萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

十六夜、逡巡 ―side story「陽はまた昇る」

2011-09-09 22:10:04 | 陽はまた昇るside story
こころ一面、ためらい傷が刻まれていく


十六夜、逡巡 ―side story「陽はまた昇る」

土曜の空は晴れて青い。
真っ白な雲が影を落としながら、見上げる窓を流れていく。

そろそろ乾いたかな

英二はベランダの窓を開けた。
干しておいたトレッキングシューズに手を伸ばすと、2足とも乾いている。
青い方をしまってもう1足を手にとり、廊下へ出ると隣の扉を叩いた。

「俺。入るよ」

ゆっくり扉を開いた部屋は、午後の陽射しが明るい。ベッドに足を投げ出し、湯原は本を読んでいた。
持ってきたシューズを示しながら、クロゼットの扉を開ける。

「しまうの、ここでいい?」
「ん。ごめん、ありがとう」

どういたしましてと言いながら、英二はベッドに腰を降ろした。

「まだ、痛む?」
「だいぶいいよ。骨がどうかした訳じゃないし」

包帯を巻かれた足は、痛々しい。
英二の視線に気づいて、湯原はかすかに微笑んだ。

「捻挫で済んだんだ。ラッキーだよな」

落着いた声で湯原は言い、壁に寄りかかった。

「そっか」

その隣で、英二も壁に背をつけた。ちらっと隣を横目で見遣ると、湯原は本を開いた。
紺青色の表装に、英二は見覚えがある。

「それ、あの時に買った本だよな」
「ん、」
「ちょっと見せて」

横から覗き込んだが、アルファベットの羅列としか見えない。

「これ、何の話なんだ?」
「怪人の話」

素っ気なく言って、湯原は再びページに目を落とす。開かれたページは、終りに近い。
窓の外を英二は見上げた。青い空が少しだけ高い。
飛行機雲が一筋、長く尾をひいていた。雲の軌跡は、空の青に融けて、消える。
ページ捲る乾いた音が、いつものように心地良い。

湯原がページ捲る音。俺、聴き分けられるかな

ぼんやり考えていると、ぱたんと音がした。
湯原の掌で本は閉じている。もう話しかけていいだろう、英二は口を開いた。

「怪人って、おばけの話なのか」
「違う」

なんとなく不機嫌に返事する湯原の、様子がおかしい。
ジャンルは何だと重ねて問うと、ぼそりと湯原は言った。

「恋愛小説、かな」
「え、」

湯原が恋愛小説。

「へえ、」

意外だ、英二は笑ってしまう。
推理小説だと思って買ったんだよと、湯原は英二を軽く睨んだ。

「でも全部、読んだんだろ?」
「折角買ったんだ、勿体無いだろ」

仕方なく読んでいる様子には、見えなかった。結構、面白かったのだろう。
英二は興味を持った。

「あらすじ教えてよ。気に入ったシーンとか、あるだろ?」

仕方ないなという顔をして、湯原はページを開いた。

「怪人は、オペラ座の設計者なんだ」

目次を眺めながら湯原は、順序立てて話しだした。
窓からの陽光が落ちかかる部屋を、落着いた声が静かに語っている。
あたたかい光の色が、やさしい。

「それで、歌姫の誘拐犯として彼は追われる。棲家にめぐらす罠が華麗っていうか…」

隣に少し首傾け、英二は湯原を眺めた。
光がスポットのように照らされ、睫毛の翳が光って見える。

やっぱ、きれいだ

英二はただ、湯原の声を聴いていた。少し低めのトーンが、耳に快い。
相槌を打ちながら、英二は安らいだ。

こういう時間、いいよな

寮は、しんと静まっている。
隣に座る、やわらかな鼓動が聞こえる気がする。ふっと英二はため息を吐いた。

いつまで隣に、居られるのだろう

警察官である以上、任地次第で離れざるを得ない。
異性なら離れていても、結婚して、法の中で一緒に居る事が認知される。だが、湯原は同じ男だ。
英二が在籍した法学部では、同性婚の講義もあった。いくつか事例が紹介されたが、双方の家族が認知する幸福なケースは、今の日本では稀だ。

『マイノリティは、日本では生き難い』

要領よく生きてきた英二は、それをよく解っている。
隣座る端正な眼差しを、そっと英二は見詰めた。湯原は潔癖なまで、真直ぐ生きてきたのだろう。
そんな男をそこへ引き摺りこんで、幸せなんてあるんだろうか。

湯原の母は、どう考えるだろう。
夫の殉職を乗越え育てた、一人息子。大変じゃなかったと言えば、きっと嘘だ。
どれだけの涙を越えて、彼女は生きてきたんだろう。

―湯原の母さん、素敵なひとなんだろな
 まあ、そうだけど

大切な一人息子は、警察官になる。
彼女に強いられた決断の辛さは、英二には量れない。

そんなひとに、もう、泣いて欲しくないな

求める事はしないと覚悟した。それでも取留めなく考える自分がいる。
こんな今でも、隣あわせる空気は、居心地が良く穏やかだった。
感覚を誤魔化せる人間なんて、いるんだろうか。

失いたくない

言い訳で自分を納得させられるのなら、どんなに楽だろう。
ぼんやり考えていると、ページ捲る音が止まった。

「厭きた?」

湯原が顔を上げた。
いいやと英二は首を振ったが、紺青の本を湯原は閉じてしまった。

「ちょうど夕飯の時間だし」

立とうとする湯原を、英二は抱えてベッドから降ろした。
軽く眉顰め、黒目がちの瞳が英二を見上げる。

「降りるくらい、できるって」
「でもほら、いいもんだろ?お姫様だっこ」

馬鹿かと軽く胸叩かれ、英二は笑った。
小柄な湯原の肩を支えて、廊下へ出る。甘辛い香がかすかに漂ってきた。

「お、生姜焼きとか?」
「どうかな、煮魚かもよ」
「えー。俺、肉食いたいなあ」

他愛ない話をしながら、ゆっくり歩いていく。
不意に、ぼそりと湯原が言った。

「ごめん、宮田」
「なに、いきなり」
「せっかくの外泊日なのに、俺につきあわてる」

少し足引き摺りながら、湯原は歩いている。
湯原の実家までは乗換が多い上、混雑する経路を使う。帰る事は難しいと寮に残っていた。
湯原に添い支えながら、英二は笑った。

