萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

驟雨の後、微風 ― another,side story「陽はまた昇る」

2011-09-13 20:55:45 | 陽はまた昇るanother,side story
まだなにも見えない、気づかない


驟雨の後、微風 ― another,side story「陽はまた昇る」

梢が夕陽にきらめいて見える。
驟雨の後、庭木も水気を帯びて、涼しげな影を足許に翳していた。

「ただいま」

聞き慣れた、玄関扉の軋み音が、懐かしい。
鍵を掛け、靴を脱いで上がる。ふっと馴染んだ香が頬を掠めた。穏やかで、かすかに甘い実家の匂い。
日常で慣れ、親しんでいた感覚。その1つ1つが、今は懐かしく、少し切なく感じられる。
実家を出た事の無かった周太にとって、その感覚は新鮮で不思議だった。

母はまだ、仕事から帰っていないようだ。
鞄と紙袋を提げたまま、自室へと階段を上がる。足の下の板張りが、ひんやりと心地良いのも、前と変わらない。
廊下に映える夕陽が、行き届いた掃除を偲ばせる。

お母さん、相変わらずなんだ

父が殉職し、女手一つで一人息子の自分を育てた母。
母子家庭になって仕事を始めてからも、家事をきちんとこなす姿が、息子の目にも眩しかった。
華奢な母が、子供心にも心配で、一つでも多く家事を覚えたかった。
周太にはもう、母しか居なかったから。

今夜の皿洗いと風呂掃除は、自分がやろう

そんな事を思いながら、部屋の扉を開けようとして、右隣の部屋が目に入った。
鞄と紙袋を、そのまま自室の前に置いて、隣室の扉を開けた。
ふるい紙の匂いと、重厚で甘い微かな香が、周太の頬を撫でる。
カーテンを開けると、夕暮が淡く室内を照らした。
陽に映えた樫材の、書斎机に白い花が一輪、活けられている。花の下には、一葉の古い写真がこちらを見ていた。

ここも、そのまま

そっと写真立てを取る。懐かしい父の笑顔が、周太を見返した。

「お父さん。俺、お父さんの事を皆の前で、話したよ」

写真の父は、何を語ってくれるわけではない。
それでも周太は、時折、こうして話しかけてしまう。

「宮田って奴がいるんだけど。お父さんみたいになりたい、って言うんだ。
 脱走するし、女子寮覗きの被疑者になるし。全然、お父さんと似ていないんだけどね」

ふっと周太に笑いがこみ上げる。子供っぽい言動と、端正な顔が不釣り合いな宮田。
けれど、きれいな笑顔を、彼は持っている。

「でも、宮田の言葉、嬉しかった」

夕陽が写真に映えて、父の目許が光って見える。
机に写真を戻すと、壁一面の書棚を見上げた。整頓された本達は、全てが父の遺蔵書だった。
向合うと、父と話している気持ちになる。実家に居た時は、片端から繰返し読み返していた。
並ぶ古い背表紙から1冊を選びとる。

