記憶の場所、君に
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第9話 黎明 act.2― side story「陽はまた昇る」
この部屋に湯原がいる、不思議だけど。
冷蔵庫とテレビ付カウンター、椅子、窓際のフロアーランプ、ソファ、セミダブルベッド。
ビジネスホテル標準の部屋は7ヶ月前と変わらない、7ヶ月前も卒業式で大学の同期数人とここで呑んだ。
あのときと同じシンプルで清潔な部屋、けれど穏やかな空気が違う、そんな違いの真中シャツ姿に英二は笑いかけた。
「湯原、さっきから見まわしてるけどこの部屋、気に入らない?」
「え…いや、」
ふり向いて黒目がちの瞳が見つめてくれる。
まだ濡れた髪やわらかに額おおって眼差し透かす、その頬あわく赤い。
湯あがりの紅潮やさしい顔は幼くて、そんな全て見慣れた6ヶ月の相手は微笑んだ。
「珍しくて見てる、こういうとこ初めて来たから…きにいってる、」
すこし恥ずかしそうな微笑と答えが嬉しくなる。
そして見えてくる相手の大学時代を確かめたくて訊いてみた。
「湯原は外泊って初なんだ?」
「ん、」
短く頷いてくれる答えに正直ほっとする、だって「外泊って初」だ?
『そんなふうに誰かに求められたこと、ないから、』
そう公園のベンチでも言っていた通り外泊する相手もいなかった。
けれど今ここで初めてを過ごす笑顔は言葉すくなくても楽しげで、無邪気で嬉しくなる。
―誘って良かったな、こんな笑顔を見せてもらえてさ、
初めて来たから「きにいってる」と笑ってくれた、その無邪気な笑顔ただ嬉しい。
こんなふうに自分が笑わせてあげたい、何度も「初めて」を楽しませてあげたい、そして笑顔を見せてほしい。
そんな願い見つめるから明日が軋みだす、この夜が明けたら次いつ「初めて」をあげられるか解らない、この現実に尋ねた。
「急に外泊決めたけど、湯原の母さん大丈夫か?湯原が帰って来るの楽しみにしてたんだろ、」
母子ふたり家族で親戚もいない、そんな母親は息子の帰りを待っている。
もう夫を亡くして息子しか彼女にはいない、それなのに自分が今夜を奪ってしまった。
こんな自分の我儘ほんとうは許されない、それでも今夜を願いたかった本音に黒目がちの瞳は微笑んだ。
「よかったわね楽しんでって言われたけど…なんか母うれしそうだったけど、」
いつもと変わらない口調、笑顔、けれど明日には遠くなってしまう。
そんな実感に軋みながらも告げられた言葉すこし安堵して笑いかけた。
「湯原の母さん、嬉しそうだったんだ?」
「ん…なんか、ね、」
頷きながらテーブルの缶に手を伸ばしてくれる。
水滴あわいオレンジ色ひとつ取り、かつん、プルリング引くと訊いてくれた。
「あの、…のんでいいか?のどかわいた、」
なんだか照れている?
そんなトーン見つめる真中で長い睫伏せてしまう。
どうして「のんでいいか?」で恥ずかしがるのだろう?そんな含羞が可愛くて笑った。
「ちょっと待って?」
笑いかけ自分も缶ビール手にとらす。
プルリング開くとテーブル越し、こん、缶に缶ぶつけ笑いかけた。
「はい乾杯、呑んでいいよ?」
こうして一緒に乾杯ってしてみたかった。
そう今また気づかされる前で黒目がちの瞳が微笑んだ。
「ん、…かんぱい?」
ほら、その「?」って言い方ちょっと狡いだろう?
本人まるで自覚なんか無い、けれど自分にはいつも狡かった。
そんな想い気づかない相手はオレンジ色の缶そっと口つけ微笑んだ。
「のみやすい…ありがとな宮田、」
ほらまた「ありがとな」の飴くれてしまう。
いつも生真面目で無表情に近い湯原、だけど笑うと可愛い。
そう気がついてから笑わせたくて色んなこと探してきた、だから今日も選んだ酒に笑いかけた。
「湯原ってオレンジの飴よく口に入れてるだろ、だからオレンジのカクテルが良いかな思ってさ、」
「ん…おいしい、」
素直に頷いてまた口つけてくれる、その頬すこし紅色を明るます。
もう酒に赤くなりだしている、そんな笑顔が幸せになるまま永遠を願いたい。
―あと一晩は隣にいれるんだ、だから今を笑って記憶したいな?
今ここで君が笑う、その笑顔だけ今夜は見ていたい。
もう明日には遠く離れてしまう、次いつ会えるか解らなくて寂しい、だから今を記憶したい。
どんなに今日が遠くなっても逢えなくても笑顔ひとつ記憶に見つめられるなら多分、自分は幸せだ。
たぶん幸せだ、君を知らないまま生きるよりずっと幸せだ、だから今も知りたくて記憶の相手に笑いかけた。
「湯原なら東大も余裕で行けたんだろ、なぜ行かなかった?」
警察学校でも首席だった、たぶん小学生の頃から首席だろう?
