Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 存在論的尊厳、行動の自由?

2007年06月20日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

■ 存在論的尊厳、行動の自由?

『信教の自由に関する宣言』2
「このバチカン教会会議は、・・・ 信教の自由の権利は、人格の尊厳に基づくものであ(る)・・・ ことを宣言する。・・・ すべての人間は、人格、すなわち、理性と自由意志を備え、したがって個人的責任を帯びるものであ(る)[がゆえに固有の尊厳を有する]。・・・ したがって、信教の自由は、人間の主観的状態ではなく、その本性に基づくものである。」

疑問点1 第二バチカン公会議は、信教の自由の基盤となる人間の尊厳が、真および善へ現実に追随(adhésion)しているか否かに関わらず、理性と自由意思とを具える人間本性自体の尊厳 にのみ存すると教えているのか。

疑問点2 もし、そうであるとすれば、第二バチカン公会議の教えは聖書が私たちに示す、堕罪の後の人祖ならびにその子孫における人間的尊厳の失墜、および贖いによる回復と両立するのか。ローマ・ミサ典書は司祭に「全能の天主よ、不節制により傷ついた人間本性が、癒しをもたらす断食を熱心に実行することにおいて原初の尊厳を回復するようにさせ給え。」(聖木曜日の集祷文)と言わせていないか。

疑問点3 第二バチカン公会議の当の教えは、同様に各人の主観的条件(責任を伴う悪意の無知、あるいは責任を伴わない無知)を捨象して次のように述べているレオ十三世の教えと両立するのか。
「もしも知性が誤った観念に固執するなら、もしも意志が悪を選択してそれに固執するなら、知性も意志もその完成へとは到達せず、両者とも生まれつきの尊厳を失い腐敗する。従って、善徳と真理とに反することを日の光にさらして大衆の目に触れさせることは許されていない。この自由放埒を擁護し法の保護のもとに置くことは言わずもがなである。」
(回勅 『インモルターレ・デイ』Actus II p.39 / PIN 419)


============
ブログランキング <= クリックで応援して下さい。兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============

【推薦図書】
聖骸布の男 あなたはイエス・キリスト、ですか?
脳内汚染からの脱出


第二バチカン公会議についての疑問および問題点: 人間人格の尊厳?

2007年06月20日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

ルフェーブル大司教様の『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』のつづきを紹介します。

第3章 第二バチカン公会議についての疑念

 一般的な意味での自由、次いで信教の自由について考察した後、同章では先に解説した諸々の概念を信教の自由の問題をとり扱った第二バチカン公会議の文書自体、すなわち公会議宣言『信教の自由に関する宣言』(1965年12月7日発布)に適用してみることにしましょう。その際、当文書の各部分について疑問および問題点を逐次指摘していくこととします。

 本稿の著者は、これらの疑問を別々の項目に分け、それぞれに同公会議文書が提起する主要な問題に対応した題目を付しました。各項目においては、まず公会議宣言『信教の自由に関する宣言』からの抜粋を引用し、必要に応じて当該問題のはらむ困難点を正確に示すために「問題提起」を定めた後に、一つあるいは複数の疑問を提示します。各項目は、同一の主題に関連する中の複数のくだりを考慮に入れ得ます。その場合、各引用文に序列と引用先を示す番号を付すこととします。

 著者は三十九の固有の意味での「疑問点」と、それに付随するまたはそれほどの重要性を帯びないことがらに関する「問題点」とを区別します。「疑問点」については、疑問文として提示し、ハイかイイエかの明確な答えを出すことが、そしてそれができない場合には必要な意味の区別を導入することができるようにします。

 「疑問点 26」から「疑問点 29」に関する部分は、第二バチカン公会議の文書そのものに言及するのではなく、草案起草委員会の報告者の宣言に関わるものです。何故ならこれらの宣言は、公会議宣言『信教の自由に関する宣言』の前提となっている哲学的概念に光を当てるものだからです。



* *


■ 人間人格の尊厳?

1-『信教の自由に関する宣言』1
「現代において人々は人格の尊厳を日増しに意識するようになっている。」

【問題点1】 公会議は、「現代において人格の尊厳は、ますます深い忘却、否むしろ軽蔑の対象となっている」というべきではなかったか。

2-『信教の自由に関する宣言』1
「強制されることなく、義務感に導かれて、自分の判断と責任ある自由とによって行動することを要求する者の数がふえてきた。・・・ 人間社会におけるこのような自由の要求は、主として、・・・ 社会における信教の自由な実践に関する事がらに向けられている。このバチカン教会会議は、人間のこのような熱望を注意深く考慮し、それが、どれだけ真理と正義とに合致するかを明らかにするため、・・・」

【問題点2】 これらの「要求」、ならびに信教の自由に対する「熱望」は、旧西洋キリスト教社会で急増するセクトの放縦かつ活発な攻勢にあえぐカトリック国家および諸々のキリスト教社会の崩壊、瓦解、分断の印ではないか。あるいはまた、第二バチカン公会議はこれらの表現によって、キリスト教ならびにその他全ての宗教を絶滅する「神聖な」義務の意識に基づくイスラムの征服的拡張に言及しているのか。それとも第二バチカン公会議は共産主義政権の圧制にあえぐ諸国、すなわちポーランド、ハンガリー、そしてとりわけルーマニアとチェコスロバキアにおけるカトリック信徒ならびに教会の、いわば窒息させられた希求、踏みにじられた要求のことを言おうとしているのか 。
 以上三つの問題点に対する解答は、第二バチカン公会議が、全ての宗教のために見境なくあらゆる状況において要求する信教の自由に光を投げかけるだろう。

============
ブログランキング <= クリックで応援して下さい。兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============

聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会
教皇グレゴリオ16世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ9世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ9世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇レオ13世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇聖ピオ10世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ』1907年9月8日
教皇聖ピオ10世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ10世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務』1910年8月25日
教皇聖ピオ10世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ11世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ11世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日

聖ピオ十世会における今年の御聖体の祝日荘厳祭の聖体行列の様子

2007年06月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 聖ピオ十世会における、今年の御聖体の祝日荘厳祭の聖体行列の様子をご紹介します。


ザールブルッケン(ドイツ)
Fronleichnamsprozession Saarbruecken 2007






ゲッフィンゲン(ドイツ)











メミンゲン(ドイツ)
Fronleichnamsprozession Memmingen 2007















シュトゥッツガルト(ドイツ)
Fronleichnamsprozession Stuttgart 2007


















フライブルク(ドイツ)
Fronleichnamsprozession Freiburg 2007











トゥルーズ(フランス)
Reportage de la Fete-Dieu 2007
10 juin 2007 dans les rues de Toulouse













============
ブログランキング <= 日本でも早くこんな荘厳な御聖体行列で御聖体にまします私たちの主イエズス・キリストを賛美したい! と思った方は、クリックで応援して下さい。兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============

【推薦図書】
脳内汚染からの脱出
聖骸布の男 あなたはイエス・キリスト、ですか?

 ■ 聖伝のミサにようこそ! ■ WELCOME TO THE TRADITIONAL MASS!

2007年06月16日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア!

 ■ 聖伝のミサにようこそ! ■ WELCOME TO THE TRADITIONAL MASS!

 兄弟姉妹の皆様、お久しぶりです!

 兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します! 
(聖伝のミサは、本来なら「ローマ式典礼様式のミサ」と呼ばれるべきですが、第二バチカン公会議以前のミサ、聖ピオ5世のミサ、古いミサ、昔のミサ、旧典礼、ラテン語ミサ、トリエントミサ、トリエント公会議のミサ、伝統的ミサ、伝統ラテン語ミサ、・・・などとも呼ばれています。)

何故なら、聖伝のミサは、聖ピオ5世教皇様の大勅書によって義務化され永久に有効なミサ聖祭だからです。(1570年7月14日聖ピオ5世の大勅令『クォ・プリームム』

■ 「私たちの天主であり、主であるキリストは、十字架の祭壇の上で死に、「一度で永久に」(ヘブライ10・14)父である天主に自分をささげて、救いのわざを完成した。しかしキリストの司祭職は死によって消去るものではなかったので(ヘブライ7・24、27)、敵の手に渡される夜(1コリント11・13)、最後の晩さんにおいて、自分の愛する花嫁である教会に目に見える供え物を残したのである(人間のためにはこれが必要であった)(第1条)。この供え物によって、十字架上で一度血を流してささげたものが表わされ、その記憶が世の終りまで続き(1コリント11・23以下)、その救いの力によってわれわれが毎日犯す罪が赦されるのである。キリストは「メルキセデクの位にひとしい永遠の司祭」(詩編109・4)であると宣言して、自分の体と血をパンとブドー酒の形色のもとに父である天主にささげた。そして、使徒たちを新約の司祭として制定し、パンとブドー酒の形色のもとに拝領するように自分の体と血を与えた。使徒たちとその後継者たる司祭職に、「私の記念としてこれを行え」(ルカ22・19;1コリント11・24)という言葉で、それをささげるように命じた。これはカトリック教会が常に理解し、教えてきたことである(第2条)。」(DzS 1740)

「ミサにおいて真実の供え物が天主にささげられないとか、これをささげるのはわれわれにキリストを食べさせるためだけであると言う者は排斥される。」(DzS 1751)

トリエント公会議、第二十二総会決議文

■ 聖アルフォンソ・デ・リグオリの言葉
「ミサは教会でもっとも良いものであり最も美しいものである・・・悪魔は常に、異端者達を通してミサをこの世から取り除こうと常に努力してきた。そうすることによって彼ら異端者達は、反キリストの先駆者となった。・・・

S. Alfonso Maria de Liguori
Messa e officio strapazzati

     <2007年6月の予定>

【大阪】大阪市東淀川区東中島1-18-5 新大阪丸ビル本館511号(JR新大阪駅の東口より徒歩5分)「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」

15日(金)午後5時半 イエズス・キリストの至聖なる聖心(1級祝日)白
16日(土)午前11時  聖母の土曜日(4級)白


【東京】東京都文京区本駒込1-12-5曙町児童会館1F 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」


16日(土)午後6時半 グレゴリオ聖歌に親しむ会(http://sound.jp/gregorio/)
     午後8時30分 グレゴリオ聖歌による終課
17日(主)午前10時  ロザリオ及び告解
午前10時半  聖霊降臨後第3主日(2級)緑
     午後2時半  霊的講話:「カトリック司祭職」について
■ カトリック司祭とは何か? 
■ 平信徒の共通司祭職とは何か?
■ プロテスタントの牧師は司祭と同じものか?
■ 女性は司祭になることができるか?
■ 何故女性は司祭になることができないのか?
■ 教会は女性を低い地位に置いているのか?
■ 何故、教会は司祭に独身を要求しているのか?
■ 司祭独身制は自然に反することか?非人間的なことか?
■ 司祭独身制の廃止は司祭不足を解決するのに役立つか?
■ 司祭独身制は、使徒時代からのものか?
■ 何故、カトリックの東方教会の司祭たちは結婚しながら生活することができるのか?
     午後4時   グレゴリオ聖歌による主日の第二晩課

18日(月)午前7時 教会博士証聖者助祭シリアの聖エフレム(3級祝日)白
19日(火)午前7時 童貞ファルコネリの聖ユリアナ(3級祝日)白

それでは、皆様のおこしをお待ちしております。

 詳しいご案内などは、
http://fsspxjapan.fc2web.com/ordo/ordo2007.html
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila351.html
http://sspx.jpn.org/schedule_tokyo.htm
 などをご覧下さい。

For the detailed information about the Mass schedule for the year 2007, please visit "FSSPX Japan Mass schedule 2007" at
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/tradmass/


============

ブログランキング <= クリックで応援して下さい。
兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!


聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会


【参考資料】信教の自由に関する宣言

2007年06月16日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア! 

 兄弟姉妹の皆様、参考資料として第二バチカン公会議の信教の自由に関する宣言(DIGNITATIS HUMANAE)を掲載します。

信教の自由に関する宣言
DIGNITATIS HUMANAE

司教 パウルス
神のしもべのしもべ
聖なる公会議の諸教父とともに
ことを永久に記念するために

宗教問題における社会および市民の自由に対する
個人および団体の権利について



1(序文) 現代において、人々は人格の尊厳を(DIGNITATIS HUMANAE personae homines hac nostra aetate)日増しに意識するようになっている。また、強制されることなく、義務感に導かれて、自分の判断と責任ある自由とによって行動することを要求する者の数がふえてきた。同じように、個人や団体の正当な自由の領域が大きく制限されないように、公権の法的限定を要請している。人間社会におけるこのような自由の要求は、主として、人間精神の価値、特に、社会における信教の自由な実践に関する事がらに向けられている。このバチカン教会会議は、人間のこのような熱望を注意深く考慮し、それが、どれだけ真理と正義とに合致するかを明らかにするため、教会の聖なる伝承と教説を探求し、そこから、古いものと常に一致した新しいものを引き出す考えである。

 それで、聖なる教会会議は、まず第一に、人間が神に仕えながら、キリストにおいて救われ、そして幸福になれる道を神自身が人類に知らせたことを宣言する。われわれは、この唯一の真の宗教が、カトリック的、使徒的教会の中に存続すると信じる。主イエズスは使徒たちに、「行って万民に教え、父と子と聖霊との名によって洗礼を授け、わたしがあなたがたに命じたすべてのことを守らせよ」(マタイ 28・19~20)と言って、この宗教をすべての人に広める任務を教会に託した。一方、すべての人は、真理、特に、神とその教会に関する真理を探求し、それを知ったうえは、それを受け入れ、そして守る義務がある。

 同時に、聖なる教会会議は、このような義務が人々の良心に達して、これを束縛すること、また真理がやさしく、そして強く心にしみ込む真理そのものの力によらなければ義務を負わせないことも宣言する。ところで、人間が要求する信教の自由は、神を礼拝するという自分の義務を果たすにあたって、市民社会におけるいっさいの強制からの免除に関するものである。そのため真の宗教とキリストの唯一の教会とに対する個人および団体の道徳的義務に関する伝統的なカトリックの教説はそのまま変わりがない。なお、教会会議は、信仰の自由を取り扱うにあたって、人格の不可侵の権利と社会の法的秩序に関する最近の諸教皇の教えを展開する考えである。

1 信教の自由の一般原則
2(信教の自由の目的と基礎) このバチカン教会会議は、人間が信教の自由に対して権利を持つことを宣言する。この自由は、すべての人間が、個人あるいは社会的団体、その他すべての人間的権力の強制を免れ、したがって、宗教問題においても、何人も、自分の確信に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の確信にしたがって行動するのを妨げられないところにある。なお信教の自由の権利は、人格の尊厳に基づくものであり、神の啓示のことばと理性そのものとによって認識されることを宣言する。信教の自由に対する人格のこの権利は、社会の法的制度において、市民的権利として受け入れられるべきものである。
 すべての人間は、人格、すなわち、理性と自由意志を備え、したがって個人的責任を帯びるものであり、自分の尊厳のゆえに、真理、特に、宗教的真理を探求する本性にかられ、また道徳的に義務を負わされている。そして、真理を認めた場合、これにとどまり、真理の要求にしたがって自分の全生活を規正する必要がある。しかし、人間は、心理的に自由であるとともに、外的強制を免れなければ、自分の本性にかなった方法で、この義務を果たすことはできない。したがって、信教の自由は、人間の主観的状態ではなく、その本性に基づくものである。したがって、外的強制からの免除の権利は、真理を求め、これを受け入れる義務を果たさない人にも存続し、またこの権利の行使は、正当な治安を乱さない限り、妨げられてはならない。

