマークと発音していた)牧師をご紹介します。

++++++


 ルター派においては、修道会というものは存在していない。ただしスウェーデンにおいては例外である。何故なら、現在のスウェーデン国王がまだ皇太子であったとき、彼はベネディクト会の修道士になることを望んでいたことがあった。その当時(1970年)は、ルター派の教会はまだ国教会であった。そこで国会は皇太子のこの望みに当惑したものの、ルター派教会においても修道会を作ることを許す法律を制定する必要性に迫られた。しかしその後、皇太子は結婚することになり、修道士になるという夢を忘れた。しかしその時に制定された法律はそのまま残った。


 この法律を利用してシュティン・サンマーク牧師は1992年に、数名の友人とともにルター派としてアウグスティノ会(マルティン・ルターが元来所属していた修道会!)を創立することができた。そしてシュティン・サンマーク牧師は3つの修道誓願を立てた。(そのために2006年7月30日に、パリのサン・ニコラ・ドュ・シャルドネ教会で帰正式を行った時も修道服を着ていたし、その後もこの修道服を着続けるだろう。)


 2006年7月30日に、シュティン・サンマーク牧師とともにサン・ニコラ・ドュ・シャルドネ教会で帰正式を行ったブラザー・ヨアキム・シュヴェッソン(19歳)は、2005年7月に1年間の暫定誓願を立てていた。そこでパリでの帰正式を行ったその日のうちに、修道服を脱ぐことになる。


 シュティン・サンマーク牧師は、ドイツのツァイツコーフェンにある聖ピオ十世会の神学校に入学して神学を補足として学ぶ予定である。エコンではなくツァイツコーフェンに行くのは、シュティン・サンマーク牧師がフランス語よりもドイツ語の方をよく話すからである。



 全てが順調にいけば、天主の御助けとお恵みにより、シュティン・サンマーク師は2007年に聖ピオ十世会所属のカトリック司祭として叙階される。そして宣教のためにスウェーデンに戻るだろう。シュティン・サンマーク牧師は7月31日に、ツァイツコーフェンの神学校でシュミットバーガー神父様(聖ピオ十世会第二代総長)が指導する三〇日間の聖イグナチオの霊操の黙想会に入った。



 英語を話すヨアキム君は、9月1日にアメリカのカンザス・シティーにある聖ピオ十世会の大学、聖マリア大学 St Mary's College に入学し、全てが順調にいけば2年後の2008年にウィノナにある聖ピオ十世会の神学校に入学する。天主がお望みになれば、ヨアキム君はその後、その時には既にカトリック司祭となっているサンマーク神父のアウグスティノ会に入会することを望んでいる。



 シュティン・サンマーク牧師は、2005年9月に、自分の捧げている「ミサ」が無効であることを知った。何故ならその時に、使徒継承性が無いために自分の受けた牧師任命式では、ミサを有効に捧げることができないことを知ったからである。そのことがシュティン・サンマーク牧師をしてルター派教会を離れ去ることを決定的に決意させた。シュティン・サンマーク牧師によると、師は「ルター派教会の中にいながらカトリックである」と常に感じていた。



 2006年7月16日に、シュティン・サンマーク牧師は自分のオスカルシャム教会(Oskarshamn)で最後の義務を果たした。師は自分の教区民に率直に真理を語り、カトリック教会に帰正することを皆に呼びかけた。英国管区の聖ピオ十世会司祭キング神父は、この最後の「ミサ」に立ち会った。そしてシュティン・サンマーク師の招きに応じて、キング神父は、サンマーク師のミサのあとでそこの信徒の方々に説教をした。



 シュティン・サンマーク師によると、自分の教区民のうち30名ほどは同じくカトリック教会に帰正する準備ができている。そのうちの6名は教区教会の役員であり、シュティン・サンマーク師の辞任とともに彼らも辞職した。彼らは2007年に師がシュティン・サンマーク神父としてスウェーデンに戻る日を待って、カトリック教会に帰正するだろう。



 シュティン・サンマーク師には、別の使命が待っている。師によると、ルター派教会の内部には、いわば「聖伝派」の200名ほどのルター派牧師たちが存在している。(これはいってみれば英国聖公会のハイ・チャーチのような感じの存在である。)この「聖伝派」の牧師たちは、シュティン・サンマーク師の成り行きを見守っている。



