どんな黒雲でも、その上には

上弦月、越境 ― side story「陽はまた昇る」
遠野が撃たれた瞬間が、フラッシュバックとなって襲う。
こぼれた血液の真っ赤な色彩が、心に沁みをつくり、赤く流れ出す。
拳銃を、見るたびに思い出すのか
英二は目を閉じ、窓に顔を向けてから見開いた。穏やかな、晴れた空が視界に広がる。
壁に凭れ英二は、ため息を吐いた。
遠野教官は無事だった。
それでも、彼が撃たれた瞬間と流れた血に、心が拒絶を起こしている。
テレビでなら見た事のある、狙撃の光景。
それは現実感がなかったから、直視出来ていたのだと、英二は痛感した。
これから警察官として生きていく。拳銃を見ない日など、きっと無い。
毎日、こんな思いをしながら? 吐き気がこみ上げるのを、無理やり押えこんだ。
湯原は、どうだったのだろう。
父を奪った拳銃に、どうやって向き合ったのだろう。
この安西の事件で、湯原は、拳銃を奪われ拘束され、銃口を向けられ続けていた。
それでも最後は、安西から拳銃を奪い返した。
夜明け前から何時間も続いた拘束、心身の消耗は酷かった筈だ。
それでも、湯原の勁い視線は、損なわれなかった。
遠野から溢れた血を、じっと見詰めていた湯原。
あの時、何を思っていたのだろう。
湯原の隣にいきたい。英二は、隣室の扉を叩いた。
屋上の空は明るい。見上げると、ほっと息をつける。
外で話そうと湯原に誘われて、屋上に上ってきた。
目立たない角を曲がったところに、並んで柵に凭れる。
英二の話を聞きながら、湯原は遠くを眺めていた。すこし傾きかけた日が、まっすぐ前を見る横顔を照らしている。
その顔を眺めて話すうちに、ふっと英二の心も凪いでいた。
聞き終わって、湯原が口を開いた。
「これが現実の、流れる血なんだ。そう思って見ていたよ」
遠野が撃たれ、血を流した現実。
『現実の』と言った湯原の、その意味を英二は量りかねた。
「湯原は今までに、見た事があったのか」
「目の前で人が撃たれたのは、俺も初めてだって」
静かに湯原は微笑んだ。
父さんの時は、瞬間は見ていないだろ。言って、湯原は続けた。
「現実には、ね」
現実には-
言葉の重さに気付いて、英二は隣の、黒目がちの瞳を見詰めた。
すこし、湯原は微笑んだ。
「何度も夢でうなされた。小さい頃からずっと、毎晩毎晩。夜中に吐くことが、幾度も続いた」
落着いた声が、吹いていく風に響く。
「交番は避けて道を歩き、警官やパトカーから目を背けた。
それでも夢は終わらなかった。
テレビ、映画、小説。警察や拳銃を描いた全てから、目を背けても。それは続いた。
泣いて、泣いて、涙もだんだん麻痺していくようだった。
逃げられない、と思った。
逃げられないなら、戦って、向き合うしかないじゃないか。
苦しくて苦しくて、戦って楽になるなら、少しでも早く向き合いたかった」
だから、射撃部のある高校を選んだんだ。ゆっくり一つ瞬いて、湯原は英二を真直ぐ見た。
「初めて拳銃に触れた日の夜、夢は見なかった」
それからはもう、その夢は見ていない。湯原は少し微笑んだ。
黒目がちな瞳が、英二を見上げる。
「宮田。俺は本当は弱い。弱くて弱くて、だから強くならなくては、生きられなかった」
少し言葉を切って、自嘲気味に湯原は言った。
「強くなったと思っていた。けれど、結局は安西に銃を盗られた」
青い空の下を、吹く風は静かで、優しい。地平遠くに少しだけ、夕映えが始まっている。
真直ぐに前を見つめる横顔は、穏やかに呟いた。
「俺は、強くなりたい」
静けさの底で、湯原の落着いた声が、低く響いた。
黙ったまま、二人並んで遠い雲を眺めている。ふと、湯原が前に言った言葉が、英二の脳裡を閃いた。
― 知りたいだけ
真実の向こうに何があるのか
父が殺された現実と、殺した人間が存在するという現実。
2つの現実から逃げられず、その現実に執われる弱さ。それほどに、感受性が豊かすぎる繊細な心。
繊細な分だけ、苦しみも強く敏感に感じ取ってしまうだろう。
繊細な分だけ苦しんで、心を勁くせざるを得なかった、湯原。
どれだけの痛みが、湯原の心に積ったんだろう
華奢な骨格でも鍛えられた肩が、英二と並んでいる。
現実と向き合った分だけ、鍛えざるを得なかった、湯原の心と体。
ゆるがない強さが、湯原の背骨を組み上げている。
悲哀、憎悪、恐怖。避けたい現実と感情に向き合う時、人間は強くなるのだろうか。
木々わたる風の、梢揺らすざわめきが聞える。
無言のまま並んでいても、何を促すだけでも無く、ただ湯原はそこにいる。
ふと振向いて、繊細だが勁い瞳が、英二を見上げた。
繊細なくせに勁い視線―
