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ロブ・ムッツァーツ補佐司教「典礼は教皇の玩具ではなく、教会の遺産である」

2021年08月10日 | カトリック・ニュースなど
「典礼は教皇の玩具ではなく、教会の遺産である」

ロブ・ムッツァーツ(Rob Mutsaerts)補佐司教による
『トラディティオーニス・クストーデス(Traditionis Custodes)』に関する
非常に激烈な声明(オランダ、セルトーヘンボス's-Hertogenbosch)

オランダのセルトーヘンボスの補佐司教であるロブ・ムッツァーツ司教は、この激烈な声明を自身のブログで発表しました。ロブ・ムッツァーツ司教自身は、聖伝のミサを捧げたことはないのですが、それでも、最近の自発教令の問題点を指摘しています。フランシスコ教皇はパレーシア(すべてを語ること)を頻繁に求めてきましたが、今、世界中からのパレーシアが求められています。

フランシスコ教皇の邪悪な勅令

ロブ・ムッツァーツ司教
セルトーヘンボス補佐司教

教皇フランシスコは協働性を推進しています:誰もが話すことができ、誰もが聞かれるべきあると。しかし、最近発表された『トラディティオーニス・クストーデス』は、聖伝のラテン語のミサを直ちに中止しなければならないというウカセ(勅令)であり、そのようなことはほとんどありませんでした。フランシスコは、古いミサに十分な機会を与えていた教皇ベネディクトの自発教令『スンモールム・ポンティフィクム』に大きな太い線を引いています。

フランシスコがここで何の相談もなく権力の言葉を使ったことは、彼が権威を失いつつあることを示しています。このことは、以前、ドイツ司教会議が協働性のプロセスに関する教皇の助言に何の注意も払わなかったことで、すでに明らかになっています。

アメリカでも、教皇フランシスコが、アメリカ司教会議に対して相応しい聖体拝領に関する文書【堕胎を推進する議員たちを破門するというアメリカ司教たちの準備した文書】を作成しないように呼びかけたときも同様でした。教皇は、聖伝のミサの話をしている今(この場合は)もう助言ではなく、執行令状を出したほうがいいと考えたのでしょう。

使われている言葉は、まるで宣戦布告のようです。パウロ六世以降のすべての教皇は、常に古いミサに余地を残してきました。例えば、1984年と1989年のインダルトに見られるように、(その開口部に)変更が加えられたとしても、それは小さな修正でした。ヨハネ・パウロ二世は、司教はトリエント・ミサを寛大に認めるべきだと固く信じていました。ベネディクトは、「当時神聖であったものは、今も神聖である」という『スンモールム・ポンティフィクム』で扉を大きく開きました。フランシスコは『トラディティオーニス・クストーデス』でその扉を強く叩きました。それは裏切りのように感じられ、彼の前任者たちへの平手打ちでもあります。

ところで、教会は典礼を廃止したことはありません。トリエント公会議でさえ[そうした]ことはないのです。フランシスコはこの聖伝を完全に破っています。自発教令には、いくつかの命題や命令が、簡潔かつ力強く書かれています。物事は、付随する長い声明によって、より詳細に説明されています。この声明には、かなりの数の事実誤認が含まれています。その一つは、パウロ六世が第二バチカン公会議の後に行ったことは、ピオ五世がトレントの後に行ったことと同じであるという主張です。これは全く真実からかけ離れています。トリエント公会議以前には、様々な写本が流通しており、あちこちでその地方の典礼が生まれていたことを思い出してください。混乱した状況だったのです。

トリエント公会議は典礼を復元し、不正確な点を取り除き、正統性をチェックしようとしました。トリエント公会議は、典礼を書き直すことには関心がなく、新たな追加事項、新たな聖体の祈り、新たな典礼書、新たな典礼暦などにも関心がありませんでした。それは、途切れることのない有機的な連続性を確保することでした。1570年のミサ典書は1474年のミサ典書に遡り、さらに4世紀にまで遡ります。4世紀からの連続性があったのです。15世紀以降は、さらに4世紀にわたって連続性があります。時折、祝日や記念日、ルブリカの追加など、せいぜい数回の少しの変更が行われただけです。

第二バチカン公会議の文書『典礼憲章』では、典礼の改革を求めています。しかし、この文書は保守的なものでした。ラテン語は維持され、グレゴリオ聖歌は典礼の中で正当な位置を占めていました。しかし、第二バチカン公会議の後の動きは、公会議の文書とはかけ離れています。悪名高い「公会議の精神」は、公会議文書そのものにはどこにも見当たりません。トリエントの旧ミサ典書の祈りのうち、パウロ六世の新ミサ典書に[そのまま]見られるのは17%にすぎません。これでは、連続性や有機的な発展を語ることはできません。ベネディクトはこのことを認識しており、そのために旧ミサに十分な余地を与えたのです。彼は、誰も彼の許可を必要としないとさえ言いました(「当時神聖であったものは、今も神聖である」)。

教皇フランシスコは今、自分の自発教令が教会の有機的発展に属しているかのように装っていますが、これは現実とは全く矛盾しています。ラテン・ミサを実質的に不可能にすることで、ローマ・カトリック教会の古くからの典礼の聖伝とついに訣別したのです。典礼はローマ教皇の玩具ではなく、教会の遺産です。古いミサはノスタルジーや趣味の問題ではありません。教皇は聖伝の守護者であるべきで、教皇は創造者ではなく庭師です。

フランシスコ教皇がやっていることは、福音化とは無関係であり、憐れみとも無関係です。むしろイデオロギーに近いものがあります。

旧ミサが捧げられている教区に行ってみてください。そこには何があるでしょうか?カトリックでありたいと願う人々です。彼らは一般的に、神学的な論争をする人ではなく、第二バチカン公会議に反対する人でもありません(第二バチカン公会議の実施方法には反対ですが)。

彼らはラテン・ミサの神聖さ、超越性、その中心にある霊魂の救済、典礼の尊厳さを愛しています。大家族に出会い、人々は歓迎されているように感じます。しかし、これはごく限られた場所でしか行われていません。なぜ教皇はそのような人々を否定したいのでしょうか?先ほどの話に戻りますが、それはイデオロギーです。それによれば、第二バチカン公会議(その実施とその異常なやりかたを含む)を選ぶか、あるいはまったくの無か、どちらかなのです。このイデオロギーによれば、聖伝のミサに馴染んでいる比較的少数の信者(ちなみにノヴス・オルドが崩壊しつつあるため、その数は増加しています)は、根絶されなければならないし、根絶されるだろう、です。これはイデオロギーであり、悪です。

本当に福音を宣べ伝えたいのならば、本当に憐れみ深いならば、カトリックの家庭を支えたいのならば、トリエント・ミサを尊重して保持することです。自発教令が発行された時点では、旧ミサは教区の教会では捧げることができません。(それではどこでしょう?)司教の明確な許可が必要で、司教は特定の日にしか許可しないかもしれません。今後、叙階され、旧ミサを捧げたい人は、司教がローマに助言を求めなければなりません。どれだけ独裁的で、どれだけ非司牧的で、どれだけ無慈悲になりたいのでしょうか!

フランシスコは、その自発教令の第1項で、ノヴス・オルド(現在のミサ)を「ローマ典礼の祈りの法の独自の表現」と呼んでいます。そのため、彼はもはや通常形式(パウロ六世)と特別形式(トリエント・ミサ)を区別しません。ノヴス・オルドに限らず、どちらも祈りの法の表現であると常に言われてきました。繰り返しますが、旧ミサが廃止されたことはありませんベルゴリオからは、無数の小教区のあちこちに存在する多くの典礼の濫用について聞くことはありません。小教区では、トリエント・ミサを除いて、どのようなミサでも何でも可能です。旧ミサを根絶するために、あらゆる武器が投入されます。

なぜでしょう?いったい、なぜでしょうか?フランシスコのこの執念は、聖伝主義者の小さなグループを消し去ろう[注*]とするものなのでしょうか?教皇は聖伝の守護者であるべきで、聖伝の看守であってはなりません。『愛のよろこび(Amoris Laetitia)』は曖昧さに秀でていましたが、『トラディティオーニス・クストーデス』は完全に明確な宣戦布告です。

私は、フランシスコがこの自発教令で自分の足を撃っているのではないかと思います。聖ピオ十世会にとっては、これは良いニュースとなるでしょう[ソノママ]。彼らは教皇フランシスコにどれほどの恩義を感じているかを想像することはできなかったでしょう....

(司教のブログにオランダ語で掲載)

[注*]この司教は、ヒトラーが地図から都市を消すときに使ったドイツ語のausradieren(消し去る)という言葉を使っています。"Wir werden ihre Städte ausradieren."(我々は彼らの町を消し去ろう)。


聖伝のミサの記憶は、ローマ教皇の法的実証主義の行使によって根絶することはできない。それは何度でもよみがえり未来の教会が自らを測る基準となる。

2021年08月10日 | カトリック・ニュースなど
ミサと記憶 by マルティン・モーゼバッハ

以下のリンクの翻訳です。

教皇フランシスコは、『トラディティオーニス・クストーデス』の中で命令を下しています。これは、教皇の権威がかつてないほどに崩壊しているときに行われたものです。教会はとっくに統治不可能な段階に進んでいます。しかし、教皇は戦い続けています。教皇は、「傾聴」「優しさ」「憐れみ」といった、判断や命令を拒否する最も大切な原則を放棄しています。教皇フランシスコは、教会の聖伝という彼を悩ませるものによって目を覚まします。

教皇の前任者たちが典礼の伝統に与えた限られた余地は、もはや老人のノスタルジーによって占められているだけではありません。聖伝のラテン語ミサは、教皇ベネディクトが古い典礼と呼んだように、「野原に埋もれた宝」を発見し、愛することを学んだ若い人々をも惹きつけています。教皇フランシスコの目には、これは抑制しなければならないほど深刻に映ります。

自発教令の言葉遣いの激しさは、この指示が遅すぎたことを示唆しています。典礼の伝統を守る界隈は、確かにこの数十年で劇的に変化しています。トリエント・ミサには、子供の頃の典礼を懐かしむ人だけではなく、典礼を新たに発見し、その魅力に取りつかれた人たちが参加するようになりました。典礼は彼らの情熱であり、その詳細を知っています。彼らの中には司祭の召命を持つ者も多くいます。これらの若者は、伝統的な司祭修道会が維持している神学校に通うだけではありません。彼らの多くは通常の司祭訓練を受けていますが、それにもかかわらず、聖伝の典礼を知ることによってこそ、自分の召命が強化されると確信しています。抑圧されていたカトリックの伝統に対する好奇心は、多くの人がこの聖伝を時代遅れで不健全なものとみなしていたにもかかわらず、高まっています。オルダス・ハクスリーは『素晴らしい新しい世界(Brave New World)』の中で、歴史観を持たない近代エリートの青年が、前近代文化の溢れんばかりの豊かさを発見し、それに魅了されることで、この種の驚きを示しています。

教皇の介入は、典礼の伝統回復の増大を一時的に妨げるかもしれません。しかし、彼がそれを阻止できるのは、彼の任期の残りの期間だけです。というのも、この伝統的な動きは、表面的な流行ではないからです。それは、ベネディクトの『スンモールム・ポンティフィクム』という自発教令に先立つ数十年間の抑圧の中で、カトリックの完全な充足性に対する真剣で熱狂的な献身が存在することを示しました。教皇フランシスコの禁止令は、まだ自分の人生が目の前にあり、時代遅れのイデオロギーによって自分の未来が暗くなることを許さない人々の抵抗を呼び起こすでしょう。ローマ教皇の権威をこのような形で試すのは良くないことですが、賢くないことでもあります。

教皇フランシスコは、小教区の教会での旧典礼のミサを禁止し、司祭に旧典礼のミサを捧げる許可を得ることを要求し、まだ旧典礼のミサを捧げていない司祭にも、司教からではなくバチカンから許可を得ることを要求し、そして旧典礼のミサの参加者に良心の究明を要求しています。

しかし、教皇ベネディクトの『スンモールム・ポンティフィクム』は、まったく別の段階で論証します。教皇ベネディクトは「古いミサ」を「許可」しておらず、それを祝う特権も与えませんでした。要するに、後継者が撤回できるような規律的な措置をとったわけではありません。『スンモールム・ポンティフィクム』の新しさと驚きは、「古いミサを捧げることは許可を必要としない」と宣言したことです。これまでは禁止されていなかったので、禁止することはできませんでした。

これは、教皇の権限には、固定され、乗り越えられない限界があると結論づけることができます。聖伝は教皇の上に超越してあります。キリスト教の最初の千年紀に深く根ざした古いミサは、原理的には教皇が禁止する権限を超えています。教皇ベネディクトの自発教令の多くの条項は、脇に置くことも修正することもできますが、この教導権の決定は、そう簡単には片付けられません。

教皇フランシスコはそのようなことをしようとはせず、無視しています。2021年7月16日以降も、すべての司祭が禁止されたことのない古い典礼を捧げる道徳的権利を持つという聖伝の権威を認めているのです。

世界のカトリック教徒のほとんどは、「トラディティオーニス・クストーデス」に全く関心を示さないでしょう。聖伝主義者の共同体の数が少ないことを考えれば、ほとんどの人は何が起こっているのか理解できないでしょう。確かに、性的虐待の危機、教会の財政スキャンダル、ドイツの「シノドの道(synodal path)」のような分裂運動、中国のカトリック教徒の絶望的な状況などの中で、教皇はこの小さくて献身的な共同体を弾圧すること以上に緊急の課題がなかったのかと、私たちは自問しなければなりません。

しかし、聖伝を重んじる人々は、教皇にこう言って認めなければなりません。教皇は、少なくとも大グレゴリオの時代にまで遡る伝統的なミサを、彼らと同じように真剣に受け止めていると。しかし、彼はそれを危険なものと判断している。彼は、過去の教皇たちは何度も何度も新しい典礼を作り、古い典礼を廃止してきたと書いている。しかし、その逆が事実だ。むしろ、トリエント公会議は、ローマ教皇たちの古代のミサ典書を一般の使用のために規定したのであり、そのミサ典書は古代末期に成立していた。これは、宗教改革によって損なわれていない唯一のものであったからだ、と。

教皇の最大の関心事はミサではないのかもしれません。フランシスコは、第二バチカン公会議で教会が伝統と訣別したと主張する神学派の「断絶の解釈学」に共感しているようです。もしそれが本当であるならば、聖伝の典礼の司式はすべて阻止されなければなりません。古いラテン語のミサがどのガレージでも行われている限り、それまでの二千年の記憶は消えていないことになるからです。

しかし、この記憶(memory)は、ローマ教皇の法的実証主義の無遠慮な行使によって根絶することはできません。それは何度でもよみがえり、未来の教会が自らを測る基準となるでしょう。






マルティン・モーゼバッハ(Martin Mosebach)は”The 21”の著者です。



ヴィガノ大司教「私たち自身を天主の側に置き、栄光ある十字架の御旗の下で、想像できないほどの勝利と、地上のあらゆる富を青ざめさせる報酬があるのを確信しましょう。」

2021年08月09日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教「この脅威は、まさにその本質上、最も露骨で壊滅的な敗北の運命にある」

Archbishop Viganò: This Threat, by Its Very Nature, is Destined for the Most Blatant and Devastating Defeat

ETIAMSI OMNES, EGO NON
たとい皆がそうでも
私はちがう

ベネチア会議のための開幕演説
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の演説
2021年7月17日

«Et si omnes scandalizati fuerint in te,
ego numquam scandalizabor».
「たとい、みながあなたについてつまずいても、
私は決してつまずきません」
Mt 26, 33

親愛なる友人の皆さん、

イエズス・キリストに讃美。

この会議は、栄光に満ちた過去を持つ都市ヴェネツィアを拠点とする特権を持っています。ヴェネツィアは過去において、その統治者たちが、すべてのこの世の統治による善政に、知恵を適用することができましたが、そのインスピレーションと情報を与える原理を宗教に見いだしていました。

「セレニッシマ」(Serenissima)【ベネチアの愛称。「晴朗きわまる所」の意味】なる共和国は、宗教の実践、市民の誠実な福祉、芸術や工芸の発展、貿易や文化交流の促進、注意深い公務管理、慎重な司法の運営を促進するために意図され、構想された制度の中で、君主制、貴族制、民主主義のすべての肯定的な面を統合しました。

ベネチアがその崇高な召命を守っていた間は、あらゆる分野で繁栄しました。最後のドージェ(Doge=統治者、元首)がフリーメーソンによって、また啓蒙主義運動の偽りの哲学によって買収されるのを許すや否や、ベネチアは数年のうちに沈み、侵略され、略奪され、財宝を奪われることになりました。

セレニッシマの物語から、私たちは現代への大きな教訓と、私たちの国や国家一般の運命に向けての厳しい教訓を得ることができます。帝国の没落を示すものは、その帝国を偉大にした理想への裏切り、権威の倒錯、権力の腐敗、民衆の諦めです。

全世界の、特に欧州および西洋諸国の運命が、その没落と破滅の前兆となるこれらすべての要素によって、取り返しのつかないことになっていることを、今のこの時代ほど目の当たりにしたことはありませんでした。

理想、文化、文明、知識、芸術への裏切りは、信仰の背教、キリスト教の二千年を拒絶してきたこと、キリスト教の歴史的記憶さえも「キャンセル・カルチャー」で取り除こうと欲していることにその原因があります。

キリスト教の時代に、殉教者の血、証聖者の証し、教会博士たちの教え、教皇の教導権、そして生活のあらゆる分野に浸透した勤勉な慈善活動の全システムから形成されたものが、今日、権力に縛られた人々のいらいらとした狼狽で拒否されています。

権威の倒錯は、世俗的領域と宗教的領域の両方において、支配者がその存在の目的を果たすことをせず、共通善から逸脱していることを意味しています。そのため、主権者の天主の権利を否定し、また、人権と市民権とされるものの名の下に、共和制国家の権力の人民的起源を主張した後で、新しい革命的な政治階級は、最高入札者に自らを売り渡す用意があることを証明し、天主と、自らが代表だと言うその人々に反抗したのです。

民主主義、自由、国民主権という驚くべき約束は、市民道徳や義務感、奉仕の精神がないために破られてしまったのです。フリーメーソンの革命原理の社会的応用として生まれた「近代国家」という概念は、大衆に対するもう一つの巨大な欺瞞であることが証明されており、暴君の行き過ぎた行為を抑制する天主の正義という慰めも奪われています。これは、時を超えて存続する「Crucifige」の邪悪な叫び(「十字架につけよ」というかつてのユダヤ人たちの叫び)です。