久しぶりに読んでみようか

ぐるっと本を見回して、やはり最初の1冊に決めた。
カーテンを閉めて、周太は書斎の扉を開ける。
廊下に射す夕映えが、眩しかった。


久しぶりの母の手料理は、温かかった。
お互い口数は少ないけれど、穏やかな空気が周太を寛がせてくれる。
初めての共同生活を聴かせてと、母が微笑んだ。

「宮田ってやつが隣の部屋なんだけど」
「ん。宮田くん、ね」
「すごい、泣き虫なんだ」

母が笑う。周太もちょと笑って、続けた。

「さっき新宿まで一緒だったんだけど。宮田、公園で泣いたんだ」

母の黒目がちの瞳が、微かに揺れたが、唇は微笑んで相槌をうってくれる。

「どうして宮田くん、泣いたの?」
「…ん、元彼女に偶然会ったから、かな?」

宮田が脱走した夜を、周太は思い出していた。

「前にね、宮田、脱走したんだ」
「…警察学校では、大変な事なのでしょう?」
「ん、」

警察官の妻だった母には、事の重大さが解るのだろう。心配げに眉が顰められている。

「その元彼女にね、妊娠したって言われて飛び出したんだ」

狂言妊娠だったんだけどと付足し、周太はちょっと息をついた。
すこし首傾げ、母は静かに聴いている。再び周太は口を開いた。

「俺、辞めてから行けよ。って言ったんだ」

箸を止めて、周太は母の黒目がちの瞳を見た。

「連帯責任で割食って、自分まで辞めさせられるのは、絶対に嫌だったんだ」
「…ん、」

目の前で黒い瞳がゆっくり瞬いて、周太を見詰めた。
悲しげで諦めたようで、けれど決意が底にある瞳で、周太を見ている。

警察学校の合格を告げた時、母は泣いた。
それでも、周太は自分の意志だけを母に告げた。

― お母さん、ごめん。でも俺、警察官になりたい。
  父さんの事からこれ以上、逃げたくない。それしか越える方法が見つからないんだ。
  ずっと目を背けてきた事と、決着をつけたい。絶対、警察官にならなきゃいけないんだ。
  死なない警察官に、俺はなりたい。

母は、工学部に進んだ周太はそのまま、研究者になると信じていた。
高校で射撃部に入った時、すこし途惑った瞳をしたが、オリンピックも良いわねと笑ってくれた。
けれど、全てが警察官になる為だったと知った時、母は泣いた。
あんなふうに感情を、顕わにした母の姿を、周太はその時、初めて見た。

お母さん、ごめん― 胸裡で呟いて、周太はちょっと笑った。

「宮田が出て行ってから、部屋を開けてみたら、退学届が机にあったんだ」
「…あら、退職届じゃないの?」

宮田ちょっと緩いんだよね。周太が少し笑うと、母も笑った。

「その退学届を持って、部屋を出たんだ」

それを持って遠野教官に掛け合った事、宮田が外出許可禁止で済まされた事。
周太が話していくのを、母は静かに聴いている。
無言だが穏やかで、寡黙な周太でも自然に話せる。母のこういう所が、周太は好きだ。
聞き終わって、母は口を開いた。

「周は、宮田くんに辞めて欲しくなかった?」

母の黒目がちの瞳が問う。
箸を持ったまま周太は考え込み、ぼそりと言った。

「よく分らない」

でも、と周太は続ける。

「宮田みたいなチャラチャラした奴、大嫌いだから。やっつけてやろうと思っていたんだ」
「周、やっつけたの?」
「ん、」

頷いて周太は一瞬迷った。父の事を、皆の前で話したと母に告げて、良いんだろうか?
すこし唇結んでから、周太は再び口を開いた。

「拳銃貸与式の前に、宮田達がふざけていたんだ」

宮田の靴を投げ捨ててやった事
拳銃の扱いが粗雑で、腹を立てた事
薬莢が紛失して、口論になった果に、殴り合いを許可された事
時折、静かに相槌を打ちながら、母は穏やかに聴いていた。全部話し終わると、母が小首を傾げて微笑んだ。

「それ、うちに電話してきた時でしょう?」

― あ、もしもし。お母さん?俺。
  元気?うん…。俺は元気だよ。うん…。それだけ。
  じゃあ、また。

どうして分るのだろう。
母は微笑んで周太を見守っている。この母には結局いつも、隠し事なんかできない。
殴り合いのとき、と母は言葉を続けた。

「宮田くん。周に、殴られっ放しだったのでしょう?」
「ん、そうだけど…」

それならいいわ。悪戯っぽく母の瞳が笑った。

「負ける喧嘩はしちゃ駄目。始めたら、勝ち抜かないと」

穏やかで物静かだけれど、この母は油断がならない。そんな母が周太は好きだ。
父もこういう母だからこそ、伴侶に選んだのだろうなと思う。
止めていた箸を、周太は動かし始めた。

