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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ヴィガノ大司教「2020年のバチカンの降誕場面は『冒涜的』である」

2021年01月10日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年のクリスマスにバチカンに飾られた降誕場面についてのヴィガノ大司教のコメントを参考情報としてご紹介いたします。

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、ヴァチカンのトップの要職を務め、在米教皇大使の重職を果たしたカトリックの高位聖職者(大司教)です。
ヴィガノ大司教は、多くの批判を受けることを覚悟の上で、命がけで、カトリック信者の多くを眠りから覚ますために、このように発言していると思えます。

ヴィガノ大司教は、カトリック教会内における変革や改革などを見ていても、自分がかつて自分の目にする現実を何とか正当化してきたことでしょう。新しいミサ、新しい秘蹟、新しい教義、新しいやり方、新しい教会法、新しい祈り方、新しい公教要理、新しい教会制度、新しいノーマル、などなどです。しかし、教皇大使として現実をあまりにも知りすぎてしまった、裏の裏を見てしまったのだと思います。

ヴィガノ大司教の訴えていることは、一般信者が棄教の激流に押し流されないように、信仰の命を守るように、カトリック教会の聖伝に立ち戻るとさせることです。大きな警報の声で、私たちに襲い掛かる危険について注意を促しています。

聖伝のミサが奪われて新しいミサが押し付けられたとき何も抵抗せずにいたことからの反省が現れています。もうそのような間違いは繰り返したくない、カトリック教会の使徒継承の宝を何とかして守りぬきたいという願いがにじみ出ています。もはや「私たちの教会が壊されることを許し、私たちの祭壇が剥ぎ取られるがままにさせ、教理の持つ単純で結晶のような完全性が異端者に典型的である曖昧な混乱によって改悪されるのを許すという誤り」はごめんだ、と。

ヴィガノ大司教は、このような異常な状況は、私たちが「目から覆いを取り除くのに役立つ」ので、天主に感謝すると言っています。ヴィガノ大司教の発言の目的はまさにこれです。私たちが目を覚ますことです。私たちに迫り来つつある、大きな「背教、不道徳、悪徳」の津波から逃げることです。その津波の前兆が「醜さ」で「それは滅び、消え、崩れ去る運命にあります。」「醜さは嘘や悪事の伴侶」だからです。それに引き換え、カトリック教会が常に持っていた「美は真理と善にとって欠かせない侍女」です。

Abp. Viganò: Vatican Nativity is ‘expression of apostasy, immorality and vice’

En Grege Relicto. Mons. Viganò Commenta il Presepe di San Pietro.

En Grege Relicto. Bishop VIganò Comments on the Nativity Scene at St. Peter’s.

+Viganò: 2020 Vatican Nativity Scene is "Blasphemous" - OnePeterFive

Photo Credit

ヴィガノ大司教「2020年のバチカンの降誕場面は『冒涜的』である」

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 2020年12月23日

EN GREGE RELICTO[1]
群れを残したまま[1]

サン・ピエトロ広場の降誕場面に関する考察

サン・ピエトロ広場の中央で、金属製の構造物が降誕場面を占めており、急ごしらえで筒状のライトによって装飾され、その下には、常識のある人ならば降誕祭の登場人物と同じと言う勇気はないであろう、いくつかのぞっとするような像が、トーテムとして邪魔をするように立っています。バチカン大聖堂の厳粛な背景は、調和のとれたルネサンス建築と、擬人化されたボウリングのピンによる下品な展示物の間にある深淵、落差を増大させるのに役立っているだけです。

ぞっとさせるようなこれらの人工物が、アブルッツォ州の名も知れない美術学校の学生たちの作品であることは、ほとんど問題ではありません。降誕祭への大っぴらな侮辱物をあえて寄せ集めようとしたのが誰であれ、この誰かは、無数の芸術もどきの奇怪な作品を生み出しているだけでなく、美しいものをあるいは後世に残す価値のあるものをどのようにして作るかを知らなかった時代に、そんなことをしたのです。私たちの美術館や現代美術ギャラリーには、1960年代から70年代にかけての病んだ心から生まれた作品や展示品、挑発的作品があふれています。それらは、見られたものではない絵画、嫌悪感を与える彫刻、主題も意味もわからない作品です。教会もそれを免れませんでしたし、教会はそのような作品であふれてさえいますが、それは常に不運な時代に始まったものであって、才能よりもイデオロギーや政治的な所属を評価された「芸術家」によって生み出された不心得な汚染物です。

何十年にもわたって、建築家や職人たちは、素朴な人々に嫌悪感を与え、信徒たちをつまずかせてしまうぞっとするような建築物や調度品、聖なる装飾品を作り続けてきました。この同じ悪の根源から生まれたものには、ベルゴリオの移民主義的な基調で、「無名の移民の記念碑」である青銅製のおんぼろの船があり、今では右側のベルニーニの列柱の調和を乱し、その圧迫感のある重さで石畳が沈み、ローマの人々を困惑させています。

今年の冒涜的な降誕場面より前に、イタリアの同性愛者とトランスジェンダーのコミュニティーのための巡礼地であるモンテヴェルジーネの聖堂がバチカンに提供した、同じような2017年の冒涜的なものがあったことを思い起こすべきです。この「反・降誕場面」は、「教皇フランシスコの命令と教理に従って注意深く計画され、前もってよく考えられた」もので、あわれみの作品とされるものを描き出したということになっていました。それは、地面に横たわる裸の男、ぶら下がった腕を持つ死体、囚人の頭、虹の花輪を持つ大天使、そして廃墟の中に見られる聖ペトロ大聖堂の円屋根です。

Vatican’s ‘sexually suggestive’ nativity has troubling ties to Italy’s LGBT activists

L’anti-presepe di piazza san Pietro - Corrispondenza romana

非常に不幸な実験を正当化する口実として降誕祭を取り上げた同様の複数の試みは、多くの信徒の苦しみとなってきており、聖職者の浪費や彼らの革新への渇望にいかなる犠牲を払っても耐えることを余儀なくされています。その渇望は、意図的に「冒涜」(profane)しようとする意志であり、この「冒涜」とは語源的には世俗的なものにするという意味ですが、正確には聖なるもの、この世から切り離されたもの、礼拝と崇敬のために取っておかれたものを冒涜することです。それには、あるはずのないモスクを含む「エキュメニカル」な降誕場面、いかだに乗った聖家族を描いた「移民主義者」の降誕場面、そしてジャガイモや金属くずで作られた降誕場面さえもありました。

Le Pape inaugure un monument aux migrants place saint Pierre - Vatican News

Photo Credit

これらは、ルネサンスあるいは 18 世紀の画家が行ったように、東方の博士たちの行列を当時の衣装で着飾ってクリスマスの場面を現代化しようと試みている、というわけではないことは、今では、最も経験の浅い人にとってさえも明らかです。そうではなくむしろ、これらは邪悪なる者【悪魔】に欠かせない属性である醜さによる反・天主顕現性として傲慢にも冒涜と汚聖を押し付けることなのです。

この降誕場面が作られた各年が、第二バチカン公会議や改革ミサの問題が浮かび上がった年と同じ年であることは偶然の一致ではありません。それを作る気にさせた原則が同じであるように、その美学は同じです。なぜなら、ちょうどそれらの年が、公会議の教会に道を譲ってきたカトリック教会の日食の始まりの証しとなったように、それらの年は一つの世の終わりを告げるとともに、現代社会の始まりを告げたからです。

このような巨大な陶芸品を窯に入れることは、少なくない問題を引き起こしたに違いありませんが、アブルッツォ州の美術学校の勤勉な教師たちは、それらを小さな部分に分解することで克服しました。公会議でも同じことが起こりました。そこでは、時代が違えば秘密のちっぽけな進歩的神学者のグループでの議論に限られていたであろう文書の中に、巧妙な専門家たちが教理上や典礼上の新奇性を押し込むことに成功したのです。

偽芸術的な実験の結果は、表現されている対象が主のご降誕であると主張されればされるほど、より一層ぞっとするものとなっています。このような怪物的な人物の集合体を「降誕場面」と呼ぶことに決めたからといって、それを「降誕場面」とすることはできませんし、教会や広場、家庭でこのような場面が公開されている目的、すなわちご托身の神秘の前で信徒の礼拝を燃え立たせるという目的にも合致していません。それはちょうど、第二バチカン公会議を「公会議」と呼んだからといって、その定式化に問題が少なくなったり信徒の信仰を確実に強めたりしたわけでもないように、また秘蹟をさらに頻繁に受け取るようになったわけでもないように、ましてや、異教徒の群衆をキリストのみ言葉へと改宗させたわけでもなかったようにです。