【フランス革命の】200年後、私たちは、主が賢明なる作者である自然法や掟にかかわらず、単なる数的多数に基づいて、何が善で何が悪かを決定できると大衆に信じさせるために、どのような詐欺が企てられたかを理解しています。

この不敬なバベルの塔は、それが最も強力で破壊的であると思われる瞬間に、その基礎の崩壊を示しており、これは私たちにとっての希望の源となっています。

平等という偶像も崩壊しつつあります。平等とはつまり平板化の名の下に、すべての人間の個性と独自性を冒涜するものだからです。そこでは、多様性は疑惑の目で見られ、判断の自律性は反社会的なものとして汚名を着せられ、知的能力は過失であり、職業上の卓越性は脅威であり、義務感は憎悪に満ちた障害なのですから。

目に見える鉄格子のないこの灰色の牢獄では、表現の自由は、罪、悪徳、犯罪、無知、醜さに対してのみ認められます。なぜならば、すべての人間に固有のもの、その人を特別な存在にするもの、形のない大衆よりも高めてくれるものは、天主の全能性、天主の創造の無限の知恵、天主の恩寵の力、天主のみわざの無比の美しさ、を示す耐え難いものだからです。

偽りの「科学」という神話も崩壊し、天主の宇宙の調和に反発しています。創造を支配する規則を謙虚に探すことは、ルチフェルの厚かましさに取って代わられ、一方では天主の存在しないこと、人類の救済のために天主が役に立たないことを示し、他方では創造主が定められた永遠の規則に従って世界の守護者になることしかできないのに、自分が世界の支配者であると考える人間の常軌を逸した神格化を示そうとしています。自分の弱さを賢明に認識することで、人類の善のために偉大な発見をすることができましたが、今日では、理性の誇りが、世界の人口を減少させるという代償を払ってでも、権力と金に飢えた怪物を生み出しているのです。

自由主義と共産主義という偽りのイデオロギーは崩壊します。すでに巨大な政治的、社会的、経済的災害に見舞われ、今日では新世界秩序(new world order)という狂気のプロジェクトの中で亡霊のように一体となり、同盟しています。これらの国家の災いに関する教皇の預言的な言葉は、両者が同じコインの裏表であるという観察によって裏付けられています。つまり、平等を装った不平等のコイン、富の公正な分配という名目で人々を貧困化させるというコイン、多くの人々に大きな好機を約束しながら少数の人々を豊かにするというコインです。

政党も崩壊し、右派と左派の対立とされていたものも崩壊しました。これは、革命の産物であり、どちらも権力の行使の道具でした。20世紀の最後の数十年まで、少なくとも名目上は、まだ動機付けていた理想を放棄した政党は、会社へと姿を変え、政党を必要とする行動計画(アジェンダ)と市民の真のニーズとの間に埋めがたいギャップを生み出す結果となりました。動機を与える原理や譲れない価値観がないため、これらの政党は新たな主人、つまり資金を提供する人々に注意を向け、候補者を決定して行動を指示しその選択を押し付ける主人たちに目を向けています。また、美辞麗句(レトリック)の上では、誰であれ議会で代表する人々を任命する力を主権者である国民のものであるとし、投票に民主主義の最高の表れを認めていたとしても、今日、統治する人々は、投票だけで自分たちを追放し追い出そうとする人々に疑念と苛立ちを抱いているのです。

国家の法律が共通善に由来せず、腐敗した権力の維持と社会的国家の崩壊に由来するような正義などというものがありうるという幻想も瓦解しますし、天主の法が法廷で禁止され、不正がまかり通り、正直者が罰せられ、犯罪や軽犯罪が報われるなどという正義が存在し得るという幻想も、崩壊します。天主の御名の下に正義が行われないならば、裁判官らは善に反して立法することができます。天主が無視されれば、彼らは自分が保護すべき人々の敵となり、断罪すべき人々の共犯者となりうるのです。

情報の自由という欺瞞は崩壊します。党派的な利益の名前において、真実を沈黙し、現実を検閲し、客観的な判断基準を覆す準備ができているしもべやおべっか使い廷臣らの悲しい大群や、彼らの自分たちを豊かにしてつかの間の知名度に酔いしれたい願望を[情報の自由は]示しているのですから。しかし、ジャーナリストや編集者、エッセイストが、彼らにインスピレーションを与える不変の原理を持たなくなるならば、生けるまことの天主において、何がはかないものであるかを理解し解釈するための誤り得ない基準を、見いださせる原理を保持しなくなるなら、自由は放埓となり、権力への従属が規則となり、偽りが普遍的な規範となってしまいます。

二世紀以上にわたり、反人間的、反天主的、反キリスト的なすべてのものを模範として私たちに押し付けてきた、真実ではない世界全体、欺瞞の不誠実な恐怖の醜い世界全体が崩壊します。それは、「Non serviam」(私は仕えない)という敵の永遠の叫びの中で、トランスヒューマニズム(人間改造主義)が天と自然に挑戦する反キリストの国です。しかし、今日、私たちの目の前で起こっていることは、存在論的に失敗が運命づけられた、狂気に満ちた地獄のようなプロジェクトの本質を構成しています。それは、今では時間の灰と瓦礫に埋もれてしまい、歴史の中で多くの帝国に何度も起こったような、単なる衰退ではありません。それは、宇宙の第一原理、物事の本質、人間の究極の目標に反抗してきた時代の終わりなのです。天主に反抗し、天主を覆すことができると思い込み、現在と未来だけでなく、過去からも天主を冒涜し、排除することができると主張し、今日もなお要求している時代です。天主と人類の敵であるフリーメーソン系の諸セクトや悪に従順な権力者たちの手先によって形成されている時代です。

皆さんはこう思われるかもしれません。これは、明らかに、現在および私たちを待ち受けているものについての黙示録的なビジョン、善に忠実であり続ける少数の人々が、私たちの主が迫害され殺されたように、そしてキリスト教時代の初めに数え切れないほどの殉教者たちの群れが迫害され殺されたように、追放され、迫害され、殺される終末の時代のビジョンだ、と。この狂気に直面したとき、超越性を欠いたまなざしで十分ではないのと同じように、人間のイデオロギーによる対応では十分ではないのです。

「否定論者」や「陰謀論者」というレッテルを貼る人々が私たちに向けて言う「黙示録的」という悪口の言葉は、贖いということが多くの選択肢、その中にはマルクス主義や他の哲学もありますが、その中の一つであるというこの世的なビジョンを示しています。しかし、私は司教として、イエズス・キリストと十字架につけられた主ご自身以外のいったい何を説くべきでしょうか?

しかし、この場での私の言葉は、絶望の言葉でもないことを願いますし、私たちに用意されていると思われる未来への恐れを植え付けるものでもないことを望みます。確かに、反抗的なこの世は悪魔の奴隷となっており、特に権力と金でこの世を支配する人々によって、この世は私たちに戦争を仕掛け、激しく冷酷な戦いの準備をしているところです。一方で悪魔は、恐怖や興味から戦いを好まない人々までも含めて、できるだけ多くの同盟者を自分の周りに集めようとしています。彼ら一人一人に報酬を約束し、主義への隷属に見合う、少なくとも悪魔の反対側での戦いを控えることに見合う報酬を保証しています。歴史を通じて常に多くの人々を誘惑し、堕落させてきた成功、富、権力の約束です。

裏切り者には常に銀貨30枚が用意されています。さらに重要なことは、敵が公然と敵意を表明しているにもかかわらず、私たちの同盟者であるべき人々や私たちの将軍たちでさえも、迫り来る脅威に直面してその敵意を無視し、否定し、武器を捨てることに固執していることです。無意味な平和主義の名の下に、彼らは真の平和を損なっているのです。真の平和とは、秩序が安定していることであって、私たちを滅ぼそうと望む人々への臆病で反抗的な降伏ではありません。

先に述べたように、権威の真の倒錯はこの点にあります。いわゆる穏健派の人々や生ぬるい人々の共犯により、定められている目的を達成しなかったことです。私たちの主は、彼らを、その口から吐き出してしまわれるでしょう。

あきらめないでください。また、腐敗し、腐敗しつつあるシステムを存続させるための仲介者とされている自分たちの役割が損なわれるのを見たくないという望みに駆られて、現状の重大さを認識したくないと主張する誘惑や、それを非難する人を「陰謀論者」として非正当化する人々に誘惑にまどわされないでください。

もし、個人と人類の救いに対する具体的な脅威があるならば、もし、この明確に組織化されたプロジェクトの背後に心があるならば、もし、このプロジェクトを実行に移す人々の行動が明らかに悪を行うことを目的としているならば、理性と信仰は私たちに、その作者を発見し、その目的を非難し、その実行を阻止するよう促します。なぜなら、もし、この脅威に直面して、私たちが無為に過ごし、実際にそれを否定しようとするならば、私たちは悪の共犯者、協力者となり、兄弟に対する真実と愛徳の義務を果たせなくなるからです。

たしかに、善良で誠実な人々、私たちの主に忠実であり続ける人々の上に、この脅威があることに議論の余地がないのはその通りです。ところが、この脅威が、まさにその本質上、最も露骨で壊滅的な敗北の運命にあるのも、その通りです。なぜなら、この脅威は、人間だけでなく、天主ご自身、天上の宮廷全体、天使と聖人の群れ、そしてすべての被造物を疑問視させるからです。

はい、そうです、天主の驚異的な作品である自然でさえ、この暴力に反抗しています。最も確実である最終的な善の勝利と、この現在の暗黒との間のどちらかを、私たちは自分の選択を選ばなければなりません。そして、天主に善きしもべたちのことを考慮していただきましょう。

この歴史に残る衝突の間、私たちがただ人間的な手段でしか自らを組織化できないと考えないでください。また、敵の見事な力は、私たちを敗北させ消滅させるのに十分な理由だと確信しないでください。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、私たちは一人ではありません。これはまさに天主の御稜威に反対する戦争だからです。天主は、全能なる天主、戦列を整えし万軍の主、その御名に宇宙の基礎でさえも震えあがるそのお方ご自身に、恐れ多くも敢えて挑もうとする敵に反して戦うために、私たちの陣地で共に戦場に立つことを拒んで私たちを一人に打ち捨てるようなことはなさらないからです。

むしろ、私たち自身を天主の側に置き、栄光ある十字架の御旗の下で、想像できないほどの勝利と、地上のあらゆる富を青ざめさせる報酬があるのを確信しましょう。なぜなら、私たちに権利として与えられる報酬とは、不滅にして永遠のものであり、天国の栄光、永遠の至福、終わりなき命、そして三位一体の現存であるからです。天主に栄光を帰するという、私たちが創造された目的を実現する際に、贖いの経綸における罪による無秩序を立て直す報酬です。

不気味に迫り来る戦いに備えるために私たちがこの時代に研ぎ澄まさなければならない武器は、天主の恩寵の中で生きること、秘跡を頻繁に受けること、不変の「信仰の遺産」(depositum fidei)に忠実であること、祈り、特に聖なるロザリオ、聖徳を絶え間なく実践すること、償いと断食を実践すること、体と霊による愛徳行為であり、それらは、遠ざかっている、あるいは生ぬるい兄弟たちを天主のために獲得するためです。

使徒の戒めに耳を傾けてみましょう。「天主の武具をすべてつけよ。悪の日に抵抗し、すべてを果たしたのちなお立つためである。では真理を帯にし、正義を胸当てにして立て。平和の福音への熱意を足に履き、信仰の盾を取れ。それによって悪者の火矢をすべて消すことができるだろう。さらに、救いのかぶとと、天主のみことばである聖霊の剣をも取れ」【エフェゾ6章13-17節】。

この言葉は、聖パウロがエフェゾの町の信徒に向けて述べたものですが、私たちの戦いは、血肉でできた被造物【人間】に対するものではなく、権勢と能力、この世の闇の支配者、天界の悪霊に対するものであることを理解しなければならない現代の私たちにとっても、何よりも有効な言葉です。【エフェゾ6章12節参照】

このベネチアでのイベントは、主催者側が、考察の機会として、また、霊的かつ社会的な再生の運動設立行為として、望んだものです。互いに頼り合って、知り合うための、そして何よりも、それだけが愛する祖国の平和と繁栄のために必要かつ不可欠な前提であるその信仰を、勇気を持って証しするための、いわば霊的な戦闘準備への呼びかけです。

私はそう言いましたし、今もそう言っており、そう繰り返します、「Pax Christi in Regno Christi」(キリストの統治におけるキリストの平和)と。

トルコ人に対するレパントの勝利を祝う際に、ベネチアの議会・元老院が、キリスト教の敵を打ち破ったことへの功績を認めて、勝利の元后なる童貞に公的な栄誉をお捧げしたように、今日、私たちは、成功を目指し、天主の祝福を受けようとする個人的、集団的、社会的、教会的なすべての行動の基礎となる要素を、キリストの福音の中に、そしてその掟への忠実さの中に再発見する勇気を持たなければなりません。

過去数世紀の歴史を汚した反人間的かつ反キリスト的な社会が廃墟となったのは、主のご保護の下に置くことなく家を建てられると思い違いをした人々への厳しい警告です。

“Nisi Dominus ædificaverit domum, in vanum laboraverunt qui ædificant eam. Nisi Dominus custodierit civitatem, frustra vigilat qui custodit eam” (Psalm 126:1).「主が家を建てられないなら、それを造る者の働きはむなしい。主が町を守られないなら、番人の警戒はむなしい」(詩篇126篇1節)。

かの天主なる王と全能の元后が恩寵によってそこに君臨されるならば、この家、この都市は生まれ変わり、復活することができます。お二方は、栄光あるベネチア共和国の真の主権者であられたのであり、その御前にドージェ(元首)とマジストラーティ(Magistrati=司法官たち)が跪いて描かれ、キリスト教の宗教的・社会的秩序についての信心深い証しとなっています。

皆さんがこれを知ることが、皆さんと私たちの将来のすべての行動の原動力となりますように。

皆さん全員に、そしてキリストと童貞聖マリアの記章の下に集う方法を知っているすべての人々に、私は心を込めて、父としての祝福を送ります。

In nomine + Patris, et + Filii, et Spiritus + Sancti. Amen.
+聖父と+聖子と+聖霊との御名によりて。アーメン。

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教

La prolusione di Mons. Carlo Maria Viganò all’evento di Venezia

La prolusione di Mons. Carlo Maria Viganò all'evento di Venezia: ...

Il Corriere delle Regioni

 

 

 


【参考資料】陳日君枢機卿の「トラディティオーニス・クストーデス」について:なぜ"存在しない問題"を見ても、"今起きている実在する問題"を見ないのか?

2021年08月09日 | カトリック・ニュースなど

陳日君枢機卿の「トラディティオーニス・クストーデス」への感想

【参考資料】香港の引退司教である陳日君枢機卿の「トラディティオーニス・クストーデス」への感想の日本語訳をご紹介いたします。陳日君枢機卿によれば、教皇が解決しなければならない本当の問題は「旧典礼に多くの人が与っていること」というよりは、「なぜ人々はミサに与らないのか」「なぜ人々はカトリック信仰を失っているのか」ということだと主張しています。


なぜ彼らは、"存在しない問題"を見ても、"今起きている実在する問題"を見ないのでしょうか?

2021年6月12日の私のブログで『トリエント・ミサに「反対」する文書が来るそうです』と言いましたが、その不安は現実のものとなり、早くから予期してもその影響は軽減されてはいません。この文書の中の偏った記述の多くが関係者に引き起こした傷は、予想した以上に重いのです。トリエント・ミサを愛したこれらの善良な人々は、公会議の典礼改革を受け入れていない、ましてや公会議全体を受け入れていないとは、少しも人に疑がわれることはありませんでした。なおかつ、彼らは皆、小教区の活発な構成員です。

枢機卿かつ典礼秘跡省の元構成員である私が、この「広範な」諮問の参加に招かれなかったことは、本当に苦しくもあり、驚きでもありました。さらに、2007年から2009年にかけて、私はまだ香港の司教として、教皇ベネディクト16世の自発教令『スンモールム・ポンティフィクム』の実施を推進する責任を負っていましたし、今でも【香港】司教区内の「トリエント・ミサ」グループの支援者でもあります。

諮問のアンケートとその結果を見たことがなく、判断する方法がありませんが、その過程で多くの誤解(ひいてはおそらく誤解を招く要素)があったのではないかと疑うばかりです。

この2つの文書を読むと、(1)古い典礼(vetus ritus)の使用と新しい典礼(novus ritus)の拒絶を結びつける傾向があること、(2)典礼改革の拒絶(そして、多くの場合、新しい典礼方式の実施における重大な欠陥のいくつかの拒絶)を、公会議の全般かつ徹底的な拒絶として誤って伝えていることがわかります(実際、公会議を拒絶した人々にとって、ミサ典礼の選択は小さな問題に過ぎず、この問題で聖座が譲歩しても今度の教会の分裂は逆転しません)。

バチカンの指導層は、なぜ第二バチカン公会議の拒絶する現象が持続して存在し、(最近では)悪化しているかもしれないのかを自問すべきです(おそらく徹底的な調査を行うべきです)。

問題は、「どのような典礼が好まれるか」ではなく、「なぜミサに参加しなくなったのか」ということです。

ある世論調査によると、ヨーロッパのキリスト教徒の半数は、もはや聖体におけるイエズスの実在を信じておらず、永遠の命を信じていません。私たちは当然ながら、このような結果を典礼改革のせいにすることはできません。問題はもっと複雑で、「信仰の養成が不足しているのではないか」、「公会議の偉大な働きは無駄になったのか?」という疑問を避けることはできません。「現在はすべてを変えられると思うこと」が悪の根源ではないでしょうか?誰かが、公会議はすべての伝統を凌駕することができ、トリエント公会議はシスティーナ礼拝堂の『最後の審判』の汚れのようなものだと考えているのではないでしょうか(私たちの教区の「典礼専門家」の一人が述べているように)?

この文書では、自発教令『スンモールム・ポンティフィクム』の実施上の誤りを非難するだけでなく、2つの典礼の共存を悪とみなしています。 第3条の第5項と第6項、文書の第4条と第5条は、明らかにこれらのグループの死を願っているのではないでしょうか? 

しかし、たとえそうであっても、ラッツィンガーに反対する方は、由緒ある名誉教皇をこのように辱めるのではなく、ベネディクト16世の死と一緒にトリエント・ミサが死ぬのを辛抱強く待つことはできなかったのでしょうか?

為什麼他們見到不存在的問題,卻見不到實在的問題,且也是他們有份造成的? 