「周の腕、また引き締まったかな」
「射撃訓練とか、色々あるから」

そう、と言って腕を眺める瞳が、一瞬悲しげになる。けれどすぐに微笑んだ。

「肩、きつくなっていない?新しい服を買わないとね」

新しい服。ふっと周太は思いだし、ぼそりと言った。

「あ、…今日、宮田がシャツを買ってくれた」

あらどうして?と尋ねられ、シャツをハンカチ代りに胸ごと貸した事を話した。
周は優しいから。言って母は微笑み、おかわりのご飯をよそってくれる。

「そのシャツ買った店を出たら、元彼女と会って。避けて宮田が歩くうちに、公園に着いていたんだ」

それで宮田くん公園で泣いたのねと、謎解きに母が笑う。

「周は、ちゃんと付いて行ってあげたんだ」
「…腕を掴まれていたし、仕方なかったんだよ」

ぼそりと言う息子に、黙って母は少し微笑む。

「公園、きれいだった?」
「ん。森の中みたいな公園だったよ。広場もあって」
「…木の下に、ベンチがあるんでしょう?」

その公園きっと、お父さんとデートした所だわ。母は黒目がちの瞳を和ませた。
母はまだ、父を想ったままで時間が止まっている。
何度再婚を薦められても、ひとりで周太を育てる事を選んできた母の、綺麗な想いを垣間見た気がした。

「ベンチで本読んだ。そうしたら宮田が、元彼女の話をして…」

おやと周太は気がついた。宮田は元彼女の話をしながら、泣いたのだったろうか。
目は潤んでいたけれど、涙は零れていなかった。けれど今日、頬を流れる涙を見たはずだ。
雨が上がる頃だったろうか。

なぜ宮田、泣いていたんだ

よく解らないなと考えていると、母に何の本読んでいたのと尋ねられた。
読み始めた小説に付けられた原題を、思い出し和訳した。

「『オペラ座の怪人』かな」

訊いて意外そうに母が尋ねた。

「あら、周が恋愛小説?」
「え、?」

意外な母の返事に驚いた。お母さん知っているのと尋ねると、何でも無い風に母は答えた。

「有名な恋愛小説だもの」

そうだったのか。推理小説だと思っていた。
間違えた、なんとなく恥ずかしくて、周太の首筋をざわっと熱いものが昇る。
宮田は知らない様子だったから、良かった。ふと安心している自分が、また意外だった。
息子の様子を見ていた母が、仕方ないなというふうに微笑んで、

「逮捕劇もあるし、推理小説とも言えるけれど」
「ん、まあ…」

言い淀んで周太は、暫く食事に専念しようと、肉じゃがを口に運んだ。
いつも食べてきた味が、今は懐かしいと感じる。もうこの家を出たんだな、そんな実感が少し切ない。
箸を綺麗に使って食事する息子を眺めながら、ふっと母は言った。

「宮田くん、周の事が好きなのね」

急に言われて、周太は咽た。
あらまあと母から水を渡され、ごくりと飲みほすと、考え込んでしまった。

「…そんなこと無いと思うけど」

拳銃貸与式の後で、宮田に言われた言葉が思い出された。

― こんな奴まともに相手する価値ないよ。
  結構いい奴かもって思ったけど、間違いだった。
  早く気付いてよかったよ。

あの時の宮田の言葉に、周太は本当は今も、傷ついている。

…射撃は自分との戦いなんだ。人に頼って覚えられるものじゃない。
拳銃を持つのが怖いなら、学校を辞めろ。
人を殺し傷つける拳銃を、持つ事の意味と責任。その重さに耐えられないなら、辞めた方が本人にも一番良い。
重さを知っているからこそ、相手を思い突き放した言葉だった。
それを、宮田には全否定されてしまった。