そう思わされる生真面目なひとは首すこし傾げながら口開いた。
「大学は近所って決めてたんだ、なるべく母を独りにしたくないから…警察学校は全寮制だし卒業後も単身寮だろ、」
必然的に家を離れる、だから傍にいられる時は離れない。
そんな言葉に母子ふたりの家庭は見える、それでも湯原は警察官になる事を止めなかった。
こんなふうに辛い選択いくつして湯原はここに居るのだろう?そんな疑問に缶ビール口つけ考えこむ。
―なぜそこまで拘りたがる、そこまで大切な母親がいちばん悲しむことをなぜ選ぶ?
きっと湯原は父親を愛しているのだろう、昔も今も。
だからこそ父親の道を辿ろうとしている、けれど「なぜ?」と想ってしまう。
どうして「なるべく母を独りにしたくない」くせに最も孤独にする進路を選んでしまった?
―なんか矛盾だよな、俺には解らないことかもしれないけど、
ほっと息吐いてアルコールかすかに香らす、こんな無言の時間も寛げる。
いつもの穏やかで静かな空気は向かいのソファに佇む、その真中いる白いシャツ姿が温かい。
このシャツも「初めて」だった、自分が泣いた弁償にこのシャツ贈ったのは初めてあのベンチ座った日だ。
そして通り雨ふるベンチに想い自覚した、あれから見つめ続ける貌は少しずつ笑うこと増えて、けれど離れてしまう。
もう今夜が最後だ、だからこそ記憶ひとつでも増やしたくて笑いかけた。
「湯原、湯原の父さんってどんな警察官だった?」
「ん…警察官だった父?」
穏やかなトーン応えながら見つめてくれる、その頬さっきより紅い。
やっぱり酒あまい体質なのだろう、こんなところ初心でまた好きになる。
―酒の飲み方とか教えたくなるな、なんでも俺が教えて、笑わせて、
まだ10歳前で父親を亡くしたから教われなかった、それは酒だけじゃないだろう。
そんな全てから自分が護りたくなる、けれど今より近づけない相手は穏やかに唇開いた。
「父が亡くなった夜…迎えに行ったとき父の手錠を見たんだ、父の同期って人が見せてくれて、」
ほら、言葉に心臓また掴まれる。
まだ話し始めたばかり、それでも掴まれる想いに穏やかな声は続けた。
「傷がたくさんあったけど歪みも錆も無かった、きれいに磨いてたんだと思う…万年筆とか本とか綺麗に大事にするひとだから、」
静かな声に写真の記憶が映りこむ。
端正な笑顔だった、真直ぐな眼差しから誠実で切長の瞳が美しい。
物言いたげなすこし厚めの唇と意思の強そうな眉間、そして穏やかな優しい温もりが息子と似ている。
似ている、だから不安になる予見に缶ビール飲みくだし笑いかけた。
「書斎の本棚、ほんと綺麗だって俺も想ったよ?どの本も大切に読みこんである感じで、」
本当に自分もそう思うよ?
そう笑いかけた真中で黒目がちの瞳も微笑んでくれる、その唇そっとカクテルに口づけた。
何も言わない、けれど微笑んだ瞳に長い睫に想いは解かる、そんな静かな時間くるみだす。
―こういう空気が良いな、ほんとに、
無言でも優しい時間、この温もりに座りこみ片膝たてて頬杖つく。
片胡坐の窓辺すこしカーテン開いて薄明るい、ネオン照らす空は明るくて、けれど月は昇る。
あわいグレーの空にも月光まばゆい、こんな月を寮の窓からも眺めていた、そんなこと考えている端から昨日がもう懐かしい。
「湯原、いざよいってどう書くんだっけ?」
懐かしい言葉を声にして今また訊きたい。
いざよい、そんな言葉を初めて教えてくれたのもこの隣だった。
『いざよい月のいざようは何の意味だと思う?…ためらいって意味、今日は月が出るの遅かっただろ?だからためらう月、』
ためらう、なんて今の自分そのままだ。
離れる時間ためらって今夜も誘ってしまった相手は黒目がちの瞳すこし微笑んだ。
「ん…なに急に、」
「ためらう月って湯原が教えてくれたろ、漢字も教えてよ?」
笑いかけた真中で小柄なシャツ姿が立ちあがってくれる。
見まわしてすぐベッド腰掛けサイドテーブルのメモ帳にペン動かす、その横顔がランプに優しい。
―きれいだな、
やっぱりこの隣は綺麗だ。
そんな確認に鼓動から疼きだす、だって今こんな近く居るのに?
