あなたが笑うとあたたかい
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闇夜の始、あいの風 ― another,side story「陽はまた昇る」
医務室の扉を、そっとノックして周太は扉を開けた。
「失礼します」
「あら。警邏にお迎え、御苦労さん」
帰り支度を済ませた立花校医が、にっこり周太に微笑んだ。
「打撲と内出血だけだから。よく冷やしてあげてね」
「はい、わかりました」
保冷器に入れた氷と、湿布の替えを手渡してくれる。受取って周太は、宮田を振り返った。
頬の絆創膏と、肩から肋に巻かれた包帯が痛々しい。喧嘩の仲裁だなんて、本来、宮田の柄ではない。
具合が気になるが、こんな時は、怪我の程度を言うのはプライドを傷つけるだろう。
普段通りの声で、周太は宮田に声を掛けた。
「立てるか?」
「…ああ」
静かに隣に肩寄せ、宮田の腕に周太は体を潜らせた。
宮田の方が上背がある分、小柄でも力はある周太には、支えやすい。
「傷を当てないように、寄りかかって」
思ったより体重がかかってこない。
怪訝に思って振り仰ぐと、宮田がぼんやり立っていた。
「早くしろよ」
促すと、宮田は唇すこし噛んで、寄りかかった。すこし拗ねたような表情が、端正な顔を子供っぽく見せている。
なんでまた拗ねているんだろう。かっこわるいとでも考えているのだろうか。
そんなこと、気にしなくていいのに。
医務室を出、寮へ歩いていく。
かすかな非常灯の明りが、宮田の白い頬を照らした。うすく泣いた痕がある。
相手が何人がかりだろうが、負けた事は男なら、誰だって悔しいだろう。
泣いた痕を見ないように、周太は真っ直ぐ前を見たまま、黙って宮田を支えて歩いた。
急に、隣の影が揺れて、掛っていた体重が外れた。足許に宮田が蹲っている。
周太はかがみ込んで宮田の顔を覗きこんだ。長い指の手が、口元を押えこんでいる。
「宮田?」
「…吐きそう」
近くのトイレへと抱えていくと、宮田は洗面台に手を突いた。
激しい咳込みを繰り返した後、口を漱ぐ。唾液以外は出なかったようだが、さっぱりした顔になった。
タオルを渡して、周太は宮田の額に掌を当てた。熱は無いようだ。
「頭、痛いとかあるか?」
「いや、無い。すこし気持悪かっただけ」
打撲などによる脳障害の症状に、嘔吐感がある。まさか大丈夫だろうとは思っても、周太は気がかりだった。
側頭部や後頭部にも、そっと掌を当ててみる。打撲傷は触った感じには無いようだ。
「頭、打ったとか殴られたりは?」
さすがに、それは防御してたから。答えながら宮田が少し笑った。
訓練であれだけ受身を練習すれば、普通に防御は出来るだろう。それでも頭部はやはり心配だった。
「触っているところ、痛むか?」
「大丈夫だって」
洗面台から顔上げて、宮田が笑った。いつも通りの、屈託のない笑顔が周太の心配を解いていく。
良かった。ほっとして微笑んだ周太に、きれいな笑顔で宮田が言った。
「かわいいよな、やっぱり」
こんな時にまで、宮田は何を言い出すのだろう。やっぱり宮田は、馬鹿なのだろうか。
周太の首筋に熱が昇る、もう間違いなく赤くなるだろう。こんな時にまで出るなんて、この癖も無神経だ。
もう宮田なんか置いていってやれ。一人で廊下へ歩きながら、周太は抑揚無い声で言い捨てた。
「だから、お前はやく眼科行けって」
「う、痛っ…」
呟きに振り返ると、宮田が頭を押さえている。
やはり頭を打っているのか。周太は、すぐに踵を返した。
「宮田?」
覗きこんだ宮田の顔が、にやっと悪戯っぽく笑った。
「心が痛いかなー、なんて?」
「…馬鹿。心配するだろ」
本当にこいつは馬鹿なんだ。周太は呆れながらも、宮田の腕に体を差し入れ支えれた。
