Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖伝のミサの解放のニュース:フランスの司教団は反対

2006年11月15日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!


聖伝のミサの解放のニュース:フランスの司教団は反対



■伝統的なラテン語ミサの執行を原則的に認める自発教令(モトゥ・プロプリオ)を教皇ベネディクト十六世が準備している、との報道がある。しかしこれに対してフランスとドイツの司教団は反対の意思表明をしている。


 何故なら、聖伝のミサは、第二バチカン公会議の新しい神学と相容れないからだ。何故なら、新しいミサは新しい神学の創ったものであり、聖伝のミサは聖伝のカトリック信仰によるものだからだ。

 


▲ トゥルーズの司教、ロベール・ル・ガル(Robert Le Gall)司教様はラ・クロワ(La Croix)紙にこう言っている。

「これ(=聖伝のミサの一般使用の自発教書)は、重大な困難を引き起こすかもしれない。特に第二バチカン公会議に忠誠を保った者たちにとってそうだ。私たちは聖座に悲しみと失意と落胆の前線を創ることになる。典礼は、氷山の単なる一角にすぎない。」


▲ パリの大司教アンドレ・ヴァントロワ大司教は「或る特定の典礼を守るというキャンペーンのもとには、第二バチカン公会議の根本的な批判がある。公会議の宣言の拒否さえある」という。


▲ ブリュッセル(ベルギー)のゴドフリード・ダニエルス枢機卿は、ラディカルな左翼で有名だが、こう語った。

「トリエントのラテン語典礼は、機関車にすぎない。本当の問題は、この機関車の後に付いて運ばれてくるものだ。この機関車の後についてやってくることが、私の望んでいないものだ。」


▲ リールの大司教ジェラール・ドゥフォワ(Gerard Defois)大司教は、ル・フィガロ紙にこう答えている。

「この典礼(聖伝のミサ)は、キリスト教徒の数世代を養成し真の偉大さを持っている。問題はそこではない! 問題はこの典礼を擁護する人々によって伝えられる世界観にある。教会が現代社会に適応することを拒否することにある。・・・ トリエント典礼様式が復興するのは私にとってたいした問題ではない。ただし、エキュメニズム、諸宗教との関係、良心の自由に関する問題を取り上げるという条件をつけるならば、だ。・・・問題は、まず霊的で教義的である。」


▲ リギュゲ (Liguge) のベネディクト会の大修院長ドン・ジャンピエール・ロンジャ(Dom Jean-Pierre Longeat)は、2つの神学が2つのミサを創ったと言っている。

「本当の問題は別のところにある。典礼は神学の場である。1969年のミサ式次第(=現行のミサのこと)は、第二バチカン公会議の『教会憲章』の神学を特に取り入れたものだ。『教会憲章』は教会をキリスト教徒の神秘体であると同時に、「キリストの名前において集う天主の民」として提示している。従って、教会を「キリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である」(『教会憲章』1)とした。・・・

 トリエント公会議の神学の優先は別のところにあった。それは、プロテスタントの宗教改革に対抗して、聖体化したパンとブドウ酒におけるキリストの現存の現実を際だたせることであった。従って、司祭の聖なる行為がそこでは価値を持たされた。司祭がキリストのペルソナにおいて(in persona Christi)発声する言葉が、パンとブドウ酒とをキリストの御体と御血とに全実体変化させる。たしかに1969年の典礼様式において、聖務者らがこの領域において本質的な役割を保っているとはいえ、彼らが教会共同体の役務者として(in persona Ecclesiae)、神秘体の頭の役務者として行為するということが強調されている。



▲ ジルベール・カファン神父(Pere Gilbert Caffin)は共産党紙であるリュマニテ紙にこう答えている。

「問題は、神学的観点から重大だ。聖ピオ5世のラテン語のミサは、全能の天主、この世から遠くある人間を裁く天主という考えを全面に出している。第二バチカン公会議以後の新しいミサは、人間の中にいる天主という考えを打ち出している。以前のミサでは、司祭は祭壇の階段を、つまり、天主へと上り、信徒に背を向けていた。新しいミサでは司祭は信徒らの中で集会の座長をする。それはキリストが人間の中に住まわれたようだ。2つの神学が対立している。2つの別の典礼において別の霊的態度が明らかになっている。芸術的なあるいは美的な受け取り方の問題ではない。そうではなくキリスト教のメッセージに与えられた意味の表れの違いである。」



■ パリの元教区長リュスティジェ枢機卿(Cardinal Lustiger)は、10月23日に、パリの現教区長パリ大司教ヴァントロワ大司教は10月24日と25日に、ボルドー大司教区のフランス司教会議議長のジャンピエール・リカール枢機卿は10月26日に、ローマに行き、ベネディクト十六世教皇様に聖伝のミサを解放する自発教令に反対の意を伝えた。



■ フランス司教評議会大会がルルドで11月3日から9日まで行われた。閉会のメッセージとして、フランスの司教らは第二バチカン公会議以前の典礼に固執する信徒たちが第二バチカン公会議の教えを明確に同意するジェスチャーを求める、と述べている。

 


■しかし、ウナ・ヴォチェの在ローマ顧問 モンシニョール・イニャシオ・バレイロ(Msgr. Ignacio Barreiro)によると、フランスの司祭召命の現状を考えると聖座は何かをしなければならないという。


 第二バチカン公会議以後、召命の失墜は教会の恐るべき危機の明らかな印である、という。


 例えば、パリ大司教区(158万の教区民がいる)では、
1996年に720名の教区司祭がいた。しかし2006年には583名だけになっている。

 ボルドーでは、昨年司祭叙階は1名しかなかった。
 またボルドー大司教区では、
1996年に290名の教区司祭がいた。しかし2006年には208名だけになり、3分の1が減っている。
 ボルドーでは、1996年に97名の修道司祭が活動していた。しかし2006年には80名だけになっている。


「フランスのカトリック教会の統計を真面目に誠実に分析すると、第二バチカン公会議以後になされた司牧的な改革はあまり成功したとは言えないという雄弁な証言をしている。」
http://www.theconservativevoice.com/article/19745.html




◆参考資料◆

 聖ピオ十世会は1970年にカトリック教会法典に従って創立され、1982年には、聖ピオ十世会は100名の司祭と世界中に50の修道院を持っている。

 1994年には、聖ピオ十世会は120の修道院を世界中に持つ、司祭300名の会になった。

 2006年、聖ピオ十世会の司祭数は460名であり、155の修道院を世界中に持っている。



■サンドロ・マジステルによる分析■

 サンドロ・マジステル(Sandro Magister)による分析によると、フランス司教団は、聖伝のミサについて教皇様に対して拒否権の維持を望んでいるが、ベネディクト十六世教皇様は聖伝のミサを解放するつもりだとのことだ。

http://www.chiesa.espressonline.it/dettaglio.jsp?id=96802&eng=y

 

 

 

http://blog.with2.net/link.php?269452
【↑ クリックで応援をお願いします。】

 


教皇様のための霊的花束

2006年11月15日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

 教皇様のための霊的花束は、日本からは3478環集まりました。ありがとうございます。

トマス小野田圭志神父

聖伝のミサの解放のニュース: フランス司教団は反対

2006年11月14日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!