― こんな奴まともに相手する価値ないよ。

今は、宮田は、どう思っているんだろう。
解っているのは、宮田は毎日、周太の部屋へやってくる事だけだ。

「俺は寂しがりだから。とか言って、毎日部屋へは来るけど」

隣だからだと思う。ぼそりと周太は言った。
黒目がちの瞳細めて、母が周太を覗き込むように見詰める。

「宮田くんと居ると、楽なんでしょう?」
「…どう、なのかな」

なんでそんな事がわかるんだろう。周太は少し途惑って、母の瞳を見た。
ふっと母の瞳が微笑む。

「楽じゃなかったら、部屋に入れないでしょう?周だったら」

その通りだなと周太も思う。納得していると、それにと母は続けた。

「周が誰かと公園に行ったの、あの頃以来だから」

父が殉職してから、周太は近所の公園に行かなくなった。

― お父さま立派だったわ
― 寂しいでしょうけど、頑張って
― お前んち、父さん居ないんだって?

色んな人に声を掛けられる。その全てが嫌で、ひとり遠くの公園へ行くようになった。父の本を持って。
木に登って本を読んでいれば、誰からも声かけられる心配も無かった。
父の本はどれも、幼い周太には難しい。けれど、眺めるだけでも父の気配を感じられた。

「周が誰かの事を、こんなふうに話すの、初めてね」

すこし考えるように睫毛をふせたが、すぐに黒目がちの瞳は笑った。

「お母さん、ちょっと安心した」

首傾げた母の髪に、一筋の白い光が伸びていた。母の白髪を見たのは、初めてだった。
苦労かけているな、周太は申し訳ない気持ちになる。

「そのうち、宮田くん連れて来てね」

お母さんも会ってみたいな。言って、すっと細く長い指を周太の額に伸ばした。
前髪の生際の、絆創膏が貼られた小さな傷にそっと触れる。

「この傷、どうしたの?」
「あ、寮で扉にぶつけちゃって」
「周にしては珍しいのね、自分でぶつけたの?」

宮田がと言おうとして周太は、口をいったん閉じた。
また宮田の名前を出すのが、なんとなく気恥ずかしく思えて、ぼそりと呟いた。

「ん、そう」

―これからは2人、助けあって生きようね。
 お互い、隠し事をしないと約束しましょう。
 隠し事は、人の間に溝と壁を作ってしまうから。

父を失くした後、母が言った言葉を、周太は思いだす。
おかげで、今日まで真直ぐ母と向き合い寄り添ってこられた。
でも、これくらいの小さい嘘は、許容範囲だと思いたい。



食事を終え、周太は皿洗いを始めた。片づけながら茶を淹れ、母に出す。
相変わらず手際が良いのねと褒められると、やっぱり嬉しかった。
一口啜り、おいしいと言って母は言った。

「周、今日はたくさん喋ったね」
「ん、」
「こんなに話したの、久しぶり」

どきっとして周太は母を振り返った。母は、毎日この家で一人なのだ。
ほっと息を吐きながら、母が微笑む。きれいな黒目がちの瞳が周太を見上げた。

「お母さん、楽しかったわ」

本当に、たくさん喋ったなと、我ながら思う。久しぶりの実家だからなのか、宮田の話題だからなのか。ただ確かに言えるのは、母は聴き上手だと言う事だ。

取調は、聴き上手になる事なのかな

なるほどと納得できるものがある。今度、宮田に練習台になってもらおう。
座ってお茶を啜る母に、周太は言った。

「お母さんは、取調官になれるよ」

黙って母は黒目がちの瞳を細めた。
明日の朝は、庭掃除もして行こう。そう決めて、周太は蛇口の栓を締めた。



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黄昏の空、夕風 ― another,side story「陽はまた昇る」

2011-09-13 01:20:14 | 陽はまた昇るanother,side story
黄昏の空、悲しみが濾過される


黄昏の空、夕風 ― another,side story「陽はまた昇る」

屋上への階段は、残照が満ちてまばゆい。瞳を細め、周太は昇っていく。
誰とも、今は顔を会わせたくなかった。
人前で涙流したのは、父の遺体に縋ったあの日以来だったから。

