2020年5月16日(土)聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆さん、
非常事態宣言が一部で解除されました。天主様に感謝致します。
宣言が解除されても、私たちは「コロナウイルスの対策をよくやり続けるように」と勧められています。
特に、手洗いをこまめにするという事です。手に付いたウイルスが口や目から入って、感染する危険が非常に高いとの事です。
非常事態宣言の解除を受けて、これからは教会でもミサに与る事ができるようになる事でしょう。ミサこそ、必要不可欠の事だからです。
しかし、コロナウイルスの以後においては、手による御聖体拝領を中止すべきです。
【第一の理由:御聖体がいとも聖なる天主御自身だから】
そもそも御聖体については、二つに一つしかありません。「カトリック信仰が正しいか」、あるいは「そうでないか」です。
一つは、カトリック教会が2000年間信じ続け、主張し続けてきたように、「御聖体とは、真のイエズス・キリストの御体である」という事、つまり、「パンの外観の下に、人となった真の天主が、真に、現実に、実体的にまします」という事です。
もう一つは、カトリックの信仰を否定するものです。異端者の主張のように、たとえば「御聖体はイエズス・キリストのシンボルであって、実体はただのパンにすぎない」というものです。
「御聖体が何であるか」によって、私たちは御聖体に対する態度も、それにふさわしいものにしなければなりません。
御聖体が、「私たちの為に犠牲(いけにえ)となった天主」であれば、当然私たちは、御聖体を礼拝すべきです。御聖体の前に跪き、うやうやしく、ちょうど小鳥が親鳥から養われるように、謙遜に拝領すべきです。
たとえ小さな粉であっても、御聖体が粗末に扱われる事のないように、口で聖体拝領すべきです。
ファチマでは、ポルトガルの守護の天使が、額づいて御聖体を礼拝するように子供たちに教えました、「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我御身を深く礼拝し奉る!」と。
これは、「御聖体が天主そのものである」という事を示しています。私たちよりもはるかに優れた天使を、私たちも見習うべきです。
しかし、もしも御聖体が単なるシンボルで、ただのパンであるなら、私たちはこの前に礼拝してはなりません。立ったまま、手で受けても差し支えない事になります。
しかし、これは天使の取る態度ではありませんし、カトリック教会の聖伝の取る態度でもありません。
今、現在、手による聖体拝領がなされていたり、御聖体の前に跪く事が禁止されているという事は、嘘のような事で、全く信じる事ができない現実です。
【第二の理由:司祭の手は、御聖体を触ることができるように叙階の秘跡で特別に聖別されている】
叙階式で、司祭は、手を聖香油で聖別されて、それからミサを捧げて、御聖体を手で触れる事ができるようになります。
聖なる御聖体を触るのは、聖なる手でなければなりません。叙階された司祭と平信徒では、秘跡による絶対的な違いがあります。聖別されていない手で、御聖体に触れる事はできません。
御聖体が、「天主である、天主御自身でまします」という事から、御聖体はどれほど聖なるものでしょうか!御聖体に触れるのは、どれほど聖なる手でなければならないでしょうか!
【第三の理由:御聖体を手で拝領するのはウイルス感染のリスクが極めて高い】
「疫病を防ぐ」という防疫の観点から見てみても、聖伝のやり方が優れているという事が分かります。
2000年の歴史の中で、カトリック教会が新型コロナウイルスのような疫病を経験するのは決して初めてではありません、その反対です。カトリック教会は、疫病で長く苦しんだ時代を何度も経験してきています。
ペストもコレラも、伝統的な聖体拝領の方法で乗り切ってきました。ペストやコレラの時代において、決して聖体拝領を手で行なう等という事はありませんでした。
聖伝のミサでは、典礼法規によって、司祭はミサの直前に必ず手をよく洗います。聖変化の直前でももう一度手をすすぎます。聖変化の直後からは、司祭は親指と人差し指を合わせて、聖変化した御聖体以外の何物にも触れる事は禁止されています。コロナウイルス防衛のこの観点からみても、きわめて衛生的です。
他方で、新しいミサにおいて、手による聖体拝領をする信者は、必ずしも手を洗っているとは限りません。教会まで移動する間に、色々なものに触っているはずです。
たとえミサの始まる前に手を洗ったとしていても、その後、ミサの中で色々な身の回りのもの(例えば自分の持ち物や、ミサの小冊子、お祈りの本、椅子、手すり、携帯等)に手を触れてしまっています。
その手に御聖体を受けて、それをまた別の手で口に取って口の中に入れるというのは、感染リスクの非常に高いやり方です。
更に、聖体奉仕者のような第三者を通して御聖体を拝領する場合、更にリスクが高くなります。
カトリック信仰の論理的な結論を態度で表明する為にも、自分の健康を守って感染リスクを抑える為にも、御聖体は、教会の聖伝に従って、必ず口で拝領するようにお願い致します。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2020年5月17日、復活後第五主日に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。
チャンネル登録をなさいますと、新しくアップされた動画の通知が届くので便利です。チャンネル登録は、ここ「SSPX JAPAN 聖ピオ十世会日本」をご覧ください。
以上は、東京での写真です。
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
今週末:2020年5月15日(金)16日(土)17日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。
【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図)
5月15日(金) 17:30 ロザリオ及び告解 18:00 ミサ聖祭
5月16日(土) 10:00 ロザリオ及び告解 10:30 ミサ聖祭
5月17日(日) 17:30 ロザリオ及び告解 18:00 ミサ聖祭
5月18日(月) 06:30 ミサ聖祭
【東京】 東京では4月12日(日)から会場をしばらく変更してミサを捧げております。
住所: 東京都台東区入谷1-27-4
会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』 Special Mass Location-0412.pdf - Google ドライブ
5月17日(日)主日ミサが三回捧げられます。
09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live
11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ
【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。12時30分は、比較的に少数です。ご考慮ください。】
Ave Maria Immaculata!
My dearest Brethren!
I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of May 17th, 2020.
Mass schedule in OSAKA:
Fri, May 15th: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00
Sat, May 16th: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30
Sun, May 17th : Holy Sacrifice of the Mass at 18:00
Mon, May 18th : Holy Sacrifice of the Mass at 06:30 am.
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「御復活後第5主日の説教」の動画をご紹介いたします。
イエズス様の凱旋、ご昇天が近づいています。イエズス様のご昇天を迎える良い準備をいたしましょう。
イエズス様のご昇天は何のためだったのでしょうか?私たちは何処に向かわなければいけないのか、何処を通って?
イエズス様を受け入れないと、いったいどうなるでしょうか?
主日を、聖母聖月を聖として良くお過ごしください。
天主様の祝福が豊にありますように!