またそれはちょうど、カトリック典礼の美しさが、みじめさでのみ優越を示している儀式に取って代わられたように、ちょうどグレゴリオ聖歌と宗教音楽の崇高なる調和が、部族的なリズムと冒涜的な音楽を教会内に響かせるために教会から禁じられたように、ちょうど聖なる言語【ラテン語】の持つ普遍的な完全性が俗語のバベルの塔によって一掃されたようにです。ですから、【アシジの】聖フランシスコによって考案された【降誕場面での崇敬という】民衆の持つ古くからの崇敬の衝動は、くじかれてしまいました。その素朴さにおいてこの崇敬を歪曲し、その心を剥ぎ取るためになされたのです。

おそらく、信徒や小さな子どもたちが非常に大切に思う古い時代の伝統に対して、このようなあからさまに不敬な行いを誇示しているのを見ると、オベリスク【古代エジプトのモニュメントでローマ帝国の勝利の記念にエジプトから運ばれた】の下まさにそこに設置することを望んでいた霊魂たちの状態を理解することができます。つまり、これは、天と天主の民との両方に対する反抗行為としてなされたのであり、恩寵のない、信仰のない、愛徳のない霊魂らの状態を示しています。

誰かが、これらの卑猥な陶器の像にキリスト教的なものを見いだそうとする無駄な試みをするとき、彼は、すでに犯された誤りを繰り返してしまうことになるでしょう。つまり、私たちの教会が壊されることを許し、私たちの祭壇が剥ぎ取られるがままにさせ、教理の持つ単純で結晶のような完全性が異端者に典型的である曖昧な混乱によって改悪されるのを許すという誤りです。

はっきりと言いましょう。そのモノは降誕場面ではありません。なぜなら、もし降誕場面だったとしたら、「肉による」(secundum carnem)天主の子のご托身とご誕生という崇高な神秘、羊飼いと東方の博士たちの礼拝しながらの讃美、天主なる幼子に対する至聖なるマリアの無限の愛、そして被造物と天使たちの驚きが描かれているはずだからです。要するに、降誕場面が、預言の成就、飼い葉桶の中の天主の子を見ることへの私たちの魅惑、私たちが贖いの御あわれみに値しないこと、を黙想させてくれるように、私たちの霊魂の状態が描かれているはずだからです。その代わりに、広く知られている敬虔さへの軽蔑、天主の真理の永遠の不変性を想起させる永続する【降誕場面の】モデルを拒絶すること、王たる幼子の御稜威と博士たちの曲がった膝の前にいる不毛の死んだ霊魂の無気力さ、に気づくのです。荒涼とした灰色の死、暗い無菌性の機械、暗闇の地獄宣告、そして自分の権力が王たる幼子の救いの光によって脅かされているのを見ているヘロデの持つ嫉妬深い憎しみに気づくのです。

繰り返しになりますが、私たちはこの試練の中でさえも主に感謝しなければなりません。この試練は一見すると影響が少ないように見えますが、私たちが受けているより大きな苦難と首尾一貫しています。なぜなら、私たちの目から覆いを取り除くのに役立つからです。この不遜な怪物は、新世界秩序(New World Order)が望んでいるトランスヒューマニズム【科学技術で人間の身体的能力を高めようとする思想。「H+」と略される。新グノーシス主義との批判もある】による普遍的な宗教のしるしです。それは背教、不道徳、悪徳の表現であり、模範として立てられた醜さの表現です。そして、天主の祝福を受けず、実際には天主に背いて人間の手で作られたすべてのもののように、それは滅び、消え、崩れ去る運命にあります。これは、単に好みや感性の異なる誰か別の者が権力を握るようになるからではなく、醜さが嘘や悪事の伴侶であるように、美は真理と善にとって欠かせない侍女であるからなのです。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2020年12月23日

待降節第四週の平日(水曜日)

[1]「アデステ・フィデレス」(Adeste Fideles)の第三番の歌詞「En grege relicto, humiles ad cunas, vocati pastores approperant. 見よ、群れを残したまま、貧しい揺りかごへと、呼ばれし羊飼いらは急ぐ」

み告げ受けて 羊かいは
群れ打ちおきて 道いそぐ
いざ我ら 共に馳せ行かん

 

2020 Vatican nativity scene meets universal ridicule and scorn

‘So the Vatican presepe has been unveiled....turns out 2020 could get ...

LifeSiteNews

 

 


ローマ皇帝の勅令の為に移動し、人々の冷たい心せいで宿もなかった、しかし全ては、天主の御計画の内にあった

2021年01月09日 | お説教・霊的講話
2020年12月25日(金)主の御降誕の大祝日(日中のミサ)

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄妹姉妹の皆さん、今日、私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお慶びを申し上げます。

今日お生まれになった御方は、ただの普通の赤ちゃんではありませんでした。この全宇宙の創造主、初めのない、終わりのない、愛であるもの。全ての所有者、王の王、栄光の天主。天群の天使たちも、その御前では震えおののく、絶対の主権者。その御方が、永遠の昔から、私たちに御自分の天主の命を与える為に、自分の幸せを与えるが為に、幼き子供となって、今日、お生まれになりました。

もちろん天主の御摂理によって全てを支配しておられる御方は、大きなお屋敷に、御殿にお生まれになる事もできましたけれども、しかしイエズス・キリストは馬小屋の中で、人々から捨てられて、そして極度の貧しさの貧困の内に、旅の途中で、お生まれになる事を望まれました。しかしそれと同時に、預言を全て成就してお生まれになりました。

一体なぜ?

これはただ一つ、私たちにどれほど、「御自分の持っている私たちに対する愛を、お見せしたい」と思ったからです。

私たちに命を与える為に、御自分は死を。

私たちに喜びを与える為に、自分は苦しみを。

私たちに安らかさと平安を与える為に、御自分は苦悩を、そして貧困を受ける事を、良しとされました。

何という交換だったでしょうか!私たちに天主の命を与える為に、人間の命と人間の死すべきその運命を受けたのですから。

愛する兄弟の皆さん、どうぞこの一つの事を知って下さい。兄弟の皆さんも、私も、「永遠の昔から、全能の天主によって愛されている」という事です。

そして「私たちはここに、この今こうやっているのは、天主の御元に、永遠の命を、幸せを受ける為に今、生きている」という事です。

そして「この永遠の愛の計画の中に、皆さんも、私も、今、生きている」という事です。

たとえローマ皇帝の勅令の為に移動した、としても、そして一見人々の冷たい心から宿も無かったけれども、しかし全ては、天主の御計画の内にありました。

ですから愛する兄弟の皆さん、もしも辛い事や、あるいは何か嫌な事が起こったとしても、どうぞ絶望なさらないで下さい。

私たちには無限に期待を、希望をする理由があります。なぜかというと、イエズス・キリストが私たちを愛しておられるからです。全ては、主の御摂理の御手の中にあるという事を知って下さい。愛の手の中にある、という事をご存知になって下さい。

最後に、マリア様にお祈り致しましょう。私たちにイエズス様をお与え下さいますように、私たちにイエズス様を下さるのは、マリア様です。

またヨゼフ様にも参りましょう。ヨゼフ様が聖家族を、イエズス様とマリア様を守って下さったように、私たちをも守って下さいますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




2021年の聖伝の典礼暦によるカレンダーができました!

2021年01月07日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

聖伝の典礼暦によるカレンダーが出来上がりました!

明日からの大阪と東京でのミサでお分けすることができ、嬉しく思います。


今年は、ルフェーブル大司教様の帰天30周年の特別号です。

一冊1,000円で、宜しくお願いいたします。
十冊まとめて購入してくださる方々には、9,000円でお分けさせて下さい。

宜しくお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父

【再掲】"クリスマス"と"御公現"、どう似ていて、どう違うか?

2021年01月06日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年1月6日(初金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年1月6日 初金曜日 主の御公現のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年1月6日、主の御公現という大祝日を祝っています。今日は2017年の初めての金曜日で、初金曜日でもあります。今日はこの御ミサの後に、いつものようにミサの後のお祈りを皆で一緒に致しましょう。でも今年はファチマの年なので、このミサの聖体拝領後の祈りの直後に、そして教皇様の為のお祈りの直前に、ファチマの天使が教えてくれたお祈りを皆さんと一緒に唱えたいと思っています。

今日はまだ御公現節ですので、ミサの後の感謝の祈りが終わりましたら、イエズス様の礼拝をしたいと思っています。クリスマスの夜にやったように、小さなイエズス様の御足に或いは御手に接吻をなさって下さい。

今日は初金曜日ですから、聖時間も行いたいと思っています。もしもできる方は聖時間のお祈りもなさって下さい。


Ecce advenit dominator dominus
「見よ、主であり支配者である方がやって来た。」

聖父と聖子と聖霊との御名よりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は主の御公現です。主の御公現というのは、東の国の3人の博士が星を見て、その星に導かれて、来たるべき生まれた救い主、ユダヤの王、そして真の天主、王の王である方の為に、黄金とそして乳香と没薬を贈り物としてはるばるやって来て、そして生まれた幼子イエズス・キリスト様にお捧げした、という歴史的な事実をお祝いする事に基づいています。

今日はちょうどこのまぐさ桶の所に、新しく3人の王様の御像が置かれました。クリスマスの夜にはマリア様とヨゼフ様、そして真夜中にイエズス様が置かれましたけれども、今日1月6日は3人の王様が付け加えられます。そして馬小屋のこのまぐさ桶は2月2日まで、クリスマスから40日の間こうやって飾られます。

今日はでは、一体御公現というのはどんな意味を私たちが持っているのか?