眼下に校門が見える。あの場所で出会った瞳は、こうして今、隣合わせに立っている。
真摯な生き方を、強いられた湯原。
要領よく生きていた、自分。気付かない振りで隠した、逃げまわる弱さ。
― 宮田みたいなチャラチャラした男が、一番嫌いだ
― 何でも解ったような顔している
苛立ち反発するのは、当然の事だろう。
けれどここ警察学校では、向き合っていくしかなかった。
警察学校の規則、訓練は理不尽なまでに制限される。けれど湯原は、愚痴を全くこぼさない。
湯原の端正な姿勢は、得難い。
同じ年の同じ男で、同じ場所に立っているから、英二にはよく解る。
初めて英二が置かれた「逃げられない場所」
逃げられないから、目を逸らせないから、気づいてしまった。
強さも、繊細さも、穏やかな空気も。湯原の全てに、惹かれてしまった。
ここで、警察学校で、同じ年の男として、出会ったから惹かれた-
そう気付いた時、すっと肩の力が抜けた。
もっと自由で楽な場所で、男と女として出会っていたら。
理解する事も、惹かれる事も無かっただろう。
『警察学校内の男女交際は禁止』 求めてはいけない場所と相手だと、嫌というほど解っている。
それでも、もう、どんな言い訳が、諦めさせてくれるのだろう。
知らなければ、楽だったと思う。
けれど、知らないままで、生きたかったとは思えない。
なにも知らずに楽をしていた以前より、辛い選択をしてしまった今の方が、好きだ。
湯原の隣に出会った事を、英二には後悔など出来ない。
柵に凭れる隣の横顔に、真っ白い雲の落とす影が、穏やかに横切っていく。
隣には、安らぎが自然におちている。英二は口を開いた。
「湯原は、強いよ」
すこし振向いた湯原を、見つめて英二は微笑んだ。
「拳銃、自分で取り返しただろ。湯原は」
ありがとう、と微笑んだ湯原は、英二を見つめて言った。
「でも俺は、強くなりたい。
拳銃を奪われないほど、強くなりたい」
英二を見詰め返す、真直ぐな湯原の視線は、繊細で勁かった。
陽射しが、黒目がちの瞳に光落としている。濃く大きな黒目を縁取る白が、湯原は薄青い。
きれいな瞳だな
この瞳を見ることは、あと何回できるのだろう。
思いながら、英二は微笑んだ。
「強くて、きれいだな。湯原は」
「男に、きれいって言うものなのか?」
少し怪訝に首傾げた湯原の、髪が太陽に揺れる。その向こう、真っ白な雲が眩しく起ちあがっていた。
呟くように英二は答える。
「きれいなら、言うだろ」
そういうものかと言って湯原は、遠くへ目を遣り、柵に片頬杖をつく。
すこし英二を見遣って、かすかに微笑んだ。
「じゃ、宮田も、きれいで強いな」
言ってまた、視線を空へ戻してしまった。その首筋を、紅潮がうっすら昇るのが見える。
ありがとうと笑った英二に、小柄だが鍛えられた肩が目に入った。
本来が華奢な体つきだったと、湯原の母が教えてくれた。
それでも湯原は、心と共に体も強くせざるを得なかった。
そんなに強くなくても、幸せなままで生きて欲しかったな
けれど、もしそうなら出会う事は無かった。
辛い現実に向き合う、真摯な湯原だから、出会って惹かれた。
ふっと湯原が口を開いた。
「なぜ、逃げなかった」
拳銃を突きつけられる湯原を、教場で見つけた時の事だろうか。
黙ったまま、英二は湯原を見つめた。
「あの時、宮田は逃げられた筈だ」
なぜ逃げなかったんだ。湯原の勁い視線が、英二を見つめる。
きれいだなと思いながら、英二は微笑んだ。
「湯原を残しては、行けなかった」
言葉は自然にこぼれた。
湯原の首筋が、赤く染まっていく。微笑んだままで、英二はそれを見つめていた。
梢わたる風が、屋上まで緑の香りを吹き上げた。
隣の湯原の、髪が乱され、額にかかっては揺らされる。硬質さが薄れて、翳りと繊細な表情が漂った。
言葉も無いまま、夜の影が屋上に降りてくる。僅かに湧きだした黒雲に、上弦の月が昇った。
流れる空気は静かで、穏やかだ。
卒業したら、この隣はどれくらい遠くなるのだろう。
卒業すれば、死や暴力と隣り合わせの日常が、現実になる。
たった1日の事件で、こんなに心削られた。それが毎日の日常となる現実が、近付いている。
精神的に削られる日々が、もうじき始まる。
この隣が無くても、俺は俺でいられるのか
求めてしまうかもしれない。
けれど、湯原の母を、もう泣かせたくは無い。
湯原の真摯で端正な生き方も、心も、傷つけたく無い。
自分はどこまで、自分の心より優先させる事ができるのだろう。
― 強くなれ
遠野の言葉が胸裡を叩く。
強さを、自分は備えていく事が、できるだろうか。
考え込む英二の頬を、さあっと吹き下ろされた名残の夏風が、撫でて奔り去った。



