萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

緑翳の下、秋風― another,side story「陽はまた昇る」

2011-09-26 23:55:49 | 陽はまた昇るanother,side story

ほんとうは決まっている




緑翳の下、秋風― another,side story「陽はまた昇る」

実家での目覚めは、爽やかだった。
気怠さの名残が体幹に蹲るけれど、心は少し晴れていた。
母に全て受け留めてもらえた、幸せと後ろめたさが、心で存在感をみせている。
それでも、また宮田に会える事が、周太は嬉しかった。

いつものように、庭掃除と朝食の支度をして、実家を後にした。
次はいつ、帰って来られるのか解らない。それでも母と穏やかな朝を過ごして、いってきますと微笑んで出た。

30分ほど電車に乗ると、新宿に着く。
扉のそばに立って、窓の外を見る。前髪がかすかにガラスに触れた。
車窓の緑が淡く色を増している。昨夜は幾分、涼しかったからだろうか。
昨夜は、開けた窓からの風が、ひんやりと涼しくて快かった。

昨夜、初めて宮田に電話を掛けた。

自室で窓枠に凭れて、携帯を開いた。
なかなかボタンを押せない背中に、窓枠の木肌は温かい。
こんなふうに、宮田と並んで話した事を、不意に思い出して懐かしかった。
そして、会いたかった。

あいたい、会いたい、今もう逢いたい― 想いが漸く、指を動かした。

「湯原?」

ワンコールで出た声に、心が泣きだしそうになった。
また声が聴けた、それだけで嬉しくて温かで、泣きそうだった。
震えそうな声を呑みこんで、いつもの声で周太は言った。

「明日何時に新宿を発つ?」
「あ、そうだな…11時半位かな」

昼過ぎには青梅署に着こうと思う。言って、電話の向こうで宮田が笑った。

「見送り来てくれるの、湯原?」

嬉しそうな声が、嬉しい。
周太の首筋が熱くなってくる。それでも抑揚無い声で、素っ気なく言ってしまった。

「そう、じゃ南口改札に9時で」
「おう、また明日な」

また明日な。
いつも警察学校の寮で、あの小さな部屋で眠る前、掛けられていた言葉。
一昨日まで何気なく聞いていたのに、もうこんなに懐かしい。

どれも小さな事だけれど、携帯電話を通した一つひとつが嬉しかった。
携帯を切った後、ひとすじの涙の軌跡が頬に残っていた。


新宿駅の南口改札を抜け、途中でキオスクに寄った。
昨日から何となく喉が痛い。目当ての飴を見つけて、すこしほっとした。買って、私鉄の改札前に向かう。
すこし早めに着いたから、宮田はまだ来ていない。
ここからなら、階段を上がって来る姿が見やすい。そう思っていると、懐かしい姿が目に映った。
すぐに気がついて、宮田は微笑んだ。

「おはよう」

いつものように、やさしい静かな空気が迎えてくれる。
それでも、どこか初対面のように初々しい。
6ヶ月間馴染んだ空気の変化が、一昨夜を現実だったと思わせた。

ここで別れて、まだ1日しか経っていない。それなのに随分久しぶりの様で、面映ゆさがもどかしい。
結論もまだ話していない。それでも周太は、宮田の笑顔がただ嬉しかった。

そのまま歩きだす。無言だけれど、息苦しくない。
こんな時でも変わらない。やさしい静かな隣は、きっと今も微笑んでいる。
まだ何も話していない。けれど今、隣に居ることが嬉しい。

もう、会えないと思っていた。
二度とこの隣には、戻れないと思っていた。

―大切な一瞬を積み重ねていったなら、後悔しない人生になっていくはずよ

母の昨日の言葉を、本当だなと思う。
今、この一時を大切にしたい。

「湯原、」

呼び掛けに、周太は振り向いた。
やっぱり、いつもの笑顔で、宮田は笑っていた。

「パン買わせて。俺、朝飯まだなんだ」

周太は微笑んだ。顔を上げると、瀟洒なパン屋の前に立っていた。
軽くうなずいて、パン屋の扉を押した。


いつもの公園に着く。
昨日も来たばかりなのに、木々はまた淡く色彩を深めていた。
ぼんやり見上げる宮田に、いつものようにチケットを渡した。

「いつものように」は、一昨日で終わりだと思っていた。
けれど、その続きに今は立っている。それだけで周太は嬉しかった。

言葉は無いまま、いつもの小道を歩いていく。
足許を樹影が揺れて、白い道をモノトーンに染めて光る。その合間に時折、黄葉が落ちていた。
たった1日だけで、景色が移り変わっている。