薄暗い廊下を少し歩くと、宮田の部屋に着いた。
それなのに宮田は扉を開かない。見上げるとまた、ぼんやりしている。
「部屋、着いたけど」
「あ、」
すこし慌てて、宮田は自室の扉を開けた。
送らせて悪かったな、と言いながら、氷やタオルの入った袋を受取ろうとする。
それを無視して周太は、そのまま宮田の部屋へ入り、デスクライトを点けた。
「ちょっと借りる」
宮田の机に荷物を下ろす。途惑うような視線が、宮田から向けられているのが解る。
視線を横顔に感じながら、氷を細かめに砕いていく。この方が傷への当たりが柔らかいだろう。
さっさと手当の準備をしながら、ぼそり周太は言った。
「ちょうど休憩時間だから」
「え、」
意外そうな顔をして、宮田はまだ扉の前に立っている。
随分と宮田は、ぼんやりしている。こんな様子を放っては、周太は行けなかった。
「手当てしていくから横になって」
羽織った制服の上着を脱ぎ、宮田はベッドで仰向いた。
その隣に周太は腰をおろし、腫れた肩にタオルをかける。その上から氷嚢を当てた。
「氷の重さ、傷に響くようなら調整するから」
肩が少し、熱を持っているようだ。氷嚢の冷たさが心地良いのか、宮田は目を瞑った。
ふっと宮田が口を開いた。
「俺さ、警官続けるの、もう駄目かもしれないって思ったんだ」
「ん、」
そう思うのも無理はない。厳しい訓練を受けたにも関わらず、高校生に負けたら、プライドが傷ついて当然だろう。
今は黙って、思いを吐き出させてやりたかった。周太は静かに相槌をうった。
「じゃあ辞めるか、辞められるか? 遠野にそう訊かれたよ」
自分は辞められなかったと、遠野は言うんだ。
医務室での遠野教官との会話を、なぞるように宮田は話していく。
― 辞める事が責任を取る事じゃない。
ずっと背を向けて来た事と決着をつける。それしか筋を通す方法はない
君も笑顔で行くと決めたんなら、それを通せばいいじゃないか
甘くなんかない、警察官が笑顔でいる事は一番難しい事だ
瞑った目を開き、宮田が見上げてきた。
きれいな切長い目に、うっすらと雫の膜を張った痕がある。
「ずっと背を向けて来た事と決着をつける。そう言われた時、俺、湯原を思い出した」
なぜ?と短く周太は尋ねた。宮田は自分の何を思いだしてくれたのだろう。
切長い目を少し和ませて、宮田は言った。
「警察と拳銃から、背を向けないで湯原は、ここに来ただろ。お前って格好いいよな」
宮田が微笑んで見上げてくるのを、周太は少し茫然と見つめた。
父が殉職した痛みも、越えようとした痛みも、宮田が解ってくれていた。その事が周太の胸裡をほどいていく。
こんな事は今までに無かった。途惑ってしまう。
嬉しい気持に途惑う。誰かに理解してもらえる事が、嬉しいだなんて知らなかった。
「俺もさ、笑顔で通してみるよ。難しい事だけど」
きれいな笑顔で話す宮田は、昨日より大人の男の顔になっている。
暴力や死と隣り合わせの、警察官としての生活。普通の生活で笑っている事と、笑顔の意味が全く違う。
憎悪や悲哀、虚偽。その渦中に警察官は日常を送ることになる。それでも笑顔を忘れない事は、容易い事ではない。
けれど今は、少しからかってでも笑わせてやりたい。周太は少し混ぜっ返した。
「でも宮田、今日も泣いただろ」
素っ気ない言葉が出たが、右手は宮田の頬に近付けて、指でそっと涙を拭った。
宮田の眦に湧き出た涙が、周太の親指に浸透していく。
あたたかいと涙を感じながら、かすかに周太は微笑んだ。
「泣き虫」
「…それ、言うなって」
少し困った顔で、宮田が笑った。
デスクライトの淡い光の下で、きれいな切長い目の瞳がよく見える。少し切ない翳がその瞳を掠めた。