我在2021年6月12日的博文說:『聽說有一份「反對」脫利騰彌撒的文件即將來臨』,這擔憂已成真,而且其所帶來的衝擊並沒有因為早已預期而減輕,文件中許多帶有偏見的論述對相關的人造成的傷痛比預料的更沉重。這些愛好脫利騰彌撒的善良的人,從不曾讓人有半點懷疑他們不接受大公會議的禮儀改革,更從未不接受整個大公會議。此外,他們都是堂區的活躍成員。 

我這位樞機及禮儀聖事部前成員竟沒有被邀請參加是次「廣泛」諮詢,實在既感苦澀又驚愕。而且於2007-2009年我仍是香港主教,負責推動執行當時教宗本篤十六世的宗座牧函《歷任教宗》,至今,我仍是本教區內脫利騰彌撒群組的支持者。 

由於未見過該份諮詢問卷及其結果,我無從判斷,我祇能懷疑過程中有很多誤解(甚至可能帶有誤導擺佈的成份)。 
在閱讀這兩份文件時,我注意到它們 (1) 帶有傾向性地將沿用舊有禮儀(vetus ritus)與不接受新禮儀(novus ritus)兩件事聯繫起來,及(2) 將不接受禮儀改革(其實更多情形是不接受執行新禮儀方式時一些嚴重的弊病)錯誤引導為對大公會議的全盤且徹底的拒絕(其實為那些拒絕大公會議的人,彌撒儀式的選擇只是附屬小問題,教廷在這問題上的讓步也並沒有逆轉這次教會的分裂)。 
梵蒂岡高層應該問自己(甚至可能需要進行徹底調查)為什麼拒絕梵二的現象會持續存在,且可能(最近)越見惡化。 
問題不在於「人們喜歡什麼儀式」,而是「他們為何不再參與感恩祭」?一些民意調查顯示,歐洲一半基督徒不再相信耶穌在聖體聖事中的實際存在,不再相信永生!我們當然不會將這些結果歸咎於禮儀改革,問題其實更複雜,我們不能迴避的問題是:「是不是缺少了信仰培育?」「大公會議的偉大工作是不是被浪費了?」「以為現在一切都可以改變」難道不就是邪惡的根源?有人不是認為大公會議可以凌駕所有傳統,且認為脫利騰大公會議就像西斯汀教堂那幅《最後的審判》上面的污垢(正如我們教區一位「禮儀專家」所形容)一樣? 
該文件不僅指責在執行《歷任教宗》宗座牧函時有人犯了錯誤,更將兩種禮儀的並存視為邪惡。文件第3條的第5及6段及第4、5條不是明顯希望這些小組的死亡嗎?但即使如此,反對拉辛格的教廷權貴難道不可以耐心地等待脫利騰彌撒隨著本篤十六世的去世而告終,而一定要這樣羞辱可敬的榮休教宗呢? 


Why do they see problem where there is none and

close their eyes to the problem, for which they are also responsible?

Concerns about a ventilated document “against” the Tridentine Mass (see my blog June 12, 2021) have come true, and the blow has been no less severe because it was foreseen, many tendentious generalizations in the documents hurt more than expected the hearts of many good people, who never gave the slightest cause to be suspected of not accepting the liturgical reform of the Council, much less not accepting the Council “Tout court”. Moreover they remain active members in their parishes.
It came as a bitter surprise to me personally that the “widespread” consultation did not reach me, a cardinal and once a member of the Congregation for Divine Worship and the Discipline of the Sacraments. During the years 2007-2009, moreover, I was bishop of Hong Kong and therefore responsible for the implementation of “Summorum Pontificum”, and until now, a well-known supporter of the group.
Not having known either the questionnaire or the responses to the questionnaire, I cannot judge, but only suspect that there was much misunderstanding (or perhaps even manipulation) in the process.
As I read the two documents I note (1) an incredible ease (or tendentiousness) in linking the desire to use the vetus ritus to the non-acceptance of the ritus novus and (2) in associating the non-acceptance of the liturgical reform (which often concerns mainly the way in which it was carried out with its many serious abuses) with a total and profound rejection of the Council itself (as matter of fact for those who reject the Council the diversity of the rite of the Mass is only a small corollary, so much so that the concession regarding the rite did not reverse the schism).
The Vatican authorities should ask themselves (and perhaps even make a thorough investigation) why the second phenomenon has persisted and perhaps (recently) even worsened.
The problem is not “which rite do people prefer?” but is “why don’t they go to Mass anymore?” Certain surveys show that half of the Christian population in Europe no longer believes in the real presence of Jesus in the Eucharist, no longer believes in eternal life! Certainly we do not blame all this on the liturgical reform, but we just want to say that the problem is much deeper, we cannot evade the question: “Has not the formation of faith been lacking?” “Has not the great work of the Council been wasted?” Isn’t the root of evil that attitude of believing that everything can now be changed? Is it not that attitude of believing that this Council erases all previous ones and that the Tridentine Council is like the dirt accumulated on the “last judgement” of the Sistine Chapel (as a “liturgist” in our diocese put it)?
The Document obviously sees not only irregularities in the execution of Summorum Pontificum, but considers the very existence of a parallel rite to be an evil. Don’t paragraphs § 5 and § 6 of Art 3, Art 4 and 5 clearly wish for the death of the groups? But, even in that case, can’t the anti-Ratzinger gentlemen of the Vatican be patient to allow the Tridentine Mass to die only after the death of Benedict XVI instead of inflicting such humiliation on the venerable Pope Emeritus?


ルフェーブル大司教 1976年8月22日 私たちのミサ聖祭を破壊すると言うことは、ある意味で、私たちの主イエズス・キリストの王国を、主が天主であることを否定することです。

2021年08月09日 | ルフェーブル大司教の言葉

ルフェーブル大司教の説教 1976年8月22日 エコンの神学校にて

愛する兄弟たちよ、

今日、教会が祝っている聖マリアの汚れなき御心の祝日は、比較的に新しい祝日です。そして、この祝日こそ、現代に相応しく適応させるために、近年に教会がすることが出来、教会がしてきたことの証です。なぜなら、これは、私たちが今必要としている真理、私たちが黙想する際に霊魂に適応させようと望む真理、を思い出させてくれる祝日だからです。これを聖マリアの汚れなき御心の祝日が、私たちに思い起こさせてくれるのです。

この祝日は、特にファチマの聖母の御出現と特別な関係があります。そして、教皇ピオ12世がお望みになって、今後、聖母の被昇天の第8日目すなわちオクターヴァが、聖母の汚れなき御心の祝日となるように定められました。はい、おそらくそれ以前から、17世紀から聖母の汚れなき御心に対する信心があったでしょう。例えば、私たちは、ついこの前、聖ヨハネ・ユードの祝日を祝ったばかりですが、この聖人は「イエズスとマリアの聖心」という名前を持つ修道会を創立したのです。

ところで、私たちの聖なる聖父である教皇ピオ12世が、特別な方法で聖母の汚れなき御心を敬おうと望まれたのは、現代こそこれが必要だからです。実に、私たちの生きているこの厳しい時代、昔のキリスト信者が持っていたもの、つまり、今日のように私たちの主イエズス・キリストの愛の現れを私たちから奪い去ってしまう時代には、本当に聖母の汚れなき御心が必要です。

キリスト教世界の数世紀の間は、私たちの主イエズス・キリストの愛の現れが言わなくても明らかでした。なぜなら、全キリスト教世界のどこにでも修道院があり、修道生活は栄え、観想的修道院、活動的修道院、修道院運営の病院、あらゆるタイプの修道院が、数多く私たちの村や町、地方にも都市にも増加していたからです。それは、その時代に生きていた人が、いわばイエズス・キリストの愛と祝福の中に浸かっていると言うような印象を持つほどであった、と思います。なぜなら、主の愛が私たちの住む小さな路地にも、十字架の像、聖母像、愛徳の家があり、貧困者や巡礼者、苦しんでいる人々を受け入れる修道院運営の収容施設などにおいて、どこにでも明らかに現れていたからです。私たちの主の愛がどこにでも現れていました。

しかし、現代は、今世紀は、どれほど厳しい時代となったことでしょうか。私たちの住む都市にも、田舎にも私たちの主の愛を見つけることがもはや出来なくなってしまっています。ああ、勿論、私たちの主のために献身的に働いている霊魂たちもまだいます、しかし、一体幾人いるというのでしょうか。人口比にして、一体どれほどになると言うのでしょうか。そして、まだ主の愛を知らない国々、中国のようにあるいはアフリカのように大きな国々においては、どれほど多くのやらなければならない仕事があることでしょうか。そして、これらの国々は、主の愛からどれほど遠くにあることでしょうか。

ですから、現代、私たちには聖母マリア様が必要であると思われます。私たちには、私たちを助けて下さる、私たちが信仰を維持するようにと助けて下さる聖母マリアの御心が必要です。それは、いわば私たちの主がどれほど私たちを愛して下さっているかと言うことを感じることが出来るためです。私たちは、主の愛をこの眼で見ることがますます少なくなってしまっています。私たちには、聖母の愛を直ぐそばで感じる必要があるのです。そのために、聖母はファチマでご自分の汚れなき御心に祈るようにとお望みになったのだと思います。私たちにはこの天主の愛情が必要です。童貞女聖マリアの御心に広がった天主の愛情が。私たちには、聖母の汚れなき、そう汚れなき御心が必要です。汚れなき、つまり、染みも汚れも罪もない、と言うことです。

天主は知っています。まさに、現代世界において私たちの周りには、私たちの主に全生涯を捧げ尽くした聖母の御生涯の模範がもはやないことを、私たちの主の掟、愛の掟の実現に尽くした模範がないことを。天主の掟は天主への愛と隣人への愛にまとめられるからです。

ところで、現在社会で何が起こっているかは、皆さんがその証人です。子供は殺され、人は自殺し、ここスイスでは自動車事故で死ぬ人よりも自殺によって死ぬ人の方が多いのです。このことについて最近新聞が報道したばかりです。1800人の自殺が去年ありました。しかし、昨年自動車事故で死んだ人は1600人でした。1800人の自殺。そして、一般的にこれらの自殺は若者の自殺です。これは何を意味しているのでしょうか。これは、これらの霊魂たちは、自分の周りにもはや私たちの主の愛を感じていなかった、と言うことです。彼らは自分の生を嫌悪し辟易していたのです。だから自殺してしまったのです。もし、他の国々での事情を公表したとしたら、私たちはきっと胸悪く思うことでしょう。

離婚する人のことを考えると、どこに行ったらよいのかわからない、自分のお父さんが誰で、お母さんが誰かも知らない見捨てられた子供たちのことを考えると、悲しくなります。

私たちは、今、険悪な時代、辛い時代に生きています。愛徳を実践しない時代に生きています。

以前30年の間派遣されていたアフリカ諸国にいたときに個人的に感じたことですが、そして、私が一番びっくりしたことは、それは憎しみです。彼らはしばしば村ごとに憎しみを抱いていました。そして同じ村でさえも、家族ごとに憎しみがありました。その結果として、毒を盛ったり、殺人が頻繁でした。これは、憎しみのためでした。私たちの主の愛が君臨していないのです。

私たちの聖父にイエズス・キリストが、私たちの母に聖母マリア様がいると言うことが、どれほど幸せであるかと言うことを私たちはよくわかっていません。そこにこそ、天主様のために、私たちは愛と模範を汲み取らなければなりません。

何故かと言えば、聖母が愛の心を持っていたとすれば、それは私たちの主イエズス・キリストを愛するため、イエズス・キリストに属するものを愛するため、全ての霊魂をイエズス・キリストに導くためだけだったからです。聖母はこの愛を生きていたのです。そして、聖母は私たちの主を愛したがためにこそ、聖母は天主に罪を犯して主を侮辱しなかった、そんなことをすることが出来なかったのです。聖母は御受胎の瞬間から汚れなくましまし、ご誕生の時も汚れなく、御生涯の間、終生汚れなくましましたのです。聖母は私たちにとって、純粋さの、心の純粋さの模範です。私たちの主イエズス・キリストの掟に従順であることの模範です。

聖母は、私たちの主を愛したがために、主と共に苦しむことを、主の苦しみを分かち合うことを望みました。苦しみを分かち合うこと、これこそ愛の印です。聖母はその聖子イエズスが苦しむのをご覧になり、ご自分の主と共に苦しむことを望まれたのです。私たちの主イエズスの聖心が槍で貫かれたときに、聖母の御心も貫かれました。天主様の栄光のために、イエズス・キリストのために、イエズス・キリストの御国のために美しく調和しつつ生きた2つの聖心が貫かれたのです。この二人は、そのために戦ったのです。

だから、私たちも苦しむ覚悟が出来ていなければなりません。私たちの主イエズス・キリストが君臨し給うように。私たちの社会で、もはや、私たちの主は君臨していません。私たちの家庭で、もはや私たちの主は君臨していません。私たち自身において、もはや私たちの主は君臨していません。

私たちには、このイエズス・キリストの君臨が、イエズス・キリストの御国が必要です。なぜなら、これこそが私たちの霊魂と肉体、この地上にある全人類と全被造物の唯一の存在理由だからです。このために私たちは、生きているからです。イエズス・キリストが君臨するようにと。願わくは、主がその生命と救いと愛と栄光を霊魂たちに与え給うように。

私たちはよくわかっています。まさしく、ここ15年の間、聖なる教会で起こったことは、本当の革命でした。この革命はイエズス・キリストの王国を攻撃しています。この革命は、イエズス・キリストの君臨を崩壊させてしまおうと望んでいます。それは、全く明らかです。目を開かせましょう。確認できます。人々はイエズス・キリストの掟にもう従おうとはしません。不幸なことに、私たちに主の掟に従順であるようにと教えなければならない人々が、不従順であるようにと勧めているのです。

何故かというと、

国家の無宗教性をのぞむと言うことは、私たちの主イエズス・キリストの君臨を破壊させることだからです。

婚姻が聖なるものであるという現実を疑うことは、そして婚姻に関する掟を疑うことは、家庭における私たちの主イエズス・キリストの愛を崩壊させてしまうことだからです。

もし、私たちが強く、公に、堕胎に反対しないと言わなかったとしたら、私たちの主が君臨しないようにすることです。

私たちの主イエズス・キリストの王国に対する信心を崩壊させることは、私たちの主が霊魂において君臨することを破壊させることです。

愛する兄弟たちよ、ミサ聖祭とは、私たちの主イエズス・キリストの君臨を宣言すること以外の何ものでもありません。私たちの主は一体何によって君臨したのでしょうか?Regnavit a ligno Deus! 主は、十字架の木によって君臨しました。十字架の木によってこそ、主は悪魔に打ち勝ち、罪に打ち勝ちました。

ですから、私たちの主の犠牲、祭壇におけるカルワリオを更新することによって、私たちは、私たちの主イエズス・キリストの王国を肯定し宣言するのです。私たちは、主が天主であることを肯定し宣言するのです。

私たちのミサ聖祭を破壊すると言うことは、ある意味で、私たちの主イエズス・キリストの王国を、主が天主であることを否定することです。

だからこそ、現代では、御聖体礼拝はこれほどまでに少なくなってしまったのです。そうでなければ、涜聖が数限りなく増加しています。これは、はっきり言わなければなりません、公会議以後のことです。これは明らかです。人々は御聖体にまします私たちの主を祭壇の外に追放しました。もはや私たちの主を礼拝しません。御聖体の前で跪きもしません。私たちの主の君臨とは、主をまことの天主と認めることなのです。主を私たちの王と承認することなのです。

従って、私たちは私たちの主イエズス・キリストの愛を、その御神性を表さなければなりません。

私は、事実だけを申します。これは公表されたことです。合衆国のフィラデルフィアで開かれた聖体大会で、御聖体行列があったでしょうか?いいえ。ありませんでした。私は4年前にメルボルンの聖体大会に参加しましたが、そこでもなかったと同じです。何故、御聖体行列がないのでしょうか?なぜなら、この聖体大会をエキュメニカル大会にしたかったからです。エキュメニカル大会とは、プロテスタントやユダヤ教と、又イエズス・キリストが天主であると言うことを信じない人々、イエズス・キリストを崇拝しようとしない人々、イエズス・キリストの君臨を望まない人々と共にする大会のことです。私たちの信仰に反対する人たち、私たちの信仰を認めようとしない人々と一体どうやって祈ることが出来るというのでしょうか?だから、彼らは、参加の条件として、こう言ったのです。「私たちは聖体大会に参加したいが条件がある。それは聖体行列をしないと言うことである。」つまり、私たちの王、私たちの聖父、私たちの創造主、私たちの救いのためにご自分の全ての御血を流された贖い主である方に誉れを捧げてはいけないと言うことだったのです。主を礼拝することを彼らは拒んだのです。そこで、この条件を受け入れました。それは、プロテスタントやユダヤ教とたちが聖体大会に参加するためには、聖体行列をしてはいけなかったからでした。しかも、プロテスタントの牧師と一種の共同司式をやったのです。更に、この共同司式の座長はプロテスタントの牧師だったのです。

これは、みな天の復讐を呼び求めています。復讐を。私たちの主は、もはや敬われていません。私たちの主は、もはや私たちの王ではなくなってしまっています。このようなことは、主を屈辱することなのです。

ある日、軍隊が、共産軍が私たちの国を侵略するとしたら、私たちはそれに値するだけのことをしたと言うことです。涜聖をそのままほったらかしにし、公認し、私たちの主イエズス・キリストに誉れを捧げず、イエズス・キリストを王として望まず、悪魔が私たちの王として玉座に着くことでしょう。その日が来るでしょう。

私たちは、「自由」によってそうなのです。「自由」を望んだ人たちのこの「自由」とは、単に天主と教会の掟から自由になるということでした。彼らは私たちの主から自由になろうとしました。彼らに別の君主が君臨することでしょう。この闇の君主が「自由」とは何かを教えに来るでしょう。

私たちは幸福にも、これらのことが理解できます。これら私たちの主の王国を信じることが出来ます。私たちは主の愛を表さなければなりません。私たちは、家庭で、私たちのいるところがどこででも、主の王国を宣言しなければなりません。まだ私たちの主の御神性と御国を信じているキリスト者がいるところで、又、聖母が聖子に対して持っていたのと同じ愛を持つ人々がいるところで、私たちは、どこでも一致して、宣言しなければなりません。彼らが、躊躇うことなく、一致し、その愛を堅く保つように。このような彼らこそ教会です。私たちの主の君臨を崩壊させている人々ではありません。

