誰ゆえに みだれそめにし 我ならなくに
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風巻 ― side story 「陽はまた昇る」
その日、風が強かった。
冷たい渇いた空気が、頬に体に容赦なく吹きつける。
足許に踏む石畳も、どこか乾いてかさついて感じられた。
春3月だから空気も乾いているだろう。英二は見上げた空に、ぽつんと呟いた。
「…乾いてるよな、風がさ」
けれど本当に乾いているのは自分の中身だ。そんな思いで英二は、そっと溜息をついた。
でも自分で解っている。
こんなふうに溜息をついたって、自分の顔はたぶん笑っているだろう。
「はっ、」
ほら、こんなふうに。嘲笑が吐かれてしまう。
きっと今の自分の顔だって、嫌な顔に嗤っている。
いつだって、自分はそうだ。
だって本当は、笑う気分なんかじゃない。だって今こんなにも心が空っぽだ。
その原因は何なのか?そう自分でも解っている。
たぶんさっきまで一緒にいた、彼女との時間のせい。
英二ってホントきれいよね
まあね、俺って貌イイから?
そうよ、だって昨日もね、友達から羨ましがられちゃった。すごいキレイな彼氏でいいなあって
ふうん、自慢になったんだ?
もうね、すっごい自慢しちゃった。しかも優しいしオシャレなんだからってね
…そうだな、俺、やさしいよね
「ははっ、やさしい、ねえ?」
呟いて英二は嗤った。
あんなうわべの優しさで満足してくれるなら安いモンかな?
そんな自嘲が顔を嗤わせてくれる。
「はっ、…キレイ、か」
呟きが零れ落ちてしまう。
どこがキレイなんだよこんな自分が?だって嘘ばかり吐いているんだよ?
けれど彼女は気付かない、そう誰も気づきはしない。
だから今こんなふうに、独り言が零れ落ちてくる。
黙殺している本音、ほんとうの自分の思ったこと、言いたいこと。
だって本当の自分は、思ったことしか言えない出来ない。
でもそんなホントの俺には、誰も気づいてくれやしない。
だってきっと誰もにとって、こんなウソツキで要領の良い自分は、都合いいから。
―すごいキレイな彼氏でいいなあって―
そう、外見だけだよね俺。
だからどうでもいいんでしょ?俺がホントは何考えているか。
だから気づきもしないんだろ?俺がそう言われる度に、何を感じるかなんて。
ほんとは、そう、こう言ってやりたい。
「…きれいな人形、愛玩物なんだよね、俺ってさ?」
ほんとうは気づいている、そう思われているって。
だって誰も俺には訊いてもくれない、聴こうともしない。
将来は何したい?どんな本を読んでいる?どんな場所に行ってみたい?好きな勉強は?
どんな仕事をしてみたい?
それから、そう、「夢はなに?」
どうして誰も聴いてくれない俺のこと?
昨夜だってそう、聴いてくるのは全然違うこと。心も重ねないで肌だけ重ねて「わたしキレイ?」そればかり。
だから適当にいつも答える、だって本当のことを言ったら傷つくだけ。
だからもうどうでもいい、外見さえあれば気が済むのなら喜ぶのなら、それだけでも受け留めて欲しい。
だってきっと誰も、自分の心なんて想いなんて、受け留めてくれやしない。
でもほんとうはこんなの、嫌だ
心裡に英二は呟いた。
昨夜みたいな翌朝は必ずそう、こんな気持が重たい。
いつものことだけど虚無感が蹲ってくる、そして昨夜の反動で自分の本音が透けてくる。
ほんとうは、こんな生き方なんか嫌だ
そう、嫌だ。
ほんとうは嫌だ、嫌だ、苦しい。
だってほんとうの自分を、自分だけは知っている。
そしてほんとうの自分まで、自分自身で誤魔化せるわけが、無い。
誰か、ほんとうの俺に気がついて?
そして見つめてほしい、ほんとうの俺の想いも心も。
この外見に惑わされないで、この心を見つめて、そして誰か受け留めて?
そうして言ってほしい。
あなたの真実の姿、そのままで、生きていて?
そのままの姿で、率直に素直に生きるなら。あなたなら、きっと見つめられる、見つけられる。
生きる意味、生きる誇り。それからあなたに、必要な全て
そう。ずっと言ってほしいと思っている、願っている。
でも誰も言ってくれやしない。
そうしていつも外見ばかり見つめて、うわべの肌だけ重ねて。
だからもう諦めかけている、もう自分は一生このままウソツキで生きるしかない?
