Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その五、反対論に答える(A)内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか

2018年01月24日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その五、反対論に答える(A)内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。


  五、反対論に答える
 (A)内的生活は、無為怠慢な生活ではないのか


 話は重複するが、本書はどんな人たちにあてて書かれているのかを、いまいちど思いおこしていただきたい。

 使徒的事業に、一生懸命になっている人びとが、ここにいる。天主の光栄のために、身を粉にして働きたいと、はげしく望み、また事実そうやっている。だが、同時にかれらは、一つの危険にさらされてもいる。――おのれの奮発心が、人びとの霊魂に、ゆたかな実を結ぶために、どうしてもなくてならぬ手段を講ずることを、なおざりにした結果、かえって事業そのものが、かれらにとって、内的生活を解かし、かつ滅ぼしてしまう精神的硫酸となっている。こういう人たちを対象に、本書は記述をすすめていく。

 であるから、内心の孤独と平和を口実に、少しも活動しない伝道者に、活動の刺激剤をあたえるとか、または利己心に迷わされて、無念無想の境地、無為閑散の生活こそは、信心の念をはぐくむのに、いちばんためになる生活だ、と誤信している人たちに“活”をいれるとか、さらに自分の内心の静けさ、自分の静寂主義を、全然妨害しないという保証さえしてくれれば――そのうえ、いくらかのもうけがある、名誉にもなる、という見込みがあれば、なにかの使徒的事業にたずさわっても悪くはなかろうぐらいに考えて、冬眠をむさぼっている怠け者どもの頭に、ぐわんと一撃をくわせるとか、すべてこういうことは、本書の目的ではない。それは、別に一巻を要する仕事である。

 されば、上に列挙した怠け者の部類にぞくする人びとは、これをその道の専門家のお世話にゆだねることにするが、かれらはこのへんで、ちょっと反省していただきたい。というのは、すべてこの世に生をいとなむかぎり、天主はかれらの存在が“活動的”であることをお望みになる、ということ、これを妨害しようとして、悪魔が、人間性の悪い傾向と共謀して、活動の欠如と奮発心の不足により、かれらの存在を空虚なもの、無意味なものにしようと必死になっている、という事実をさとっていただきたい。これがわかっていただければ、たくさん。で、筆者は専ら、いとも親愛なる、いとも敬愛すべき同志をあいてに、論議をすすめていきたい。

 およそ、天主のふところでいとなまれている活動ほど、無限の強さと無限の強さと無限の広がりをもつものはない。いかなる活動も、これにくらべるべきものはない。御父の内的生命のいとなみの強さは、他に一つの天主的ペルソナ――御子――を生みだすほど偉大である。御父と御子との内的生活のいとなみから、さらにいま一つの天主的ペルソナ――聖霊――が発出する。

 天主のこの内的生活の炎こそは、イエルザレムの高間につどうていた使徒たちの胸にそそぎ入り、かれらの伝道熱を、いやがうえにもあおり立てた。この内的生活の炎こそはまた、すべて内生を無キズに保全しようと努力している、まじめなキリスト信者にとっては、使徒的奮発心と犠牲的活動のもととなる。

 しかしながら、たとえそれが見えるしるしによって、外部に現われないにせよ、内的生活――つまり祈りの生活――こそは、それ自体、しかも強烈さにおいて他にくらべものがないほどの、活動の源泉である。祈りの生活はけっして、人の世を逃避して、無為閑散に人生を浪費する桃源郷ではない。そう思っている人があったら、これぐらいまちがった考えはない。

 祈りの生活は、天国への最短の道である。天と地をむすぶ、最短の距離であるから、それは天国への直線コースである。直線コースだから、狭い道である。キリストがおっしゃった Regnum cœlorum vim patitur, et violenti rapiunt illud「天の国は暴力で攻められ、暴力の者がそれを奪う」(マテオ11:12)とのお言葉は、とりわけ、祈りの生活をいとなむ人びとに、ピッタリあてはまる。


 ドン・セバスチャン・ウィヤール師(Dom Sébastien Wyart)は、厳律シトー修道会――トラピスト会――の初代総長として、名高い人物だが、かれはもともと軍人だった経験から、軍隊生活の労苦も知っていた。また修道者だったから、知的労働の疲れも、内的生活の心労も、はては上長の職責につきものの心配も、すべて知りつくしていた。かれが口ぐせのように言っていたことに、およそ世の中の仕事は、三つの種類に大別される。

(一) ほとんど、身体だけを使役する、いわゆる筋肉労働。――職人や、労働者や、軍人が従事している、骨の折れる仕事。だが、かれが断言しているように、筋肉労働は、いちばん骨の折れない、楽な仕事なのだ。そんなことはない、とあなたがどんなに抗議したところで、やはりそうなのだ。
(二) 次に、頭を使ってする知的労働。――学者や、思想家たちが、真理の探求に、精神をはげしく使役する仕事。著述家や、学校の先生が、他人の頭脳に、真理のおしえをそそぎこむために、大わらわになる仕事。また、外交官や、政治家や、商人や、技師らの仕事。戦争のとき、勝利の見とおしをつけ、全軍を統率し、用兵の裁断を果敢にやってのけるために、頭をタテヨコに働かせる軍司令官の仕事。こういう種類の仕事は、それ自体、筋骨労働よりも、はるかに骨の折れるもの、はるかに苦しいものである。「刀の刃(は)は、サヤをすりへらす」ということわざがあるが、このことをいったものである。
(三) 最後に、内的生活の心労。――この仕事は、もし人がまじめにそれをやるなら、三つの仕事の中で、いちばんつらい、いちばん骨身にこたえるものである。大聖グレゴリオ教皇も、そういっている。「悪徳と欲情に抵抗するのは、筋肉労働で汗にまみれるより、もっとつらい仕事である」
 これは、同時に、この世で、いちばんなぐさめになる仕事である。
 それはまた、いちばん大切な仕事でもある。

 内的生活は、人間の仕事というよりむしろ、人間そのものである。それは、人間そのものを、つくりだす仕事である。人間は、筋肉労働や知的労働に身をゆだね、勇敢に困難を克服して、幸福と成功を招致する。そんなわけで、どれほどたくさんの人が、こういった仕事に勇敢であることを、誇りにすることだろう。だが、この同じ人たちが、いざ善徳を獲得するための仕事である、内的生活をいとなむ段になると、そこにはただ、無精と怠慢と卑怯があるだけである。

 それもそのはず、内的生活をいとなもうと、かたく心に決意した人びとは、その理想どおり、たえまなく自分を抑制し、自分をとりまく一切の事がらを完全にコントロールして、万事において、ただ天主の光栄のためにだけ行動するように、精をださねばならぬからである。しかも、この理想を達成するためには、かれはいかなる場合にも、イエズス・キリストに一致してとどまることができるように、そのためには、達成すべき唯一の目標に、心の目を絶えずそそいでいるように、また一切の事物を、福音のおしえにしたがって評価するように、努力しなければならないからである。

 「Quo vadam et ad quid ? 」 「わたしは、どこへ行く? そして何をしに?」 聖イグナチオは、しばしば、こう自問していた。それゆえ、かれのうちにある一切のものが――知恵も、意志も、記憶も、感情も、想像も、官能も――すべてが、同一の超自然的原理から出発していた。しかし、この幸いな結果に到達するためには、どんなにつらい労苦を耐えしのばねばならぬことだろうか。

 そのためには、公然と許されている楽しみまでも、全くおのれに禁ずるか、または適当なところでやめなければならぬ。おのれを反省し、なすべきことは着実に実行しなければならぬ。あるときは働き、あるときは休む。あるいは善を愛し、悪を憎む。希望に胸のおどるときもあろうし、恐怖にわななく時もあろう。嬉しいときもあろうし、悲しいときもあろう。得意のときもあろうし、失意のときもあろう。

 だが、これらすべての場合に、しかも絶え間なく“天主をおよろこばせしよう”というタッタひとつの方角にむかって、自分の進路を固定していなければならぬ。あらゆる反対に出あってもそうするように、精をださなければならぬ。祈りのあいだ、とりわけ、ご聖体のみまえでする祈りのあいだ、浮き世のさわぎのとどかぬ孤独の境地にしりぞいて、「見えない天主を、あたかも肉眼で見るごとく」(ヘブライ11・27)、そのようにして、天主とお話することができるようでなければならぬ。いそがしい使徒的事業に、身も心もうちこんでいる最中でも、この理想を達成するために努力せねばならぬ。モイゼがそうだった。そして聖パウロは、モイゼのこの態度に、たいそう感激している。

 人生の様々な困難も、また欲情がひきおこす烈しい内心のあらしも、ひとたび内的生活の軌道にのった人びとを、脱線させることはできない。天主への巡礼の道はけわしく、不幸にも、しばしば力のよわるときもあろう。が、すぐに起きあがる。そして、以前に倍する勇気をふるいおこして、前進をつづける。

 それには、どれほどの心労が、ともなうことだろう。したがって、この霊生の仕事が要求する努力のまえに、すこしもたじろがない人びとの労苦にたいして、天主はすでにこの世から、どれほどのよろこびをもって、おむくいになることだろう。これはだれもが知っている事実である。

  (この章 続く)

2月2日の聖母マリアの御潔めの祝日:Adorna thalamum tuum, Sion:Κατακόσμησον τὸν νυμφῶνά σου Σιών

2018年01月24日 | グレゴリオ聖歌
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2月2日は聖母マリアの御潔めの祝日です。大阪で聖伝のミサがあります。

 イエズス・キリストのご降誕から40日目にあたり、ルカの福音書の次の個所のことを記念します。

「そして、モイゼの律法にしたがい、かれらが清められる日になったとき、子を主にささげるためにイエルザレムにつれて行った。それは、「はじめて生まれる男の子は、みな、主に聖別されたものといわれねばならない」と主の律法にしるされているし、また主の律法にあるとおり、「山鳩一つがいか、あるいは鳩のひな二羽」をいけにえとしてささげるためであった。ところで、イエルザレムには、義人で、敬虔で、イスラエルのなぐさめを待ちのぞんでいるシメオンという人がた。聖霊はその人の上にあった。かれは、聖霊によって、主のキリストを見るまでは死なないと啓示されていたが、この時、霊にみちびかれて神殿にきていた。両親がその子イエズスをつれて、この子のために律法の慣習をおこなおうとしてきたとき、シメオンはその子をだき、天主を賛美していった。「みことばどおり、主よ、今こそ、あなたのしもべを安らかに死なせてください。私の目は、もう主の救いを見ました。その救いは、あなたが万民のためにそなえられたもの、異邦人をてらす光、み民イスラエルのほまれであります。」
おさな子についてこういわれたので、両親はおどろいたが、シメオンはかれらを祝福してから、母のマリアに、「この子は、イスラエルの多くの人が、あるいはたおれ、あるいは立ちあがるために、さからいのしるしとして立つ人です。そうして、多くの人のひそかな思いが明らかにされるのです。あなたの心も、剣で貫かれるでしょう」といった。
また、アゼル族ファヌエルの娘で、大へん年老いたアンナという預言者がいた。乙女の時をへて、七年間夫とともに生活し、やもめになって八十四歳になるまで神殿をはなれず、断食と祈りとをおこなって、夜ひるとなく天主に奉仕していた。この人もこの時に来て、天主に感謝し、イエルザレムの救いを待ちのぞんでいる人々に、その子のことを話していた。」


 福者ヘンリコ・スソに倣ってこの祝日を準備しましょう
 福者ヘンリコは、この祝日の前の三日間は、霊的に三本のロウソクを準備しました。
(1)聖母の童貞としての汚れない清さ、
(2)聖母のはてしなき深い謙遜、
(3)聖母の母としての尊厳

 毎日三回「マグニフィカト(Magnificat)」を唱え、これをロウソクとしました。

 その祝日の夜明けに、信者等が聖堂に集まる前に、中央祭壇の前に跪いて聖母の御生涯を黙想し、聖母が幼きイエズスを抱き聖殿に奉献するのを観想しました。

 大阪の「聖母の汚れなき御心聖堂」では、典礼が午後6時から始まります。



 まずローソクの祝別と配布があります。司祭は次の5つの祈りをもってローソクを祝別します。

Oremus. Domine sancte, Pater omnipotens, æterne Deus, qui omnia ex nihilo creasti, et jussu tuo per opera apum hunc liquorem ad perfectionem cerei venire fecisti : et qui hodierna diepetitionem justi Simeonis implesti : te humiliter deprecamur, ut has candelas ad usus hominum, et sanitatem corporum et animarum, sive in terra, sive in aquis, per invocationem tui sanctissimi nominis, et per intercessionem beatæ Mariæ semper Virginis, cujus hodie festa devote celebrantur, et per preces omnium Sanctorum tuorum bene+dicere, et sancti+ficare digneris : et hujus plebis tuæ, quæ illas honorifice in manibus desiderat portare, teque cantando laudare, exaudias voces de cælo sancto tuo, et de sede majestatis tuæ : et propitius sis omnibus clamantibus ad te, quos redemisti pretioso sanguine Filii tui : qui tecum vivit.

Oremus. Omnipotens sempiterne Deus, qui hodierna die Unigenitum tuum ulnis sancti Simeonis in templo sancto tuo suscipiendum præsentasti : tuam supplices deprecamur clementiam; ut has candelas, quas nos famuli tui in tui nominis magnificentiam suscipientes, gestare cupimus luce accensas, bene+dicere, et sancti+ficare, atque lumine supernæ benedictionis accendere digneris : quatenus eas tibi Domino Deo nostro offerendo digni, et sancto igne dulcissimæ caritatis tuæ succensi, in templo sancto gloriæ tuæ representari mereamur. Per eundem Dominum.

Oremus. Domine Jesu Christe, lux vera, quæ illuminas omnem hominem venientem in hunc mundum: effunde bene+dictionem tuam super hos cereos, et sanctiüfica eos lumine gratiæ tuæ, et concede propitius; ut, sicut hæc luminaria igne visibili accensa nocturnas depellunt tenebras; ita corda nostra invisibili igne, id est, Sancti Spiritus splendore illustrata, omnium vitiorum cæcitate careant : ut, purgato mentis oculo, ea cernere possimus, quæ tibi sunt placita, et nostræ saluti utilia; quatenus post hujus sæculi caliginosa discrimina, ad lucem indeficientem pervenire mereamur. Per te, Christe Jesu, Salvator mundi, qui in Trinitate perfecta vivis et regnas Deus, per omnia sæcula sæculorum.

Oremus. Omnipotens sempiterne Deus, qui per Moysen famulum tuum, purissimum olei liquorem ad luminaria ante conspectum tuum jugiter concinnanda præparari jussisti : bene+dictionis tuæ gratiam super hos cereos benignus infunde;quatenus sic administrent lumen exterius, ut, te donante, lumen Spiritus tui nostris non desit mentibus interius. Per Dominum ... in unitate ejusdem Spiritus Sancti ...

Oremus. Domine Jesu Christe, qui hodierna die in nostræ carnis substantia inter homines apparens, a parentibus in templo espræsentatus : quem Simeon venerabilis senex, lumine Spiritus tui irradiatus, agnovit, suscepit, et benedixit: præsta propitius; ut ejusdem Spiritus Sancti gratia illuminati atque edocti, te veraciter agnoscamus, et fideliter diligamus : Qui cum Deo Patre in unitate ejusdem Spiritus Sancti ...

私たちの主イエズス・キリストを象るローソクを司祭の手から受け取りながら、聖シメオンの歌をグレゴリオ聖歌で歌います。

Ant.:Lumen ad revelationem gentium : et gloriam plebis tuæ Israel.
異邦人をてらす光、み民イスラエルのほまれ。

Nunc dimittis servum tuum, Domine : secundum verbum tuum in pace.
今こそ、あなたのしもべを死なせてください、主よ、みことばどおり、安らかに。
Ant.Lumen.