はっきり言わなければなりません。これはスーネンス枢機卿が言ったことで、私が造った言葉ではありません。曰く、「公会議は教会におけるフランス革命であった」と。はい、私は、確かに、公会議は教会におけるフランス革命であったと思います。スーネンス枢機卿はそれを喜びました。私たちはそれを悲しみます。私たちは嘆きます。なぜなら、教会における革命とは、人間の理性を礼拝する理性神の君臨だからです。人間理性は1789年の先駆者によって礼拝されました。神となった人間理性は修道士や修道女を死刑に処しました。私たちのカテドラルを崩壊し、私たちの神聖な聖堂を犯しました。

今私たちが目の当たりにしている革命は、1789年のフランス革命よりもひどいものです。公会議以降、教会で、又私たちの家庭で、學校で、大学で、神学校で、修道会で、何が起こったかということを一覧表にまとめてみると、結果は1789年の時に起こったことよりも、更にひどいことがおこっています。なぜなら、1789年には、少なくとも修道士や修道女たちは死刑台に昇りました。それは自分たちの血を私たちの主イエズス・キリストに捧げるためでした。私は、ここにいる皆さんもイエズス・キリストのために自分の血潮を捧げる覚悟が出来ていると思います。しかし、現代の教会における革命においては、そうではありません。何という恥ずべきことでしょうか。司祭職を捨ててしまった司祭、毎月、まだまだ、多くの司祭たちがその申請のためにローマに行くのです。叙階式の時にわたしたちの主に一生仕えるという誓いをうち捨てて、結婚するために。そして、3ヶ月後には、結婚の許可が下りています。

これは、あまりにもひどいではありませんか。私たちの主を捨てるよりも主に対する信仰を宣言するために死刑台に昇るほうがまだましです。

公会議の後に起こったことは、フランス革命の数倍悪い結果をもたらしています。公然の敵がいた方がよっぽどましです。教会と私たちの主は、戦争宣言をするからです。

しかし、私たちの主を敬い、礼拝し、私たちの主に対する信仰を明らかに表明しなければならないはずの人が、私たちの目の前で冒涜を行い、私たちの主を捨て去り、ある意味で屈辱を与えているように思えます。私たちは、これを受け入れることが出来ません。

私たちこそカトリック教会です。彼らこそカトリック教会から離れていくものです。私たちが離教をするのではありません。私たちは、主の君臨を望んでいるからです。私たちは、それを高らかに宣言し、主に従う覚悟が出来ています。願わくは、私たちの牧者がどこででも「私たちは唯一の天主イエズス・キリスト以外何ものも望まない、私たちには唯一の王、イエズス・キリスト以外だれもない」と言いますように。そうしたら、私たちはこれに従います。

しかし、彼らは私たちの祭壇から主の十字架を取り除き、主の君臨を破壊しています。

私たちは、この点を確固と保持しなければなりません。私は、不従順だといわれました。きっともうすぐ離教的だと言われることでしょう。全く違います。私は、不従順でも、離教的でもありません。私は教会に、私たちの主イエズス・キリストに従っています。

「おまえは教皇に不従順だ」といわれます。私はこう言います。教皇様が公会議の最中また公会議後になされた革命と一致する限りにおいて私は教皇様に不従順です。なぜなら、公会議の革命は教会におけるフランス革命だからです。私は教会内のフランス革命に従順であることが出来ません。私は理性神に従順であることが出来ません。私は、理性神の前に膝を屈めることが出来ません。しかし、皆が私に求めているのはまさしくこのことなのです。この神学校を廃校するようにと要求するのは、皆がそろって理性神を礼拝するようになるためなのです。

人間。人間への礼拝。人間を礼拝する。ダメです。こんなことは決して出来ません。これを受け入れることが絶対に出来ません。私たちは天主に従順たりたいのです。イエズス・キリストに従いたいのです。私たちに信仰を与えなければならない人々が信仰に従っている限り、彼らに私たちは従うでしょう。彼らは信仰に挑戦する権利がありません。信仰は彼らのものではありません。信仰は教皇様のものではありません。信仰は教会のもの、天主のもの、私たちの主イエズス・キリストのもので、教皇様も司教様もこの信仰を伝えるためにいるのです。彼らが、この信仰を伝える限りにおいて私たちは跪いて従い、すぐさまに従うつもりです。しかし、彼らが信仰を破壊する限りにおいて、もはや従うことが出来ないのです。

私たちは、信仰が破壊されるままそれを許すことが出来ません。私たちの信仰は、心に深く死ぬまで掛けられている、と言わなければなりません。それを宣言しなければなりません。

私たちは、不従順ではなく、従順なのです。イエズス・キリストに従順なのです。これこそが常に教会がその信者に要求してきたことです。

「おまえは裁いている、教皇を裁いている、司教たちを裁いている」ともいわれます。私たちが裁くのではありません。信仰です。聖伝です。昔からの小さな公教要理の本です。もし司教様が5才になる子供に「三位一体の中に3つの位格があるというのは嘘だ」といったとしたら、5歳の子供でさえ司教様に、「公教要理に書いてあることは、司教様のいっていることと違っています、司教様が間違っていて、私の方が正しい」ということが出来ます。この子供は、正しいのです。なぜなら、この子供には教会の全聖伝がついているからです、教会の全信仰がついているからです。そして、私たちのやっていることは、この子供のしていることと同じなのです。

「おまえは、断罪する」といわれます。違います。「聖伝が、あなたの今していることを断罪しているのです。」と私は言いましょう。私たちには教会の2000年の聖伝がついています。10年やそこらの新しい「公会議後の教会」ではありません。「公会議後の教会」とは、ベネリ司教が私たちに言ったことです。ベネリ司教は私たちに「公会議後の教会に従え」と要求しました。私は「公会議後の教会」など知りません。私の知っているのはカトリック教会だけです。

私たちは、この立場をしっかりと保たなければなりません。私たちの信仰のためであれば、何でも甘受しなければなりません。全ての苦しみを。あざけられ、破門され、叩かれ、迫害を受ける覚悟をして下さい。もしかしたら将来、政府が私たちを迫害するかもしれません。この可能性さえもあります。なぜなら、教会を崩壊させるのはフリーメーソンの業だからです。フリーメーソンはありとあらゆるところで命令を下しています。ですから、もし彼らが私たちにフリーメーソンの計画を危うくするほどの力があると見れば、政府が迫害を始めるでしょう。

そうなれば、私たちはカタコンブの中に入りましょう。私たちはどこにでも行きましょう。しかし、私たちは信じ続けます。私たちは、私たちの信仰を捨てるつもりはありません。私たちは迫害を受けるでしょう。私たち以前にも、信仰のために多くの人々が迫害を受けました。私たちが1番最初だというわけではありません。しかし、少なくとも、私たちは、イエズス・キリストの信者であるということの名誉を、誉れをイエズス・キリストに捧げることが出来ます。主を捨てず、主を裏切らず、忠実であったという名誉です。これが私たちのしなければならないことです。確固としていることができるように祈りましょう。

この聖母の祝日に、聖母に祈りましょう。聖母のように、私たちの心にも一つの愛が、私たちの主イエズス・キリストに対する唯一の愛のみがありますように。私たちの心に深く刻まれている名前は、イエズス・キリスト以外ないことを。イエズス・キリストこそが天主であり、救い主であり、永遠の司祭、全てのものの王にして、主は今、天にましまし、この天では主のみ王なのです。天においてイエズス・キリスト以外王はいません。イエズス・キリストこそが、全ての天使、聖母、聖ヨゼフ、全ての選ばれたものの至福であり、私たちもこの至福、この誉れ、この栄光、この私たちの主の愛に参与することを望みます。私たちの知っているのは、イエズス・キリストのみであり、私たちは、私たちの主イエズス・キリスト以外誰をも知ることを望みません。

聖父と聖子と聖霊との聖名によりて、アーメン

(ルフェーブル大司教の説教のカセットテープ集HOMEC 第8巻から、直接日本語に訳しました。)

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Homélie à Écône, 22 août 76, Cœur Immaculé de Marie

Homélies prononcées par Mgr Marcel Lefebvre, fondateur de la Fraternit...

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カトリック聖伝のミサの報告 Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka SSPX Japan

2021年08月08日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2021日8月8日、東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計98人でした。大阪では36人でした。

昨日の土曜日には、成人二名の方が洗礼を受けました。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願い致します。

次の主日は8月15日聖母の被昇天の祝日です。東京での子供たちのための公教要理(日本語)は、お休みです。

8月は名古屋での主日のミサの予定は、8月22日です。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【東京】
Dear Fathers:

Shown below are the number of attendees at the masses in Tokyo today.
The total number of attendees at the masses in Tokyo today was 98, including children.

09:00 mass
M: 23 (incl. 5 children)
F: 21 (incl. 3 children)
Total: 44 (incl. 8 children)

11:00 mass
M: 19 (incl. 4 children)
F: 19 (incl. 5 children)
Total: 38 (incl. 9 children)

12:30 mass
M: 12 (incl. 5 children)
F: 12 (incl. 4 children)
Total: 24 (incl. 9 children)

Total of 3 masses (excl. 8 people who participated in multiple masses)
M: 50 (incl. 14 children)
F: 48 (incl. 12 children)
Total: 98 (incl. 26 children)




2021年8月8日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for August 8, 2021

2021年08月08日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2021年8月6日(金)8月7日(土)8月8日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 8月6日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 8月7日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 8月8日(日) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

8月8日(日)主日ミサが三回捧げられます。

午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of August 8, 2021.

Mass times in Tokyo: August 1
09:00 - Sung mass Facebook live
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass
It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses.
Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo

Mass schedule in OSAKA:

Fri, August 6: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, August 7: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, August 8: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30









聖伝のミサから教会での市民権を取り上げると主張する教皇フランシスコの最近の自発教令「トラディティオーニス・クストーデス」についてのドゥニ・ピュガ神父による説教

2021年08月08日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドゥニ・ピュガ神父は、2021年7月18日(日)、パリの聖ニコラ・デュ・シャルドネ教会でこの説教を行いました。

愛する兄弟の皆さん、

金曜日にある出来事がありました。ご存じの方も多いと思いますが、「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)という、この自発教令が発表され、典礼の面での停戦が終わったと言えるでしょう。教皇フランシスコは、権威主義とまでは言わないまでも、権威を持って、教皇ベネディクト十六世が、その自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)で行った譲歩(それは譲歩にすぎませんでした)を、すべて取り除くことを決定しました。

これは、教会の歴史にとっては非常に重要な出来事であり、特に皆さんの中の若い方々には、この恐ろしい教会の危機において、どのようにしてこの時点にまで至ったのかを思い起こしていただきたいと思います。皆さんの中でも特に年配の方々、つまり私のような年配者にとっては、皆さんがここであずかっておられるミサは、世界中のすべての教会で行われていたミサでした。私たちは、どこでミサにあずかるかという問題を考える必要はありませんでした。主日に村に入り、村の小教区の教会に行き、このミサにあずかる、それがどこでも普遍的に受け入れられていたのです。

その後、第二バチカン公会議の後の1969年に、第二バチカン公会議の結果として、私たちは、ローマのインテリの典礼学者たちによって、【このミサが】ゼロから発明されたと言っていいでしょう。彼らは、役務や司牧的世話の現場よりも、図書館やオフィスで多くの時間を過ごしていました。さらに言えば、このノブス・オルド・ミサを準備した人々には、プロテスタントの牧師たちが関わっていたのです。典礼やミサについてのプロテスタントの概念と、カトリシズムの間にある根本的な違いを知ると、この新しい典礼にはすでに何か、悪いパン種があったことが分かります。この新しい典礼は、本当に親愛なる兄弟の皆さん、皆さんの中で年配の方々がその証人ですが、力ずくで、そうです、力ずくで押し付けられたのです。いたるところで信徒からの抵抗があり、司祭たちからも抵抗がありました。多くの司祭、修道者、修道会は、この新しいミサを望んでいなかったため、力ずくで押し付けられたのです。

皆さんがここであずかっているこのミサは、世界中のすべての教会で捧げられていたミサ

この新しい典礼は、ミサの聖なるいけにえの本質的な面、特にそのなだめの面については沈黙していたため、1970年からすぐに反発が起こりました。この新しいミサが公布された直後から、「いいえ、私たちは聖伝のミサを守り続けます」という人々の抵抗がありました。それは、「分かち合い」「生きている世界のために分割されたパン」と言われるような、もはや十字架のいけにえの更新ではない聖体祭儀(ご聖体)に焦点を当てようとする教会のこの新しい教理に対して、自分を守るための方法でした。

もちろん、その中にはルフェーブル大司教もいて、この目的のために、司祭とミサについての聖伝の概念を維持するために、聖ピオ十世司祭兄弟会を設立しました。何年か後の1984年、抵抗する信者の数が多くなり、メディアがそのことをそれまで以上に話題にするようになると、教皇ヨハネ・パウロ二世は一つの決定を下しました。それは、特定のケースにおいて、非常に厳しい条件付きながら、「聖ピオ五世のミサ」として知られる聖伝のミサを捧げる可能性を再び認めることでした。必要なのは、公会議に関するルフェーブル大司教の立場とは無関係であることを宣言するだけでした。皆さん、教会の危機が高まる一方なのはご存じでしょう。

1988年には、その2年前に起こったことに続いて、アッシジのドラマが起こりました。これは、私たちの主イエズス・キリストの聖痕を帯びた偉大な聖人である聖フランシスコの墓の上で、すべての宗教が再会するという、信じられない、想像を絶するほどひどいものでした。すべての宗教が祈るというこのエキュメニカルな会議で、私たちは現存するご聖体が取り除かれた聖櫃の上に仏陀が設置されているのを見たのです。ルフェーブル大司教がこの機会に司教を聖別したことはご存じでしょう。このことは大きな騒動を引き起こしましたが、この戦いを継続するためには必要なことでした。ローマは、エクレジア・デイ委員会という一つの委員会を設立し、いわゆる「離教したルフェーブル大司教」に従いたくない人々を歓迎することにしました。でも、離教はなかったのです。聖伝のミサは、ある意味で、市民権を持ったのですが、それは、常にいかなる関係も持たない(nullam partem)という条件付きで、つまり、第二バチカン公会議を批判した人々とはいかなる関わりを持ってはならないという条件での市民権でした。

その後の2007年、教皇ベネディクト十六世が選出された後のことです。ベネディクト十六世は、ルフェーブル大司教と議論した当時、教理省長官だったため、良心の呵責に耐えられなかったのでしょう。ラッツィンガー枢機卿の時代には、1969年に聖伝のミサが禁止されたかどうかを調査する委員会の議長を務めました。この委員会は、90%という大多数の賛成を得て、教会法的にはこの聖伝のミサが廃止されたことはないと回答しました。しかし、この委員会の決定は、沈黙のうちに葬られ、それをアーカイブに閉じ込めて、それについて話すことさえありませんでした。教皇ベネディクト十六世が、まさにこの良心の呵責のために、聖伝のミサの市民権を回復させた可能性は十分にあります。

この聖ピオ五世のミサを新しいミサと同居させることを認めるとともに、どの司祭でもこのミサを捧げることができ、すべての信者がこのミサにあずかるという自由が認められたのです。ですから、多くの人々がこの何世紀もの歴史を持つ古い典礼にあずかることができるようになったのは、この体制の下でのことです。

現教皇自身は、ラテン教会にノブス・オルド・ミサのみを認める。これは聖伝のミサに対する一種の破門

ラテン教会に二つの典礼があったのではなく、二つの典礼を一緒にし、そのうちの一つは古くて聖伝の合法的な典礼であり、もう一つはそうではない、ということは、何か異常なことです。そのわけは、新しいミサが聖座の権威によって公布されたものではないという理由ではなく、ミサの聖なるいけにえに関する聖伝の教理から外れているという理由で、合法的ではないからです。

例を挙げれば、ある晴れた日に合法的な妻を捨てて非合法の妻と結婚した父親が、子どもたちに対して、こう要求するようなものです。「さあ、この非合法な女性を、おまえたちの母親だと認めなさい」。すると子どもたちは拒否します。その時、父親はこう言います。「私は合法的な妻と非合法の妻と一緒に住む。家には二人いるから、みんな幸せになるんだ」と言うでしょう。そんなことをしても事態が解決しないのは、お分かりになるでしょう。

一昨日の正午、教皇フランシスコがこの自発教令を発表するまで、私たちはこのやや不安定な状況の中で生きていたのです。自発教令とは、教皇が強制する決定のうち教皇自らが行うもののことです。聖ピオ五世のミサにあずかったり、このミサを捧げたりする可能性を、苛酷で厳しくかつ極めて厳格な調子で、独裁的と言ってもいいくらい、限りなく小さくしています。現教皇自身が、ラテン教会には一つの典礼しかない、それはノブス・オルド・ミサだ、と言っているのですから、これは一種の破門のようなものです。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、これは教皇聖ピオ五世が1570年7月14日の教書で述べたことに反しています。この教書が出された日という理由で、私は7月14日をお祝いするのであって、他の理由【フランス革命】ではありません。教皇聖ピオ五世はこの教書を出し、その中で、聖伝のミサ典礼書を使用している人々のために宣言しました。このミサ典礼書は―またこのことを教皇は使徒の権威の名で行っています―「如何なる教会においても…、如何なる良心の呵責無しに、或いは他の罰、宣言そして非難を全く課される事無く、今後このミサ典礼書それ自体に、全く従うように、そして、それを自由に合法的に[使用する事が可能であり適法であるように、]…しかも永久のこの[文面]を以って、余は承認し認可する」と教皇ピオ五世は述べたのです。

「なぜでしょうか? それは、このミサが最終的な発展に到達し、教会の信仰のすべてを、祭壇の聖なる秘跡において、ミサの聖なる犠牲において、完全に表現したからです。そうです、聖ピオ五世が典礼を発明したのではなく、教皇ベネディクト十六世はまさに、それはむしろ「聖ピオ五世のミサ」というよりもむしろ、「グレゴリオのミサ」というべきだと言いました。なぜなら、その本質は、6世紀の教皇聖グレゴリオにまでさかのぼるからです。思い出しますけれども、それほど昔ではありませんが、9世紀、つまり1100年以上前のアイルランドの修道士たちの写本を調べる機会がありました。当時は印刷機がなかったので手書きの写本でしたが、ミサを捧げるために使われていました。それを読むと、その中には、私が唱えている祈り、毎日ミサで唱えている祈りのすべてが書かれていました。