「首席のマンツーマン授業、受けられて俺、ラッキーじゃん」

黒目がちの瞳が少し揺れ、ゆっくり微笑んだ。
どうして、こんなにも惹かれるんだろう。胸裡に呟きながら、英二は食堂の扉を開けた。


風呂から上がった後、英二は隣室をノックした。

「おう、入るぞ」

ゆっくり扉を開けると、湯原は包帯を巻き直している。
なんだよと言いながら、その前に英二は跪いた。

「ちょっと貸して」

湯原の手から包帯を取り上げると、解いていく。露わになった足首は、腫れは引いたが青黒い。
患部を隠すよう湿布を貼る。長い指を手際良く動かしながら、英二は尋ねた。

「中山道が流された時さ、湯原、どんな気持で飛び込んだ?」
「え、」
「お前さ、遠野の事、ちらっと見てから飛び込んだろ」

少し首傾げ、湯原は思い出すような目になる。

「助けなきゃ、俺が行かないと。かな」
「ほんとお前って自信家だよな。場長が落ちた時もそうだけどさ」
「宮田こそ、どうだったんだよ」

包帯からちょっと目を上げ、英二は湯原の顔を覗き込んだ。

「湯原が飛び込んで、つられた。かな」
「つられて、って」

そんなんじゃ駄目だろと、軽く詰る湯原を見返して、英二は少し笑った。

「お前が崖落ちた時は、絶対に俺が助けるって思った」

黒目がちの瞳は一瞬揺れたが、すぐに微笑んだ。

「ん、マジ助かったよ。ありがとうな」

今日も悪いな、と言いながら湯原の首筋が少し赤らんだ。
それだけで、不意に心が惹き寄せられる。ふっと目を伏せ、英二はさっさと手を動かした。

「どういたしまして、だ。ほら出来たぞ」

きれいに包帯は足首を覆っている。きっちり整った巻き方を見、湯原が顔を上げた。

「うまいじゃん、宮田」
「練習したんだ。川でさ、俺、遠野にボロクソ言われただろ」
「ふーん。ちゃんとやるんだね、宮田も」

機嫌良く英二は笑い、ベッドに腰掛けてノートを広げた。

「さ、早く勉強しよう」
「なにそんな、張り切ってるの」

熱でもあるんじゃない?と憎まれ口ききながら、湯原もベッドに座る。
まとめてきた疑問点を、英二は湯原に示した。

「それは教本のここ」
「あ、そういう訳なんだ。じゃこっちは」

楽しいよな、こういうの。英二は心に呟きながら、ペンを動かしていく。
賑やかに話し合っていても、心はどこか穏やかだった。


消灯時間になり、自室へ引き上げた。ぱたんと扉を閉めると、急に静けさが耳につく。
ノートとペンを机に放り、英二はベッドに座りこんだ。
薄い壁の向こう、かすかに湯原の気配がある。

近くて、遠い。な

そっと壁を撫で、窓を開けてベランダへ出た。
外廊下になるベランダの床に、隣の窓からデスクライトが薄青く射している。湯原はまだ、勉強するのだろうか。
大きく月が夜空にかかる、見上げた英二は呟いた。

「満月か、」
「違う。十六夜月」

振り向くと、すぐ隣に湯原が立っていた。シャツが夜闇に白い。
慌てて英二は湯原を支えた。

「なに、どうしたの湯原」
「外の空気、吸いたくなった」

大丈夫だからと英二の腕を押し返し、湯原は壁に凭れかかる。
うすい雲が風に動き、月光がベランダを流れた。隣の横顔を淡い光が照らし、なめらかな頬が白く映えた。

きれいだな

思って、英二は目を伏せた。
その足元ひたす影は、月が映した小柄な影に繋がっていた。
ずきんと胸が軋む。

こんなに近くに、いるのに

触れられない痛みを、英二は初めて知った。
卒業したら、今のようには隣に居られない。あと幾度、こんな思いが出来るのだろう。

隣にいるだけでも、いい

英二は壁に凭れ、黙ったまま隣を見た。月明かり滲む横顔は、輪郭がきれいに見える。
その襟元を見て、英二は気がついた。

「そのシャツ、着てくれているんだ」
「ん、着心地良い。ありがとな」

詫びに贈った、そのシャツの白色が、夜目に鮮やかだった。
ふっと湯原の口が開いた。

「十六夜月の『いざよう』は、何の意味だと思う?」
「て言うか俺、十六夜月なんて言葉、さっき初めて知ったし」

すこし振向いて、湯原は英二を見遣った。

「『ためらい』って意味」

今日は月が出るの遅かっただろ、湯原はいつもの抑揚少ない声で続ける。

「ゆっくり昇る月だから、現れるのを躊躇う月って意味らしいよ」

落着いた声は、ゆったり夜の底に響く。
明るい月光と足元の影色の、狭間に白いシャツが浮かんで見える。
その小柄な体に、心も腕も伸ばしそうで、英二は腕を組む。

あと幾度、この隣に立てるのだろう。

想いも、急がず募っていて欲しい。
ゆっくりならば、痛みに慣れていく事も、出来るかもしれない。


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