Quia viderunt oculi mei : salutare tuum.
私の両目は、主の救いを見ましたから。
Ant.Lumen.

Quod parasti : ante faciem omnium populorum.
あなたが万民の眼前にそなえられた救いを。
Ant.Lumen.

(以上をローソクの配布が続いている間は何度も歌い続けます。そろそろ終わりそうになると次を歌って締めくくります。)

Gloria Patri, et Filio : et Spiritui Sancto.
願わくは聖父と聖子と聖霊とに栄えあらんことを
Ant.Lumen.

Sicut erat in principio, et nunc, et semper: et in sæcula sæculorum. Amen.
始めにありし如く、今も、いつも代々に至るまで。アメン。
Ant.Lumen.





あるいは



 最後に次のアンティフォナを歌います。

Exsúrge, Dómine, ádiuva nos : et líbera nos propter nomen tuum. etc.

 次の祈りを持ってローソクの祝別と配布を終わります。

Exáudi, quǽsumus, Dómine, plebem tuam : et, quæ extrinsécus ánnua tríbuis devotióne venerári, intérius asséqui grátiæ tuæ luce concéde. Per Christum, Dóminum nostrum.
R/. Amen

 次に司祭は次のように言って行列を始めます。
Procedámus in pace.
平和のうちに出発しよう。

In nómine Christi. Amen.
キリストの聖名において。アメン。

 行列が始まるとロウソクに火を灯します。

 聖母が自分の心にともされた天主の光と愛のこの炎が決して消されることがないように願いつつ、この神秘的行列にお伴する諸聖人に向って、自分と一緒に「アドルナ・タラムム(Adorna thalamum tuum)」を歌いましょう。

Adorna thalamum tuum, Sion, et suscipe Regem Christum:
amplectere Mariam, quae est coelestis porta:
ipsa enim portat Regem gloriae novi luminis.
Subsistit Virgo adducens manibus Filium ante luciferum genitum:
quem accipiens Simeon in ulnas suas praedicavit populis Dominum eum,
esse vitae et mortis, et Salvatorem mundi.

シオンよ、汝の花嫁の部屋を飾れ、しかして王たるキリストを迎え入れよ:
天の門なるマリアを抱擁せよ。
マリアは実に、新しき光の栄光の王を運び給い、
明けの明星の上る前に生み給いし御子を手にしつつおとめにとどまり給う。
その御子をシメオンは両腕の抱え人々に予告せり、
この聖子は生と死の主にして、世の救い主なり、と。



あるいは

あるいは



この祝日は元々はエルサレムで、キリスト教の迫害が終わった4世紀(386年)から行われ、ローソクの行列は五世紀(450年)から加えられて執行していました。
六世紀にはコンスタンチノープルでも「出会い」(ヒュパパンテー「聖シメオンと私たちの主イエズス・キリストとの出会い」)という名前で祝われました。
七世紀にはローマでも祝われるようになりました。次のように記録があります。
Ypapanti Domini, id est obviatio seu appresentatio Domini nostri Iesu Christi secundum carnem.

Adorna thalamum tuum, Sion, et suscipe Regem Christumの歌は、
ギリシア語の典礼で歌われていたものです。

Κατακόσμησον τὸν νυμφῶνά σου Σιών, καὶ ὑπόδεξαι τὸν Βασιλέα Χριστόν, ἄσπασαι τὴν Μαριάμ, τὴν ἐπουράνιον πύλην· αὕτη γὰρ θρόνος Χερουβικὸς ἀνεδείχθη, αὕτη βαστάζει τὸν Βασιλέα τῆς δόξης, νεφέλη φωτὸς ὑπάρχει ἡ Παρθένος, φέρουσα ἐν σαρκὶ Υἱὸν πρὸ Ἑωσφόρου, ὃν λαβὼν Συμεὼν ἐν ἀγκάλαις αὐτοῦ ἐκήρυξε λαοῖς, Δεσπότην αὐτὸν εἶναι, ζωῆς καὶ τοῦ θανάτου, καὶ Σωτῆρα τοῦ κόσμου.


聖ルイ・マリ・グリニョン・ド・モンフォールによるマリアを通したイエズスへの自己奉献

2018年01月23日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 シュテーリン神父様は、2018年の新年の決心に、聖ルイ・マリ・グリニョン・ド・モンフォールによるマリアを通したイエズスへの全面的奉献をすることを提案しています。

そこで、この奉献文の日本語訳をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



マリアの御手をとおして、人となった永遠の叡智イエズス・キリストに、自分自身を奉献する

ああ、人となられた、永遠の叡智よ!ああ、いとも愛すべき、拝むべきイエズス、まことの天主、まことの人、永遠の聖父のひとり子にして終生童貞マリアの子よ!
永遠にわたって聖父のふところにおいてまた聖父の栄光の輝きのうちに、さらにまた、御身の御托身の時間においてましまし、御身のいともふさわしい御母なるマリアの童貞なる胎内のうちにましましたもう御身を、われは深く礼拝し奉る。

われを悪魔の残酷な奴隷状態から解放するため、御身は奴隷の姿を取りご自分を無にし給うたことを、われは御身に感謝し奉る。御身は、聖なる母マリアに万事において服従することをお望みになり給いしが、そは聖母を通してわれを御身の忠実な奴隷となすためなり。われは、御身を褒めたたえ、栄光を帰し奉る。

されど、悲しいかな、何と忘恩にして不忠実なることか、われは洗礼の時のかくも荘厳に御身になした誓いと約束とを守らざりけり。われは、自分の義務を果たさざりき。御身の子とも、御身の奴隷とも、われは呼ばれるに値せぬなり。われには、ゴミ同然で御身の怒りしか値するものが無きがゆえに、われ自身では御身の聖にして偉大なる御稜威に敢えて近づくを得ず。

それゆえわれは御身のいとも聖なる御母の取り次ぎと御憐れみに寄りすがるなり。御身は聖母を御身の御許における仲介者とわれに与え給えたるがゆえなり。御身から痛悔とわが罪の赦し、智恵の獲得と保存とを得ることができるとわれ期待するは、聖母の手段を通してなり。
めでたし、ああ、汚れなき御母聖マリア、天主の生ける聖櫃よ、御身において隠れたる永遠の智恵イエズスは、天使らからも人々からも、礼拝されることを望み給うなり。
めでたし、おお、天と地の元后よ、御身の支配のもとに、天主より下のものはみな全て服従するなり。
めでたし、おお、罪人の安全なよりどころよ、御身のあわれみは全ての人に及ぶなり、天主の智恵についての我れが抱く望みを聞き入れ、わが卑しさが御身に捧げる約束と奉献を受け入れ給え。

われ(名前)、信仰薄き身なれど、今日、御身の御前に、御手のうちに、洗礼の約束を新たにし、確認し奉る。われは、悪魔とその栄華とその業とを永久に捨てんことを誓い奉る。われは人となり給いし天主の叡智なるイエズス・キリストの御跡に従い、死に至るまで人生の全ての日々、おのが十字架を担い、今より後は一層主に忠実ならんがため、われ自身を全て主にささげ奉る。
われ今、天国の全ての諸天使諸聖人の前にて、御身をわが母、わが元后(Maîtresse)として選び仰ぎ、われはみずからを奴隷として御身にささげ尽くし、わが身も霊魂も、わが内的善も外的善も、過去・現在・未来におけるわが善業の功徳をもことごとく御身に捧げ奉る。
われと、われに属する全てを現世においても来世においても余すところなく、天主の最大の御栄のために御身の御旨のままに計らい自由に処理する全権を御身に委ね奉る。

ああ、優しき童貞マリアよ、永遠の叡智なるイエズスが母なる御身になし給うた服従を褒め称え、この服従に一致して、われを奴隷として御身に奉るこのささやかなる捧げ物を受け入れ給え。主と御身とが二人とも、この小さき虫けら、このあわれな罪人の上にもち給う力を褒め称え、聖三位一体が御身に与え給う諸特権に感謝し奉る。
これから後、われは御身の真の奴隷として、御身の誉れを追求し、万事において御身に従順たることを、荘厳に宣言し奉る。

ああ、いとも感ずべき御母よ、われを永遠の奴隷として、御身の愛する御子イエズスにささげ給え。御身を通してわれを贖いし主が、御身を通してわれを受け入れ給うためなり。

ああ、あわれみの御母よ!天主の真の叡智を得るみめぐみを我になし給え。そのために、御身の子かつ奴隷として御身が愛し・教え・導き・養い・保護し給う者たちの数にわれをも加え給え。

ああ、真実なる童貞よ、われをして、全てにおいて、人となった叡智である御子イエズス・キリストのいとも完全なる、御身の御取り次ぎと、模範とによりて、地上にてはイエズスの生涯の充満に、天国においては、主の栄光の充満に到達するほど完全なる、弟子、模倣者、奴隷となし給え。

アーメン。

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Consécration à Jésus-Christ, la Sagesse incarnée par les mains de Marie
proposée par saint Louis-Marie Grignion de Montfort

Ô Sagesse éternelle et incarnée ! Ô très aimable et adorable Jésus, vrai Dieu et vrai homme, Fils unique du Père éternel et de Marie toujours vierge ! Je vous adore profondément dans le sein et les splendeurs de votre Père, pendant l’éternité et dans le sein virginal de Marie, votre très digne Mère, dans le temps de votre incarnation.

Je vous rends grâces de ce que vous vous êtes anéanti vous-même en prenant la forme d'un esclave, pour me tirer du cruel esclavage du démon ; je vous loue et glorifie de ce que vous avez bien voulu vous soumettre à Marie votre sainte Mère, en toutes choses, afin de me rendre par elle votre fidèle esclave.
Mais, hélas ! ingrat et infidèle que je suis, je ne vous ai pas gardé les vœux et les promesses que je vous ai si solennellement faits dans mon baptême : je n'ai point rempli mes obligations ; je ne mérite pas d'être appelé votre enfant ni votre esclave ; et, comme il n'y a rien en moi qui ne mérite vos rebuts et votre colère, je n'ose plus par moi-même approcher de votre sainte et auguste Majesté.

C'est pourquoi j'ai recours à l'intercession et à la miséricorde de votre très sainte Mère, que vous m'avez donnée pour médiatrice auprès de vous ; et c'est par son moyen que j'espère obtenir de vous la contrition et le pardon de mes péchés, l'acquisition et la conservation de la Sagesse.

Je vous salue donc, ô Marie immaculée, tabernacle vivant de la Divinité, où la Sagesse éternelle cachée veut être adorée des anges et des hommes.

Je vous salue, ô Reine du ciel et de la terre, à l'empire de qui tout est soumis, tout ce qui est au-dessous de Dieu.

Je vous salue, ô Refuge assuré des pécheurs, dont la miséricorde n'a manqué à personne ; exaucez les désirs que j'ai de la divine Sagesse, et recevez pour cela les vœux et les offres que ma bassesse vous présente.

Moi, N..., pécheur infidèle, je renouvelle et ratifie aujourd'hui entre vos mains les vœux de mon baptême : je renonce pour jamais à Satan à ses pompes et à ses œuvres, et je me donne tout entier à Jésus-Christ, la Sagesse incarnée, pour porter ma croix à sa suite tous les jours de ma vie, et afin que je lui sois plus fidèle que je n’ai été jusqu'ici.

Je vous choisis aujourd'hui, en présence de toute la cour céleste, pour ma Mère et Maîtresse. Je vous livre et consacre, en qualité d'esclave, mon corps et mon âme, mes biens intérieurs et extérieurs, et la valeur même de mes bonnes actions passées, présentes et futures, vous laissant un entier et plein droit de disposer de moi et de tout ce qui m'appartient, sans exception, selon votre bon plaisir, à la plus grande gloire de Dieu, dans le temps et l'éternité.

Recevez, ô Vierge bénigne, cette petite offrande de mon esclavage, en l'honneur et union de la soumission que la Sagesse éternelle a bien voulu avoir à votre maternité ; en hommage de la puissance que vous avez tous deux sur ce petit vermisseau et ce misérable pécheur, et en action de grâce des privilèges dont la Sainte Trinité vous a favorisée.

Je proteste que je veux désormais, comme votre véritable esclave, chercher votre honneur et vous obéir en toutes choses.

Ô Mère admirable ! présentez-moi à votre cher Fils, en qualité d'esclave éternel, afin que, m'ayant racheté par vous, il me reçoive par vous.

Ô Mère de miséricorde ! faites-moi la grâce d’obtenir la vraie sagesse de Dieu et de me mettre pour cela au nombre de ceux que vous aimez, que vous enseignez, que vous conduisez, que vous nourrissez et protégez comme vos enfants et vos esclaves.

Ô Vierge fidèle, rendez-moi en toutes choses un si parfait disciple, imitateur et esclave de la Sagesse incarnée, Jésus-Christ votre Fils, que j’arrive, par votre intercession, à votre exemple, à la plénitude de son âge sur la terre et de sa gloire dans les cieux.

Ainsi soit-il.






ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その四、内的生活が、どれほど知られていないか

2018年01月23日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat 第一 その四、内的生活が、どれほど知られていないか をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

L'Ame de Tout Apostolat par Dom Jean-Baptiste Chautard



四、内的生活が、どれほど知られていないか

大聖グレゴリオ教皇は、人も知るごとく、すぐれた教会統治者であり、熱烈な使徒、偉大な観想家だが、聖ベネディクトの内的生活を一言で集約して、Secum vivebat「かれは、自分自身とともに生きていた」といっている。
 聖ベネディクトは、スビヤコの修道院で、かれの有名な『聖戒律』の土台をきずいたが、この聖戒律こそは、天主がこの世でお使いになった、使徒職の最も強力な道具の一つである。
 現代において、使徒職にたずさわっている人びとの大部分にかんして、「かれらは自分自身とともに生きている」と言い切れないのは、まことに残念である。聖ベネディクトは、自分自身とともに生きていた。

 現代の人々はこれと全く反対の生き方をしていると言わねばならない。

 自分自身とともに自分において生きる、自分自身を統治する、外部からのことによって支配されるがままにしない、想像を抑制し、あまりに敏感で傷つきやすいことや知性と記憶さえをも意志の忠実な下僕の地位に戻す、人々がますます受け入れないプログラムを受け入れる。この落ち着きのない時代には一つの新しい理想が生まれた。それは「活動ための活動への愛」である。

 じっさい、感覚にうずもれて生活することを、余儀なくされている現代人にとって、内的生活の修業は、そうとうつらい。つらいから、これをふりすてるために、いろんな口実を、まことしやかに、ならべたてる。

――勤め先の仕事が、あんまりいそがしいので、内的生活なんかやっているひまがない。自分は、家族のことを、心配しなければならぬ。制欲や苦業をすれば、からだをこわす。せっかくの養生が無駄になる。信心を鼻にかける、といって人に笑われる。自分の名声が台なしになる。愛国心がうすらぐ。自分が加入している何々会の顔にかかる。信心家は、天主のいっそう大いなる光栄のために、と口先ではりっぱなことをいっておるが、そのじつ、自分自身の光栄をさがしている。――

このような申しわけが、次から次へと出てきて、自分自身の内部に沈静して生きる内的生活を、不可能にしている。

 いっそうなげかわしいことは、自分自身から完全に脱けでた浮世の生活 ―― 一種の精神錯乱ともいうべきこの空虚な生活にたいして、われわれは抵抗できないほど強烈な魅惑を感じていることだ。内的生活が、人びとに知られず、なおざりにされているゆえんが、よくわかろうというもの。

 内的生活の価値は、人びとに知られていない。いや、知られていないというだけでは、なんとなくいい足りないのだ。内的生活は、軽べつされている。しばしば、物笑いのタネとなっている。わけても、内的生活の価値を、だれよりも高く評価し、その必要を、だれよりも痛切に感じていなければならぬはずの人びと――司祭、修道者からさえも……。