このように、1000年以上前にミサを捧げた修道士たちと私たちの間には、つながりがあるのです。皆さんお分かりのように、今日、私たちは「教会の交わり」についてよく話していますが、それはこの世での距離という観点からのみの教会の交わりだけではなく、時間的な交わりでもなければなりません。カトリック教徒でありたいと望む人は、信仰における自分の先人たち、信仰を自分に伝えた人々から自分を切り離すことはできませんし、自分を聖伝から切り離すことはカトリック教会を放棄していることになってしまいます。今、教皇フランシスコは、自発教令で、すべての人は公会議に戻らなければならないこと、また彼が与える譲歩、今でも聖伝のミサのために与える小さな譲歩は、まだ残っていますが、これらの人々が新しいミサに戻る準備をするためのものであり、その目標は明確に述べられているのです。

教皇は、聖伝のミサへの愛着を、自分にとっては「スノッブ(上流気取り)」だと語る。

では、なぜ突然、私たちがそれが起こると分かっていたにもかかわらず、なぜ突然、このような雷鳴が起こったのでしょうか? 親愛なる兄弟の皆さん、私たちはさまざまな理由を見つけることができます。

まず第一に、私がそれを考案したものではありません。インタビューでそれを宣言したのは教皇フランシスコであり、知ろうとして自問したからです。ここで私は、皆さんのうちで特に若い人々にお話ししますが、「なぜ皆さんはこの聖伝のミサに引きつけられるのですか?」、彼は「私には理解できません」と答えています。年配者が自分たちの知っていた古代の典礼を懐かしみ、残念がっていることについては、彼は「それは分かります」と言いましたが、若い人々が聖伝のミサに引きつけられていることについては、彼はそれを理解せず、こう言ったのです。「それはスノッブ(上流気取り)だと思う」。ほら、思った通りです。これが彼の持つ考えであり、現実を全く無視しています。第一に、それが若い人たちを引きつけるのであり、つまり危険なのです。

第二の理由は、主が多くのことを利用されるということです。それは、私たちが生きている、そこから抜け出すことはできそうにない隔離、この健康危機です。隔離によって教会が閉鎖され、信者は世界中でミサにあずかることができなくなりました。そして、私たちの教会のような多くの教会がミサを放送しているので、信徒はインターネットに接続し、多くの人がこの機会に聖伝のミサの存在を発見しました。多くの人がその存在を知りさえもしなかったため、それによりこのミサに従う大きな運動が起こりました。これも私の考えではなく、教皇自身が最近イタリアで行った講演で述べたことですが、彼はこう言いました。「健康危機を利用して、ソーシャル・ネットワークを用いてこの典礼を広め、典礼に関する誤解を広めようとする者がいました」と。また、そのあと「若い人の召命の中には、聖伝のミサに引かれる人が一定数いる」ため、この聖伝のミサを発見して、それを捧げたり、信者たちにそれを提案したりし始める司祭が現れることを恐れているのです。

戦争は再開されるか、継続される。この決定によって、私たちは自分の立場が正しかったことがわかる。

最後に、根本的な理由として、ここには第二バチカン公会議の精神が見られますが、このミサ、聖伝のミサが、反エキュメニカルであるということです。パウロ六世のミサ、ノブス・オルド・ミサはエキュメニカルであり、さらにプロテスタントは、ノブス・オルドによるミサを捧げることは問題ないが、聖伝のミサを捧げることはできないと言います。聖伝のミサは、エキュメニカルなものではなく、宣教的なものです。第二バチカン公会議は、キリスト教でない宗教や分かれたキリスト教徒に対するこのエキュメニズムの扉を開いたのです。なぜなら、聖ピオ五世のミサは、十字架によって統治なさっている私たちの主イエズス・キリストの王権を宣言しているからです。

このことは、教皇フランシスコの琴線に大きく触れることであり、彼はこのキリストの王権を望んでいないのです。彼の在位期間中に私たちが見たのは、異教の偶像、パチャママをバチカンに再導入するという前代未聞のことでした。私たちがいわゆる童貞マリアのイメージとして誤って通用させようとしたパチャママですが、これは異教の偶像であり、南米ではルチフェルの偶像でさえあります。南米の国々出身の人はみな、それを知っていますが、そのことは彼をまったく悩ませませんでした。また、「聖霊の意志を受けたすべての宗教」についての公式文書もあり、教皇は公式文書でそう言っています。異端者として非難されることのない偉大な神学者や長老たちがいて、離教的な教皇の可能性を検証しました。そうなれば、自らを教会の聖伝から切り離す教皇になるだろう、と彼らは言っています。私たちは、その段階にいるのではありませんか?

愛する兄弟の皆さん、ですから、この戦争は、再開されるか、少なくとも継続されるでしょう。独裁的と言ってもいいこの決定によって、説明できないこの決定によって、私たちは自分の立場が正しかったと、慰めを得ます。

しかし、公会議を批判しなかったエクレジア・デイ共同体については、新しい典礼の迷走の批判がかなり「弱々しく」、彼らはひどく打ちのめされています。エクレジア・デイ委員会は、教皇によって純粋かつ単純に廃止・解体されました。

勝利の聖母に、この戦いに自信を持てるようにお願いしましょう。私たちの主は勝利されるでしょう。私たちは、すべてのカトリック教徒の権利を思い出し、それを繰り返さなければなりません。それは、天主への礼拝を明確に、神聖に、敬意をもって表現する典礼に従うことであり、時の終わりまで永遠に更新される信仰、祭壇の上で更新される私たちを救ってくださる主のいけにえへの信仰なのです。

出典:聖ニコラ・デュ・シャルドネ教会のユーチューブ・チャンネル
ドゥニ・ピュガ神父(聖ピオ十世会)
フランス・パリにて






原罪によって人類が失い、もとに戻らない恵みとは?人間の罪ゆえの病を癒すのは主イエズスだけです|Sermon on the notion of Catholic Tradition

2021年08月07日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2021年8月8日は聖霊降臨後第十一主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第十一主日の説教」の動画をご紹介いたします。

ドモルネ神父様と小野田神父による、英語、フランス語、日本語のお説教です。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父


ルフェーブル大司教は自発教令「トラディチオニス・クストーデス」に答える:私たちはただ主イエズス・キリストへの信仰を表明することを許されたいだけなのです。

2021年08月07日 | ルフェーブル大司教の言葉
フランス・リールでのルフェーブル大司教の説教(1976年8月29日)

私の親愛なる友人の皆様、私の親愛なる司祭職の兄弟たち、私の親愛なる兄弟の皆様、

皆様にお説教の言葉を述べる前に、いくつかの誤解を解いておきたいと思います。まず、このミサのあつまりについてです。この儀式の単純さからもお分かりのように、今この会場にいるような大勢の人々が集まるような儀式は用意していませんでした。私たちは、8月29日に予定通りに、リール地方の数百人の信者さんのために、ミサ聖祭を行おうと考えていました。いつも、フランスや、ヨーロッパや、さらにはアメリカでも頻繁にやっていたように、何の騒ぎもなくミサを捧げるつもりでした。

ところがご覧ください。突然、8月29日という日が、マスコミ、ラジオ、テレビによって、ある種のデモのようになってしまいました。彼らが言うところの「挑戦」のようなものになってしまったのです。いえ、ちがいます。これは「挑戦」ではありません。このミサは、遠くからここに来てくれた親愛なる信者の皆様、親愛なる兄弟であるあなた方が望んだのです。何のためでしょうか?それはあなた方のカトリックの信仰を現すためです。信仰における私たちの祖先がそうしていたように、また、何世代も私たちの前の幾世代がそうしたように、あなた方が祈りたい、また、自分を聖化したいという望み表明するためです。

これがこのミサの儀式の本当の目的です。このミサの間、私たちは祈りたい、心を込めて祈り、この祭壇にまもなく降りてこられ、私たちが切実に必要としている十字架の犠牲(いけにえ)を実現させる私たちの主イエズス・キリストを礼拝したいと欲しています。

また、もうひとつ別の誤解を解きたいと思います。このようなことを言うのは大変に申し訳ありませんが、どうしても申し上げなければなりません。私自身のことを聖伝主義者のリーダーだと称したのは私ではありません。少し前に、ローマで、厳粛な記念すべき状況の中で、私のことをそう呼んだ人が誰かを皆さんは知っています。そこでルフェーブル大司教は聖伝主義者のリーダーだと言われました。私は聖伝主義者のリーダーになりたいとは思いませんし、私はそんなものではありません。

なぜでしょうか? なぜなら、私も、皆さんと同じ単なるカトリックであり、確かに司祭であり、確かに司教ではありますが、皆さんが置かれている状況と同じ状況にある者にすぎず、教会の破壊、私たちの信仰の破壊、私たちの目前に積み重なる廃墟を前にして、皆さんと同じ反応をしている者だからです。皆さんと同じような反応をしたので、司祭を養成することが、教会が必要とする真の司祭を養成することが、自分の義務だと思いました。これらの司祭を、私は、教会に認可承認された聖ピオ十世会において養成しましたが、私は何世紀も何世紀も前からすべての司教たちが行ってきたことを行っただけです。

私は、自分が司祭生活の30年間行ったこと、私が司教となるように評価されたこと、アフリカでの教皇使節、第二バチカン公会議中央準備委員会のメンバー、さらに教皇聖座補佐という地位につくような評価を受けたこと以外には何もしませんでした。ローマが私の仕事が教会と霊魂の善のために有益であると評価していた証拠として、私はこれ以上の何を望むことができたでしょうか?

そして今、私が30年間続けてきたことと全くおなじような事業をしていると、突然、私は聖職停止になり、おそらく近いうちに破門され、教会から離れたとされ、反逆者となり、その他もろもろとなるのでしょうか?。そんなことは可能なのでしょうか?では、私が30年間行ってきたことも、聖職停止の対象になるのでしょうか? 私はその反対だと思います。もし私が当時、今の新しい神学校で行われているように神学生たちを養成していたら、私は破門されていたことでしょう。もし当時、今、やっているように公教要理を教えていたら、異端者と呼ばれていたことでしょう。そして、もし私が今やっているようなミサ聖祭を行っていたら、人は私に異端の疑いがあると言い、私は教会の外にいると言ったことでしょう。ですから、私にはもう理解できません。正確に言うなら、教会の中で何かが変わってしまったのです。これが私が大事だと思うポイントです。

私たちにこの態度をとるようにさせる、その理由が何かに立ち返らなければなりません。ああ!極めて重大な態度であるということは私も知っています。教会の最高の権威に反対すること、聖職停止になるということは、司教にとって、重大なことです、とても辛いことです。

どうしてこのようなことに耐えることができるでしょうか。きわめて重要な理由がない限りできません。はい、そうです。私たちの態度の理由も、みなさんの態度の理由も、きわめて深刻な理由があります。私たちの信仰を守るためだからです。私たちの信仰を守るためです!

では、ローマ当局は、私たちの信仰を危うくしているのでしょうか?私はこれらの当局を裁いているのではありません。私は、彼らを個人的に判断したくありません。こういうことができるならば、かつて検邪聖省が一冊の本を判断して、禁書目録に載せたように、そのようなやり方で私は彼らを判断したいと思います。ローマはその本を研究し、その本を書いた人を知る必要はありませんでした。書かれた言葉の中の内容を研究すれば十分でした。もしもその言葉が教会の教義に反していた場合、この本は排斥され、禁書目録に載せられました。この書いた人を尋問する必要なありませんでした。確かに第二バチカン公会議では、「著者の話を聞いてもいないのに、その本を禁書目録に載せるのは許されない」と反対意見を述べる司教もいました。

しかし、教会の教義に絶対的に反する文章を手にした場合、その本の著者を見る必要はありません。その言葉がカトリックの教義に反しているために非難されるのは本であって、それを書いた人ではないからです。だからこそ、私たちはこのようなやり方で物事を判断しなければならない、事実によって判断しなければならないのです。

私たちの主イエズス・キリストは、少し前に[主日のミサ聖祭で]読んだ福音書の中で、まさに羊の皮をかぶった狼たちについて、「あなたがたはその実で木を見分ける」と正確に言っておられます。正にそうです。果実(実り)は私たちの目前にあり、明らかです。明白です。第二バチカン公会議や公会議後の改革から生まれたこれらの果実(実り)は、苦い果実であり、教会を破壊する果実です。「公会議には触れてはならない、公会議後の改革について語りなさい」と言われるならば、私はこう答えます。改革を行った人たち(これらの改革を行ったのは私ではありません)が、自分で「私たちは公会議の名の下に改革を行う、公会議の名によって私たちは公教要理の改革を行った」と言っている、と。彼らは教会当局です。彼らこそが第二バチカン公会議を合法的に解釈する人々なのです。

では、この公会議で何が起こったのでしょうか?私たちの目の前で起こった教会の変化のまさに道具であった人たちの本を読めば、簡単に知ることができます。例えば、マルソドン(Marsaudon)の書いた『或るフリーメーソン会員が見たエキュメニズム』(L'oecuménisme vu par un franc-maçon)を読んでみてください。1969年に書かれたドゥー県(Doubs)の上院議員プレロ(Prélot)氏の著書『リベラル・カトリック(Le Catholicisme libéral)』を読んでみてください。リベラルなカトリック信者である彼は、その著書の最初のページで、この変化の起源は公会議にあると言うでしょう。

「私たちは一世紀半の間、教会内で自分たちの意見が優勢になるように努力してきましたが、成功しませんでした。最終的に第二バチカン公会議が開かれ、私たちは勝利を収めたのです。今や、リベラルなカトリックのテーゼと原理は、聖なる教会によって決定的かつ公式に受け入れられるようになりました。」これは証言ではないと思うのですか?私がこれを言うのではありません。しかし彼は凱旋しつつこう言い、私たちは涙をながしながら言います。

リベラルなカトリック信者は、一世紀半の間、何を求めていたのでしょうか。教会と革命を結婚させること、教会と倒錯を一致させること、教会と、反社会勢力とを結びつけること、つまり、社会とすべての社会、家族社会、市民社会、宗教社会を破壊する勢力と教会との融合です。教会のこの結婚・融合は、第二バチカン公会議に刻まれています。「現代世界憲章」(Gaudium et Spes)の草案を見るとそこにはこうあります。「教会の原理を現代人の概念と融合させなければならない」と。これはどういうことでしょうか?それは、教会、カトリック教会、私たちの主イエズス・キリストの教会に、この教会とは反対の原理を、教会を損傷し常に教会に反してきた原理を受け入れさせなければならないということです。

まさにこのような結婚・融合を、教会の聖職者たちが公会議で試みたのであって、教会が試みたのではありません。なぜならば、教会はこのようなことを決して認めることができないからです。正確には一世紀半の間、すべての教皇たちはこの自由主義的なカトリックを排斥しました。歴代の教皇たちは、革命思想と教会の教えとの結婚・融合を拒み、人間理性を女神として礼拝する人々の思想との結婚を拒否してきました。

教皇たちはそんなものを受け入れることはできませんでした。この革命の間、司祭はギロチン台に立たされ、修道女は迫害され、また殺害されました。ナントの牢獄船を思い出してください。そこにはすべての教会の教えに忠実だった司祭たちが集められ、海に沈められました。これが革命したことです。ところで、親愛なる兄弟の皆様、私はこう申し上げます。革命が行ったことは、第二バチカン公会議が行ったことに比べれば、何でもありません。まったく何でもありません。スータンを脱ぎ捨てて、天主の前で立てた誓いを捨ててしまった三万人、四万人、五万人の司祭が殉教していたならば、もし彼らがギロチン台に行っていれば、少なくとも彼らは霊魂を救ったことでしょう。しかし今、彼らは霊魂を失う危険があります。

これらのかわいそうな既婚司祭の中には、すでに離婚している人も多く、ローマで婚姻無効の申請をした人も多いと聞いています。これらは何を意味しているのでしょうか?どれほど多くの修道女たちが、アメリカでは二万人いるといわれていますが、結婚に走るために、私たちの主イエズス・キリストとの絆を断ち切って、終生のやり方でなした誓願を捨て、修道会を捨てたことでしょうか。修道女たちは、ギロチン台に登った方が良かったことでしょう。何故なら、少なくとも自分たちの信仰を証言したことになるからです。

結局、フランス革命は殉教者を出したけれど、それは "Sanguis martyrum, semen christianorum"(殉教者の血は、キリスト信者の種子である)という初代教会の格言を実現しておわりました。キリスト者を迫害する人たちは、そのことをよく知っていて、殉教者を作り出すことを恐れているのです。彼らはもう殉教者を作りたくないのです。

従順によって教会を破壊するということこそが、悪魔の勝利の極致でした。従順で教会を破壊する。私たちは教会が日ごとに私たちの目前で壊されているのを目の当たりにしています。空っぽになった神学校、神学生たちでいっぱいだったリールの美しい神学校、これらの神学生たちはどこにいるのでしょうか?まだいる神学生たちは、一体どのような人々でしょうか?彼らは自分が司祭になることを知っているでしょうか?彼らは、自分が司祭になったら何をするか知っているのでしょうか?それはまさに、リベラルなカトリック信者が望む、教会と革命の間の結合が、不倫の結合だからです。この不倫関係からは、私生児しか生まれません。

この私生児たちとは誰でしょうか?それらは私たちの典礼様式です。新ミサの典礼様式は、私生児の典礼様式です。秘跡は私生児の秘跡です。恩寵を与える秘跡なのか、与えない秘跡なのか、もはやわかりません。この新しいミサが私たちに主イエズス・キリストの御体と御血を与えてくれるのか、それとも与えてくれないのか、私たちにはもはやわかりません。神学校を卒業した神父たちは、もはや自分が何であるかを知りません。シンシナティの枢機卿がローマで「なぜ召命が増えないのか、教会はもはや司祭とは何かを知らないからだ」と言いました。

では、司祭とは何かを知らなくなった教会が、どうしてまだ司祭を養成することができるのでしょうか?神学校から出てくる神父は、私生児の神父です。彼らは自分が何であるかを知らないからです。祭壇に上がり、私たちの主イエズス・キリストの犠牲(いけにえ)を捧げ、イエズス・キリストを霊魂に与え、霊魂をイエズス・キリストに呼び寄せるために、司祭となったことを知らないのです。それが司祭というものであり、ここにいる若い人たちはそのことをよく理解しています。彼らの全人生はそのために捧げられます、聖体における私たちの主イエズス・キリストを愛し、礼拝し、仕えるために。なぜなら、彼らは聖体における私たちの主の臨在を信じているからです。