 そこで、聖ピオ十世会には現在、天主の御恵みにより、3名のスウェーデン人神学生と1名の将来の司祭がいることになる。1名はエコンに在学中、もう1名はツァイツコーフェンに在学中、そしてウィノナの神学校に入学予定のヨアキム君、また将来のシュティン・サンマーク神父様である。




【関連記事】
Dioezesanbischof auf Werbetour fuer die Lefebvristen
Ein evangelischer Pastor wollte in Schweden konvertieren und wandte sich an den Ortsbischof. Doch der sah die Oekumene in Gefahr und liess den Suchenden weiterziehen -- zur Priesterbruderschaft St. Pius X.
http://www.kreuz.net/article.3452.html



【関連記事】
Auch ein Traditionalist braucht manchmal Veraenderung
Ein schwedischer Pastor hat beschlossen, in diesem Sommer katholisch zu werden. Die Heimkehr zur Mutter Kirche hat er auch Homo-Ideologen zu verdanken.
http://www.kreuz.net/article.3085.html
(この記事には、オスカルシャム(Oskarshamn)教会の祭壇の写真が掲載されている。)



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新しいミサについて

2006年08月09日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア!


新しいミサについて


「親愛なる友よ、教会と天主の啓示の諸々の伝統に反対して用いられる転覆の道具のうち、共産主義は最も目に見えるものでしかなかったということを考えてください。...

 私はファチマのルチアに対する聖母のメッセージによって心配しています。教会に脅威を与える諸々の危険についてのマリアのこの固執は、信仰と教会の典礼を変更するという自殺行為に対する天主の警告です。ペトロが疑ったように教会が疑うであろう日が来るでしょう。教会は人間が神となったということを信じるように誘惑されるでしょう。...

 われわれの教会において、キリスト者は、天主が彼らを待っておられるところで赤いランプ(=御聖体における私たちの主の現存を示す聖体ランプのこと)を探すが無駄でしょう。マリア・マグダレナのように、空になった墓の前で泣きながら、彼らはキリストをどこに連れ去ったのか、と問うことでしょう。」

(第二ヴァチカン公会議が始まるわずか数年まえのピオ十二世の言葉)
http://www.d-b.ne.jp/mikami/fn980217.htm



「教会諸改革を導入することは聖座の機能ではないということは最も確実なことである。教皇の第一の義務は教会の諸々の伝統 - その教義、道徳、典礼の諸々の伝統 - を見守るために、第一位の司教として行動することである。」

(クラウス・ガンバー司教(ドイツのラチスボン教区司教)著『ローマ典礼の改革』より Msgr Gamber, Klaus. "Reform of the Roman Liturgy". Una Voce Press, San Juan Capistrano (1993) p. 38. )



新しい典礼改革は「伝統的なミサの、一千年以上もの歴史をもった伝統的なローマ式典礼の真の破壊」であった。
Msgr Gamber, Klaus. Reform of the Roman Liturgy. p. 102.



混乱は大きい! この暗闇のなかでまだ明らかに見ることができる人が誰かまだいるのだろうか? 私たちに正しい道を示すことのできる指導者が私たちの教会のどこにいるのだろうか? 自己増殖をし続け最も聖なる神秘のまっただ中でさえも汚染し続けている近代主義神学の癌のような増殖を、この癌が広がってより大きな損害を及ぼす前に切り取り捨てるだけの勇気のある司教たちはいったいどこにいるのか? 私たちにとって現代必要とされているのは新しいアタナシウスであり、新しいバジリオであり、四世紀にキリスト教世界がほとんど全てアリウスの異端に陥ってしまっていた時にこれに対して立ち上がって闘ったような司教たちである。今日、私たちには、信仰の残っている人々を一致団結させてくれるような聖人が必要である。それは私たちが誤謬に対して戦い、弱い者とフラフラしている者たちをその無力感から立ち上がらせることができるためである。」
Msgr Gamber, Klaus. Reform of the Roman Liturgy. p. 113.



聖伝のミサは「もう一度、私たちの信仰の規範となり、全世界においてカトリックの一致のシンボル、大変動と終わることのない変化の時代における安定の巌とならなければならない。」
Msgr Gamber, Klaus. Reform of the Roman Liturgy.