 われわれは、このなげかわしい事態に直面して、いまさらながら、レオ十三世教皇が、北米合衆国のバルチモアのギボンス枢機卿におくられた、あの有名な書簡のおしえを想起する必要がある。そこには、事業一点ばりの使徒職が、いかに危険な結果を招致するかが示されてい、したがって事業や活動だけを礼賛して、内的生活をなおざりにする人びとに、痛烈な一撃が加えられている。

 内的生活は、前にも一言したように、かなりつらい修業である。つらいから、その労苦をさけるために、聖職者までが、「イエズスとともに、イエズスにおいて、イエズスによって」いとなまれる、この超自然的生活の優越性を、いっこうにさとらなくなってきた。救世事業の天主的計画においては、いっさいが、ペトロの岩(教会統治権)よりむしろ、聖体を中心とする内的生活に、土台がすえらえ、重点がおかれていることを、かれらは忘れてしまった。使徒的事業をいとなむにあたり、“本質的”なものをあとまわしにして、第二義的なものを第一位におく――こういう人たちは、しらずしらずのうちに、アメリカニズムという流線形霊生の味方となって働いているようなものだ。

 かれらにとって、聖堂はまだ、プロテスタントの会堂のようには、淋しくなっていない。聖櫃もまだ、からにはなっていない。だが、かれらにいわせると、聖体を中心とする内的生活は、こんにちの文化生活には合わないのだそうだ。それはまた、文化生活の要求も満たしてもくれない、したがって、聖体の信心から必然的にでてくる内的生活は、すでに過去のもの、中世紀の残骸(ざんがい)だそうだ。

 このような考えにとらわれている人たち――しかも、かれらの数はひじょうに多い――にとって、聖体拝領は、本来の意味をうしなった。初代協会の熱烈な信者たちがいだいていた、聖体拝領のほんとうの意味は、もはやかれらのうちに見いだせない。かれらは、聖体がなんであるかぐらいは、知っている。そこに、キリストが臨在することは、読んで知っている。だが、聖体こそは、自分たちの霊魂にとっても、自分たちの使徒的事業にとっても、絶対に欠くことのできない生命源である、ということを、すこしも理解していない。だからして、聖体のイエズスと「顔と顔をつきあわせて」語りあう、いたって親密な内心の一致も、ほとんどできないところから、内的生命は中世紀の残骸にすぎない、と信じこむようになったのだ。なにも驚くには当らぬ。

 じじつ、かれらはよく大げさな言葉を連発して、自分たちのした使徒的事業の手柄ばなしをする。そばできいていると、じつにコッケイだ。――天地万物を、ただの一言で、お作りになった天主が、そして広大無辺の宇宙も、みまえにあっては、ただひとかたまりのちり、ただの虚無にすぎない、それほど偉大な天主が、自分らの手をかりないでは、なにもおできにならない、かのような話ぶりである。

 あなたは、これを他人事のようにおもってはならない。いかに多くの熱心な信者たちが、いや、司祭、修道者たちまでが、使徒的事業を、過大に評価・礼賛するのあまり、しらずしらずのうちに、このような考えを、一種の永遠不易なドグマ(信条)でもあるかのように信じこんでいることか。そして、このまちがった信念から、かれらの態度や行動をふきこまれた結果は、とうとう自分自身から脱けでた空虚な生活に、おのれを際限なくゆだねてしまっていることか。――教会も、教区も、小教区も、修道会も、事業も、みんな、この“私”を必要としている。私がいなければ始まらぬのだ。……天主にとって、私はためになる存在、いや、なくてはならぬ存在なのだ!
 なるほど、口にだしては、そういわないだろう。だが、この愚かな考えは、かれらの心の奥ふかく、どこかに潜伏しており、そこから、ウヌぼれはますます強くなり、反対に、信仰はますます弱くなっていく。

 神経衰弱にかかれば、頭を使う仕事は、いっさい禁物である。しかも長い間、そのままでいなければならぬ。そのわけは、この病気の特徴が、病人を、ちょうど熱に浮かされたような興奮の谷底へ投げこみ、この異常状態が、いわば第二の天性となり、たえまなく病人をしげきして、さらに新しいエネルギーの発散へ、さらに強い興奮の獲得へと、しゃにむに追いまくり、その結果、前よりもいっそう病勢をつのらせるからである。
 これと同じような現象が、事業一点ばりの人びとのあいだに、見受けられる。

 内的生活こそは、いらだったかれらの神経にとって、唯一の鎮静剤であるのに、かれらはこれを不愉快に思うのみか、なおそのうえ、これにたいしてはげしい嫌気さえ感じている。あきれた話だ。内的生活を、まじめに実行してこそ、かれらの霊魂の神経衰弱は、いやされるのではないか。

 そればかりではない。かれらは事業を、どんどん、ふやしていく。血気にはやって、向こう見ずの冒険をやる。ますます事業に熱中する。いそがしい業務に、おしつぶされる。――こうなったら最後、どんな療治でも、テンでききめがない。自分からそれをいやがって、受けつけないのだから。

 大海原を、全速力で航行している、一隻の汽船がここにある。船長は、速力のすばらしいのを、たいそう自慢している。だが、舵取りが、ぼんくらだ。めくら滅法に、船をあやつっている。いつなんどき、なにかにぶつかって、海底のもくずと消えないとも限らぬ。それを知っているのは、ただ天主だけだ。

 「霊とまことをもって、天主を礼拝する」――この一事をこそ、キリストはいっさいに先だって、人びとに要求されるのだ。
 アメリカ主義の信奉者たちは、ただ自分らがやってのけた外的事業だけを数え立てて、自分たちこそは、天主に大いなる光栄を帰したのだ、と盛んに自慢している。
 使徒職にたずさわっている人びとの精神が、こんなに嘆かわしい状態であればこそ、当世のカトリック系の学校や病院、養護施設や教会が、どんなにりっぱな建物で、またどんなに評判がよくても、これと正反対に、苦業や祈りによる内面的に深みのある信心生活が、ますます閑却され、ますます衰退していく一方であるゆえんが、よくわかるのである。

 当世の人びとは、人目にかくれ、ただ天主だけがごらんになる、秘めたる犠牲や苦業の価値を、もはや信じなくなってきた。だから、修道院の奥ふかく、弧寂の独房にひきこもって、かくれた犠牲と祈りに身をゆだねる観想修道者を、やれ怠け者だ、やれ空想家だ、といって盛んにけなす。

 だが、この人たちこそは、どんなに熱心で、どんなにいそがしく走りまわっている宣教師たちよりも、はるかに多く、救霊の熱情をもっているのだ。はるかに多く、霊魂を救ってもいるのだ。こういう人たちをけなすだけでも、すでに大きな過ちなのに、かれらはなおも腹の虫がおさまらぬとみえて、こんどは活動に従事する人びとの信心行為をやりだまにあげる。この人たちが、そのいたって大切な、いたって繁忙な仕事の真ッ最中に、わずかな時間をさいて、聖堂に走る。聖櫃のそばで、自分たちの冷えかかった奮発心を、再び暖めていただく。浮き世のちりでよごれた自分たちの意向を、再びきよらかにしていただく。自分たちの仕事に、りっぱな実りを与えてくださるようにと、ご聖体のイエズスにお願いする。そうでもしなければ、とうていやっていけない、と心からさとっている。――こういうけなげな活動家を、かれらはまた、盛んにくさすのである。 

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」の第一 その三、内的生活とは何か?(続き)L'Ame de tout apostolat

2018年01月22日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」の第一 その三、内的生活とは何か? の続きをご紹介いたします。


第七の真理 私はまじめに、恐れおののかねばならぬ。イエズスが私から、強く要求しておいでになる内的生活の度合いに、自分がまだ達していないのを思って。

 (一)――もし私が、イエズスのご生命に生きたいとの渇望を、ますます増大させることをやめるなら、――万事において、天主のみ心にかなうことを望ませ、どんなに小さな事がらにおいても、天主を悲しませることを怖れさせるこの渇望を、心から捨て去るならば、そのとき、私の内的進歩のあゆみは、とまってしまうだろう。
 さて、もし私が、この渇望を増大させるための手段を用いないなら、すなわち、朝の黙想、ミサ聖祭、秘跡および聖務日課、特別糺明および一般糺明、信心読書などを怠るなら、もしくは自分の過失によって、これらを十分に利用しないなら、そのとき私は、イエズスのご生命に生きたい、というこの渇望を、わざと枯らしてしまうのである。

 (二)―― もしも私が最少限の潜心 (recueillement) を持たず、そのために自分の用務にたずさわっている間でも清さのうちに私の心を保ってイエズスの御声を塞いでしまわないほどのかなり大きな寛大さを守らないなら、現れてくる死の要素を私に示し、これらの要素に対して戦うように私を招くイエズスの声を聴くことができなくなってしまう。

 さて、これを確保するための手段である典礼生活、射禱(とりわけ嘆願を含んだ)、霊的聖体拝領、天主の現存を考える修業、などを怠るなら、私はこの最少限の潜心さえ持つことができない。

 潜心がなければ、私の霊的生活に、小罪が、次から次へと、ふえてくる。そして、不幸にも、私はそれに気づかない。このなげかわしい状態を、ひたかくしにかくそうと、霊魂は、自分がその中におちこんでいる妄想さえ利用することを忘れない。信心は、実のいった実行的なものよりも、漠然とした理論的なものになってしまう。事業熱には取りつかれる。……これは、あきらかに、心の盲目である。そして、罪の責任と罰は、当然、私がこうむらねばならぬ。絶対に持っていなければならぬ潜心の不足によって、私はこの罪の原因を、自分で作りだし、それを養い、ながくたくわえていたからである。

第八の真理 私の内的生活は、せんじつめれば、“心の取り締まり”に帰着するだろう。「油断することなく、あなたの心を守れ。いのちの泉は、これから流れでるからである」(格言の書4・23)

 “心の取り締まり”とはほかでもない、私のすべての行動を監視して、それが起きるとすぐ、動機において、成就の過程において、これを毒することのできる不純なものが、いっさいはいりこまないように警戒する、ふだんの、また少なくともひんぱんの、こころづかいをいうのである。このこころづかいは、静かで、そわそわしない。たやすく実行でき、心の平安をみださないものではあるが、天主にたいする子供ごころの信頼にもとづいているから、いたって強固である。

 心の取り締まりは、精神の働きというよりむしろ、心と意志の働きである。おのれの義務をはたすために、心と意志を、いっさいのそくばくから解放し、自由にしてくれるものは、心の取り締まりである。

 心の取り締まりは、私の行動をそくばくしないばかりか、かえってこれを自由にし、完成する。なぜなら、それは、私の行動を、天主の霊にしたがって調整し、これを正しく導いて、身分上の義務に合致させてくれるからである。

 心の取り締まりは、いついかなるときも、実行できる修業である。それは私に、心の目をもって、現在の行動を監視させる。一つの行動でも、そのあらゆる部分を、それが生起するとたんに、しずかに、注意ぶかく眺めさせる。それは“Age quod agis” 「あなたが現在、なしつつあることをなせ」(他のことに気を取られてはならぬ、あなたの現在の仕事に専心せよ)という格言を、きちょうめんに守ることなのである。霊魂は、ちょうど歩哨(ほしょう)のように、自分の心のあらゆる動きに、心奥に生起するすべての現象に――感受する印象、意向、欲情、感情、心の傾きに――一言でいえば、内的、外的のすべての仕業、すべての思い、望み、言葉、行ないに、警戒の目を光らせている。
 心の取り締まりは、ある程度の潜心を要求する。
 注意の散漫な霊魂には、心の取り締まりはない。
 心の取り締まりの修業を、しばしば実行しているうちに、すこしずつ、その習慣が身につぃてくる。
 “Quo vadam et ad quid ? “ 「私はいったいどこへ行くのか? そして何のために?」
 イエズスは、このさい、何をなされるだろうか。イエズスが、私の代わりに、これをなされるとしたら、いったいどんなふうになされるだろうか。どんなお忠告を、私にしてくださるだろうか。ただいま、この瞬間、イエズスは何を、私に求めていらっしゃるのだろうか。――内的生活に飢えている霊魂は、自発的に、このような質問を、心にいだくのである。
 マリアをへてイエズスに行く――ということを知っている霊魂にとって、心の取り締まりは、いっそう容易であり、そのうえ、愛情のこもった修業となる。聖母によりすがることは、かれの心にとって、たえまない必要とさえなってくるからである。

第九の真理 霊魂が、イエズス・キリストを模倣しよう――まじめに、全面的に、そして愛情こめて、模倣しようと、心から烈しく望むとき、そのときイエズス・キリストは、霊魂の内部で、絶対の統治をお行いになる。だが、イエズス・キリストを模倣する過程には、いろいろの段階がある。

 (一)――霊魂は、いっさいの被造物にたいして、無関心となる。その被造物が、自分の気に入ろうと、入るまいと。……霊魂は、イエズスのお手本にならって、万事において、ただ天主のみ旨だけを、自分の行動の唯一の基準にする。「わたしが天からくだってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみ旨を行うためである」(ヨハネ(6・38)

 (二)――「キリストは、ご自身をよろこばせることは、なさらなかった」(ローマ15・3)
 霊魂は、おのれの自然の感情にとって、気に入らないもの、いやなものに、いっそう喜んで近づく。イエズス会の創設者・聖イグナチオが、その有名な『霊操』の一章「キリストのみ国」の中でいっている、“Agendo contra” 「万事において、おのれ自身に逆らって行動せよ」という境地が、このとき実現する。

 これはおのれの自我、おのれの自然的傾向に逆らう行為であって、そのめざすところは、キリストの清貧、その苦しみへの愛、その屈辱への愛を、なにものにもまさって模倣することにある。聖パウロの表現をかりるなら、霊魂は、このとき、「ほんとうにキリストを知る」(エフェゾ4・20)のである。

第十の真理 私が、どんなにみじめな罪びとだろうと、私が祈りたいと望み、また天主の恩寵に忠実でありたいと望みさえすれば、イエズスは私に、内的生活に立ちもどるためのいっさいの手段を、よろこんでお与えになる。そして、この内的生活のおかげで、私はイエズス・キリストの親友となり、私の霊魂のなかにあるかれのご生命を、ますます成長発展させることができる。そうだったら、この苦しい、困難な霊的試練の途上においてさえ、私はたえまなく、内心の喜悦を味わうことができる。かくて、イザヤ預言者の言葉が、私において、みごとに実現するのである。

  そうすれば、あなたの光りが暁のようにあらわれ出て、
  あなたは、すみやかにいやされ、
  あなたの義は、あなたの前に行き、
  主の栄光は、あなたのしんがりとなる。
  また、あなたが呼ぶとき、主は答えられ、
  あなたが叫ぶとき、
  「わたしは、ここにおる」と言われる。
  主は常に、あなたをみちびき、
  よき物をもって、あなたの願いを満ち足らせ、
  あなたの骨を強くされる。
  あなたは、うるおった園のように、
  水の絶えない泉のようになる。(イザヤ58・8~11)