聖伝のミサの解放のニュース



■伝統的なラテン語ミサの執行を原則的に認める自発教令(モトゥ・プロプリオ)を教皇ベネディクト十六世が準備している、との報道がある。
 しかしこれに対してフランスとドイツの司教団は反対の意思表明をしている。


 何故か? 何故反対をしているのか?


 例えばロン・ル・ソニエでブザンソン教区の大司教アンドレ・ラクランプ大司教(Msgr. Andre La Crampe)のもとに集まったフランスの10名の司教様たちは、10月25日の聖座への声明文で、ボルドー大司教区内における「良き牧者会」の創立と聖伝のミサの一般の使用に関するベネディクト十六世の自発教令についての「不安」を表明した。

典礼は、教会の神学の表現であると考える、司教たちは1962年のローマ・ミサ典書の一般的な使用が第二バチカン公会議の指針を相対化させるのではないかと懸念する。このような決定は、司祭らの一致と信徒たちの一致も危うくするだろう。多年にわたり、典礼の養成の努力が実現されてきた。司教たちは司教区民たちがこの努力をし続けることを喜びそう励ます。」

Msgr. Andre La Crampe, Archbishop of Besancon
Msgr. Claude Schockert, Bishop of Belfort-Montbeliard
Msgr. Jean-Louis Papin, Bishop of Nancy and Toul
Msgr. Jean Le Grez, Bishop of Saint-Die
Msgr. Francois Maupu, Bishop of Verdun
Msgr. Joseph Dore, Apostolic Administrator of Strasbourg
Msgr. Christian Kratz, Auxiliary Bishop of Strasbourg
Msgr. Jean-Pierre Grallet, Auxiliary Bishop of Strasbourg
Msgr. Pierre Raffin, Bishop of Metz
http://www.renewamerica.us/columns/mershon/061102



◆コメント◆
 新しいミサの典礼は、何でもあり。全く自由。全く創造的。他宗教のものでも何でも受容してよろしい。唯一の大罪が聖伝のミサを捧げること。


 因みに、この同じブザンソン大司教区の大司教、アンドレ・ラクランプ大司教(Msgr. Andre La Crampe)は、ブザンソン大司教区について次のような統計を発表している。


1986年、神学生のいる神学校が存在していた。2006年、神学校は高齢者司祭の養老の家になった
1986年、神学生の共同体が存在してた2006年閉鎖している
1986年、「愛徳聖母姉妹会」の修道院が1つあった。2006年、閉鎖している
1986年、カルメル会修道院が1つあった。2006年閉鎖している
1986年、クララ会の修道院が1つあった。2006年、それは閉鎖準備中である
1986年、マリア会の共同体が1つあった。2006年、それは大司教区から出て行った
1986年、ブザンソン大司教区の中心に9つの小教区があった。2006年、1つの小教区しかない

これ以外にも、劇場になったり閉鎖された多くの小教区の教会が多数存在している。


 ベネディクト十六世教皇様のせいで、この教会の改革という偉大な事業が続けられなくなるのを「心配」し、司教たちは、今までのような方向に向かい続けるため「司祭らの一致と信徒たちの一致」を保ち、これまでの通り、「多年にわたり、典礼の養成の努力が実現されてきた。司教たちは司教区民たちがこの努力をし続けることを喜びそう励ます」のだ。

 


http://blog.with2.net/link.php?269452
【↑ クリックで応援をお願いします。】

 

 


5. 4. 霊的修練と浄化 (ルフェーブル大司教の伝記の続き)

2006年11月14日 | ルフェーブル大司教の伝記

第5章 修練者司祭(1931年 - 1932年)



霊的修練と浄化


 リベルマンは、天主との一致の生活の基礎にすべてのものと自分自身に対する完全で普遍的な放棄をおいたが、これは正しく修練院の霊的な教育課程の目標であった。長くとも45分も経たないうちに別の活動にうつる細かい時間の割り当て、予告無しのいろいろな雑役などは、どんなことにたいしても準備が出来ているようにし、個人の判断を放棄する訓練となっていた。


 毎週のクルパのカピトゥルム(修道者たちが集まって会則違反の過失の告白や指摘がある)では、誰もが何それの点で足りないところがあったと油断しないで見守った同僚の修練者によって指摘された。
「何でもない過失のためでも、償いのためにひざまずいて地面に接吻をしなければならなかった。良識を持って、誰もこれを悲劇と思うことはなかった。」 しかしマルセルは模範を見せなければならない司祭だった。彼はこの屈辱的な行為を真剣に遂行した。


 同様に、マルセル・ルフェーブルは懲罰を受けることを避けようとしなかった。オルリーの修練院では日常的なこの苦行の手段は、修練院最後における彼の多くの決心の一つに挙げられている。しかし彼はその後はそれにこだわらなかった。リベルマン神父は宣教師には、例えば暑さといったものだけでも、その他の多くの苦行があると考えていた。


 ところが私たちの修練者マルセル・ルフェーブルを試したことは寒さだった。


「寒い年だった、まったくもう、それはそれは寒かった! 修練者をこんなに苦しめることが出来るのだろうか? 信じることができない事だった!」


 修練院の中で唯一暖房されていたのは、共同体用の一部屋だけだった。廊下についている水道の蛇口から引いた水は洗面台で凍った。夜には「皆が毛布を四枚、五枚、六枚掛けて寝た。こうするととても重苦しかったがそれでも暖まらなかった。何と悲惨なことか! よく寒さで死ななかったと不思議に思っている。」(ルイ・カロン聖霊修道会神父)「それだけではなく、私たちは外の中庭で二列をなしてロドリゲス神父(Rodriquez)の著書(『キリスト教的完徳』)を読まされた。おそろしく寒かった。本をもっている指の感覚が消えていた。」(ド・ミルヴィル司教)


 ところで、寒さの修行に続いて、極限の忍耐力を要する病の修行があった。 1931年末からマルセル・ルフェーブルは極めて強い頭痛に苦しめられた。しばらく穏やかになった後で 1932年 6月からは強い能の疲れに苦しめられた。


 カルメル会修道女である彼の姉妹はこう言っている。「兄は、ひたすら天主に至ろうと登るためだけに最高の忠実さで修練生活を過ごした。彼からの手紙は全てその香りが漂っており、彼はもっと経験を深めた。しかし彼の健康は、何時間の間、庭園の椅子の上で休まなければならないほどに弱くなった。何という屈辱であったことか!」


 しかし「彼はすべての試練を感謝に変えることを知っていた」ので「それを全く単純に」受け入れたと彼女は付け加えた。



 ドン・ビタル・ルオデ (Dom Vital Lehodey) の『聖なる放棄 (Saint abandon)』を読むことで、彼は天主の嘉する御旨を受け入れるのを助けられた。しかし庭園のベンチは「彼の頭の換気をする」のには充分ではなかった。そこでマルセル・ルフェーブル修練者は故郷の土の空気、そうではなければ少なくとも自分の母親と一緒に暮らした田捨の家の空気を吸うようにと家に帰された。


 彼の母親はこう書いている。


「マルセルは修練院の外で送ることができる制限付きの許可で、2週間のあいだ私たちと一緒に過ごしました。・・・私はこの短い間、彼と一緒に過ごすことができたことを天主に感謝します。楽園を少し味わったわけです。・・・彼の帰宅が天主の摂理のデリケートな優しさによって起きたのではないかと自問するほどだったのです!」

 


(つづく)

http://blog.with2.net/link.php?269452
【↑ クリックで応援をお願いします。】

 


兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心からご招待いたします。

2006年11月10日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア!