3(信教の自由および人と神との関係) 神が英知と愛をもって、全世界と人間社会に秩序を立て、これを指導し、統治するために設けた神的な、永遠の、客観的、普遍的な法が、人間生活の最高の規範であることを考える者にとって、上に述べたことは、いっそう明らかに現わされている。神は、人間が神の摂理のやさしい計画によって、不変の真理をよりよく認めることができるように、自分の法に人間をあずからせている。したがって、人間は皆、適当な手段によって、賢明に、自分の良心の正しい、そして真の判断を形成するために、宗教に関する真理を探求する義務と権利をもっている。
 真理は、人格の尊厳とその社会性とに固有の方法、すなわち、教導あるいは教育、交流および対話による自由な探求によって、求めなければならない。このような方法によって、真理探求の面で互いに協力するため、自分が発見したか、あるいは発見したと思うことを他の者に説明する。そして、認識した真理に、個人的な承認をもって堅くそれに同意しなければならない。
 しかし、人間は自分の良心を通して神法の命令を知り、そして認める。それで、自分の目的である神に到達するには、すべての行為において、忠実に自分の良心に従わなければならない。したがって、自分の良心に反して行動するよう強制されてはならない。また、特に、宗教の分野において、自分の良心に従って行動することを妨げられてはならない。実際、宗教の実践は、その性質上、第一に、人間が自分を神に関係づける任意で自由な内的行為にある。このような行為は、単なる人間的権力によって命じられたり、妨げられたりしてはならない。人間の社会性そのものが、内的敬神の行為を外部に表現し、宗教の分野で他の人と交わり、団体的に宗教を奉じることを要求する。
 したがって、正当な治安が保たれる限り、社会における宗教の自由な実践を人間に拒むことは、人格と、神が人間のために立てた秩序を傷つけることになる。
 なお、人間が自分の判断によって、私的または公的に自分を神に関係づける宗教行為は、その性質上、地上的、現世的秩序を超えるものである。そのため、公権の本来の目的は現世的共通善を配慮することにあり、当然市民の宗教生活を認め、奨励しなければならないが、宗教行為を指導または妨害することができると考えるならば、公権の限界を超えていると言わなければならない。

 4(宗教団体の自由) 各個人が持つ宗教問題における自由、すなわち、強制からの免除は、団体的に行動するものにも認められなければならない。実際、人間と宗教そのものとの社会性に基づいて宗教団体が要求される。
 したがって、このような団体は、正当な治安の要求が傷つけられない限り、固有の規則によってその団体を治め、最高の神を公に礼拝し、団体員の宗教生活の営みを助け、教えをもって養い、また団体員が自分たちの宗教的原理に基づく生活の向上のための協力機関を促進するなどの自由を享有する権利を持っている。
 また宗教団体は自分に固有の聖職者の選択、教育、任命、転任について、国外に存在する宗教上の長上、および宗教団体との連絡について、宗教建造物の建築について、必要な財産の獲得と使用について、俗権の法的措置または行政処分によって妨害されない権利を持っている。
 なお宗教団体は、自分の信仰を言論および出版物をもって公に教え、また宣布することを妨げられない権利を持っている。しかし、信仰を広め、習慣を取り入れる場合は、強制もしくは不当な、あるいはあまり正しくないと思われる説得などのすべての行為を避けなければならない。無教育者あるいは貧困者に関する場合、特にそうである。そのような行動方法は、自分の権利の乱用、他人の権利の侵害と考えなければならない。
 さらに、宗教団体が、社会に秩序を立て、人間の全行動に活力を与えるために、その教義の特殊な力を自由に発揮することを妨げられないことも、信教の自由に属している。最後に、人間が自分自身の宗教心に動かされて、自由に集会を持ち、教育的、文化的、慈善的および社会的団体を作る権利も、人間の社会性と宗教の性質そのものに基づいている。

 5(家庭における信教の自由) すべての家庭は、固有の、本源的権利をもつ社会として、親の指導の下に、その宗教生活を自由に営む権利を持っている。それで、親は、自分の宗教的信念に基づいて、子女が受ける宗教教育の種類を決定する権利を持っている。したがって、学校あるいは他の教育機関を真の自由をもって選択する親の権利が、公権によって認められなければならない。この選択の自由が、直接にも間接にも親に不当な負担がかけられる理由となってはならない。なお、子女が親の宗教的信念に一致しない授業への出席が強制されたり、宗教教育を完全に除去したただ一つの教育制度を押しつけられたりすれば、親の権利は侵害される。

 6(信教の自由を保護する義務) 社会の共通善は人間が、いっそう完全に、いっそう容易に自己完成に到達できるような社会生活の諸条件の緩和である。そして、これは、特に、人格の権利と義務の保護にある。そのため市民も、社会的団体も、公権も、教会その他の宗教団体も、共通善に対するおのおのの義務によって、おのおのに固有の方法で、信教の自由の権利を守るよう注意する必要がある。
 人間の不可侵の権利を保護し、増進することは、本質的にすべての公権の義務である。したがって、公権は、正しい法律と他の適切な手段によって、効果的にすべての市民の信教の自由を保護し、宗教生活を助長するために有利な条件を作る必要がある。それは市民が真に信教の権利を行使し、その義務を果たし、また社会自体も、神とその意志とに対する人間の忠実さによってもたらされる正義と平和の恩恵を享受することができるようにするためである。
 国民の特殊な事情を考慮して、国の法的制度において、特殊の宗教団体に特別の地位が認められている場合にも、すべての市民と宗教団体とに信教の自由の権利が認められ、尊重されなければならない。
 要するに、公権は社会の共通善に属する市民の法律上の平等が、宗教的理由によって、公的または私的に侵害されないよう、また市民の間に差別が設けられないように配慮する必要がある。
 それゆえ公権は、暴力または脅迫その他の手段によって、市民に対して、特定の宗教の信奉または放棄を強制したり、あるいは、だれかがある宗教団体に加入し、またはそれから脱退することを妨げることは許されない。まして、人類全体、またはある地方、一定の集団において、宗教を撲滅しあるいは弾圧するために暴力を用いられることは、それがどのような形であっても、神の意志と個人および家庭の神聖な権利に反する行動である。

 7(信教の自由の限界) 信教の自由の権利は、人間社会において行使される。したがって、その権利の行使は、ある抑制的な規定の下に置かれる。
 すべて自由の使用にあたって、個人的、社会的責任の道徳原理が守られなければならない。すなわち、個人も社会団体も、他人の権利と他人に対する自分の義務とすべての人の共通善とを考慮すべき道徳的義務を負わされている。正義と愛とをもってすべての人に接しなければならないからである。
 なお市民社会は、信教の自由の口実の下に起こりうる弊害に対して自衛権をもっているため、それを保護するのも、特に公権の任務である。しかしこれは、独断的に、あるいは、不当に一派の利益をはかるためではなく、客観的な道徳原理に一致した法規に従って行なわれなければならない。このような法規は、すべて市民の権利の有効な保護と、権利の平和的調和維持すなわち、真の正義に基づく秩序正しい共存と、公徳の正しい遵守とによって要請される。これらすべては、共通善の根本要素を成し、公の秩序の概念にはいる。社会において完全な自由の習慣が守られ、人間にできるだけ大きな自由を認め、必要な場合と必要な程度だけ制限すべきである。

 8(真の自由尊重の育成) 現代人は種々の圧力を加えられ、自分の自由な判断を失う危機にさらされている。しかし、他方では、多くの者が自由を口実に、いっさいの従属を退け、正当な服従を軽んずる傾向を持っている。
 そのため、本バチカン教会会議は、すべての人、特に、教育の任に当たる人たちに次のことを勧める。道徳的秩序を尊重して、正当な権威に従い、真の自由を愛する人間、すなわち、自分の考えで真理に照らして物事を判断し、責任感をもって自分の行動を決定し、すべて真実かつ正当なことを達成することに努め、他人と快く協調する人間の養成に努めることである。したがって、信教の自由は人間が社会生活において自分の義務を果たすにあたり、より強い責任をもって行動することに寄与し、またそれを目的としなければならない。

2 啓示に照らして見た信教の自由
(中略)
12(教会はキリストおよび使徒たちの模範に従う) 福音の真理に忠実な教会は、信教の自由の原則が、人間の尊厳と神の啓示とに合致するものと認め、それを促進する場合、キリストと使徒たちに従うものである。教会は、師と使徒たちから受けた教えを長い世紀にわたって守り、伝えてきた。人間の歴史を通って旅を続ける神の民の生活の中には、福音の精神にあまりふさわしくない行動、または、それに反するものさえあった。しかし、何人にも信仰を強制してはならないというのが、教会の一貫した教えであった。
 福音の酵素は、人間が時代を下るにつれて、しだいに人格の尊厳を一般に認め、宗教問題において、人間がいかなる強制からも自由でなければならないという確信が熟するために、長い間作用し、大きく貢献した。

 13(宗教団体の権利) 教会の利益、さらには地上の国の利益にかかわりをもち、いたる所において常に保護され、あらゆる危害から守られるべきものの中で、最も貴重なものは、教会が人類の救いの事業を遂行するために必要な自由を持つことである。実際、この自由は、神のひとり子が、自分の血をもってかち得た教会に与えた聖なるものである。確かに自由は教会に固有のものであり、この自由を攻撃する者は、神の意志に反して行動することになる。教会の自由は、教会と公権およびすべての社会秩序との関係の根本原理である。
 教会は主キリストから建てられ、全世界に行って、すべての被造物に福音をのべる義務を神から負わされている精神的権威者として、人間社会において、またすべての公権の前で、自由を要求する。教会はまた、キリスト教の信仰の掟に従って市民社会に生活する権利をもつ人々の社会としても、自由を要求する。
 そのため、信教の自由の制度が、単に口で宣言されまた法で定められるだけでなく、誠意をもって実行に移されるならば、その時に、教会は、法律上および事実上安定した条件と神の使命を遂行するために必要な自律性を与えられることになる。この自律性こそ、教会当局が社会において、主張し、要求し続けてきたものである。また、キリスト信者も他の人々同様、民法上の権利をもち、自分の良心に従って生活することを妨げられてはならない。したがって、教会の自由とすべての個人および団体に権利として認められ、かつ法的に定められるべき信教の自由とは互いに一致するものである。

 14(カトリック信者に対する勧告) カトリック教会は「行って万民に教えよ」(マタイ 28・19)という神の命に従って、「神のことばが広まり、明らかになるよう」(2テサロニケ 3・1)たゆまず働かなければならない。
 そのため、教会は、何よりもまず、信者たちに、「すべての人のため、嘆願と祈願と感謝をするように望む……実際、それはよいことであり、すべての人が救われ、真理を知るようになることを望むわれらの神なる救い主の前によろこばれることである」(1テモテ 2・1~4)。
 しかし、キリスト信者は、自分の良心を形成するにあたって、教会の確実で聖なる教えに忠実に従わなければならない。実際、キリストの意志によって真理の教師であるカトリック教会は、真理であるキリストを告げ、正しく教え、同時に人間性に基づく道徳の原理をみずからの権威をもって宣言し、確証することがその任務である。さらに、キリスト信者は、教会外部者に対して懸命にふるまい、「聖霊において、偽りない愛と真理のことばをもって」(2コリ 6・6~7)生命の光を、全き信頼と使徒的勇気をもって、おのが血を流すまでに、広げるよう努力しなければならないのである。
 実際、弟子は、師キリストから受けた真理をいっそうよく知り、福音の精神に反する手段を排して、忠実にこれを伝え、勇敢に擁護すべき重大な義務を持っている。しかし、同時にキリストの愛は、愛と賢明と忍耐をもって信仰について誤謬あるいは無知の状態にある人たちにも接するよう要求する。したがって、命を与えることばであるキリストを宣べ伝える義務と、人間の諸権利と、自発的に信仰を受け、それを公言するように召された人は、キリストを通して神から与えられた恩恵の程度とを考慮しなければならない。

 15(結語) 現代人が、私的かつ公的に宗教を自由に信奉できることを望んでいること、信教の自由が多くの国の憲法の中ですでに市民の権利として宣言され、また国際的文書によっておごそかに認められていることは確かである。
 しかし、宗教的礼拝の自由が憲法によって認められているが、市民を宗教の信奉から遠ざけ、宗教団体の生活をきわめて困難で不安にしている政府もないではない。
 公会議は、現代のこのような喜ばしいしるしを快く迎える一方、嘆かわしい事実を憂いながら、告発し、すべての人が、特に人類の現状において、信教の自由がいかに必要であるかを慎重に考慮するように切に希望する。
 実際、すべての民族が、日とともにますます一体化し、文化と宗教とを異にする人々がいっそう強いきずなで互いに結ばれ、さらに、おのおのの責任感が盛んになりつつあることは明かな事実である。したがって、人類の間に平和的な関係と和合が確立され、強化されるためには、地上いたる所において信教の自由が効果的かつ法的な保護を受け、社会において宗教生活を自由に営む人間の最高の義務と権利とが守られる必要がある。
 万民の父である神の計らいにより、社会において人類が信教の自由の制度を忠実に守り、キリストの恩恵と聖霊の力とによって、崇高にして久遠の「神の子らの栄光の自由」(ロマ 8・21)へ導かれんことを。 この教令の中で布告されたこれらすべてのことと、その個々のことは、諸教父の賛同したことである。私も、キリストから私に授けられた使徒的権能をもって、尊敬に値する諸教父とともに、これらのことを聖霊において承認し、決定し、制定し、このように教会会議によって制定されたことが神の栄光のために公布されるに命ずる。

ローマ聖ペトロのかたわらにて
1965年12月7日
カトリック教会の司教 パウルス自署
諸教父の署名が続く



PAULUS EPISCOPUS
SERVUS SERVORUM DEI
UNA CUM SACROSANCTI CONCILII PATRIBUS
AD PERPETUAM REI MEMORIAM

DECLARATIO DE LIBERTATE RELIGIOSA
DIGNITATIS HUMANAE
DE IURE PERSONAE ET COMMUNITATUM
AD LIBERTATEM SOCIALEM ET CIVILEM IN RE RELIGIOSA

AAS 58 (1966) 929-946


DECLARATION ON RELIGIOUS FREEDOM
DIGNITATIS HUMANAE
ON THE RIGHT OF THE PERSON AND OF COMMUNITIES
TO SOCIAL AND CIVIL FREEDOM IN MATTERS RELIGIOUS

PROMULGATED BY HIS HOLINESS
POPE PAUL VI
ON DECEMBER 7, 1965

信教の自由の限度(『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』つづき)

2007年06月16日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 ルフェーブル大司教様の『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』のつづきを紹介します。


■ 信教の自由の限度

- 信教の自由については、これが天主を信奉・礼拝する主観的権利のレベルに留まる限り、これに制限を設けるべきではありません。この意味での信教の自由は、原理のレベルに位置するからです。しかるに、信教の自由が、宗教に関わることがらにおける客観的な行動の権能として、或いは単に行動を妨げられない権能として、具体的に社会秩序に適応される場合、その場合、国家の側からの制限を受け入れなければなりません。従って、信教の自由の限度の普遍的規則として全ての国家が受け入れられる、そしてカトリック教義を満足させる、ただ一つの「制限範囲規定のシステム」を見いだしうるかどうかが問われることとなりました。これが第二バチカン公会議で問われた「制限範囲の問題」「自由限度の問題」です。

- かかる制限範囲を明確に定めるために、二つの基準が考えられましたが、これらが適当な基準たり得るか否かの判断を下さねばなりませんでした。一つは共通善であり、もう一つは公共の秩序でした。