だからもう夢なんかいらない、きっとそう。
だから何となく、この門の前に歩いていく。
「ん、…すこし違うか」
何となくじゃない、この門の前に行くのは。
そう。どこかでまだ諦めない想いがあるから、この門を潜ることを選んだ。
そんな想いに英二は、警察学校の校門前に立った。
「へえ、」
規律を建物にしたら、こんな感じなのかな?
ここで自分が訓練を受けるのか。なんだか今の自分には、らしくない不似合いかな?
なんだか皮肉な気分に英二の顔が嗤った。
「なにか、おかしいですか」
不意に声かけられ、英二は視線を動かした。
動かした視線の先に、男が立っていた。その男は低いが透る声で続けた。
「今、笑ったでしょう?」
見た事が無い空気。
この男はいったい誰だろう?英二の切れ長い目が、すっと歪められた。
「誰です、おたく?」
けれど男は何も答えなかった。
唇の端を微かに歪めると、その男は警察学校へと入っていった。
その見送る背中は広く大きく見える。
すこし羨ましい、そんな想いで英二は背中を見つめた。
けれど自分の顔は、きっと冷淡なままでいる。そんな自分はもう表情からウソツキだ。
けれど素直な疑問は、ぽつんと英二の口から零れた。
「なんだよ、あいつ?」
ほら本音の呟きが零れた。けれど誰も聴いていないだろう、いつだってそう。
そんな自暴自棄な想いに、ほっと溜息が英二の口から零れた。
「…ここの、教官じゃないかな」
不意に、右から声が聞こえた。
落着いて穏やかな声、どこか遠慮がちで、けれど強い意志がある声。
誰だろう?
声に誘われて振り向いた視線の先、黒目がちの瞳がこちらに向けられていた。
真直ぐで端正な視線が、長めの前髪から透けている。けれど、どこか穏やかで静かな気配。
そんな視線の持ち主は、きちんとジャケットを着込んだ華奢な印象の男だった。
どう見てもまだ学生だろう。
とても生真面目な表情、けれどどこか幼げで繊細な雰囲気。
もしかして高校生だろうか?それとも同じ年で大卒だろうか?
そう考えながら英二は、華奢な男を眺めた。
そんな不躾な視線の向こうで、男は見つめ返している。その視線が気になる。
もしかして同期になるのだろうか、英二は訊いてみた。
「あんた、この春の新入生?」
「…、」
ただ無言のまま、けれど頷いてくれた。
頷きながらも前髪の合間から、黒目がちの瞳は見詰めてくる。ひどく繊細な空気感のくせに、視線は強い。
なんだろう?
どこか穏やかで静かで、繊細で強い真直ぐな眼差し。
その眼差しは真直ぐに、英二の瞳を見つめ返してくれる。
この視線の雰囲気は、そして自分の今の想いは、いったいなんなのだろう?
よく解らない。
心裡にため息を吐きながら、英二はゆっくり瞬いた。
「ふーん。じゃ、同期になるんだ」
言いながら英二は歩み寄ると、彼の前に立った。
こうして並ぶと、小柄で華奢な印象があざやかに感じられる。
長身の英二は隣から、見下ろす格好で彼を見つめた。
隣から彼も英二を真直ぐ見返してくれる。
その少し顎をあげた喉元には、のぞく白シャツから清々しい潔癖が匂いたっていた。
彼の黒目がちの瞳は、長めの前髪を透かしても勁さが隠れてない。こんな瞳に、英二は初めて出会った。
…こんな瞳があるんだ
きれいだな。
心の奥底に眠る本音がぽつんと呟いた。
本当にとても小さな呟き。けれど水面に投じられた小石のように、ゆっくりと大きく波紋が広がっていく。
…なんだろう?