 ■ 聖伝のミサにようこそ! ■ WELCOME TO THE TRADITIONAL MASS!


 兄弟姉妹の皆様、



 兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します! 


(聖伝のミサは、本来なら「ローマ式典礼様式のミサ」と呼ばれるべきですが、第二バチカン公会議以前のミサ、聖ピオ5世のミサ、古いミサ、昔のミサ、旧典礼、ラテン語ミサ、トリエントミサ、トリエント公会議のミサ、伝統的ミサ、伝統ラテン語ミサ、・・・などとも呼ばれています。)


何故なら、
聖伝のミサは、聖ピオ5世教皇様の大勅書によって義務化され永久に有効なミサ聖祭だからです。


「余によって命ぜられたものより他のやり方でミサ聖祭を捧げる事が無いように。又、何によってであろうともこのミサ典礼書を変更すべく強いられ、強制される事無く、又この手紙が決していつの時代でも変更されることの無く、却って〔この手紙が〕常に堅固、且つその適応範囲において有効であるように、同じく余は規定し宣言する。」


「・・・ 故に、絶対に誰一人として、余のこの許可、規定、命令、勅令、決定、認可、許可、宣言、意志、政令及び禁止のページに背反し、或いはそれに大胆にも背く事のないように。もしも、誰かがそれを企てようと敢えてするとしたら、全能の天主〔の憤慨〕及び使徒聖ペトロとパウロの憤激をかうと言う事を覚えよ。」


(1570年7月14日聖ピオ5世の大勅令『クォ・プリームム』)



「聖ピオ5世のミサ典書は、一度も廃止されたこともないし禁止されたこともありません。」
(2006年7月21日、ローマのIメディアのインタビューで、典礼聖省の事務総長、ランジット大司教の言葉)




     <2006年11月>



【大阪】大阪市東淀川区東中島1-18-5 新大阪丸ビル本館(JR新大阪駅の東口より徒歩5分)「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」



10日(金)証聖者アヴェリノの聖アンドレア(3級祝日)白 大阪 午後5時半
11日(土)証聖者司教聖マルティノ(3級祝日)白 大阪 午前11時
12日(主)聖霊降臨後第23主日(2級)緑 大阪 午前10時半




【東京】東京都文京区本駒込1-12-5曙町児童会館1F 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」


18日(土) 午後5時半 聖伝のミサ
      午後6時半 グレゴリオ聖歌に親しむ会(http://sound.jp/gregorio/
     午後8時40分 グレゴリオ聖歌による終課


19日(主)午前10時  ロザリオ及び告解
          聖霊降臨後第24主日(2級)緑 午前10時半
     午後2時半 待降節用のキリアーレ(グレゴリオ聖歌によるキリエなど)の練習
     午後4時半 グレゴリオ聖歌による主日の第二晩課


20日(月)証聖者ヴァロワの聖フェリクス(3級祝日)白 東京 午前7時
21日(火)童貞聖マリアの奉献(3級祝日)白 東京 午前7時

 



 詳しいご案内などは、
http://fsspxjapan.fc2web.com/ordo/ordo2006a.htm
http://fsspxjapan.fc2web.com/2.html

または
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila351.html

 などをご覧下さい。


それでは、皆様のおこしをお待ちしております。



==========


クリックで応援して下さいね。↓
http://blog.with2.net/link.php?269452
兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

 


 


コリエレ・デラ・セラ紙:ラテン語ミサの復活についてのアンケート

2006年11月10日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!


 イタリアのコリエレ・デラ・セラ紙が、ラテン語ミサの復活についてのアンケートをしているそうです。
http://www.corriere.it/appsSondaggi/pages/corriere/d_176.jsp


 これに投票すると、次のような結果が出ていました。


Siete favorevoli al ritorno della messa in latino?  
あなたは、ラテン語のミサが戻ることに賛成ですか?


 Si 73.2%  (はい)

 
 No 26.8%  (いいえ)
 

Numero Votanti: 38078 (投票数)

 



◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

 クリックで応援をお願いいたします。↓↓↓
http://blog.with2.net/link.php?269452

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

 

 


2006年10月29日王たるキリストの祝日 聖ピオ十世会フランス管区のルルドへの巡礼

2006年11月08日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア!


2006年10月29日王たるキリストの祝日における、聖ピオ十世会フランス管区のルルドへの巡礼を写真でご紹介します。以下のサイトをご覧下さい。



10月28日土曜日


十字架の道行き
http://www.laportelatine.org/district/chartres/lourdes2006/reportage2006/chemindecroix/chemincroix.php

聖伝のミサ
http://www.laportelatine.org/district/chartres/lourdes2006/reportage2006/samedi20061028/messesamedi.php

ロウソク行列
http://www.laportelatine.org/district/chartres/lourdes2006/reportage2006/flambeaux/flambeaux.php

 



10月29日 主日


ミサ聖祭
http://www.laportelatine.org/district/chartres/lourdes2006/reportage2006/dimanche20061029/messedimanche.php

御聖体行列
http://www.laportelatine.org/district/chartres/lourdes2006/reportage2006/vepresetsalut/vepresetsalut.php

聖体礼拝
http://www.laportelatine.org/district/chartres/lourdes2006/reportage2006/adorationnocturne/adoration.php



10月29日 月曜日


ミサ聖祭
http://www.laportelatine.org/district/chartres/lourdes2006/reportage2006/lundi20061030/messelundi.php

ロザリオの祈り
http://www.laportelatine.org/district/chartres/lourdes2006/reportage2006/adieuxgrotte/adieuxgrotte.php

 



◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

 クリックで応援をお願いいたします。↓↓↓
http://blog.with2.net/link.php?269452

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

 

 


5. 3. 尊者リベルマンの精神 (ルフェーブル大司教の伝記の続き)

2006年11月08日 | ルフェーブル大司教の伝記

第5章 修練者司祭(1931年 - 1932年)



尊者リベルマンの精神


 1931年 11月 25日から 12月 4日まで「回心の黙想会」といわれる大黙想会が開かれた。この黙想会は、聖イグナチオの霊操「第一週」の構造に従い、罪という「最大の悪、唯一の悪とも言える悪」の前に霊魂を立たせ、罪の根元を霊魂から根こそぎにし、「真のそして深い進歩」を行わせるのだ。そのためには霊魂には罪に関する奴隷的恐れ(罪のために受ける罰を恐れること)の次元にとどまらず、孝愛による畏れ(罪によって天主を悲しませることを畏れること)において霊魂が開花しなければならない。


 そしてそのことは、尊者リベルマンの霊的な教えに従って春に開かれた「祈りの黙想会」によって確実に実現した。私たちの修練者マルセルは、この要求の多いしかし平和をくれる霊性の三つも動きを次のようにメモした。「自己放棄、平和、天主との一致」。ローマにいる時からマルセル・ルフェーブルの霊魂を捕らえていた神秘、すなわち「私たちに対する天主の愛の想像を超える深遠な神秘」である私たちの主イエズス・キリストと十字架の神秘を単純にかつ総合的に眺めることによって、少しずつ天主の聖寵は、彼をこの一致において常にある揺るぎないものに確立していた。これほど賜物をうけて、どうして天主に報いる相互の愛として答えないでいることができようか! "Sic nos amantem, quis non redamaret!"