(a)一見したところでは、共通善が最も適切な基準であるように思われました。何故なら、これこそ国家の目的そのものであり、従って宗教を促進すべきものだからです。しかし、先に示したように、共通善のあくまで類比的な概念は、多様で時には相対立することさえある具体的な現実を含んでいます。天主および私たちの主イエズス・キリストにその全体が方向付けられているカトリック国家社会の真の完全な共通善と、「党」がその目的の全てとなっている共産主義国家社会との間に、どのような類似点が見いだされうるとでもいうのでしょうか。真の宗教への改宗を促す活動を一切禁止するイスラム国家の共通善についても同様のことが言えます。

 したがって、ある国家において具体的に実現されている限りでの共通善をもって、信教の自由の一般的規範とすることは、カトリック国においては正しい規範であり、またカトリックでないキリスト教国、あるいは多宗教の国家においては暫定的に受入れ得る規範です。しかし、これはまたイスラム教国、あるいは共産主義国等において、真の宗教ならびにその信者を、その敵対者の気ままな裁量と迫害とに委ねることをも意味します。
 もうひとつの問題は、非カトリックの国家にカトリック国家の真の完全な共通善を受け入れさせることは、およそできないという事実です。かかる共通善が前提とする、道徳上の真理、ならびにとりわけ宗教上の真理についての判断は、非カトリック者の共有するところではないからです。したがって、もうひとつの基準、すなわち「公の秩序」という基準を優先して選ばざるを得なくなりました。

(b)共通善の一部でしかない「公の秩序」は、市民の権利の保護、公の平和の維持、ならびに公の道徳の保全を含みます。最後の「公の道徳」とは、[当時]しばしば「客観的道徳秩序」と、それ以上の補足なしに呼ばれた概念です。しかるに、これは、イエズス・キリストによって当初の完全な状態に復元された自然道徳を指すのでしょうか。それとも、はっきりとした定義を欠いた最低限度の道徳を意味するのでしょうか。いずれにせよ、「公の道徳」とは、これこれの宗教が真の宗教であるかどうかの判断を一切抜きにした概念でした。

 しかし、まさにこのために当の基準はカトリック教国においては不十分なものでした。カトリック国では、宗教に関する法制の策定において、どの宗教が真の宗教であるかについての判断を捨象することは、純然な法的実証主義に他ならず、不可知論的で宗教無差別主義の法制を生み出すことになるからです。

‐これらいずれの基準も十分なものではなく、したがって信教の自由の制限範囲を、全ての場合に該当し、かつ全ての国家によって受け入れられ得る、単一の定式文によって言い表すことは不可能であることが明らかとなりました。それゆえ、第二バチカン公会議が無理を省みずしたように、かかる定式文を定めようと試みることは、丸い四角形を描こうとするのと同様のこととなります。なぜなら、それは真理の要求するところを誤謬の要求するところと両立しようとするのに他ならないからです。

 この不可能性の真に単純かつ深い理由は、行動の(あるいは、より厳密に言えば、行動を妨げられない)客観的な権能としての信教の自由は、宗教上の真理を捨象することができない、ということです。なぜなら、真理にそぐわない事柄は、あることを要求する道徳的権能という意味での権利の対象とはなり得ないからです(ピオ十二世 回勅『チ・リエーシェ』PIN 3041)。そして、先にくわしく述べたように、この原則は積極的な意味での権利(行動する権能)にも消極的な意味での権利(行動するのを妨げられない権利)にも当てはまります。

‐したがって、真理を考慮に入れない「信教の自由」を定義しようとするならば、天主を礼拝する自由という主観的な権利を定義するにとどめねばなりません。

 これこそ、ピオ十一世およびピオ十二世教皇が「人間の持つ天主を礼拝する基本的権利」を主張した際に為したことでした。種々の全体主義に対抗するためには、これで十分でした。

結論: 信教の自由の「制限範囲の問題」は、「偽の問題」に他なりません。権利の「対象」から「主体」への移行という根本的悪弊に気付かぬまま、上で示したようにこの問題を提起することによって、第二バチカン公会議は必然的に袋小路に入りこむこととなりました。


============
ブログランキング <= クリックで応援して下さい。
兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============


ルフェーブル大司教著
『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』

第一章
■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?

第二章
■ 本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。
■ 19世紀の教皇たちはこぞって、いわゆる「良心と諸信教の自由」を排斥した
■ 諸教皇は、何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?
■ 信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁
■ 真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか
■ 宗教無差別主義について確認しておくべき点
■ 信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?
■ 聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)
■ 世俗の共通善、カトリック宗教とその他の諸宗教
■ 真の宗教に対して国家が取るべき奉仕の役割
■ 教会と国家との関係
■ 宗教的寛容
■ 宗教的寛容についての結論

イエズス・キリストの至聖なる聖心に向かう、人類の忘恩に対する償の祈

2007年06月16日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

 昨日はイエズスの聖心の大祝日でした。ピオ十一世教皇様は、毎年この祝日に次の償いの祈りを公に唱えることを命じられました。

人類の忘恩に対する償の祈

 いと甘美なるイエズスよ、主が人々に示し給いし御慈しみはかえってかれらの忘却と冷淡とけいべつとによりて報いらるるなり。さればわれらは、主の祭壇の御前にひれ伏し、いとも愛すべき主の聖心が、あらゆる方面より受け給う、かくも憎むべき忘恩ぼうとくを償わんがために特に礼拝し奉る。

 ▲されどわれらもまた、かつて主に背き奉りたるものなるを思い出し、深く悲しみて御あわれみを願い奉る。われらはおのが罪を償うのみならず、さらに進んで、救霊の道を遠ざかり、主の御招きに応ぜずして不信仰を改めざる者、洗礼の約束を破りて、主の御戒めの快きくびきを振り棄てたる人々の罪をも償わんと望み奉る。

 すなわちわれらは、世の腐敗せる風俗、むくなる青少年の霊魂を堕落のふちに導く誘惑、聖日の無視、主ならびに主の諸聖人に向けらるる不敬の言葉、主の代理者たる教皇を始め、すべての司祭職に対してなさるる侮辱、至聖なる愛の秘蹟に対する無関心と恐るべきとくせい、主の定め給いし、公教会の権利と権威とにさからう、社会の公然の不義の如き、悲しむべき種々の罪を、あまねく償い奉らんと欲す。

 ああかくの如き罪をば、われらの血潮もてことごとく洗い浄めんすべもがな。われら今ここに、主のいと高き御霊威に対する冒辱の償いとして、主がかつて十字架の上にて御父に献げ給い、なお日ごと祭壇の上にて繰り返し給う償いに、童貞なる聖母、諸聖人、およびすべての信心深き信者の償いを合わせて献げ奉り、堅固なる信仰、汚れなき生活、福音の戒め、ことに愛徳の完全なる実行をもって、主の聖寵の助けのもとに、われらおよび全人類の罪と、主の大いなる御慈しみに対する冷淡とを、わが力の及ばん限り償い、全力を尽して、主に対する罪人の冒辱を防ぎ、かつ能う限り多くの人々を、主の御許に呼び集めんと心より約束し奉る。

 いと慈悲深きイエズスよ、願わくは、至聖童貞なる協償者マリアの御取次によりて、われらが進みて献げ奉る償いの約束を受け給いて、われらをして死にいたるまで忠実に主に仕え、天のふるさとにいたる日まで、この決心を固く保たしめ給え。聖父と聖霊と共に世々に生きかつしろしめし給う主なるかな。アーメン。

【ラテン語】
Actus reparationis

IESU dulcissime, cuius effusa in homines caritas, tanta oblivione, negligentia, contemptione, ingratissime rependitur, en nos, ante altaria tua provoluti, tam nefariam hominum socordiam iniuriasque, quibus undique amantissimum Cor tuum afficitur, peculiari honore resarcire contendimus.

Attamen, memores tantae nos quoque indignitatis non expertes aliquando fuisse, indeque vehementissimo dolore commoti, tuam in primis misericordiam nobis imploramus, paratis, voluntaria expiatione compensare flagitia non modo quae ipsi patravimus, sed etiam illorum, qui, longe a salutis via aberrantes, vel te pastorem ducemque sectari detrectant, in sua infidelitate obstinati, vel baptismatis promissa conculcantes, suavissimum tuae legis iugum excusserunt.

Quae deploranda crimina, cum universa expiare contendimus, tum nobis singula resarcienda proponimus: vitae cultusque immodestiam atque turpitudines, tot corruptelae pedicas innocentium animis instructas, dies festos violatos, exsecranda in te tuosque Sanctos iactata maledicta atque in tuum Vicarium ordinemque sacerdotalem convicia irrogata, ipsum denique amoris divini Sacramentum, vel neglectum vel horrendis sacrilegiis profanatum, publica postremo nationum delicta, quae Ecclesiae a te institutae iuribus magisterioque reluctantur.

Quae utinam crimina sanguine ipsi nostro eluere possemus! Interea ad violatum divinum honorem resarciendum, quam Tu olim Patri in Cruce satisfactionem obtulisti quamque quotidie in altaribus renovare pergis, hanc eandem nos tibi praestamus, cum Virginis Matris, omnium Sanctorum, piorum quoque fidelium expiationibus coniunctam, ex animo spondentes, cum praeterita nostra aliorumque peccata ac tanti amoris incuriam firma fide, candidis vitae moribus, perfecta legis evangelicae, caritatis potissimum, observantia, quantum in nobis erit, gratia tua favente, nos esse compensaturos, tum iniurias tibi inferendas pro viribus prohibituros, et quam plurimos potuerimus ad tui sequelam convocaturos.

Excipias, quaesumus, benignissime Iesu, beata Virgine Maria Reparatrice intercedente, voluntarium huius expiationis obsequium nosque in officio tuique servito fidissimos ad mortem usque velis, magno illo perseverantiae munere, continere, ut ad illam tandem patriam perveniamus omnes, ubi Tu cum Patre et Spiritu Sancto vivis et regnas in saecula saeculorum. Amen.

【英語】
Act of Reparation to the Sacred Heart of Jesus

O sweet Jesus, whose overflowing charity for men is requited by so much forgetfulness, negligence and contempt, behold us prostrate before Thy altar eager to repair by a special act of homage the cruel indifference and injuries, to which Thy loving Heart is everywhere subject.

Mindful alas! that we ourselves have had a share in such great indignities, which we now deplore from the depths of our hearts, we humbly ask Thy pardon and declare our readiness to atone by voluntary expiation not only for our own personal offenses, but also for the sins of those, who straying far from the path of salvation, refuse in their obstinate infidelity to follow Thee, their Shepherd and Leader, or, renouncing the vows of their baptism, have cast off the sweet yoke of Thy law.

We are now resolved to expiate each and every deplorable outrage committed against Thee; we are determined to make amends for the manifold offenses against Christian modesty in unbecoming dress and behavior, for all the foul seductions laid to ensnare the feet of the innocent, for the frequent violation of Sundays and holidays, and the shocking blasphemies uttered against Thee and Thy Saints. We wish also to make amends for the insults to which Thy Vicar on earth and Thy priests are subjected, for the profanation, by conscious neglect or terrible acts of sacrilege, of the very Sacrament of Thy divine love; and lastly for the public crimes of nations who resist the rights and the teaching authority of the Church which Thou hast founded.

Would, O divine Jesus, we were able to wash away such abominations with our blood. We now offer, in reparation for these violations of Thy divine honor, the satisfaction Thou didst once make to Thy eternal Father on the cross and which Thou dost continue to renew daily on our altars; we offer it in union with the acts of atonement of Thy Virgin Mother and all the Saints and of the pious faithful on earth; and we sincerely promise to make reparation, as far as we can with the help of Thy grace, for all neglect of Thy great love and for the sins we and others have committed in the past. Henceforth we will live a life of unwavering faith, of purity of conduct, of perfect observance of the precepts of the gospel and especially that of charity. We promise to the best of our power to prevent others from offending Thee and to bring as many as possible to follow Thee.

O loving Jesus, through the intercession of the Blessed Virgin Mary our model in reparation, deign to receive the voluntary offering we make of this act of expiation; and by the crowning gift of perseverance keep us faithful unto death in our duty and the allegiance we owe to Thee, so that we may all one day come to that happy home, where Thou with the Father and the Holy Ghost livest and reignest God, world without end. Amen.

【参考資料】

司祭のための祈

 永遠の司祭にましますイエズスよ、願わくは主の聖心(みこころ)を御身のしもべなる司祭らの避難所となし給え。かしこにては何人(なにびと)もかれらを害うこと能わず。

 ▲願わくは日々御身の尊き御体に触るる司祭らの手を潔く保ち給え。御身の尊き御血に染まるくちびるを汚れなく護り給え。

 願わくは御身の輝かしき司祭職のいみじき印もて、しるされし司祭の心を清く汚れなく護り給え。御身の尊き愛もてかれらを護り、世の悪習を免れしめ給え。

 願わくは豊かなる御恵みの果実もてかれらの働きを祝し、かれらに委ねられし霊魂は、地上にてはかれらの喜び、慰めとなり、天上にては永遠に輝やけるかれらの冠とならんことを。アーメン。

O Jesus, Eternal Priest, keep all Thy priests within the shelter of Thy Sacred Heart, where none may harm them.

Keep unstained their anointed hands which daily touch Thy Sacred Body. Keep unsullied their lips purpled with Thy Precious Blood.

Keep pure and unearthly their hearts sealed with the sublime marks of Thy glorious priesthood. Let Thy holy love surround them and shield them from the world's contagion.

