ほんとうは決まっている

緑翳の下、秋風― another,side story「陽はまた昇る」
実家での目覚めは、爽やかだった。
気怠さの名残が体幹に蹲るけれど、心は少し晴れていた。
母に全て受け留めてもらえた、幸せと後ろめたさが、心で存在感をみせている。
それでも、また宮田に会える事が、周太は嬉しかった。
いつものように、庭掃除と朝食の支度をして、実家を後にした。
次はいつ、帰って来られるのか解らない。それでも母と穏やかな朝を過ごして、いってきますと微笑んで出た。
30分ほど電車に乗ると、新宿に着く。
扉のそばに立って、窓の外を見る。前髪がかすかにガラスに触れた。
車窓の緑が淡く色を増している。昨夜は幾分、涼しかったからだろうか。
昨夜は、開けた窓からの風が、ひんやりと涼しくて快かった。
昨夜、初めて宮田に電話を掛けた。
自室で窓枠に凭れて、携帯を開いた。
なかなかボタンを押せない背中に、窓枠の木肌は温かい。
こんなふうに、宮田と並んで話した事を、不意に思い出して懐かしかった。
そして、会いたかった。
あいたい、会いたい、今もう逢いたい― 想いが漸く、指を動かした。
「湯原?」
ワンコールで出た声に、心が泣きだしそうになった。
また声が聴けた、それだけで嬉しくて温かで、泣きそうだった。
震えそうな声を呑みこんで、いつもの声で周太は言った。
「明日何時に新宿を発つ?」
「あ、そうだな…11時半位かな」
昼過ぎには青梅署に着こうと思う。言って、電話の向こうで宮田が笑った。
「見送り来てくれるの、湯原?」
嬉しそうな声が、嬉しい。
周太の首筋が熱くなってくる。それでも抑揚無い声で、素っ気なく言ってしまった。
「そう、じゃ南口改札に9時で」
「おう、また明日な」
また明日な。
いつも警察学校の寮で、あの小さな部屋で眠る前、掛けられていた言葉。
一昨日まで何気なく聞いていたのに、もうこんなに懐かしい。
どれも小さな事だけれど、携帯電話を通した一つひとつが嬉しかった。
携帯を切った後、ひとすじの涙の軌跡が頬に残っていた。
新宿駅の南口改札を抜け、途中でキオスクに寄った。
昨日から何となく喉が痛い。目当ての飴を見つけて、すこしほっとした。買って、私鉄の改札前に向かう。
すこし早めに着いたから、宮田はまだ来ていない。
ここからなら、階段を上がって来る姿が見やすい。そう思っていると、懐かしい姿が目に映った。
すぐに気がついて、宮田は微笑んだ。
「おはよう」
いつものように、やさしい静かな空気が迎えてくれる。
それでも、どこか初対面のように初々しい。
6ヶ月間馴染んだ空気の変化が、一昨夜を現実だったと思わせた。
ここで別れて、まだ1日しか経っていない。それなのに随分久しぶりの様で、面映ゆさがもどかしい。
結論もまだ話していない。それでも周太は、宮田の笑顔がただ嬉しかった。
そのまま歩きだす。無言だけれど、息苦しくない。
こんな時でも変わらない。やさしい静かな隣は、きっと今も微笑んでいる。
まだ何も話していない。けれど今、隣に居ることが嬉しい。
もう、会えないと思っていた。
二度とこの隣には、戻れないと思っていた。
―大切な一瞬を積み重ねていったなら、後悔しない人生になっていくはずよ
母の昨日の言葉を、本当だなと思う。
今、この一時を大切にしたい。
「湯原、」
呼び掛けに、周太は振り向いた。
やっぱり、いつもの笑顔で、宮田は笑っていた。
「パン買わせて。俺、朝飯まだなんだ」
周太は微笑んだ。顔を上げると、瀟洒なパン屋の前に立っていた。
軽くうなずいて、パン屋の扉を押した。
いつもの公園に着く。
昨日も来たばかりなのに、木々はまた淡く色彩を深めていた。
ぼんやり見上げる宮田に、いつものようにチケットを渡した。
「いつものように」は、一昨日で終わりだと思っていた。
けれど、その続きに今は立っている。それだけで周太は嬉しかった。
言葉は無いまま、いつもの小道を歩いていく。
足許を樹影が揺れて、白い道をモノトーンに染めて光る。その合間に時折、黄葉が落ちていた。
たった1日だけで、景色が移り変わっている。
この隣とも1日で、少し違う空気が挟まれている。
やさしい静けさは変わらないけれど、かすかな緊張と微妙な温もり。
ただ一夜で、こんなふうに変わってしまう事があるなんて、周太は初めて知った。
明日があるか解らない。そんな自分達に差し出された「あの時」
たった一度の「時」で、自分がこんな風に変えられるなんて、知らなかった。
いつものベンチに着いた。
いつものように座ると、木洩日がやさしい。木立からの風が、頬を撫でていく。
そうだと思いついて、周太はそっと立ち上がった。
いつもの自販機を見上げると「あたたかい」の表示が目に入る。
もうそんな季節になったのだな、とコーヒーを2本買った。掌の熱さから、もう秋だと実感が伝わった。
「秋は恋を始めるに良い季節」と書いてあったのは、どの本だったろう。