 


「ルフェーブルが代表している危険に気をつけなさい。そして第二ヴァチカン公会議のエキュメニズムと共に始められたアプローチの偉大な運動を続けなさい。

(ソビエト共産党機関紙 Izvestia によって教皇パウロ六世に与えられた、マルセル・ルフェーブル大司教をどのように扱うべきかに関する余計な忠告)
http://www.d-b.ne.jp/mikami/fn980331.htm

 



「どこかあるいは別のところからサタンの煙が神の教会の中へ入って来た。...教会においてもまた不確かさのこの状態が支配している。公会議の後には明るい日が明けるであろうと信じられていた。しかしその代わりに雲や嵐や暗黒の日がやって来た。

(1972年6月30日 新しいミサの導入後3年後のパウロ六世教皇の言葉)

http://www.d-b.ne.jp/mikami/fn980308.htm

 



教会は自己批判の不安な時期、あるいはもっとよく自己解体と呼ばれ得るであろうもの、のうちにある。それは公会議の後に誰も予期しなかったであろう一つの鋭いそして複雑な大変動である。それはあたかも教会が自分自身を攻撃していたかのようである。」

(ファチマでシスター・ルチアと話すことを拒否された19ヶ月後の教皇パウロ六世の言葉)

http://www.d-b.ne.jp/mikami/fn980308.htm

 



 だからこそ

 聖ピオ十世会は、
 まず、(1)ベネディクト十六世教皇様のために天から、トリエント・ミサと呼ばれている永遠のミサ聖祭を完全に解放するために必要な力を勝ち取るために、教皇様に百万環のロザリオの祈りを霊的花束としてお捧げしたいと思っています。


 そして、聖伝のミサの聖寵を通して(2)私たちの主イエズス・キリストの社会的王権が復興するため、また(3)聖母の汚れ無き御心が凱旋するために、祈りたいのです。

 兄弟姉妹の皆様の寛大なご協力をお願い申し上げます。

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



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新しいミサに関するベネディクト十六世教皇の言葉

2006年08月08日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア!


新しいミサについて


 ベネディクト十六世教皇の言葉


「古代教会の聖体秘跡書以来、何世紀も綿々とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味するものであり、その影響は計り知れないものです。(a breach into the history of the liturgy whose consequences could only be TRAGIC.)」

(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 162~163ページ)


「歴史的に成立してきたものに対して、新しい家を対立させ、これを禁止したと言うこと、典礼を生きたもの、成長するものとしてではなく、学者たちの仕事、法律家の権限によってつくりだされたものとしたこと、これらが私たちに大きな損害を与えたのです。これによって、典礼は人間に先立って神から与えられたものではなく、つくられたもの、人間の裁量の領域のうちにあるものであるという印象が出来上がってしまったのです。」

(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 163ページ)


私たちが今日経験している教会の危機は、「もし神が存在しなかったとしても」(etsi Deus non daretur)の原則に従って行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。今日、典礼において、神が存在しており、神が私たちに語りかけ、私たちの祈りを聞いて下さるということは、もはや問題外のこととなっているのです。

 もし典礼において、信仰の共同体、世界に広がる教会の一致とその歴史、生きているキリスト者の神秘が現れるということがもはやないのであれば、どこにおいて教会はその霊的な本質を現すのでしょうか。そこでは共同体は自分自身を祝うだけであり、それは何の役にも立たないのです。共同体は、常に主から与えられた信仰によってのみ、一つの教会として存在するのです。教会は自分自身において存立しているのではないのですから、このような条件の下では、教会が自分自身を引き裂き、党派的な対立と党派への崩壊の道をたどることになるのは、必然的なことであります。」

(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 164~165ページ)



 だから、こそ聖ピオ十世会は、
 まず、(1)ベネディクト十六世教皇様のために天から、トリエント・ミサと呼ばれている永遠のミサ聖祭を完全に解放するために必要な力を勝ち取るために、教皇様に百万環のロザリオの祈りを霊的花束としてお捧げしたいと思っています。


 そして、聖伝のミサの聖寵を通して(2)私たちの主イエズス・キリストの社会的王権が復興するため、また(3)聖母の汚れ無き御心が凱旋するために、祈りたいのです。


 兄弟姉妹の皆様の寛大なご協力をお願い申し上げます。


 天主様の祝福が豊かにありますように!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



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3. 6. 2. 既に立派な管理者

2006年08月08日 | ルフェーブル大司教の伝記

第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)