 マルセル・ルフェーブルは他の人たちが感じるような祈祷と行動の間の乖離を知らないだろう。彼はこう書いている。「聖霊会の生活とは、行動において自己を与え尽くす観想でなければならない。私たちは出来る限り、祈りと労働との間が離れないようにしなければならない。私たちは天主から離れることなく兄弟たちに献身しなければならない。」



(つづく)


http://blog.with2.net/link.php?269452
【↑ クリックで応援をお願いします。】

 

 


聖ピオ十世会:韓国での王たるキリストの祝日

2006年11月04日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア!


兄弟姉妹の皆様

 オックスフォード大学の研究者の方が、韓国で聖伝のミサに与り、王たるキリストの祝日の様子を紹介して下さっています。


http://cornell-catholic-circle.blogspot.com/2006/10/christ-is-king-in-seoul_116212742446736538.html


http://cornell-catholic-circle.blogspot.com/2006/11/fr-thomas-onoda.html


 ご参考までに。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父(聖ピオ十世会司祭)

 


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

 クリックで応援をお願いいたします。↓↓↓
http://blog.with2.net/link.php?269452

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

 


ダブルスタンダード?! 聖伝主義に対する態度とエキュメニズム

2006年11月03日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア!



▼ これはダブルスタンダードではないか? 


 カトリック教会は、御聖体が私たちの主イエズス・キリストの真の御体だと信じている。御聖体はたんなるパンではない。御聖体は天地の創造主だ、私たちの天主だ、私たちの贖い主イエズス・キリストだ。だから、カトリック信徒たちに御聖体を礼拝させてきた。これはカトリック信仰が私たちをして跪かせた。その核心は信仰だ。聖伝の信仰だ。


 私に洗礼を授けて下さったヨゼフ・マリ・ジャック神父様は、私たちに必ず跪いて御聖体を拝領するように、必ず口で御聖体拝領するようにと教えていくださった。何故なら、御聖体は天主の御体だからだ。神父様は、教会の聖伝の信仰を大切にしておられた。


 しかしおよそ今から25年前、地元の教会に新しい神父様が赴任されてから全ては変わった。新しい神父様は新しいことを信徒たちに押しつけた。私たちは立って聖体拝領をしなければならなくなった。立たなければ「一致を乱す」と非難された。私は小教区の教会では御聖体拝領が出来なかった。私たちの主イエズス・キリストを礼拝したいと望んだ、という理由のためにだ。


 それは日本のほとんど全てのカトリック教会で同じことが言えるだろう。


 私はつい最近、韓国の学生のキム・ニコラ君(仮名)からメールをもらった。彼はソウルからかなり離れた地方に住んでいる中学生だ。それによると、地元の小教区で新しい司祭が赴任になり、キム・ニコラ君が跪いて口で聖体拝領をするので御聖体拝領を禁止したとのことだ。


 一体何故? 何故ここまでするのか? しかも全世界で?



 第二バチカン公会議では「信教の自由」を高らかに歌っているのではないか? 新しいミサではいろいろなことをするオプションが数多くあるではないか。何故跪くことなどの聖伝の信仰に適ったことはここまで強く禁止されなければならないのか?? 平信徒の声を聞く、開かれた教会、今までの権威主義ではない信徒のための信徒による信徒の教会手作りの教会、草の根の教会を目ざしているはずではないのか??


 これはダブルスタンダードではないか? 自己矛盾ではないのか?
何故なら、一方で自由を歌いながら、聖伝のままを実践する自由を与えていないからだ。

 

▼今までダブルスタンダードだと思っていた

 私は最初これらを素直にダブルスタンダードだったと思っていた。しかし良く考えると、一貫した論理があるように思えてきた

 何故なら、跪くというのは礼拝の印であり、カトリック信仰の生き生きとした表明であるからだ。御聖体が私たちの主イエズス・キリストの真の御体であるという信仰ゆえにこそ、私たちは跪いて礼拝しつつ御聖体拝領をするからだ。聖伝のミサでは、私たちが全て天主を中心に生きるように、天主に向かって全てが秩序づけられていた。


 しかし、


 カトリック教会の聖職者が、もはや聖伝を信じておらず、新しい教えを新しい信仰を信じているなら、・・・


 ミサ聖祭が、ミサの聖なるいけにえではなく、聖餐だと信じているなら、・・・


 司祭が単なる座長で、ミサが信徒を中心とする集会であるなら、・・・


 ミサで「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」からこそ、キリストが現存していると信じているなら、・・・


 御聖体は、兄弟姉妹たちと分かち合う食事になり、食事は食べ物と飲み物があり、手で取って立って食べるのが当然だから。だから、立つことが原則なのでそれに従うことを強制させられるのだ。


 新しいミサの定義はこうだ。

「主の晩餐、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち「主の記念」を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18・20)というキリストの約束は、とくに教会が、それぞれの地域で集まる時に実現される。」(新しいミサの総則の第7条)


 だから、新しいミサでは、聖書の朗読台と感謝の食卓という二つの「食卓」と二つの「霊的糧」が「食され」、その中心は人間になる。


 だから、新しいミサでは新しい実験・革新・試みはどんなことをしても良いのだけれども、聖伝の信仰の表明だけは許されないのだ。


 つまり、新しいミサでは全く新しい「信仰」が表明されており、そこでは聖伝の信仰は相容れないのだ。


 だから、新しいミサの新しい「信仰」を信じる人は、聖伝の信仰を憎しみ排除しようとするのではないか。聖伝の信仰の表れを粉々につぶそうとするのではないか。


 だから、新しいミサで跪いて御聖体拝領をする人は、受け入れられないのだ。なぜなら、信仰が違うからだ。


 何故なら、第二バチカン公会議の新しいミサと新しい信仰は全てを人間に秩序づけようとするからだ。「人間こそ、われわれの全叙述の中心点」(『現代世界憲章』3)であり、「地上に存在するあらゆるものは、その中心および頂点である人間に秩序づけられなければならない」(『現代世界憲章』 12)からだ。 第二バチカン公会議はこれに反対するものに対して戦いを挑み、これに反対するものを完全に破壊し尽くすまで闘おうとしているからだ。


 それに対して、聖伝は全てを天主のために秩序づけようとし、それに反対するものに対して抵抗し闘っている。私たちは聖伝が勝利することを知っている。だからといって何もしないでよいわけではない。傍観していて良いわけではない。使徒継承のカトリック教会の聖伝にますます忠実でなければならない。


 だから、ここに生きるか死ぬかの戦いがあるのだ。カトリック聖伝が生き残るか、第二バチカン公会議が生き残るか、悪魔の最後の戦いが繰り広げられているのだろう

 そして、これはラテン語と日本語の問題ではなく、グレゴリオ聖歌か日本語聖歌かの問題でもなく、カトリック信仰の核心の問題なのだ

 このごろこう思えてならない。




◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

 クリックで応援をお願いいたします。↓↓↓
http://blog.with2.net/link.php?269452

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


 


ダブルスタンダード?! 聖伝主義に対する態度とエキュメニズム

2006年11月03日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!


