萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

黄昏、時の刻印 ― side story「陽はまた昇る」

2011-09-07 00:33:27 | 陽はまた昇るside story
時の底流で、悲しみは透明に深くなる



黄昏、時の刻印 ― side story「陽はまた昇る」

扉を開けると黄昏の空だった。目の底が金色になる。
薄暮に沈みはじめる屋上を、英二は歩き出した。
静けさに足音が響く。目立たない角を曲がると、蒼色の影が目の端を掠めた。

「湯原、」

柵に腕乗せた小柄な背中に、英二は歩み寄った。湯原は少しこちらを見遣り、また遠くを眺める。
その隣に立つと、横顔を見詰め英二は言った。

「今日の事、謝らせてくれ」

湯原の、黒目がちの瞳が微かに揺れた。無言のまま振り向き、英二を見上げる。
ごめん、と英二は頭を下げた。

「言いたくない事、皆の前で言わせた。俺が無神経だった、ごめん」

だが黒目がちな瞳は、頑なさを滲ませたまま、また空を見上げてしまった。
なめらかな頬が金色に映えている。かすかな涙の痕が光って見えた。
その横顔をただ見詰めるしか、英二には出来ない。
沈黙が、二人の距離を遠くにしていく。

怒られて、無視されても、当然だよな

横顔の隣に英二も腕組み、空を見上げた。

― 拳銃で人が死ぬ事なんて、無いと思っている

先程の湯原の声が、耳朶の奥に蘇ってくる。

― 俺の父親は 元警察官で オリンピックの射撃代表だった
  どんなに忙しくても 何でも話を聞いてくれる 父だった
  でも暴力団の銃弾を浴びて 殉職したんだ
  悲しくて苦しくて どうしようもなかった
  でも警察官になれば いつかきっと この悔しさを晴らす事が出来ると 思うようになった
  母は泣いて止めたよ
  でも これしかない そう思った

脱走したあの夜、湯原が言った「絶対に警察官にならないといけない理由」
悲哀 憎悪 離苦 流れた血 涙涸れる声
いったいどれだけの辛い選択が、そこにあったのだろう

― ぬるすぎるんだよ

湯原が言った通りだ
同じ年を生きても、どうしてこんなに違うんだろう

英二が生きてきた世界に存在しなかった、苦しみと悲しみが、今は隣に立っている。
隣に目を遣ると、湯原は遠くを見詰めている。その横顔は静かで、真直ぐに前を見ていた。

― 俺は死なない警察官になりたい

こいつには死んでほしくないな。真直ぐな瞳に見とれながら、英二は心に願った。
不意に、その横顔がこちらに向けられた。

「頬、少し腫れている」
「ああ、」

ふいに、すべらかな感触が英二の頬を包んだ。湯原の掌が頬に触れている。
夕暮に降り始めた涼気の中、掌の温もりが鮮やかだった。

「ちゃんと、冷やしとけよ」

その掌に、英二は長い指を絡めた。湯原の手は英二の指にするり納まってしまう。
そのまま両手でつつみ、掌を胸の前で眺めた。

「手、思ったより小さいんだな」

黒目がちの瞳が途惑い、英二を見た。視線を受け留め、言葉を続ける。

「拳銃、片手でいつも扱っているだろ、お前」

びくっと肩震わせ、湯原は手を強く引いた。だが英二の長い指は離さない。

「…手、離せよ」

だが英二は、掌を離さない。湯原の眉根が顰められ、きれいな二重が深くなる。
その目を見返し、英二は呟いた。

「殴っていいよ」
「…え、」
「お前の親父さんの事、思ったらさ。俺、殴られて当然だよな」

殴りたかったら殴ってくれ、告げて英二は指を離した。
離された手を見詰める表情に、残照が射しこむ。最期の陽射す頬に、英二は熱を感じた。

殴られるかな

湯原の痛みが少しは解るだろうか。心呟きながら英二は、ぼんやり隣の顔を眺めていた。
黄昏は暮れていく。
黒目がちな瞳がゆっくり瞬くと、英二を見た。

「効いたか?」
「なにが、」
「痛かっただろ。お前、一方的に殴られっ放しだった」

落着いた声だった。薄暮の向こう側、湯原の唇が仄かに笑んでいる。
英二は笑って答えた。

「なんだよ、自分で殴ったくせにそんなこと」
「殴らせたのは、お前だろ」

弱いのが悪いのだと湯原の瞳が笑う。その瞳を見ながら、英二は頬を撫でた。

「お前、ほんと強いな。でも、」

唇の端で笑い、英二は続けた。

「やっぱ、かわいいよな」
「…なんだよ、それ」

低い声で答えるが、うなじは赤く火照っていく。途惑った黒目がちの瞳が、少し伏せられた。

ほら、やっぱりかわいい

英二は湯原の顔を覗き込む。きれいな二重が震えたように見えたが、英二は口を開いた。

「俺、湯原の親父さんみたいな警官、目指したい」

二重が大きく閃いた。黒目がちな瞳が揺れ、英二を見詰めた。その瞳を見ながら、英二は続けた。

「警官は精神的に削られるだろ。それでも周りの人を忘れない男に、俺もなりたい」

お前の親父さん、俺は尊敬する。
告げて英二は微笑んだ。英二の顔を見詰める湯原の、唇が微かに開いている。
つうっと一筋、その頬を光がすべり、顎で零れた。

きれいだな

涙の軌跡が残照に映える。
その黒目がちの瞳が、左腕の時計に落ちた。そっと時計を右掌で包み、湯原は口を開いた。

「宮田には無理だよ。父さんは立派だから」

憎まれ口を言いながらも、うなじの紅色が薄暮に透けている。

「いや、目指す」

英二も柵を掴んで空を眺めた。黄昏は地平線に横たわり、深く藍色が降りている。
いま何時なんだろう。時計に目を凝らした時、隣から声が聞えた。

「…ありがとう」

少し掠れた声。
隣を振り返ったが、暮色の紺青に融けこんで、表情は見えなかった。

「こちらこそ、な」

潜めた声で答え、英二は微笑んだ。
暮色に霞む輪郭の向こうで、星が輝いている。湯原の涙が心掠めた。

泣き顔、きれいだったな

暮色が濃く降り初める。
夜の底、星の数が1つ1つ増えるのを、ぼんやり英二は見上げていた。


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