トマス小野田圭志神父
2020年5月9日(土) 聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ
「コロナ感染者数は減少しているが、もしかしたら第二波がと危惧されている。これをはるかに上回る津波に今現在、襲われている」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、新型コロナウイルスで、多くの方が辛い思いをされたり、病気にかかったり、感染されて、検疫をされました。
日本では5月8日現在の統計によると、1万5382名の方が感染されたそうです。そして557名の方が亡くなったと聞きました。
その感染の為に、多くの方が、医療従事されている先生や看護師の方々が、一生懸命にその看護に当たっておられるという事を聞き、そして他の方々と共に立ち上がって、拍手を送りたいと思っています。このように命を守る為に、一生懸命日夜働いている方々に、心から感謝致します。
今、少しずつその感染者の数が少なくなりつつあると聞きます。早くこれが収束しますように、私共も心からそのお祈りしております。
話によると、第二波も来るのではないか、第二波はもっと、今までよりも多くの方が亡くなってしまうかもしれないと聞きました。
実は、私たちに今、マスコミもテレビも新聞も何も言わない、第二波よりも大きな津波のようなものが、私たちの愛する祖国、日本を襲っています、今現在、コロナの死亡者が557名もいらっしゃるのですけれども、2017年の統計によると、16万4621名が亡くなったという統計があります。
日本で死亡する原因なかで、ガンよりも多い原因は、「人工妊娠中絶、堕胎」です。
堕胎によって、生まれるべき子供たちの、7人の内の1人が亡くなっています。生まれるべき子供たちの15%が命を落としています、病気ではないのにも関わらず。命を奪われています。コロナで重態化しないように、命を失わないように、私たちは一生懸命努力していますけれども、その影に、多くの子供たちが、皆さんと私たちと同じ人間、子供たちが、日本人が、亡くなっています。
子供の日が、このままでは子供のない日になってしまいます。
今年の、公園で遊んでいない子供、学校が開かれていない、あるいは電車に5%しか乗っていない、というのが、本当のこと、日常のことになってしまいます。
将来、私たちに喜びと、笑いと、幸福を与えてくれるべき才能のある子供たち、あるいは芸術家、あるいは学者、あるいは将来の総理大臣、将来の世界を病気を救うべきお医者さんとなる方々、あるいは難しい問題を解く数学者、多くの可能性を持った子供たちが、7人に1人、亡くなっています。
愛する兄弟の皆さん、どうぞお祈り下さい、この恐ろしい堕胎が、人工妊娠中絶が、一刻も早く日本から無くなりますように、子供たちの命が尊重されますように、多くの命が守られますように。
コロナの収束と共に、この堕胎の終息もお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
私たちを天主の命に産み出して下さったお母様マリア様に「ありがとう」と申し上げましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりてアーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は日本中で、私たちのお母さんたちに、「ありがとう」「感謝しています」と言う日です、そうやっています。
ところで私たちには、私たちに超自然の命を与えて下さった、天主の命に私たちを産み出して下さったお母様がいます。マリア様です。そのマリア様にお母様に、「ありがとう」と申し上げましょう。マリア様をお愛し申し上げましょう。
マリア様の事を知りたいと思うならば、「母親の事を知りたいと思うならば、子供を見れば良い」とよく言います。では、イエズス様を見て下さい。真の天主、永遠の知恵です。マリア様はですから、「天主の御母」。何と素晴らしい母を私たちは持っている事でしょうか。
キリスト信者というのは、キリストの真似をする者です。キリストのように私たちに形成する事です、霊魂をキリストのようにさせる者です。ではイエズス様は、どのような生活をされたでしょうか?どのような模範をされたでしょうか?キリストにどうやったら倣う事ができるでしょうか?
イエズス様は、マリア様の子供となられました。天主三位一体の聖なる御旨は何でしょうか?何を望んでいるのでしょうか?もしも私たちがその天に在す聖父の御旨を果たす、この天に行なわれるように地にも果たす事ができるようにするならば、どうしたら良いのでしょうか?
この世は、聖アウグスティヌスによると、イエズス・キリストを、天主の御言葉、人となった天主の御言葉を受けるに相応しくありませんでした。しかし、マリア様を通してのみ、それができるようになりました。
天主聖子は、永遠の知恵は、天主聖父に最高の讃美と感謝を捧げたいと思っていました。その為に一体どうしたでしょうか?
無限の可能性がありました。例えばローマ皇帝のように、それよりももっと力ある権力者となって、全世界の人民に命令を発布して、そして自分の権力と、力と、命令と、あるいは奇跡を行なって、人民を回心させて、あっと驚かせるような事もできて、そして天主聖父を讃美しようとする事もできましたが、それは選びませんでした。それよりももっと良い方法があったからです。
それは、「30年間、隠れて、マリア様の元に、従順に、謙遜に、生活する。マリア様と一緒に生活する」という事でした。これよりも良い方法を、永遠の知恵さえも見出す事ができませんでした。ですからイエズス様はそれをしました。
天主聖霊も、イエズス・キリストをこの世に生み出す為に、この世に造り出す為に、形成する為に、造り出す為に、そして私たちの霊魂においても形成する為に、マリア様を通してのみ、それを望まれましたし、それをされましたし、これからも世の終わりまで、マリア様を通してそうされます。それは天主聖霊の御望みです。
天主聖子は、御自分の贖いの業を、マリア様と共に、マリア様の協力を以ってのみ、それを行なおうとされました。ちょうどそれが、天主聖霊がマリア様に、「あぁ、天主御子をあなたの御胎内に宿らせますけれども、いいですか?」と聞いてからのみ、なさったのと同じです。マリア様と共に御胎内に宿りましたし、お生まれになったし、マリア様と共に30年間の生活を送り、そしてマリア様と共に、十字架の元において、マリア様の同意の元に、御自分を天主に捧げました。
聖霊降臨の時も、マリア様が祈っていました。イエズス・キリスト様はとてつもない功徳の御血の恵みの、全神秘贖いの宝をかき集めました、マリア様と共に。そして特別の倉庫に、この宝を隠しておきます。この倉庫の名前は、「マリア様」と言います。全ての宝は、イエズス様とマリア様によって蓄えられて、そしてマリア様の汚れなき御心に置かれております。
天主聖霊は、この隠れた、このとてつもない無限の贖いの宝庫から、私たちに御恵みを与えようとしますけれども、その贖いの御恵みを配る唯一の分配者として、マリア様を選びました。マリア様に委ねました。イエズス・キリストが勝ち得たその御恵みは、マリア様の手を通してでなければ、私たちには与えられない、これが天主聖霊の御旨です。
三位一体は、私たちにイエズス・キリストを与える為に、イエズス・キリストを形造る為に、唯一通る道として、マリア様を選びました。それ以外には道はありません。
このようなマリア様を、私たちは母として持っています。優しい、そして甘美な、そして憐れみ深い母として持っています。そしてイエズス様が、「汝の母を見よ」と、十字架で仰ったその時に、マリア様に対しては、「汝の子を見よ」と仰います。つまりマリア様は私たちを、本当の子供として愛しておられます。イエズス・キリストを愛されたように、私たちを愛しておられます。
何という素晴らしい母を持っている私たちでしょうか。このマリア様に、「ありがとう」と仰って下さい。マリア様を愛して下さい。マリア様に讃美をなさって下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
「2020年母の日、私たちの真の母なるマリア様に感謝を捧げましょう」 2020年5月10日、復活後第四主日に東京で録画した小野田神父のメッセージ
「2020年母の日、私たちの真の母なるマリア様に感謝を捧げましょう」 2020年5月10日、復活後第四主日に東京で録画した小野田神父のメッセージ - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、2020年5月10日、復活後第四主日に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いた...