 第十一の真理 天主が、もし私に、私の活動を、ただ私一個人の成聖のためばかりでなく、さらに使徒的事業のためにも活用することをお求めになるなら、そのときは、万事に先んじて、心の中に、次のような強い信念をかたち造らねばならぬ。
 「イエズスこそは、私のこの事業の生命でなければならぬ。イエズスはそれをお望みになるのだ!」と。
 私の努力だけでは、ダメである。絶対ダメである。
 「わたしから離れては、あなたがたは何ひとつできないのだ」(ヨハネ15・5)
 私の努力が、りっぱな実を結ぶための、また天主に祝福されるための、唯一の条件は、それが、ほんとうの内的生活によって、イエズス・キリストの万物を生かす天主的ご活動に、たえまなく一致していることである。そうすれば、私のつたない努力でも、じつに全能のちからをおびるのだ。「わたしは、わたしを強くしてくださるかたによって、何ごとでもすることができる」(フィリッピ4・13)
 だから、もし私の努力が、高慢な自負心から生まれているなら、もしそれが、各自身の才能と力量にたいする過度の自信から、または成功だけをこいねがう功名心の一念から出ているなら、それは天主から排せきされるにきまっている。
 天主の栄光から、その幾分かを奪い取り、これをもって、おのれをかざろうとするのは、私にとって、ゆるすべからざる汚聖の罪ではないだろうか。
 「キリストを離れては、自分は何もできないのだ!」この信念が、霊魂の活動を、よわよわしく消極的にすると思ったら、大まちがいだ。かえって、これを強壮にし、男性的にする。
 この信念こそは、私の“力”である。この信念があればこそ、謙遜を修得するためのに、どんなにか、祈りの必要を、痛感することだろう。
 謙遜こそは、霊魂の宝である。天主のお助けの確証である。事業成功への保証である。

 この点、最も大切な根本原理である。このことを、身にしみてさとった上は、心霊修業のあいだに、次の諸事項を、まじめに検討して、自己反省をしなければならぬ。
 私の活動は、単独では超自然的にゼロである。だがしかし、それがイエズス・キリストの天主的ご活動に合流されるときは、全能のちからをおびる――というこの信念が、私のうちに、よわくなってはいないか、どうか。

 はたして、私は、いっさいの自己満足と虚栄を、――わが使徒的活動において、その成功をおのれに帰せようとするいっさいのウヌぼれを、私の心から、なさけ容赦もなく、追放しているか、どうか。

 はたして、私は、自分自身にたいして、絶対の不信用をおいているか、どうか。

 自分の事業を生かしてくださるように、また、天主のお助けにとって第一の、そして根本的障害となる高慢から、自分を救ってくださるようにと、はたして私は、天主に祈っているか、どうか。
 上の事がらを、まじめに反省してみることだ。

 これこそは、内的生活の“信条”なのだ。これが、霊魂にとって、その存在の土台となるとき、霊魂はすでにこの世ながら、天国の幸福にあずかるだろう。

 内的生活こそは、天国の永遠の幸福に予定された人びとの生活である。

 内的生活こそは、天主が人類を創造するにあたっていだいておられた、人間の終局の目的に、ピッタリ即応する生活なのである。
 それはまた、天主の御ひとり子のご托身の目的にも、りっぱにそっている。「天主が、その御ひとり子を、世におつかわしになったのは、わたしたちを、かれによって、生きさせるためである」(ヨハネⅠ 4・9)

 内的生活こそは、人間が心のそこから願いもとめる、最高の幸福の状態なのである。
 「人間の終局の目的は、天主と一致することである。ここにこそ、人間の幸福は存するのだ」
 聖トマス・アクィナスが、こう言っている。
 内的生活のよろこびは、地上の歓楽とはちがって、たとえ外部にはイバラのとげがあっても、内部にはいつも、幸福のバラが咲きみだれている。
 「この世の歓楽をのみ追及する人びとは、あわれである。その姿は痛ましい……」アルスの聖司祭が、こういっている。「かれらは、裏にイバラのとげのあるオーバーを着ている。すこしでも身を動かせば、肩がチクチク痛む。これに反して、まことのキリスト信者は、やわらかい毛皮のついたオーバーを着ている」
 世人は、「十字架だけを見つめて、その背後にかくされている、なぐさめと喜びを見ない」(聖ベルナルド)

 内的生活こそは、天国の生活である。霊魂は、生ける天国となるのだ[1]。
 聖女マルガリタ・マリアのように、かれもまた、こう歌うことができよう――
  
われは、いつでも所有する、われは、いずこにも持ち運ぶ、
わが心の天主を、わが天主の聖心を。

Je possède en tout temps et je porte en tout lieu
Et le Dieu de mon coeur et le Coeur de mon Dieu.

 これこそは、聖トマス・アクィナスが言っているように[2]“永遠の幸福の開始”“Inchoatio quaedam beatitudinis” でなくて、なんであろう。
 まことに、成聖の恩寵こそは、地上における天国の芽ばえなのだ。

[1] Semper memineris Dei, et coelum mens tua evadit (St. Ephrem). Mens animae paradisum est, in qua, dum coelesitia meditatur, quasi in paradiso voluptatis delectatur (Hug. a Sancto Victore).
[2] 2a 2ae, qu. 180. art. 4.

聖ピオ十世会 2018年1月の聖伝のミサ(トリエント・ミサ)の報告 SSPX JAPAN report of Traditional Mass

2018年01月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 大阪と東京で聖伝のミサを捧げることができ、天主様に感謝します。今月は、毎年恒例の「踏み絵への償いの式」をすることができました。

絵踏みは1628年長崎で始まりました。長崎奉行を勤めた元外様大名竹中采女が発案したものです。

竹中采女は残酷な男で、信者の墓あばきや女・子供に至るまでに拷問をし、信徒をことごとく検挙して棄教を強要しました。従わない者は、雲仙で熱湯による責苦が与えられ、西坂では逆吊しによる拷問を受けました。

悪魔は、竹中に非常に恐ろしい事を思いつかせました。悪魔はマリア様の踵によって踏まれたので「マリア様を踏んでやろう」と。そこでピエタとか、マリア様の御像、あるいは御メダイを、毎年信者に踏ませました。230年の間、1858年に締結した日米修好通商条約によって踏絵制度が廃止されるまで、キリシタンと一緒に、マリア様も迫害を受けて苦しまれました。隠れキリシタンたちは、まず「サンタ・マリア様」を探しました。1866年にプチジャン神父様が大浦天主堂で信徒発見できたのは、マリア様のおかげです。

絵踏みの儀式は、毎年一月に行われました。そこで、私たちも毎年一月に償いの儀式を行っています。レプリカの踏み絵に映っている悲しみのマリア様をお慰めするために、ことしも接吻を捧げました。私たちを愛しているにもかかわらず、子供たちからつらい拒絶を受けておられるマリア様に、すくなくとも私たちの愛をお捧げしました。

マリア様は涙を流しておられます。日本の救霊の為に苦しむ涙です。悲しみのマリア様は、1975年の初土曜日から1月の初土曜日から、1981年の9月15日の悲しみの聖母の日まで、101回の涙を流しています。日本をこんなにも愛しているにもかかわらず、無視されて、冷淡で、無関心で、マリア様の愛は足蹴にされている事を嘆いている涙でした。

天使はある時言います。「日本はマリア様に捧げられたという事を喜んでいるけれども、この信心は全く無視されている。非常に悲しんでおられる」と。

愛する兄弟姉妹の皆様も、どうぞご自宅で絵踏みの償いとしてマリア様の御影にあるいは御像に接吻をお捧げください。

マリア様は「私たちが踏むべきものは何か」という事を教えてくれます。私たちが踏むべきものは罪であって、罪の機会であって、悪であって、偽りの教えである、と。

聖母よ、私たちを憐れんでください!















天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました。
この度は、御ミサに、終課、絵踏みの償いとしての踏絵への接吻式、御公現のチョークの祝別、御浄めのローソク行列の聖歌練習と、
盛りだくさんのスケジュールでとても濃い二日間となりました。
ハードなご聖務の中きっとお疲れになっておられたと思いますが、日本の信徒のために目いっぱい働いて下さる神父様に、どれ程感謝しなければならないかとつくづく思いました。本当にありがとうございました。

御公現のチョークで 20+C+M+B+18 と、家の玄関ドアの上に書くカトリックの習慣については前から知っていましたが、どうして三人の博士の頭文字を書くのか知りませんでした。
C.M.B.が、Chrisutus mansionem benedicat .「キリストがこの家を祝福して下さいますように」という言葉の頭文字と同じだからというご説明を聞いて、この習慣の意味もわかり、人に尋ねられてもお答えできるようになりました。

19日金曜には13名の方々が、20日土曜日には16名が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!

金曜日のミサの聖福音ではカナの婚礼の部分が朗読されました。神父様のお説教で、聖福音についてよく黙想させて頂くことができました。
私達はミサに与るたびにキリストの花嫁として教会の一員としてキリストと霊的一致という結婚を再現している。そう黙想しながらミサに与り、御聖体を拝領しました。

また、私の水がめにはただの水、いえそれ以下のものしか入れることができなくでも、マリア様が仰るとおりにイエズス様のみ摂理に従えば、たとえそのみ摂理が自分に理解できないような無駄なようなことに思えても、イエズス様は最高の葡萄酒に変えて下さるという訓示には感動して嬉しくなりました!

また、カナの新郎新婦がマリア様を一番に婚礼にご招待した事に倣う事も決して忘れてはいけない、簡単で大事な事だと痛感しました。
自分の水がめを、マリア様のみ心への信心でいっぱいにすることを頑張ろうと思います。

土曜日のお説教で聖ファビアノ教皇様と、聖セバスチアノの生涯について黙想させて頂きました。
今年の8月、ローマへ巡礼に行くお恵みをいただき、まさにこの聖セバスチアノの聖堂、ご遺骸が安置されているすぐそばへ行った事を思い出しました。
セバスチアノが治癒の取次ぎをして下さる聖人だとは知らなかったのでお祈りしそこねた事があってちょっと残念ですが、大阪のマリア様の御心の中から、聖セバスチアノ様にお祈りしてお取次ぎを願う事にします。

また、聖歌練習 ではローソク行列の説明をして頂き、長い間救い主を待ちわび、やっとマリア様の御浄めの日に救い主を見、抱くことができたシメオンに倣い、御浄めのロウソクの行列には、私達一人一人がシメオンになって、光であるイエズス様をあらわすローソクに接吻して、抱き、最後まで命つきて天国に入るまでこの火を胸にもっていなければならない教会の意向があったのだと初めて知りました。当日は力が入りそうです!聖歌練習をがんばらねば・・・。

この度も本当にたくさんのお恵みに感謝致します。
天主様からどれほど多くのお恵みを頂いているかを知らない人々のためにもたくさんお祈りしなければいけないと思う出来事もあった日でした。
いつも神父様から頂くお言葉ですが、小野田神父様の上にも天主様の大きな祝福とお恵みがありますように!

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 28人(内、子供3人)
女: 27人(内、子供3人)
計: 55人(内、子供6人)


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「『主よ、主よ』と口で言う者が天の国に入るのではない。私の聖父の御旨を果たす者が、天国に入る。」 聖父の聖旨とは何か?(2017年1月22日 御公現後の第3主日のミサ フルーガー神父様御説教)

「聖家族の祝日」。その核心のメッセージとは?「御降誕と御公現」のミサとの違いとは?(2017年1月8日(主日)イエズス、マリア、ヨゼフ、聖家族の祝日のミサ)

マルレ司教様来日)2016年9月8-12日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 「堅振式の訓話では、ディオクレティアヌス帝の治世、ローマの殉教者である聖セバスチアノの話をしていたただきました。聖セバスチアのは皇帝の近衛兵で、妻子もありました。当時のローマは皇帝を神のように崇拝していましたが、しかし、セバスチアノはイエズス・キリストを信じ皇帝の前で公にカトリック教徒であることを宣言し、ついに殺されることになりました。・・・」


ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第一部 三 内的生活とは何か?

2018年01月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

名著「使徒職の秘訣」(ドン・ショタール著 山下房三郎 訳)の
第一部の 第三、内的生活とは何か? をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


三、内的生活とは何か? 

 本書によくでてくる“念祷の生活”とか、“観想”とか、“観想的生活”とかいう言葉は、実はカトリック教会の教父や、スコラ神学者が好んで用いた術語であるが、ここではきまって、“どんな人にもできる、通常の内的生活”の意味であって、けっして神秘神学の研究対象である、並はずれた念祷の状態でもなければ、まして恍惚とか、示現とか、脱魂とか、そういう異常の状態を意味するものでないことを、お断りしておく。
 このへんで、神秘神学の研究に道ぐさを食っていたんでは、本書のかんじんな主題から、脱線してしまうおそれがある。で筆者はここでは、「おのれの霊魂を、内的に調整してゆくために、各自が受けいれねばならぬ諸真理のうち、絶対的確実性を持つもの」だけを、いくつか簡単に記述するにとどめたいと思う。

第一の真理 超自然的生命とは、信・望・愛によって、私の霊魂の内部においていとなまれる、イエズス・キリストご自身の生命である。

 なぜなら、イエズスこそは、成聖の恩寵がわれわれの霊魂にほどこされるための、功徳による原因(Causa meritoria)、われわれの聖性の模型となる原因(Causa exemplaris)、目的となる原因(Causa finalis)であり、そのうえ、聖言として、御父と聖霊とともに、恩寵を生じる原因(Causa efficiens)でもあられるからである。
 この超自然的生命によって、キリストは、われわれの霊魂のなかにお住まいになるのであるが、その臨在の仕方はけっして、聖体拝領の時のように、肉身をそなえた臨在ではない。それはあたかも、頭や心臓が、四肢五体におよぼす活動のように、“生命の活動”による臨在である。そして、この活動は、霊魂の秘奥においていとなまれ、そのありさまは、心には実感されない。私の信仰の功徳を増すために、天主がわざとそうされるのである。
 ゆえに、それはふだんに、知・情・意などの私の自然能力には感知されない。ただ、信仰だけが、この活動の実際にいとなまれていることを、私に確信させる。
 だが、それはひとつの高貴な天主的活動であって、私の自由意志の行使に、なんらのコントロールもおかず、いっさいの第二次的原因―日常茶飯の出来ごとも、有情の人間も、心なき事物も―みんなこれを縦横に駆使して、私に天主のみ旨を知らせてくれる。私に、天主的生命への参与を獲得し、もしくは深化させる機会を与えてくれる。
 超自然的生命は、洗礼のとき、霊魂に“恩寵の状態”がかたち造られた瞬間に始まる。この生命はまた、堅振の秘跡によって完成され、罪によって失われたときは、告解の秘跡によって回復され、聖体の秘跡によって維持され、ゆたかにされていく。
 この生命こそは、私の霊魂の“生命”―キリスト教的生命そのものなのである。

第二の真理 この生命が、霊魂に芽ばえると、イエズス・キリストは私に、ご自分の霊なる聖霊をお与えになる。聖霊は、私さえそのお働きにじゃまをしなければ、私にとって、高貴な霊的活動の源泉となる。すなわち、聖霊のインスピレーションによって、私はキリストとともに、キリストにおいて、キリストによって、またキリストのごとくに、考え、判断し、愛し、望み、苦しみ、かつ働くように仕向けられる。私の外面的活動は、私の霊魂にお住まいになるキリストご自身の生命の、外的表示でしかなくなる。「もはや私が生きるのではなく、キリストこそ、私のうちにお生きになるのである」(ガラツィヤ2:20)
 このようにして、私は、聖パウロによって方式化された“内的生活”の大理想を、すこしずつ実現していく。
 キリスト教的生活、信心生活、内的生活、聖なる生活――これらはいずれも、それぞれ本質的に異なる別種の生活をさしていっているのではない。たったひとつの愛の太陽から放射される、光度と熱度の差異を称して、そういっているまでにすぎない。同じ太陽の光線でも、宇宙を照らす度合いに応じて、薄明、あけぼの、真昼の明るさ、さん然たるかがやき、などと呼ばれるではないか。
 本書に使われている“内的生活”という言葉は、誰もが常時に、潜在的に、霊魂の内部にもっている、静止的な内的生活をさしているのではない。それは、いわば“天主的生活の資本”とでも呼ばれるべきものであって、成聖の恩寵さえもっていれば、誰もがこの種類の内的生活はいとなんでいる、といえるのである。筆者がここに使っている“内的生活”の真意は、霊魂が自身の活動と、また助力の恩寵への忠実な協力とによって、この天主的生命の資本を活用して、超自然的な仕事をする、いわば行動的な、実用的な内的生活のことである。それは次のように、定義することができよう。