この隣とも1日で、少し違う空気が挟まれている。
やさしい静けさは変わらないけれど、かすかな緊張と微妙な温もり。
ただ一夜で、こんなふうに変わってしまう事があるなんて、周太は初めて知った。

明日があるか解らない。そんな自分達に差し出された「あの時」
たった一度の「時」で、自分がこんな風に変えられるなんて、知らなかった。

いつものベンチに着いた。
いつものように座ると、木洩日がやさしい。木立からの風が、頬を撫でていく。
そうだと思いついて、周太はそっと立ち上がった。

いつもの自販機を見上げると「あたたかい」の表示が目に入る。
もうそんな季節になったのだな、とコーヒーを2本買った。掌の熱さから、もう秋だと実感が伝わった。
「秋は恋を始めるに良い季節」と書いてあったのは、どの本だったろう。
そんな事を思った端から、首筋が熱くなりかける。周太は首を振った。

ベンチに戻ると、宮田はもうクロワッサンを齧っている。
微笑みが幸せそうで、周太は思わず微笑んだ。目の先に、缶コーヒーを差し出してやる。

「おごってやる」
「お、ありがとう」

いつもの笑顔が変わらず優しい。
きれいで見惚れそうになる笑顔は、一昨日の夜もそうだった。
こんな顔で言われたら、いったいどうしたら拒めたのだろう。

そんな事を思った端から、また首筋が熱くなりかける。
いけないと軽く首を振って、周太はプルトップを開けた。
香ばしい匂いがほっとする。ひとくち飲んで、周太は鞄から本を出すと、ページを捲った。

葉摺れの音が、風に揺れていく。いつもより早い時間の公園は、いつも以上に静かだった。
クロワッサンが口で崩れる音が、静けさに混じる。
風が涼しくなったなと思いながら、ゆっくりとページを捲っていく。ここでの読書が周太は好きだった。

紙袋を丸める音が聞えた。宮田の朝食が終わったらしい。
そろそろ、話さないといけない。

ゆっくり目を上げ、宮田を振り返ると、きれいな笑顔で周太は見つめられていた。
こんな顔されると、どう話していいのか解らなくなる。
どうしよう。
途惑ったまま、ぼそっと周太は言った。

「旨かった?」

宮田の肩の力が、抜けたように見えた。
きれいな切長い目が見つめている。そんなに見られると余計困る、緊張してしまう。
周太は眉を顰めたまま口を開いた。

「…パン、旨かったか訊いてるんだけど」

黙ったまま、宮田が見つめている。
どうしようと思うと、首筋が熱くなってくる。もう赤く染まり始めているだろう。
ぼそぼそと周太は言った。

「…旨いなら、今度また、買って、一緒に食おうと、思ったんだけど」

らしくない、たどたどしい物言いになって恥ずかしかった。
とりあえず、周太は本を開いた。たぶん頬も赤くなっている。

「今度、一緒」

隣から呟きが聞えた。
不意に、ゆっくりと肩に重みが掛って来る。
宮田が肩に凭れかかっていた。そのまま、隣は微笑んだ。

「旨かったよ。今度、一緒に買いに行こう」

解ってもらえた、受取ってもらえた。それがこんなに嬉しいと、周太は思っていなかった。
誰にも理解されなくて構わないと、すこし昔の自分は思っていた。
それなのに今、こんなに嬉しい。

周太の頬を、涙が零れた。
その頬に、あたたかな柔らかさが触れた。宮田が、涙に唇を寄せている。
嬉しくて、幸せで、周太の心がほどけていく。

「…宮田、」

ぼそりと呟いた。
どうしたと目で答えて、宮田が瞳を覗き込んでくれる。その目を周太は見つめた。

「このベンチで、昨日、母と話した」
「うん、」

宮田は体を起し、周太に向き合うように座り直した。
きちんと聴いてくれようとしている。宮田の繊細さはいつも、こんなふうに優しい。
周太も少し体を傾けて、宮田の目を真直ぐに見て、口を開いた。