「2020年母の日、私たちの真の母なるマリア様に感謝を捧げましょう」 2020年5月10日、復活後第四主日に東京で録画した小野田神父のメッセージ - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
「十字架の荒れ野、沈黙、聖母のたたずむ十字架の足下に行く。マリア様は一体、十字架の足下で何をなさっているのか?」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、テレ巡礼を続けましょう。私たちは、沈黙の内の燃えるような愛の主を黙想しました。ゲッセマニの園に一緒に行きました。
これから私たちは別の荒れ野に行きます。ゲッセマニの続きです、十字架の荒れ野、沈黙、十字架の足下に行きましょう。十字架の足下にマリア様は佇んで、立ち留まっていらっしゃいます。
イエズス様とマリア様は、決して離れる事ができません。イエズス様はマリア様を選びました。御自分の母となる為に、第二のエヴァとして、共贖者として、一緒に、共に、十字架のいけにえを捧げる者として。マリア様はこの天主の御旨をご存知でした。永遠の知恵をよくご存知でした。上智の座であられるからです。
イエズス様とマリア様は、どのような事をしても切り離す事ができません。その二つの御心は一致しているからです。分かち難く一致しているからです。
イエズス様の至聖なる聖心の望む事はすなわち、マリア様の汚れなき御心の望む事。マリア様の願いはまさに、イエズス様の願いであるからです。
イエズス様を見るとはすなわち、マリア様を見る事です。
聖マリ・グリニョン・ド・モンフォールの『聖母マリアへの真の信心』の本の中でこう言われています、「マリア様は隠された者である。沈黙の方であって、その存在は知られていない。天使たちはこのマリア様についてこう感嘆する、『この方は一体どなただろうか?』マリア様は天主の御旨によって隠されて、そして知られていない、沈黙の内に置かれてくるけれども、しかし世の終わりには、時の終わりには、私たちにますます、そのマリア様がどなたであるか、という事を私たちに知らせてくれる」と。
マリア様こそ、イエズス様の招きを受けて、一緒に荒れ野に行った特別な霊魂でした。沈黙の内にイエズス様の御言葉を、イエズス様の望みを伝えられた御方でした。マリア様において天主に逆らうもの、天主の妨げとなるもの、妨害するようなものは一切ありませんでした。無原罪の御孕りであるからです。聖寵に充ち満ちた御方であるからです。そしてこの聖寵は、御恵みは、ますます人生の一瞬一瞬大きくなって、増加していきました。
マリア様の望みは一体何でしょうか?沈黙の内のマリア様は、ポロリ、ポロリ、と言葉を話されます。私の記憶が正しければ、5回マリア様は仰います。
「私は主の使い女なり。仰せの如く我になりかし。」マリア様の望みはこれです、「私は主の使い女なり。主の婢女、主の奴隷、主の道具、私に主の御旨がなされますように。」
これは、イエズス様の望みのこだまでなくて一体何でしょうか?
マリア様は後で、主を讃美して、「我が魂は主を崇め奉る。」“マグニフィカト”。あるいは、イエズス様が12歳の時に、イエズス様に向かって、「一体何でこういう事をしたのですか?」と聞いたり、あるいはカナで、「ブドウ酒がありません」と仰ったり、あるいは「このイエズス様の仰る事を、全てあなたはしなさい」と仰ったりします。
しかしそれ以外は、マリア様の御言葉は知られていません。沈黙です。
イエズス様はマリア様の事をよく知っていました。マリア様はいつも、ご自分は「使い女である、主の婢女である」という事を望んでいたので、ご自分を全て天主に与え尽くそうと思っていました。いつも天主と一致していたいと思っていました。この望みによって、天主の御旨を果たしたい、天主と一致したい、天主を喜ばせたい、というその望みによって、自然と被造物から離脱していました。
こうしてマリア様はそのイエズス様の人生の最後に、イエズス様のすぐ傍に佇んでおられます。十字架で立ち留まっておられます。もちろん私たちと同じく、イエズス様と同じく、マリア様に満ちておられた聖寵は、マリア様にとっても十字架の原理でした。贖いの原理でした。これを以ってイエズス様の十字架の伴侶と、共に贖いをする者となりました。
マリア様は、マリア様の十字架の下でのご様子は、私たちとはレベルが違うものでした。レベルが違う、もちろん成聖の愛のレベルが違うというのもそうですけれども、しかしマリア様は特別の御方でした。私たちとは違う方でした。
どのように違うかというと、イエズス様の母として、もしも天主が人となって、その御自分の肉体を、苦しむ事ができるこの肉体を持つ事ができるとしたら、そして死を受ける事ができるとしたら、屠られる事ができるとしたら、それはマリア様によって、その肉体を与えられたからです。マリア様がその御自分が苦しむ事ができるようにしてくれたからです。
私たちはそのようにする事はできません。マリア様はそれができました。マリア様がいてくれたからこそ、イエズス様は私たちの救い主となる事ができました。贖い主になる事ができました。イエズス様は全くマリア様に依存していました。マリア様がいなければ、十字架のいけにえを捧げる事ができないほどでした。
そればかりか、既にイエズス様がまだ子供であった頃、まだ幼い子供であった時から、マリア様はイエズス様の両手をお持ちになって、そして愛を以ってイエズス様を優しく養ったではないでしょうか。あたかも優しい十字架の木であるかのように。
大きくなってイエズス様は、十字架の木に釘付けされますけれども、今度は私たちを、御自分の肉体を以って養おうとされます。
イエズス様は子供の時には、マリア様に自ら近寄ってくっついていました。成人になると十字架に釘付けにされますが、幼い時にはマリア様によって養われていました。
十字架の上に付けられた後には、私たちを養おうとされます。
もしも私たちが十字架を見つけると、必ずマリア様もいらっしゃる事が分かります。私たちがマリア様がいらっしゃる所を見ると、十字架が立っている事が分かります。十字架こそ、私たちの唯一の希望(spes unica)であり、マリア様は聖なる希望の御母(Mater sactae spei)、十字架は立ち止まっています(Stat crux.)けれども、マリア様は十字架の下に立ち留まっています(Stabat Mater juxta crucem.)。
イエズス様はマリア様の御悲しみを与えてしまった方です。イエズス様をご覧になるマリア様は、どれほど悲しまれた事でしょうか。
それと同時にマリア様を御覧になったイエズス様は、その悲しむ御母を見て更に苦しまれます。その苦しむイエズス様をご覧になるマリア様は、更に苦しまれます。イエズス様とマリア様の苦しみは、無限に増加するかのようです。
この二人の苦しみと十字架は、決して分かつ事ができないほど一致しています。愛によって一致しています。
マリア様は一体、十字架の足下で何をなさっているのでしょうか?