そんな事を思った端から、首筋が熱くなりかける。周太は首を振った。
ベンチに戻ると、宮田はもうクロワッサンを齧っている。
微笑みが幸せそうで、周太は思わず微笑んだ。目の先に、缶コーヒーを差し出してやる。
「おごってやる」
「お、ありがとう」
いつもの笑顔が変わらず優しい。
きれいで見惚れそうになる笑顔は、一昨日の夜もそうだった。
こんな顔で言われたら、いったいどうしたら拒めたのだろう。
そんな事を思った端から、また首筋が熱くなりかける。
いけないと軽く首を振って、周太はプルトップを開けた。
香ばしい匂いがほっとする。ひとくち飲んで、周太は鞄から本を出すと、ページを捲った。
葉摺れの音が、風に揺れていく。いつもより早い時間の公園は、いつも以上に静かだった。
クロワッサンが口で崩れる音が、静けさに混じる。
風が涼しくなったなと思いながら、ゆっくりとページを捲っていく。ここでの読書が周太は好きだった。
紙袋を丸める音が聞えた。宮田の朝食が終わったらしい。
そろそろ、話さないといけない。
ゆっくり目を上げ、宮田を振り返ると、きれいな笑顔で周太は見つめられていた。
こんな顔されると、どう話していいのか解らなくなる。
どうしよう。
途惑ったまま、ぼそっと周太は言った。
「旨かった?」
宮田の肩の力が、抜けたように見えた。
きれいな切長い目が見つめている。そんなに見られると余計困る、緊張してしまう。
周太は眉を顰めたまま口を開いた。
「…パン、旨かったか訊いてるんだけど」
黙ったまま、宮田が見つめている。
どうしようと思うと、首筋が熱くなってくる。もう赤く染まり始めているだろう。
ぼそぼそと周太は言った。
「…旨いなら、今度また、買って、一緒に食おうと、思ったんだけど」
らしくない、たどたどしい物言いになって恥ずかしかった。
とりあえず、周太は本を開いた。たぶん頬も赤くなっている。
「今度、一緒」
隣から呟きが聞えた。
不意に、ゆっくりと肩に重みが掛って来る。
宮田が肩に凭れかかっていた。そのまま、隣は微笑んだ。
「旨かったよ。今度、一緒に買いに行こう」
解ってもらえた、受取ってもらえた。それがこんなに嬉しいと、周太は思っていなかった。
誰にも理解されなくて構わないと、すこし昔の自分は思っていた。
それなのに今、こんなに嬉しい。
周太の頬を、涙が零れた。
その頬に、あたたかな柔らかさが触れた。宮田が、涙に唇を寄せている。
嬉しくて、幸せで、周太の心がほどけていく。
「…宮田、」
ぼそりと呟いた。
どうしたと目で答えて、宮田が瞳を覗き込んでくれる。その目を周太は見つめた。
「このベンチで、昨日、母と話した」
「うん、」
宮田は体を起し、周太に向き合うように座り直した。
きちんと聴いてくれようとしている。宮田の繊細さはいつも、こんなふうに優しい。
周太も少し体を傾けて、宮田の目を真直ぐに見て、口を開いた。
「母は気付いていた、と言った」
静かに宮田は、周太の瞳を見つめている。ゆっくり瞬いて、周太は言葉を続けた。
「宮田の、俺の写真を見る目が、父が母を見た目と同じだったから、気付いたと言った」
外泊日に湯原の家に泊まった夜、母がアルバムを見せていた事が懐かしい。
あの時、自分はどんな顔をしていたのだろう。
「その隣を得難いと思うなら、そこで一瞬を大切に重ねて生きなさい。
大切な一瞬を積み重ねて行ったなら、後悔しない人生になるはずだから」
母はそう言って笑ったんだ。
言って真直ぐ宮田を見つめたまま、周太の瞳から涙があふれた。
「宮田、母は、我儘を言ったんだ。『お母さんより先に死なないで』と」
自分より先に死なないで―
夫を殉職で亡くした、母の痛みが改めて悲しい。
それでも息子を警察学校へ送り出した母。母の瞳はいつも、静かな覚悟を満たしている。
申し訳なくて、ありがたくて、周太の頬を涙はとめどなく零れていく。
「そして俺に、生れてきてよかったと、最後の一瞬には笑ってほしいって。
その時はきっと、母は父の隣で、その俺の笑顔を見ている。そう言ったんだ」
震える肩が、宮田に静かに抱かれた。
あたたかい。
嗚咽が宮田の胸元で、あたためられていく。
静かで穏やかな、やさしい隣が、自分の全てを抱き止めようとしてくれている。
周太はただ、嬉しかった。
そっと身を離すと宮田は、涙の頬を長い指で拭ってくれた。
涙は、零れることは治まっていた。
訊いても良いのだろうか。
すこしの不安と、それでも訊いてみたい心が混じり合う。
周太は微かに、唇を開いた。
「宮田、俺は、隣に居ても、いいのかな」
きれいに宮田は微笑んだ。
「俺の隣に居て欲しい。湯原の隣に、俺は居たい」
淡い黄色と緑の翳で、きれいな切長い目が笑った。
風が梢を揺らして、木々の葉が降りかかる。静かに宮田が、肩を抱きしめてくれる。
もう二度と逢えないかもしれないと、昨日離れた肩が今ここに温かい。
ぱさりと軽い音をたてて、本は膝からすべり落ちた。