クリスマスと御公現は、どう似ていてどう違うのか?という事を黙想する事を提案したいと思っています。

そしてどう似ていてどう違っているのか、というのを見た後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

クリスマスの時にいらして下さった方は覚えていると思いますけれども、クリスマスはまず2つの特徴がありました。

それは「光の祝日」で、光からの光、真の天主からの真の天主、この世の光であるイエズス・キリスト様が、この真っ暗闇のこの世の中を照らす為にやって来られた。ですから昔から教会では、こうイルミネーションで飾って、光を飾るというのが伝統でした。

もう1つのクリスマスの特徴というのは、「プレゼント」だという事でした。どんなプレゼントかというと、それはこの世を創った創造主、天主様が、三位一体が、私たちに最高のプレゼントをした、クリスマスのプレゼントをした、という事でした。そのプレゼントの中身は何かというと、実は私たちに、天主の御子イエズス・キリスト様を全て下さった、イエズス様は私たちのものとなった、“PUER natus est nobis,”「天主の御子が私たちの為にお生まれになった」という特別のプレゼントを記念する事でした。

ところで御公現はどうなのでしょうか?御公現も実はそれと同じなのです。御公現も「光の祝日」であって、そして同時に「プレゼントの日」なのです。でもプレゼントはプレゼントでも、今度は「人間の方からイエズス様に贈る」プレゼントの日なのです。

何故そういう事が言えるのかというと、今日のミサで書かれている内容の事をよく読むとその事が分かります。例えば書簡書というところには、「エルサレムよ、輝け」とあります。これも「エルサレムが光で満たされる」という意味です。

クリスマスの時には、ベトレヘムに光が照らされました。でも今日の御公現では、エルサレムが輝いています。ちょうどクリスマスの時にはベトレヘムで太陽が昇って、マリア様と聖ヨゼフ様とそして選ばれた羊飼いたちだけに、「救い主が現われた」という事が告げ知らされた。羊飼いたちが、選ばれた羊飼いたちが天に、天使たちの大群、光り輝く天使たちの大群を見て、その歌声を聞いて、そしてベトレヘムに駆けつけて、そしてお生まれになった救い主を拝んだ。ですからクリスマスはいわば、カトリックの家庭の、家族の祝日でした。

ところがその昇る太陽がますます現れて、今度は全世界に、異邦人に、東の国の博士たちも呼んで、ユダヤ人とは関係ない東の国の異邦人たちも招いて、救い主を礼拝するように公に御自分を現した、というので、「エルサレムよ、輝き出せよ」という公的な特徴を持っています。まさにカトリックの、「全世界を、この救い主が今日輝き出す。ユダヤ人のみならず異邦人たちにも輝き出す」という光の日なのです。

もう1つのプレゼントというのは、これは異邦人たちが3人の博士たちが、幼子イエズス様になしたという事が、その行為によって表されています。ただこの世の救い主から、この世の創造主から救い主を与えられた、人間は特別の御恵みを受けた、のみならず、今度は人間もそれに対して、それに応えようとするのです。それがこの3人の博士が出した、この「黄金」と、「乳香」と、「没薬」なのです。

「黄金」というのは、これは実は王様に昔から与える贈り物なのです。王様に捧げる物で、これはこの生まれた方がメシアが、まさに「王様である」という事をこの3人がよく知っていたという事を表しています。

「乳香」というのは、これは特に香を焚いてその香が天に上がるので、お祈りのシンボルでもあり、これは天主様に、この世の創造主に捧げる贈り物なのです。ですからこの3人はこの生まれた救い主が、この小さな子供が、「真の天主である」という事を知っていたのです。

もう1つ驚く事は、この博士はこの生まれた子供に「没薬」を、つまり埋葬の為の準備の物を与えたのです。これは「死」とか、「苦しむ」事の準備の為に与えられました。

この3人の博士たちは良く、この生まれた、ベトレヘムでお生まれになって、そして礼拝しに来た方が一体どのような方であるか、と知っていたのです。「真の天主」であり、「真の王」であり、そして「私たちの為に苦しみを受けて亡くなられる救い主である」という事を知っていました。そしてそれに相応しい贈り物を与えました。

ですから今日、この歴史的な出来事を福音書で読んだ後に、「その博士たちがやった事と同じような事を私たちもするように」と言って、本当ならいつも福音の時には立って聞いているのですけれども、福音書に敬意を表して立ったまま聞くのですけれども、その博士たちがやったように、その福音の場所でも、「その3人は贈り物を与えて、そして平伏して礼拝した」という時に、私たちも跪いて同じように、この生まれた赤ちゃんを、イエズス・キリスト様を礼拝しました。

これはどういう事かというと、「実はこれと同じような事を、この歴史上起こったのと同じような事を今、私たちはしているんだよ」という事を教えようとしているのです。でもどのようにしているかというと、確かに目に見える形では違うのですけれども、しかし「実際は同じ事が起こっている」という事を教えようとしています。

それは集祷文を読むとよく分かります。集祷文というのは最初のお祈りですけれども、「3人の博士たちは星によって導かれたけれども、私たちは信仰という薄い光によって導かれて来ました。そして3人この博士たちがこの砂漠を越えて、色んな困難を越えて、ヘロデの罠を越えてやって来たように、私たちもこの世の人生を通り抜けて、そして悪魔の罠も通り抜けて、礼拝に来ました。それはイエズス様、御身の近くに来る為です。イエズス様を真の救い主、王として、天主様として礼拝する為にやって来ました。信仰に導かれてやって来ました。そして私たちはこの信仰に導かれて御身を礼拝します。」

この3人の博士たちがおそらく贈り物を渡した後に、マリア様から或いはヨゼフ様から、「幼子を、あぁ、どうぞ抱かせて下さい」と言って受け取ったかもしれません。「あぁ、これこそ救い主だ。あぁ、本当にここまでやって来てよかった」というように、「私たちもこの幼子を御聖体拝領で受けて、そして私たちの心からの愛と、お祈りと、犠牲を捧げて、礼拝を捧げて、イエズス様をお受けしなさい」という教会の教えがここに含まれています。

非常に意味が深いのは、特にこの2番目のお祈りなのです。2番目のお祈りは「密誦」と言われていますが、「昔は博士たちは黄金と乳香と没薬を捧げた。しかし私たちが今捧げるのはもっとそれよりも素晴らしいものだ。私たちは私たちがもう既に受けたイエズス・キリスト様のその純粋な、黄金のような純粋な天主様に対する愛を捧げるし、そしてイエズス・キリスト様が御父に捧げた純粋な祈りであるそのいけにえを、ミサのいけにえを捧げるし、そしてちょうどイエズス様が御墓で葬られた時に没薬を受けたように、私たちの霊魂にいらして下さる、そのちょうど私たちの霊魂がお墓であるかのように、私たちの中にやって来て下さる、屠られて私たちの中にやって来て下さる、聖体拝領で私たちの中にやって来て下さる、その3つの事は全てイエズス様である。その事が私たちの霊魂の中に起こっている」という事を祈っています。

では私たちはこの今日、この御公現の中で、光の祝日であって、贈り物の祝日、人間から天主様に対する贈り物の日だ、という事が分かると、ではどのような遷善の決心を立てれば良いでしょうか?

私たちも3人の博士に倣って、イエズス様に贈り物をお捧げ致しましょう。

私たちはあまり自慢する事ができません。何故かというと、本当なら3人の博士のように一生懸命純粋の黄金と、純粋の乳香と、純粋の没薬を捧げたいのですけれども、私たちは天主様に対する愛というよりは、被造物の愛によって汚れていますし、お祈りというのも乳香のようにサッと天に上れば良いのですけれども、むしろ雑念とその他の考えであまり天に上るわけではないし、そして犠牲といっても、没薬をきれいに、純粋な没薬として純粋に犠牲を捧げる事ができると良いのですけれども、なかなか犠牲も「嫌だ」「嫌だ」と言って、捧げる事ができません。

ですから私たちはイエズス様を、イエズス様御自身を、イエズス様御自身の祈りと、犠牲を、また愛を、私たちの代わりに御父にお捧げ致しましょう。イエズス様の御体、御血、御霊魂、御神性を、この世の罪の償いの為、また私たちの捧げるものとしてお捧げ致しましょう。

また儚いながらも、汚れたものではありますけれども、天使の誘いに倣って私たちも、信仰と、礼拝と、希望と、愛を、イエズス様の為にお捧げ致しましょう。そしてイエズス様を愛さない人々、信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々に代わって、その赦しをお願いする事に致しましょう。

Ecce advenit dominator dominus
「見よ、支配者であり主はやって来られた。」

聖父と聖子と聖霊との御名よりて、アーメン。





2021年1月10日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for January 10, 2021

2021年01月06日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

最新情報は次のカレンダーをクリック
年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2021年1月8日(金)9日(土)10 日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 1月8日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 1月9日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 1月10日(日) 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

1月11日(月)  9:00 ミサ聖祭

【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

1月10日(日)主日ミサが三回捧げられます。

午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of January 10, 2021.