「母は気付いていた、と言った」

静かに宮田は、周太の瞳を見つめている。ゆっくり瞬いて、周太は言葉を続けた。

「宮田の、俺の写真を見る目が、父が母を見た目と同じだったから、気付いたと言った」

外泊日に湯原の家に泊まった夜、母がアルバムを見せていた事が懐かしい。
あの時、自分はどんな顔をしていたのだろう。

「その隣を得難いと思うなら、そこで一瞬を大切に重ねて生きなさい。
 大切な一瞬を積み重ねて行ったなら、後悔しない人生になるはずだから」

母はそう言って笑ったんだ。
言って真直ぐ宮田を見つめたまま、周太の瞳から涙があふれた。

「宮田、母は、我儘を言ったんだ。『お母さんより先に死なないで』と」

自分より先に死なないで―
夫を殉職で亡くした、母の痛みが改めて悲しい。
それでも息子を警察学校へ送り出した母。母の瞳はいつも、静かな覚悟を満たしている。
申し訳なくて、ありがたくて、周太の頬を涙はとめどなく零れていく。

「そして俺に、生れてきてよかったと、最後の一瞬には笑ってほしいって。
 その時はきっと、母は父の隣で、その俺の笑顔を見ている。そう言ったんだ」

震える肩が、宮田に静かに抱かれた。
あたたかい。

嗚咽が宮田の胸元で、あたためられていく。
静かで穏やかな、やさしい隣が、自分の全てを抱き止めようとしてくれている。
周太はただ、嬉しかった。

そっと身を離すと宮田は、涙の頬を長い指で拭ってくれた。
涙は、零れることは治まっていた。

訊いても良いのだろうか。
すこしの不安と、それでも訊いてみたい心が混じり合う。
周太は微かに、唇を開いた。

「宮田、俺は、隣に居ても、いいのかな」

きれいに宮田は微笑んだ。

「俺の隣に居て欲しい。湯原の隣に、俺は居たい」

淡い黄色と緑の翳で、きれいな切長い目が笑った。
風が梢を揺らして、木々の葉が降りかかる。静かに宮田が、肩を抱きしめてくれる。
もう二度と逢えないかもしれないと、昨日離れた肩が今ここに温かい。
ぱさりと軽い音をたてて、本は膝からすべり落ちた。




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第10話 樹翳、明けの風― another,side story 「陽はまた昇る」

2011-09-26 21:16:59 | 陽はまた昇るanother,side story
祈り、おだやかな緑の翳に



第10話 樹翳、明けの風― another,side story 「陽はまた昇る」

初秋の陽射しが、木々を揺らして光落とす。
ゆっくり歩いていく周太の足許に、街路樹の木洩日が青く揺れている。
いつもと違う体の感覚を、周太は持て余してしまう。こんな事は慣れていない。

卒業式だった昨日の夜は、非現実だった。
透明な甘さと哀しみに、心ごと抱かれてほどかれた。
隣はずっと、いつものように穏やかだった。あたたかさが切なくて、嬉しい分だけ不安をくれた。

…全てが現実だなんて。

こんなこと信じ難くて、不安が募る。
けれど気怠い体が、昨夜の全ては現実だと教えてくれる。

首筋に肩に腕に、体中に残された痕には、まだ熱が燻っている。その熱が心にも、痕を残してしまう。
喉もすこし痛い、かすかに声が掠れる。声も体も昨日と違ってしまった自分に、ただ途惑う。
なにもかも初めての感覚が、途惑いと寂しさを張りつめさせて、苦しい。

昨日の今頃は、何も知らなかった。
たった一日で、世界も感覚も、何もかもが違う空気で佇んでいる。

おろしたままの前髪を、風が撫でていく。
その感触に、昨夜の掌を想ってしまう。こわれものに触れるように、やさしい掌。
昨夜の時間を取り戻したいと、心の底で望んでしまう、もう願っている。
けれどそれは、二度と望むことが許されなくなるかもしれない。

今から母に告げなくてはいけない、そしてこの願いは殺される?そんな可能性がもう怖い。

もう、逢えないかもしれない。
けれど今朝、宮田に別れを告げる事は、周太には出来なかった。
隣に居たい気持ちを、裏切るような事は言えなかった。なによりも「逢えない」ことを認めたくなかった。

…こんなことになるなんて、どうして…でも逃げたくない、だけど

心あふれだすまま、想いは募る。
こんな物想いも初めてに途惑う、そして涙を堪えている自分がいる。
いま瞳の奥に涙を見つめて歩く道、その街路樹が途切れて大きな緑陰が見えてきた。
公園と街を区切る重厚な門扉を周太は見上げた。とうとう、約束の場所に着いてしまった。