内的生活とは――
 「霊魂が、おのれの自然的傾向を善導するため、これに向かって戦いをいどみ、かつ万事において、福音の光りと主イエズス・キリストのお手本にしたがって、ものごとを判断し、おのれの動きを正しい方向に調整してくれる良い習性を獲得しようと努力する、その活動の状態」
をいうのである。

 それゆえ、内的生活には、必ず二つの運動がある。
 第一の運動によって、霊魂は、超自然的生命にとって障害となることのできる、すべての被造物から離脱する。(Aversio a creaturis)
 第二の運動によって、霊魂は、天主にあこがれ、天主と一致する。(Conversio ad Deum)

 このようにして、霊魂は、キリストが生命の各瞬間に、自分にお与えになる恩寵に、忠実でありたいと望む。一言でいうなら、霊魂は、イエズスと一致して生活する。そして、イエズスの仰せられた、「もし人が私につながっており、また私がその人につながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」(ヨハネ15:5)とのお言葉を、わが身に実現するのである。

 第三の真理 私の霊魂の内部に、イエズスが臨在して、ちからづよく活動しておいでになる、というこの事実を、私は確実に、徹底的に、信ずるように努力しなければならぬ。とりわけ、イエズスのご臨在が、私にとって、私の霊魂の全能力をくまなく浸透する、一つの生き生きとした、最高に生き生きとした現実となるように、その獲得にむかって、修業しなければならぬ。もしそうでなかったら、私はこの内的生活を獲得するための、最も有力な手段の一つを、欠くことになろう。このご臨在によってこそ、イエズスは私の光り、私の理想、私の忠告者、私の支柱、私の助け、私の避難所、私の力、私の医師、私のなぐさめ、私のよろこび、私の愛 ―― 一言でいえば、私の“生命”となってくださるのである。このようにして私は、すべての善徳を獲得することができよう。そのとき初めて私は、ミサ聖祭のあとで、感謝のために、母なる教会が私のくちびるにのせてくれる、聖ボナヴェントゥラの ≪Transfige, dulcissime Domine Jesu……》(いとも甘美なる主イエズスよ……)という、あの感動にみちた祈りを、ほんとうにまごころこめて、となえることができよう。

 第四の真理 天主に対する愛が、ますます深くなっていくにつれ、私の超自然的生命も、いのちの各瞬間ごとに、成長発展することができる。私の霊魂の内部におけるイエズスの、ちからづよい活動をともなうご臨在は、いのちの各瞬間ごとに、いちいち新しい恩寵を、私の霊魂にそそぎ入れてくれるからである。

 この恩寵は、次のような機会に、霊魂にそそぎ入れられる。
(一)――功徳になる行為を、なすたびごとに。すなわち、善業、働き、種々の苦しみ、被造物からの自発的離脱、心の痛み、身体のわずらい、謙遜、自己放棄、祈り、ミサ聖祭、聖母マリアにたいする信心行為、などなど。
(二)――すべての秘跡、とりわけ、聖体の秘跡によって。

 これは、ほんとうに、確実な真理であり、事実である。そしてこの真理は、その高さと深さによって、私を驚倒させるが、同時に、とりわけ私の心をよろこばせ、はげましてくれる。

 ああ、イエズスよ、あなたはほんとうに、一つ一つの出来ごと、ひとりひとりの人物、一つ一つの事物によって、客観的に、そして生命の各瞬間ごとに、あなた自身を、私にお与えになります。あなたは、ご自分の知恵と愛を、これらの出来ごと、人物、事物などの外観のもとにおかくしになり、私の内にあるあなたのご生命に、私がますます成長していくようにと、私の協力をうながしてやみません。

 ああ、私の霊魂よ、イエズスはまことに、“現在の恩寵”というありがたいおめぐみによって、いのちの各瞬間に、ご自身を、おまえに与えてくださる。祈りをするとき、ミサ聖祭をささげるとき、またはこれにあずかるとき、信心読書をするとき、苦業をするとき、熱誠、克己、心戦、信頼、愛のわざをするとき、ああ私の霊魂よ、おまえはこのイエズスのご注視から、のがれることができるだろうか。

第五の真理 原罪によって生じ、一つ一つの自罪によって勢力を増していく三つの邪欲が、私の内に、“死の元素”をかたち造り、これがイエズスのご生命にむかって、たえまなく戦っている。さて、この死の元素が、私の内に、成長し発展すればするほど、逆に天主的生命のいとなみは弱くなる。最後には、死滅してしまうことすらある。
 しかしながら、この超自然的生命に反抗する私自身の、自然のわるい傾向も感情も、またはどんなに烈しい、どんなに長びく悪魔の誘惑さえも、私の意志が、それに強く抵抗しているかぎり、この天主的生命を害することはできないのだ。これは、なぐさめにみちた真理だが、それらは他のあらゆる心戦の要素のように、この天主的生命を、私の霊魂の内に発展させ、ふやしてくれさえもする。ただし、それは、私の奮発心の度合いに応じて……。

第六の真理 ある手段を、忠実に実行しないなら、知恵は暗くなり、意志は弱り果てて、私の内にある天主的生命を持続し、発展させるために、イエズスに協力することができなくなるだろう。したがって、天主的生命は、だんだん弱くなっていき、ついには、“意志の冷淡”に落ちこむ。このようにして私は、心の散漫、怠け、錯覚、迷いなどによって、小罪と手をにぎるようになる。その結果、私の救霊は、不安定となる。たやすく大罪をおかす心がまえが、できあがっているからである。

 もし私が、不幸にも、このような冷淡におちいっているのなら、(いわんや、冷淡よりももっとひどい処まで行っているのなら)、あらゆる手段をつくして、これから脱け出るように、精をださねばならぬ。そのためには――

 (一)――天主の畏敬の念を、あらたに心によび起こす。そのためには、四終――すなわち、死、審判、天国、地獄、永遠、罪などを、生き生きとした、印象深い姿のもとに、眼前に思いうかべる。
 (二)――痛悔心を、あらたに起こす。
 ああ、いつくしみ深い救い主よ、あなたの御傷の語る愛の知識によって、私は精神的にカルワリオへ行き、あなたの尊いみ足のもとにひれ伏します。どうか、あなたの生ける尊い御血が、私の頭に、心に、雨のようにふりそそいで、心のやみをはらいのけ、魂の氷をとかし、意志のねむりを、ゆりさましてくださいますように。

(この章 続く)

【注】聖ボナヴェントゥーラの祈りは次の通り。
TRANSFIGE, dulcissime Domine Iesu, medullas et viscera animae meae suavissimo ac saluberrimo amoris tui vulnere, vera serenaque et apostolica sanctissima caritate, ut langueat et liquefiat anima mea solo semper amore et desiderio tui, te concupiscat et deficiat in atria tua, cupiat dissolvi et esse tecum.
Da ut anima mea te esuriat, panem Angelorum, refectionem animarum sanctarum; panem nostrum cotidianum, supersubstantialem, habentem omnem dulcedinem et saporem, et omne delectamentum suavitatis. Te, in quem desiderant Angeli prospicere, semper esuriat et comedat cor meum, et dulcedine saporis tui repleantur viscera animae meae; te semper sitiat fontem vitae, fontem sapientiae et scientiae, fontem aeterni luminis, torrentem voluptatis, ubertatem domus Dei.
Te semper ambiat, te quaerat, te inveniat, ad te tendat, ad te perveniat, te meditetur, te loquatur, et omnia operetur in laudem et gloriam nominis tui, cum humilitate et discretione, cum dilectione, et delectatione, cum facilitate et affectu, cum perseverantia usque in finem; ut tu sis solus semper spes mea, tota fiducia mea, divitiae meae, delectatio mea, iucunditas mea, gaudium meum, quies et tranquillitas mea, pax mea, suavitas mea, odor meus, dulcedo mea, cibus meus, refectio mea, refugium meum, auxilium meum, sapientia mea, portio mea, possessio mea, thesaurus meus, in quo fixa et firma et immobiliter semper sit radicata mens mea et cor meum. Amen.

【参考資料】
L'Ame de Tout Apostolat par Dom Jean-Baptiste Chautard



シュナイダー司教「教会がネオカテクメナート(新求道共同体)をロビー活動の圧力無しに深く客観的に調査する時が来る。その時彼らの教義と典礼における誤謬が明らかにされる。」

2018年01月20日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年3月6日、ハンガリーの「ジョン・ヘンリー・ニューマン・高等教育センター」にアタナシウス・シュナイダー司教が訪問し、ニューマン・センターの校長であるダニエル・フュレップ(Dániel Fülep)とインタビューをしました。


 その時のインタビューの中から一部抜粋を紹介します。全文は次で読むことができます。
John Henry Newman Center of Higher Education, Hungary, Sümeg, 6 March 2016

前回の記事:シュナイダー司教「ネオカテクメナート(新求道共同体)は教会の内部における、カトリックの飾りを付けたプロテスタント・ユダヤ教的な共同体」の続きです。

ダニエル・フュレップ「ではこの共同体が一体どうやって教会によって公式に認められることができたのですか?」

シュナイダー司教「これは別の悲劇です。彼らはバチカンにおいて少なくとも30年前に強力なロビーを確立しました。また別の騙しがあります。多くのイベントで、彼らは極めて多くの回心の実りと多くの召命を司教たちに提示します。多くの司教たちは実りによって盲目となり、彼らの誤謬を見なくなってしまい、彼らを吟味しません。彼らは大きな家族らを持っており、多くの子供たちがおり、家庭生活において高い道徳の規準を持っています。これはもちろん良い結果です。しかし、家庭を圧迫して最大限の数の子供たちを得るようにするというオーバーな行動もあります。これは健康的ではありません。彼らは、私たちはフマネ・ヴィテ[28]を受け入れている、と言い、これはもちろん良いことです。しかし、究極的にはこれは幻想です。何故なら現代では世界で多くのプロテスタントのグループも高い道徳の規準をもち、多くの子供たちを産み、ジェンダー・イデオロギーや同性愛に反対して抗議し、フマネ・ヴィテを受け入れているからです。

しかし、私にとって、これは真理の決定的な判断基準ではありません!多くのプロテスタントの共同体も罪人らを、つまりアルコールや麻薬の中毒になっている人々を回心させています。ですから、回心の実りは私にとって決定的な判断基準ではありません。また私は、罪人らを回心させて多くの子供たちを持っているようなプロテスタントのグループを自分の司教区に招いて使徒職をするように頼みません。これは多くの司教たちの抱いている幻想です。彼らはいわゆる「実り」に盲目になっています。

ダニエル・フュレップ「教えのうちで隅の親石は何ですか?」

シュナイダー司教御聖体の教えです。これこそが心臓部です。まず実りを見て教義と典礼を無視するあるいは気にかけないというのは間違っています。教会がこの共同体を、ネオカテクメナート(新求道共同体)のロビー活動の圧力無しに、深く客観的に調査する時が来ると確信しています。その時、彼らの教義と典礼における誤謬が明らかにされるでしょう。

[28] フマネ・ヴィテ(Humanae vitae)は、パウロ六世によって書かれ1968年7月25日に発布された回勅である。副題は「産児調節について」であり、ほとんどの産児制限の形式を拒否している。

聖ピオ十世会司祭 レネー神父様:お説教・霊的講話 【総集篇】

2018年01月20日 | お説教・霊的講話
私たちの敬愛するレネー神父様は、2017年11月22日にフェレー司教様から、2018年の2月付きでオーストラリアのタイノン(Tynong)というところにある聖トマス・アクイナス学校の校長先生として新しく任命を受けました。

私たちは2013年3月から、レネー神父様の素晴らしいお説教を聞く機会に恵まれ、神父様の豊かな知識と経験とから多くの指導やアドバイスをいただくことが出来たことを深く感謝します。

神父様の我が身を忘れるほどの献身的で奉仕的な聖務と祈りは、私たちの模範でした。神父様の勤勉さと責任感と謙遜と愛徳は、私たちにとっての宝でした。愛する兄弟姉妹の皆様のしもべは、今からちょうど30年前に故郷を離れて聖ピオ十世会の神学校に入学しました。知性においても愛徳においてもその他の徳においても、優れた神学生や司祭たちの中で、共同生活を送るというお恵みを頂いてきました。そのお恵みの偉大さは、天主様にどう感謝したら良いか分からないほどです。

小教区の教会で一人で任命を受けて働いておられる司祭がおられます。そのお仕事はどれほど大変でありましょうか! 同じ兄弟である司祭とともに喜びと責任とを分かち合って司祭生活ができると言うことは、どれほど偉大な善でしょうか!Ecce quam bonum et quam jucundum habitare fratres in unum!

その中でも、日本と韓国のミッションを一緒に分かち合って協力して働いてくださったレネー神父様には、心からの感謝で一杯です。
レネー神父様の新しいミッションのために、愛する兄弟姉妹の皆様の熱烈な祈りをお願いいたします。

2013年3月~2017年12月までの、レネー神父様の素晴らしい「お説教と霊的講話」をリンク集にしてまとめました。
どうぞお読みください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2013 年
「共贖者である聖母について」 2013年3月23日大阪