兄弟姉妹の皆様、


 レオ13世によって不可謬的に(ex cathedra)明らかにされた英国聖公会の司祭叙階が無効であることを信じなければ私たちはどうなってしまうのでしょうか?


 レオ10世教皇は、マルチン・ルターを不可謬的に(ex cathedra)排斥しましたが、それを信じなければ私たちはどうなってしまうのでしょうか?


 「教会の外に救いなし」とする聖会の不可謬の教義を信じなければ私たちはどうなってしまうのでしょうか?



 公教要理にはこうあります。


198 教皇は教会を教導するとき誤ることがありますか。

信仰と道徳に関する決定を下すとき、教皇は不可謬です。


199 何故教皇は不可謬ですか。

教皇が不可謬なのは、イエズス・キリストの御約束と聖霊の絶えまのない援助によります。


200 教皇はどんな場合に誤ることができませんか。

教皇は全教会が受け入れるべき信仰と道徳に関して、全力トリック信者の牧者、教師としての資格と最高かつ教皇の権威をもって、教義を決定するとき、誤りを犯すことはできません。


201 教皇の決定した教義を信じないものは、どんな罪を犯しますか。

教皇の決定した教義を信じない者も、疑いを持つ者も、信仰に反する罪を犯します。また頑固に不信仰の状態にとどまれば、カトリック信者ではなく異端者になります。


202 天主が教皇に不可謬性の恵みをお与えになったのは、何のためですか。

天主が教皇に不可謬性の恵みをお与えになったのは、教会が教える真理を私たちが確信して受け入れるためです。


204 教会は、教皇が不可謬であることを決定することによって、新しい信仰の真理を定めたのですか。

教会は、教皇が不可謬であることを決定することによって、新しい信仰の真理を定めたのではありません。すでに聖書や教会の聖伝の中に含まれていた、教皇の不可謬性についての教えは天主によって啓示された真理であるので、ドグマすなわち信仰箇条として信じなければならないということを、色々な誤った新説に対処するために、決定したにすぎないのです。

 


 ▼教皇様は、新しい信仰の真理を創ることは出来ません。教皇様がこう言ったからこれが真理になるのではなく、これが真理だから教皇様がこれは真理だというのです。


 ▼教皇様は、私たちの主イエズス・キリストの代理者であり、イエズス・キリストの後継者ではありません。新しい教皇様が、過去の教皇様の不可謬に定めた教えと矛盾することを言う場合、私たちは教会の不可謬の教えに従わなければなりません。


 ▼だから、私たちは聖伝に従うのです。カトリック教会の永遠の教導権に従うのです。歴代の諸教皇様の教えに従うのです。歴代の不可謬の公会議の決議に従うのです。


 ▼何故なら、私たちはカトリック信仰をそのまま保ちたいからです。何故なら、私たちは天主の憐れみにより、カトリックとして行き死ぬ恵みを求めているからです。



◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

 クリックで応援をお願いいたします。↓↓↓
http://blog.with2.net/link.php?269452

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

 

 


ダブルスタンダード?! 聖伝主義に対する態度とエキュメニズム

2006年11月02日 | エキュメニズム関連情報

アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、

日本でのエキュメニズム運動の一端をお知らせします。



 ●2001年2月25日大阪教区阿倍野教会で池長大司教は日本聖公会主教、日本基督教団牧師、バプテスト教会牧師らと23人で共同司式の「創立55周年記念の感謝ミサ」を行った。



大阪カトリック時報2001年4月1日号より転載

 

阿倍野教会創立55周年記念祭

「55年の歩みをふり返り、21世紀に生きる共同体」


 阿倍野教会では、二月十二日、創立五十五周年記念の感謝ミサと祝賀会がおこなわれ、三百五十人が参加した。テーマは「五十五年の歩みをふり返り、二十一世紀に生きる共同体」。

 阿倍野共同体は、ふだんからエキュメニカルな活動をたいせつにしている。当日も、池長潤大司教はじめ、カトリック司祭、近隣の日本聖公会主教、日本基督教団牧師、バプテスト教会牧師ら二十三人が祭壇を囲んだ


(諸宗教の指導者が最後の祝福を与えている)

 信徒のひとりは「なぜ五十五年?はんばな数字!何人かの信徒たちからこんな声があがりました」といい、「五十五周年」記念祭が決まった経緯や方針、当日の様子についてつぎのように話した。「五年前、五十周年のときは、阪神・淡路大震災の翌年でした。災害にあわれた方々と痛みを分かち合う意味でも、この 『五十五』という数字は私たちにとって貴重な数字です。この計画をたてたときから、たんなる昔をなつかしむだけでなく、この機をステップとして 『これからの教会』を模索しょうと決めました。

お祭り騒ぎはやめ、多くの信徒が参加できるよう考慮しました。それにはまず、子どもたちが生かされ、外国人たちと交わりがもてるミサ典礼を考えました。たとえば、奉納には、外国の文化を理解しょうとの試みから、子どもたちはバンプーダンスを披露(=写真)。

(外国文化理解の試み:これが日本文化へのインカルチャレーションになるのだろうか?)


 ほかに、パンとぶどう酒とともにお米・・・・これは、毎週、釜ケ崎に届けられるおにぎりから 『隣人愛』を表現。それから、麦の穂大地の恵みに感謝。

(天主に感謝ではなく、大地の恵みに感謝)


 そして、外国との関係から輸入フルーツ。阿倍野教会を拠点として、すでにはじまっている宣教活動をあらわす『古いサンダル』など。
 古いサンダルについては、ミサ後、あるかたから『なんできたないサンダルを祭壇の上にのせるねん。国によっては、牛や羊を奉納するところもあるんやから、祭壇の下でええねん』という忠言があり、大笑いの一幕もありました。


(大笑い??)


 全信徒が一丸となつて関わったこの日は、私たち阿倍野小教区の大聖年のテーマ 『交わりと証し』を実践する契機になつた、と確信できた記念祭でした」。(取材協力 杉田恭子氏)

 

●教会での禅


 教会での禅と称して、宗派を超えた交流の場としてカトリック北野教会様の御協力を得て、相国寺専門道場師家田中芳州老大師が、座禅と法話を開催し、カトリック神父との対談を致します。


http://www.shokoku-ji.or.jp/shokokuji/tatcyu/daitsuin-kyokai.html


 

▼何故、日本ではこのようなことが許されてしまっているのだろうか? 何故、池長大司教様は、日本聖公会主教、日本基督教団牧師、バプテスト教会牧師らにカトリック信徒の方々を祝福してくれと頼んだのだろうか? 日本のカトリック聖職者のうち何人がカトリック司祭職とは何か、ミサ聖祭とは何かをカトリック教会が常に理解してきた通りに理解し信じているのだろうか?

 何故、日本ではこのようなことが許されてしまっているのだろうか? この答えはあまりにも明らかだ。何故なら、ヨハネ・パウロ二世教皇様が、アシジの諸宗教の祈祷集会を開いて、「第二バチカン公会議を正しく理解する挿絵(イラストレーション)である」と言ったからだ。



 日本でエキュメニズム運動があり、諸宗教の指導者を招待して祈ってもらったり、他の宗教の施設に祈りに行くのは、第二バチカン公会議が望んだことだった。

 これらのことは第二バチカン公会議以前には、全く考えられないことだった。天主の十戒に全く反することだから



 だから、日本でこのようなことが起こっても誰も文句を言わなかった。ただヨハネ・パウロ二世教皇様の真似をしただけだったのだ。



 では、私たちはどうすればよいのか?