Bless their labors with abundant fruit, and may the souls to whom they have ministered, be here below, their joy and consolation and in Heaven their beautiful and everlasting crown. Amen


============
ブログランキング <= クリックで応援して下さい。
兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============

聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会
教皇グレゴリオ16世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ9世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ9世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇レオ13世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇聖ピオ10世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ』1907年9月8日
教皇聖ピオ10世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ10世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務』1910年8月25日
教皇聖ピオ10世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ11世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ11世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日

宗教的寛容についての結論

2007年06月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
■ 宗教的寛容のつづきです。

宗教的寛容についての結論:


1- 誤った信教の黙認が国家の義務となるのは、ことがら自体の本性においても、一般的な意味においてでもなく、あくまでも偶然的に、また特殊な状況においてです。

 レオ十三世が『リベルタス』(PIN 221)と『エ・ジウント』(PIN 234)およびシャルル・ペラン紙への書簡で用い、ピオ十二世が『チ・リエーシェ』(PIN 3040)の中で「特殊な状況」ないしは「一定の状況」という言葉づかいで引き継いでいる、この「特定の状況」という表現を念頭に置いておかなければなりません。

 レオ十三世(『ロンジンクァ・オチェアニ』)とピオ十二世(1955年9月7日の第二回歴史科学国際大会への訓話)とは共に、いわゆるこの「特定の状況」というものが、カトリック教国の棄教のために一般的状況になる傾向にあることを良く見て取っていました。それにもかかわらず両教皇はこの「特殊な状況」という表現をそのまま保ちました。何故なら、原則において、また教会の教理のレベルでは、黙認の義務はことがら自体の本性上、あくまで偶然的かつ例外的なものに留まるからであり、これは筆者が先に諸々の形而上学的理由、従って恒久的理由を挙げて示した通りです。

2- 誤った宗教を黙認することは、当の宗教の信奉者に権利を与えることでは断じてないというこの教理を、 レオ十三世(『ロンジンクァ・オチェアニ』)とピオ十二世(1955年9月7日の第二回歴史科学国際大会への訓話)とはっきり教え、恒久的原理によってその根拠を示しています。

「正義の永遠の法に反する権利など一切有り得ないのです。」
(レオ十三世 シャルル・ペラン氏宛の書簡 1875年2月1日付き PIN 3010-3011)

「真理および道徳的法に相応しない事柄は、客観的な見地から言えば、存在し、喧伝および活動を行なういかなる権利も持っていません。」
(回勅『チ・リエーシェ』Documents 1953 p.616 / PIN 3041)

3- このように見てくると、"誤った信教に対する寛容が、一方では原則的に国家の義務であり、他方ではこれらの宗教の信奉者が有する権利だ"とする論説、あるいは"国家が原則的に、これこれの区別なく宗教に行動の自由を認めるべきだ"とする、より一般的な論説―――この論説は先の論説を包含するものです―――に、どのような判断を下すべきかは、自ずから明らかとなります。これらの論説は、寛容に関する教導権の教え―――この教えは神学上、カトリック教理と見なされるべきものです―――に真っ向から反するものです。


============
ブログランキング <= クリックで応援して下さい。
兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============

■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?
■ 本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。
■ 19世紀の教皇たちはこぞって、いわゆる「良心と諸信教の自由」を排斥した
■ 諸教皇は、何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?
■ 信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁
■ 真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか
■ 宗教無差別主義について確認しておくべき点
■ 信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?
■ 聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)
■ 世俗の共通善、カトリック宗教とその他の諸宗教
■ 真の宗教に対して国家が取るべき奉仕の役割
■ 教会と国家との関係
■ 宗教的寛容

宗教的寛容 :ルフェーブル大司教様の『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』より

2007年06月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 ルフェーブル大司教様の『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』のつづきを紹介します。

■ 宗教的寛容

 私たちは前章において、寛容一般に関する哲学的原理を説明し、この章で宗教的寛容に関する神学的原理を述べることもできました。ここでは私たちは寛容一般に関すること(哲学的原理)および個別に宗教的寛容に関すること(神学的原理)を全てひとまとめにすることを選びました。さらに「寛容」に関する神学的教理が十全な形で、すなわち教会が「正常」な状態と見なすところ―――カトリック社会ならびにカトリック国家―――に基づいて解説されます。かかる教理が宗教的多元主義もしくは非カトリックの国々においては実際適応し得ないとしても、これがカトリックの教理であることには変わりありません。
 ここで問題とするのは、悪(道徳的悪ないしは宗教的悪)に対する寛容です。
 これに関して、三つの具体的なケースが考えられます。

―――往々にして、寛容は物事の自然なあり方が求めるところのことです。
―――時として、悪に寛容を示してはなりません。
―――時として、逆に悪に寛容を示さなければならない場合があります。

- 物事の自然のあり方としての寛容
 個人の、また社会および教会の善に相反することから、悪は決して寛容の対象と名手はならないようにも思われます。
 しかしながら、悪を常に、あるいは少なくともそれが可能であるごとに阻止するのを望むことは天主による統治の計画に対立することとなり、また自らの生活を到底耐えがたいものとしてしまいます。
 このため、非常にしばしば、寛容は物事の自然本性が求めるところのものなのです。
 しかし、悪に対して寛容の態度を取ることは、決してこれを承認すると言うことを意味しないということを補足しておかなければなりません。
「御摂理において、天主ご自身も、限りなく慈悲かつ全能でありながら、世界中である種の悪が存在することをお許しになります。これは、或いはより大いなる善を妨げないため、或いはまたより大いなる悪が生じるのを妨げるためです。全ての個別的な悪を妨げることのおよそできない人間的権威は、天主の御摂理が正統に(悪を罰することによって)報復をなすべく及ぶところの数多くの事柄を許容し、罰さずにお金がならないのです。」
(聖アウグスティノ『自由決定能力論』第一巻第六章)

「しかしもし、このような状況において共通善のために(そしてこれのみが唯一の正当な理由付けとなりますが)人間の法が悪を容認することができ、またそうするべきであるとしても、それは[当の]悪をそれ自体として認め、あるいは望むことはできず、またそうすべきではありません。なぜなら悪はそれ自体として、善の欠如であり、あらゆる立法者が望み、力の及ぶかぎり保護すべき共通善に対立するものだからです。[ですから]、この点において人間の法は天主を模倣しなければなりません。聖トマス・アクィナスの教えるところに従えば、悪が世界に存在することをお許しになる際に、天主は『悪が為されることを望まれず、さりとてその悪が為されないことも望まれず、ただそれが為されることを許すことをお望みになるのであり、そしてこのことは善いことである。』この天使的博士の表現は、悪の容認についての教理の全体を簡潔なかたちで含んでいます。」
(レオ十三世 回勅『リベルタス・プレスタンティッシムム』 PIN 220)

 同様に、ピオ十二世も「悪を積極的なかたちで抑圧することは、常に義務となるわけではない」か否かの問題に対して次のような回答を与えています。

「先に私はまず、天主の権威を引き合いに出しました。天主にとって誤謬ならびに道徳的逸脱を抑圧することは可能かつ容易であるのですが、その天主は或る場合においてかかる悪を自らの限りない完全さと矛盾しない形で『阻止しない』ことをお選びになることができるでしょうか。一定の状況において、天主が、人々にいかなる戒律をお与えず、いかなる義務を課さず、偽りのこと、誤ったことを阻止・抑制するためのいかなる権利も与えない、ということがあり得るでしょうか。現実に目を注いでいるならば、肯定的な回答を出して差し支えないということが分かります。現実は、世界において誤謬と罪とが甚だ多く見受けられることを示しているからです。天主はこれらを排斥します。しかしそれらが存在することをお許しになります。ここから次のように結論することができます。『宗教的および道徳的誤謬は、それが可能な時、常に抑圧されねばならない。これに対して寛容を示すことは、それ自体で不道徳な事柄だからである』という命題は、絶対かつ無条件な意味では妥当しえません。他方、人間的な権威に対しても、天主はこのような絶対的・普遍的な戒律を信仰の領域においても、道徳の領域においても、お与えになりませんでした。そのようなことは、人々の共通の理解においても、キリスト教的良心においても、啓示の源泉にあいても、また公教会の実践においても見いだすことができません。ここでは、当の議論を裏打ちする聖書中の他のくだりは省略して、キリスト御自身が聖福音の中で述べておられることを思い出すに止めましょう。主は毒麦のたとえ話で、次の訓戒をお与えになったのでした。『いや、毒麦をぬき集めようとして、よい麦もいっしょに抜くおそれがある。双方とも収穫の時まで、育つにまかせておけ。この世という畑においては、良い麦のために、毒麦も良い麦と共に育つに任せておけ。』従って、道徳的および宗教的逸脱を抑圧する義務は、究極の行動規範たり得ないのです。」
(ピオ十二世 教書『チ・リエーシェ』 PIN 3040)

 この最後の一文を通して教皇は、悪を抑圧する義務は、善一般ならびに社会の共通善の増進・保存という、より上位の原理に従属するものであるということをいわんとしているのです。後に示すように、この原理こそが寛容の正当性の根拠たり得るのです。

- 不寛容(ないしは抑圧)の義務

(a)  寛容と抑圧、この二つのどちらが優勢を占めるべきでしょうか。先に述べたことから、悪を抑圧する義務は一般的な仕方でかされることではなく、かえってただ一定の状況においてのみ適応するということが帰結します。
 他方、後ほど詳述するように、寛容の義務もまた、一定の状況においてのみ適応します。すると、抑圧の原理と寛容の原理とは、原理の序列において同等の地位を占めるということになるのでしょうか?
 形而上学から導き出される次の詳細な補足説明が示す通り、実際には全くそうではありません。
 道徳的な悪(もしくは誤謬)に直面した場合、(この悪というものの持つ特性に鑑みて)、本来(=ここでは「それ自体においては」という意味で、対応処置から生じてくる影響・結果などを取捨し、ただ純然に「悪」ということ)取られるべき態度は抑圧―――たとえこれが一般的義務でもなく、至高の原理でもないとしても―――であり、他方で寛容は、これが義務として求められるのは、偶然的な仕方(per accidens)においてのみです。この理由は簡単です。悪はそれ自体として常に悪、つまり或る特定の善の欠如であり、従って、欲求の対象ではなく、かえって逃避の対象或いはもし可能であれば抑圧の対象となります。また悪が「より小さな悪」となり、この意味において一つの善となるのは、ただ偶然的にでしかありません。従ってこの場合、当の悪は寛容によってこれを許容することによって回避しようとする、より甚だしい悪に比す限りにおいて善であるに過ぎないからです。従って、かかる悪が欲求の対象ではないにしても、少なくとも寛容の対象となるのは偶然的なことでしかありません。

(b) 抑圧の義務を課する状況
 どのような場合に、またいかなる権威をもって悪は抑圧されねばならないのでしょうか。
―――家庭においては、子供たちに真理を知らしめ、諸々の徳を獲得させることが関係してくるたびごとに、悪の抑圧が両親にとって、子供の教育上の義務となります。しかしながら、思春期の子供の場合、教育が良い結果を生むためには、これが自由の修練となる(=選択肢として提起されること)必要があり、しかるにこれはその性質上、抑圧よりも自己習得への呼びかけを促します。
―――教会においては、信徒の信仰ないしは聖寵の命が危険にさらされるたびごとに、不寛容の態度を取ることが義務になります。
―――最後に、世俗的社会においては、道徳的悪の抑圧が国家の義務となるのは、それによって国家がより良く共通善を保証できる場合です。また国家は、保証すべき共通善のため、あるいは教会に対する奉仕的役割のために、それぞれ国家の善、ないしは教会および人々の霊魂の善益を促進するために、宗教に関する誤謬を抑圧することが義務となります。

-寛容の義務、特に宗教的寛容

(a)原則:
 国家は寛容がより大きな善の促進に役立ちうる場合、常に悪または誤謬を許容することができ、またそうしなければなりません。
「従って、道徳的ならびに宗教的逸脱を抑圧する義務は、究極の行動規範たり得ないのです。この義務はより大いなる善を促進するために、より上位でより一般的な規範、一定の状況の下では誤謬を阻止しないことを許容し、かつそうすることがよりよい選択肢であるように思われさえするところの規範に従属されねばなりません。」
(ピオ十二世 教書『チ・リエーシェ』 PIN 3040)

(b)寛容を適用する権威:
 世俗的法律によって寛容政策を適応するのは国家ですが、「しかし宗教的および道徳的領域に関することがらについては、国家は教会の判断をも求めます」。該当国民における真の信仰の保護、さらには公教会の善益もが関わってくるため、教会はこの種の施策に第一に関係するからです。(ピオ十二世 教書『チ・リエーシェ』 PIN 3042参照)

(c)寛容を正当化する状況:
 寛容が正当化されるのは、これによって教会ないしは世俗的社会における、より大きな善を促進することができるか、あるいはまた、より大きな悪を避けることができるという場合です。
「教会は、種々に異なった信教を真の宗教と同等の法的地位に置くことは許されないと判断するとしても、このために、より大きな善を実現するため、あるいはより大きな悪を阻止するために、実践上これら種々の信教が国家社会において一定の位置を占めることを許す国家元首を弾劾することはありません。」
(レオ十三世 回勅『インモルターレ・デイ』 PIN 154)

「しかるに、教会は真に母親のような分別をもって、人間の弱さに由来する大きな重荷を推し量り、そして人々の心と行動とが今日において流されている方向をよく把握しています。このため、教会は真実で誠実なことがらの他はいかなるものにも一切の権利を認めないとは言え、公的な権威が真理と正義にもとることがらを、あるいはより大きな害悪を避けるため、あるいは[当の悪よりも]より大きな善を獲得し、保全するために容認することを禁じません。」
(レオ十三世 回勅『リベルタス・プレスタンティッシムム』 PIN 219)

「従って、道徳的ならびに宗教的逸脱を抑圧する義務は、究極の行動規範たり得ないのです。この義務はより大いなる善を促進するために、より上位でより一般的な規範、一定の状況の下では誤謬を阻止しないことを許容し、かつそうすることがよりよい選択肢であるように思われさえするところの規範に従属されねばなりません。」
(ピオ十二世 教書『チ・リエーシェ』 PIN 3040)

 具体的には、避けるべき「より大きな悪」もしくは促進すべき「より大きな善」の例として次のようなことを挙げることができます。

◆ より大きな悪:
 正道に沿おうとしない者たちに加えられる迫害を目の当たりにして、義人が躓きを受けること。内線。誤った道にある者らが真の信仰に立ち返る妨げになること。(注意:これらの不都合は、いつも全て或いは同時に生じるわけではありません。)

◆ より大きな善:
 異なった宗教に属する市民の世俗的なことがらに関する協力、ならびに平和的な共存。(無論、これらが現実可能であるならば、という条件の下でのことです。またこの二つはあくまで相対的な善、すなわち国家における宗教上での完全な統一と市民社会における不和という両極の中間に位置する状態といえます。)教会が自らの超自然的使命を成就するに当たっての、より大きな自由(これは国家の介入がなければ、より効果的な働きができると教会が判断する、特殊な状況でのことです。「特殊な状況」と付言する理由は、本来、教会は国家の支持を受ける権利を有し、またこの支持は教会にとって有益であるからです。それゆえ国家の介入が教会の使命の完遂に障害となるのは、あくまでも偶然的なことです。)

(d)寛容の義務の限度:
 寛容は善よりも多くの悪を生み出す場合、その存在理由を失います。
「しかし、この問題を正しく捉えるために、私たちは次のことを確認しておかなければなりません。すなわち、ある国家が悪を容認する必要に駆られる程度にしたがって、当の国家はそれだけ完全な状態から遠ざかっているということ、そしてまた、政治的賢明さという観点から求められる悪の容認は、それを正当化する公共の福祉という目的が要請する程度までに厳しく制限されねばならないということです。したがって、もしこのような[悪の]容認が公共の福祉にとって有害となり、また国家にとってのより大きな悪を伴う場合、それは合法的なものではありません。そのような場合、[より大きな] 善のためという動機付けが欠けているからです。」
(レオ十三世 回勅『リベルタス・プレスタンティッシムム』 PIN 221)

 寛容はまた、一時的に良いものであった後に悪いものになることがあります。
「また、昨今の尋常ならざる状況において教会がある種の現代的な自由をふつう認めているとは言っても、それはそういった自由をそれ自体として良しとしているからではなく、[ただ] 便宜上それらを容認することが適当だと判断するからであり、もっと良い時勢には自ら自身の自由を行使してきたのです。ですから、そのような時には説得ならびに勧告、そよび嘆願とにより、人類の永遠の救いを供給するという天主から託された、義務としての使命を果たすべく努めるのです。」
(レオ十三世 回勅『リベルタス・プレスタンティッシムム』 PIN 221)

 もし私的な寛容で事足りるならば、公的な寛容、ましてや道徳的悪ないしは宗教的誤謬を助長する宣伝活動(プロパガンダ)の自由を与える余地はなくなります。たとえば個人的行動領域(for externe privé)として限定された寛容の例としては、スペイン市民の権利と義務に関する基本憲章(Fuero de los Españoles)の第六条が挙げられます。(これらの条項は第二バチカン公会議の教義憲章『信教の自由に関する宣言』の適用によって廃止されるまで有効な法律でした。)
「スペイン国家の宗教であるカトリック教の信仰表明ならびに実践は、公の保護を享受する。」
「何人も自らの宗教的信条の故に、あるいは自らが奉ずる信教の私的な実践において干渉されてはならない。」
「国家の宗教以外の儀式および外的表明行事は許されない。」

