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3. 6. 5. 教皇、ローマ精神そして聖なる都市ローマ(ルフェーブル大司教の伝記の続き)

2006年08月14日 | ルフェーブル大司教の伝記

第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)

6.聖トマス・アクィナスの哲学・神学体系(トミズム)とローマ精神 (その5)

 


教皇、ローマ精神そして聖なる都市ローマ


 この神学校当局の信頼は、ルフェーブル神学生が慎ましい引退生活中のビヨ枢機卿を訪問することを許すほどだった。ピオ11世を説得してアクション・フランセーズを断罪しないように手を打つことができなかったことを残念に思っていたビヨ枢機卿は遂に 1927年 9月に枢機卿職を辞任したと知られる 。「ビヨ神父」は従順のためローマ郊外のネミ湖 (Nemi) 岸のガルロ (Galloro) にある修練院に居を置いていた。マルセルは、彼を訪問することを「大きく喜んだ」と、ルフェーブル神学生と一緒に行ったアロイス・アムレンは言った 。 恐れなく、咎めもない教会の代表者に敬意を表し、流されの生活にいる彼を慰める、これがマルセル・ルフェーブルが望んだことであった。しかし彼の仲間は「マルセルがピオ11世尊重して敬っている」ということをよく知っていた。


 ルフェーブル大司教はエコンで神学生たちにピオ11世に対する尊敬心をこう表現したことがある。


「フランス神学校の私たちには、毎年、教皇聖下の謁見を受ける喜びがありました。教皇様は私たちにちょっとした講話をして下さいました。私たちは教皇様を敬っていました。... 私たちがキリストの代理者をどれ程愛しているか、教皇様をどれほど愛するように学んだかを天主がご存じです。 」


 1927年 12月 3日の謁見で、以前にローマの学生だったピオ11世は、自分自身「しばらくの間、カトリック信仰とカトリック精神でいっぱいのこの雰囲気、すなわちカトリック信仰の魂でさえある「ローマ・カトリック精神(romanite)」の中で呼吸することができたのは、天主の下さった最高の聖寵の一つ 」であると思うと神学生たちに打ち明けた。

 

 マルセル・ルフェーブルは、当時はもちろん一生の間、まさしくこのローマ・カトリック精神の泉水をたっぷり飲んだ。彼は後でこう言っている。


「ローマで、私たちは信仰の学校にいるという確信を持っていました。四旬節の指定巡礼教会、数多い使徒及び殉教者たちの至聖所のためです。」


 自分の守護の聖人の教会である聖マルセル教会では、重要な祝日に行列して持ちはこぶ奇蹟の十字架像を敬うためによく行くのを好んだ。教会はマルセルにとってとても大事な二つの信心、すなわち十字架及び悲しみの聖母への崇敬に身を尽くす、セルビトゥス修道会によって運営されていた 。ローマには、教皇謁見や聖ペトロ大聖堂で列聖式もある。


 彼はこう言う。「私は幼きイエズスの聖女テレジアやアルス(Ars)の聖司祭(聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ)の列聖に参加する喜びを受けました。全く素晴らしい儀式でした。この儀式は私たちを天にまで上げてくれました。誰かがローマに滞在ながら、自分のカトリック信仰の活気と熱情が増加しなかったとしたら、彼はローマが何かを何も理解しなかったことになります。


 若いマルセル・ルフェーブル神学生は、自分の家族にローマ・カトリックの熱情を共有させようと思い、家族のために教皇謁見を手配準備した。1929年の復活節の頃、ルネ・ルフェーブル氏は妻と妹であるマルグリット・ルメール-ルフェーブル、そしてマルグリットの娘を一人連れて 、巡礼者グループとともに私的謁見の好意を享受した。教皇は謁見の部屋に入り、座ってから、自分を半輪の形を作って取り囲んで立っている訪問者に語りかけた。