このような教会と革命との不倫の結合は「対話」によって具体化されます。教会が対話するとすれば、それは回心させるためです。主は「行って、すべての国の人々に教えよ、彼らを回心させよ」と言われました。主は決して「彼らと対話せよ、ただし彼らを回心させるためではなく、彼らと同じ立場に立つための対話をせよ」とは言いませんでした。

誤謬(誤り)と真理は両立しません。もし、人が他人に対して愛があるなら、今、福音が私たちに思い出させてくれたように、愛がある人は、他人に仕える人です。もし、人が他人に対して愛があるなら、彼らに私たちの主を与え、自分が持っている富を与えます。彼らとおしゃべりする、彼らと対等な立場で対話することではありません。真理と誤りとは対等ではありません。それは天主と悪魔を同列に置いてしまうことになります。何故なら悪魔は嘘の父であり、誤謬の父なのですから。

ですから、私たちは宣教的でなければなりません。私たちは、福音を伝え、霊魂たちをイエズス・キリストに回心させなければなりません。彼らの原理を学ぼうとして彼らと対話することではありません。プロテスタントと対話しようとする姿勢が、この私生児のミサと私生児の典礼様式をもたらしたのです。プロテスタントは私たちにこう言いました。「あなたたちのミサは私たちのプロテスタントの信仰と相容れないものが含まれているので、私たちはあなたたちのミサを望みません。ですから、このミサを変えれば、私たちはあなたたちと一緒に祈ることができ、交わりを持つことができます。私たちはあなたたちの秘跡を受けることができ、あなたたちは私たちの教会に来ることができるようになるでしょう。私たちはあなたたちの教会に行けるようになるし、そうなればすべてが終わり、私たちは一つになるでしょう。」

確かに私たちには一致があるでしょうが、しかし、混乱の中での一致、私生児の一致です。私たちはそれを望みません。教会は決してそれを望みませんでした。私たちはプロテスタントの人々を愛していますし、改宗させたいと思っています。プロテスタントの宗教とカトリックとが同じ宗教であると信じさせることは、彼らを本当に愛することではありません。

それは、フリー・メーソンも同じです。今、フリー・メーソンと対話しようとしています。対話するだけではなく、カトリック信者がフリー・メーソンの一員となることを認めています。これはさらに忌まわしい対話です。フリー・メーソンを指揮して人々、少なくとも責任者たちは、私たちの主イエズス・キリストに根本的に反対していることを私たちはよく知っています。そして、彼らが行うこれらの黒いミサは、忌まわしい、冒涜的な、恐ろしいミサです。それは私たちの主のミサのパロディです。この黒いミサを行うために、聖別された御聖体を欲しているのです。彼らは聖体の中に主が現存されていることを知っています。なぜなら、悪魔は主が聖体の中にましますことを知っているからです 主の御体がそこにあるかどうかわからないミサから来る御聖体は欲しくないのです。

では、肢体の中の個人において、教会の中の個人において、私たちの主イエズス・キリストの二度目の死を望んでいる人々と対話するのでしょうか?私たちはこの対話を認めることができません。エワと悪魔の最初の対話がどんな価値を持っていたかを私たちは知っています。

エワが悪魔と対話したために、私たちは失われました。エワは、私たち全てを罪の状態に置いてしまいました。私たちは悪魔と対話をしません。私たちがすることは、悪魔の影響下にあるすべての人々に説教し、彼らが改心して、私たちの主イエズス・キリストのもとに来るようにすることです。

我々は共産主義者とも対話しません。人とは対話します。しかし、私たちは誤謬とは対話しません。鉄のカーテンの後ろに集まった軍隊が鉄のカーテンを通過したらどうなるか私たちは知ることになるでしょう。もしもある日、何度も最高ソビエト会議が開かれた後、もしも多数決でこれらの軍隊が我々の国に突入することが決議されたら、5日後には...。

愛する兄弟の皆様、動じてはいけません。私たちのように物事を理解していない人については、彼らをそのまま残して、天主様に光を与えていただくように求めましょう。

しかし、正に、なぜ私たちは、教会と革命の不倫関係を受け入れないことを固く決意しているのでしょうか。私たちは、私たちの主イエズス・キリストの天主性を肯定するからです。なぜペトロはペトロになったのでしょうか?福音を思い出してください。ペトロがペトロになったのは、私たちの主イエズス・キリストが天主であると公言したからです。また、すべての使徒たちも、聖霊降臨後にこの信仰を公に公言し、すぐに告発されました。司祭長たちは彼らに言いました。「これ以上、この名前を口にするな。私たちは、主イエズス・キリストというこの名前を聞きたくない。」そして、使徒たちは "Non possumus"と言います。「私たちは、主イエズス・キリスト、私たちの王について、語らないでいることはできない」と言いました。

しかし皆さんは私にこう言うことでしょう。そんなことはありうるのでしょうか?あなたは、ローマが私たちの主イエズス・キリストが天主であることを信じていないと非難しているようです。はい。自由主義は常に二面性を持っています。自由主義は、自分が主張する真理を正式の命題(テーゼ)として断言します。次に、現実には、実践上は、隠れた命題(仮説)として、自分が言うように、教会の敵のように行動し、また教会の敵の原理で行為します。いつも言うこととやることが支離滅裂なのです。

では、私たちの主イエズス・キリストの天主性(イエズス・キリストが天主であるということ)とは何を意味するのでしょうか。それは、主が「私は天主である」と言うことができる世界で唯一の方、世界で唯一の人間であるということです。また「私は天主である」と言うことができたという事実によって、イエズス・キリストは人類の唯一の救い主であり、人類の唯一の司祭であり、人類の唯一の王であったのです。特権でもなく、肩書きでもなく、御自分の本性によって、天主の子であるからです。

さて、人々は何と言っているでしょうか? イエズス・キリストの救いだけではない。私たちの主イエズス・キリストの外にも救いがある。私たちの主イエズス・キリストにおける、司祭職だけではない。すべての信者は司祭であり、すべての人は司祭である、と。しかし、本当は、ミサの聖なる犠牲(いけにえ)を捧げるためには、私たちの主イエズス・キリストの司祭職に秘跡的に参与しなければなりません。

最後に、3つ目の誤りは、私たち主イエズス・キリストの社会的統治を、これがもはや不可能であるという口実のもとで、望まなくなったことです。これは、在ベルンの教皇大使の口から聞いた話です。バチカンからの特使であるダニス神父(Père Dhanis)-- 元グレゴリアン大学の学長 -- の口から聞いた話でもあります。ダニス神父は、6月29日の司祭叙階式を行わないように聖座の名で求めるために私のもとにやってきました。私が神学生たちに黙想会を指導しているとことに、神父は、6月27日にフラヴィニーにやってきたのです。彼は私に「なぜあなたは公会議に反対するのか?」と尋ねました。

私は彼にこう答えました。「公会議の名において、すべてのカトリックの国家を破壊しなければならない、カトリック国はなくならなければならない、したがって、私たちの主イエズス・キリストが統治する国もなくならなければならないとあなたは言っているのに、公会議を受け入れることは可能でしょうか? それはもう無理です!」

しかし、これがもはや可能ではないということと、これを原理として受け入れ、従って、私たちの主イエズス・キリストの統治をもはや追求しないということとは、別のことです。私たちが毎日、主の祈りの中で「御国の来たらんことを。御旨の天に行わるる如く地にもおこなわれんことを」と祈っているのは、何を祈っているのでしょうか。この御国とは何なのでしょうか?

先ほど、皆さまは「グロリア」を歌いました。Tu solus Dominus, tu solus Altissimus, Jesu Christe - 御身のみが唯一の主、御身こそが唯一のいと高き御者、イエズス・キリストよ」と。私たちはそれをミサでは歌い、教会の外に出るとすぐに「いや、私たちの主イエズス・キリストはもはy私たちを統治すべきではない」というのでしょうか? もしそうなら、私たちは非論理的に生きています。私たちはカトリックなのでしょうかそうではないのでしょうか?私たちは、キリスト者なのでしょうか、それともそうではないのでしょうか?

この地上に平和が訪れるのは、私たちの主イエズス・キリストの統治においてのみです。国々は毎日、もがいています。新聞には、何ページも何ページもその話しがあります。テレビやラジオでも、そうです。今、首相が交代した、景気を回復させるためにはどうすればいいのか、お金を取り戻すためにはどうすればいいのか?産業を活性化させるためにはどうすればいいのか?世界中の新聞はそういうことでいっぱいです。

しかし、経済的な観点から見ても、私たちの主イエズス・キリストが君臨しなければなりません。なぜなら、私たちの主イエズス・キリストの支配とは、まさに愛の原理の支配だからです、愛の原理とは天主の掟(おきて)にほかなりません。この愛の原理が社会にバランスをもたらし、社会において正義と平和を社会に支配させるからです。社会における秩序、正義、平和があってこそ、経済が統治し、経済が再び栄えることができます。それがよくわかります。

アルゼンチン共和国のイメージをとってみましょう。アルゼンチンはわずか2、3ヶ月前どんな状態だったでしょうか。完全な無政府状態で、強盗が右往左往し、産業は完全に破壊され、工場のオーナーは監禁され、人質となり、信じられないような革命状態でした。アルゼンチン共和国のように美しく、バランスが取れていて、素晴らしい国で、特別の富に満ちた信じられないほど豊かになる可能性のある共和国に、少し前に秩序のある政府が登場しました。この政府は原理を持ち、権威を持ち、ビジネスに秩序を与え、強盗らが人々を殺すのを防ぎました。こうして、経済は回復し、労働者は仕事を持ち、人々は家に帰ることができ、家に帰っても、ストライキをしたくないのにさせようとする人に襲われることがなくなりました。

私たちが望んでいるのは、私たちの主イエズス・キリストの統治です。私たちは、主イエズス・キリストが天主である、と信仰を告白します。だからこそ、聖ピオ五世のミサと言われる聖伝のミサも欲します。なぜなら、このミサは私たちの主イエズス・キリストの王権を宣言するものだからです。新しいミサは、もはや位階的ではなく民主主義敵です。会衆のほうが司祭よりも場所を占めているからです。したがって、私たちの主イエズス・キリストの王権を確認する真のミサではなくなっています。私たちの主イエズス・キリストはどのようにして王になったのでしょうか?主は十字架によって御自分の王権を確立されました。"Regnavit a ligno Deus." イエズス・キリストは、十字架の木によって統治されたのです。主は十字架によって、罪に打ち勝ち、悪魔に勝ち、死に勝ったのです。これは、私たちの主イエズス・キリストの3つの素晴らしい勝利です。

これは凱旋主義だと言う人もいるかもしれません。はい、その通りです。私たちは主イエズス・キリストの凱旋を欲します。だからこそ、私たちの祖先はあのような立派な大聖堂を建てたのです。私たちよりもずっと貧しかった先祖たちが、なぜあんなにお金を使ったのでしょうか。いったい何故彼らは、今でも私たちが見惚れてしまうような、しかも信仰の無い人々でも感嘆するような立派な大聖堂を、なぜあれだけの時間をかけて作ったのでしょうか。なぜでしょうか?それは祭壇のためです。私たちの主イエズス・キリストのためです。私たちの主イエズス・キリストの十字架の凱旋を記念するためです。

そうです、私たちはミサの中で、主イエズス・キリストの十字架の勝利と凱旋を告白することを欲しています。だからこそ、私たちは跪きます。御聖体の前に跪くのが好きなのです。もし時間があったら、もしあまりにも長くお引き止め[することになっても遠慮を]したくなかったら、皆さんが主イエズス・キリストに、御聖体に、皆さんが主を礼拝していることを表明するために、御聖体を持って皆さんの席のところまで[聖体行列をして]回ったでしょう。

「主よ、御身は私たちの天主です。ああ、イエズス・キリストよ、私たちは御身を礼拝したてまつる。私たちは知っています。私たちは、御身によって生まれ、御身によってキリスト者となり、御身によって贖われました。死の時に、私たちを裁くのは御身です。私たちがそれに値するものであれば、天国の栄光を与えてくださるのは御身です。」[私たちがこうするのは] 私たちの主イエズス・キリストは、十字架上におられたように、聖体の中に現存されるからです。

以上が、私たちのしなければならないこと、私たちが求めなければならないことです。

私たちは誰にも反対するのではありません。私たちは特殊部隊(コマンドー)ではありません。誰にも傷をつけたくありません。私たちはただ、主イエズス・キリストへの信仰を表明することを許されたいだけなのです。そのために、私たちは教会から追い出されたのです。聖伝のミサを行う司祭たちも可哀そうに追い出されています。それよってすべての聖人や聖女が聖化されたそのミサです。聖ジャンヌ・ダルク、アルスの聖司祭、幼きイエズスの聖テレジア、などのミサです。

今、司祭たちは、何世紀にもわたって聖人たちを聖としてきたこのミサを行うことで、残酷にも、説く全に、小教区から追放されています。それはおかしなことです。ほとんど狂気の沙汰と言っても過言ではありません。私たちは夢を見ているのではないかと思うほどです。このミサが、私たちの司教にとって、つまり私たちの信仰を守るべき人たちにとって、一種の恐怖の対象となることなど、ありえません。ですから私たちは聖ピオ五世のミサを守りましょう!なぜでしょうか?なぜなら、聖ピオ五世のミサは、私たちの信仰を表明し、私たちの信仰の防波堤であり、私たちはこの信仰の防波堤を必要としているからです。

そうすると「ラテン語とスータンを問題にしている」と言われるかもしれません。もちろん[こう非難して]このことについて意見の合わない人を貶めるのは簡単です。もちろん、ラテン語は重要です。私がアフリカにいたとき、異なる言語を持つアフリカの人々の群集を見て素晴らしいと思いました。時には5、6の異なる部族がお互いに理解できないまま、教会のミサに参加し、ラテン語で同じ歌を特別な情熱を持って歌っていました。ところが今では見てください。いろいろな教会では言い争っています。自分の国の言葉ではない言語でミサが行われているので、自分の国の言葉でも一つミサをしてほしい、と主張するからです。

これは完全な混乱です。以前は、この一致は完璧でした。これは一例にすぎません。あなたもよくご存知でしょうが、私たちは書簡と福音をフランス語で読みます。何の不都合もありません。たとえそれにフランス語でいくつかの祈りを付け加えたとしても不都合は見出さないでしょう。

しかし、私たちには、ミサの本体、つまり奉献(オフェルトリウム)から司祭の聖体拝領までのミサの本質的な部分は、単一の言語のままであるべきだと思われます。そうすれば、すべての国のすべての人が一緒にミサに参加し、この信仰の一致、この祈りの一致の中で自分たちが一致していると感じることができるからです。本当に私たちは求めています。私たちは司教たちに、そしてローマに呼び求めています。私たちがもつ、祖先のように祈りたいという願いを、カトリックの信仰を守りたいという願いを、私たちの主イエズス・キリストを礼拝し、その御国を望んでいるという願いを、願わくはローマや司教たちが考慮してくださるように、と。

これは、私が最後の手紙で教皇様に言ったことです。教皇様がこれ以上お手紙を送ってこないと思っていたので、本当に最後の手紙だと思っていたのですが、私は教皇様にこう言いました。

「いとも聖なる教皇様、教会の公けの権利を私たちに返してください。つまり、私たちの主イエズス・キリストの統治を返してください。私たちに本当の聖書を返してください。エキュメニカルな聖書ではなく、過去のヴルガタ訳だった真の聖書を、そして公会議や教皇によって何度も何度も聖化されてきた真の聖書を返してください。私たちに本当のミサを返してください。私たちの信仰を守り、何世紀にもわたって多くのカトリック信者を聖化してきた、位階的なミサ、教義的なミサを返してください。最後に、トレント公会議の公教要理を模範とした公教要理を返してください。何故なら、正確な公教要理なしには、私たちの子供たちは、未来の世代は、将来どうなってしまうことでしょうか?彼らはもはやカトリックの信仰を知らないままとなってしまうでしょうし、もうすでに今日でも、私たちはそれを目の当たりにしているからです。」

残念ながら、私が受けた返事は、聖職停止以外しかありませんでした。だからこそ、私はこれらの罰が、教会法的にも神学的にも有効だとは思いません。

私は、誠実に、平和に、穏やかに、こう考えます。これらの停止、私が受けた罰、私の神学校の閉鎖、叙階式の拒否によって、カトリック教会の破壊に私は貢献することはできません。私は、私の死の瞬間に、主が私に「あなたは司教と司祭の聖寵をどのように使ったのか」と尋ね給うときに、主の口から次の言葉を聞くことは望みません。「おまえは、他の者たちと一緒になって、教会の破壊に協力した」と。

親愛なる兄弟の皆様、最後に私は皆様にこう申し上げます。「皆様は何をしなければならないのでしょうか?」はい、私はよく知っています。多くのグループの方が私にこう求めています。「大司教様、私たちに司祭を与えてください、本物の司祭を与えてください、これこそ私たちが必要としているものです。私たちは司祭の住む場所があります。私たちは小さなチャペルを建てます。司祭たちは私たちのところにいて、真の公教要理に従って、真の信仰に従って、私たちの子供たちを教えてくれるでしょう。日本人が司祭のいない時代に三世紀にわたって行ってきたように、私たちも真の信仰を守りたいのです。司祭を私たちにください!」と。"

親愛なる兄弟の皆さん、私は皆さんのために、司祭養成のために最善を尽くします。私が言えることは、これらの神学生たちに、深い信仰、真の司祭の信仰を感じることは私の大きな慰めである、ということです。彼らは、私たちの主イエズス・キリストがどなたであるかを理解しています。彼らは、ミサの聖なる犠牲(いけにえ)と秘跡が何であるかを理解しています。彼らは心に深く根ざした信仰を持っています。彼らは、私が言うのもなんですが、50年前に私たちが神学校でできたことよりも優れています。しかも、その多くは大学教育を受けています。このような若い人たちは適応力がなく、現代の世代にどのように語り掛ければいいのかわからないだろうと言われています。しかし、彼らは3年、4年、5年間と大学教育を受けてきた若者たちです。同世代の人々のことを彼らが知らないことがあるでしょうか?