(e)寛容に対する権利なるものは存在しない:
 寛容が義務となる場合、それはあくまでも共通善実現を見こした政治的賢慮の義務、および宗教上の正道からはずれた者たちに対する愛徳の義務としてであり、道を誤った者らに対する正義の義務では決してありません。
「政治的賢明さという観点から求められる悪の容認は、・・・厳しく制限されねばならないということです。」
(レオ十三世、回勅「リベルタス」)
「真の信仰の保全においては、キリスト教的愛徳ならびに賢慮の徳との求めるところにしたがってことを進めねばなりません。すなわち、一方では逆らう者たちが恐れのために教会から遠ざかることなく、かえってこれに惹きつけられるように、また他方で、国家社会と教会のどちらも一切損害を被らないように配慮する必要があるということです。従って、教会の共通善と国家の共通善とを常に念頭に置かなければなりません。」
(第二バチカン公会議草案)

 寛容の義務は―――かかる義務が存在する場合―――、正道を誤った者たちに対する正義(配分的正義)の義務ではないという点を再度強調しておかなければなりません。「賢慮の正義」と「愛徳の正義」とを区別する必要があります。従って、寛容の義務は寛容の対象となるところの人々において寛容を享受するいかなる権利の基盤とも成り得ません。権利というものは、他者の側における正義の義務を含意するからです。実際、寛容を被る権利とは、明らかに荒唐無稽なものです。そのような権利は、誤謬に固執するのを妨げられない権利、先に示したようにおよそ不合理な「権利」に等しいからです。既に指摘した通り、誤謬ならびに道徳的悪、またこれらに対する固執は、積極的であろうと消極的であろうとの別を問わず、いかなる権利をも有しません。以下に、この問題に対するレオ十三世教皇の極めて明快な文章を引用します。

「真の原則を解説・説明するに当たっての、あなたの正直さと率直さは称賛に値すると私は判断しました。これらの原則に則して、あなたは世俗的法制において当の原則に離反するものを弾劾し、またこれらの原則に則してあなたは、どのような意味でもし状況がそれを必要とする場合、規則に反することがらを黙認しうるかということを教えています。(あなたが教えているように)それらのことがらが黙認されるのは、それらがより大きな悪を避けるために採択される場合であり、またこの際、それらのことがらは権利の尊厳にまで高められてはなりません。正義の永遠の法に反する権利など一切有り得ないからです。願わくはこれらの真理が、良心の自由、信教の自由、報道の自由およびその他、前世紀末に革命家らによって宣布され、教会のたゆまぬ排斥の対象となってきた種々の自由に頑なに固執しつつあえてカトリックを自称する者らに理解されますように。また、かかる真理が、これらの『自由』に寛容を施される対象となりうる(=寛容の精神に基づいて黙認されうる)ものとしてばかりでなく、これらを権利として見なし、現代の社会状況ならびに進歩の歩みに必要なものとして助長・保護すべきものとして支持する者たちによっても理解されるますように。このような見解を取る彼らは、あたかも真の宗教に悖るもの全て、人間に自律(autonomie)を与えて天主の権威から解き放つところのもの全てが、またあらゆる誤謬ならびに風紀道徳の腐敗へと広く道を開くところのもの全てが諸々の民に繁栄と進歩、栄光を与えることができるかのように振る舞うのです。」
(レオ十三世 シャルル・ペラン氏宛の書簡 1875年2月1日付き PIN 3010-3011)

(f)宗教的寛容の立法上の表現:
 法律上の文書が根本的に道徳的かつ神学的な区別である、真の宗教が持つ公の権利と、国家により他の宗教に、場合によって付与される寛容との間の区別を表現しうるでしょうか。またもし可能だとすれば、どのようにこの区別を表現できるでしょうか。
 この二つの問いは、種々の憲法の文面、またピオ十一世教皇の文書にその回答を見いだすことができます。

● スペイン市民の権利と義務に関する基本憲章(Fuero de los Españoles)の第六条(この条項は第二バチカン公会議当時は有効な法律でした。)
「スペイン国家の宗教であるカトリック教の信仰表明ならびに実践は、公の保護を享受する。」
「何人も自らの宗教的信条の故に、あるいは自らが奉ずる信教の私的な実践において干渉されてはならない。」
「国家の宗教以外の儀式および外的表明行事は許されない。」

● 1848年3月4日に発布されたイタリア国憲法
 同憲法第一条において、カトリック教がイタリア国家の唯一の宗教と見なされ、他の宗教はただ容認されるに留まることが明言されています。

● 1929年6月24日発布のイタリア国法
「正当にも国家の宗教であるカトリック教に特別な法的立場が与えられている以上、いかなる現代国家も否定し得ない良心の自由の原則を尊重して、教理上、或いは祭儀上、公の秩序と風紀良俗に反さない限りでの、あらゆる信教の自由な活動を承諾せねばならない。」
(これはオッタヴィアーニ枢機卿によって書かれた著書 Institutiones juris publici ecclesiastici, Tomus II, P. 71 の中で引用されている文書。しかるにこの文書が法律自体のものであるのか、或いは公認の解説文であるのかは不明。)

● ピオ十一世の文書
「『黙認・許容・容認される』ところの諸宗教:言葉上の問題を提起するのは、この私ではありません。そもそもこの問題は、すでに『法令条文』と『順善に立法上の文書』との区別によって解決済みです。前者は、それ自体で見ると、より理論的かつ教理的であり、『黙認される』という言葉がより適しています。後者は実践を目ざしており、ここでは『許容・容認される』という言葉をそのまま残しておくことができます。ただし、これはその意味をしかるべく了解しての上です。すなわち、カトリック教が、またこれのみが、憲法および諸々の条約に従って国家の宗教である、という事実が、かかる憲法上の権利から導き出される論理的ならびに法律上帰結―――とりわけ布教の問題に関して―――がしかるべく了解され、またカトリック教が単にただ許容・容認されるところの宗教ではなく、かえって政教条約の文字と精神とが示す通りの存在であることが、これに劣らず明白にしかるべく了解された上でのことです。」
(ローマ聖座とイタリア王国との間で取り交わされた政教条約についてのピエトロ・ガスパリ枢機卿宛の書簡 1929年5月30日付け)

 第三番目に引用した文書に見られる「良心の自由の原理を尊重して」という、教会が認めることのできないくだりを除いて、これらの文書は、教会による様々に異なる評価の対象となりうるニュアンスの違いをそれぞれ含みつつも、真の宗教が持つ公の権利と、国家により他の宗教に、場合によって付与される寛容との間の区別を法律上表していると言えます。


============
ブログランキング <= クリックで応援して下さい。
兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============


プーチンは核でヨーロッパを脅迫した:ロシアは教会と信仰に背を向けてきたヨーロッパを罰するだろう

2007年06月13日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
是非、三上教授の訳された、ファチマ・パースペクティヴズのこの記事をお読み下さい。

プーチンはそれを確証する! ロシアはヨーロッパを罰するであろう国である。

 今週ドイツで開かれる G8 サミットの前夜にロシア大統領ウラディーミル・プーチンは G8 諸国の各国からの一つずつの新聞社と3時間の夕食を伴うインタビューを行った。プーチンはカナダの国を代表する新聞、Globe and Mail において、核弾頭を装備したミサイルでヨーロッパを攻撃目標にするぞと脅迫したとして引用された。

 これは冷戦スタイルのレトリックだけではない。プーチンの脅迫は合衆国との対決を引き起こそうとする彼の意図の大胆な陳述にしかすぎない。合衆国は言うところのキリスト教徒の揺りかごであるヨーロッパにおいて用をなさないものとさせられるであろう。・・・

 事実はヨーロッパが軍事的に弱いということである。ヨーロッパは1946年以来その真の防衛のために合衆国に依存してきた。そしてヨーロッパは道徳的に弱い。ヨーロッパは教会と信仰に背を向けてきた。その代わりにヨーロッパはセックス、薬物、そして現代世界のあらゆる快楽主義的な諸々の快楽に心を奪われている。

 もう一度プーチン氏は彼の諸々の意図を非常に明瞭にさせた。ロシアはソビエト社会主義連邦共和国のかつての諸国 - 例えばバルト海諸国やウクライナ - を再び侵略し、そして次にポーランド、チェコ共和国、ハンガリー、ルーマニア等々へと戻って来ようとしている。

 これらの国々はそのときフランス、ドイツ及びイギリスに彼らを防衛するよう助けを求めるであろう。なぜなら、それらの国々はヨーロッパ連合の一部だからである。そしてヨーロッパ諸国は彼ら自身の側でロシアに対して立ち上がるにはあまりにも弱すぎるので、合衆国に助けを求めるであろう。そしてそこであなたは、あなたの近くに戦争の現場へと近づく第三次世界大戦を持つことになる!

 しかしこの通りである必要はない。今日の映画製作者たちが「二者のうちどちらか一つを選ぶ終り」と呼ぶものが存在する。ロシアの奉献をお求めになるファチマの聖母の要求がもし聞き入れられるならば、ロシアは懲罰の道具とはならずに、退廃的なヨーロッパを救う神の手段となるであろう。

 聖ヨハネ・ボスコはこのことを預言した。彼はフランスを侵略するロシアの幻視を見た。そうであった通りに、それは黒い旗を持っていた。ロシアがフランスにいた間に旗は白に変わった。そしてロシアはフランスを防衛するために西ヨーロッパにとどまった。

 それはすべてつまるところこうなる。もしカトリック教会が聖母に耳を傾けようとしないならば、われわれはヨーロッパの血にまみれた侵略を見るであろう。ウラディーミル・プーチンはこのことをわれわれに約束しているのである!

 しかし もし教皇が司教たちと一致して、聖母の汚れなき御心にロシアを公的かつ荘厳に奉献なさるならば、ロシアは回心し、そしてその旗は黒から白へと変えられるであろう。ロシアはキリスト教世界を救うためにとどまるであろう。しかしそれはただロシアが祝せられたおとめマリアの功績を通じて回心するときにのみそうなのである。


【参考資料】
 この情報を下さったゼン・トマスさんに感謝します。

【正論】田久保忠衛 国際政治の潮流に逆らう露
 ・・・ 三井物産、三菱商事、ロイヤル・ダッチ・シェル3社が進めていた石油・天然ガス開発事業の「サハリン2」に突然ロシア政府が介入し、ロシア政府系の天然ガス独占企業体のガスプロムに経営権を持っていかれた事件、歯舞諸島海域で日本の漁船がロシアの国境警備艇に拿捕(だほ)され、その際、銃撃を受けた漁民1人が殺された事件、つい最近ではカムチャツカ半島沖のベーリング海で富山県の漁船が拿捕される事件があった。いずれも弱い相手に遠慮会釈なく力を行使するロシア国家の体質がむき出しになっている。

 仮借のない力の信奉者であるロシアに向かって「3島返還」などの媚態(びたい)を示すことがどれだけ無意味であるか。プーチン大統領とラブロフ外相の言動は改めて日本国民に冷水を浴びせる効果があったのではなかろうか。・・・

 ≪スターリン主義の残滓≫

 国内の言論弾圧のすさまじさはポリトコフスカヤ女史の暗殺だけをとってみても明白だろう。プーチン大統領就任の2000年以来少なくとも14人のジャーナリストが反体制記事を書いたが故に暗殺されている。このうち1件も事件の解明はなされていない事実は何を物語っているだろうか。言論、集会、結社の自由が次第に奪われていく社会にあってプーチン大統領の人気が上昇しているところに異常を感じる。北方四島の返還はロシア国民の反対が多いというが、独立系の世論調査を行っている国際社会学研究センターの2年前の調査では四島返還支持が51%、反対が24%という結果がでている。・・・

 北方領土問題は故エリツィン大統領がいみじくも述べたようにスターリン主義の残滓(ざんし)だろう。国際政治の潮流がどのような動きを始めたかにはプーチン政権も気がついていないはずはない。それを無視し、大胆不敵にもラブロフ外相が微妙な時期に北方四島を訪れる行動は奇怪である。国際世論に中国は敏感に反応し、外務省高官をハルツームに派遣するなどの動きを始めている。「法と正義」をうたった「東京宣言」を平気で無視するロシアはどこへ向かうのか。・・・

■ Putin in nuclear threat against Europe
(プーチン、ヨーロッパに核の脅しをかける)

President Vladimir Putin has sent a chilling message to world leaders on the eve of the G8 summit with a threat to aim Russian nuclear missiles at European cities for the first time since the Cold War.

プーチン大統領はG8サミット前夜、冷戦以来初めてのヨーロッパの都市にをロシアの核ミサイルで狙うという脅しと共に、背筋も凍るようなメッセージを世界の指導者達に送り出した。


============
ブログランキング <= クリックで応援して下さい。
兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============


*****

聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会
教皇グレゴリオ16世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ9世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ9世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇レオ13世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇聖ピオ10世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ』1907年9月8日
教皇聖ピオ10世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ10世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務』1910年8月25日
教皇聖ピオ10世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ11世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ11世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日

コロラド大学のネイシ・モカン教授らによると「死刑は犯罪抑止に効果あり」

2007年06月13日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 報道によると「死刑は犯罪抑止に効果あり~各種調査が証明」とのことです。

 AP通信によると、コロラド大学のネイシ・モカン教授(経済学)らが2003年にデータを分析し、06年に同じ調査を見直した結果、死刑を1件執行するごとに殺人が5人減り、逆に死刑を1回減刑するごとに殺人が5件増えることが分かった。

 01年以降、死刑の犯罪抑止効果について数十件の研究が行われているが、いずれも死刑には犯罪抑止効果があると結論している。・・・

 主な調査結果は次の通り。
1)エモリー大学が03年に行った調査では、死刑が1件執行されると平均18件の殺人が防止できる(ほかに防止件数を3件、5件、14件とする研究もある)。
2)00年にイリノイ州が死刑執行を停止して以来、4年間で殺人が150件増加した(ヒューストン大学調べ)。
3) 死刑を迅速に執行するほど犯罪抑制効果は高い。死刑囚が監房で過ごす期間が2.75年短縮されるごとに殺人が1件防止できる(04年、エモリー大学調べ)。

 05年の殺人件数は全米で1万6692件。死刑執行件数は60件だった。

Studies Say Death Penalty Deters Crime
By ROBERT TANNER AP National Writer

"Science does really draw a conclusion. It did. There is no question about it," said Naci Mocan, an economics professor at the University of Colorado at Denver. "The conclusion is there is a deterrent effect." ...

Among the conclusions:

- Each execution deters an average of 18 murders, according to a 2003 nationwide study by professors at Emory University. (Other studies have estimated the deterred murders per execution at three, five and 14).

- The Illinois moratorium on executions in 2000 led to 150 additional homicides over four years following, according to a 2006 study by professors at the University of Houston.

- Speeding up executions would strengthen the deterrent effect. For every 2.75 years cut from time spent on death row, one murder would be prevented, according to a 2004 study by an Emory University professor.

In 2005, there were 16,692 cases of murder and nonnegligent manslaughter nationally. There were 60 executions. ...