Mass times in Tokyo:
09:00 - Sung mass Facebook live
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass
It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses.
Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo


Mass schedule in OSAKA:

Fri, January 8: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, January 9: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, January 10: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Mon, January 11: Holy Sacrifice of the Mass at 9:00 am.









今日、2021年1月6日は、一月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2021年01月06日 | カトリックとは

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2021年1月6日は、私たちの主の御公現の祝日です。

同時に、一月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。今年は、聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日に「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


【再掲】聖会の保護者なる聖ヨゼフに向う祈

2021年01月04日 | カトリックとは

アヴェ・マリア!


聖会の保護者なる聖ヨゼフに向う祈

 幸いなるヨゼフよ、われら困難のうちに御身によりすがり、かつ御身のいと尊き浄配の助けを求めたれば、また御身の御保護をも頼もしく願い奉る。御身は天主の聖母なる汚れなき童貞と結ばれたるいつくしみあり、幼きイエズスに尽したる父の愛あれば、またイエズス・キリストが、その御血をもってあがない得たまえる家督を、一層あわれみて顧み、かつすべてわれらの急に迫れる時、助力と救援とを下し給わんことを、伏して願い奉る。

 聖家族のいと忠実なる守護者よ、イエズス・キリストの選ばれたる末を守り給え。慈しみ深き父よ、われらのために、すべての誤りと腐敗との伝染を防ぎ給え。いと強き保護者よ、われらが暗(やみ)の権威と戦うをあわれみて、天より助けをたれ給え、また昔幼きイエズスを、生命の危険より救いし如く、今も公教会を守りて、敵のわなと、すべての困難とを免れしめ給え。かつ常にわれらをことごとく保護し、われらをして御身にならわしめ、御助けによりて、聖なる一生を送り、信心をもって死し、天国の永遠なる福楽にいたることを得しめ給え。アーメン。


AD te beate Ioseph, in tribulatione nostra confugimus, atque, implorato Sponsae tuae sanctissimae auxilio, patrocinium quoque tuum fidenter exposcimus. Per eam, quaesumus quae te cum immaculata Virgine Dei Genetrice coniunxit, caritatem, perque paternum, quo Puerum Iesum amplexus es, amorem, supplices deprecamur, ut ad hereditatem, quam Iesus Christus acquisivit Sanguine suo, benignus respicias, ac necessitatibus nostris tua virtute et ope succurras.

Tuere, o Custos providentissime divinae Familiae, Iesu Christi subolem electam; prohibe a nobis, amantissime Pater, omnem errorum ac corruptelarum luem; propitius nobis, sospitator noster fortissime, in hoc cum potestate tenebrarum certamine e caelo adesto; et sicut olim Puerum Iesum e summo eripuisti vitae discrimine, ita nunc Ecclesiam sanctam Dei ab hostilibus insidiis atque ab omni adversitate defende: nosque singulos perpetuo tege patrocinio, ut ad tui exemplar et ope tua suffulti, sancte vivere, pie emori, sempiternamque in caelis beatitudinem assequi possimus. Amen.


Prayer to Saint Joseph
(Prescribed by HH. Pope Leo XIII, for the month of October,after the recitation of the Rosary.)

To thee, O blessed Joseph, we fly in our tribulation and after imploring the help of thy holy Spouse, with confidence we ask also for thy intercession. By the affection which united thee to the Immaculate Virgin Mother of God, and by the paternal love with which thou didst embrace the Child Jesus, we beseech thee to look kindly upon the inheritance which Jesus Christ acquired by His precious blood, and with thy powerful aid to help us in our needs.

Protect, most careful guardian of the Holy Family,the chosen people of Jesus Christ. Keep us, loving father, from all pestilence of error and corruption. From thy place in heaven be thou mercifully with us, most powerful protector, in this warfare with the powers of darkness; and, as thou didst once rescue the Child Jesus from imminent danger of death, so now defend the holy Church of God from the snares of the enemy and from all adversity. Guard each of us by thy constant patronage, so that, sustained by thy example and help, we may live a holy life, die a holy death, and obtain the everlasting happiness of heaven. Amen.

(上記は、イギリスで伝統的に使われている英訳)


聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!

病める者の希望なる聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!
病める者の希望なる聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!
病める者の希望なる聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!

病人の回復なる聖母マリア、我らのために祈り給え!
病人の回復なる聖母マリア、我らのために祈り給え!
病人の回復なる聖母マリア、我らのために祈り給え!




【再掲】IESU, Rex admirabilis 感嘆すべき王イエズスよ IESU, dulcis memoria, 甘美なる思い出イエズスよ

2021年01月03日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

 新年のお慶びを申し上げます。新年が愛する兄弟姉妹の皆様にとって、このブログをお読みくださる方々にとって、真の意味で幸福な年となりますように!

 今日は、イエズス・キリストの聖名の祝日です



Photo Credit

そこで、聖務日課の朝課、讃課、晩課で歌う賛歌ら(Hymni)のラテン語と日本語の対訳をご紹介いたします。すなわち

IESU, Rex admirabilis 感嘆すべき王、イエズスよ(朝課)
IESU, decus angelicum, 天使たちの飾りなるイエズスよ(讃課)
IESU, dulcis memoria, 甘美なる思い出、イエズスよ(晩課)
です。
 私たちは秋田巡礼でパレストリーナによるメロディーでもJesu Rex Admirabilisを歌います。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

クレルヴォーの聖ベルナルド credit

IESU, Rex admirabilis 感嘆すべき王、イエズスよ、
et triumphator nobilis, 且つ高貴なる凱旋者よ
dulcedo ineffabilis, えも言えぬ甘美さよ
totus desiderabilis. 願望されうる全てよ。
Quando cor nostrum visitas, 我らが心を御身が訪れる時
tunc lucet ei veritas, その時真理が心を照らす
mundi vilescit vanitas, この世の虚栄は衰え
et intus fervet caritas. 内にて愛徳は燃え立つ
Iesu, dulcedo cordium, 人々の心の甘美さ、イエズスよ、
fons vivus, lumen mentium, 生ける泉、人々の精神の光よ、
excedens omne gaudium 全ての喜びと全ての望みを
et omne desiderium. はるかに超える方よ。
Iesum omnes agnoscite, 全ての人々よ、イエズスを知れ、
amorem eius poscite; イエズスの愛を持て、
Iesum ardenter quaerite, イエズスを熱烈に求めよ、
quaerendo inardescite. 求めつつ燃えてよ!
Te nostra, Iesu, vox sonet, イエズスよ、我らが声が御身を奏で
nostri te mores exprimant; 我らの生活態度が御身を表し
te corda nostra diligant 我らの心は御身を愛さんことを
et nunc, et in perpetuum. 今も、何時までも。
IESU, decus angelicum, 天使たちの飾りなるイエズスよ、
in aure dulce canticum, 耳には甘美なる歌
in ore mel mirificum, 口には驚くべき蜜
in corde nectar caelicum. 心には天の秘薬
Qui te gustant, esuriunt, 御身を味わうものは飢え、
qui bibunt, adhuc sitiunt; 御身を飲むものは更に渇く
desiderare nesciunt, イエズスを愛する者は、
nisi Iesum, quem diligunt. イエズスでなければ欲求することを知らない。
O Iesu mi dulcissime, おお、我がいとも甘美なるイエズスよ、
spes suspirantis animae! 嘆息する霊魂の希望よ!
Te quaerunt piae lacrimae, 敬虔な涙は御身を求める、
Te clamor mentis intimae. 親密な精神の叫びは、御身を。
Mane nobiscum, Domine, 主よ、我らと共に留まり給え、
et nos illustra lumine; そして我らを光で照らし給え、
Pulsa mentis caligine, 精神の邪悪さを押しだし
Mundum reple dulcedine. 甘美さで満たし給え。
Iesu, flos Matris Virginis, イエズスよ、童貞なる母の花よ、
amor nostrae dulcedinis, 我らの甘美さの愛よ、
Tibi laus, honor nominis, 御身に賛美、聖名の名誉、
regnum beatitudinis. 至福の御国においてありますように。
IESU, dulcis memoria, 甘美なる思い出、イエズスよ、
dans vera cordis gaudia, 心の本当の喜びを与える方、
sed super mel et omnia, しかし蜜よりも、そして全てに優って
eius dulcis praesentia. その甘美な現存よ。
Nil canitur suavius, 何よりも、より味わいふかく、歌われない、
nil auditur iucundius, 何よりも、より楽しく聞かれない。
nil cogitatur dulcius, 何よりも、より甘美に考えられない、
quam Iesus Dei Filius. 天主の子イエズスよりも。
Iesu, spes paenitentibus, 悔悛する者たちの希望なるイエズスよ、
quam pius es petentibus! 望み求める者たちになんと御身は優しいことか!
quam bonus te quaerentibus! 御身を探し求める者たちに何と親切なことか!
sed quid invenientibus? しかし、見いだす者たちにとって、御身は何とすばらしい者であろうか!
Nec lingua valet dicere, 舌もうまくいうことが出来ない、
nec littera exprimere: 文字もうまく表現できない
expertus potest credere, 心得を持つ者は、
quid sit Iesum diligere. イエズスを愛することが何であるか信じることが出来る。
Sis, Iesu, nostrum gaudium, イエズスよ、御身は我らの喜びたり給え。
qui es futurus praemium: 御身は将来の報いとなる方なり、
sit nostra in te gloria, 御身において我らの栄光は、
per cuncta semper saecula. 代々とこしえにありますように。
Amen. アメン