 そうして教皇は、訪問者らの周りをゆっくり回りながら、何人かには祝いの声を掛けて祝福なさった。自分もそこにいたマルセル神学生は、儀式係にこうささやいた。「天主に5名の子供達を捧げた自分の愛する両親を祝福してくださることができれば大変感謝いたします、と教皇聖下に申し上げていただけますか?」


 教皇は近付いて来られ、ルフェーブル神学生の両親は教皇の指輪に口づけをし、マルセルも教皇の指輪に接吻した。教皇は両手を若い神学生の頭の上に置きながら大きい声でこう言った。


「君は教会のために多くの善行をした。 」


 この言葉は親のために言われたものだった。しかし、教皇が息子を祝福するまさにその瞬間にこう言ったということは、若い副助祭の将来に対する天主の摂理の特別な表示のようではなかっただろうか?


 マルセルは、実際に 1929年 3月 30日の聖土曜日以後、副助祭であった。3つの上級品級のうち、最初の品級である副助祭職(そして受品者は完全な貞潔の暗黙の誓願を立てる)を受ける準備のための8日間の黙想会は、副助祭において貞潔の徳がどれほど要求されるのかを強調した。後日彼は次のように回想している。


 「教会の全聖伝は、天主に近づけば近づくほど、ますます貞潔と童貞性を実践しなければならないと私たちに教えているこは、絶対に確実だ。それは天主が地上にいらっしゃる間、ご自身の身近にいるようにお選びになった人々、 すなわち童貞聖マリア、聖ヨセフ、カルワリオまで付き従った使徒聖ヨハネの模範に従って、である。私たちの主は、童貞なる霊魂を選び給うた。そして天主にもっと近づけば近づくほどもっと霊的になり、より肉的ではなくなるということは、全く普通のことだ。何故なら、天主は霊であるからだ。 」


 叙品式は、ラテラン神学校であった。式は枢機卿会議補佐役であるカルロ・ラファエレ・ロッシ (Carlo Raffaele Rossi) 大司教によって挙行された。サンタ・キアラの学生 17人が同じく副助祭職を受けたが、彼らの中にはマルセルが友情を結んだスイス人、すなわちヴァレー(Valais) 州出身のアンリ・ボンヴァン(Henri Bonvin)もいた。マルセルはそのスイス神学生たちを非常に好んだ。ただしマルセルは、彼らをよくからかうことも知っていた。からかわれたアロイス・アムレンによれば、マルセルがアヴィニョンの教皇たちを愛するふりをするしていたのを、アムレンはナイーヴにも信じて軽蔑していたということを信じるならば 。


 いや、そうではない。親愛なるアロイス君、君の友マルセルはローマにある教皇を、すなわちキリスト教世界の霊的な君主でありローマ及びローマ・カトリック国の政治的支配者なる教皇を愛していたのだ。


 1929年 2月 11日、教皇とイタリアの間に結ばれたラテラン条約を祝う喜びが広がる時、アムレンはこういった。


「皆は、新聞を買いに神学校外に急いで出て行った。中には、厳格に禁止されていたアクション・フランセーズさえ買う人々もいた。....神学校では、特にマルセルの場合、雰囲気がかなり沈んでいたのが分かった。私は、ローマ問題が、マルセルが望んでいたのとは違うように解決されたことを感じた。彼の顔つきは苦しげだった。 」


 マルセル・ルフェーブル神学生は、ラテラン協定が、永遠な都市ローマの俗化を承認したこと を惜しんだ。たとえその政教条約 がローマの「神聖な性格」を確認したとしても、そうだった。


 マルセル・ルフェーブルは次のように言っている。


「事実、フリーメーソンはカトリックのローマをバチカン市国に閉じこめることで、ローマ・カトリック精神に根付いているカトリック真理の力を消滅させようとした。協定でローマが「イタリア国の首都」であると認められ、"バチカン内部で自由主義及び近代主義浸透をもたらす" 原因となる "フリーメーソン支部, や売春巣窟, 不潔な映画館" によってローマは侵略されてしまうだろう。 」

 

 

 


(つづく)

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