【その他の参考資料】
Death Penalty Deters Murders, Studies Say

============
ブログランキング <= クリックで応援して下さい。
兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============


*****

聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会
教皇グレゴリオ16世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ9世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ9世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇レオ13世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇聖ピオ10世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ』1907年9月8日
教皇聖ピオ10世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ10世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務』1910年8月25日
教皇聖ピオ10世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ11世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ11世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日


カトリックの教えによると、教会と国家との関係はいかにあるべきか

2007年06月09日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 ルフェーブル大司教様の『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』のつづきを紹介します。

■ 教会と国家との関係

 共通善の奉仕と教会の奉仕とのため、宗教に関する国家の役割に関する教会の教えを見たあとで、今からこの二つの社会、つまり霊的社会である教会とこの世の社会である国家との関係体系はどのようなものを教会が正常のものであると考えているかを考察しなければなりません。

 さて教会と国家との関係についてカトリックの教えが、不可変のカトリック原理と共に存在します。不可変のカトリック原理についてはその適応と区別しなければなりません。何故なら、適応については、完全に或いはほとんどの国民がカトリックの国、カトリックと共に他の宗教も優勢な国、異教の国、無神論の国など、諸々の国々の具体的な宗教的状況によってそれぞれ別の適応がなされなければならないからです。

-霊的かつ超自然的善を司る教会、ならびに現世的共通善を司る国家は、互いから全く区別される二つの完全な社会です。両者は共に、自らに属する領域においては専一的な権限を有します(権力の区別)が、国家の教会に対する間接的な従属関係、およびかかる関係の含意する一切の事柄は保たれます。
(レオ十三世 回勅『インモルターレ・デイ』PIN 136 / 『リベルタス・プレスタンティッシムム』 PIN 200 / 『サピエンツィエ・クリスティアーネ』 PIN 283 参照)

-これらの二つの社会の区別は、両者の分離と同義ではありません。往々にして、両者は同一の臣民(キリスト信徒かつ市民)を持ち、同一の事柄(教育、婚姻など)を取り扱うからです。従って、教会と国家との一致、すなわち両者の「相互的和合」および「活動における賛同」は甚だ望ましいものです。

「しかしより重要なことは、その他のところで何度も繰り返して思い出させるようにしたことであるが、市民権力と聖なる権力とは同じ目的をもたず、また両者とも同じ道筋を歩くわけではないけれども、その役割を果たす際には時にして互いに接するようにしなければならない、ということである。実に、両権力は、たとえ違った観点からであるとしても、同じ市民たちにその権力を行使することは一度ならずある。この競合において葛藤があることは、愚かなことであり、天主の勧めの無限の智慧に広く反している。従って、必ずや争いと闘争の原因を消滅させ、実際上の和合を確立させる手段・過程がなければならない。この和合を、霊魂と肉体との間に存在する一致と比較したのは正しい理由がある。そしてこの和合は、両者の最高の善のためである。何故なら、肉体において霊魂と分離するのは特に災いであるからである。何故ならそれは肉体から命を奪うからである。」
(レオ十三世、回勅『リベルタス・プレスタンティッシムム』Actus II, p. 193. / PIN 200)

「従って、教会と国家というこの二つの勢力の間に、人間において霊魂と身体との間に存するものにも似た、秩序付けられた関係があるのでなければなりません。」
(レオ十三世、回勅『インモルターレ・デイ』Actus II, p.27 / PIN 137)

「自然法について、あなたたちの憲法が、アイルランドの全市民に秩序と平穏との守られる限りにおいて保証し、確証するところの、これら根本的人権は、秩序の転覆を謀る無神論者の勢力、ならびに全体の一致を破る派閥および暴力の精神に対する最も十全かつ確実な保証を、ただ教会と国家という二つの権威間の相互の信頼にのみ見いだすことができます。この両者は、自らに固有な領域においては自立を保つとしても、共通善のために互いに結ばれており、信仰ならびにカトリック教義の原則という基盤に立脚した信頼関係を育むよう召されています。」
(ピオ十二世、アイルランド首相への訓話、1957年10月4日 Documents 1957, p. 566. / 1271)

-「教会と国家との一致」は、カトリック教が国家の宗教として見なされるということを意味しています。教会はかかる体制を正常な状態と見なします。(しかるに、教会と国家との一致は、限定された状況において、賢明な寛容が、他の宗教に施されるということを妨げるものではありません。)

「敬愛すべき兄弟らよ、・・・あなたたちは1851年に私とイエズス・キリストにおける、いとも大切な妹、スペイン女王マリア・イサベラとの間で結ばれた協定のことをご存じです。同協定は、この王国において国家の法として批准され、荘厳に発布されました。あなたたちはまた、同協定においてカトリック教の保護のために定められた多くの事柄の他に、他の一切の宗教をさいおいて、スペイン国民の唯一の宗教であり続けるこの至聖なる宗教が、以前のごとく、天主の法と教会の法とに即して浴すべき全ての権利と特権とを伴いつつ、スペイン王国の全領土において保持されるということが万事に先んじて定められたこと、また全ての公立・私立学校における教育がカトリックの教理に完全に一致すべきことが定められたこともご存じです。」
(ピオ十一世、1855年7月26日付けの訓話 Receuil p.350)

 次の命題は、ピオ九世が排斥した命題です。
「我々の生きる時代においては、カトリック教が一切の宗教をさしおいて国家の唯一の宗教であると見なされることは、もはや有益ではない。」
(ピオ九世、『シラブス』第77排斥命題)

「使徒継承のローマ・カトリック教は、国家の宗教である。諸権力はこれを保護し、またこれが社会秩序の枢要的要素として尊重さるるよう取り計らわねばならない。カトリック教会が、官公のものたらず、また将来も決してそうならざること、またこれがその自立を保つべきことは、当然のこととして了解されている。」
「公教育は、カトリック教に準拠して組織され、指導されることとする。」
(上の2つの引用は、カトリック教が圧倒的多数を占めるコロンビア国憲法 第三8条および第41条より。「カトリック教会が、官公のものたらず、また将来も決してそうならざること」という漠然の表現は、説明を要します。1887年に締結され、翌1888年に批准された政教条約では、自らの合法的な指導者によって代表されるところの教会が、法人格として認められる、ということが意味されています。)

「実際、あなたたちの国(=アメリカ合衆国)では、国家の良好な憲法のためにいかなる法の束縛によっても縛られず、慣習法によって侵害行為から守られている教会は・・・何らの障害無しに存続し、行動する自由を確かな形で獲得したのでした。上記のことは全て正確な事実です。しかしながら、ここで一つの誤りに陥らないように注意しなければなりません。すなわち、教会にとっての最良の状態がアメリカにおいてそれが与っているところの状態である、或いはまた教会と国家との利害を分離・分断することが常に許され、かつ有益である、とする誤りです。・・・教会はもしもそれが法律上の優遇と公権の保護とを得るならば、はるかに多くの実りを生み出すでしょう。」
(レオ十三世、回勅『ロンジクァ・アチェアーニ』 Actus IV, p. 163-165)

「歴史家はたとえ教会と国家とが抗争の時期・時代を経たことがあったとしても、コンスタンチノ代邸から近現代に至るまで、往々にして非常に長期にわたる平穏な時代があったことを忘れてはなりません。かかる時期において教会と国家とは完全な相互理解のもとに、同一の人々の訓育に共同で携わったのでした。教会が自らがこの種の協働が正常な事態であり、また真の宗教における人民の一致統合、および教会と国家との行動における一致賛同が理想であると見なすことを隠しません。」
(ピオ十二世、第二回国際史学学会における訓話、1955年9月7日 Documents 1955, p. 293-294)

 ピオ十二世がこの後、次のように話を続けているのは事実です。

「しかし教会はまた、いくらか前から情勢がこれとは逆の方向、すなわち同一の国家共同体における信仰表明ならびに人生観の多様さという方向に流れていることも承知しています。かかる状態においては、カトリック信徒は、大小の差はあれ少数派をなすことになります。アメリカ合衆国において教会がまったく異種の環境においてめざましい発展を遂げ得るという事実の一例が見受けられる―――この種の例は他にもありますが―――ことは歴史上、興味深く、また驚異的でもあると言えましょう。」
(同上)

 しかし、この補足は、教会が「個別な状況」に伴った例外に比して、「正常」かつ「理想」の状態として見なすところに、何らの変化も及ぼしません。現実の状態 が本来あるべき状態 から、ますますかけ離れていこうとも、この本来あるべき状態というものはそのまま変わらず残り続けます。ピオ十二世教皇は単に、かつてキリストが権利上、また事実上統治していた国々の漸進的かつ全般的な世俗化という事実を指摘し、その上で逆説的ながら、キリストがまだ一度も、カトリックの定石的テーゼに即して統治したことのない国の幾つかにおいて、教会が著しく発展を遂げていることに触れています。これらの国々におけるカトリック教会の相対的な成功は―――当の「成功」は20年経った今ではおよそ儚いものに思われますが、それは殊にカトリックへの会衆の劇的な停止が認められる第二バチカン公会議後においてそうです―――カトリックのテーゼを弱めるものではおよそありません。これは旧カトリック教国が、「反教会」勢力、とりわけフリーメーソンと共産主義インターナショナル(コミンテルン)が、共に協力した不断の攻撃のために、宗教上での失墜に陥ってしまったことがカトリックのテーゼを弱めるものではないということと同様です。(『ルフェーブル大司教と検邪聖省』 Itinéraire 誌 第二33号 1979年5月 p. 54-55 参照)

カトリック国家において誤った宗教に対して施される寛容(黙認)についてはレオ十三世の回勅『リベルタス・プレスタンティッシムム』 PIN 220-221、ピオ十二世の回勅『チ・リエーシェ』 PIN 3040-3041 などを参照して下さい。これらの回勅については後に解説します。


-反対に教会は、教会と国家との分離ならびにカトリック教国におけるこれの実践を、常に変わらず排斥・弾劾してきました。事実、

―――教会と国家との分離は、キリストの、しみも汚れもない花嫁である真の宗教を、他の諸々の偽りの宗教と同じ平等な立場におきます。
―――当の分離は、教会を不当にも国家における全ての団体組織に共通の権利しか認めず、こうして決定的に教会の公的権利を侵害することになります。
―――この分離はまた、国家の側における宗教無差別主義―――これはおよそ無神論と等しいものです―――の公の表明に他なりません。しかるに、これはキリストを公に認めるという国家の義務に反した立場を取ることであり、特にカトリック教国における場合では国民の実情に反した立場を取ることになります。
―――最後に、教会と国家との分離は、家庭ならびに個人を宗教無差別主義および無神論へと確実に導きます。(ピオ九世、『シラブス』第79排斥命題参照)

「国家は、全ての宗教のうちで唯一の真の宗教がどれであるか探求し、その一つを他に優って選び、それを特に優遇するべきではなく、公的規律が損害を受けないならば、全ての宗教に法的平等を与えなければならない。・・・国家が現在、これらの原理の上に依っているがために、教会がどれほど不当にも低い地位を受けているかを見るのは容易である。実に、実践がそのような教えに従っているところでは、カトリックの宗教は国家において、全く関係のない諸団体と同等であるかあるいは劣等な立場に置かされている。その時国家はカトリック教会法典をまったく無視する。全ての国々を教えるようにと命令と使命を受けたカトリック教会は、公的な教導をすることを全く禁止されている。市民権力と混合の事柄については、国家元首が恣意的な命令を発し、これらの点において教会の聖なる法律を軽侮する傲慢を見せつけている。かくしてキリスト教信者たちの婚姻に関する裁治権から出て、婚姻の絆・その一性・その恒常性にういて立法し、聖職者の所有物に手を付け、教会に所有権を否定する。つまり、そのような国家は、カトリック教会を完全な社会が有する聖櫃も権利もあたかもないかのように、国家内に存在するその他の似通った単なる団体であるかのように取り扱う。また、カトリック教会が元来権利として持っているもの、正統な行動の権能なども、統治者の譲歩と行為によって従属させられている。」
(レオ十三世、回勅『インモルターレ・デイ』 PIN 143-144)


「あらゆる信教に与えられるこのような自由は・・・人間社会とその創始者である天主との間に、この上なく遺憾で厭うべき分離を生じさせます。この自由は最終的に、国家の宗教無差別主義、ないしはこれと同義である国家の無神論という悲しむべき結果へと至らせます。」
(レオ十三世、回勅『エ・ジュント』 PIN 235)

「教会とこの私に投げ掛けられた陵辱は、かくも重大苛烈なものだったので、私はもはやこれを暗黙に付しておくことができなくなりました。・・・敬愛すべき兄弟らよ、あなたたちはここで私の言うところが、非道を極めカトリック教の廃滅のために企んだかの法律、国家を教会から分離すべくフランスで発布されたばかりのかの法律であることを察されることでしょう。私が最近フランスの司教、聖職者ならびに国民一般に宛てて著した回勅(『ヴェエメンテル』)は、如何にこの法律が忌むべきものであり、天主と教会との権利に反したものであるかを示しています。・・・私はあなたたちの威厳ある会合において、この法律に関する私の判決を荘厳に下します。この法は、いと仁慈にして極みなく偉大なる天主の御稜威を傷つけ、また天主の定められた教会の綱領に反し、また私の、ならびに他の合法的な牧者の権威に敵対であり、教会の財を剥奪し、万民法に悖り、使徒座およびこの私、教皇に敵対し、フランスの司教、聖職者、カトリック信徒にとって極めて有害なものとして、私は当の法律を、地上におけるキリストの位置を占める私の思考の権能によって、排斥し、弾劾します。私はこの法律が教会の永劫不変の諸権利に対して決していかなる価値も有し得ないと言明し宣言します。」
(聖ピオ十世、1906年2月21日訓話、Actus II p. 155-159 / PIN 390-405)

結論
 諸国民の棄教というこの現代世界において一般的となりつつある事態があろうとも、そのことはこの点に関するカトリック教理の恒久不変の価値を抹消しません。すなわち、この教えに従えば、教会と国家の調和的一致こそ正常な状態であり、これはイエズス・キリストが現世的国家において統治しなければならないとするカトリックの教義から必然的に帰結することです。従って次のように問うことができます。

1- 教会と国家との分離を正常な状態とする第二バチカン公会議の宣言は、教導権の所為、真の教義的教えであるのか。

2- 教皇大使を通じて聖座が推し進めた政策は、果たしてカトリック的政策と見なしうるものか。事実、聖座は諸々のカトリック諸国の政府に圧力をかけ、憲法からカトリック教会を国民の宗教ないしは国家の宗教として認める条項を撤廃するように促した。

3- 歴史の流れの方向は、キリストがもはや統治せず、また教会が主を王座から追うことを余儀なくさせていると考えなければならないのか。


============
ブログランキング <= クリックで応援して下さい。
兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============

聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会
教皇グレゴリオ16世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ9世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ9世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇レオ13世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇聖ピオ10世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ』1907年9月8日
教皇聖ピオ10世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ10世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務』1910年8月25日
教皇聖ピオ10世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ11世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ11世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日

今日の道徳的危機に直面するカトリック教会の立場: 現代の道徳の危機はどこに由来するのか?