よく解らない。
解らないまま何となく、英二は彼に掌を差し出した。
「ま、よろしくな」
せめて握手くらいはしておこうかな。そう思って英二は掌を出した。
けれど目の前の彼の腕は、静かにおろされたまま動いてはくれない。
ただ静かに英二の目を見つめて、落着いた声が答えた。
「…ああ、よろしく」
その黒目がちの瞳には、感情の欠片も読めそうになかった。
なんだか嫌われたのかな? まだ初対面、けれどこの真直ぐな瞳には、もう見抜かれたのかもしれない。
自分の顔はいつだって、ウソツキな嗤いを浮かべていることを。
…自分だって嫌いだ、こんな顔は
だからそう。嫌われるのは、正しい。
ふっと自嘲に微笑んで、英二は手を下げた。
「じゃ、また入校式に」
そう言って英二は踵を返した。
そんな英二の背中に、落着いた声が応えてくれた。
「ああ。また」
声だけなら応えてくれるんだな。
ふっとそう思ったとたん心裡に「なぜだろう」そんな想いが響いた。
なぜだろう?本当になぜだか解らない、けれど。
心にどこか静かな温度が燈っている。
なぜ、どうして、そんなことになっている?だって本当にすこしの時間だけだった、会話したのなんて。
でも本当はすこしだけ、気づいているのだろう自分は?だって今ほら思ったろう?
「会話したのなんて」そんなふうに。
そう「会話した」その相手は、ほら、まだ門の前にいる
もういちどだけ、その相手を見たい。
もう通りへ出かけていた、けれど英二はついと振り向いた。
「おい、お前さ、」
それは素っ気ない口調だった。けれど英二は彼に声をかけた。
そんな英二の声に、門の前から彼がゆっくり振向いてくれる。
振向いた彼は眉を微かに顰めながら、静かな問うような視線で英二を見つめた。
…この視線をまた見られた
そんな想いがまた、心のどこかに温度を弾く。
いったいこれはなんだろう?解らないまま英二は、心持ち首を傾げて口を開いた。
「こんど会う時まで、その無愛想なんとかしとけよ」
―大きなお世話―
彼の沈黙したまま見詰めてくる瞳に、ふっと心の呟きが聞えた。
さっきは読めなかった感情が、ふっと英二の心にも感じられる。なんとなく嬉しくて英二は心裡に笑った。
けれど顔はきっと変な嗤い顔になっているだろう。
そんな自分を感じていた。それなのに英二の口からは、つい本音が零れてしまった。
「結構かわいい顔、してんだからさ」
…あ、言ってしまった
英二の顔は嗤っている。
けれど心裡では本音が、素直に言えた言葉に微笑んでいる。
けれどこんな自分と同じ男に「かわいい」だなんて?
一体自分は何を言っているのだろう?
心にぐるっと呟きながら見つめる視線の先で、彼の唇がふるえた。
「…な、」
黒目がちの瞳が揺れた。
すこしだけ大きくなる黒目がちの瞳。
すこしだけ感情が出た瞳には、穏やかで静かな気配と、それから気恥ずかしげな心。
…あ、この顔かわいいな
また「かわいい」と思ってしまった。
なんだかよくわからない、けれど本音を自分は言った。そして本音が顔に昇って来る。
なんだか嬉しくて英二は笑った。
その頬を不意に、大きく空気の流れが掠めた。
ざぁっ、
かわいた風が二人の間を吹き抜ける。
その風に彼の前髪が吹き払われ、聡明な額が露わになった。
そうして風に曝された瞳は、英二の視界の中心に映りこんだ。
その瞳には複雑な光、その目許には熱があわく赤く滲みだしていく。
…きっと照れている?そしてなんだか、そうだ。色っぽい目だな
そんなふうに素直に、英二の心は呟いていた。
こんな素直な呟きはどれくらいぶりだろう?
なんだか調子がくるってしまう。だってついさっき自分は固い心で嗤っていた。
それなのに今はもう、素直な心の呟きがつい口から零れていく。
どこか心ざわついている。
こんな想いはなんだろう?知らず左手で右腕を掴んで英二は、ぼそり呟いた。
「…じゃ、また」
言って踵を返すと、英二は歩き出した。
なぜだろう?なぜか足早に歩いてしまう。本当になぜだか解らない、何が一体起きている?
途惑うままに、英二は唇を噛んだ。
そう、途惑っている。
だってあんなふうに、誰かに見つめられたことは無かったから。
だってあんなにも真直ぐ純粋で、端正な穏やかな瞳には、今まで逢ったこと無いから。
そうして今だってほら、心のどこかに温度が残ってくすぶっている。
ずっと通りを歩いて、英二は立ち止まった。
そしてゆっくり振向いて、歩いてきた道を眺め返す。
…彼は、なんていう名前だろう?
そう名前。
名前を聴くのを忘れてしまった。
せめて名前を聴いておけばよかったのに。
そうして名前を呼んで、自分も名前を告げればよかった。
でもなぜ?なぜこんなに自分は、彼の名前を知りたいのだろう?