…あ、お母さんもういてくれる

公園の門前で、母は待ってくれていた。
淡く黄葉をみせる緑陰に佇む母の姿、もう見つけた途端に心は惑って泣きそうになる。
どんな顔を今、自分はしているのだろう。そんな想いの向こうで母がゆっくり振向いた。

「周、」

すぐに見つけて、母がそっと歩み寄ってくれる。
おはよう、と穏やかな声で微笑んで、一人息子の周太を見上げた。

「ご卒業、おめでとうございます」
「ありがとうございます」

面映ゆくて、周太は笑った。けれど卒業の明るい気持はすぐに、締め上がる様な気持にかわる。
これから母に、真実を話さなくてはいけない。きっと話したらもう、母子の関係も変化する。
その変化の行方が怖い、この不安の前で母は公園の門を見上げ、穏やかに微笑んだ。

「懐かしいわ、」

遠くを見つめるような瞳は、父との若い日を想っているのかもしれない。
齢を忘れたような初々しい母の表情が、とても眩しく見える。

「見ていないで、入ろうよ。お母さん」

二人並んで、緑の中へ入っていく。
昨日、宮田と歩いたばかりのこの場所が、昨日と今日で全く違う世界のように目に映る。
木もベンチも何もかもが同じ筈、なのに違う。

…隣に、宮田がいないから、かな

今は、隣に母が歩いている。
いつも通りの穏やかで、優しい空気が周太を包んでくれる。
この空気を壊してしまいたくない。それでも真実を秘密にする事は、大切な人を二人ながらに傷つける。

…言うんだ、正直に

呼吸ひとつに覚悟と涙を呑みこんで、周太は口を開いた。

「お母さん、」

どうしたのと瞳で訊いてくれる。
そんないつもの穏やかな空気に誘い込まれるよう、周太は続けた。

「昨夜は、急に外泊して、ごめん」

ふふっと母が声を出して笑った。
可笑しくて堪らないという顔で、楽しげな声が言ってくれた。

「社会人で男なら、それくらい無かったら困るわ」

母の言葉に、肩からすこし力が抜かれる。
こんなこと初めてで途惑う、そんな息子に微笑んで、悪戯っぽく瞳を輝かせた母は言った。

「それに、昨日は帰ってこないだろう。って思っていたし」
「…どうして?」

どうして母はそう思ったのだろう?
不思議で問いかけた隣で、穏やかな黒目がちの瞳は微笑んだ。

「なんとなくよ、」

言って母は、楽しそうに息子の顔を眺めている。
今言わなくてはと、周太は少し唇を噛み締めて、口を開いた。

「呑んだのは本当。だけど、一緒に泊まったのは、友達じゃない」
「…ん、」

もう、昨夜の後では、宮田をただ、友達とは呼べない。
ちらっと周太の顔を見、また景色を眺めて、母は歩いて行く。一瞥した母の瞳は、悪戯っぽいままだった。
聡明な母は、何か気づいているのだろうか?そうだとしても、自分の口から言わない訳にはいかない。
ひとつ息を吸って、周太は声を押し出した。

「大切な人と、一緒だった」

振り返った母の瞳は、穏やかだった。静かに母の唇が開く。

「それは、恋人?」

恋人 ― 宮田が。と思うと周太は不思議な、複雑な気持ちになった。
恋人という括りだけでは、ちょっと違う。けれど今は、他に似つかわしい言葉も浮かんでこない。
ただ母の言葉に黙って頷いた周太に、ふっと母は微笑んだ。

「良かった。周に、そういう人が居てくれて嬉しいわ」

それが男だと告げたら。この穏やかな母に、どんな顔をさせるのだろう。
知らない方が幸せだと言う事も、あるかもしれない。
けれどこの母に、真実を告げない事は、裏切りになってしまう。

―これからは2人、助けあって生きようね。お互い隠し事をしないと約束しましょう、隠し事は人の間に溝と壁を作ってしまうから

幼いあの日。父の弔いをすべて済ませた後で、母が言った言葉。
ふたり約束を守る事で、今日まで真直ぐ母と向き合い、生きてこられたと思う。 
隠し続ける事なんて、出来ない。

…それでも、口を開くのが、怖い

殉職者遺族、母子家庭。普通とは違うと、言われ続けてきた。
ドラマチックに生きたいと口では言っても、現実には平凡な幸せを、誰もが望むだろう。
平凡とは遠い家庭、それを更に普通から、遠ざかると告げる。

なんて自分は、親不幸なのだろう?