2007年06月09日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 ルフェーブル大司教様の言葉(1969年)を紹介します。

====引用開始====


 私は、今日の道徳的危機に直面するカトリック教会の立場ということについて話すように頼まれました。皆さんも私と同じくご存じのように、現今の道徳的危機は私の歴史に深く根を張っていると思います。私たちは、キリスト教世界を通して最初の道徳的危機が公のこと(何故なら、個人的道徳的危機は私たちが皆体験することだからです)になった時にまで遡らなければなりません。つまり、天主の権威の代わりに個人的良心をすげ替えて、道徳の根底を崩壊してしまった時のことです。それはプロテスタント主義の誕生の時であり、これが天主の権威・教会の権威の代わりに、人間の自由意志が(最高権威として)立てられた時です

 この世界に更に劇的にかつ悲劇的に道徳の危機が現れた二番目の機会は、私たちの主イエズス・キリストの聖名において、天主の聖名において、市民社会で私たちを統治し指導していた人々が、理性という神の名前において私たちを統治する人々にすげ替えられた(フランス革命の)時です。

 個人においても、市民社会においても、法の基礎および道徳的義務の基礎は天主です。それが個人の良心、人間に取って代えられたのです。これは、社会の終わりでした。

 私たちが今立っているところが、そこです。確かに反動はありました。天主に服従しない人々に私たちが降伏した時以来、私たちはこれらの人々の奴隷となりました。天主がその結果をご存じです! ・・・

 天主に反対するこの反乱、教会に反抗するこの反逆に直面したカトリック教会の態度はどのようだったでしょうか? 教皇様たち、司教様たち、大多数の聖職者達、ほとんどの信徒の人々はこの反乱に反対しました。 革命の後、多くの修道会が再び生まれました。天主から由来するとする権威の復興もありました。ある国々では、キリスト教的な王国が再建されました。しかし、十九世紀のあいだ、妥協をすることができると考えたカトリック信者ら、革命の原理を理解することができる、プロテスタント主義の原理を許容する幾らかのカトリックらが存在したことは認めなければなりません。これがカトリック・リベラリズム(自由主義)の歴史でした。おそらく彼らは善意でそれを考えていたのでしょう。しかし、カトリック教会は常に教会の原理を守り、このリベラリズムを排斥しました。これらのカトリック・リベラル派は、シヨン運動、近代主義、そして新近代主義を生み出したのです。彼らこそが、私たちの主イエズス・キリストを社会の基礎とし、私たちの道徳の基盤としようとする、教皇様や多くの司教様たちの努力、聖職者と忠実な信徒たちの努力を無駄にしたのです。

(ルフェーブル大司教 1969年の講演より)

====引用終了====


A Bishop Speaks, by Mgsr. Marcel Lefebvre. pp. 65-66




============
ブログランキング <= クリックで応援して下さい。
兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============


*****

■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?
■ 本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。
■ 19世紀の教皇たちはこぞって、いわゆる「良心と諸信教の自由」を排斥した
■ 諸教皇は、何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?
■ 信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁
■ 真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか
■ 宗教無差別主義について確認しておくべき点
■ 信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?
■ 聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)
■ 世俗の共通善、カトリック宗教とその他の諸宗教
■ 真の宗教に対して国家が取るべき奉仕の役割



*****

聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会

教宗額我略十六世 <<論自由主義>> (Mirari Vos) 通諭 懲斥自由主義謬論 1832年8月15日
教皇グレゴリオ16世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日

教宗良十三世頒布《自由》(Libertas) 通諭 1888年6月20日
教皇レオ13世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日

教宗庇護十一世通諭“Quas Primas”基督君王 1925年12月11日
教皇ピオ11世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日


新しいミサの第二奉献文について

2007年06月08日 | ミサ聖祭
アヴェ・マリア!

■ 第二奉献文について

 1969年に新しいミサが現れ「歴史的に成立してきたものに対して、新しい家を対立させ、これを禁止したということ、典礼を生きたもの、成長するものとしてではなく、学者たちの仕事、法律家の権限によってつくりだされたものとした」。「これによって、典礼は人間に先立って天主から与えられたものではなく、つくられたもの、人間の裁量の領域のうちにあるものであるという印象ができあがってしまった」(ラッツィンガー枢機卿)。

 新しい三つの「奉献文」(preces eucharisticae)の共通の特徴は、新しい神学に基づき、机上で学者が何から何まで捏造したものであり、それ以前の数世紀もの典礼のやり方と典礼精神を突如として断絶させるものだった。

 たとえ「第三奉献文」「第四奉献文」の中に、sacrificium (犠牲) 或いは victima (いけにえ)という言葉は存在するとしても、ミサ聖祭が罪の償いのために捧げられるという目的は言及されていない。私たちの主イエズス・キリストのいけにえの前兆であるアベルのいけにえ、アブラハムのいけにえ、メルキセデクのいけにえについては姿を消した。天主の御母聖マリアは、終生童貞とは言われなくなった。諸聖人の功徳は無視されている。聖ペトロの名前さえも消えた。地獄についても語らない。


■ オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿とはパウロ六世教皇にこう報告している

 「第二奉献文はそのあまりの短さに信者達にすぐに躓きを与えた。この第二奉献文に関しては、全実体変化やミサの犠牲の性格のどちらももはや信じていないような司祭が良心の呵責を全く持たずにこれを捧げることが出来ること、また、プロテスタントの牧師が自分の典礼サービスのためにこの奉献文を十分に使い得ることが鋭く指摘されてきた。

 様々な位階の天使達も「第二奉献文」の新しい序唱から消え失せてしまった。(これは以前にはなかったことである。)


■ 第二奉献文は「ヒッポリトのカノン」(三世紀)と言われているのではないか?

 第二奉献文は昔の「ヒッポリトのカノン」と主張する人がいるが、実際はいくつかの言葉が使われているだけで、何も残ってはいない。

Hippolyte de Rome, La Tradition apostolique, texte latin, introduction et notes de Dome Botte O.S.B., Paris, Cerf, "Sources chretiennes", 1946, p. 32.

 ヒッポリトは、2番目の対立教皇であった。カトリック教会でこの「カノン」が実際に使われていたかどうかは確かでは全くない。


■ 聖ヒッポリトゥス 217-235 は聖人ではないか?

 新しいミサの促進者であるロゲ神父(Pere Aimon-Marie Roguet O.P.)は、こう説明している。

「ヒッポリトは典文としてこの文章を掲載したのではない。典文としてとは、固定されて義務である祈りの形式としてという意味である。そうではなく、自由創作のモデルとしてこれを載せた。彼の文章は決してこのまま使われたのではないだろう。最後に、彼は極めて反動的な人物であり、自らを対立教皇として立てたほどローマ位階制度に反対していた(そしてこれを自分の殉教で贖った)。従って、多分に彼は、このアナフォラ(=ミサ聖祭の祈り)をローマでその当時使われていたミサ聖祭の祈りに対立するものとして提示したのだろう。」
(Aimon-Marie Roguet O.P. Pourquoi le conon de la messe en francais?, Paris, Cerf, 1967, p. 23)


【参考資料 その1】

◆ オッタヴィアーニ枢機卿はパウロ六世に「第三奉献文」について、こう報告している

 「第三奉献文*84」(Vere sanctus, p.123)に於いては、次の言葉が主に対して発せられる。「御身はご自分のために民を集めることを絶えず続け給う。そは日の昇るところから沈むとことまで御身の御名に清き捧げものが捧げられん為なり。*85」ここで、「そは、~が為なり」(ut)という言葉のために、ミサを捧げるために必要かくべからざる要素として司祭よりも民が全面にでている。そして、ここでは誰が捧げるのかが明らかではない*86ために、会衆は司祭を必要とせず、独立の司祭職を行使する権能を持っているかのように見える。この段階から、それほど長くない間に平信徒が司祭と共に聖変化の言葉を発するのが許されるようになったとしても(このことは既にあちらこちらで見受けられているが)、それは驚くに値しないだろう。

*84 Prex eucharistica III
*85 "populum tibi congregare non desinis ut a solis ortu usque occasum oblatio munda offeratur nomini tuo"
*86 原注17: ルター派とカルヴィン派は全てのキリスト者が司祭であり、全てのキリスト者が晩餐を捧げると主張している。しかし、トリエント公会議に従えば(第22総会Canon 2 DS1752)、「全ての司祭は、そして司祭だけが、ミサのいけにえの二次的な司式者である。キリストがミサの第1の司式者である。信者も捧げるが、それは厳密な意味におけるのではなく、司祭を通して、間接的に捧げるのである。」(A. Tanquerey, Synopsis thologiae dogmaticae Desclee 1930, t. III)

 新しく作られた3つの「奉献文」のうちどれも死んだ人々の苦しんでいる状態を言及するものがない。特定の死者の記念の可能性さえない。これら全てはまたしてもミサのいけにえの罪を償い贖う性質についての信仰を破壊してしまうことだろう。

 式次第の全てから、新しい3つの「奉献文」を含めて、ローマの教会の創立者である使徒聖ペトロと聖パウロ、そして唯一の普遍の教会の基礎かつ印であるその他の使徒達の名前を全く省略されてしまったのは耐えることが出来ない。唯一それが残っているのはローマ・カノンのコムニカンテスの中でだけである。これによって教会の一致は非常にゆゆしく弱められるだろう。


【参考資料 その2】
■ 新しいミサの結果

 たとえばカトリック大学の神学講座では十字架のいけにえ、というよりもプロテスタントの概念に従った「聖餐の秘跡」が教えられるようになった。

國 井 健 宏
●授業の目的・内容・進め方・履修上の条件等
ミサの基本構造である「ことば」と「食卓」がどのように誕生したか。特にミサの後半,主の食卓を囲んでの「感謝の典礼」は,最後の晩餐の主のことばと動作が儀式化されたものである。奉納(パンを取る)-奉献文(感謝をささげる)-拝領(裂いて与える)という3部構造の研究。奉献文の起源と構造,各部の意味について調べる。また日本での適応や創作の可能性について考える。
●評価方法
授業への積極的な参加態度と,レポート,発表など。学期末の試験ないしレポートによる評価。
●参 考 書
J. F.ホワイト『キリスト教の礼拝』日本基督教団出版局,J. Kodell 'The Eucharist in the NT' The Liturgical Press

2002年度上智大学大学院 神学研究科 神学専攻/組織神学より

■ 召命の危機
われわれは衰微する教会を見ている



【参考資料 その3】第二奉献文のラテン語原文

Prex Eucharistica II

Vere Sanctus es, Domine, fons omnis sanctitatis. Haec ergo dona, quaesumus, Spiritus tui rore sanctifica, ut nobis Corpus et + Sanguis fiant Domini nostri Iesu Christi.
Qui cum Passioni voluntarie traderetur, accepit panem et gratias agens fregit, detitque discipulis suis, dicens :

"Accipite et manducate ex hoc omnes: Hoc est enim Corpus meum quod pro vobis tradetur"

Simili modo, postquam cenatum est, accipiens et calicem, iterum gratias agens dedit discipulis suis, dicens :

"Accipite et bibite ex eo omnes: Hic est enim calix Sanguinis mei, novi et aeterni testamenti, qui pro vobis et pro multis effundetur in remissionem peccatorum. Hoc facite in meam conmemorationem."

Mysterium fidei :

Mortem tuam annuntiamus, Domine, et tuam resurrectionem confitemur, donec venias.

Memores igitur mortis et resurrectionis eius, tibi, Domine, panem vitae et calicem salutis offerimus, gratias agentes quia nos dignos habuisti astare coram te et tibi ministrare.

Et supplices deprecamur ut Corporis et Sanguinis Christi participes a Spiritu Sancto congregemur in unum.

Recordare, Domine, Ecclesiae tuae toto orbe diffusae, ut eam in caritate perficias una cum Papa nostro N. et Episcopo nostro N. et universo clero.

Memento etiam fratrum nostrorum, qui in spe resurrectionis dormierunt, omniumque in tua miseratione defunctorum, et eos in lumen vultus tui admitte.

Omnium nostrum, qaesumus, miserere, ut cum beata Dei Genetrice Virgine Maria, beatis Apostolis et omnibus Sanctis, qui tibi a saeculo placuerunt, aeternae vitae mereamur esse consortes, et te laudemus et glorificemus per Filium tuum Iesum Christum.

Per ipsum, et cum ipso, et in ipso, est tibi Deo Patri omnipotenti, in unitate Spiritus sancti, omnis honor et gloria per omnia saecula saeculorum.

Amen.


【参考資料】

PREX EUCHARISTICA II

PREX EUCHARISTICA II

Eucharistic Prayer II Prex Eucharistica II

Ordinarium Missae

Ordinarium Missae


============
ブログランキング <= クリックで応援して下さい。
兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============


*****

■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?
■ 本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。
■ 19世紀の教皇たちはこぞって、いわゆる「良心と諸信教の自由」を排斥した
■ 諸教皇は、何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?
■ 信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁
■ 真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか
■ 宗教無差別主義について確認しておくべき点
■ 信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?
■ 聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)
■ 世俗の共通善、カトリック宗教とその他の諸宗教



*****

聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会

教宗額我略十六世 <<論自由主義>> (Mirari Vos) 通諭 懲斥自由主義謬論 1832年8月15日
教皇グレゴリオ16世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日

教宗良十三世頒布《自由》(Libertas) 通諭 1888年6月20日
教皇レオ13世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日

教宗庇護十一世通諭“Quas Primas”基督君王 1925年12月11日
教皇ピオ11世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日


真の宗教に対して国家が取るべき奉仕の役割

2007年06月08日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 ルフェーブル大司教様の『DUBIA 信教の自由に関する私の疑い』のつづきを紹介します。


■ 真の宗教に対して国家が取るべき奉仕の役割


 諸国の王であるイエズス・キリストは、世俗国家をも統治しなければなりません。この要求は信仰の真理です(コリント前書15:25)。この要求こそ同時に歴史の意味を判断することを許す唯一の判断基準です。つまりキリストが支配しているなら、平和、つまり「武器の平和と霊魂の平和」も支配する、そしてもしもキリストが支配しないなら、混乱と廃退が支配する(イザヤ60:12)、ということです。

 キリストの社会王国というカトリックの教義から、全ての国々と政治政府にはキリストとその教会に対する何らかの義務が導き出されます。この義務は、カトリックの諸国においてその完全な実現がなされなければならないであろう義務であり、いかなる場合であっても教会が不可変の原理として維持する義務です。

 事実、過去三世紀の教皇たち、特にピオ九世とレオ十三世は、このことに関して、不可知論と国家の宗教無関心主義という近代の誤謬に対して、何が「カトリックの教え」として見なされなければならないかを明確に定義しました。

 このカトリックの教えは、他方で、スコラ哲学の時代からカトリック神学が導き出していた教父たちの意見、歴代教皇たちの実践、カトリック諸君主の実践と完璧な延長線上にあります。つまり「世俗の事柄の霊的事柄への間接的従属」という名前のもとに知られていた本質的で恒久的な教え全体を形成しています。これは単なる偶然的な一時的なものと考えなければならない意見や実践とははっきり区別される別のものです。

 教会を脅かす現今の危機以前に著された神学のマニュアルは例外なく、「真の宗教に対する国家の奉仕的役割」とでも呼ぶべき当のカトリックの教えの説明しています。「真の宗教に対する国家の奉仕的役割」とは、すなわち国家が真の宗教に対して、より詳しく言えばキリストとその教会に対してなすべき諸々の奉仕を示しています。

 教会の教えによれば、市民社会の中心的機関である国家は、次のことをしなければなりません。

1‐市民社会の創造者である天主を敬う義務を有し、これは真の宗教の礼拝をもって為すこと。したがって、国家はカトリック宗教を国家の宗教として認めなければならず、これは不可知論および宗教無差別主義、さらには政教分離主義に真っ向から反対すること。

「共通の社会の絆で一つに結ばれた人々は、ばらばらの個人としてあるときに比して天主に対する依存の度合いが減ずるということはありません。少なくとも個人と同等に社会は、自らの存在、存続、ならびにを負うところの天主に感謝をささげる義務を有します。それゆえ、誰一人として天主に対する己の義務をなおざりにすることが許されず、またすべての義務の中で最大の義務は、各人が好むところのではなく天主が定めたところの宗教を知性と心情とをもって奉持することであり、そして確実で疑いの余地を許さぬ証拠が数々の宗教の中で唯一の真の宗教を確証付けているように、これと同様に政治社会は、あたかも天主がいささかも存在しないかのように振舞うこと、あるいは宗教が特異で意味のないものであるとしてこれなしにすませること、あるいは自らの気ままな好みにしたがってある特定の宗教を無差別に選ぶということは許されません。実際これは大きな犯罪です。天主の神性を崇め尊ぶにあたって政治社会は天主ご自身がどのように崇敬される(honorer)ことをお望みになるかを示された、その規定、様式に厳密に従わなければなりません。」
(レオ十三世回勅『インモルターレ・デイ』Actus II p.21-23 / PIN 130)

