久留米有馬藩のことを書いた本が素晴らしかったという友人から、帚木蓬生『水神』(上・下巻)を借りました。かなり読み進んだとき、昨秋の浮羽散策中に筑後川の堰から引かれた水路の美しさにひどく感銘を受けたことを思い出し、まさにその水路の話と結びついたのです。
(ちなみに帚木蓬生の名前は、源氏物語の「帚木」「蓬生」からとったものだそうで、この作品は新田次郎文学賞を受賞しています)
これはその「大石堰」を作る5人の庄屋と農民たちの必死の努力と苦悩を描いた小説です。単なる時代小説ではなく、普請奉行、郡奉行、庄屋は実在の人物で、何よりも「大石堰」が筑後川周辺の田畑を潤し豊かで美しい農村地帯になっている厳然たる事実があります。
舞台は生葉郡(朝倉)。滔々と流れる筑後川の傍にありながら台地ゆえにその恵みを受けることが出来ずに、10m下の川面に桶を投げ入れ、水を汲んで引き上げ、それを田畑に流し込む。それを一日中、一年中繰り返す苛酷な仕事を続けるしかありませんでした。
稲は半分も育たず、さらに天災が追い打ちをかけ、疫病が流行・・・。少ない低地にやっとできた米は年貢米に。百姓はわずかに残った畑の雑穀で糊口をしのぎ、ある時は松皮粉、刻んだ藁を臼で挽いた藁餅で飢えをしのぐ過酷な暮らし・・・。それでも年貢が減らされることはありません。
1663年、忍耐の限界に来た5人の庄屋は、幅70間もある筑後川に大堰を作り、水門から水路に水を引き込み田畑を潤し、民の心も潤すという壮大な計画を立ち上げ、藩に堰渠造成の嘆願書を出します。庄屋・助左衛門が数年がかりで調査した精緻な絵図面を添えて。
それが普請奉行・丹羽頼母の心を動かし、藩主の英断を促しました。ただし、費用はすべて5人の庄屋の負担、過失が生じた場合には命に代えるという血判を添えた重たい決意でした。この頃は藩の経済状態も決してよくはなかったのです。
下巻は、この計画に40人の庄屋の合意を得る苦労と苦悩、資金繰りの大変さ、大堰と水門工事、水路づくりの進捗状況が細かく描かれていて、当時の土木技術の素晴らしさに感心しました。
工事の始まりは1664年1月。川幅70間。そこに上流下流から集めたり山から運んだ石を竹の籠に詰めて沈める方法、また船に石を積んで船ごと沈める方法で堰を作っていきます。取り込んだ水を流す水路は幅2間、深さ1間。既存の溝を広げたり、新しく掘り進む作業は長さ7000間。これを冬場の1月から3月までの農閑期にやり遂げるというのが藩からの厳しい条件でした。
この気の遠くなるような大工事をわずか2か月間で完了したというそのエネルギーのすごさ、驚き以外の何物でもありません。
土木機械も緻密な計算法もない時代に、経験と勘、そして1万人を越える農民の労力。ひたすら水を求めてひとつになった心で成し遂げた大工事に心を打たれました。たっぷりと流れる水、水の音は農民にとって明るい未来への原動力となったのです。
庄屋や町人や百姓のくらし、食生活、風俗などの丁寧な記述も興味をひき、当時の日常生活のイメージがふくらみます。武家屋敷の畳の上の生活でなく、農民の衣食住には日本人の原風景として身につまされます。
為政者、町人の成功者を主人公にした本が多い中、これは地方の農村の土に生きる人間の目線で書かれた小説です。角張った漢字の多い歴史小説ではなく、作者の心が見える平易な文体と方言の会話が心を掴むのかも知れません。
気になるのは、先頃読んだ上杉鷹山の本に出てきた18世紀半ばの久留米に関する記事です。過酷な年貢の取り立てに反抗して大規模な百姓一揆があったことが記されていました。処刑者も出たようです。
この大堰の夢のような話から1世紀も後のことですが、土地が潤い収穫が増えても、検見の度に厳しくなる年貢の取り立てがあったのでしょうか......
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帚木蓬生について
1947年生まれ。東大仏文科卒業。TBS勤務。2年後に退職し、九州大学医学部を経て精神科医に。その傍らで執筆活動を続ける。2008年急性骨髄性白血病で半年入院後復帰。
吉川英治文学新人賞、山本周五郎賞、柴田錬三郎賞、小学館児童出版文化賞、日本医療小説大賞、歴史時代作家クラブ作品賞、吉川英治文学賞。