カトリック聖伝のミサ:聖ピオ十世会:新年のミサの予定 Traditional Latin Mass

2021年01月03日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

最新情報は次のカレンダーをクリックしてください
聖ピオ十世会 ミサのご案内

年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

新年のミサの予定を確定します。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図)

2021年
 1月1日(金)  17:20 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭
 1月2日(土) 09:50 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭
 1月3日(日) 17:20 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭
 1月4日(月) 09:00 ミサ聖祭

【東京】「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図)【主日はいつもの場所です。ご注意ください。】

★正月の三が日はミサの時間がいつもと違います★
1月1日(初金)主の御降誕の八日目【守るべき祝日】ミサ二回【いつもの曙町会館です】
10:00頃から:告解開始
10:30から:読唱ミサ(主の御割礼の祝日・御降誕の大祝日の八日目)
12:00から:歌ミサ(主の御割礼の祝日・御降誕の大祝日の八日目)(ライブ中継をいたします)Facebook live

1月2日(初土)夕方に1回ミサがあります。
18:00から:歌ミサ(初土曜日―聖母マリアの汚れなき御心のミサ)

1月3日(主日)【この日のミサも、1月1日同様、先に読唱ミサ、次いで歌ミサの2回です。】
10:00頃から:告解開始
10:30から:読唱ミサ(イエズスの御名の祝日)
12:00から:歌ミサ(イエズスの御名の祝日)【この主日は、都合によりこのミサのライブ中継はありません。御了承ください。】

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

My dearest Brethren!
I would like to reconfirm the Mass schedule for New Year days.

+++ Mass schedule in TOKYO +++

First three days of the New Year 2021, we have Masses at different time : Mass location: "Holy Japanese Martyrs' Mass Center", Akebonocho Jido-kaikan, 1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo, Map: http://g.co/maps/nxeh5

January 1st : [Holy Day of obligation in Japan]
10:30 - Low Mass
12:00 - Sung Mass Facebook live
https://www.facebook.com/arata.nunobe

January 2nd : First Saturday
18:00 - Sung Mass

January 3rd : Feast of Holy Name of Jesus
10:30 - Low Mass
12:00 - Sung Mass. However, no Facebook live

+++Mass schedule in OSAKA+++

http://goo.gl/maps/Z2HmnVSh8oA2

New Year 2021
Fri, Jan 1: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00
Sat, Jan 2: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30
Sun, Jan 3: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00
Mon, Jan 4: Holy Sacrifice of the Mass at 09:00







私たちが救われる聖名は、ただひとつ、十字架につけられたイエズス・キリスト。これ以外の名は、人間に与えられなかった。

2021年01月02日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年1月3日はイエズスの聖なる御名の祝日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「イエズスの聖なる御名の祝日の説教」の動画をご紹介いたします。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


【参考情報】ヴィガノ大司教は「迫害や集会禁止から逃れるために祭壇が屋根裏部屋や地下室にあったとしても、私たちは祭壇の周りに祈るために集まらなければなりません。」

2021年01月02日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

参考情報として、愛する兄弟姉妹の皆様にヴィガノ大司教の発言を日本語で提供いたします。

2020年12月30日、教皇様の祖国であり南米で最大のカトリック人口を持つアルゼンチンは、堕胎を「合法化」の法案が、38対29で通過しました。議会の前で結果を待っていた数万のプロライフの人々は、知らせを受けると悲しみに覆われ、泣き出すものも多くいました。堕胎派の9回目の試みでした。南米のその他の小さな国々もドミノ倒しのように、堕胎合法化になし崩されていくだろうと言われています。

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BREAKING: Argentina legalizes abortion

It is a dark day for Argentina’s most vulnerable children, and the car...

LifeSiteNews

 

フランシスコ教皇様が、環境問題に取り組んでいる間、結局アルゼンチンの罪のない子供たちへの死刑を合法化させ、これに対して何の影響力も及ぼすことがなかったことが明らかになりました。非常に悲しい思いがします。

ヴィガノ大司教はこう言います。「今日、私たちはもはや単なる「信仰の喪失」だけを語ることはできず、その次の段階に注意を払うべきだ」と。

「その次の段階」とは「背教そのもの」のことです。

「典礼改革によるカトリックの礼拝の最初の転覆が、御聖体への体系的な冒涜を含む異教礼拝の形態へと進化しているように、また、特に新型コロナウイルス感染症を口実に手による聖体拝領を押し付けることで、古くからの典礼に対するこれまで以上に明白な嫌悪へと進化しているように、本当のまさに背教そのものが表明されるという段階です。」

ヴィガノ大司教は、どんなことがあっても「天主の不変のみわざに対する超自然的な信仰」を断固として守ることを訴えています。

「なぜなら、民が牧者たちに示すべき従順は、天主の栄光と霊魂の救いを目的としているからです。」

つまり信仰に反することが命じられた場合、それに従ってはならないと言うことです。本当の従順とは、天主に従うこと、信仰を守ることだからです。

聖パウロは、アンティオキアで、初代教皇であった聖ペトロに面と向かって反対したことがあります。ペトロに非難するところがあったからです。しかし聖パウロは、福音の真理にしたがって正しく歩んでいないのを見て、皆の前で聖ペトロを叱責しました。

アシジの諸宗教の集いが予告された時、ルフェーブル大司教が声を上げてそれに反対し、それを糾弾したことを思い出します。

ヴィガノ大司教は、今回「私たちは、牧者の使命への裏切りはすべて糾弾し、これらの試練の時期を短くしてくださるよう主に懇願します」と言います。

ヴィガノ大司教は、カトリック信仰を守るために御降誕の時の羊飼いたちや、東の国の博士たちに倣うように訴えています。

「迫害や集会禁止から逃れるために祭壇が屋根裏部屋や地下室にあったとしても、私たちは祭壇の周りに祈るために集まらなければなりません。なぜなら、秘密のチャペルや放棄された教会という貧しさの中にあっても、主は祭壇に降りてこられ、私たちの救いのために神秘的にご自身をいけにえにしてくださるからです。」

 

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Abp. Viganò: We’re witnessing ‘general rehearsal for the establishment of the kingdom of the Antichrist’

In my opinion, Viganò writes, what we are witnessing represents the ge...

LifeSiteNews

 

Viganò : l’Apostasie du Sommet de l’Église ne Pourra pas être Évitée.

Viganò: No se podrá evitar la apostasía de la cúpula de la Iglesia

Viganò: l’Apostasia del Vertice della Chiesa Non Potrà Essere Evitata.