右掌は左手首の時計を握りしめ、その掌に秒針の鼓動がどこか温かい。
父の遺品の腕時計、その鼓動にすこしだけ心が凪いでくる。

…お父さんごめんなさい…お母さんを今から泣かせてしまう、よ

不自由なく育ててくれた母。普通の家庭より劣ると感じた事は、一度も無かった。
華奢な母の肩で、それは決して楽ではなかった「普通に近く」暮らす事。
それを壊すような事を、自分は望んでしまった。

…男同士だなんて知ったら、普通じゃないって知ったら…おかあさん

大切な母を、傷つける事が怖い。怖くて、怖くて、苦しい。
けれど、自分を誤魔化す事なんて、もう出来ない

…言わなくちゃ、

口の中が、渇く。
声を押し出そうとするけれど、胸に大きく詰まってしまう。
苦しい、息が出来ない、呼吸がおかしくなっていく。このまま心臓が止まりそうになる。

…息、できない、

その時、ふっと隣の空気が揺れた。

「やさしい嘘なんて、私達には要らないのよ」

穏やかな声が、周太に響く。隣からは、黒目がちの瞳が見上げていた。
青く澄んだ落着いた光を湛え、周太を見ている。
もう、黙っているのは嘘になる。
周太の口が動いた。

「宮田と、一緒だったんだ」

母が立ち止まった。
周太は瞑目し、ゆっくり見開く。真直ぐに母の瞳を見詰めて、言った。

「俺、宮田の隣に、ずっと一緒に居たい」

梢が揺れて黄葉を降らせた。強張りそうな頬を、木の香りが撫でていく。
母の白い額に、揺らめく木漏れ日が明滅する。
見上げる黒い瞳がすこし揺れ、すっとほのかに微笑んだ。

「腰、掛けましょうか」

母が指差したベンチは、宮田との指定席だった。
木漏れ日の緑に照らされた、端正な顔が心に映る。
昨日も、ここに座り背凭れていた。綺麗な切長い目を細めては、ぼんやり空を見ていた。

…けれど、もう二度と、隣に座れないかもしれない

母を泣かせてまでも、宮田の隣には居られない。
この母を守りたくて、今まで生きてきた。母を置き去りにするような事は、出来る筈が無かった。
父の無残な遺体に誓った、その生き方を変える事など出来ない。

それでも、宮田の隣が好きだ。

寮の小さな部屋で。教場、運動場、学習室、それからこのベンチ。どれも、何でも無いような風景だった。
でもそれが、どんなに得難いものだったのか。偽ることなど出来そうにない。
ふっと周太の瞼が熱くなりかけ、ゆっくり瞬きして閉じ込めた。

今は、母が隣に座っている。梢から降る陽射しが、霜を隠した黒髪に揺れて映える。
風ゆれる木洩陽のなか、静かに母の唇が開いた。

「警察官は、いつ死ぬか解らない。だから今を、精一杯に生きていたい」

お父さんが言った言葉よ。母は微笑んだ。
黒目がちの瞳を細め、記憶を辿るように、ひとつひとつの言葉を紡ぎはじめる。

「警察官の自分は、一秒後すら、生きているのか分らない。今、この一瞬を生きる事しかできません。
だからこそ、愛するあなたの隣で、一瞬を大切にしたいと願います。あなたを遺して明日、死ぬかもしれない。
けれど、今、この一時を精一杯に努力して、あなたを幸せにします。これがね、お父さんのプロポーズの言葉だったのよ、」

これがプロポーズ、そう言った母の黒目がちの瞳は、幸せに微笑んだ。
父がこんな言葉を言う人だと、周太は初めて聴いた。
そして、その通りに父は生きていたと思う。

― 明日があるのか分らない。だから、今この時を大切に重ねて、俺は生きたい

昨夜、宮田に言われた言葉。父の言葉と宮田の言葉は重なる。
今この時を精一杯、大切に生きていく。自分にとって大切に生きる事は、何と向き合う事だろう。

…今は、お母さんと向合うことだ

そっと心に思う隣、緑繁る明るい光の中で母の顔がほの白く浮かんでいる。
ふだん通りに穏やかな、母の声。警察学校に行くと告げた時は、あんなに取り乱していたのに。
あのときとの落差が不思議で、周太は母に問いかけた。