彼らはなぜ司祭になるためにエコンに来たのでしょうか?まさに同世代の人々に語り掛けるためです。彼らは、私たちよりも、私たちを批判するすべての人々よりも、同世代をよく知っています。

霊魂の回心のために必要な言い方を彼らは話すことができるようになるでしょう。だからこそ、-- こう申し上げるのは私にとって嬉しいことですが -- 今年もエコン神学校では、困難にもかかわらず25名の新入神学生を迎えることができました。アメリカのアルメイダにある神学校では10名、ドイツ語圏のスイスのドイツ語の神学校では4名の新入生を迎えることができました。

ご覧のように、私たちが直面する困難にもかかわらず、若者たちは、私たちが真のカトリック司祭を養成していることをよく理解しています。だからこそ、私たちは離教ではなく、カトリック教会の継続者なのです。新しいことをする人こそ、離教へと行ってしまうのです。

私たちは聖伝を継承しています。だからこそ私たちは信頼しています。現在の状況に直面しても、私たちは絶望してはなりません。二十世紀の聖伝、二十世紀の教会の聖性、教会の信仰に基づいて、信仰を維持し、秘跡を維持しなければなりません。何も恐れることはありません。

あるジャーナリストから何回かこう尋ねられたことがありました。「大司教様、あなたは孤立していると感じますか?」
「全く感じません。孤立しているとは全く思いません。私は二十世紀の教会とともにあり、天国のすべての聖人たちとともにありますから!」なぜでしょうか?聖人たちは、私たちと同じように祈り、私たちがしようとしているように、同じ手段で自分自身を聖としたからです。ですから、今日のこのミサでも、きっと彼らは喜んでいることでしょう。彼らは、「少なくともここには、祈るカトリック信者がいて、彼らは本当に祈り、心の中に祈りたいという願望を持っていて、私たちの主イエズス・キリストを敬いたいという願望を持っている」と言うでしょう。天の聖人たちは喜んでいます。ですから、私たちは無力ではないのです。私たちは祈り、また祈り、自分を聖化しましょう。

では、皆様にアドバイスをしたいと思います。私たちについて、カトリック信者である私たちについて、

-- 私は聖伝主義カトリック信者という言葉があまり好きではありません。教会が一つの聖伝であることを考えると、聖伝主義者ではないカトリック信者がありえるとは思えませんし、また伝統の中にいないような人々はどうなってしまうのでしょうか?彼らは生きることができないでしょう。私たちは親から命を受け、先人たちから教育を受けました。私たちは伝統を受け継いでいます。天主様がそうお望みなのです。天主様は、人間的なものについても天主的なものについても、その両方について、聖伝が世代から世代へと受け継がれることを望んでおられます。

ですから、伝統的でないこと、聖伝主義者でないことは、自滅であり、自殺行為なのです。ですからこそ、私たちはカトリック信者なのです。私たちはカトリック信者として留まり続けます。ですから私たちの間で分裂があってはなりません。何故なら私たちはカトリック信者だからです。私たちは教会の一致においてあるからです。教会の一致とは信仰においてあります。

すると私たちはこう言われます。「あなたは教皇と一緒にいなければならない、教皇は教会の信仰のしるしだ」と。はい、教皇がペトロの後継者としての地位を表明する限りにおいて、さらに、永遠の信仰をくり返して発言する限りにおいて、また、教皇が伝えなければならない信仰の遺産を伝える限りにおいて、その通りです。何故なら、教皇とは何でしょうか?もう一度申し上げます。教皇とは、聖伝の遺産、信仰の遺産の宝を与え、秘跡とミサの犠牲(いけにえ)による超自然的な生活を私たちに与えてくれる方以外のなにものでもないからです。司教も、真理を伝える者であり、自分のものではない生命を伝える者、それ以外のなにものでもありません。司祭もそうです。それ以外のなにものでもありません。先ほど私が述べた手紙にもありましたが、真理は私たちに属するものではありません。それは私のものでないように、教皇のものでもありません。私が真理のしもべでなければならないように、教皇は真理のしもべなのです。

もし、教皇が真理の奉仕者でなくなったとしたら、教皇はもはや教皇ではなくなってしまうでしょう。私は、教皇がもはや教皇ではないと言っているわけではありません。良く注意してください。私の言わなかったことを私が言ったかのように考えないでください。しかし、もしもこれが本当になってしまったなら【教皇が真理の奉仕者でなくなったとしたら】、私たちは私たちを誤りに導く人に従うことはできなくなってしまうでしょう。

私たちは「あなたは教皇を裁いている」と言われます。しかし、真理の基準はどこにあるのでしょうか。モンシニョール・ベネリは、私に向かって「真理を作るのはあなたではない」という言葉を投げつけました。もちろん、真理を作るのは私ではありません。教皇でもありません。真理、それは私たちの主イエズス・キリストです。

したがって、真理がどこにあるかを知るためには、私たちの主イエズス・キリストが教えてくださったこと、教会の教父たちや全教会が教えたことを参照しなければなりません。教皇を裁くのは私ではありません。聖伝です。公教要理をならった五歳の子供は、司教にきちんと答えることができます。もしこの子供の司教がこの子に「私たちの主イエズス・キリストは聖体の中に存在しないんだよ。私は真理の証人だよ。主が聖体の中に存在していないことを私ははっきり言う」と言ったとしたら、この子は、五歳であるにもかかわらず公教要理を持っています。この子は「でも、私の公教要理には反対のことが書いてある」と答えるでしょう。どっちが正しいのでしょうか?司教でしょうか?公教要理でしょうか?もちろん公教要理です。公教要理は明らかに永遠の信仰を表明しています。単純なはなしです。考え方は子供っぽいものです。しかし、私たちの今の状況は、ここまで来てしまっています。もしも誰かが私たちに、今ではプロテスタントと相互の聖体拝領ができる、相互聖餐式ができる、私たちとプロテスタントとの間にはもはや何の違いもない、と言っても、それは真理ではありません。巨大な違いがあります。ですからこそ、カンタベリー大司教に祝福させた、ということを考えると、私たちは本当に驚いてしまいます。カンタベリー大司教は司祭ではありません。何故ならアングリカンの叙階は有効ではないからです。教皇レオ十三世が公式かつ決定的にそう宣言したからです。また彼は、全てのアングリカンがそうであるように異端者です。(申し訳ありません、もうこの名前は好まれてはいないのですが、これが現実なのです。この言い方をするのは侮辱するためではありません。私は彼の回心だけを求めています) -- 彼が異端者であるにもかかわらず、教皇様と一緒に、聖パウロ教会にいた枢機卿たちや司教たちを祝福してくれるように彼に頼んだということを考えると、本当に唖然とします!これは絶対に考えられないことです!

最後になりましたが、このように大勢の方にお越しいただきましたことに感謝します。このミサの儀式を、深く敬虔なカトリックの儀式を行い続けることを感謝します。

私たちは共に祈りましょう。天主様に、困難を解決する手段を私たちに与えてくださるよう求めましょう。もし、各々の司教が自分の司教区に、私たちのために、忠実なカトリック信者のために、教会を使わせてくれて「ほら、これはあなたたちの教会だよ」と言ってくれれば、とても簡単なことでしょう。

リールの司教がイスラム教徒に一つの教会を与えたことを考えると、聖伝を重んじるカトリック信者のための教会があってもいいのではないかと思います。そうすれば最後には、問題は解消されるでしょう。もし私が面会をするのを受け入れてくださるのであれば、私は教皇様にこのようにお願いしたいと思っています。「教皇様、私たちに聖伝の実験を自由にやらせてください。現在、様々な典礼の実験が行われていますが、すべての実験の中には、少なくとも二十世紀にわたって行われてきたことの実験があってもいいはずです。」

聖父と聖子と聖霊の名によりて、アメン。

マルセル・ルフェーブル大司教


29 août 1976, Sermon historique de Mgr Lefebvre à Lille

« Très Saint Père, rendez-nous la vraie messe ! »




古いミサは、イエズス・キリストを王、唯一の救い主、唯一の天主とし、本当の宗教であると表している。しかし新しいミサはエキュメニカル。

2021年08月06日 | お説教・霊的講話
2021年7月24日(土)聖母の土曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(修道院)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、昨日パリャラーニ総長様は、つい最近フランシスコ教皇様のトラディチオニス・クストデスについての手紙が発表されました。つまり教皇様の「聖伝のミサを制限する、自由をもう与えない」という事について何を考えるべきか、という事について総長はコメントを出されました。

その要旨はこれです。

ルフェーブル大司教様は正しかった。第二バチカン公会議の直後から、新しいミサが出たその時から、その新しいミサは、第二バチカン公会議の新しい革命の考え方を含めている。今までのカトリック教会の教えとは対立している、矛盾している。

古いミサは、イエズス・キリストを王として認めて、イエズス・キリストを救い主として認めて、唯一の天主として、本当の宗教だ、という事を表している。

しかし新しいミサはそうではない、それを否定している、『他の宗教でも良い、エキュメニズムだ。私たちはどんな考えでも受け入れて良い、自由で、民主主義で、そして十字架ではなくてお食事会だ。』
だから私たちは、新しいミサを受け入れる事ができない。何故かというと、カトリックの教えに矛盾しているから。

信仰を守る為にはどうしても、聖伝のミサが、昔のままのミサが必要だ。司祭の養成の為には、どうしてもこのミサが必要だ。信仰を守る為にはどうしても、この古いミサが必要だ。防波堤にならなければならない。だからこれを私たちは、どんな事があっても、命をかけて守る。

以上が、総長の言おうとしている内容です。

フランシスコ教皇様がこの前自発教令で仰るまでは、「古いミサも新しいミサも、同じじゃないか。共存できるのではないか。新しいミサは今までミサがやっていた事を続けているだけだ、ラテン語の違いだけじゃないか、言葉の違いだけじゃないか」と、誤魔化そうとしてきました。

しかしフランシスコ教皇様は、実は、そうではなかったという事を私たちに教えました。

「実は、第二バチカン公会議後、この聖伝のミサでは対立しているので、もうこれは受け入れる事ができない。新しいミサだけをして、第二バチカン公会議を飲み込まなければならない。新しい宗教にならなければならない。メンタリティーを変えなければならない。考え方を変えなければならない」という事を遂に仰いました。特に司教様への手紙は非常に厳しいものです。

ですから、私たちはこれまでのように、「カトリックの信仰を守らなければならない。イエズスキリストだけが唯一の救い主である。カトリック教会だけが本当の教えである。そのイエズス・キリストの他には、外には救いがない」と言い続けなければなりません。

そしてその為にも、この聖伝のミサが必要です。

ですから今日は、マリア様に特別にお祈り致しましょう。私たちが決して十字架の元から離れないように、マリア様が聖ヨハネを呼んで十字架の元に佇(たたず)んだように、決してこの聖伝のミサを捨てて他の方に逃げていかないように、その力を、私たちだけではできない事でも、マリア様の御取次ぎによってできますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。






いのちの行進2021年東京:中絶の精神的影響:重大な罪であり、復讐を求めて天主に叫ぶ罪の一つ

2021年08月05日 | プロライフ
いのちの行進の前の講話

ドモルネ神父

前書き

今日は東京でのマーチフォーライフ「いのちの行進」に参加するので、中絶の問題についてお話します。私は医者ではないので、医学的な観点からは話しません。ここにいる皆さんはすでに中絶の悪を完全に確信しているので、中絶が悪いことを証明しようとはしません。司祭として、私は中絶を罪として、そして中絶の精神的な結果について話します。



1中絶は罪である

中絶とは、母親の胎内で人間の胎児が破壊されることです。中絶は罪です。なぜでしょうか?天主の法を自発的かつ故意に破ることを「罪」と呼んでいますが、中絶はまさにそれだからです。

私たちが天主の法と言うとき、それは十戒を意味するだけではありません。それはまた、天主が世界に立てた自然の秩序も含むことを意味します。男性と女性の夫婦の結合が人間の胚の生殖につながるのは天主によって設定された自然な秩序です。そうすれば、この人間の胚が母親の子宮の中で約9か月の間に成長し、生まれるのは自然な秩序です。生まれたばかりの赤ちゃんが両親によって育てられ、保護され、教育されるのは自然な秩序です。

胚または胎児がすでに人間であると考えるならば、中絶は天主の十戒の第五戒を破ります:汝、殺すなかれ。胚や胎児は明らかに罪のない人間です。したがって、胎児を殺すことは無実の人を殺すことです。したがって、中絶は明らかに不当な殺人です。

たとえ私たちがまだ胚や胎児を人間と見なしていないとしても、中絶は人類の繁殖のために天主によって設定された自然の秩序の自発的な中断です。したがって、中絶は、罪深い障害です。生殖の自然な順序と矛盾する避妊についても同じです。さらに教育の自然な秩序と矛盾する自分の赤ちゃんの放棄をも意味します。

2中絶が直接にもたらす精神的影響

中絶をすることは、中絶する母親に劇的な心理的影響を及ぼします。そのような行動は女性の性質に非常に反しているので、中絶した女性は残りの人生で深刻な影響を受けます。これらのかわいそうな母親たちは、何年も経った後でも、自分の赤ちゃんを殺したことを後悔していることがよくあります。中絶のこの側面を発展させることは興味深いでしょうが、私は今日それをしません。

中絶をすることはまた劇的な社会的影響を及ぼします。それは国のゆっくりとした自殺に相当します。中絶は社会に死の文化をもたらし、国をその自動的に破壊に導きます。それは中絶のもう一つの興味深い側面ですが、今日はそれについては今は話しません。

中絶をすることはまた劇的な精神的な効果をもたらします。それらについてお話します。

中絶を犯すことは重大な罪です。なぜでしょうか?その行動の対象が重大だからです。それは人間の生命、肉体的および永遠の人間の生命に関するものだからです。中絶された可哀そうな子供は、殺されたために不当に肉体的生活を奪われます。そして、天主を知り、天主を愛し、天主に仕え、天主の永遠の命を分かち合う機会が与えられないため、不当に永遠の命を奪われます。中絶は大罪です。中絶の罪を犯した人は、天主の前で重大な犯罪の罪を犯し、死ぬ前に誠実に悔い改めない限り、死後地獄で永遠に罰せられます。

カトリック教会は、この中絶の罪は非常に深刻で凶悪であると考えているので、教会は中絶に積極的に参加するすべての人々を自動的に破門します。自動破門とは、中絶という行為が行われるや否や、教会から、そして教会のすべての霊的善への参与から追放されることを意味します。中絶に積極的に参加するすべての人々、つまり、赤ちゃんの母親、中絶を行う医師、彼を支援する看護師、中絶を行うために何らかの方法でアドバイス、支援、圧力をかけるすべての人々皆がそうです。たとえば、両親、夫、ボーイフレンド、雇用主…)。

3中絶によって起こる遠隔的な影響

中絶は大罪だけではありません。それはまた、復讐を求めて天主に叫ぶ罪の一つでもあります。どういう意味ですか?私たちは「天主に復讐を叫ぶ罪」と呼びます。その罪のいくつかは非常に大きく、非常に明白であるため、最も厳しい天罰で彼らを罰するように天主を挑発します(聖ピオ十世の公教要理)。

聖書に聖霊が示しているように、「天主に復讐を叫ぶ罪」は四つあります。

最初のものは故意の殺人です。創世記の中で、カインが弟のアベルを殺した後、天主はカインにこう言われました。「汝の弟の血の声が、地から私に叫ぶ」(創世記4;10)。そして、カインは残りの人生を地上で逃亡者になり、天主によって呪われました。

2つ目は同性愛です。創世記の中で、天主はアブラハムに次のように語られました。「ソドムとゴモラについての叫びはいや増し、彼らの罪ははなはだ重くなった」(創世記18;20)。そして、ソドムとゴモラの都市は、天の火によってすべての住民と共に全焼しました。

3つ目は貧しい人々の抑圧です。ヘブライ人はエジプトでファラオによって奴隷にされ虐待されました。天主はモーセにこう言われました。「イスラエルの子らは苦役のためにうめき叫び、その声は仕事場から天主の御許に至った」(出2;23)。そして天主は十の災いでエジプトを襲いました。

4つ目は、労働者の正当な賃金を詐取することです。聖ヤコブはその書簡の中で次のように述べています。「畑を刈りいれた働き人に、あなたたちが払わなかった賃金は叫び、かりいれ人の叫びは、万軍の主のおん耳にとどいた」(ヤコボ5:4)。聖書では、アビガイルの夫であるナバルがダビドとその部下に彼らの正当な賃金を否定したという話を読みました。彼は心臓発作に襲われました(サムエル上25章)。

中絶は故意の殺人です。復讐のために天主に叫ぶのは罪です。それを犯す人々と社会に天主の最も厳しい天罰を引き付ける罪です。天罰は中絶に参与する人々にくだります。しかし、国が中絶を合法化するとき、天主の天罰は国全体とその住民に下ります。聖書の中で、天主はヘブライ人に、男性、女性、子供などのすべてのカナン人を殺し、彼らの土地を占領するように命じられました。なぜカナン人にそのようなひどい罰を与えるのですか?天主は、彼らの偶像モロクへの偶像崇拝をはっきりと非難しました。このカルトは、生きている赤ちゃんと生きている子供たちを偶像に提供し、子供を火にくべて燃やすことで構成されていました。堕胎は、天主がカナン人を完全に破壊せよと非難した凶悪な犯罪だったのです。

中絶を合法化した国々は、天主の最悪の天罰を引き付ける。

中絶と同性愛の発達における悪魔の戦略

さて、特定の点に注目したいと思います。私たちは、復讐を求めて天主に叫ぶ罪は、人々に対する天主の最も厳しい天罰を引き付けると言いました。したがって、ルチフェルがそのような罪を増やすためにできることは何でもすることは非常に有益です。人類の歴史は、キリストとルチフェルの間の戦いによって支配されています。人類は戦場です。ルチフェルは天主への憎しみから、人間が天主の似姿を持っているので、人間の破壊を望んでいます。ルチフェルはキリストへの憎しみから、キリストが彼らの救いのために十字架で死んだので、人間の破壊と永遠の天罰を望んでいます。

聖書の中でバラアムの物語を思い出してください。ヘブライ人は約束の地を征服しようとしていました。異教の王バラクは彼らを滅ぼす手段を探していました。彼はヘブライ人を呪うために魔法使いバラアムを呼びました。天主が彼にそうすることを許さなかったので、バラアムはそれをすることができませんでした。しかし、バラアムはバラク王に、ヘブライ人の滅亡につながる最も有害な助言を与えました。バラアムは王に、最も美しい女性をヘブライ人たちに送りこみ、彼らを誘惑させ、猥褻の偶像であるベールフェゴルのカルトに取り込ませるという使命を与えるように言いました。そのような罪を犯したヘブライ人は、天主の罰を自分たちに引き付けることになるからです(民数記31;16)。そしてそれが起こりました。

ルチフェルはバラアムより賢くないでしょうか?ルチフェルは、復讐を求めて天主に叫ぶ罪を犯すように人を押すことによって、最も厳しい天罰で彼らを懲らしめるように天主を挑発します。

2つの点にご注目いただきたいと思います。
第一に、日本における中絶の公式数値を確認すると、第二バチカン公会議の直前の数年間に最も多くの中絶が記録されていることがわかります。毎年100万件以上の中絶が公式に行われています。問題は、世界でここ数年に行われた中絶の数の多さと第二バチカン公会議の災害との密接な関係でしょうか?言い換えれば、世界で中絶の数が非常に多かったので、悲惨な第二バチカン公会議とその結果の形で天主の罰が人類に降りかかるのでしょうか?