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風巻 ― side story 「陽はまた昇る」
その日、風が強かった。
冷たい渇いた空気が、頬に体に容赦なく吹きつける。
足許に踏む石畳も、どこか乾いてかさついて感じられた。
春3月だから空気も乾いているだろう。英二は見上げた空に、ぽつんと呟いた。
「…乾いてるよな、風がさ」
けれど本当に乾いているのは自分の中身だ。そんな思いで英二は、そっと溜息をついた。
でも自分で解っている。
こんなふうに溜息をついたって、自分の顔はたぶん笑っているだろう。
「はっ、」
ほら、こんなふうに。嘲笑が吐かれてしまう。
きっと今の自分の顔だって、嫌な顔に嗤っている。
いつだって、自分はそうだ。
だって本当は、笑う気分なんかじゃない。だって今こんなにも心が空っぽだ。
その原因は何なのか?そう自分でも解っている。
たぶんさっきまで一緒にいた、彼女との時間のせい。
英二ってホントきれいよね
まあね、俺って貌イイから?
そうよ、だって昨日もね、友達から羨ましがられちゃった。すごいキレイな彼氏でいいなあって
ふうん、自慢になったんだ?
もうね、すっごい自慢しちゃった。しかも優しいしオシャレなんだからってね
…そうだな、俺、やさしいよね
「ははっ、やさしい、ねえ?」
呟いて英二は嗤った。
あんなうわべの優しさで満足してくれるなら安いモンかな?
そんな自嘲が顔を嗤わせてくれる。
「はっ、…キレイ、か」
呟きが零れ落ちてしまう。
どこがキレイなんだよこんな自分が?だって嘘ばかり吐いているんだよ?
けれど彼女は気付かない、そう誰も気づきはしない。
だから今こんなふうに、独り言が零れ落ちてくる。
黙殺している本音、ほんとうの自分の思ったこと、言いたいこと。
だって本当の自分は、思ったことしか言えない出来ない。
でもそんなホントの俺には、誰も気づいてくれやしない。
だってきっと誰もにとって、こんなウソツキで要領の良い自分は、都合いいから。
―すごいキレイな彼氏でいいなあって―
そう、外見だけだよね俺。
だからどうでもいいんでしょ?俺がホントは何考えているか。
だから気づきもしないんだろ?俺がそう言われる度に、何を感じるかなんて。
ほんとは、そう、こう言ってやりたい。
「…きれいな人形、愛玩物なんだよね、俺ってさ?」
ほんとうは気づいている、そう思われているって。
だって誰も俺には訊いてもくれない、聴こうともしない。
将来は何したい?どんな本を読んでいる?どんな場所に行ってみたい?好きな勉強は?
どんな仕事をしてみたい?
それから、そう、「夢はなに?」
どうして誰も聴いてくれない俺のこと?
昨夜だってそう、聴いてくるのは全然違うこと。心も重ねないで肌だけ重ねて「わたしキレイ?」そればかり。
だから適当にいつも答える、だって本当のことを言ったら傷つくだけ。
だからもうどうでもいい、外見さえあれば気が済むのなら喜ぶのなら、それだけでも受け留めて欲しい。
だってきっと誰も、自分の心なんて想いなんて、受け留めてくれやしない。
でもほんとうはこんなの、嫌だ
心裡に英二は呟いた。
昨夜みたいな翌朝は必ずそう、こんな気持が重たい。
いつものことだけど虚無感が蹲ってくる、そして昨夜の反動で自分の本音が透けてくる。
ほんとうは、こんな生き方なんか嫌だ
そう、嫌だ。
ほんとうは嫌だ、嫌だ、苦しい。
だってほんとうの自分を、自分だけは知っている。
そしてほんとうの自分まで、自分自身で誤魔化せるわけが、無い。
誰か、ほんとうの俺に気がついて?
そして見つめてほしい、ほんとうの俺の想いも心も。
この外見に惑わされないで、この心を見つめて、そして誰か受け留めて?
そうして言ってほしい。
あなたの真実の姿、そのままで、生きていて?
そのままの姿で、率直に素直に生きるなら。あなたなら、きっと見つめられる、見つけられる。
生きる意味、生きる誇り。それからあなたに、必要な全て
そう。ずっと言ってほしいと思っている、願っている。
でも誰も言ってくれやしない。
そうしていつも外見ばかり見つめて、うわべの肌だけ重ねて。
だからもう諦めかけている、もう自分は一生このままウソツキで生きるしかない?