 レオ13世によって不可謬的に(ex cathedra)明らかにされた英国聖公会の司祭叙階が無効であることを信ずるか、あるいはパウロ六世やヨハネ・パウロ二世教皇様のエキュメニズムの風潮を信じるべきか?


 マルチン・ルターを不可謬的に(ex cathedra)排斥したレオ10世を選ぶか、ヨハネ・パウロ二世教皇様のエキュメニズムの風潮を選ぶべきか?

 「教会の外に救いなし」とする聖会の教義を信ずるか、それとも、非キリスト教さえも救いの手段であり、多神教さえも敬うべしとするヨハネ・パウロ二世教皇様の指針に従うべきか?

 《異端者》、あるいは/かつ、《破門されたもの》は「カトリック教会の外にいる」のか、それとも、「さまざまなキリスト教と呼ばれる団体」は「深さが」異なるのみで、全き交わりの中にいるのか。したがって、これらさまざまな異端の、あるいは/かつ、破門された党派も、パウロ六世やヨハネ・パウロ二世教皇様にならって「教会として、又は、教会的団体として」「尊敬すべき」なのか??

 

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

 クリックで応援をお願いいたします。↓↓↓
http://blog.with2.net/link.php?269452

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

 

 


教会内部での共産主義者によるスパイ活動について

2006年11月02日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア!


 教会内部での共産主義者によるスパイ活動についてゼン・トマスさん(仮名)から情報をいただきましたので、ご参考までに兄弟姉妹の皆様にお知らせ致します。

中共が認めるのは「共産主義」であり、これだけが合法的な「宗教」である。」

=======以下ゼン・トマスさんからです。======


 ●バチカンに教皇見張るスパイいた、とグレンプ枢機卿
http://blog.livedoor.jp/cjcpress/archives/50588496.html

 ソ連が教皇ヨハネ・パウロ二世を監視するためバチカン(ローマ教皇庁)にスパイを置いていた、とポーランドの首座司教ワルシャワのヨーゼフ・グレンプ枢機卿がイタリアのANSA通信に語った。

 共産主義政権時代を評価するために設立された国立記憶研究所では、ポーランド人聖職者の約1割が知ってか知らずか、情報提供者になっていた。


 ●ルーテル世界連盟の元会長は秘密警察のスパイだった
http://blog.livedoor.jp/cjcpress/archives/50625569.html


 【オスロ=ENI・CJC】ルーテル世界連盟(LWF)のグンナー・スタアルセット前総幹事は、同連盟のゾルタン・カルディ元会長が共産主義政権下のハンガリーで秘密警察のスパイだったとの報道に「とても驚いた」と語った。
 ノルウェーの神学者トールモー・エンゲルスヴィケン教授が、ハンガリーのルーテル教会とLWFなど世界的な組織との関係について3年にわたって研究した際にカルディ会長に関する秘密警察書類から発見したとして、10月初め発表した。

 カルディ氏は、スパイの暗号名「ペッツィ」。ハンガリー南部の教区で1958年に当局から辞任を強要されたラジョス・オルダス監督の後任となった時にはすでにスパイだった。84年にブダペストでLWF大会が開かれた際に会長に選出された。87年に死去している。

 LWFのイシュマエル・ノコ総幹事は「冷戦によって南北双方で指導者多数が、共産主義政権や独裁政権と結び付いていると噂されたことを忘れてはならない」と声明で述べている。□


●ミトローヒン文書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-form/249-4232571-7493123

http://www.jbook.co.jp/p/p.aspx/3081969/s/

 ■暴かれた現代史――『マオ』と『ミトローヒン文書』の衝撃 中西輝政(京都大学教授)

http://blog.duogate.jp/tankman/entry/detail/?id=3577868
 イギリスで旧ソ連KGB対外情報局文書課長をしていたミトローヒンという人物が出版した『ミトローヒン文書』。


 ミトローヒン文書とマオによって、国際共産主義の陰謀がようやく表に出てきた。今までの現代史は大きく修正されることは間違いない。
特に張作霖爆殺事件、第2次上海事変、これらがソ連と中共の陰謀ならば、いったいどれだけ歴史の真実が眠っているのだろうか。


 ●李世雄氏:米国でスパイ活動を展開する中共愛国協会
http://www.epochtimes.jp/jp/2006/05/html/d56419.html
 
 
中国宗教迫害真相調査委員会の発起人・李世雄氏 特別インタビュー

 【大紀元日本5月30日】中共宗教迫害真相調査委員会の発起人・李世雄氏はインタビューで、中共宗教事務局局長・葉小文氏を中共統一戦線政策の手先であり、宗教の名を借りて米国で公にスパイ活動を行っていると指摘した。葉小文氏は「三自愛国協会」のメンバーを率い、ロサンゼルス、アトランタおよびニューヨークで一連の「聖書奉仕活動展示会」を行っている。葉小文氏は共産党宗教界の最高頭領であり、同活動は中共が海外で行った統一戦線工作と国際社会を欺瞞する活動であると非難した。

 李世雄氏がインタビューで語った内容は次のとおり。

 中共統治下の宗教は共産政治の道具である

 中共政権主導下の宗教活動は、すべて政治目的で行われている。利用されている人は、すべて中共の訓練と指示を受けて活動している。従って、真の信仰者は中共政権下において非常に生きづらいのである。

 中共が認めるのは「共産主義」であり、これだけが合法的な宗教である。民衆が他の宗教を信仰する場合、まず共産党の指示に服従することを誓い、共産党がすべての教会より素晴らしいものであると認めなければならない。すなわち、共産党は「神の上の神」、「仏の上の仏」、「アラーの上のアラー」であることを認めなければ、その信仰者は必ず弾圧されるということだ。

 共産党に操られ、真の信仰を消滅することを目的としている「愛国教会(実質上は愛党教会)」は、実は「統一戦線のスパイ機関」である。神に畏敬の念を抱く人や、正義感のある人たちは、このような教会に参加するはずはない。

 このよう教会の中では共産党の支部が設けられ、一部の「宗教指導者」自身も共産党党員である。

 葉小文はスパイ活動を行っている

 中共内部の局長、部長や総書記等はすべて中共邪悪体系の中の道具であるに過ぎない。中共は利益で彼らを誘惑し、コントロールしている。葉もその中の一員である。無神論者で頑固な共産党員の葉氏は、神を信じていない。このような人が宗教事務を管理する資格があるだろうか?