マリア様は、十字架を黙ってご覧になっています、愛を以って。マリア様は十字架を愛を以ってご覧になっています。十字架において天主の愛を見ています。マリア様はその愛を見て、ますます天主を愛されようとされます。
マリア様は十字架において、イエズス様の苦しみ、天主の苦しみをご覧になります。そしてその苦しみを見るとますます、ご自分も苦しもうと望まれます。
マリア様は十字架において、イエズス様の平安をも見ます。それを見てマリア様は、苦しみにおいてますます、平安を勝ち取られておられます。
既に私たちは黙想しました、聖金曜日に黙想しましたが、マリア様は最初から、イエズス様の苦しみをできれば自分が苦しみたいと思っていました。
キレネのシモンは、強制的に担げ、イエズス様の「十字架を担げ」と言われて、嫌々ながらしぶしぶ担ぎました。マリア様はそうではありませんでした。どれほどイエズス様の十字架を、イエズス様に代わって一人で担ぎたかった事でしょうか。イエズス様に代わって、もしもできるならば十字架の上で1000回でも、1万回でも死んで、イエズス様を何とかしたいと思った事でしょうか。
母の本能はそうです。どれほどイエズス様を助けたい、イエズス様の身代わりになりたい、イエズス様を何とか、その苦しみを和らげたい、と思った事でしょうか。
あぁ、でもイエズス様を助ける事は天主聖父の御旨ではありませんでした。マリア様はその事をよく知っていました。なぜかというと、沈黙の内に愛を添えて、イエズス様の苦しみと共に自分の苦しみを添えて、共同の贖い者、共贖者とならなければならない、という事を知っていたからです。
ですからマリア様は沈黙に、イエズス様の沈黙に沈黙を添えて、内的な苦しみを捧げていました。どれほどキレネのシモンが羨ましかった事でしょうか。これがマリア様の沈黙です。燃えるような愛の沈黙です。
聖ヴェロニカ、マリア様はどれほどその最初の瞬間から、十字架の道行きのその最初から、行って綺麗な真っ白い布をイエズス様に捧げて、何とかイエズス様を慰めようと、お助けしようと、汗を拭こうと思われた事でしょうか。しかしそれは御旨ではない、という事を知っていました。
マリア様は母性本能に打ち勝ちました。そして沈黙を守りました。苦しみに身を委ねるイエズス様に合わせて、ご自分の苦しみを委ねました。イエズス様の苦しみを望む聖父、その天主が御覧になるのと同じような目で、信仰の目で、マリア様はイエズス様をご覧になっていました。
そして同じ目でマリア様は、十字架の足下に立ち留まっています。イエズス・キリストに対する絶対の信仰と、確信と、信頼を込めて、立ち留まっています。
「イエズス・キリストこそ、この十字架を以って、この屠りを以って、いけにえを以って、全人類を救う。」これを確信していました。
「この十字架の木の実りこそ、全人類を養う」とはっきりと分かっていました。その聖なる希望で満たされていました。
「天主は必ず勝利する。復活の大勝利をする。罪と死と地獄に打ち勝つ。私たち霊魂を救う。」その確信に満ちていました。
イエズス様の持っていた燃えるような沈黙の望み、聖父を讃美し、栄光を帰し、そして霊魂を救いたい、というそれと同じ、全く同じ望みは、マリア様の心に燃えていました、沈黙の内に。マリア様も、イエズス様と共にご自分を捧げました。ご自分を屠られました。苦しみに身を委ねました。憐みの御母は、御憐み御自身であるイエズス様に一致しました。
マリア様はその清らかさ、その純潔さ、その聖なる御方である、という事において、私たちから本当に、私たちの遥か遠くにおられる方ですけれども、私たちの霊的な母として、私たちのすぐ近くにいらっしゃいます。
なぜかというと、イエズス・キリストと共に苦しむ事によって、贖いを成し遂げる事によって、超自然の命を、私たちの為に勝ち取って下さったからです。超自然の命の母となったからです。
もしも私たちが、天国に行く為に成聖の恩寵にいる事ができる事したら、マリア様のおかげです。マリア様がイエズス様と共に苦しんで、産みの苦しみを耐え忍んで下さったからです。マリア様は私たちの本当の母で、私たちはマリア様の本当の霊的な子供です。
ですからマリア様は、私たちの避難所でもあります。罪人の避難所です。ファチマで仰いました、「私の汚れなき御心はあなた方の避難所であり、そして天に導く道である」と。
私たちはどれほど恵まれているでしょうか。このような良き母を持っているという事は、どれほどの大きな御恵みでしょうか。優しい、恵みに溢れた、寛大な慈母を持っているという事は、どれほどの御恵みでしょうか。
マリア様は私たちにイエズス・キリストを与える事しか考えていません。イエズス・キリストの御恵みを伝える事しか望んでいません。私たちに本当の喜びを、永遠の命を与える事しか望んでいません。天主の御母聖マリア。沈黙の天主の御母聖マリアは、やはり沈黙の内に、沈黙の母として、イエズス様の十字架の足下で、燃えるような私たちに対する愛と、天主聖父に対する愛に留まっております。
私たちはこのようなマリア様を、どうして感謝して、どうして讃美したら良いでしょうか?