だからもう夢なんかいらない、きっとそう。
だから何となく、この門の前に歩いていく。
「ん、…すこし違うか」
何となくじゃない、この門の前に行くのは。
そう。どこかでまだ諦めない想いがあるから、この門を潜ることを選んだ。
そんな想いに英二は、警察学校の校門前に立った。
「へえ、」
規律を建物にしたら、こんな感じなのかな?
ここで自分が訓練を受けるのか。なんだか今の自分には、らしくない不似合いかな?
なんだか皮肉な気分に英二の顔が嗤った。
「なにか、おかしいですか」
不意に声かけられ、英二は視線を動かした。
動かした視線の先に、男が立っていた。その男は低いが透る声で続けた。
「今、笑ったでしょう?」
見た事が無い空気。
この男はいったい誰だろう?英二の切れ長い目が、すっと歪められた。
「誰です、おたく?」
けれど男は何も答えなかった。
唇の端を微かに歪めると、その男は警察学校へと入っていった。
その見送る背中は広く大きく見える。
すこし羨ましい、そんな想いで英二は背中を見つめた。
けれど自分の顔は、きっと冷淡なままでいる。そんな自分はもう表情からウソツキだ。
けれど素直な疑問は、ぽつんと英二の口から零れた。
「なんだよ、あいつ?」
ほら本音の呟きが零れた。けれど誰も聴いていないだろう、いつだってそう。
そんな自暴自棄な想いに、ほっと溜息が英二の口から零れた。
「…ここの、教官じゃないかな」
不意に、右から声が聞こえた。
落着いて穏やかな声、どこか遠慮がちで、けれど強い意志がある声。
誰だろう?
声に誘われて振り向いた視線の先、黒目がちの瞳がこちらに向けられていた。
真直ぐで端正な視線が、長めの前髪から透けている。けれど、どこか穏やかで静かな気配。
そんな視線の持ち主は、きちんとジャケットを着込んだ華奢な印象の男だった。
どう見てもまだ学生だろう。
とても生真面目な表情、けれどどこか幼げで繊細な雰囲気。
もしかして高校生だろうか?それとも同じ年で大卒だろうか?
そう考えながら英二は、華奢な男を眺めた。
そんな不躾な視線の向こうで、男は見つめ返している。その視線が気になる。
もしかして同期になるのだろうか、英二は訊いてみた。
「あんた、この春の新入生?」
「…、」
ただ無言のまま、けれど頷いてくれた。
頷きながらも前髪の合間から、黒目がちの瞳は見詰めてくる。ひどく繊細な空気感のくせに、視線は強い。
なんだろう?
どこか穏やかで静かで、繊細で強い真直ぐな眼差し。
その眼差しは真直ぐに、英二の瞳を見つめ返してくれる。
この視線の雰囲気は、そして自分の今の想いは、いったいなんなのだろう?
よく解らない。
心裡にため息を吐きながら、英二はゆっくり瞬いた。
「ふーん。じゃ、同期になるんだ」
言いながら英二は歩み寄ると、彼の前に立った。
こうして並ぶと、小柄で華奢な印象があざやかに感じられる。
長身の英二は隣から、見下ろす格好で彼を見つめた。
隣から彼も英二を真直ぐ見返してくれる。
その少し顎をあげた喉元には、のぞく白シャツから清々しい潔癖が匂いたっていた。
彼の黒目がちの瞳は、長めの前髪を透かしても勁さが隠れてない。こんな瞳に、英二は初めて出会った。
…こんな瞳があるんだ
きれいだな。
心の奥底に眠る本音がぽつんと呟いた。
本当にとても小さな呟き。けれど水面に投じられた小石のように、ゆっくりと大きく波紋が広がっていく。
…なんだろう?