「二つの復活」 2013年3月31日復活祭 大阪

「生命の目的についての真理」 2013年8月11日大阪

「無原罪の御宿りについて~いけにえの条件」 2013年12月15日大阪


2014 年
「聖母の七つの悲しみ:共贖」 2014年4月11日大阪

「キリストの偉大さについて」 2014年4月12日大阪 13日枝の主日東京

「復活祭 説教」 2014年4月20日大阪

「天主が罪びとを本当に癒やす恩寵」 2014年7月13日大阪

「被昇天の説教」 2014年8月15日大阪 17日東京

「聖ピオ十世の生涯」 2014年8月31日大阪

「聖母マリアへの信心」 2014年9月12日大阪

「十字架の神秘」 2014年9月14日大阪

「天主のお与えになる報酬」 2014年11月1日大阪

「死に関する真理」 2014年11月9日大阪

「洗者聖ヨハネの使命」 2014年12月7日大阪

「無原罪の御宿りについて~天主の傑作」 2014年12月5日大阪

「クリスマス 説教~天主は御独り子与え給うたほどこの世を愛された」 2014年12月25日大阪


2015 年
「聖家族の祝日の説教~家族の善について」 2015年1月11日大阪

「聖パウロの道徳~キリストに倣う」 2015年3月16日大阪

「五旬節の主日の説教~霊戦における3つの武器」 2015年2月15日五旬節の主日 大阪

「共同受難の聖母」 2015年3月27日 大阪

「枝の主日の説教~キリストの統治」 2015年3月29日枝の主日 東京

「復活祭の説教~現代の教会の受難 イエズス・キリストの権威」 2015年4月5日復活祭 大阪

「復活祭の霊的講話~良い麦と毒麦の神秘」 2015年4月5日復活祭 大阪

「主の御昇天後の主日~御昇天の有益性」 2015年5月17日 大阪

「主の御昇天後の主日~聖霊を待ち望む」 2015年5月17日 大阪

「イエズスのご聖体、聖心がいかに天主的であるか」 2015年6月14日 大阪

「恩寵が律法を守るということ」 2015年7月12日 大阪

「マリアの聖なる御名~謙遜の徳」 2015年9月13日 大阪

「創造の歌と贖いの歌」 2015年9月13日 大阪

「王たるキリスト~天国への道における二重の助け」 2015年10月25日 大阪

「カトリックの黙想と仏教の黙想の大きな違い~前編」 2015年10月25日 大阪

「煉獄の霊魂について」 2015年11月15日 大阪

「アヴィラの聖テレジア著「完徳の道」による、主祷文(天にまします)の解説」 2015年11月15日 大阪

「待降節第三主日~洗者聖ヨハネ」 2015年12月13日 大阪

「無原罪の御宿り~原罪について」 2015年12月13日 大阪



2016 年
「十戒について~私達の究極の幸せとは何であるか」 2016年1月10日大阪

「天主の十戒『第一戒』(第一部)命の掟、十戒」 2016年1月11日大阪

「天主の十戒『第一戒』(第二部)「礼拝」について」 2016年3月13日大阪

「天主の十戒『第一戒』(の最後)と 『第二戒』」 2016年3月13日大阪

「天主の十戒『第三戒』 ー私たちは日曜日に何をする義務がありますか?」 2016年4月10日大阪

「天主の十戒『第四戒』 ー隣人に対する掟の中で、第一の掟ー」 2016年4月10日大阪

「天主の十戒『第五戒』ー汝殺すなかれー人間の命は天主のみわざである」 2016年5月20日大阪

「天主の十戒『第六戒』ー汝姦淫するなかれー命の伝達を尊重せよ」 2016年5月21日大阪

「天主の十戒『第七戒』ー汝盗むなかれー命を守る外的な手段を尊重せよ」 2016年5月21日大阪

「天主の十戒『第八戒』ー汝偽証するなかれー心から真実を語り、舌でそしらぬ人となれ」 2016年6月12日大阪

「天主の十戒『第九戒』ー汝、人の妻を恋うるなかれー私たちが罪と闘わなければならないのは、そのまさに根っこ、心の中においてである。」 2016年7月17日大阪

「天主の十戒『第十戒』ー汝、人の持ち物をみだりに望むなかれーこの世に愛着するな、至高の善、いと高き天主、永遠の救いを無視するな。」 2016年7月17日大阪

「聖霊は「主であり命の与え主」であるー聖霊降臨の大祝日お説教」 2016年5月15日大阪


「三つの福音的勧告」 2016年8月14日大阪

「ローマと聖ピオ十世会の関係について(前半)」 2016年5月22日大阪

「ローマと聖ピオ十世会の関係について(後半)」 2016年5月22日大阪

「ロザリオについて―聖なるロザリオの神秘と黙想」 2016年10月9日大阪

「罪の結果、恩寵の必要性」 2016年10月9日大阪

「恩寵はどのように働くのか」 2016年10月9日大阪

「聖母の連祷についての解説」 2016年8月15日ソウル

「秘蹟について 『洗礼の秘蹟』」 2016年11月13日大阪

「秘蹟について 『幼児洗礼』そして『堅振』について」 2016年11月13日大阪

「ルターの誤謬と異端思想について」 2016年11月13日大阪

「新しいミサと聖伝のミサの違いについて」 2016年12月11日大阪

「無原罪の御宿りについて」 2016年12月11日大阪


2017 年
「秘蹟について 『ご聖体』 その2)犠牲」 2017年1月15日大阪

「秘蹟について 『ご聖体』 その3)聖体拝領」 2017年1月15日大阪

「秘蹟について 『悔悛』 」 2017年2月12日大阪

「秘蹟について 『悔悛』(続き)」 2017年2月12日大阪

「秘蹟について 『終油』 」 2017年3月12日大阪

「秘蹟について 『聖なる叙階』」 2017年5月14日大阪

「秘蹟について 『結婚』 」 2017年7月9日大阪

「御変容について」 2017年3月12日大阪

「リベラリズムについて」 2017年4月9日大阪

「ファチマの聖母―マリアの汚れなき御心」 2017年5月14日大阪

「いとも聖なる三位一体の祝日の説教」 2017年6月11日大阪

「聖霊について」 2017年6月11日大阪

「自分に対して他人が犯した罪を赦すこと」 2017年7月9日大阪

「霊的戦い(霊戦)について」 2017年9月10日大阪

「聖ピオ十世について」 2017年9月10日大阪


「ファチマ100周年」 2017年10月15日大阪

「聖ピオ十世会は離教状態にあらず」 2017年10月15日大阪

「ルターの誤謬について」 2017年11月12日大阪

「聖マルティノと祈りの諸段階」 2017年11月12日大阪

「無原罪の御宿りと結婚について」 2017年12月10日大阪

「唯一の救い主、私たちの主イエズス・キリスト」 2017年12月17日大阪・東京

「聖骸布についての講話」 2017年12月4日東京

「2017年のクリスマスの説教」 2017年12月25日大阪・東京

「使徒職の秘訣」第一部 二 イエズスこそが使徒的活動の生命――これが天主のお望みである

2018年01月20日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

名著「使徒職の秘訣」 Chautard, Jean Baptiste, Dom著 著,山下房三郎 訳の
第一部の 第二 イエズスこそが使徒的活動の生命 をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


  二、イエズスこそが使徒的活動の生命 ――これが天主のお望みである

 なるほど、科学は、その数おおい、そして花々しい成功を、ほこることができよう。
 しかもそれは、ただしいほこりである。
 だが、科学に、どうしてもできないことが、ひとつある。今日まで、そうだったが、いつまでたっても、同じことだろう。
 科学に、どうしてもできないひとつのこととは、化学者の実験室から、生命をつくりだすことである。
 麦のひと粒を、サナギの一匹を、つくりだすことである。
 自然発生説の主張者たちが味わった、痛ましい敗北は、右の真理を、われわれに教えてくれた。
 生命をつくりだす機能は、ひとり天主のみが持っておられる。
 植物界・動物界において、いわゆる活魂をもっているものは、自身で生長し、自身で繁殖することができる。だが、それでも、かれらの生長や繁殖は、造物主から規定された条件下においてのみ、可能である。
 ところが、理知をそなえた生命の創造にかんするかぎり、天主はこれを他人まかせにしないで、ただご自分お一人だけの権限内に留保される。理性をそなえた霊魂は、天主から直接につくられる。さらに、“超自然的生命”の創造にかんしては、天主はいっそう大きな嫉妬の念をもって、これをただご自分お一人だけの権限内に留保される。なぜなら、超自然的生命とは、三位一体の天主的生命がまず、人となられた天主の聖言のご人性にそそぎ入れられたもの、―― 次に、この同じ天主的生命の流れが、被造物に、いわば“放出”されたものに外ならないからである。
 聖言の受肉と人類救済――この二大事実が、イエズスを、この天主的“生命”の源泉、しかも“唯一の”源泉にした。そして、すべての人は、この天主的生命に参与すべく、天主から召されている。そのために要求される条件は、「われらの主イエズス・キリストによりて」「Per Dominum Nistrum Jesum christum」である。「かれによりて、かれとともに、かれにおいて」「Per Ipsum, cum Ipso, et in Ipso」である。天主的生命を、人びとの霊魂にそそぎ入れるために、教会が使用する実質的手段は、秘跡であり、祈りであり、伝道であり、その他、これにかかわりのある一切の使徒的事業である。
 天主は、その御ひとり子の仲介なしには、いかなるものも、おつくりにならない。「万物は、かれによって造られた。造られた物のなかに、ひとつとして、かれによらずに造られたものはない」(ヨハネ1:3)
 自然界において、すでにそうであるのなら、なおさら超自然界においては、そうなのである。すなわち、天主がご自分の内的生命を人びとにわかちあたえ、人びとをご自分の本性にあずからせて、これを“天主の子ども”となされる、超自然のわざにおいては、なおさらのことである。
 「聖言に、生命があった」(ヨハネ10:10 )
 「わたしは、生命である」(ヨハネ14:7 )
 「わたしがこの世に来たのは、人びとに、生命を得させ、いっそうゆたかに得させるためである。」(ヨハネ10:10 )
 なんとハッキリとしたお言葉だろう。右の真理を、主ご自身お説きあかしになった、「ぶどうの樹とその枝」のたとえ(ヨハネ15章参照)は、なんと光明にみちたものだろう。
 「かれだけが、イエズスだけが、生命である。したがって、この天主的生命のいとなみにあずかるためには、さらにまた、これを他の人にあたえるためには、どうしても、まず自分が、天主の人イエズス・キリストに、つながっていなければならぬ」
 この根本真理を、使徒たちに十分納得させるために、イエズスはどれほどの熱情をかたむけつくされたことだろう。
 それゆえ、この天主的生命を、人びとの霊魂にそそぎ入れるために、救い主に協力する栄光に召されている人たちは、自分自身にかんしては、どうしても謙遜して、次のように考えていなければならぬ。――すなわち、自分は天主の恩寵を人びとの霊魂に通じるための、運河にすぎないのである。したがってそこを流れる恩寵の水は、始終これを、その唯一の源泉なるイエズスから、引いてこなければならないのだ、と。
 使徒職にたずさわる人びとの中に、右の原理を知らないで、キリストのお助けがなくても、自分の力だけで、超自然的生命を生みだすことができる、と少しでも考えている者があれば、そういう人は、神学を知らないか、それともうぬぼれが強いか、どっちかである。
 また、こんな人もいる。すなわち、キリストが、天主的生命の唯一の源泉であることは、理論的には百も承知である。だが、事実上、この真理を全く忘れ去っているかのように行動する。キリストにたいして失礼になる、愚かなうぬぼれのために、心の目がくらんで、自分自身の力だけを頼りにしている。これは、前者にくらべて、罪は軽いが、そのやりかたは、無軌道であり、天主の御眼には、がまんできない代物(しろもの)である。
 右の真理を、頭から排せきする。もしくは、理論的には、りっぱに承認していても、行動面では、それを念頭におかない。――どちらも、「知的無軌道」である。理論からいっても、実際からいっても、無軌道である。
 それは、われわれの行動の土台であり、指導原理であるべき根本真理を、頭から否定することである。そして、この真理が、使徒職専従者の心に、罪と故意の冷淡の結果、いっさいの光りの源なる天主に背を向けることにより、もはや光りを放たないようになると、右にいった無軌道はますます増長する。これは、明白な事実だ。
 さて、使徒的事業を遂行するにあたり、実行面で、あたかもイエズス・キリストが、超自然的生命の唯一の源泉でないかのように行動するなら、それはメルミヨ枢機卿が、いみじくも言明しているとおり、あきらかに“事業の異端”である。
 事業の異端! 自分は天主のみ手に使われている、ただ第二義的な、しかも従属的な道具にすぎないのに、このぶんざいを忘れて、自分の使徒的事業の成功を、専らおのれ自身の活動と、才能にだけ期待している使徒の感覚を非難して、枢機卿はそういっているのである。これは、あきらかに、「天主の恩寵がなければ、人間は超自然的には何もできない」という、カトリック教会の伝統的恩寵論を、事実上、根本から否定し去ったやりかたではないか。
 ――いや、そうではない、そういう結論はでてこない、とあなたはおっしゃるかも知れないが、しかし、ちょっと考えてみれば、筆者のこの断定は、深く真実をうがっていることが、おわかりになろう。
 事業の異端!よく言ったものである。
 熱に浮かされたような、落着きのない人間的活動が、天主のお働きに取ってかわる。天主の恩寵なんて、こっちの知ったことではない。――人間の高慢が、イエズスの王座に肉迫する。超自然の生命も持たない。祈りの効果も信じない。霊魂の救いのために、せっかく天主から定められた方法を排除して、採用しない。理論的にはともかく、すくなくとも実行的には、それらを、ゆるがせにして、かえりみない。――こういうケースは、われわれの想像の程度をはるかに超えて、世間にはざらにあるものだ。使徒職にたずさわっている人びとの霊魂を解ぼうしてみれば、各自、程度の差はあっても、この悪弊があまりに暴威をふるっているのに、驚かされるくらいである。
 現代は、天主を無視した自然主義、人間万能主義の横行する時代である。人びとは、とりわけその外観によって、事物の価値を判断する。使徒的事業の成功が、主として、人知の巧妙な事業組織によって獲得されるもののごとくに信じこんで、そのように行動している。
 生まれつき、すばらしい素質や才能にめぐまれた人が、ここにいる。
 だが、かれは、おのれのうちに他人がみとめる、これらの驚嘆すべき才能が、天主の賜ものであること、わざと否認する。こういう人にたいして、われわれはあわれみの念を禁じえない。あながち、超自然の光りに照らされるまでもなく、健全な良識さえ持っておれば、こういう人が、きのどくな人間だということは、すぐにわかる。
 いわんや、ここにひとりの使徒がいて、天主のお助けを全然無視し、自分だけの力で、天主的生命のごくわずかでも、人びとの霊魂にそそぎ入れることができるとうぬぼれているなら、たとえ口にだしてそういわなくても、心でそう考えているなら、こういう使徒をみて、いやしくもひとかどの宗教的教養をもっている信者ならば、なさけない思いがしないだろうか。
 福音の伝道に従事する人で、こんなことを言っている者があるとする。
 「天主よ、わたしの使徒的事業に、いかなる障害もおいてくださいますな。げんにある障害はすべて、取りのぞいてください。そうしましたら、わたしは責任をもって、この事業をみごとに成功させて、お目にかけましょう・・・」
 こんな言葉を耳にするなら、われわれは、「ああ、なんてバカな人間だろう!」と、冷笑せざるをえないだろう。
 それもそのはず、こんな人を冷笑するこの考えは、実は天主から来ているからである。
 天主は、このような秩序の逆転、このような無軌道ぶりをごらんになるとき、怒りにたえない。高慢のあばれ馬にムチうつとき、人間はどこまで暴走するか。――かれは、ただ自分ひとりの力で、人びとに超自然の生命を与えたいのだ。人びとの霊魂に、信仰を生みだしたいのだ。罪をおかすのをやめさせ、善徳を実行させ、熱心な信者にしたいのだ。――ただ自分ひとりの力で。
 このようなすばらしい超自然的成果を、天主の恩寵に帰したくないのである。いっさいの恩寵と、いっさいの超自然的生命の代価であり、存在理由であり、手段であるイエズス・キリストの尊い御血の、直接な、たえまない、普遍的な、無限に強いお働きに、それを帰したくないのである。こんなにうぬぼれのつよい使徒をごらんになっては、さすがに忍耐づよい天主も、とうていがまんできないのである。
 そんなわけで、天主は御子のご人性のメンツにかけても、これらの偽キリストを、なさけ容赦もなく、処分せねばならぬ。で、高慢が生みだすかれらの事業を、天主はめちゃくちゃにし、かれらの事業が、砂漠の蜃気楼のように、はかない幻影におわることを、お許しになるのだ。
 Ex opre operato (行なわれる業そのものによって効力を生ずるもの)に、霊魂に働きかけるもの、たとえば秘跡のようなものは、これを執行する聖職者の個人的聖性のいかんにかかわりなく、確実に、恩寵を霊魂にほどこす。
 で、これは、ここでは問題にならないが、事ひとたび、業をおこなう者の個人的価値いかんによって(Ex opre operantis)、その効果が左右される事業にかんするかぎり、天主は救世主イエズス・キリストの名誉回復のために、自己満悦にひたっている使徒には、その最上の祝福をこばみ、代わりに、イエズスという天主的ぶどうの樹からだけ、恩寵の樹液を吸収することを知っている謙虚な枝に、それをお与えになるのである。
 そうでなく、もし天主が、“事業の異端”と呼ばれるこの病毒に虫ばまれた活動に、りっぱな、そして長続きのする効果をお与えになることによって、このような活動を祝福されるようなことでもあれば、それはいったい、どういうことになるのか。――この無軌道を助長するのは、天主ご自身である、この病毒の感染を平気で放任しているのは、天主ご自身である――といわれても、仕方なかろう。


聖ピオ十世会日本の聖伝のミサ(トリエント・ミサ)御公現後第三主日(2018年1月21日)の楽譜や動画のリンク

2018年01月19日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでしょうか。次の日本での聖伝のミサは次の通りです。

 大阪:
1月19日(金)午後6時
1月20日(土)午前10時半


 東京
1月21日(主)午前10時半
1月22日(月)午前07時

をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

3rd Sunday after Epiphany
Introit • ScoreVideoMp3Organist • Adorate Deum omnes Angeli ejus

Adorate Deum omnes angeli ejus. Audivit, et laetata est Sion; et exsultaverunt filiae Judae. Dominus regnavit; exsultet terra; laetentur insulae multae.