これは、「私たちがマリア様を、本当の私たちの母であるという事を認める」事です。マリア様に「母として行動して下さい」と、マリア様が私たちの母であるという事をいわば許可する事です。「そうして下さい」とお願いする事です。「私たちがマリア様の良き子供であろうと努める」事です。そして「マリア様と共に、私たちの沈黙と、愛と、私たちの存在、私たちの人生全てを、マリア様と共にイエズス様に捧げる」事です。
マリア様とイエズス様は決して離れる事がありません。「マリア様」と言ういわば十字架に、子供の頃から両手を任せたイエズス様。マリア様にイエズス様が付いているのか、イエズス様にマリア様が付いているのか、二人は一つになっています。
それと同じように私たちも、イエズス様とマリア様の十字架に身を付ける事に致します、御恵みによって。
マリア様は秋田でこう仰います、「世の多くの人々は、主を悲しませております。私は主を慰める者を望んでおります。天の御父の御怒りを和らげる為に、罪人や忘恩者に代わって苦しみ、貧しさを以ってこれを償う霊魂を、御子と共に望んでおります。」
マリア様とイエズス様と共に、私たちの苦しみと十字架を捧げて、御父を慰める、これを望んでおられます。マリア様のように、マリア様に倣う事によって、私たちの霊魂にも天主の御国が支配しなければなりません。天主の御国が来なければなりません。到来しなければなりません。天主の御旨が私たちにおいて為されなければなりません、御恵みによって。このこれは御恵みです、この御恵みをお祈り致しましょう、与えられますように。
十字架の苦しみの最後に、イエズス様は更なる沈黙がありました。
墓に葬られました。全くこの世から切り離されて、全く閉ざされて、新しい墓に葬られました。それは栄光ある復活を待つ為です。聖パウロは言います、「私たちはキリストと共に葬られた者である。洗礼を受ける時にちょうど水を受けて、あたかも葬られたかのように、しかしキリスト共に復活した者である」と。私たちも、イエズス・キリストと共に隠されて、沈黙の内に生きる事ができるように。
ところで、墓に葬られる前に、もっと素晴らしい墓にイエズス様は置かれました。ミケランジェロの有名な『ピエタ』という彫刻があります。新しい墓、童貞なる墓マリア様の元に、イエズス様はまず抱かれました。私たちも行くべき墓は、沈黙のこの世からの離脱は、マリア様です。
私たちのこの人生、短い人生ですけれども、儚い人生ですけれども、それはイエズス様と一致する為に、イエズス様の十字架と一致する為に与えられました。私たちがマリア様を讃美する、感謝する最も良い方法は、「マリア様の御助けによって、私たちの霊魂にイエズス様の十字架が刻まれる」という事です。この御恵みを願いましょう。
そして、このテレ巡礼がたとえ終わったとしても、荒れ野に、マリア様の元に、沈黙の内に、この巡礼を続けましょう。イエズス様の十字架の御元に、マリア様と共に佇みましょう、御恵みによって。
そして愛する兄弟の皆さん、皆さんのしもべである私の為にも、お祈り下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
霊的秋田巡礼 「十字架の元に沈黙のうちにマリア様が思い祈られたこと」 霊的講話6
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
「ゲッセマニの園の荒れ野に行き、イエズスの沈黙のうちの燃える望みを知る」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、愛された、主によって愛されたテレ巡礼をなさっている皆さんは、ますます深く荒れ野に参りましょう。巡礼の中に深く入って行きましょう。
特に愛された3人の弟子たちは、イエズス様と共にゲッセマニの園にて、「イエズス様のすぐ近くで祈れ」と命じられました。私たちも弟子たちと一緒に、そしてイエズス様から選ばれて、ペトロ・ヤコボ・ヨハネと一緒に、イエズス様のすぐ近くで、ゲッセマニの園にてイエズス様がなさったその祈りを黙想致しましょう。イエズス様の燃えるような望み、それを感じ取りましょう。
なぜ、イエズス様はこうやって苦しまれるのでしょうか?それは、私たちに対する愛の望みによります。聖父に対する愛と、私たちを幸せにしたい、無限に幸せにしたい、という愛によります。ゲッセマニの園の沈黙の中に、私たちは行きましょう。
苦々しい、苦しい夜、過ぎ越しの日ですから満月に照らされた夜、しかしイエズス様の聖心には、大海のような悲しみが横たわっていました。イエズス様は3回祈られます。イエズス様の御側でオリーブの木の枝が、ザワザワと風に揺られて音を立てますが、きっとこれから来る、どのような苦しみが待っているのか、悲しみが待っているか、という事を予告していたに違いありません。
イエズス様は3回祈りますが、天主の御言葉として、これから来たるべきその苦しみをよく知っていました。オリーブがザワザワと言わなくてもよく分かっていました。御顔を地面に付けて祈っています、「聖父よ、願わくは、このカリスが、この杯が、私から遠ざかりますように」と、その「もしもできるならば。」
人間としての苦しみに対する恐れもありました。しかしそれと同時に、「しかし、私の意志ではなく、御旨が果たされますように。」
イエズス様はこれから起こる事を、その全ての状況を詳しく、一つ一つ、天主の力によって御覧になっていました。
ユダがやって来る事を御存知でした。御自分の友であるユダが、数枚のコインによって御自分を売り飛ばした弟子、愛する弟子がやって来るのを知っていました。数時間前には、この弟子の前に跪いて、足を洗い、接吻をし、そして御自分の御体を以って養ったその弟子が、裏切る為に、接吻を以って売り飛ばす為に、やって来ました。
「友よ、一体お前は、接吻を以って人の子を裏切るのか?」
ユダは何も答えません。そしてイエズス様が何とかこの滅びから救おうとしているにもかかわらず、憐れみをかけ給うにもかかわらず、ユダは滅びに駆け走っています。イエズス様はその事をあらかじめ御存知でした。そしてユダの為にどれほど涙を流される事でしょうか。
イエズス様は既にゲッセマニの園にて祈りにおいて、これから来たるべき屈辱、大司祭が、本当ならば「メシアである」と宣言しなければならない、その特別の役目を持っている、知識を持っている、知性を持っている、恵みも頂いた大司祭たちが、生命の主であるイエズス・キリストを死刑にしようと企んでいる、その陰謀を御存知でした。
イエズス様がどれほど愛し、善をなし、病を癒し、慰め、村を駆け巡り、そして優しい言葉をかけたその人々が、ユダヤの民が、声を合わせて、イエズス様を「死にかけよ!十字架にかけよ!十字架にかけよ!」と叫んでいるその姿を、ゲッセマニの園にて御覧になります。あれだけ善を施したのに、それに忘恩で、侮辱で、屈辱で、返答するこの民。全く不当な告発、非難、讒言。
イエズス様がどれほど馬鹿にされ、偽りのコメディの王であると挨拶され、鞭打たれ、血を流され、茨の冠を被せられ、殴られ、蹴り飛ばされ、そしてカルワリオを重い十字架を担って歩まなければならないか、ゲッセマニの園にて御覧になっておられました。