よく解らない。
解らないまま何となく、英二は彼に掌を差し出した。
「ま、よろしくな」
せめて握手くらいはしておこうかな。そう思って英二は掌を出した。
けれど目の前の彼の腕は、静かにおろされたまま動いてはくれない。
ただ静かに英二の目を見つめて、落着いた声が答えた。
「…ああ、よろしく」
その黒目がちの瞳には、感情の欠片も読めそうになかった。
なんだか嫌われたのかな? まだ初対面、けれどこの真直ぐな瞳には、もう見抜かれたのかもしれない。
自分の顔はいつだって、ウソツキな嗤いを浮かべていることを。
…自分だって嫌いだ、こんな顔は
だからそう。嫌われるのは、正しい。
ふっと自嘲に微笑んで、英二は手を下げた。
「じゃ、また入校式に」
そう言って英二は踵を返した。
そんな英二の背中に、落着いた声が応えてくれた。
「ああ。また」
声だけなら応えてくれるんだな。
ふっとそう思ったとたん心裡に「なぜだろう」そんな想いが響いた。
なぜだろう?本当になぜだか解らない、けれど。
心にどこか静かな温度が燈っている。
なぜ、どうして、そんなことになっている?だって本当にすこしの時間だけだった、会話したのなんて。
でも本当はすこしだけ、気づいているのだろう自分は?だって今ほら思ったろう?
「会話したのなんて」そんなふうに。
そう「会話した」その相手は、ほら、まだ門の前にいる
もういちどだけ、その相手を見たい。
もう通りへ出かけていた、けれど英二はついと振り向いた。
「おい、お前さ、」
それは素っ気ない口調だった。けれど英二は彼に声をかけた。
そんな英二の声に、門の前から彼がゆっくり振向いてくれる。
振向いた彼は眉を微かに顰めながら、静かな問うような視線で英二を見つめた。
…この視線をまた見られた
そんな想いがまた、心のどこかに温度を弾く。
いったいこれはなんだろう?解らないまま英二は、心持ち首を傾げて口を開いた。
「こんど会う時まで、その無愛想なんとかしとけよ」
―大きなお世話―
彼の沈黙したまま見詰めてくる瞳に、ふっと心の呟きが聞えた。
さっきは読めなかった感情が、ふっと英二の心にも感じられる。なんとなく嬉しくて英二は心裡に笑った。
けれど顔はきっと変な嗤い顔になっているだろう。
そんな自分を感じていた。それなのに英二の口からは、つい本音が零れてしまった。
「結構かわいい顔、してんだからさ」
…あ、言ってしまった
英二の顔は嗤っている。
けれど心裡では本音が、素直に言えた言葉に微笑んでいる。
けれどこんな自分と同じ男に「かわいい」だなんて?
一体自分は何を言っているのだろう?
心にぐるっと呟きながら見つめる視線の先で、彼の唇がふるえた。
「…な、」
黒目がちの瞳が揺れた。
すこしだけ大きくなる黒目がちの瞳。
すこしだけ感情が出た瞳には、穏やかで静かな気配と、それから気恥ずかしげな心。
…あ、この顔かわいいな
また「かわいい」と思ってしまった。
なんだかよくわからない、けれど本音を自分は言った。そして本音が顔に昇って来る。
なんだか嬉しくて英二は笑った。
その頬を不意に、大きく空気の流れが掠めた。
ざぁっ、
かわいた風が二人の間を吹き抜ける。
その風に彼の前髪が吹き払われ、聡明な額が露わになった。
そうして風に曝された瞳は、英二の視界の中心に映りこんだ。
その瞳には複雑な光、その目許には熱があわく赤く滲みだしていく。
…きっと照れている?そしてなんだか、そうだ。色っぽい目だな
そんなふうに素直に、英二の心は呟いていた。
こんな素直な呟きはどれくらいぶりだろう?
なんだか調子がくるってしまう。だってついさっき自分は固い心で嗤っていた。
それなのに今はもう、素直な心の呟きがつい口から零れていく。
どこか心ざわついている。
こんな想いはなんだろう?知らず左手で右腕を掴んで英二は、ぼそり呟いた。
「…じゃ、また」
言って踵を返すと、英二は歩き出した。
なぜだろう?なぜか足早に歩いてしまう。本当になぜだか解らない、何が一体起きている?
途惑うままに、英二は唇を噛んだ。
そう、途惑っている。
だってあんなふうに、誰かに見つめられたことは無かったから。
だってあんなにも真直ぐ純粋で、端正な穏やかな瞳には、今まで逢ったこと無いから。
そうして今だってほら、心のどこかに温度が残ってくすぶっている。
ずっと通りを歩いて、英二は立ち止まった。
そしてゆっくり振向いて、歩いてきた道を眺め返す。
…彼は、なんていう名前だろう?
そう名前。
名前を聴くのを忘れてしまった。
せめて名前を聴いておけばよかったのに。
そうして名前を呼んで、自分も名前を告げればよかった。
でもなぜ?なぜこんなに自分は、彼の名前を知りたいのだろう?
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