闇夜でも晴れた空でも 照らすもの
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闇夜、生傷と傷痕 ― side story「陽はまた昇る」
夜の静寂に、そっと扉が叩かれる。
医務室の扉は開かれ、湯原の小柄な姿が現れた。
「失礼します」
「あら。警邏にお迎え、御苦労さん」
帰り支度を済ませた立花校医が、にっこり湯原に微笑んだ。
「打撲と内出血だけだから。よく冷やしてあげてね」
保冷器に入れた氷と、湿布の替えを湯原に手渡してくれる。
わかりましたと受取って、湯原は英二を振り返った。
「立てるか?」
「…ああ」
静かに隣に肩寄せ、英二の腕に小柄な体を潜らせた。
「傷を当てないように、寄りかかって」
躊躇った英二を、黒目がちの瞳が怪訝そうに見、早くしろよと促してくる。
唇すこし噛んで、英二は寄りかかった。華奢な骨柄と硬質な弾みが、英二の体を支えてくれる。
俺、かっこわるいよな
これが今の自分だから、仕方ないか。自嘲に薄く笑って、英二は立ち上った。
立ちあがる時、左肩はすこし疼いたが、鈍くすぐに治まる。
「すみません、ありがとうございました」
医務室を出、寮へ歩いていく。
泣いた痕を見せたくなくて、やや俯き加減で英二は歩いた。英二の体を支えながら、湯原は静かに隣を歩いている。
深更に眠る廊下を、足音だけが響く。ふっと穏やかな香が英二を掠めた。
そっと隣を見ると、湯原の髪が淡く照らされている。黒目がちの瞳は、いつも通りに落着いて前を見ていた。
ささくれた心が、少しずつ和らいでくる。
ただ黙って、隣を歩いている。それだけなのに安堵感は、やわらかく英二を受とめていく。
この隣から遠ざかっても、俺は平気なのかな
たぶん、きっと、平気でなんかいられない。
今の瞬間が過去になった時、寂しくて苦しくて、戻りたくなるだろう。
その時に、どこまで自分を誤魔化せるのだろう。
代りの居場所なんか、きっと見つけられない
吐き気が胸を衝く、思わず英二は蹲った。
すぐに足を止めた湯原が、かがみ込んで英二の顔を覗きこんだ。
「宮田?」
「…吐きそう」
近くのトイレへと抱えられ、洗面台に手を突く。
胸が迫り上がるが、唾液以外は出てこなかった。口を漱いだ英二に、湯原がタオルを渡してくれる。
英二の額に、湯原の掌が当てられた。その温度に、ふっと気張りが抜ける。
「頭、痛いとかあるか?」
「いや、無い。すこし気持悪かっただけ」
湯原の顔が少し青ざめている。
もう治まったからと言っても、眉を顰めたまま湯原は、英二の頭にそっと触れた。
「頭、打ったとか殴られたりは?」
「さすがに、それは防御してたから」
かすかな熱が、英二の髪を透してふれる。心が軋み上げそうで、英二は目を瞑った。
けれど振り払うことも、出来なかった。
「触っているところ、痛むか?」
「大丈夫だって」
洗面台から顔上げて、英二は笑った。それを見上げて、黒目がちの瞳が微笑んだ。
見た事が無い、やわらかい安心したような笑みだった。
「…かわいいよな、」
英二の口を、衝いて出てしまった。
黒目がちの瞳が、揺れる。目の前で、さあっと音が聞えそうに、湯原の首筋が紅潮に染まった。
「…だから、お前はやく眼科行けって」
抑揚無い声で言い捨てて、湯原は廊下へと出て行きかけた。
その背中に、英二は頭を押さえて呟いた。
「う、痛っ…」
「宮田?」
すぐ踵返し、英二の顔を湯原が覗きこんだ。顰めた眉の下で、黒い瞳が心配そうに揺れている。
その顔に、にやっと悪戯っぽく英二は笑った。
「心が痛いかなー、なんて?」
「…馬鹿」
黒目がちの瞳が顰められる。心配するだろと呆れた口調でも、英二の腕に体差し入れ支えてくれた。
廊下をまた歩いていく。肩を掠める湯原の髪から、穏やかで潔い香が微かに漂う。
この香、好きだな
ぼんやり歩いていると、不意に隣の足音が止まった。
怪訝に英二が隣を見ると、湯原が言った。
「部屋、着いたけど」
「あ、」
自室の扉が目の前にあった。
「送らせて悪かったな」
氷やタオルを受取ろうとしたが、湯原はそのまま部屋へ入り、デスクライトを点けた。
ちょっと借りると断り、英二の机に荷物を下ろす。さっさと手当の準備をしながら、ぼそり湯原は言った。
「ちょうど休憩時間だから」
「え、」
「手当てしていくから横になって」
触れられて、俺、大丈夫かな
自信ないなと思いながらも、断れない。羽織った制服の上着を脱ぎ、英二はベッドで仰向いた。