何回、重い十字架の下に押し潰されて、気絶するほどの痛みを感じなければならないか、お母様からマリア様から作って頂いた服を剥ぎ取られ、そして十字架に釘付けにせられなければならないか、この不当な、残酷な、非人間的な、非道な拷問を受けなければならないか、という事を御存知でした。
人々の前で裸にされ、十字架に上げられ、そして嘲りと、嘲笑と、冒瀆に囲まれて、それを黙って耐え忍ばなければならないか、という事を御存知でした。
3つの釘に、自分の重い体重を乗せて、3時間の苦しい、残酷な、十字架の上での痛みを耐え忍ばなければならないか、という事を御存知でした。
人々に捨てられた、弟子たちに捨てられた、裏切られたばかりか、イエズス様は、「聖父によっても見放された」という事を感じられます。
御覧になると自分は、二人の極悪の盗賊の間に付けられて、そして狂ったような騒ぎを立てている人々の間に、愛する母が立って、立ち留まって、黙って、涙ながらに御自分をご覧になっているのを見ます。その母、愛するマリア様を御覧になったイエズス様は、どれほど悲しみが大きくなる事でしょうか。それも御存知でした。
悲しみの大海原の中にずっしりと浸かったイエズス様、その御受難の様子を一つ一つ、詳しく御覧になったイエズス様は、聖父に祈ります、「聖父よ、もしもできるならば、この杯を私から遠ざけて下さい。しかし私の思いではなく、御旨が果たされますように。」
そして弟子たちの元に行きます。愛する3人の弟子たち、ペトロとヤコブとヨハネです。しかし彼らはもう、イエズス様をほったらかしてスヤスヤと眠りこけていました。そのような弟子たちを見て、更に悲しみに沈んだ私たちの主は、もう一度祈りの場所に戻ります。
私たちもこの祈りの場所に一緒に行きましょう。沈黙の内に、イエズス様はどれほど苦しむかを、私たちは傍に行って慰めましょう、御恵みによって。
イエズス様は今度は、罪の邪悪さ、罪の汚らわしさ、罪がどれほど悪意に満ちているか、恐ろしいものであるか、汚いものであるか、おどろおどろしいものであるか、という事を御覧になります、見せつけられます。何という反吐が出そうな、嘔吐が出そうな、この嫌悪感を感じられた事でしょうか。何という恐ろしさでしょうか。人類が犯すその罪の邪悪さ、汚らしさ、天主に対する冒瀆、天主に対する反抗、逆らい、瀆聖、軽蔑、天主の愛を足に踏みにじるような罪の数々、イエズス様はそれらを見て、一つ一つ見て、罪のその邪悪さに、真っ黒な邪悪さに、悲しみに沈まれます。
イエズス様が人類を愛して、御恵みを与え続けて、そしてその御恵みを無にするような、それを悪意をもって返答する人々の罪、イエズス様が愛を込めて制定する愛の秘跡、御聖体、御自分の最も清らかな肉体で人間の霊魂を養おうとされた愛の秘跡、しもべが天主御自身によって養われ、天主を食するというほどのこの愛の秘跡、御聖体、それを信じない、それを軽蔑する、それを感謝しない、それを足で踏みにじるような、それに忘恩と、冷淡と、そして無関心で答えるその罪、イエズス様が私たちの為になしたその善を悪で返すその罪、それを見て、どれほどの苦しみ、悲しみを感じられた事でしょうか。
第2の祈りをします、「聖父よ、願わくは、できる事ならば、このカリスを、この杯を、受難の杯が私から遠ざかりますように、しかし私の思いではなく、御旨がなされますように。」
その悲しさのあまり、汗は御血のようになり、御顔を地面に付けて祈り、悲しさのあまり3人の弟子たちの元に行きます。しかし、弟子たちはやはり眠っていました。主の事は忘れこけて眠っていました。
イエズス様はもう一度、三度、御自分の祈りの場所に戻ります。イエズス様が今度はどのような苦しみを受けるのでしょうか。
それは、イエズス様がこれからしようとする御受難、流そうとするその御血、天主の御血、その無限の価値があるそのいけにえ、その苦しみ、少なくともそれを認識して、それを感謝する霊魂がいるだろうか。いえ、残念ながらイエズス様は、本当の事をビジョンで見ます。ゲッセマニの園にて既に知っていました。人類の大部分は、この天主の流される御血を無駄にする、という事、それをありがとうとも思わない、感謝しようともしない、それを認めようともしない、無関心、忘恩、それで返答する、わざと知ろうとしない、イエズス様の事を少しも考えようとしない、「十字架の上でイエズス・キリストが亡くなった、それが私と一体どういう関係があるのか。」多くの霊魂のその冷たい無関心、それを御覧になります。
これだけ熱く、霊魂を救おうと、幸せにしようと、恵みを与えようと思っているその善意が、その愛が、軽蔑と、無関心、冷淡で答えられます。
しかし同時にイエズス様は、ほんの少数ですけれども、このイエズス様の流される御血の事を知り、感謝し、それに応えようとする霊魂たちの事も御存知になりました。その未来の霊魂たちを知ります、御覧になります。そしてイエズス様はその悲しみのど真ん中において、このほんの少しの霊魂たちの為に、愛の限りを絞って、この苦しみを耐え抜こうと決心されます。
「私の血が一体どんな益があるのか?私の苦しみ、私の命が一体何の為になるのか?この霊魂を見れば良い。この少ない霊魂たちの為に、捧げよう。」
そしてこの戦いに、燃えるような望みを更に掻き立てます。人間たちの忘恩、そして天はあたかも閉ざされたかのように全く孤独を、そして無意味さを感じる中で、この少数の霊魂たちの為に、イエズス様は終わりまで、最後まで、熱烈な愛を持って立ち進みます。
御顔を地面に付けて祈ります。血はダラダラと額から、体中から汗となって流れます、「私の霊魂は、死なんばかりに憂い、悲しむ。」
御覧下さい、イエズス様の御顔、血でいっぱいに、血だらけになっています。目は、開いている目は、汗と血ではっきり物も見る事ができないかのようです。汗と血にずぶ濡れになっているイエズス様。その御血はゲッセマニの園に滴り落ちて、この周りはイエズス様の周りは、真っ赤に染まっています。
イエズス様の、キリストの、私たちの救い主の、その燃えるような愛、私たちの霊魂を救いたい、罪の償いをしたい、受難の為に御自分を捧げたい、というその望みは、この血を流させました。一体この燃えるような望みに、沈黙の望みに、私たちは一体どうやって答えたら良いのでしょうか?
天はどのような答えをするでしょうか?天主聖父は沈黙を守ります。天は口を閉ざします。あたかも見捨てたかのように。
イエズス様は、天主の本性と人間の本性が全く合体して、分かち難く一つになっている御方です。真の天主、真の人、イエズス・キリスト。ヒュポスタシスにおいて、天主の御言葉のそのペルソナにおいて、二つの本性が合体している御者です。この御方であるにも関わらず、天主はイエズス様を見捨てられたかのように感じられました。イエズス様は苦しみに身を委ねます。このイエズス様の苦しみ、悲しみ、その悶え、一体誰が知る事ができるでしょうか。その苦悩は計り知れず、こうも十字架の上で仰るほどです、「我が天主、我が天主、どうして私を見捨て給うのか。」
このようなイエズス様の御受難の前で、一体私たちはどうやって答えたら良いでしょうか?