Abp. Viganò: We’re witnessing ‘general rehearsal for the establishment of the kingdom of the Antichrist’
ヴィガノ大司教「私たちは『反キリストの国の確立のための全体リハーサル』を目撃している」

2020年12月23日 米国東部標準時間12時13分

ヴィガノ大司教のマイケ・ヒクソン博士とのインタビュー
使用されない教皇祭壇について

Omnes dii gentium dæmonia.
Psalm 95:5
異邦の神々はすべて悪魔である
詩篇95章5節

【LifeSiteNews】大司教様、私は最近の記事で、バチカン大聖堂の教皇祭壇が、2019年10月にパチャママの偶像に捧げられた供え物によって冒涜された後それほどたたないときから、もう使用されなくなっていることを指摘しました。パチャママへの儀式のとき、ベルゴリオと彼の廷臣の眼前で、非常に重大な冒涜が行われました。この件について、どのようにお考えでしょうか。

【ヴィガノ大司教】アマゾン・シノドスの閉会式の際にバチカン大聖堂が冒涜されたことにより、信仰告白の祭壇【訳者注:聖ペトロの墓の真上に設置された教皇祭壇】が汚されました。私は、教会や祭壇へのこのような、そして他の似たような冒涜行為は、過去に行われた他の似たような行為を、ある意味で再提示しているのであって、その本質を理解することができるということに気がつきました。

【LifeSiteNews】何のことをおっしゃっているのですか。

【ヴィガノ大司教】私が言及しているのは、サタンがキリストの教会に対して解き放たれたすべての時代です。すなわち、初期のキリスト教徒の迫害からビザンチン帝国に対するペルシャのホスロー【一世。6世紀のササン朝ペルシャの王】の戦争まで、イスラム教徒の偶像破壊的な怒り【7世紀】からドイツのランツクネヒト【神聖ローマ帝国の傭兵】の手によるローマ劫略【1527年】まで、その後はフランス革命、19世紀の反聖職者主義、無神論的共産主義、メキシコのクリステロス戦争とスペイン内戦、第二次世界大戦中・大戦後の共産党員による凶悪犯罪および今日私たちが世界中で目にしているいくつかの形のキリスト教恐怖症に至るまでのものです。革命のたびに、変わることなく、さまざまな形態のすべてにおいて、革命自らの持つルチフェル的本質を裏付けてきており、聖書に登場する、蛇のすえと女のすえの間の、サタンの子らと至聖なる童貞の子らの間の敵対関係を可能にしているのです。祝されし御母とその子らに対するこの獰猛さは、他に説明がつきません。

私は特に、【フランス革命において】恐怖政治が最高潮に達した1793年11月10日にパリのノートルダム大聖堂で行われた「理性の女神」の即位式のことを考えています。この日も、革命家たちの地獄のような憎悪は、天主の御母への崇敬を、フリーメーソンの宗教の象徴として立てられた娼婦への崇拝で置き換えようと欲しており、椅子かごに載せて革命家たちの肩で運ばれ、聖域に置かれました。ここにはパチャママとの多くの類似性があり、革命家たちは、彼らにその発想を与えた地獄の心を明らかにしているのです。

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ノートルダム大聖堂が冒涜される数カ月前の1793年8月10日、バスティーユ広場にエジプトの女神イシスを装った「理性の女神」の像が建立されたことを忘れてはなりません。現在サン・ピエトロ広場に立っている恐ろしい「降誕の場面」にも、古代エジプトのカルトへの言及が見られるのは重要なことです。しかし、明らかに、これらの出来事に見られる同類性に、全く新しいものが付随しています。

【LifeSiteNews】この新しい要素が何を構成しているのか説明していただけますか。

【ヴィガノ大司教】私が言及しているのは、公会議の前までは、あるいは控えめに言えば、今の「教皇職」の前までは、教会の外部の敵によって冒涜や汚聖が行われていたのに対し、それ以降のスキャンダルには、位階階級の最高レベルの人々の積極的な関与が見られ、それに加えて司教たちの責められるべき沈黙があり、また信徒をつまずかせているという事実です。ベルゴリオの教会は、ますます不安にさせる気味の悪いイメージを自らに与えています。そのイメージには、カトリックの諸真理を否定することに加えて、本質的に反カトリック的かつ反キリスト教的なイデオロギーをはっきりと肯定することがあり、またそのイメージには、異教の神々の、つまり悪魔の偶像崇拝がもはや隠されておらず、冒涜の行為や聖なるものを冒涜することによって悪魔をなだめているのです。聖ペトロの告白の祭壇に汚れた鉢を置くことは、象徴的なものだけではない、一つの正確な価値と一つの目的を持った典礼的な振る舞いなのです。「母なる大地」の偶像【パチャママ】が持ち込まれていることは、天主と至聖なる童貞に対する直接的な侮辱であり、ある意味でベルゴリオの祝されし御母に関する不敬な発言の数々を説明している明らかなしるしです。

キリストの教会とローマ教皇の職を破壊しようとする者たちが、最高の玉座からそのようにするのは驚くべきことではありません。ラ・サレットの聖母の預言によれば、「ローマは信仰を失い、反キリストの座となるでしょう」。今日、私たちはもはや単なる「信仰の喪失」だけを語ることはできず、その次の段階に注意を払うべきだと私には思われます。その段階とは、典礼改革によるカトリックの礼拝の最初の転覆が、御聖体への体系的な冒涜を含む異教礼拝の形態へと進化しているように、また、特に新型コロナウイルス感染症を口実に手による聖体拝領を押し付けることで、古くからの典礼に対するこれまで以上に明白な嫌悪へと進化しているように、本当のまさに背教そのものが表明されるという段階です。

本質的には、革新主義者の真意を隠そうとする、多くの形態の初期の「慎重さ」が減少しつつあり、天主の敵が実行する仕事の本当の性質が明らかになりつつあります。【1986年に】アッシジでの鶏のや他のスキャンダルを正当化した平和のための共通の祈りという口実はもはや必要ありません。人間の間の兄弟愛は教会の救いの使命と同様に天主を脇に置いておくことができる、ということが理論化されているのです。

【LifeSiteNews】2019年10月から始まる出来事、特にベルゴリオがキリストの代理者の称号を放棄したこと、教皇祭壇でミサを捧げなくなったこと、サンタ・マルタの家での公式ミサ挙行を中止したことについて、どのように判断されますか。

【ヴィガノ大司教】哲学的原理「Agere sequitur esse」【行動は存在に従う】は、すべてのものはそれが何であるかに従って行動することを教えています。

キリストの代理者と呼ばれることを拒否する者はそれが誰でも、明らかにその称号が自分にはふさわしくないという認識を持っている、または、天主として認識して礼拝することを自分が望んでいないことを、自分の言動によってベルゴリオが示しているそのお方の代理者であるという可能性を、軽蔑の目で見てさえいるのです。あるいは、もっと簡単に言えば、教会のトップにある自分の役割が、カトリックの教皇という概念と一致していなければならないとはみなしておらず、むしろ、その概念を「最新化」して「脱神話化」したものだとみなしているのです。同時に、ベルゴリオは自分をキリストの代理者とはみなしていないため、そのように【教皇のように】振る舞うことを免れることもでき、不用意に教導職を冒涜し、キリスト教の民全体につまずきを与えているのです。使徒ペトロの墓の上に建てられた祭壇において最高司祭として(in pontificalibus)祭儀を行うならば、このアルゼンチン人を消し去ってしまい、彼の奇妙な行いや、教皇の役割を行うたびに隠そうとしても隠し通せない彼の絶えずうんざりした表情を覆い隠すことになってしまいます。それよりも彼は、完全に都市封鎖されている中で、聖ペトロ大聖堂の人のいない「サグラート」(Sagrato:前庭)で目立つように立ち、そうでなければ天主に向けられるであろう信徒の注意を自分自身に引く方がはるかに良いのです。

【LifeSiteNews】すると、大司教様は、教皇フランシスコの行為の「象徴的」な価値を認識しておられるのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】象徴には、それぞれの正確な価値があります。つまり、彼の名前の選択や、サンタ・マルタの家に住むことに決めたこと、そしてローマ教皇にふさわしい紋章や祭服を放棄したこと、たとえば赤いモゼッタやロシェットやストラ、あるいはファッシア(帯)につける教皇紋章などです。カトリックの内容を具体的に想起させるものすべてに不寛容である一方で、冒涜的なものすべてに執拗にこだわることは象徴的です。また、ミサの聖変化の際、ベルゴリオがカリスを完全に覆い、手でふさぐ仕草も象徴的です。それはまるで、聖霊が流れ込むのを妨げるかのようです。

同様に、ご聖体の前にひざまずく行為をすることで、人がまことの現存の信仰を証(あか)しして、天主に対してラトリア(礼拝)の行為を行うのと同じように、御聖体の前にひざまずかないことによって、ベルゴリオは、天主の御前でけんそんでいることを望んではおらず、移民やアフリカのある共和国の高官たちの前では手と膝をつくことには問題がないと、公に宣言しているのです。そして、パチャママの前にひれ伏すことで、何人かの修道士、修道女、聖職者、および信徒は、本当のまさしく偶像崇拝を行って、はなはだしいほど偶像を敬い、悪魔に礼拝を捧げたのです。このように、象徴、しるし、儀式的な身振りは、ベルゴリオの教会が、自らが何者であるかを明らかにするための道具なのです。