 中共は一貫してスパイ活動を行っているが、その中には公のものと秘密のものがあり、葉氏の今回の活動は公の活動である。中共は宗教界を利用し、今後さらに大きな活動を企んでいるかもしれない。

 中共は今までずっと宗教の名義を利用してスパイ活動を行っていた

 中共政権が誕生してから、宗教の名義でスパイ活動を行った事例は数多くある。「愛国協会」の新しい指導者たちの多くがスパイである。しかし、彼らは決して共産党員の身分を明かさず、よく教会内の派閥の代表者として現れる。彼らは共産党が教会をコントロールするための手先となり、崩壊を画策し、共産党の代弁者として様々な工作をする。彼らはデマをでっち上げては真の信教者を迫害し、中共に服従しない者を排除するよう努めている。例えば、呉耀宗、丁光訓、李儲文などのキリスト教の腐敗分子および皮漱石、楊士達、李君武、傅鉄山らカトリック教の腐敗分子はすべてこの類のものである。

 もっとも典型的なケースは、中共の統一戦線部部長の厳明復一家である。第2次世界大戦勝利50周年を祝う時、前ロシア大統領は、わざわざ中共駐ロシアの大使館に来て、戦時中に中共情報組組長の厳宝航(厳明復の父親)、厳明詩(厳明復の姉)らに、勲章を授与した。なぜなら、厳宝航は第二次世界大戦時、旧ソ連に三つの極秘情報を与えたため、旧ソ連の運命を変えたからである。

 当時、厳宝航は地下共産党党員として、瀋陽教会の総幹事長を担当し、東北教会の中で非常に活躍した宗教指導者だった。

 また、悪名高いスパイとして李儲文がいる。彼は若いときに海外に留学し、有名な神学校で学んだ牧師である。李は、自分の恩師であった孫恩三氏の「陰謀と犯罪行為」を告発したことによって、孫氏が首吊り自殺に追い込まれたあと、共産党の褒美を受け、上海国際礼拝堂の主任牧師および「中国キリスト教三自愛国運動委員会」の秘書長に任命された。

 李氏は文化大革命時代、造反派からの糾弾、暴行を免れるために、自分の共産党員の身分を公開したとき、李氏の妻も非常に驚いたという。その後も、彼は長期にわたり中米教会の内部に潜伏し、敬虔なクリスチャンおよびその同僚を騙しながら、密かにスパイ活動を続けていた。後に、彼は、上海市外交事務室の副主任、新華社駐香港支社の副社長等を務めた。

 中国カトリック教の中で、もっとも影響力のある二人の人物は、龍共(コン)品梅・司教と于斌(ユー・ビン)・司教である。司教は、かつて30年以上投獄されていた。于司教は中国を離れて渡米したが、中共からの嫌がらせや誹謗中傷が絶えなかった。これが中共政権下のキリスト教およびカトリック教の実状である。他の宗教でも例外ではない。

 李世雄氏は最後に、葉小文に「悔いを改め、真に神を敬うようにしてください。さもなければ、地獄に落ちる結末を免れない」と呼びかけた。


 
●中国当局、米国政界へのロビー活動に巨額の資金
http://jp.epochtimes.com/jp/2006/10/html/d33401.html


 【大紀元日本10月31日】米ワシントンに本部を持つ非営利団体『公共性保全センター(The Center for Public Integrity)』が先月発表した調査報告書によると、中国当局と香港地区は、米国議会の関係者に圧力をかけるため、巨額な金を投じて著名なロビイストを雇っているという。ここ十年間に中国当局が投じた金額は、約1900万ドルに達している。

 同機構に所属するボブ・ウィリアムズ(Bob Williams)氏と、マリーナ・グエバラ氏が発表した「China Steps Up Its Lobbying Game」と題する報告書は、「中国当局は米国の有名な大手広報会社、例えば、WPP社(WPP Group Plc.)や、パットン・ボッグズ社(Patton Boggs)などに業務委託し、米国政界への働きかけを強化している」と強調した。

 ウィリアムズ氏はワシントン・ポスト紙の軍事や国家安全問題に関する報道責任者。同氏は、著書「敵:米国の敵は国家機密をどうやって盗んでいるのか、また、米国はどうやってこのようなことを発生させたのか」(ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー・ランキング一位)で、中国当局を「NO.1のスパイ国家」としてリストアップしている。同書の中でウイリアムズ氏は、米国には中国当局の息がかかった「前線企業」が情報収集に暗躍しており、その数は3千社以上に上ると警告している。

 また、日本で9月下旬に発売された「SAPIO」誌は、中国当局による対日本政界、産業界への「裏工作」を暴露している。中国当局は女性、金、場合によっては臓器提供などで取引を行い、日本政界に「親中派」勢力を構築、多大な影響力を及ぼしているという。

 

 

◎「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
2008年から2015年にかけて
東アジアの軍事バランスが崩れる危険性
http://www.melma.com/backnumber_45206_3407643/

 陳水扁台湾総統が日本とのテレビ会議で大胆な指摘が続出
*********

 陳水扁総統から基調報告のスピーチがあった。要旨は次の通り。

 「2005年2月19日、日米は『2+2』において『台湾海峡の安全が日米両国に重大な関心事』という(従来になかった)文言を盛り込んでいる。

 平和は血と涙によって構築されるものであり、堅実な国防力がない限り、邪悪な侵略者にやられてしまう危険性がある。

 平和を念仏のように約束するのは空弾に等しく、実際にペンタゴン報告は、軍事バランスが中国有為に傾いており、2008年に中国側の台湾侵攻実践配備が完了することになっても米国側の対抗配備は2015年にずれ込む。

 つまり2008年から15年に危険な軍事的空白が台湾海峡をめぐって醸成される恐れがあるとの報告を出している。」

 


 ●バチカンの高位聖職者や各地方教会の司教・司祭にかなりの数の共産主義者の破壊工作員が入り込んでいると告発するAA1025が正しいということはミトローヒンアーカイブその他の色々な資料によって立証されつつあるようだ。教会内部に共産化のタネを撒いたソビエトはなくなったが、その組織はそっくりそのまま教会内に温存されており、今では中国共産党や朝鮮労働党、キューバ共産党などの監督下に置かれているのではないか? 日本のカトリック正義と平和協議会は、朝鮮総連の下部組織であるバウネットなる団体が同じ場所に事務所を構えて、電話番号まで共通だったという事実を見れば、そこに集う聖職者や修道者などはやはりそうなのか??

 

 ●ピオ十二世は、その回勅 Divini Redemptoris の中で、共産主義を「本質的に正道を踏み外したもの」(本質的に邪悪)として公然と非難され、「キリスト教文明と社会秩序を救おうとする者は誰も、どのようなものであれいかなる企てにおいても共産主義と協力することは許されない」と警告された。

 1949年6月13日にピオ十二世は検邪聖省を通じて、いかなる仕方においても、共産主義者に加わりあるいは彼らを援助する者、共産主義の文献を読む者さえ、秘蹟を拒否されるであろう、そして共産主義者たちの教説を公言する者は「法それ自体によって、カトリック信仰からの背教として、聖座に特別に取って置かれた破門を招く」であろうということを布告することによって、共産主義に対する教会の容赦のない反対を再び断言された。
http://www.d-b.ne.jp/mikami/fn980217.htm

 

===ゼン・トマスさんからは以上です。====

 

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

 クリックで応援をお願いいたします。↓↓↓
http://blog.with2.net/link.php?269452

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

 


異端とは何か? 離教とは何か?:ダブルスタンダード?! 聖伝主義に対する態度とエキュメニズム

2006年11月02日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで

アヴェ・マリア!


 異端とは何か? 離教とは何か?について公教要理に書かれてあることをあまりよく知らないでインターネット上で発言をする人があるようですので、「異端」、「離教」とは何かを確認したいと思います。

 

▼異端とは?