傷が痛むのだろうか。腕の時計を見ると、交替時間まで15分だった。その前に氷を替えて行った方が良さそうだ。
「そろそろ、交替だな。行く前に氷、替えていくから」
「おう、悪いな」
また氷を細かめに砕く。氷嚢を詰めながら、視界の端で宮田を見ると、ぼんやり天井を見つめている。
こんな時に、独りにするのは可哀想にも思う。けれど、こんな時は独りで越えた方が、男としては良い。
周太は口を開いた。
「宮田なら、なれるよ」
「え、」
宮田がゆっくり半身を起こした。デスクライトが傷だらけの体を照らしている。
痛々しい姿に、周太の胸裏が疼く。誰かのこういう姿は辛い、出来れば見たくはない。
それでも目を上げて、周太はいつもの声で言った。
「笑顔の警察官、宮田ならなれるって。宮田の笑顔、きれいだから」
すこし微笑んで、周太はまた手元に視線を落とした。
自分が笑った顔が、今、窓に映って見えて、どきっとした。
映った自分の顔が、母とそっくりの、穏やかな優しい頬笑み。その自分の表情に、周太は途惑っていた。
あんなふうに俺、笑えるんだ
父が殉職した時から、母以外の人間にあんな顔をしたことは無かったと思う。
一体いつから、あんな顔で笑えるようになったのか。
肘で体起こしたまま、宮田は呟いた。
「なれるかな」
「ん、…努力もかなり、必要だとは思うけど」
なんだよと宮田は笑い、仰向けに寝転がった。屈託のない笑顔は、いつも通りに咲いている。
いくらか心を立て直せたのだろう、良かったなと思った途端、周太の胸裡があたたかくなった。
なぜ自分がこんな風に、宮田の事で安心するのだろう。解らない、他人がここまで気に掛るなんて、慣れていない。
周太が隣に座ると、微笑みかけて宮田は言った。
「俺も、決着つけてみるよ。笑顔の」
「ん、」
周太はタオルの場所を定め、患部を包むように氷嚢をあてがう。
今は本当は、なんとなく、あまり宮田に顔を見られたくない。けれど、下から覗きこまれたら、隠しようがない。
こんな時、あまり顔に出ない事が、ありがたいと思う。周太の途惑いに気付かない様子で、ごめんと宮田が口を開いた。
「休憩時間、仮眠とりたかっただろ?ごめんな」
そんな事、気にしなくていいのに。
ベッドから立ち上がり、周太は制帽を手に取った。
「俺も、宮田に面倒見てもらったから。これで貸借りチャラな」
制帽を被りながら言い、周太は扉に手を掛けた。
「また休憩の時、様子見に来るから」
すこし微笑んで、周太は扉を閉めた。薄暗い廊下を歩き出すと、静寂に自分の足音が響く。
しばらく歩いて、周太は、ふっと膝が崩れ落ちそうになった。
一体、なんなのだろう。壁に寄りかかって周太は息をついて、ゆっくり瞬いた。
今見たばかりの、きれいな宮田の笑顔が、心に掛っている。なぜ自分は、この笑顔に捕われているのだろう。
そんなにも、自分は宮田の無事に、安心しているのだろうか。こういうのは慣れていない、よく解らない。
― ずっと背を向けて来た事と決着をつける。そう言われた時、俺、湯原を思い出した
警察と拳銃から、背を向けないで湯原は、ここに来ただろ。お前って格好いいよ
独りで、自分が信じる道をただ、真直ぐに歩いてきた。誰に理解されなくても、構わないと思っていた。
けれど、宮田が理解して、認めてくれていた事が、こんなに嬉しい。
理解してくれる人が、無事で傍に居ることが嬉しい。
宮田が隣に居る事が、当然のように今はなっている。
けれど今、傷だらけの宮田を見た時に、思い知らされた何かが、周太の中にあった。
― 誰かが隣にいるのって、悪くないでしょう?
宮田が実家に遊びに来た日の、母の言葉が思いだされた。
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