新しい教会のこれらの「典礼」、多かれ少なかれ暗示されているこれらの「儀式」、世俗の典礼から借用されたこれらの要素といったものはすべて、決して偶然起きたものではありません。これらの要素は、オヴァートンの窓【多くの人に受け入れられる思想は窓のように一定の範囲の中に限定されているが、その窓は大きくなったり動いたり変動するという考え】の偏移の一つを成し、現実に、自らの発言や「教導職」の行為においてベルゴリオがすでに理論化していたものの方へと動かそうとしているのです。

一方で、ヨハネ・パウロ二世の額にシヴァ神のしるしをつけた呪い師や、アッシジの聖櫃の上で礼拝されていた仏陀は、現在なされている恐るべきことと完全に一致していると理解されるかもしれません。それは正確に言えば、社会的領域においては、9カ月目の妊娠中絶が許されると考える前には、【レイプなど】もっと限定的な場合で正当化しなければならなかったように、また、同性間の結婚を合法化する前には、同性愛者の法的保護が最終的に男女間の自然な結婚の制度に疑問を投げかけることはないだろうと人々に信じるようにさせるのが慎重に好まれていたようにです。

【LifeSiteNews】大司教様、これらの出来事はさらなる発展があるとお考えですか。

【ヴィガノ大司教】永遠の大祭司なる主が、位階階級の全面的な倒錯であるこの行為に終止符を打ってくださらないならば、カトリック教会は、教会の上にやりたい放題自分のやり方を押し付けるセクトによって、ますます隠されてしまうでしょう。私たちは、キリストの約束と聖霊の特別な援助を信頼していますが、教会の最高レベルの背教は、避けることのできない終末論的な[終末の時代の]出来事の中で必要とされる部分である、ということを忘れてはなりません。

この点まで導かれるために据えられた前提条件は、第二バチカン公会議までさかのぼるのですが、この前提は、さらに明確な方法で、ベルゴリオの教会の指導者たちによる「背教の宣言」へと必ず至るものと私は信じています。敵【悪魔】は、そのしもべたちに忠実さを要求し、最初のうちはバチカンの庭園で礼拝される木の偶像や、あるいは聖ペトロ大聖堂の祭壇に置かれる土や植物の供え物に満足しているように見えたとしても、間もなく、永遠のいけにえに代わる公開のかつ公式な礼拝を要求するようになるでしょう。かくして、聖所に立つ荒らす者のいとわしきものに関してダニエルが預言したことが実現することになるのです。私は、「『荒らす者のいとわしきもの』が聖所に立つのを見たら」Cum videritis abominationem desolationis stantem in loco sancto(マテオ24章15節)という聖書の細かい表現に注目しています。このいとわしきものは「立つ」とはっきり書かれています。すなわち、このいとわしきものは、自分にとって最も異質かつ無縁な場所で、自らを大胆かつ傲慢に押し付ける地位につくことになるでしょう。このことは、非難を表すのに十分な言葉がないほど、恥辱であり、つまずきであり、前例のないことなのです。

【LifeSiteNews】このまま続いていけば、私たちには何が待ち受けているのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】私の考えでは、私たちが目撃していることは、反キリストの国を確立するための全体リハーサルです。その前には、教会に対する最後の迫害を実行することになる者【反キリスト】の先駆者である偽預言者の説教が行われ、そのあと、私たちの主の決定的で圧倒的な勝利がやって来るのです。

教皇祭壇の「象徴的な不使用」は、この「教皇職」によるつまずきを見て見ぬふりをする人々への警告であるだけではありません。それは、或る意味で、ベルゴリオが、教皇職と教会自体の実質的な突然変異が起こっていることに注意を向けるように私たちを慣らせたいと望むやり方です。つまり、彼の中に、キリストがご自分の羊と小羊を養えとお命じになったローマ教皇の長い系統の最後の人を見るだけでなく「多国籍慈善団体」の最初のトップをも見るということでもあるのです。この多国籍団体は、「カトリック教会」という名称を横取りしますが、その唯一の理由は、全体的な宗教的危機の時代であったとしても、それは並び比べることが難しい地位と権威を彼が享受することを許すからです。

ですから、矛盾は明らかです。ベルゴリオは、自分が教皇として認められている場合にのみ、効果的にカトリック教会を破壊することができることを知っていますが、同時に、彼は用語の厳密な意味での教皇職を【教会を破壊するために】行使することはできません。何故なら、そうすることは、必然的に彼がキリストの代理者かつ使徒たちのかしらの後継者として話し、そう振る舞い、そう見られることを必要とするからです。

それは、民間や政治の領域で見られるのと同じ矛盾です。その領域では、公務を管理したり「共通善」(bonum commune)を推進したりする権限を持つよう定められている人々が、それと同時にエリートたちの密偵であり、国家を破壊して市民の権利を侵害するという任務を担っているからです。ディープ・ステートとディープ・チャーチの背後には、常に発想を与えた同じ者がいるのです。つまりサタンです。

【LifeSiteNews】このような深淵への突進を防ぐために、信徒や聖職者にできることは何でしょうか。

【ヴィガノ大司教】教会は教皇のものではありませんし、欺瞞と詐欺によって権力を握ることに成功した異端者や姦通者の一団体のものでもありません。それゆえ、私たちは、教会の教父たちが助言したように、天主の民の中にある天主の不変のみわざに対する超自然的な信仰を、抵抗のわざと一つにすべきです。なぜなら、民が牧者たちに示すべき従順は、天主の栄光と霊魂の救いを目的としているからです。したがって、私たちは、牧者の使命への裏切りはすべて糾弾し、これらの試練の時期を短くしてくださるよう主に懇願します。そしてある日、ベルゴリオから、天主との交わりを保つためには、天主のお怒りを招くような行為をしなければならないと言われたら、ベルゴリオは偽者であり、そのような者には何の権限もないということを、さらに確認することになるでしょう。

ですから、祈りましょう。救い主の言葉とその最後の勝利を心に留めて、熱心にたくさん祈りましょう。私たちは、ベルゴリオとその共犯者のつまずきについてではなく、キリストの教えに忠実であるかどうかについて裁かれるのです。その忠実とは、天主の恩寵に生き、秘蹟を頻繁に受け、天主の役務者たちの救いのために犠牲と償いを捧げることから始まるのです。

【LifeSiteNews】大司教様の今年のクリスマスの願い事は何でしょうか。

【ヴィガノ大司教】私の願い事は、このような試練の時代が、王たるキリストが君臨しないところでは、必然的にサタンの圧政が確立され、恩寵が君臨しないところでは、罪と悪徳が蔓延し、真理が愛されないところでは、人々は誤りと異端を受け入れることになるということを、私たちが知ることができるようにしてほしいということです。今に至るまで多くのぬるま湯のような霊魂が天主に立ち返る方法を知らず、自分の存在についての十分で完全な実現を天主のみに見いだすことができることを認識しなかったのなら、おそらく彼らは今、天主なしでは私たちの人生は地獄になるということを理解できるでしょう。

羊飼いたちが、飼い葉桶に入れられていたものの、古代に君主の特権とされていた"おくるみの布"に包まれた王たる幼子の足元に礼拝のためにひれ伏すように、迫害や集会禁止から逃れるために祭壇が屋根裏部屋や地下室にあったとしても、私たちは祭壇の周りに祈るために集まらなければなりません。なぜなら、秘密のチャペルや放棄された教会という貧しさの中にあっても、主は祭壇に降りてこられ、私たちの救いのために神秘的にご自身をいけにえにしてくださるからです。

ですから、一人の教皇が、私たちの主が使徒たちにお教えになり、何世紀にもわたってそのまま受け継がれてきた典礼で、聖ペトロ大聖堂の告白の祭壇で聖なるいけにえを捧げるために戻ってくる日を私たちが見るようになるよう祈りましょう。これは、教皇職とキリストの教会の復活の象徴にもなることでしょう。

 


とても感動的な、最初のイエズス様の礼拝が行なわれた話「天のいと高きところには天主に栄光あれ!そして善意の人には平和あれ!」

2021年01月02日 | お説教・霊的講話
2020年12月25日(金)主の御降誕の大祝日(暁のミサ)大阪にて

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお慶びを申し上げます。

この御聖堂が維持できて、そしてミサができるのも、皆さんの寛大なお心があるからです。イエズス様の御聖堂が、マリア様に捧げられた御聖堂がいつも守られますように、維持できますように、そしてイエズス様にふさわしい礼拝と、讃美と、感謝が捧げられますように、皆さんの寛大なお心と理解を感謝致します。

今日は福音では、とても感動的な、最初のイエズス様の礼拝が行なわれた話が載っています。

招かれたのは、貧しい羊飼いたちでした。何人いたのでしょうか?もしかしたら25人、この私たちの御聖堂に集まった位の少数だったかもしれません。羊をたくさん飼っていました。夜、真夜中、空にはとても美しい光景がありました。天使たちの大群が、このイルミネーションよりも更に美しく、空は天を飾って光輝いているのです。そして歌を歌っていました。