 「異端」Heresyとは、天主の啓示した信仰箇条を信じることを拒否することです。

 それを一つでも信じることを拒否すれば異端になります。


 異端を意味する英語のheresyの語源はギリシア語のhairesisで、hairesisとは、どの教えが受け入れられ、どれが受け入れられないかを自分が勝手に「選び取ることhairesis」です。


 自分勝手に教義を「選び取ることhairesis」は、信仰の精神に反し、従ってカトリック的ではなく、これが「異端hairesis」と呼ばれます。


 異端を信じる者は天主を信じていると言うよりも、自分自身を信じているのです。何故なら、異端者はドグマを信じるのは、天主が啓示したからではなく、ドグマが彼に、彼の理性に、合理的に思われるからです。


 聖トマスは、神学大全(II-II, q.5, a.3)で、「信仰の精神」と、「異端の精神」を区別しており、信仰箇条の一つでも否定する異端者は、信仰徳をもっていないと言っています。


 もし頑固に自説を採り頑固に自説を唱えるならば「異端者」と言い、「頑固に自説を唱える」のでなければ彼はただ「誤りに陥っている」だけです。


 ルター、カルヴァンなどは頑固に異端説を唱えて異端の創設者となりました。



聖ピオ十世の公教要理より。


229 異端者とはだれですか。

 異端者とは、洗礼を受けていながら、天主によって啓示され、カトリック教会が信ずべきこととして教える真理を頑固に拒絶する人々のことで、アリウス派、ネストリウス派、プロテスタントの宗派などがあります。

 


■質料的な異端者■


 ただ「誤りに陥っている」だけの場合、見かけ上の(materialiter)異端者、質料的に異端者と言われます。


 しかし、ひとたびその誤りを頑固に固執するや、単に質料的な異端者ではなくて、本当の異端者、つまり形相的な(formaliter)異端者となります。


 質料的な異端者とは異端を信じているがしかしそれが異端であるということを知らない人です。


 善意をもって、自分の理論が異端的であるということを知らない彼は、明らかにカトリック教会が教えるものをただ知らないのです。


 しかし、形相的な異端者は自分の信じていることがカトリック教会によって決定されたことに反するということを知っています。


 形相的な異端者はカトリックではありえません。なぜなら形相的異端者は真のカトリック信仰を持っていないからです。




▼第二バチカン公会議後の教会の異端に対する態度


 第二バチカン公会議後は、その新しい教えであるエキュメニズムのために異端者を異端者だと言わなくなってしまいました。


 異なる点よりも同じ点を強調し、同じ信仰を持っていると信じさせようとしています。


 だから、今までカトリック教会が異端だと言い続けてきた集団を「教会」とか「教会的共同体」などと呼び、同じキリスト教の交わりにいると主張しています。これが第二バチカン公会議の新しいエキュメニズム運動です。


 しかし、ここで疑問が生じます。


 レオ13世によって不可謬的に(ex cathedra)明らかにされた英国聖公会の司祭叙階が無効であることを信ずるか、あるいは現今の教会のエキュメニズムの風潮を信じるべきか。


 マルチン・ルターを不可謬的に(ex cathedra)排斥したレオ10世を選ぶか、現今の教会のエキュメニズムの風潮を選ぶべきか。


 「教会の外に救いなし」とする聖会の教義を信ずるか、それとも、非キリスト教さえも救いの手段であり、多神教さえも敬うべしとする今の教会のエキュメニズムの指針に従うべきか。


 《異端者》、あるいは/かつ、《破門されたもの》は「カトリック教会の外にいる」のか、それとも、「さまざまなキリスト教と呼ばれる団体」は「深さが」異なるのみで、全き交わりの中にいるのか。したがって、これらさまざまな異端の、あるいは/かつ、破門された党派も、「教会として、又は、教会的団体として」「尊敬すべき」なのか。


 現在教会で高位聖職に就いている方々は、多かれ少なかれ聖伝の信仰箇条を否定しているように思えます。信仰箇条の1つでも知りつつ頑固に否定するものは異端となるので彼らこそが、異端者ではないでしょうか。

 



▼「離教」Schismとは?


 離教と異端とは概念が違います。「離教」とは、自分自身の為にもう一つ別の教会を作ろうと望むことです。


 離教とは、教会の頭に服従を拒否することであり、その為に「教会の一致に反する犯罪」です。


 例えば目に見える教会の頭である教皇の首位権、至上権を認めることを拒否するすることです。教皇の首位権を拒否する時、離教をする者は破門に値します。


 しかし「不従順」と「離教」とは区別されます。教皇を教皇として拒否して認めない時、離教が生じます。



聖ピオ十世の公教要理より。


231 離教者とはだれですか。


 離教者とは、どの教義をはっきりと否定するということはなくても、イエズス・キリストの教会、つまり、正しい牧者から自発的に離れてしまうキリスト教徒です。


 東方正教会、英国聖公会、中国愛国協会などは、ローマ教皇の首位権と全世界にわたる不変的な裁治権を認めようとせずに決定的に離教を成立させました。何故なら、彼らはもう一つ別の「教会」を創ったからです。


 彼ら離教徒たちは、教会によって守られ、伝え続けられてきた教義と信仰の実践(聖伝)から離れ、新しい指針を創りあげ、まさに目に見えない「教会の頭」であるイエズス・キリストから離れてしまったのです。

 

▼第二バチカン公会議後の教会の離教に対する態度


 第二バチカン公会議は、その新しいエキュメニズムの方針のために離教徒は離教ではないと信じさせる態度を取っています。


 過去の教会の教導職は、そのようなエキュメニズム運動を排斥してきました。


 第二バチカン公会議は、その新しいエキュメニズム運動や信教の自由の教えにより、過去の公会議と過去の教皇様たちの教えに耳を塞ぎ、一,聖、公、使徒継承の教会の頭に服従を拒否しようとしているかのようです。


 第二バチカン公会議により、ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿も言うように2000年の過去と断絶した新しい典礼を創りあげてしまいました。


 第二バチカン公会議によるエキュメニズム運動の実践は、カトリック教会の過去とは断絶しています。


 カトリック教会の聖職者達は、正教会や聖公会、愛国協会の聖職者たちと共同司式をしたり「相互聖餐」をしているからです。


 しかし、このような聖伝からの断絶という態度、聖伝から断絶して新しいエキュメニカルな教会を創ろうという態度こそ本当の意味で「離教的」なのではないでしょうか。


 そして、本当の意味での「離教」こそが、破門に値するのではないでしょうか。

 教皇様は、教会の信仰を強め、固め、立てる為に私たちの主から教皇様の権威を戴き、それは、信仰を弱めさせる為でも、破壊させる為でもありません。

 ドイツのモンシニョール・ガンバー(Msgr Gamber)は、『問題の典礼改革』という本でこう書いています。

「有名な神学者であるスアレス(1617年没)は、例えばカイェタヌス(1534年没)のようなその他の多くの古い神学者と共に、『もしも教皇が例えば教会全体を破門しようとしたり、或いは使徒継承の聖伝による典礼様式を全て変えようとするなどして、自分の義務であるにもかかわらず教会の全体との一致と絆とを維持することを望まなかったとしたら』そのような教皇こそは離教的である」(P37)と。

 


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

 クリックで応援をお願いいたします。↓↓↓
http://blog.with2.net/link.php?269452

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎


 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】