6.聖トマス・アクィナスの哲学・神学体系(トミズム)とローマ精神
 (その2)



既に立派な管理者


 10月 22日月曜日、アムラン神学生はこう書き記した。「マルセルは私たちをほったらかした。学校では 60年の間、公教要理を教えることが禁止されてきた・・・。若者達は見捨てられた (これは 1929年 2月11日までの状況だった、とアムランは書き加えている)。そこで、マルセルは通りに出て行って、貧しい子供達を集めた。」 これは一人の先輩神学生の指導を受けて後輩の神学生たちがイタリア語で公教要理を教える幼い少年たちのことで、神学生たちは彼らの初告解及び初聖体を準備していた。しかしまだ文字を読むことができない十三、四歳の子供のための初聖体準備をするために通りに出て行くとは! 登録した 100人の中で 60人がヴィア・デイ・チェスタリ (Via dei Cestari) 通りにあるオラトリオ(小聖堂)で公教要理に規則的に通った。このオラトリオの教室は、ミネルバ (Minerva) 教会の隣の教会の下に横たわっている聖女にちなんで、「聖カタリナ事業」と呼ばれた。この事業は公教要理の少年たちに贈り物が付いたクリスマス・ツリー、授賞式及びポンテ・ロット (Ponte Rotto) で黙想会に参加する機会、等々を提供した。


 マルセル・ルフェーブルは公教要理の子供達(ragazzoni)の話す口語のイタリア語に親しんだ。その年、ピエール・ボニション (Pierre Bonnichon) は、ラルニコル (Larnicol) 神父によって事業の責任者に任された。一方アンリ・フォックデーは、ジュスト・リジェ-ベレール (Just Liger-Belair) から公教要理の指導を引き継ぎ受けた 。マルセル・ルフェーブルは実用的な賜物をもっていた。それをいかして資金を捜す責任を引き受けるようになった。彼は、ジェローム・クリキ (Jerome Criqui) を含む二人の神学生の助けを借りながら、新刊図書及び古本屋を運営した。「マルセル・ルフェーブルは何でもよく知っていた。文学が分かったし、会計を引き受けただけでなくとてもよく処理していた。」とジェローム・クリキ神父は後に言う 。彼らは書籍を売るだけなく副業として中古品、ローマン・カラー(collaro)及び帽子を売り、また床屋の仕事をしてトンスラ(聖職者が頭のてっぺんの一部の髪をそること)を剃り直した。収益金は全部聖カタリナ事業に行った 。そしてマルセル・ルフェーブル神学生のおかげで、神学生たちは各自の必要な図書を購入することができた。彼の準備した書籍は、教皇文書をはじめとして、「良書」のみであった。


(つづく)


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新しいSSPX JAPAN BBS のお知らせ

2006年08月07日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、

新しいSSPX JAPAN BBSをお知らせ致します!

http://bbs10.fc2.com/php/e.php/fsspxjapan/

よろしくお願いします!

 

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

 

 


ベネディクト十六世教皇様への百万環のロザリオの霊的花束

2006年08月07日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

教皇様への百万環のロザリオの霊的花束


 聖ピオ十世会は、ロザリオの聖月である十月の終わりに、教皇様に百万環のロザリオの祈りを霊的花束としてお捧げしたいと思っています。


 これらのロザリオの祈りは次の意向のために捧げられます。


(1)ベネディクト十六世教皇様のために天から、トリエント・ミサと呼ばれている永遠のミサ聖祭を完全に解放するために必要な力を勝ち取るため。

(2)私たちの主イエズス・キリストの社会的王権が復興するため。

(3)聖母の汚れ無き御心が凱旋するため。



 私たちはローマ当局にも、天にも、私たちは「それ相当に高価な値も支払う」意志と覚悟をもっていることを明らかに示したいと願っています。


 この意向のために捧げられたロザリオの環数(ロザリオ五連で一環になります)は、次のサイトにあるような形式で私たちにお伝え下されば幸いです。
http://www.sspxasia.com/Documents/Society_of_Saint_Pius_X/A_Million_Rosaries_form.htm

http://www.laportelatine.org/accueil/communic/2006/bouquetrosaire/bouquetspirituel.php


 兄弟姉妹の皆様の寛大なご協力をお願い申し上げます。

 


 詳しくは、次をご覧下さい。

http://fsspxjapan.fc2web.com/2.html

http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila355.html

 

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