Gradual • ScoreVideoOrganist • Timebunt gentes

Timebunt gentes Nomen tuum, Domine, et omnes reges terrae gloriam tuam. V. Quoniam aedificavit Dominus Sion, et videbitur in majestate sua. Timebunt gentes Nomen tuum, Domine, et omnes reges terrae gloriam tuam.

Alleluia • ScoreVideoOrganist • Dominus regnavit exsultet terra

Alleluia alleluia. Dominus regnavit a ligno, exsultet terra, laetentur insulae multae, alleluia.

Offertory • ScoreVideoOrganist • Dextera Domini(聖木曜日のOffertoriumと同じです)

Dextera Domini fecit virtutem, dextera Domini exaltavit me. Non moriar, sed vivam, et narrabo opera Domini.


Communion • ScoreVideoMp3Organist • Mirabantur omnes

Mirabantur omnes de his quae procedebant.

シュナイダー司教「ネオカテクメナート(新求道共同体)は教会の内部における、カトリックの飾りを付けたプロテスタント・ユダヤ教的な共同体」

2018年01月19日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年3月6日、ハンガリーの「ジョン・ヘンリー・ニューマン・高等教育センター」にアタナシウス・シュナイダー司教が訪問し、ニューマン・センターの校長であるダニエル・フュレップ(Dániel Fülep)とインタビューをしました。

 その時のインタビューの中から一部抜粋を紹介します。全文は次で読むことができます。
John Henry Newman Center of Higher Education, Hungary, Sümeg, 6 March 2016

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ダニエル・フュレップ「キコの共同体、ネオカテクメナート(新求道共同体)の道について司教様のご意見は何ですか?」

シュナイダー司教「これは極めて複雑で悲しい現象です。オープンにはっきり言ってしまうと、これはカトリック教会におけるトロイの木馬です。私は彼らのことをよく知っています。何故なら私はカザフスタンにおいて、カラガンダにおいて、数年間彼らのための司教代表だったからです。私は彼らのミサや会合にも何度も出席しましたし、彼らの創立者であるキコの書いたものを読みました。ですから私は彼らのことをよく知っています。

私が外交なしにオープンに話すなら、私はこう言わなければなりません。ネオカテクメナートは、教会の内部における、カトリックの飾りだけを付けたプロテスタント・ユダヤ教的な共同体[23]です。

最も危険な側面は、御聖体に関するものです。何故なら御聖体は教会の中心部(心臓)だからです。この中心部(心臓)がおかしくなっているとき、体全体もおかしくなります。ネオカテクメナートにとって、御聖体とは第一に兄弟的な宴会です。これはプロテスタントです。典型的にルター的な態度[24]です。彼らは御聖体が真の犠牲であるという概念と教えを拒絶します。彼らは御聖体を犠牲であるする聖伝の教え、そして聖伝の信仰は、キリスト教的ではなく異教的である[25]という見解さえ持っています。
これはまったく馬鹿げてきます。これは典型的にルター的でありプロテスタント的です。彼らの御聖体の典礼の間、御聖体をまったく軽々しく取り扱います。時として恐るべきこととなります[26]。
御聖体拝領の時に彼らは座り、小さな破片には神経を払わないのでそのまま捨てられます。御聖体拝領の後、沈黙のうちにイエズスに祈り、礼拝する代わりに、彼らはダンスを踊ります。これは本当にこの世的であり、異教的で、非超自然的です。

第二の危険は、彼らのイデオロギーです。ネオカテクメナートの主要な考えは、彼らの創立者であるキコ・アルグェジョ(Kiko Argüello)によれば次の通りです。すなわち、教会は理想的な生活をしていたが、しかしこれは四世紀のコンスタンティノ皇帝の時までで、その時までだけが効果的に現実の教会であった。ところがコンスタンティノ皇帝とともに教会は不健康となり始めた。教義的にも、典礼的にも、道徳的にも廃退していった。[27] そこで教会は、この教義と典礼の廃退のこれ以上落ちることができない岩盤の底に到達したが、それがトリエント公会議の教令である、と。

しかしながら、キコの意見とは反対に全く正反対が真実です。つまり、トリエント公会議は教会歴史の最高点の一つでした。それはトリエント公会議の教義と規律の明快さによります。

キコによると、教会の暗黒時代は四世紀から第二バチカン公会議まで続いたことになっています。第二バチカン公会議によって初めて教会に光がやって来た、と。

これは異端です。何故ならこれはつまり聖霊が教会を捨て去っていたと言うことだからです。これは本当にセクト的(新興宗教的)でマルチン・ルターと同じ線にあります。ルターは、自分が来るまで教会は暗闇の中にいた、自分を通してのみ教会に光がある、と言いました。キコの立場は、ルターと根本的に同じです。ただ違うのはキコは教会の暗黒時代をコンスタンティノ皇帝から第二バチカン公会議までとしたことだけです。従って、彼らは第二バチカン公会議を間違って解釈しています。彼らは自分たちこそが第二バチカン公会議の使徒であると言います。そう言うことによって、自分たちがやっている全ての異端的な実践や教えを第二バチカン公会議を使って正当化するのです。これは重大な乱用です。

ダニエル・フュレップ「ではこの共同体が一体どうやって教会によって公式に認められることができたのですか?」

(続く)


[23] この共同体は、教会の典礼をプロテスタントとユダヤ教の要素を混ぜ合わせている。
[24] この共同体は、典礼聖省が彼らの典礼乱用を承認することを長い間待っていた。典礼聖省に照会をして、信徒のための教皇庁評議会が新求道共同体の公教要理の方針(Catechetical Directory)とそこにある典礼外の実践を承認した。従ってがこの許可は典礼以外の実践のみ適応する。2012年1月20日の教令は、新求道共同体の「典礼革新」と何の関係もない。この「典礼革新」は、直ぐさま終わらせなければならない。何故ならそれは教会の普遍的な法規と実践に反しているからだ。
[25] トリエント公会議(1545–63)は、プロテスタントの見解に反対して、次のことをドグマとして宣言した。すなわち、ミサ聖祭の犠牲は罪の償いの要素を含める(DH 1743, 1753)。犠牲はキリストご自身によって命じられた。これは単なる記念でも栄光化でも感謝でもなく、生ける人と死せる人のために捧げられる罪の償いの現実の犠牲である。しかし、ミサが現実の犠牲であるという事実は、キリストの犠牲が繰り返されなければならない、ということではない。教会はキリストの犠牲を異教の人身御供に変えるのではない。ミサ聖祭は十字架の犠牲の繰り返しではない。ミサ聖祭は秘蹟の印のもとでキリストの唯一の犠牲が現前することである。この意味において、ミサ聖祭は「記念」である。ここにおいて、秘蹟の経綸の現実が現前する(DH 1740)。キリストは、ミサ聖祭においても十字架の上に置いても同じ最高司祭である(DH 1743)。
[26] 新求道共同体の典礼は、ローマミサ典書の総則にも従わず、その他の典例法規にも従わず、自分自身の「典礼革新」にのみ従う。新求道共同体の典礼のやり方は乱用で一杯である。実際、バチカンは平信徒が彼らのミサで説教をしたり、典礼の最中に信徒が踊ったり、感謝の祭儀の祈りの時に跪かずに立ったままでいたり、座ったまま聖体拝領したり、キリストの御血が入った大きなカリスを手渡したりすることについて注意した。教会音楽についての規定も全く無視されている。別の問題は、新求道共同体は信徒たちを小教区と教会から分離させる。主日のミサ聖祭は乱用だらけで、常に共同体の「プライベートなミサ」として土曜日の夕方に捧げられる。普通は教会の中ではなく、世俗の場所、たとえば共同体の部屋で。
[27] 313年6月13日、コンスタンティノ皇帝はミラノの勅令を発し、キリスト教の迫害を終わらせ、キリスト教をローマ帝国の有効な宗教として認めた。315年、同じ皇帝は死刑の方法としての十字架を廃止し、異教の諸宗教が有していた特権をカトリック教会にも与えた。321年コンスタンティノ皇帝は主日を休日とした。ローマ帝国の絶対的な支配者として、324年からローマ帝国中における教会の制度的基礎を確立することを助けた。プロテスタントらは、カトリック教会の制度的構造と社会政治的強さの確立、及び王座と祭壇の結びつきは、異教主義の勝利であると考えている。

「使徒職の秘訣」第一部 その一 使徒的活動 ―したがって熱誠事業― を天主はお望みになる

2018年01月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

名著「使徒職の秘訣」 Chautard, Jean Baptiste, Dom著 著,山下房三郎 訳の
第一部の一 使徒的活動 ―したがって熱誠事業― を、天主はお望みになるを
兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。


第一部 天主は、外的活動も、内的活動も、お望みになる


一、使徒的活動―したがって熱誠事業―を、天主はお望みになる


 このうえなくおおらかであること、絶対に物惜しみをしないこと―これこそは、天主性の特長である。
 天主は、無限に、善良であられる。さて、善良なる者の心のあえぎは、ただひとつ―それは、自分がもっている善や幸福を、他の者にもわかちあたえたい、ということである。
 わが主イエズス・キリストの地上生涯をみれば、そのことがよくわかる。それは、天主のこの汲めども尽きないおおらかさの、たえまない表れだった。福音書をちょっと見てもわかるとおり、イエズスの聖心は、世の人びとを、天主の真理に、永遠の生命に引きよせようと、かわくほど望んでおられる。そして、そのたどられた道々に、慈悲と哀憐と博愛のたからを、おしげもなくまきちらしていく。
 この使徒職の炎を、イエズス・キリストは、ご自分の花よめなる教会にも、おわかちになった。それは、かれの愛のプレゼントである。かれの生命のあふれである。かれの真理の解明であり、かれの聖性のかがやきである。この天主的炎にあふられ、活気づけられたればこそ、カトリック教会は、世紀の流れを通じて、天主なる花むこのお手本にならって、使徒的事業を継続していくのではないか。
 「人間は、おなじ他の人間によって、救霊の道を、示されねばならぬ」(レオ十三世のお言葉)
 ああ、天主の摂理がうちたてた、感嘆すべくも世界的なこの計画よ、この法則よ!なるほど、ただイエズス・キリストだけが、世のあがないの代価である。尊い御血を流された。キリストは、ちょうど聖体の秘跡においてそうなされるように、単独で直接、人びとの霊魂に、御血の功徳をほどこし、そこでお働きになることができたにちがいない。しかし、かれは、その恩寵の分配の仕事において、協力者を、助手を、お求めになる。なぜだろうか。
 むろん、天主としてのかれの威厳が、それを要求するにちがいなかろうが、それにもまして、人びとにたいするかれの永遠の愛が、かれにそうさせるのである。その臣僕をして、霊魂の統治にあたらせるのは、天地の王なる天主にとって、ふさわしいことではあろう。だが、この貧しい、いやしい被造物なる人間を、ご自分の事業の労苦と栄光に参加させてくださるのは、天主のがわからいって、どれほどのおおらかさであることだろう!
 十字架の上でうぶごえをあげ、救世主のつらぬかれた脇腹から生まれでた教会は、おのれの使徒職にたずさわる人びとを使って、天主の人イエズス・キリストの慈悲と贖罪の事業を、世の終わりまで続けていく。イエズス・キリストのご意志によって生まれたこの使徒職は、教会が、万国民の霊魂に、天主的生命をそそぎ入れるための、実質的機関であり、人びとの霊魂を征服してゆくための、最も通常の武器なのである。
 使徒職にたずさわる人びとの中で、第一番にくるのが“聖職者”であって、その聖なる階級は、キリストの軍団の幹部を形成している。かくも多数、かくも聖にして奮発と熱誠にもえる司教・司祭たちから成る聖職者階級は、それだけでもすでに、栄光と称賛にあたいする存在だが、特にアルスの聖司祭の列聖によって、ひときわ異彩を放った。
 聖職者についで、教会の初期から、いわば“志願兵”の軍団が存在してきた。それはまことに、精鋭の軍団で、その持続的な、花々しい生長発展の姿は、まさしく教会が、活気に富む霊体であることを示す、最もあきらかな証拠の一つとして、指摘されるべきである。
 これに属する者では、まず初代の世紀における、観想的修道会の人びとがあった。かれらは、そのたえまない祈りと、はげしい苦業によって、異教世界の回心に貢献するところが甚大であった。
 中世紀に起こったのは、説教修道会、托鉢(たくはつ)修道会、騎士修道会、および異教徒から信徒の俘虜をあがないもどす英雄的使命を目的とした、種々の修道会である。
 最後に、現代においては、あたかも雨後の竹の子のように、諸種の修道会が群起している。その中には、教育を目的とするもの、職業を教えるもの、外国宣教を主要目的とするもの、その他、多種多様の修道会がある。そして、かれらの使命は、種々の形式のもとに、物心両面の恩恵を世の人びとにほどこすことにある。
 そのほか、教会は、あらゆる時代を通じて、信徒のあいだに、一騎当千の協力者を見いだしてきた。それは、たとえば、熱心なカトリック信者であった。現代では、何々団、何々会、と名のついているもの、いわゆる“事業の人”と名づけられるもの、伝道熱にもえる人たちがそれである。かれらはいずれも、自分たちの力をたがいに結集して、共通の母なる教会への奉仕に、一切をささげつくしている。一切を ― 時間も、才能も、財産も、そしてしばしば自由さえも。また、時としては、おのれの血、おのれ自身のいのちさえも。
 使徒職に献身するこれらの人びとの雄々しい姿は、だれも感激なくして眺めることができない。それはまた。大きな励ましとなる。
 このように、天主はおぼし召しの時に、時代の要請と情勢にみごとに即応した、いくたの事業を、摂理のみ手をもって、さかんに起こしてくださるのである。教会の歴史は、このことを雄弁に物語っている。 ― 教会に、なにか新しい必要が起こって、これを満たしてやらねばならない時、教会がなにか新しい危険におびやかされて、これからおのれを安全にまもらねばならない時、そういう時には、きまって、当代の必要が要請する新しい修道会の創立をみるのである。
 そんなわけで、今日でも、とりわけ現代社会のひどい罪悪の激流に抵抗するために、昨日まではほとんど知られていなかった、諸種の新しい使徒職が起こりつつある。すなわち、初聖体をよく準備させるためのカトリック要理の教授、初聖体拝領後の少年、少女、および信者、未信者へのカトリック要理の教授、各種の信心会、祈祷の使徒会、レジオ・マリエ、慈善の使徒職なる聖ビンセンシオ・ア・パウロ会、黙想会、学生連盟、カトリック学士会、カトリック医師会、カトリック文芸協会、カトリック経営の諸学校、カトリック出版物・・・などなど。
 これらの使徒職は、いずれもみな、「わたしは、あなたたちの霊魂のために、大いに喜んで、すべてを費やし、わたし自身さえも費やすつもりである」(コリント後12:15 )といった、聖パウロの魂を燃えたたせていた、火のような伝道精神に霊感されて、起こったものである。じっさい聖パウロは、イエズス・キリストの御血の功徳を、すべての人の心にそそぎ入れようと、かわくほど望んでいたのである。
 キリストの王国の伸張発展をめざして、布教戦線の第一線に立つこれらの人びとに、わたしはこのつたないページをささげる。かれらは、おのれの尊い使命を達成するために、熱誠と奮発に燃え、情熱をかたむけつくして、働いてはいるだろう。だが、同時に、ある種の危険にもさらされてはいないだろうか。
 外面的活動が激しいので、身も心も消耗しつくした結果は、「何よりもまず、内的生活の人」でありえない状態に在るのではなかろうか。また、いつの日か、どうにも説明のできない不成功により、さらにおのれの霊魂にこうむった甚大な損害によって、内生不足の当然の罰を受けることでもあるなら、そんなとき、すっかり意気消沈して、全く戦意をうしない、まるで敗残兵のように、布教戦線を脱落するようなことはないだろうか。
 本書に盛られている思想は、実は筆者自身のためにも、少なからず利益となったことを、ここに告白する。いろんな雑務に追いまくられている関係上、ややともすれば、外面の世界におし流されようとする危険にむかって、たたかうために。
 どうか本書が、筆者と同じ危険にさらされている人びとを、世俗化の不幸から、救ってくれますように。また、かれらに、天主の事業のために、“事業の天主”を棄ててはならぬ、という真理をなっとくさせて、かれらの勇気を鼓舞し、かれらの活動を、正しい軌道にのせてくれますように。
 さらにまた、聖パウロが、「ああ、もしわたしが、福音を述べ伝えないならば、わざわいなことよ」(コリント前9:16)といった言葉は、けっしてわれわれに、「人は、たとえ全世界をもうけても、もしその霊魂をうしなうならば、なんの利益があるだろう」(マテオ16:25)とのキリストのお言葉を、忘れさせる口実を与えるものではない、ということを、ふかくさとらせてくださいますように。
 ここに、家庭の父母がある。
 かれらは、『信心生活の入門』を、愛読している。
 ここにまた、キリスト信者の夫婦がある。かれらは、たがいに使徒職にたずさわるのは、自分の義務である、また、子どもたちを、キリストへの愛と模倣にむかって教育していくのも、自分らの義務である、と信じている。こういう人たちは、本書のあたえる教訓を、たやすく、自分に適応することができるであろう。
 かれらの使徒的奮発心を、いっそう効果的にするためには、ただ信心深くあるということだけでは足りないのだ。どうしても内的生活がなければならぬ。さらにまた、かれらの家庭を、イエズス・キリストの精神をもって、かおらせるためには、どうしても、内的生活がなければならぬ。最後に、かれらの家庭を、永久にかわらない平和―いろんな試練があっても微動だにしない、そしていつまでも、真にキリスト教的家庭の家宝として存続するこの平和をもって、きよく美しくかざるためには、どうしても、内的生活がなければならぬ。この内的生活の必要を、もしかれらが本書によって、いっそう痛切に感ずるようになるなら、まことにさいわいである。