「落ち着いて、話してくれるんだ」

ふっと笑って母は、何でも無いように答えた。

「覚悟なら、警察学校に行くと決めた時に、したもの」

どんなに辛い、選択をさせたのだろう。周太の心が軋んだ。
けれど目の前の母は、静かに微笑んで座っている。

「周太も警察官だから、お父さんのように生きるしかないわ」

静かな瞳で母は、穏やかな口調のまま、続けた。

「刹那的だと、笑う人もいるでしょう。でも、死と隣り合わせで生きる事を選んだのなら、明日なんて無いかもしれない。
明日を考える前に。今の一瞬を後悔しないで、生きるしかないでしょう?それが警察官って仕事を選んだ人と、家族の選択だわ」

隣から母が見上げた。黒目がちの瞳が漲り、陽光にきらめいている。少し悲しそうで、奥に決意をともした瞳。
黙ったまま、だけれど穏やかに、周太は母の視線を受止めた。

「でも一つだけ、お母さんに我儘を言わせて欲しいの」

母は何を言うのだろう。
宮田の事だろうか。もし拒絶されたら、周太は母に従わざるを得ないだろう。

― あなたを遺して明日、死ぬかもしれない。けれど、今、この一時を精一杯に努力して、あなたを幸せにします

そんなふうに父と過ごし、たった独りで自分を育ててくれた母。
寂しくなかったと言えば、嘘になるだろう。そんな母を独りにしたくない。

…宮田、さよならかもしれない

思っただけで胸が崩れそうになる。本当は、さよならなんて出来やしない。
あの隣から離れる事なんて出来ない。もう、他の誰の隣も求めない。

さよならなんて、本当は出来ない。
それでも、母を独りには出来ない。

すこしだけ瞑目してから瞠いて、周太は黒目がちの瞳で母を見た。
見詰めた母の唇が、ふっと開き呟いた。

「周太、お願い。お母さんの我儘を訊いて?」
「はい」

短く答え、周太は母の瞳を見詰めた。自分とよく似た黒目がちの瞳が、真直ぐに自分を見返してくる。
その瞳が、やわらかく微笑んだ。

「お母さんより先に、死なないで」

母の声はいつも通り、穏やかだった。瞳も静かなまま、母は普段通りに座っている。
周太の中で、すっと何かが肚に落着いた。

「あなたが生き抜いて、この世と別れるとき。生まれて良かったと、心から笑ってね」

微笑んだままの母が言う。周太の眦が熱くなり、一筋の熱が、頬伝って零れ落ちた。
穏やかな母の声が、静かに周太に響く。

「周が、後悔しない人生であったなら、それでいい」

後悔しない人生―
訊いたばかりの、父の言葉が響くように思い出される。

  一秒後すら、生きているのか分らない。今、この一瞬を生きる事しかできません
  だからこそ、愛するあなたの隣で、一瞬を大切にしたいと願います
  あなたを遺して明日、死ぬかもしれない。けれど今、この一時を精一杯に努力して、あなたを幸せにします

…お父さん、かっこよすぎるよ?

そんな父が誇らしくて、そして、やっぱり大好きだと思ってしまう。
もう父は亡くなって13年が過ぎた、それでも父の温もりはこうして自分を包んでくれる。
その温もりに佇む息子を見つめ、微笑んだまま母は言葉を続けた。

「周太。お母さんは、お父さんの妻で幸せよ」
「…ん。俺も、そうだと思う」
「だから、あなた達も自信を持ちなさい」

周太は母の顔を見た。いつもどおりの穏やかで、きれいな笑顔だった。
美しい黒目がちの瞳が微笑んで周太を見つめてくれる、そして静かに母の声が言った。

「宮田くんの隣を、得難いものだと思うのなら。そこで一瞬を、大切に重ねて生きなさい」

…宮田の隣

ただ言葉で聴いただけなのに、心が温かくなる。
ほら、もうこんなに求めている、そんな自覚が浸しだす。
ただ木洩陽ゆれる膝のうえ握りしめた掌を、そっと母の手が包んだ。

…あったかい、お母さんの手

自分の手が冷え切っていたと今、包まれて気がつかされる。
穏やかな温もりが掌から心にながれる、ほっと心ほどかれていく。
やわらかに手を包んでくれたまま、穏やかに母は言葉を続けた。