その隣に湯原は腰をおろし、腫れた肩にタオルをかける。その上から氷嚢を当てた。
「氷の重さ、傷に響くようなら調整するから」
ひんやりと氷嚢の重みが、そっと肩にかかる。
心地良さに目を瞑る。心ほぐれる感覚が、ふっと英二の瞼を熱くした。
「俺さ、警官続けるの、もう駄目かもしれないって思ったんだ」
「ん、」
静かな相槌が、英二の言葉もほどいていく。
「じゃあ辞めるか、辞められるか? 遠野にそう訊かれたよ」
自分は辞められなかったと、遠野は言うんだ。
医務室での事を、なぞるように英二は話していく。
― 辞める事が責任を取る事じゃない。
ずっと背を向けて来た事と決着をつける。それしか筋を通す方法はない
君も笑顔で行くと決めたんなら、それを通せばいいじゃないか
甘くなんかない、警察官が笑顔でいる事は一番難しい事だ
瞑った目を開き、英二は隣を見上げた。
デスクライトの淡い光を受けて、湯原は静かに座っている。伏せた睫毛がいつものように頬に翳し、きれいだった。
「ずっと背を向けて来た事と決着をつける。そう言われた時、俺、湯原を思い出した」
「なぜ?」
黒目がちの瞳が英二を見た。
黒い瞳に、かすかに自分の顔が映るのを見ながら、英二は言った。
「警察と拳銃から、背を向けないで湯原は、ここに来ただろ」
お前って格好いいよな。英二は微笑んで見上げた。
唇すこし引き結んで、困ったような、微かに嬉しいような顔が、英二を見下ろす。
「俺もさ、笑顔で通してみるよ。難しい事だけど」
暴力や死と隣り合わせの、警察官としての生活。ただ笑い楽に生きた以前とは、笑顔の意味が全く違う。
憎悪や悲哀、虚偽。その渦中でも笑顔を忘れない強さ、その厳しさを英二は貫きたいと思った。
「でも宮田、今日も泣いただろ」
視界を掠めた指先の、温かさが英二の眦におちた。そっと拭い、かすかに湯原が微笑んだ。
「泣き虫」
「…それ、言うなって」
掠れそうになった声を、なんとか喉から押し出す。
そんなふうに触れないで欲しい、けれど、与えられる温かさは居心地が良い。
この隣が俺は好きだ
湧きだすような感情があたたかい。
傷だらけになった体でも、この想いさえあれば大丈夫と、確信してしまう自分がいる。
壊したくない。手放す事も、きっと出来ない。
「そろそろ、交替だな」
腕の時計を見、湯原が氷嚢に手を伸ばした。手の甲が微かに触れる、一瞬、英二は目を瞑った。
「行く前に氷、替えていくから」
「おう、悪いな」
氷を詰めながら、ふっと湯原が口を開いた。
「宮田なら、なれるよ」
「え、」
英二は半身を起こした。デスクライトが照らす、やわらかな髪が見える。
目を上げて、湯原は言った。
「笑顔の警察官、」
宮田ならなれるって。黒目がちの瞳が真直ぐ英二を見、湯原は続けた。
「宮田の笑顔、きれいだから」
黒目がちの瞳が微笑んで、また手元に視線を落とす。
肘で体起こしたまま、英二は呟いた。
「なれるかな」
「ん、…努力もかなり、必要だとは思うけど」
なんだよと英二は笑い、仰向けに寝転がった。
隣に座った湯原に、微笑んで英二は言った。
「俺も、決着つけてみるよ。笑顔の」
「ん、」
湯原の手がタオルの場所を定め、患部を包むように氷嚢をあてがう。
肌に肌ふれる、かすかな感触が肩を掠めたが、英二は心押し殺した。
黒目がちの瞳を見上げると、ごめんと英二は口を開いた。
「休憩時間、仮眠とりたかっただろ?ごめんな」
ベッドから立ち上がり、湯原は制帽を手に取る。
「俺も、宮田に面倒見てもらったから」
これで貸借りチャラな。制帽を被りながら言い、湯原は扉に手を掛けた。
「また休憩の時、様子見に来るから」
すこし微笑んで、湯原は扉を閉めた。静かな足音は、廊下を遠ざかっていく。
独りの部屋は、静けさが少し重い。怪我の少ない右腕で枕し、見上げると天井が視界を閉ざす。
ついさっきまで、見上げれば、湯原の顔があった。湯原は、いつもより微笑んでいた。
安心させてくれようと、してたんだろな
ささやかな今の日常が、幸せだと英二は思った。
卒業までの1カ月、毎日を記憶に刻んでいくのだろう。
― 宮田の笑顔、きれいだから
そう言った、湯原の笑顔こそ、きれいだった
湯原には幸せになって欲しい、その為だったら何でもしてやりたい。
人の為に尽くそうとか、格好悪いと前は思っていたけれど。もし格好悪くてもそれでいい。
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