私が言及したい2番目のポイントはこれです。世界の妊娠中絶の数は減少する傾向があります。たとえば、日本の公式の中絶の数字にそれが見られます。この減少は、復讐を求めて天主に叫ぶ罪がますます少なくなっていることを意味します。これはルチフェルにとって確かに良いことではありません。しかしまた、私たちは同性愛を支持する信じられないほど強力な宣伝を世界で見ています。ますます多くの国がそのような倒錯を合法化しています。学校の子供たちでさえ、意図的にそのような倒錯にさらされています。このような同性愛の発達により、ルチフェルは中絶の数の減少を同性愛の罪の数の増加で補い、天主の天罰が人類に降りかかることを望んでいると思われるかもしれません。

結論:
この話を締めくくるために、私たちは自分自身に問いてみます。私たちは中絶に対して何ができるでしょうか?中絶自体に関しては、中絶を許可する法律の違法性を非難しなければなりません。私たちは、自由に使えるあらゆる手段で中絶賛成の宣伝に対抗しなければなりません。たとえば、いのちの行進に参加し、中絶に反対する記事を書くことで、公にそれを打ち消すことができます。また、機会があれば女性を中絶から遠ざけることで、中絶賛成のプロパガンダに個別に対抗することもできます。

中絶の精神的影響、特に中絶が私たちの国に引き付ける天罰に関しては、私たちはそれらを無力化するために最善を尽くさなければなりません。どうしたらよいでしょうか?聖パウロはコロサイの信徒への手紙にこう言います。「天主は、私たちを闇の権力から救い出し、愛する子の国に移された。私たちは子において、おん血によってあがないと罪のゆるしをうける。」(コロサイ1;13.14)。中絶の精神的な結果に対する救済策は、イエズスのいとも貴き御血を捧げることです。ですから、いのちの行進の間に、私たちの祈りの中で、世界、特に日本で行われたすべての中絶の償いとして、イエズスの貴き御血を聖三位一体に何度も捧げることを忘れないでいたしましょう。

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Conference before the March for Life 2021 Tokyo

Introduction

Since today we are going to participate to the March for Life in Tokyo, I will talk on the issue of abortion. I am not a doctor, so I will not speak about it on the medical point of view. All of you here present are already fully convinced of the evil of abortion, so I will not try to prove to you that abortion is bad. As a priest, I will speak about abortion as a sin and about the spiritual consequences of abortion.

1. Abortion is a sin

Abortion is the destruction of a human foetus in the womb of his mother. Abortion is a sin. Why? We call it a “sin” to break voluntarily and knowingly the law of God.
When we say the law of God, it does not only mean the 10 Commandments. It also includes the natural order which God has set up in the world. It is the natural order set up by God that the conjugal union of a man and a woman lead to the procreation of a human embryo. Then it is the natural order that this human embryo grow during about 9 months in the womb of his mother and be born. It is the natural order that the newly born baby be nurtured, protected and educated by his parents.
If we consider that the embryo or foetus is already a human being, then abortion breaks the 5th Commandment of God: Thou shalt not kill. An embryo or foetus is obviously an innocent person; to kill him is therefore to kill an innocent; so abortion is obviously an unjust murder.
But even if we don’t consider the embryo or foetus as a human being yet, abortion is the voluntary interruption of the natural order set up by God for the propagation of mankind. Therefore, abortion is a sinful disorder. Same for contraception which contradicts the natural order of procreation; and the abandonment of one’s baby which contradicts the natural order of education.

2. Immediate spiritual effects of abortion

Committing an abortion has dramatic psychological effects on the mother who aborts. Such action is so contrary to woman’s nature that the women who abort get seriously affected for the remaining of their lives. Even after many years, often these poor mothers still feel acutely the remorse of killing their own babies. It would be interesting to develop this aspect of abortion, but I will not do it today.
Committing an abortion has also dramatic social effects. It is equivalent to a slow suicide of a nation. Abortion brings along in the society a death culture leading to the nation to its auto-destruction. It is another interesting aspect of abortion, but today I will not speak about it.
Committing an abortion has also dramatic spiritual effects. I will speak about them.
Committing an abortion is a serious sin. Why? Because the object of such action is serious: it is about human life, the physical and the eternal human life. The poor child who is aborted is deprived unfairly of his physical life because he is killed. And he is unfairly deprived of his eternal life because he is given no chance to know God, to love and serve Him and to share His eternal life. Abortion is a mortal sin. The person guilty of an abortion becomes guilty of a serious crime before God and will be punished forever in hell after death, unless he repents sincerely before death.
The Catholic Church considers this sin of abortion to be so serious and so heinous, that She strikes by an automatic excommunication all the people who participate actively in an abortion. An automatic excommunication means to be expelled from the Church and from the participation in all her spiritual goods, immediately, as soon as the abortion is done. All the people who participate actively in an abortion mean: the mother of the baby, the doctor doing the abortion, the nurses assisting him, all the people who advice, help, pressure in any manner for the abortion to be done: for example the parents, the husband, the boyfriend, the employer…

3. Remote spiritual effects of abortion

Abortion is not only a mortal sin. It is also one of the sins which cry to God for vengeance. What does it mean? We call “sins which cry to God for vengeance” some sins of which iniquity is so great and so manifest that they provoke God to punish them with the most severe chastisements (Catechism of St Pius X).
These sins are 4, according to what Holy Ghost has indicated in the Bible.

a) The first one is wilful murder. In the book of Genesis, after Cain had killed his brother Abel, God told Cain: “What hast thou done? The voice of thy brother’s blood crieth to me from the earth” (Gen 4;10). And Cain was cursed by God in such a way he became a fugitive upon the earth for the remainder of his life.

b) The second one is sodomy. In the Book of Genesis, God told Abraham: “The cry of Sodom and Gomorrha is multiplied, and their sin is become exceedingly grievous” (Gen 18;20). And the cities of Sodom and Gomorrha were burnt down with all their inhabitants by a heavenly fire.

c) The third one is the oppression of the poor. The Hebrews were enslaved and mistreated in Egypt by Pharaoh. God told Moses: “The children of Israel groaning, cried out because of the works, and their cry went up unto God from the works” (Ex 2; 23). And God struck Egypt with the 10 plagues.

d) The fourth one is defrauding workers of their just wages. St James said in his epistle: “Behold the hire of the labourers, who have reaped down your fields, which by fraud has been kept back by you, crieth: and the cry of them hath entered into the ears of the Lord of Sabaoth” (Jac 5;4). In the Bible, we read the story of Nabal, the husband of Abigail, who denied to David and his men their just wages. He was struck by a heart attack (1 Sam 25).
Abortion is a wilful murder. It is a sin which cries to God for vengeance. It is a sin which attracts the most severe chastisement of God upon the people and the societies who commit it. The chastisement is upon the people who participate in the abortion. But when a country legalizes abortion, then God’s chastisement is upon the whole country and its inhabitants. In the Bible, God commanded to the Hebrews to kill all the Canaanites: men, women, children, and to occupy their land. Why such terrible punishment upon the Canaanites? God condemned explicitly their cult to the idol Moloch. This cult consisted in offering and burning babies and children alive. Heinous crimes for which God condemned the Canaanites to a total destruction.
The nations which legalize abortion attract upon themselves the worst chastisements of God.

4. Strategy of the devil in developing abortion and homosexuality

Now, I would like to attract your attention on a particular point. We said that the sins which cry to God for vengeance attract the most severe chastisement of God upon people. It is therefore highly profitable for Lucifer to do whatever he can to increase such sins. The history of mankind is dominated by the fight between Christ and Lucifer. Mankind is the battlefield. Out of hatred for God, Lucifer wants the destruction of humans because they bear the image of God. Out of hatred for Christ, Lucifer wants the destruction and the eternal damnation of humans because Christ died on the Cross for their salvation.

Remember the story of Balaam in the Bible. The Hebrews were about to conquer the promised land. The pagan king Balac was looking for a means to destroy them. He called the wizard Balaam to curse the Hebrews. Balaam could not do it because God did not allow him to do so. However, Balaam gave to king Balac a most pernicious advice leading to the destruction of the Hebrews. Balaam told the king to send the most beautiful women to the Hebrews with the mission to seduce them and to make them participate in the cult of Beelphegor, idol of obscenity. The Hebrews committing such sins would then attract upon themselves the punishments of God (Nbre 31;16). And it is what happened.

Would Lucifer be less clever than Balaam? By pushing men to commit the sins which cry to God for vengeance, Lucifer provokes God to chastise them with the most severe chastisement.
I would like to bring your attention to 2 points. The first point is that if you check the official figures of abortion in Japan, you will notice that the highest numbers of abortions were recorded during the years right before Vatican II Council. More than 1 million abortions were officially committed every year. The question is: would it be a close connection between the high number of abortions committed in these years in the world and the disaster of Vatican II Council? In others words: was the number of abortions so high in the world, that the punishment of God would fall upon mankind under the form of the disastrous Vatican II Council and its consequences?
The second point I would like to mention is this one. The number of abortions in the world tends to decrease. For example, we see it in the official figures of abortion in Japan. This decrease means that there are lesser and lesser sins which cry to God for vengeance. This is certainly not a good thing for Lucifer. But also, we see an incredibly powerful propaganda in the world in favour of homosexuality. More and more countries legalize such perversion. Even children in schools are exposed intentionally to such perversion. Such development of homosexuality may let us think that Lucifer wants to compensate the decreasing number of abortions with an increasing number of sins of sodomy, so that God’s chastisement would continue to fall upon mankind.

Conclusion:

To conclude this talk, let us ask ourselves the question: what can we do against abortion? As to abortion itself, we must denounce the iniquity of the law permitting abortion. We must counteract the pro-abortion propaganda with all the means at our disposal. We can counteract it publicly for example by participating to the March for Life, writing articles against abortion; we can also counteract the pro-abortion propaganda individually by turning women away from abortion if the occasion arises.
As to the spiritual effects of abortion, especially the chastisements which abortions attract upon our countries, we must do our best to neutralize them. How? St Paul wrote to the Colossians that God the Father “has delivered us from the power of darkness and hath translated us into the kingdom of the Son of His love, in Whom we have redemption through His Blood, the remission of sins” (Col 1;13.14). The remedy against the spiritual consequences of abortion is the offering of the Most Precious Blood of Jesus. So, during the March for Life, let us not forget, in our prayers, to offer again and again the Precious Blood of Jesus to the Holy Trinity in reparation for all the abortions committed in the world and in Japan especially.


聖アントニオ「この世には傲慢の悪魔で満ちているけれども、私たちが救われる為には、一つのやり方しかない。それは、私たちが謙遜に祈る事だ。」

2021年08月04日 | お説教・霊的講話

2021年8月1日(主日)聖霊降臨後第10主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

お知らせがあります。来たる8月15日に、私たちの兄弟が遂に洗礼の御恵みを受ける予定です。そしてそれと一緒に、私たちの3人の小さなお友達も洗礼を受けます。その嬉しい日です。8月15日、主日、マリア様の被昇天の大祝日です。どうぞこの4人の霊魂が良い準備を受ける事ができますように、お祈り下さい。

そのミサが終わった後には、大阪の街を、そして大阪の街を通して全日本を、そして全世界を、マリア様が祝福して下さいますように、聖母行列も行ないたいと思っています。皆さんいらして下さい。マリア様がとてもお喜びになる1日になると思っています。

今日は、イエズス様が福音で二人の、「ファリサイ人、それから税吏が、お祈りに神殿に上がって来た」という話をされました。とても深い例え話です。

私たちは天主様から、愛である天主から全てを受けました。全く無であった者にもかかわらず創造されて、そして天主の子供となるようにされました。天国の遺産を相続するようになりました。

それにも関わらずわらず、私たちは罪を犯して、その愛の計画を全く壊してしまいました。そのような私たちに対してさえも、主は愛の限りを尽くして、私たちに更にチャンスを与えようと、御血を全て流されて、御聖体を制定されて、御自分の全てを与えて、命を与えて、私たちを天国へと招いて下さっています。

そして私たちにはこうも仰るのです。「空の鳥を見よ。蒔きもせずに耕しもしないけれども、養って下さっている。しかし私たちは、その鳥よりももっと大切だ。」
鳥は罪を犯さなかったのですけれども、私たちは罪を犯したのです。しかしその鳥よりももっと大切に考えて下さっている。
「野に咲く百合も、綺麗に着飾らして下さるけれども、私たちの霊魂はもっと大切だ。」

そして私たちは全く功徳がなかったにも関わらず、全くその価値が無かったにも関わらず、ただひたすら主が良い方であって、憐れみの愛深い方であるので、御恵みに次ぐ御恵みを、憐れみに次ぐ憐れみを、あれでもか、これでもか、と受けてきました。

私たちが何か、イエズス様を「主である」と言う事ができるのも、私たちが信仰を持っているのも、私たちが何か善をする事ができるのも、全くイエズス様の御恵みのおかげです。愛によってインスピレーションを受けて、それによって支えられているおかげで、かろうじて何とか言う事ができます。とても自慢できたものではないのですけれども、それでもイエズス様が憐れんで下さっているので、それを受けて下さっています。本当に私たちがやっている事は、子供が、小さな子供が、「うば、うば」とお母さんに言うような感じで、お母さんがそれを見て他愛もないけれども、しかし喜んで下さるような感じです。

ところが、今日のファリザイ人は、神殿にやって来て、まず周りを見回して、「この中で、世界中で、偉いのは俺しかいない」と思いました。「いやぁ、俺はどんなに素晴らしいか。この周りの奴は皆罪人だ。あぁ、このような奴でなくてよかった。何故かというと、自分は自分で義人となっている。自分は自分で聖化しているからだ。何故かというと、自分は断食もしているし、献金もしているし、こんなに掟を守っているやつはいない。どうだ。」
そしてそれが、主の前で言った言葉でした。

もちろんこの問題は、この彼のやった態度は、全く主の目から見ると真理ではありませんでした。自分ではなくて主から、主に御恵みを頂いて初めて罪が赦されて、主の御恵みを頂いて初めて私たちも何か良い事ができるからです。

しかしファリザイ人はそれを全く認めようとしませんでした。「俺は自分でやっている。そして自分だけが偉い。他はダメだ。」ですから、彼は全て嘘に満ちていました。傲慢で傲り高ぶっていました。ですからこのような祈りは、祈りでもありませんでした。

イエズス様はこの例えを出しながら私たちに、「気をつけなさい」と今日警告しています。「私たちもこのような罠に陥らないように。」
何故かというと、非常に自然な、私たちに陥りがちな罠であるからです。

ある時、隠遁士聖アントニオに悪魔が、ある修道士の姿をして現れたそうです。「アントニオ、お前は断食をしている、しかし時々食べるではないか。俺は何も食べない、いつも断食している。アントニオ、お前は夜を通して苦業をしていて、徹夜している、でも少しは眠るではないか。俺は全く眠らない、どうだ。しかし、私ができない事をお前はやっている、それはお前の謙遜だ。お前は跪いて祈っている。俺には膝がない。」

それでアントニオは後でこう言ったそうです。「この世には傲慢の悪魔で満ちているけれども、私たちが救われる為には、一つのやり方しかない。それは、私たちが謙遜に祈る事だ。」

実際に、十字架に付けられた盗賊も、謙遜に祈ったが故に赦されました。今日の税吏も、謙遜に祈ったが故に、義とされて家に帰りました。

イエズス様も十字架に付けられて、そして私たちにその謙遜を、「どれほど謙遜であるべきか」という事を教えておられます。私たちの中にもしも傲慢の芽が生えてきたら、イエズス様の十字架を見る事に致しましょう。イエズス様が、私たちの王の王、天主が、ここまで御謙遜になられたのならば、私たちが一体主の御助けによってできない事があるでしょうか。

昨日聖イグナチオの祝日だったので、こんな話があった、というエピソードを引用して、この話を終わります。

ある時、聖イグナチオが聖地からスペインに帰る時に、ロンバルディアという所を通らなければなりませんでした。ロンバルディアは当時ちょうど戦争があって、非常に荒廃していて、非常に危険だったそうです。そして聖イグナチオがそこを通って行った時に、スペイン軍の人たちがイグナチオをスパイだと思って捉えて丸裸にしました。指揮官の前に連れていかれ、残酷に取り扱われようとしていました。

聖イグナチオにはそれを避ける手段がありました。自分が誰かを示し、どんなに偉いかを示すこともできましたし、最悪でも、礼儀を尽くして対応すれば指揮官はイグナチオの説明を聞いて理解を示しただろうからです。それなら少なくとも拷問や屈辱は避ける事ができたでしょう。

しかし、その時に聖イグナチオが思っていたのは、これは傲慢で自己愛ではないか、ということでした。それよりも聖人は「イエズス様の十字架」の事を考えました。「主は、これほどまでも高貴な方であったにもかかわらず、それを何も見せようとせずに、そして悪人たちからどんな乱暴を受けることも潔しとした、辱められた、唾をかけられた、殴られた。もしも主がこうなさったのなら、これはいいチャンスではないか。私も主に倣いたい。」と思ったのです。

そこで聖イグナチオは自分が馬鹿にされたり辱められたりする機会を逃さないように努めました。教養があるような態度を一切取らずに、粗野な態度を取りました。指揮官の前でお辞儀もせずに、脱帽もしませんでした。すると軍人らは、聖イグナチオを見て、頭がおかしいんじゃないか、どっかに行ってしまえと、何もなさずに、そのまま通過させたとの事です。

これも主の御計らいだったと思います。主は、下げられる者を高められる、というのは、奇跡を起こしてまでもそれをされる、という事なのでしょう。

では最後に、マリア様にお祈り致しましょう。私たちもいつも主からの憐れみを認めて、そのまま単純に、主に全てを帰す事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2021年8月4日は、8月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2021年08月04日 | カトリックとは

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2021年8月4日は、8月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。今年は、聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日に「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


聖ドミニコ帰天800周年 1221年8月6日−2021年8月6日

2021年08月04日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今年は聖ドミニコの帰天800周年です。今日は、聖ドミニコの祝日ですから、聖ドミニコについて過去の記事をいかにご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父





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