重い扉を押し開けると、最期の残照がいっぱいに輝く。
屋上に踏み入れると、目立たない角の向こうに立った。

柵に腕を掛けて凭れかかる。その腕の時計に、夕映えが映り込んだ。

―この時計、大きくなったら、周にあげよう

なつかしい声、面影。
拳銃に奪われてしまった、大好きだった父親。
最期に会ったのは、病院の地下の一室に横たわる、無残な姿だった。

最期に何を、思ったのだろう

右掌でそっと時計を握る。
ある筈は無いけれど、父の温もりが遺されていると、周太には思えてならない。
なにかある時はいつも、無意識に触れている。

ここに来れば、何か分ると思っていたけれど

― こんな奴まともに相手する価値ないよ
  結構いい奴かもって思ったけど、間違いだった。早く気付いてよかったよ

この警察学校で、今の時点で分ったことは、周りとの温度差だけだ。
警察官という仕事のシビアな面を、誰も真剣には考えていない。
予想はしていた事だけれど、拳銃への意識の差は、ショックだった。

― 打ち方のコツとか分かれば、まあ、楽勝で行けると思うんだ
― 俺達みんな当たり前だけど、拳銃なんて生まれて初めてだからさ
― 命にかかわる事じゃねえだろ

楽勝、当たり前だけど生れて初めて、命にかかわる事じゃない―

楽勝だと言うのなら。自分の今までは、楽だったのか。
生れて初めてが当たり前。そう、それが普通なのだろう。
命にかかわる事じゃないのなら。何故、父は死ななくてはいけなかったのか。
皆にとっては何気ない言葉だろう。けれど、一つ一つの言葉が、周太には刺される様だった。

警察官以外で、殉職なんて普通無いから、仕方ないか

目を瞑ると、父の最期の姿が蘇る。あの日から何度、夢に現れた姿だろう。
何度も何度も、吐いて、泣いて、苦しんだ。母に悟られないように、独りで。
いま教場で共に座る中でも、誰かが父と同じ道を辿ってしまうのだろうか。
出来れば、殉職なんて誰もしない方がいい。

ぎいっと扉開く音が聞えた。靴音が近付いてくる。

「湯原、」

僅かに振り返ると、宮田が立っていた。黙ったまま周太は、遠い空へ視線を戻した。
顔を会わせたくなかったが、背後に宮田が近付くのを感じる。

「今日の事、謝らせてくれ」

すぐ隣から声が降ってくる。
仕方ないなと無言のまま見上げると、ごめんと宮田は頭を下げた。

「言いたくない事、皆の前で言わせた。俺が無神経だった、ごめん」

謝るくらいなら訊いてくるなと思ってしまう。周太は空へと目を戻した。
横顔に視線を浴びせられているのが、分るけれど、振向くのは難しい。
肘に何かが微かにあたり、周太は瞳だけを動かした。肘の向こうに、もう一つの肘が微かに触れている。
すぐ隣に、宮田が腕組んで柵に凭れていた。距離が近くて、周太は途惑ってしまう。