私たちは、イエズス様の沈黙における燃えるようなこの願い、御受難への願いに対して、私たちも燃えるような愛の願いを、沈黙の内に、イエズス様に添える事に致しましょう。イエズス様の沈黙に私たちも真似る事に致しましょう。イエズス様と同じように私たちも致しましょう。
イエズス様において聖寵は、恩寵は、天主の本性と人間の本性が一つとなったとしても、御恵みは、その聖寵は、栄光の原理であると同時に、苦しみの原理でもありました。贖いの原理でもありました。これを以ってイエズス様は、私たちを贖いました。
それは私たちにおいても同じです。洗礼を受けた時に私たちには、成聖の恩寵が与えられます。天主の命が与えられます。イエズス様から受ける命です。このこれは、私たちにとって将来の栄光の元でもありますが、それは私たちにとっての受難の、苦しみの元でもあります。イエズス・キリストと共に苦しむ元でもあります。なぜかというと私たちは、キリストの神秘体に、その聖寵の状態を以って幹に、その木に接木されているからです。神秘体の一部となっているからです。イエズス・キリストの頭(かしら)に流れるその御恵みと同じ御恵みを、私たちも頂いているからです。
ですからこの成聖の聖寵において、私たちは沈黙の内に屠られ、いけにえとなるという望みを持ちましょう。イエズス様のすぐ傍に行って、ゲッセマニの傍に行って、イエズス様と一致いたしましょう。
一体どうしたら一致できるでしょうか?
イエズス様は私たちに色々な方法を教えてくれましたけれども、その内の最高の方法は、「御聖体拝領」です。なぜかというと、御聖体というのは、イエズス・キリストの真の御体であるからです。人となった天主の御言葉、それ自身を、私たちが受けるからです。これは2000年間のカトリックの信仰です。私たちはその前に跪かなければなりません、礼拝しなければなりません、感謝しなければなりません。突っ立っている事はできません。そして私たちの「無」であるという事を見せて、この天主の肉を御体を、私たちは拝領しなければなりません。
そして私たちの燃えるような沈黙の内の愛を、イエズス様の御受難に私たちの苦しみを添えて、一致させなければなりません。いけにえとして、イエズス様にお捧げしなければなりません、御聖体拝領によって。イエズス様の苦しみに私たちの苦しみを添えて、イエズス様の沈黙に私たちの沈黙を添えて、イエズス様の屈辱に私たちの受ける屈辱を添えて、イエズス様の受ける全ての悪に私たちの受ける、当然受けるべき悪を添えて、捧げなければなりません。それが御聖体拝領です。
私たちの無を大きく開けて、イエズス様を、愛であるものを受けなければなりません。私たちは生ける御聖櫃となる為、イエズス様を受けなければなりません。そうする事によってもはや、私が生きるのではなく、イエズス・キリストが私において生きる事ができるように、イエズス・キリストの神秘体において、キリストの苦しみの欠いているところを満たす為に、聖パウロが教える通り、満たす為に、私たちの儚い拙いいけにえを、苦しみを、一緒に捧げなければなりません。そうして私たちはイエズス様の沈黙に、愛の沈黙に、愛の沈黙を以って答える事ができます。
愛に生く、
いけにえの主に、
似る為に、
頂き物の、
苦しみ捧ぐ。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
霊的秋田巡礼「ゲッセマニの園で沈黙のうちにイエズス様は何を思われ祈られたのか」 霊的講話5
愛に生く、
祈る主の血が
庭に散る
いずみの汗は
紅(くれない)に染む
愛に生く、
居眠る弟子の
忍(にん)無きに
いや増すは主の
苦しみの愛
愛に生く、
司祭の聖母(はは)は
カルワリオ、
司祭のように、
立ち留まりし
愛に生く、
全ての苦楽
主の為に
聖母と共に
我になれかし。
愛に死す、
七つの剣
貫きし
み母の心
我にも給え。
愛に果つ、
痛ましき主の
肉体よ、
聖母(はは)の御心(こころ)に
剣(つるぎ)貫く
愛に生く、いと遅かりし夕なれど、テレジアをまね、子供のように
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
「私たちの主の飢えと渇き」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆さん、ではテレ巡礼を続けていきましょう。
私たちは既に、天主様の愛の対象であって、愛を受けて荒れ野に招かれた、という事を黙想しました。「荒れ野に招かれた」というのは、被造物に全く空になって、そして天主様に満たされる為です。
「沈黙」というのは、天主の声を聞く為です。被造の雑音から遠ざかって、愛の声を聞く為です。愛に満たされる為です。
ですから私たちも、私たちの主と一緒に荒れ野に行きましょう。40日間、主は公生活の最初に、荒れ野に行って沈黙の内に祈りました。この燃えるような熱い沈黙を黙想しましょう。
40日の断食と祈りの後に、イエズス様は飢えを感じられました。公生活に入って、これから皆の前に人生を以って、生き様を以って、模範を以って、御教えを以って、公生活を始めようという、教えようというその最初に、主は飢えを感じられました。
何か必要があった、何か食べる必要があったという事です。砂漠を出るとき、荒れ野を出る時に、主は飢えを感じられました。
ところで、私たちの主が人生の終わりに、十字架の上で沈黙を守ります。十字架の上では、飢えではなくて、「私は渇く」と言われました。人生の終わりに、公生活の終わりに、「渇く」と、これから亡くなろうと、命を天主聖父の元に返そうとする時に、主の中に入ろうとする時に、「私は渇く」と言いました。
この公生活の最初の「飢え」と、公生活の終わりの人生の終わりの「渇く」というのは、何か深い意味がありそうです。同じ沈黙の中になされた事ですけれども。
「飢え」というのは、お腹が減っている、飢えているというのは、何かこれから歴史的な、この世の、人間の人生を、この世の事を始める時に、それに取り掛かる時に感じた事でした。限られたこの人生を生きる時に感じられたものでした。
「私は渇く」と言った時には、これから永遠の世界に入ろうとする時に感じられたものでした。無限の、そして果てしのない世界に入るその時に、「渇く」と言われました。天主様の無限の果てしのない望みを、天主に関する事に、関わる事であるかのようです。
イエズス様が40日の断食の後に飢えを感じられた後に、サタンは悪魔は、このイエズス様の事が分かりました。そこでイエズス様を試みようと、とても魅力的な誘惑をしようと思いました、「この地上のものに関わりたいのならば、もしもそうであるのならば、お前が天主の子であるなら、私の前に膝を屈めて礼拝せよ。そうすれば、この全ての地上の栄華、富をお前に与えよう。全ての政治、経済、この世の権力、富、名誉、名声、それに飢えているのではないか」と、サタンは感じたかのようです。
しかし人生の終わりに、十字架の上で渇きを感じられた主が、「私は渇く」と言った時に、サタンはそれが何を意味するか分かりませんでした。「水を飲みたいのであるか?」と思って、酢と苦い物を与えただけでした。イエズス様の渇きはそんなものではありませんでした。全く理解できていませんでした。確かに水に似たようなものではありましたけれども、イエズス様の渇きはもっと深い、そして無限の渇きでした。天主の深い淵に関わる、永遠に関わる渇きでした。
イエズス様の燃えるような、この十字架の上での渇き、願い、望みとは一体、何だったのでしょうか?