「天のいと高きところには天主に栄光あれ!そして善意の人には平和あれ!」

そしてその内一人の天使が現れて、羊飼いたちに言うのです、「さぁ、お前たちに非常に良い知らせを告げる。私たちの救い主が生まれた。ダヴィドの町に生まれた。行って礼拝せよ。そのしるしは、布にくるまって、そしてまぐさ桶に、飼い葉桶に置かれている。」

そして今日、その後の続きが、今日の福音です。

それを聞いた牧場の羊飼いたちは、このあまりにも美しい天使たちの大群と、そしてその声と歌声を聞いて、そして確信しました、「救い主がまさに生まれたのだ。今晩生まれた。行って礼拝しよう。」

そして彼らは距離を、どのくらいの距離か何キロかを、ベトレヘムまで行きます。そして確かに、まぐさ桶に置かれた赤ちゃんを、マリア様とヨゼフ様と、まぐさ桶に置かれた子供を見ます。

とっても貧しいご様子でした。しかし、天使たちが語ったその通りでした。この羊飼いたちは、沈黙の内に、聖家族に近寄って礼拝します。

「救い主。私たちの為に生まれた救い主。大宮殿ではなくて、この貧しい動物の間に生まれた救い主。暖房も何もなく、寝室もなく、寝台もなく、何か自分たちと同じように野原で野宿をしてるような、この王の王、天の王が、こうやってお生まれになった」と、礼拝します。

イエズス様のその御謙遜、私たちを愛するが為に、この屈辱をもお受けになったこの愛。私たちも一緒に、羊飼いたちと一緒に、礼拝をお捧げ致しましょう。

イエズス様の為には、貧しい宿屋さえも場所がありませんでした。どこの家も。暖かい場所はありませんでした。マリア様とヨゼフ様は、救い主が今お生まれになろうとしている事をよくご存知でした。そのご心痛はいかばかりだったでしょうか。しかし、それを全てお捧げしました。そして天主の御摂理を礼拝していました。

イエズス様は私たちに、御自分の愛がどれほどであるかという事を、沈黙に内にこうやって見せておられます。

もちろんイエズス様は、言葉を話す事ができた真の天主です。天主の御言葉です。しかし、幼く、赤子となって、沈黙の内に、私たちにその行動で、出来事で、どれほど天主は永遠の昔から私たちを愛しているか、私たちに幸せを与えたいのか、そして私たちの苦しみを全て御自分のものとしたいか、という事を表しています。

マリア様とヨゼフ様には雇い人がいませんでした、貧しかったので。そしてそのような余裕はありませんでした。ご自分で全ての仕事をされていました。

しかし例外が、天主でした。天主の御一人子が、ヨゼフ様とマリア様のあたかも奴隷であるかのように、しもべであるかのように、「はい。」「はい。」「はい。」全ての仕事をしました。天主がお掃除をしたり、あるいはゴミを拾ったり、あるいは全く奴隷のようなお使いをしたりしました。

全宇宙が礼拝して、従順に従う天主こそが、奴隷のように、最も貧しい家族のしもべとなっておられました。

イエズス様は沈黙の内に、私たちに、私たちへの愛を叫んでおられます。私たちも羊飼いたちと共に、イエズス様の近くで礼拝致しましょう。そしてマリア様に、そしてヨゼフ様に、「是非イエズス様をお与え下さい。私の胸に抱かせて下さい」とお願い致しましょう。私の為にお生まれになったイエズス様。

そしてもしもイエズス様が今、「寒い」「辛い」と泣いておられるならば、それは罪の為です。イエズス様を罪によって、私たちは、私たちの霊魂から追い出してしまったからです。

この世界は、イエズス様を追い出そうとしているからです。その為に、イエズス様は涙を流されます。

「イエズス様、どうぞ私の心に来て下さい。決してイエズス様を愛するのをやめる事がないように助けて下さい。愛し続けさせて下さい。」

「イエズス様、今まで私の犯した全ての罪を痛悔し、イエズス様、ますますイエズス様の愛を讃美させて下さい。」

マリア様にお祈り致しましょう。マリア様と聖ヨゼフ様の御取り次ぎによりて、私たちもイエズス様のすぐ近くにいる事ができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





全世界は強制収容所のようになってしまうかもしれません。なぜ全世界でそのような事が行なわれてしまうのか、その最も深い理由は何でしょうか?

2021年01月02日 | 聖伝のミサの予定
2020年12月25日(金)主の御降誕の大祝日(真夜中のミサ)大阪にて

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん、私たちの主イエズス・キリストの御降誕のお慶びを申し上げます。

私たちの主、永遠の天主、真の天主の聖子、天主よりの天主、光よりの光、真の天主よりの真の天主、人となって私たちの為にお生まれになった、そのお喜びを申し上げます。

私たちに永遠の命を与える為に、天主の本性を私たちに下さる為に、御自分は人間の本性を取られました。

私たちに命を与える為に、死を受け取ろうとされました。苦しみを受け取ろうとされました。

私たちに終わりのない幸せと、終わりのない喜びを与える為に、御自分は苦しみと、痛みと、罪の罰を受けようと思われました。

この私たちの主の、愛に満ちた御降誕のお慶びを申し上げます。

イエズス様のこの御降誕の、今年は特に、なぜイエズス様が、家もなく、貧しい動物の間で、捨てられて、追い払われて、お生まれになったか、という事を黙想しました、考えさせられました。

なぜだったのでしょうか?

これはもちろん、イエズス様が、「この世には本当の宝がない」という事を、「天主聖父の御旨を果たすという事だけが、最も大切な事である」、そして「この世ではあたかもよそ者であるかのように」という事を見せる為に、教える為に、お生まれになりました。

そして「どのような苦しい事も、辛い事も、貧困も、喜んで、私たちを愛する為に、受ける」という事をお見せになる為に、お生まれになりました。

しかしその深い理由の他には、なぜそのような機会となったのかというと、実はローマ皇帝が、人口調査をしようと思ったからです。

異教の多神教を信じていたローマ皇帝が、その人口調査をするという自分の利益の為に、イエズス様そして聖家族は、その影響を受けました。ですから、家ではイエズス様は生まれる事ができませんでした。

もしかしたらヨゼフ様は、あるいはマリア様は、この外国人の占領者、あるいは「異教の人が言った事だから、私たちは従わなくても良い」と言う事ができたかもしれません。しかし、「天主は、このような異教のローマ皇帝でも使って、そして御旨を果たそうとする」事をよく知っていました。超自然の目で、出来事を見ておられました。

今現在、ファチマの予言が実現しようとしているようです。もしそうなら、世界は共産主義に占領されようとしています。中国指揮の共産支配が、全世界に今、広がろうとしています。

私たちはこれからもしかしたら、ある人たちの、特定の人たちの悪意によって、私たちは全て奴隷のように、財産を失ってしまうかもしれません。そして私たちは自由も失ってしまうかもしれません。全世界は強制収容所のようになってしまうかもしれません。

しかし、もしもそのような事になったとしても、「それは、天主の御摂理が働いている」という事を、私たちは確信致しましょう。

なぜ全世界でそのような事が行なわれてしまったか、というその理由は、その最も深い理由は、それは「私たちの罪」のせいです。人類が天主に逆らおうとしたからです。そして天主の無い世界を作ろうとしているが故に、この地球は、全世界は、地獄のように、あるいは牢屋のようになろうとしています。

しかし、この「それらの歴史の全ての背後に、天主の愛の御摂理がある」という事を、皆さん是非確信して下さい。そして聖家族を決して見放さなかったように、もちろん聖家族は罪が無く、この貧しさを耐え忍びましたけれども、人類はその罪の為に、当然受けるべき罰を今、受けつつあるように思われます。

私たちは一体どのようにしたら良いでしょうか?

この御降誕の日に、イエズス・キリストの御前に跪いて「イエズス・キリストこそが私たちの救い主である。イエズス・キリスト以外には救いがない。」

この事を全人類が気付くように、真の救いに立ち戻るように、そうしなければこの世界には救いがないからです。

そして特にマリア様に、ファチマのマリア様は仰いました、「初土の信心をする事によって、汚れなき御心の信心をする事によって、私たちはこのこれから逃れる事ができる。

ですから私たちは、この御降誕祭に、マリア様の汚れなき御心に参りましょう。マリア様の汚れなき御心によって、私たちを守って下さいますように、祈りましょう。

ミサを続けるができますように、私たちの真の信仰を守る自由が与えられ続けますように、そして私たちを、少ないけれども、この教会を維持し続ける事ができますように。

最後に、ヨゼフ様にお願い致しましょう。ヨゼフ様が聖家族を命がけで守ったように、私たちの家族を皆守って下さいますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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