こういうの慣れていないのに

宮田が脱走した夜、部屋に入れた為だろうか。
一番嫌いなタイプだと思っていたけれど、意外と真面目で驚いた。

話してみないと解らないか

隣を振向くと、きれいな切長い目が凝っとこちらを見ていた。
普段と違って真剣な表情でいる。その頬がわずかに腫れているのが、夕映の明りに透けて見えた。

力いっぱい殴ったから。痛かっただろうな

整った顔立ちだと尚更に痛々しい。美形は得だなと思いながらも、罪悪感が周太の胸裡に起きた。
自然と周太の口が開いた。

「頬、少し腫れている」
「ああ、」

どのくらい腫れているんだろう。気になって周太は、掌を宮田の頬に伸ばした。
硬質で滑らかな感触が掌に触れる。その奥に、腫れの熱が残るのが感触に伝わった。

「ちゃんと、冷やしとけよ」

掌を引っこめようとした途端、長い指に絡めとられた。

「…っ」

驚いて、周太の声は音にならない。
宮田はそのまま両手でつつみ、周太の掌を胸の前で眺めている。

「手、思ったより小さいんだな」

なんの目的で、そんな事を言うんだろう。
周太は途惑い宮田を見た。宮田は視線を受け留め、言葉を続ける。

「拳銃、片手でいつも扱っているだろ、お前」

それがどうしたというんだろう。意図を量りかねて、周太は手を強く引いた。
だが宮田の長い指は、意外な力で離してくれない。

「…手、離せよ」

だが宮田は掌を離してくれない。喧嘩は弱かった癖に、こんなの狡いじゃないか。周太の眉根が顰められる。
宮田は凝っと見詰め、呟いた。

「殴っていいよ」
「…え、」

宮田がこんな事を言うなんて、予想外だった。
きれいな顔で真剣な目をして、宮田は口を開いた。

「お前の親父さんの事、思ったらさ。俺、殴られて当然だよな。殴りたかったら殴ってくれ」

ようやく宮田は手を離した。ほどかれた掌に、湿り気が残る。
宮田も緊張していたんだと思うと、少し身近に宮田を感じられた。

喧嘩も大して強くない癖に、殴っていいだなんて

宮田みたいなチャラチャラした男は、一番嫌いだ。
でもそういう男が、顔を殴らせるなんて、結構な覚悟じゃないんだろうか。
ふと気がつくと、黄昏がだいぶ暮れている。周太はゆっくり瞬いてから、宮田を見た。

「効いたか?」
「なにが、」
「痛かっただろ。お前、一方的に殴られっ放しだった」

自分の唇が少し笑っている。なんとなく可笑しかった。宮田も笑った。

「なんだよ、自分で殴ったくせにそんなこと」
「殴らせたのは、お前だろ」

弱い方が悪いのだ、周太は目だけで笑ってやった。宮田は頬を撫でながら口を開いた。

「お前、ほんと強いな。でも、」

でも、なんだろう。宮田は唇の端で笑って言った。

「やっぱ、かわいいよな」
「…なんだよ、それ」

低い声で答えるが、うなじに血が昇って火照るのが解る。
かわいいだなんて、どういうつもりで言っているんだろう。こういう事をさらっと言うから、宮田は苦手だ。

不意に、宮田が顔を覗き込んだ。

「俺、湯原の親父さんみたいな警官、目指したい」

宮田が、父さんを? 要領のいい宮田と、真摯で温かかった父では正反対だ。
意外で、周太は思わず宮田を見詰めた。その瞳を見ながら、宮田は続けた。

「警官は精神的に削られるだろ。それでも周りの人を忘れない男に、俺もなりたい」

さっきの話、宮田はきちんと聴いてくれていた。
意外だと思ったが、宮田の真剣な目を見ていると、意外では無いように思えた。

「お前の親父さん、俺は尊敬する」

宮田は微笑んだ。きれいな笑顔だった。
素直で裏の無い、屈託ない笑顔。

ありがとう

言おうとしたが、唇が少し動いただけで声が出ない。周太の瞳の奥が熱くなる。
つうっと一筋、その頬を光がすべり、顎で零れた。
左腕の時計を見る。そっと時計を右掌で包み、周太は口を開いた。

「宮田には無理だよ。父さんは立派だから」

憎まれ口を言いながらも、うなじが熱くなるのが自分で解る。

「いや、目指す」

宮田は決然と言うと、柵を掴んで空を眺めた。黄昏は地平線に横たわり、深く藍色が降りている。
周太は口を開いた。

「…ありがとう」

少し掠れた声が、なんとか唇から押し出された。
隣で振り返る気配がし、低めのきれいな声で、宮田が答えた。

「こちらこそ、な」

泣き顔を、宮田に見せてしまった。
父が死んだあの日、人前で泣くのは最後だと誓ったのに。

だけど少し楽になった、かな

周太は遠くの空を見遣った。地平の向こうに、太陽が沈みゆく。
夕風が吹き上げ、周太の髪を乱して空へ馳せのぼった。
その横顔を、宮田のきれいな切長い目が、ただ見詰める。



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