名著「使徒職の秘訣」序説(Dom Chautard 著 山下房三郎 訳)

2018年01月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 名著「使徒職の秘訣」 Chautard, Jean Baptiste, Dom著 著,山下房三郎 訳を、兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

 原著はL'Ame de Tout Apostolatで、聖ピオ十世会の神学生は、神学校入学と同時にこれを読むことを課されます。

序説

Ex quo omnia,     すべては、天主から
Per quem omnia,    すべては、天主によって、
In quo omnia.     すべては、天主のために
                         (ローマ 11 : 36 )

ああ、かぎりなく偉大、かぎりなく善良な天主よ。あなたの内的生命にかんして、信仰がわたしたちに啓示するもろもろの真理は、まことに感嘆すべきものです。また完全に、わたしたちを驚倒させます。
 聖なる御父よ、あなたは永遠から永遠にわたって、あなたの完全なイメージなる聖言(みことば)のうちに、あなたご自身を、静観していらっしゃいます。
 聖言は、あなたの美しさに見とれて、こころおどり、―かくて、あなたと聖言との双方のご恍惚から、無限愛の炎が、すなわち聖言が、発出されます。
 ああ、拝むべき三位一体の天主よ、あなただけがタダひとり“内的生命”でいらっしゃいます。―円満な、みちあふれている、そして終わりのない!
 はてしもなく善良な天主よ、あなたは、あなた自身を、その内的生命の外部にも、そそぎだそうとお望みになりました。あなたがひとこと、言葉をおだしになりますと、御手のわざなるすべての被造物は、虚無の中からおどり出て、あなたのもろもろの完徳をあらわし、あなたの栄光をうたいます。
 創造主なるあなたと、あなたのお息のひとふきによって造られ、そして生かされたちりにすぎない人間とのあいだには、無限にふかいふちがよこたわっていましたのに、あなたの霊なる愛の聖霊は、これをあとかたもなく、埋めつくそうとおぼし召されました。
 このようにして、聖霊は、愛したい、おのれを他の者に与えたい、というそのはてしないご意欲を満たす手段を、お見いだしになるのです。
 かくて、聖霊は、ちりにひとしい人間を、天主の境地にまで高め、これを“天主化”しようとのご計画を、あなたのふところで、おたてになりました。このご計画によりますと、御手によって、人間のかたちにつくられましたこのひとかたまりの土は、“天主のように”なり、あなたの永遠の幸福にあずかることができるのです。
 ああ、前にも後にも絶えてあるまじき、愛の奇跡でありますことよ―このご計画は!
 この驚嘆すべき大事業の達成を、あなたの聖言は、みずから進んで、お引き受けになります。
 かくて、聖言は、人となられました―人間を“天主”にするために!(聖アウグスチヌスの言葉)
 しかし、聖言よ、あなたは人におなりになっても、“御父のふところ”を絶対に、お離れになりません。
 「御父のふところ」―ここにこそ、あなたのご生命の実質があるのです。ここにこそ、あなたのご生命の源泉があるのです。ここからこそ、あなたの使徒職の、賛嘆すべきすべての活動が、流れでているのです。
 ああ、イエズス、わたしたちとともにいます天主―エンマヌエルよ、あなたは使徒たちに、あなたの“福音”と、あなたの“十字架”と、あなたの“ご聖体”を、おあずけになりました。さらに、全世界に出て行って、すべての国民に福音を述べ伝え、天にいますわたしたちの御父のために、無数の子どもをもうける―という使命を、かれらにお授けになりました。
 それがすむと、あなたは、御父のみもとに、お帰りになりました。
 それ以来、天主の人イエズス・キリストの神秘体を聖化し、これを統治する任務をお引き受けになりましたのは、聖霊よ、あなたでございます。
 神秘体の頭なるキリストから、肢体なるわたしたち信者の霊魂に、“天主的生命”をそそぎ入れるためのお仕事に、聖霊よ、あなたはかたじけなくも、人の子らの中から、協力者を、助手を、お選みになりました。聖霊降臨のよき日、天からふりそそいだ天主の火に燃えさかった使徒たちは、全世界に出て行って、天主のお言葉を、人びとに述べ伝えて、その精神を照明し、天主の恩寵を、人びとの心にそそぎ入れて、天主の愛に燃えあがらせ、―このようにして、あなたが、ご自身のうちに、あふれるほどに持っておいでになる“天主的生命”を、あまねく世の人びとにも、わかちあたえられるのでした。

 ああ、天主の“火”よ。ああ、イエルザレムの高間のしあわせな黙想者なる使徒たちを、一瞬にして別人にされました聖霊よ、あなたの使徒職に参加するすべての人の心に、主を愛する熱心の火を、燃えさからせてください。そういたしましたら、かれらはもはや、ただカトリックの教義や道徳の説教者となるだけでは満足せず、さらに進んで、キリストの尊い御血を、人びとの霊魂にそそぎ入れる、生ける“輸血者”となるでしょう。
 光の聖霊よ、どうぞ使徒職にたずさわる人びとの心に、次の真理を、不滅の文字をもって、きざみつけてください。すなわち―
「かれらの使徒的活動は、あなたを究極の原理とし、イエズスを唯一の源泉とするこの超自然的生命を、かれらが自分自身で生きぬく度合いに応じてのみ、効果を生ずるものである。」
という真理を!
 ああ、無限の愛なる聖霊よ、どうぞかれらの心に、内的生活にむかっての、はげしいあこがれの火をたきつけてください。あなたのおやさしい、ちからづよい愛の火花で、かれら
の霊魂を浸透し、そしてかれらに深くさとらせてください。―うつし世の旅路における、まことの幸福は、ただ内的生活のいとなみにだけある、ということを。
 そして、この内的生活とは、一切の慈悲の父、一切のやさしさの父なるあなたのふところでいとなまれる、あなたご自身のご生活と、イエズスの聖心のご生活を、できるだけ忠実に模倣し、かつこれに参与することにほかなりません。
 ああ、原罪のけがれなき聖処女、使徒の元后なる聖母マリア!どうぞ、このつたないページを祝福してください。これを読むすべての人に、次の真理をふかくさとらせてください。―天主が、その恩寵を、人びとの霊魂にそそぎ入れるため、摂理のふだんの道具として、使徒職にたずさわる人たちの活動をお使いになるとき、かれらの活動がゆたかな実をむすぶためには、どうしてもその活動が、「ある仕方で、天主ご自身の活動に、参与せねばならぬ」―という真理を。
 そして、あなたこそは、受胎告知の日、聖言がご胎内で人となられた瞬間、永遠に不動、永遠に静かな、この”天主ご自身の活動”が、御父のふところでいとなまれているのを、静かに眺めておられたのです。そして、聖言のご托身のおかげで、わたしたちはあなたを、”われらの母”とお呼びすることができるのです。

(続く)


聖ピオ十世会日本 2018年1月の聖伝のミサ(トリエント・ミサ)の報告 SSPX JAPAN Traditional Latin mass in Tokyo and in Osaka

2018年01月15日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2018年1月の日本での聖伝のミサのご報告をさらにいただきました。愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

 次の聖伝のミサは、

 大阪:
1月19日(金)午後6時
1月20日(土)午前10時半

 東京
1月21日(主)午前10時半
1月22日(月)午前07時

です。

 大阪で、今年の1月の初土に行ったファイルの聖母行列の記事フランス管区のウェブサイトに取り上げられましたので、ご報告致します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

1月の最初の大阪での御ミサの報告をお送りいたします。

2018年、初めての御ミサ、しかも初金曜、初土曜日の御ミサに与る事が出来て、ことしも早速大きなお恵みを頂き感謝しています。

初金曜日の御ミサではお説教をヒントに、特に幼きイエズス様の小さな聖心を感じ、ご公現を黙想しながらミサに与りました。
初土曜には初土曜日のミサに続いて世界と日本の平和の為にファチマのマリア様のお取次ぎを願って行われた聖母行列に参加しました。

ミサに来られたほとんどの方が参加され小さな行列でしたがお天気にも恵まれ、年明けの新大 阪のオフィス街のメイン通りをマリア様と歩くことが出来ました。
静かとは言えないオフィス街の雑踏の中、小野田神父様の静かな深い祈りの先唱に続いて私たちもロザリオを唱え、ファチマのアヴェマリアを歌いながら行列は進みました。最初から最後までマリア像を担がれた方、歩行が困難であられるのに押し車を押しながら歩かれたり、着物を着て履きなれない草履に足をとられながら歩く方、空腹を押して行列に参加された方、御公現の祝日に行われた小さな行列の中には確かに、三人の博士がイエズス様に捧げられたように黄金の礼拝と、祈りの乳香と、犠牲の没薬がマリア様を通して捧げられたように思いました。

途中の公園でマリア様を安置して、跪き聖ピオ十世会を聖ピオ十世会を聖母の汚れなき御心に捧げる祈りを唱え、聖歌を捧げました。
公園で遊んでいた4,5人の子供達がマリア様に引き寄せられるように寄ってきて、神父様に誘われるまま一緒にアヴェ・マリアの聖歌を歌って帰って言ったことにも大きな喜びを感じました。

聖母行列を計画して、ご同行下さった小野田神父様にも心から感謝を申し上げたいと思います。
始まったばかりのこの一年もこの日の行列の精神で最後まで過ごす事ができますように、そして最後にはマリア様を通してイエズス様の御元へたどり着くことが出来ますように!!

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

イエズス、マリア、ヨゼフ、聖家族の祝日の御ミサをありがとうございます。
この日のお説教で、神父様はイエズス様がどのようにマリア様とヨゼフ様との家庭での生活をお過ごしなられていたか、深く黙想してくださいました、ありがとうございます。

今回、聖家族の聖書の小さな一字一句にも、深い意味がその背景には隠されているということを、教えていただいたように思います。公教要理にて教えていただいたこともお説教の中のあちらこちらに出てきて、いろいろ思い出されました。

聖書の背景となっている地理や当時の社会情勢や登場人物の性格や行い生活の様子などを知ることは大切なことだということがよくわかりました。たとえば、ヘロデ王の残忍さについての具体的な事柄から類推して、聖家族がどうしてもエジプトへ避難しなければならなかった根拠や三人の博士の動きなども類推できるのですね。あらためて公教要理での学びを感謝いたしました。ありがとうございます。

イエズス様がお生まれになられてから、公生活に入られるまでの30年間は、イエズス様の人生の90パーセントで、その人生のほとんどにおいて、御母マリア様と御養父ヨゼフ様に、従われていらっしゃったということを、教えていただきました。

イエズス様の三年間の公生活の方に視線が行ってしまいますが、それ以前の隠れた生活のイエズス様と御家族の三人の過ごされた時間にも、私たちへの模範を示される大事な無言の教えが隠されていることがわかりました。

そして、聖家族は、まったく最初から、財産も地位も仕事も知り合いも所有物も、食糧や安全とか保険などというものもないまま、ただ御摂理を信頼して、預言の成就を心に留め、天主様の信頼とご保護に全てをお任せして、ベトレヘムの馬小屋から小さな家へ、そこからエジプトへ、そしてナザレトへと移られて、家庭生活を営まれたということを、思い巡らすことができました。

三人の博士が、贈り物を携えてきたその象徴的な意味を味わうことに心を奪われるのですが、それとともに現実的にもどれほどこの贈り物が聖家族の激動の移動の多い不安定な生活を助けてくれたことかと想像することができました。

それも十分とは言えないほどの、激変する生活を乗り越えねばならなかったに違いありません。天主の御摂理を信頼するということの模範というには、あまりにも大変であったのではと思われます。経済的にも社会的にも非常に不安定な中で、どれほどの祈りと犠牲の日々だったことでしょう。

それから、「イエズス様は、マリア様にそっくりだった、いやマリア様がイエズス様にそっくりだった」というお話も、とても印象に残りました。ナイロの一人息子に死なれたナイロのやもめの女へのご配慮とその奇跡には、イエズス様の愛情深い優しさに隠されたより深い意味があるのだとわかりました。御自分のご死去の後のマリア様のお悲しみを思われたに違いないというところに胸を打たれました。

そして、マリア様に倣って、マリアの汚れなき御心の信心を深くできるようになればなるほどイエズス様に倣ってイエズス様に似るものとなる、という教えられたことを思い出すことができました。

神父様が示してくださった三つの提案、天主が被造物に従ったのだからイエズス様に倣って私たちは置かれたところにある権威に従うことができるよう従順の徳を希い、イエズス様に似奉ることができますようマリア様に瓜二つとなることができますようにと希い、聖家族がおくられていた生活のように御摂理に信頼して祈りと犠牲の生活ができますよう希いました。自分の弱さをかえりみると、あまりにも大きな願いのように思われますが。

それから、この聖家族の祝日に2人の赤ちゃんのための幼児洗礼式が行われました。とても良い巡り会わせで聖家族の日に洗礼を受けることのできる赤ちゃんとそのご両親とご家族はなんて幸せなのだろうと思いました。洗礼式は、とても感動しました。貧しい仮の場である教会のなかが、皆の喜びと祈りに満ちあふれて、厳かな中にも明るく希望が輝いて、とても素晴らしい場所に感じられました。洗礼がどれほど大切なものであるかを直接感じることができました。2人の赤ちゃんのためにお祈りいたします。

また、日本では月の第一主日が7月の聖ピオ十世会の総会のために捧げられるとのことで、聖ピオ十世会の総会の成功を願い、祈りをお捧げしました。

小野田神父様、フィリピンからいつも来ていただきましてありがとうございます。神父様の往路復路そしてご健康と全ての無事をいつもお祈りいたします。今年もどうぞよろしくお願いいたします。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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