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3. 7. 4. 宣教師としての召命 (ルフェーブル大司教の伝記の続き)

2006年08月29日 | ルフェーブル大司教の伝記

第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)


7.ローマの司祭、神学博士



宣教師としての召命


 マルセル神父は自分の教区で聖職活動を始めた。しかし霊魂は他の所にあった。数年以来、彼は別のものを探していた。1928年に神学校に帰って来るやいなや、召命の方針についての不確実さがまた戻ってきた。ルフェーブル婦人は、聖ベルナド会修道女の叔母に自分の次男についてこう手紙を書いていた。「愛するおばさん、彼のために特別に祈ってください。彼はどうすれば良いかよく分からないようですから 。」


 修道者となった彼の四名の兄弟姉妹の模範は、彼の中で自分自身をもっと完全に奉献し尽くしたいという望みを引き起こしていた。他方で、神学校ではベルテ神父が宣教についての宣伝活動を始めていた。そう言うわけで、1929年 4月 21日ペドロン (Pedron) 神父は、アフリカでの宣教事業に関して講話をするために神学校にやってきた。神父はいろいろな話をした。すなわちアフリカのいろいろな言語、その公教要理の教師たち、働いている宣教師が少ないこと、イスラム教の脅威などを話して、最後にこう言葉を結んだ。「祈りと献金とをもって、宣教師たれ! 」


 1930年 1月 21日ナイジェリアの偉大な司教であるシャナハン (Shanahan) 司教が、自分のカトリック学校の宣教事業成功に関する講話をしに来た。


 その他にも、マルセルの兄は手紙でこう促していた。「リールでいったい何をするつもりなのか? はやくガボンに来て私と一緒に働こう!」それはもっと緊急でより厳しい使徒職の分野だった。


 1930年 3月 23日マルセル・ルフェーブルは「教会の外に救いなし」という格言に関して、聖トマス講話会で講話をした 。聖ヨハネ (Iヨハネ5 ;12「み子を持つ者は命を有し、み子を持たぬ者は命を持たぬ。」)と聖パウロ (ローマ 10 ;14-15. 「それなら彼らは、まだ信じなかった者をどうして呼び求められよう。まだ聞かなかったものをどうして信じられよう。宣教するものがなければどうしてきけよう。遣わされなかったらどうして宣教できよう。『よい便りをもたらすものの足は美しい』と書き記されている。」) を黙想しながら。彼は自問自答した。「いったい何人が信仰をこの地上で持ち、そして死後永遠の生命を得るのだろうか? 異教徒の中でいったい誰が救われるのか? 」 彼は後に、自分の神学生たちにこう打ち明けるだろう。「この問題こそが、私たちの召命の大部分を説明する問題なのです。」彼はここで宣教師としての自分自身の召命の起源を示しているのではないだろうか? 何故なら、彼はこう付け加えているからだ。「その問題を自問するだけでも、 宣教精神が私たち生じてしまうはずです!」


 彼は大決心を立てるのにローマを離れるのを待つ必要はなかった。充分に熟考し熱烈な祈りの後で、マルセル・ルフェーブルは自分の司教に手紙を書いた。次の文は 7月 13日、マルセルの父親であるルネ・ルフェーブル氏がマルセルの兄であるルネ神父に書いた手紙の内容である。


「私はマルセルの決定をお前に知らせずにおきたくない。愛するマルセルはローマを発ったが、マルセルが感じた辛さを私もよく分かった。マルセルは私たちに、聖霊司祭修道会に入る許可をリエナール枢機卿に求めたということを教えてくれた。私たちは本当にびっくりした。何故ならあの子に宣教の召命があるとは思ってもいなかったからだ。天主の御旨がそうなら、私たちは本当に嬉しい。天主に感謝 (Deo gratias)! とにかく教区司祭としてのマルセルを、私はあまり想像もできなかった。私はこんなに大きい恩寵をくださったことを天主に感謝する。これは私たちにとって非常に重要なことだ!今私たちが知っていることとは、もう離れて暮さなければならないことだ!しかし私たちのすべてのものが聖母の御手の中にあることを私たちはしれなければならない。 」

 


 マルセルはリエナール枢機卿に手紙を書いた。司教は宣教召命を反対する人ではなかった。むしろその反対だった 。


 ところが神学生が宣教しに行く許可を要請したその時代、フランスの一般的な慣行は 1年の間彼を教区の奉仕に止めておくことだった。これが教区長からマルセルが受けた回答だった。彼は自分の要請だけが教区長が受ける唯一の要請ではないこともっと良く理解した。彼の母はルネ神父にこう説明した。


「マルセルは、相変わらず静かで、平穏で、そんな彼を見るのは気持ちが良いわ。枢機卿様はマルセルを 1年の間リール近くで、教区に止めておくそうです。宣教活動には送らないそうです。マルセルが教区を離れることは、やっぱり宣教活動をしようとする他の二人の司祭たちもいて、枢機卿様にとってちょっと大変なの....。マルセルは自分が受けた助言に従って、どうしても宣教に行きたいとは意地を張らなかったのよ。 」


 司教は彼を寄宿学校の教師に任命しようと考えただろうか?  マルセルは司教に自分が教えることを本当に好きではないということを言ったのだろうか? 夏の終り頃に、マレ-ド-ロム (Marais-de-Lomme) 小教区の補佐神父として任命されたことを知らされていた。彼は小教区で、神学生たちがちょっと尊敬に欠く表現で呼んでいた「償いと苦行の一年」を送るはずだった。しかし果してそれがマルセル・ルフェーブルにとって本当に「償いと苦行」だったのかは続きを読んで頂きたい...。



(第3章終わり、第4章へつづく)


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