ちょうど十字架の上で、そしてまた全生涯の中で、イエズス様の持っていた強い望み、「天主聖父の栄光と、そして霊魂の救い」というこの望み、これを表していました。
ちょうど沈黙の内に隠れて見えなかったけれども、ちょうど大きな氷の塊が、海の中で先っぽだけを見せて、そのほとんどが海の中に隠れているように、イエズス様の無限の、天主聖父を讃美したい、聖父を愛し、その御旨を果たしたい、その御旨のみを果たしたい、という沈黙の願いは、「私は渇く」と言った時に、ちらりと姿を見せたかのようです。
イエズス様はこの世に入る時に、「聖父よ、私は御身の御旨を果たす為に来ました」と言いました。聖パウロが証言しています。イエズス様は御望みになったので、そう御望みになったので、御自分をいけにえとして捧げました。“Oblatus est, quia ipse voluit.”
イエズス様の沈黙の内の隠れた熱い望み、願いとは、一体何だったのでしょうか?
それは、私たちの罪の償いです。人間の受けるべき罰、そして人間がしたくてもできない、し尽くす事ができない罪の償い、贖いの業を成し遂げる、そしてそうする事によって、天主聖父に栄光を与える、霊魂を救う、この贖いの為に、十字架の上で残酷な死を遂げて、聖父の御旨を果たし尽くす、これでした。
天主の御言葉が、創られなかった天主の御言葉が、天主聖父の発生した唯一の御言葉が、人間となって、肉を取って、そして御託身によって人間となったとしたならば、それは私たちの罪の償いの為に、十字架の上にいけにえとなって屠られる事でした。天主の小羊となって屠られる事でした。私たちの罪の贖いと、いけにえとなる事でした。
天主の本性が、至聖三位一体の第二のペルソナにおいて、人間の本性と全く合体しました。分かつ事ができないほど、親密に合体しました。この一致の恵み、これは一体何の為だったのでしょうか?なぜ天主は人となったのでしょうか?御言葉のペルソナにおいて、人性と天主性が一つとなったのでしょうか?
それは、罪のいけにえとなる為です。贖いの業を成し遂げる為です。この超自然の御恵み、聖寵は、一致の御恵みは、イエズス様にとっては苦しみの原理でした。この一致を以って、イエズス・キリストは、天主の御言葉は、人となった天主の御言葉は、苦しみ、死を捧げる事ができるようになりました。この一致は、天主の本性と人間の本性が一つとなったというこの一致は、イエズス・キリストの聖徳の原理でもあり、それと同時に、贖い、苦しみの原理でもありました。栄光の原理その元であると同時に、屈辱と、そして十字架の死に至るまでの無となる原理でもありました。
イエズス様がこの地上に来られたその最初の瞬間、マリア様が「我になれかし」と言われて、御胎内に天主の御子が宿られたその瞬間から、一つの沈黙の内の熱い願いが、天主の御言葉に、人となった天主の御言葉に、イエズス・キリストにありました。「受難。」そして「いけにえとなる。天主聖父の御旨を果たして、十字架に至るまで従順である。十字架の死に至るまで従順である」という事でした。
イエズス様が聖なる者であればあるほど、清らかな者であればあるほど、天主と一致すれば一致しているほど、まさに罪を償うに相応しいものでした。イエズス様が栄光に満ちていれば満ちているほど、天主の御稜威に満ちていれば満ちているほど、無とする事ができる方となりました。
イエズス様は、氷山の一角のように、沈黙の内にある望みをポロリと仰った事が時々あります、「私の食べ物は、聖父の御旨を果たす事だ。」「私には受けなければならない洗礼がある。」一体これは何でしょうか?血による洗礼です。
ある時、マグダレナのマリアが、イエズス様の御足元でナルドの香油を塗って、そして「その高価な物を何でそんな粗末にするのか」とユダに嗜められた事がありました。その時にイエズス様がすぐに仰ったのは、「これは、私の葬りの為だ。」
イエズス様が考えてあったのは、いつも御受難の事でした。十字架における死の事でした。「私の時」の事でした。
ある時、弟子たちの母親たちがやって来て、「ああ、私の子供を、あなたの栄光の時にあなたの右に是非座らせて下さい。大臣に、あるいは長官にして下さい。栄誉を与えて下さい」と頼んだ時があると、すぐにイエズス様の頭にあったのが、「では彼らは、私の飲もうとする杯を飲む事ができるのか?受難を飲む事が、受ける事ができるのか?私と共に苦しむ事ができるのか?」
イエズス様の頭にあったのは、いつも十字架の事でした。子供の時からそうでした。イエズス様はこの受難の杯を飲み干す事を、それに渇いていました。「私は渇く。」
もしもこれに反対する者があれば、イエズス様の御怒りは、あたかも柔和なイエズス様ではないかのようでした。ある時、ペトロがイエズス様に、イエズス様の予言を聞いて、「ああ、主よ、決してそんな事が起こりませんように。ああ、そんなまさか」と言うと、ペトロに非常に怒ります、「サタン、退け!」ところで、自分を苦しみに、受難へと導く弟子に対しては、裏切りのユダに対しては、「友よ、」。何というコントラストでしょうか。
御受難の前、最後の晩餐の時、「私は、このパスカを、この過ぎ越しを、望みに望んでいた」と仰います。「私は渇く。」
イエズス様が沈黙の内に熱烈に望んでいたのは、まさにこの御受難でした。
なぜここまで望んでいたのでしょうか?
天主に対する、天主聖父に対する熱烈な愛と、そして愛する兄弟の皆さん、皆さんと、そして私に対する熱烈な愛、霊魂を救いたい、私たちを幸せにしたい、無限に幸せにしたい、天国に連れて行きたい、という愛の表れでした。その為にこそ、天主は人となったからです。命そのものが、死を望もうとされたからです。死を受ける為に人となったからです。
では沈黙の中に、イエズス様のこの御受難の熱烈な望みの中に深く入りましょう。マリア様にお願いしましょう。私たちにもその熱烈な望みが与えられますように、
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
霊的秋田巡礼 「イエズス様は沈黙のうちに、何に渇いておられたのか?」 霊的講話4