「それゆえ、世俗社会は、まさに社会として天主を自らの本源かつ創始者として認め、このために天主の権能と権威とに自らの捧げる礼拝を通して崇敬しなければなりません。正義ならびに理性の命じるところにしたがって、国家は無神論的たることはできません。また、国家はあらゆる宗教に対して等しい態度を取り、そのすべてに同等の権利を与えることができません。このようなやり方は無神論を標榜するのに等しいからです。

 このようなわけで、社会においてある特定の宗教を信奉することが必要であるため、唯一つ真であり、諸々の明白な真理の印によって容易くそれと見極めることのできるところの宗教を信奉しなければなりません。」
(レオ十三世回勅『リベルタス・プレスタンティッシムス』Actus II p.195 / PIN 203-204)

2‐自らの定める法を天主ならびに教会の法に準拠させる、さらに良いのは(国家レベルでの事実上の無神論に真っ向から対抗して)天主ならびに教会の法を国の法制に染み込ませること。

「天主ならびにイエズス・キリストが法制および公事から排除され、こうして権威が天主ではなく人間に由来するものとされたため、権威自体の基盤が覆されることとなりました。」
(ピオ十一世回勅『ウビ・アルカノ』Actus I p.152)

「諸々の国家ならびに政権が、内部および外部における政治的営みをイエズス・キリストの教えと戒律とに即して為す、という聖なる義務を自らに課すなら、その場合に、ただその場合にのみ有益な平和を享受することができます。」
(ピオ十一世回勅『ウビ・アルカノ』Actus I p.160 / PIN 514)

「実際、キリスト・イエズスが人々に、自らの救いを託すべき贖い主として、また従うべき立法者として与えられたということはカトリック信仰の教義です。」
(『ピオ十一世回勅『クアス・プリマス』Actus II p.73 / PIN 536)

「諸国家は年毎に行うこの祝日の記念をとおして政府ならびに司法府は個々の市民と同様に、キリストに対して公の礼拝を捧げ、その法に従うという義務があります。国家社会の長は、キリストがおん自らを公の営みから排除したところの者たちのみならず不遜にもわきに置き、無視した者たちを罪に定め、かかる侮辱に対していとも恐るべき報復をされる、ということを思い起こさねばなりません。なぜなら主の王としての尊厳は国家全体が、天主の法とキリスト教の諸原理とに基づいて立法、司法ならびに青少年の知的ならびに道徳的育成(これは健全な教えと道徳の純潔さとを遵守しなければなりません)の律されることを要求するからです。」
(ピオ十一世、クゥアス・プリマス, Actus III p. 91-92 /PIN569)

3-国家の目的の教会の目的に対する間接的な従属のために、地上的共通善の獲得を教会ならびに人々の自由を損なうことなしに追求するのみならず、世俗的次元において教会と人々との善益を(国家の政教分離主義に対して)積極的に助長すること。

「したがって、この世において善い生活と言われるに値する生活の目的は天上における至福に他ならないので、そのため王の責務には、民衆の善良な生活を彼らが天上の至福にいたることができるよう確保することが含まれる。すなわち王は[自らに属する領域、すなわち地上的次元において]この種の生活を助長する事柄を促進し、これを妨げる事物に関しては、可能な限りこれを禁止するということである。」
(聖トマス・アクィナス『王の統治について』第一巻16章)

「世俗社会は・・・公的繁栄を促進しつつ、市民の善を追求しなければならないが、そのやり方はただ単に障害をおかないというだけでなく、市民が得たいと望んでいるこの最高の不可変の善の追求と獲得が出来る限り容易にすることが出来るように保証するというやり方でなければならない。最初は、その義務が人間を天主と一致させることにある宗教の務めを聖なるものとして不可侵的に遵守させることである。」
(レオ十三世回勅『インモルターレ・デイ』Actus II p.23 / PN 131)

「しかるに、人間における、当の至高かつ究極の善に到達する能力を減じるどころかかえ;却ってこれをいや増すことが公権にとっての義務なのです。実に、この善にこそ人々の永遠の至福が存するのです。しかし、宗教なしにこの義務を完遂することは不可能です。」
(レオ十三世回勅『リベルタス・プレスタンティッシムス』Actus II p.195 / PIN 204)

「しかるに、この共通善、すなわち公共社会の正常かつ安定した状態(具体的には個人ならびに家庭にとって、品位を伴い、規則正しく、幸福な生活を天主の法に従って営むことが困難でない状態を言います) を確立すること、かかる共通善にこそ、国家およびその諸々の機関の目的と規範が存します。」(ピオ十二世 ローマ貴族への訓話 [1947年1月8日] Documents 1947 p.23 / PIN 981)

4-教会の国家に対する間接的な権力のゆえに、教会に対して奉仕的な機能、とりわけ「世俗的権力」(ないしは「物質的な剣」)の役目を果たすこと。

「福音は私たちに、教会および教会の権力の内には2つの剣、すなわち霊的な剣と地上的な剣とが含まれることを教えています。(中略)したがって、このいずれの剣も教会の権勢の中に含まれるのですが、前者は教会によって、後者は教会のために振るわれるべきものです。すなわち前者は司祭の手によって、後者は王ならびに兵士の手によって、ただし司祭の同意と意向に基づいて振るわれなければなりません。しかるに、一方の剣は他方の剣に、つまり世俗的権力が霊的な権勢に従属することが必要です。」
(ボニファス8世 勅書『ウナム・サンクタム』DS 873)

「聖トマスおよび当時の最も秀でた神学者たちが[聖ベルナルドの]有名なかの著作に依拠しつつ、教会が2つの剣を有すると説く(「執行的次元において教会は単に霊的な剣を有するのみであるが、秩序付けを為すための権力においては地上的剣を有している」)際、彼らの意図したのは、諸々の霊的利害自体のため、および超自然的目的のために、霊的な剣は地上的な剣を指導する権能ならびに義務を有する(中略)という事実を述べることに過ぎなかった。」
(ジャック・マリタン 「霊的事象の首位性」Plon 1927年 p.191-192)

「歴史家は、教皇聖グレゴリオ7世、イノセント4世、ならびにボニファチオ8世の個人的傾向について長々と論じることができるだろう。しかるに各人の個人的傾向がどうであれ、彼らが教皇として一様に説いたのは[教会が世俗的権力に対して有する]間接的権力の教義です。」
(前掲書 p.196)

「俗世間および一切の地上的権力に対する教会の優位性を時代の変遷を超越した真理として表明しなければなりません。宇宙万物における根本的な無秩序を避けようと思うならば、教会が民々を人間生活の究極目的―――この目的は国家の目的するところのもとの同一ですが―――へと導くことが必要であり、そのため、教会が自らに託されている霊的な利害の名の下に様々な政権及び諸国民を指導しなければならないのです。・・・この条件の下においてのみそれらの政権および諸国民は、安定を得ることができるのです。何故なら天の王国をお与えになる方は、いつかは過ぎ去るべき地上の王国を取り去り給うことがないからです。
(前掲書 p.122)


 以下の命題は、1682年3月19日付けの「ガリア主義聖職者の宣言」にあるものですが、ピオ六世によって誤謬であるとして排斥されています。
「諸々の王ならびに主権者は、地上的事物に関する限り、天主の定めによっていかなる教会権力にも従属しない。彼らは教会の長上の権威によって、直接的ないしは間接的に罷免されてはならない。また、王ならびに主権者の権威のもとにある民は、彼らに負うところの服従、従順および中世の誓願から解放されることはできない。公の安寧に必要であり、また国家のみならず教会にもすぐれて駅となるこの教理は天主の御言葉、教父らの伝統、ならびに諸聖人の模範に合致したものとして不断に遵守されねばならない。」

 ピオ六世は、ピストイア会議に反対して出された憲章『アウクトーレム・フィデイ』の中で以下の通りに宣言しています。
「ピストイア会議の甚だしく欺瞞に満ちた大胆不敵さにたいして沈黙を守るわけにはいかない。同会議は使徒座によってはるか以前から弾劾されている1682年のガリア議会宣言に向こう見ずにも最大の賛辞を惜しみなく捧げるのみならず、当の宣言に一層の権威を持たせるべく、これを『信仰について』と題した勅令中に狡猾に含め入れ、明け広げにその諸条項を採択し、荘厳な公の宣言によって当勅令の各部分が収める内容を全てそれに承認の判を押した。・・・それゆえ、私は同会議において近々なされ、おびただしい数の諸悪を伴う採決を無思慮で躓きを呼び・・・かつこの使徒座に対して甚だ有害なものとして断罪し排斥する。」
(DzS 2699-2700)

 カノンであるコンスタンタン神父(chanoine Constantin)は、カトリック神学事典(Dictionnaire de théologie catholique)の第4巻の第一97コラムでこう明言しています。
「現在の教理において、また第一バチカン公会議以降、1682年の宣言を奉じることは異端に陥ることを意味している。」

ピオ九世は次の命題を排斥しています。
「教会には物理的力を行使する権力がなく、また直接的ないし間接的な世俗的権利を一切保持しない。」
(ピオ九世、『シラブス』第二4排斥命題)

「教会がキリストから、洗礼を受けた者に対して彼らの永遠の救いに関する一切のことについての全面的な権力を譲り受けたこと、またその結果、キリスト教社会において世俗的権力は、天主の定めるところに従って、教会の裁治権に間接的に従属する。
(ビヨ枢機卿『デ・エクレジア・クリスティ(キリストの教会について)』ローマ、グレゴリア出版、1929年 第二巻 Q. XVIII, 4, p. 76-80)

 ここでビヨ枢機卿はスアレスの『デファンシオ・フィデイ(信仰の擁護について)』(第三巻、22章)ならびにイノチェンテ十一世、アレクサンドロ八世、そして最後にピオ六世によってピストイア会議に反対する勅書『アウクトーレム・フィデイ』を通して排斥された諸々の見解を念頭に置いています。


5-宗教的領域(教会がかくの如くあるべしと定めるところの宗教的領域)における秩序を乱すもの、および福音の宣教に対立するものたちに反対して、地上的な剣を、霊的な領域における怠りの責め咎(とが)を受けることなく用いること。

「宗教の善益のために認与された種々の特権は、カトリックの法に従う者にのみ適応されるということが重要である。余は異端者ならびに離教者がかかる特権に与らざるのみならずさらには諸々の業役に課せられることをよしとする。」
(テオドシオ皇帝法典『異端者に関する法令』XVI, 5, 1. 324年9月1日、ロ・グラッソ第69引用文書)

「ユダヤ人、ならびにその年長者、父祖らは、次のことに留意するように。すなわち、この法規の制定後、彼らのうちの何ものかが、彼らの呪わしい党派を逃れ、天主の宗教へと立ち戻る者を投石する、或いはその他の愚昧な手段によって攻撃するなら、即座に刑吏に引き渡され、その共謀者とともに火刑に処される、ということである。」
(テオドシオ皇帝法典『ユダヤ人に関する法令』XVI, 8, 10. 315年10月10日、ロ・グラッソ第77引用文書)

「キリスト教徒の中で異教徒に転じ背教する者たちについては、遺書を残す能力ならびに権利が剥奪され、既に死亡している場合は、当人の遺書は無効なものと見なされる。」
(テオドシオ皇帝法典『棄教者に関する法令』XVI, 7, 2. 381年5月2日、ロ・グラッソ第76引用文書)

「あなたに与えられた王の権能が、この世の物事を指導するためだけではなく、教会の擁護のためにあるということを、あなたは注意深く考察しなければなりません。それは犯罪者の大胆不敵さを処罰しつつあなたは確立されている秩序を守り、平和が乱されたところにおいて真の平和を返し、他者の権利の横領者たちを切り離し、アレクサンドリアの教会の司教座を古来の信仰に連れ戻すためです。」
(教皇レオ一世が、レオ皇帝に。異端者たちによって横領されたアレクサンドリアの司教座について。PL LIV,1129-1130)

「聖寵の助けをもって、外部では武力を持って全ての場所において異教徒の攻撃と不信仰者らからの荒廃からキリストの聖なる教会を守り、内部ではカトリック信仰の知識によって教会を強めることが余に属している。」
(シャルルマーニュ皇帝が教皇レオ三世へ、ロ・グラッソ第一78引用文書)

「未信者は全て彼らの自由選択能力に任されているので、また信仰への召命は天主の聖寵だけが働かなければならないので、彼らは信仰へ強制されてはならない。・・・しかし教皇は未信者の裁治権の地に聖福音を伝える宣教者たちを派遣することを命じることができる。そしてもしも彼らが宣教師を受けることに従わないなら、世俗の腕によって強制されなければならず、教皇のイニシアティヴで彼らに対して戦争がおこる。」
(イノチェンテ四世、『デ・ヴォト・エト・ヴォティ・レデンプチオネ』IX,ロ・グラッソ第436引用文書)

「イタリアの領土において教皇その人格に反対して犯された公の侮辱と冒辱は、それがたとえ演説、行為、書物でなされたものであれ、王の人格に対してなされた侮辱と冒辱であるとして罰せられる。」
(聖座とイタリアとの条約 1929年2月11日、第8条、ピオ十一世 Actus V, p.24.)

「イタリアは・・・必要なところにおいて、聖職者達にその霊的役務の行使のために、公権の保護を与える。」
(聖座とイタリアとの政教条約、1929年2月11日、第一条、ピオ十一世 Actus V, p.24.)

「天主を否定することを驕り高ぶる人々によって、このカトリック国に反対して引き起こされる不正な陰謀と邪悪な作戦にもかかわらず、スペインのカウディヨは、祖国をその言葉と賢明な配慮、感銘を与える個人的な模範、使徒聖ヤコボと聖パウロとがこの地まで運び説教した教えに常に忠実な模範により、それを維持している。いつもの如く、真理は道を開かせ、日に日に誤謬に勝利するだろう。従って、私たちがスペインのカウディヨに、その祖国になした偉大な奉仕に対して感謝をするのは極めて正しいことである。」
(リベリ大司教、ヨハネ二十三世のもとのスペインにおける教皇大使のタラゴナにおける訓話、1963年)

結論:私たちは読者に上記の5つの不可変のカトリックの教えを再読して下さるように招きます。これは変わることができない教えであり、諸国の背教のためにますますこれを完全に適応されうることが希になっているとしても、私たちはこれを再確認して断言しなければなりません。何故なら、正に諸国の背教を教会の新しい教えとしてはならないからです。

 ここで次のことを付け加えます。国家は教会とカトリック信徒の擁護のために宗教的領域に介入する時、国家が本来もっていない権利を自分のものとするのではありません。そうではなくむしろ国家は教会に対してこの奉仕を負っています。何故なら霊的な事柄に対してこの世的なものは奉仕しなければならないからです。特に「世俗権力は、それ自体で、教会の判断により、永遠の救いを危険なものとするその他のカルトの公的な示威行為を規制し統制することができる。」
(公会議草稿、カトリック国家に関する段落)


============
ブログランキング <= クリックで応援して下さい。
兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============

*****

聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会
教皇グレゴリオ16世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇レオ13世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇ピオ11世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】