「大切な一瞬を積み重ねていったなら、後悔しない人生になっていくはずよ」

周太は目の前の、母の瞳を茫然と見つめた。
泣かれると思っていた。けれど母は、穏やかに黒目がちの瞳で見つめてくれる。
ゆっくり瞬いて、周太は口を開いた。

「男同士だなんて普通じゃ無い…それでもお母さんは、いいの?」
「そうね、お母さんも本当は、ちょっと悩んだわ。でも、なんとなく気付いていたし」

すこし気恥ずかしそうに母は笑って、包んだ周太の手を軽く叩いた。
その手に梢から青い翳が落ちている。周太は疑問を口にした。

「気付いていた、て…?」

宮田くんにアルバム見せた時よ。
周太の手を戻すと、木洩日の中、母は静かに微笑んだ。

「宮田くんのね、周の写真を見る目が、お父さんそっくりだったの」

父さんと宮田が。周太は少し驚いて、母の目を覗き込んだ。
懐かしげに初々しい表情で、黒目がちの瞳が周太に笑った。

「お父さんが私を見つめていた目と、宮田くん、同じ目をしていた」

だから好きなんだろうと思ったわ。
楽しそうに微笑んで、母は髪を掻きあげた。

「でも、男の子同士でしょう?男女で結婚して、家庭を持つ様には出来ないわ。だからお母さんも少し悩んだの。でもね。周は誰かの隣に居ることを、簡単には望まないでしょう?繊細で優しすぎるから、相手のこと気を遣い過ぎて、」

母の言うとおりだと、周太も思う。
誰かの隣に居る事が、こんなに居心地良い事を、ずっと知らなかった。
それは、そんな相手に出会える可能性が、自分には少ないという事だろう。
そんなふう納得を廻らす周太の目を、真直ぐ穏やかに見つめて母は言葉を続けた。

「周の痛みをきちんと理解できる人、周の笑顔を願って笑わせてくれる人。そして周が寛いで一緒に居られる人。
そう簡単には見つけられないな、て思ったの。だけど宮田くんと一緒にいる周は、たくさん笑ってくれるもの?だからね、」

すこし言葉を切って母が周太を見つめる。
真直ぐに互いを見つめ合って、きれいな笑顔が母にほころんだ。

「だから宮田くんの事、お母さん好きだわ、」

そう言ったトーンが、明るく優しい。
大切な宝物の言葉を告げて、黒目がちの瞳は嬉しそうに微笑んだ。

「男の人が相手では子供は出来ないけど。周がひとり、孤独でいるより誰かが隣に居てくれる方が、ずっと幸せだとお母さん思ったの」

子供を望めない。
母にとって、辛い事だと周太には解る。
二人きりの食卓を、いつか周太の子供達で賑やかにしたいと、母は願っていた。

…ごめんなさい、ほんとは解かってるのに出来なくて…子供のことも、警察官のことも

自分の選択はいつも、ごく普通のささやかな母の願いを裏切ることになってしまう。
それでも、警察官として生きる事も、宮田の隣を望む心も、偽ることは出来ない。
何も言えずに唇を少し噛んで見つめた母の瞳は、それでも綺麗に微笑んだ。

「それにね、周、あなた良い顔してたもの」
「え…」

母の意外な言葉に、思わず結んだ唇を解いてしまった。
悪戯そうに黒い瞳を動かして、母は笑った。

「待合せて顔を見た瞬間に、ああ幸せな夜を過ごした顔だなって」

首筋に熱があっというまに昇る。
赤くなる息子の顔を見て、母は嬉しそうに微笑んだ。

「そういう幸せを、周にも大切に重ねて欲しい」

穏やかに周太を見つめて、母は口を開いた。

「宮田くんの隣が大切なら手放さないで、そこで一瞬を大切に重ねなさい。大切な一瞬を積み重ねて行ったなら、後悔しない人生になるわ」

黒目がちの瞳が、にっこり微笑んだ。
そして母は穏かなトーンに、息子の人生へ言祝ぎを贈ってくれた。

「生れてきてよかったと、最後の一瞬には笑うのよ。きっとその時、私は、お父さんの隣で、あなたの笑顔を見ているから」

自分は幸せだ―温かな想いが、周太の胸から全身を満たして行く。
この母の子で、父の子で、本当に良かった。温かさは目の奥底で、熱くなった。

「ありがとう、ございます」

周太の視界が温かく揺らいで、頬を伝って零れ落ちた。





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