それでも離れてしまう、あと24時間すれば笑って別れて、けれど約束ひとつ何も無い。
「いざよいはね、十六夜と不知夜…はい、」
穏やかな声に瞳ゆっくり瞬いた前、メモひとつ示してくれる。
その手が自分より小さい、この手に護りたいとまた願って、けれど手ひとつ掴めない。
「ありがと、2つも書き方あるんだな?」
微笑んで立ちあがり歩みよる、その一歩ごとベッドの微笑に近くなる。
示されたメモに手を伸ばして、その指先すこし触れた温もりに呼吸ひとつ窓際へ離れた。
「漢字が違うと印象が変わるな、同じ月で同じ読み方なのに、」
笑いかけ眺めながら窓枠へ凭れこむ。
ふれた背にシャツ透けてガラスが涼しい、カーテンはざま見あげた月は満月すこし過ぎている。
いつものように今も隣の傍近く月を仰いで、けれど明日からは隣に誰もいない哀惜に振り向いた。
「湯原、」
振向いて呼んで、けれど俯いたまま返事がない。
どうしたのだろう?歩みより覗きこんで、その長い睫伏せた顔に微笑んだ。
「…寝ちゃったのか、」
座ったまま眠りこんだらしい、前にもこんなこと何度かあった。
警察学校の寮でもそうだった、湯原の実家に泊まった夜もこんなふう眠りこんだ。
電池切れのよう急に眠りこむ墜落睡眠、こんなところ幼い子供みたいだ?そんな寝顔に笑いかけた。
「…最後までかよ、こんなとこ見せて…困るよ?」
本当に困ってしまうのに?
その想いごと抱えあげベッド横たわらせて、抱えた頭の髪ふわり指に絡みつく。
やわらかな感触は肌から沁みてしまう、そんな感覚が未練のまま残りそうで怖い。
「…ごめんな、」
この想い謝りたくて声になる、だって迷惑だろう?
指先すら未練がましい自分の想いは世間で蔑まれることもある、それが湯原の傷になったら?
そう想うから何ひとつ触れられない、それでも見つめてしまう寝顔は紅潮なめらかな頬に睫の翳が蒼い。
きれいで息が止められる、この想いごと寝顔きっと幾度も繰返し思いだす。
―もう寝顔見ることも無いんだ、これからは、
この寝顔は今夜が最後、だから今夜きっと眠れない。
そんな想いに視線は眠れるひと見てしまう、その小さな右掌に微笑んだ。
「ペン握ったまま寝ちゃったのか、湯原?」
前もこんなことあった、あれは湯原の実家の部屋だった。
今と同じように本を持ったまま眠りこんで、その本を片付けようとした手を掴まれてしまった。
もしまた手を握られたら今夜は困るかもしれない?けれどペン持ったままではベッドをインクで汚してしまう。
―また手を握られたら俺、どうするんだろう?
ボールペン握ったままの手にためらう、けれど本当は望んでいる。
そんな本音に小さな掌そっと解いてペンを抜く、途端また手を掴まれた。
「…またかよ、」
ため息吐いて、だけど本当は嬉しい。
こんなふう手を繋いでくれた、それなら言訳ひとつ自分に赦していい?
その思案しながら腕伸ばしてサイドテーブルにペン戻し、寝顔の右手を見つめた。
「あったかいな、」
繋がれた手から体温やわらかに息づかす、この温もり今夜は手放さなくて赦される。
そんな言訳に隣そっと横たわった至近距離、あどけない寝顔はランプの燈に前髪を透かす。
その生え際ちいさな傷痕は知っている、あのベンチ初めての朝に自分が扉ぶつけてしまった痕だ。
もう一度、あの日に戻れたらいいのに?
「傷つけてごめんな、でも…俺のこと思い出してくれる?」
ちいさな傷痕に願い声になる、けれど聴いてもらえない。
寝顔に言葉は聴かれない、そのまま明日に別れて隣から離れてしまう。
それでも傷痕を見るとき少しは自分を想い出してくれるだろうか、その願いごと小柄な背を抱きしめた。
「…あったかいな湯原は…す」
好きだ、
そう言いかけて飲みこます、だって仕方ない。
たとえ告げても迷惑かけるだけ、嫌われるかもしれない、それなら黙ってただ抱きしめたい。
いま眠って何も言ってもらえない、それでも前髪ふれあうまま穏やかな深い香やさしくてオレンジが甘い。
寝息の呼吸ごと柑橘こぼれだす、ゆったりした鼓動、体温のぬくもり、抱きしめるシャツ透かして触れられる。
香も鼓動も温かい、やさしい温もり穏やかで安堵ゆるやかに満ちていく、こんなふうに抱きしめられる隣の今が幸せだ。
この隣に、居たい。
(to be continued)
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第9話 黎明 act.2― side story「陽はまた昇る」
この部屋に湯原がいる、不思議だけど。
冷蔵庫とテレビ付カウンター、椅子、窓際のフロアーランプ、ソファ、セミダブルベッド。
ビジネスホテル標準の部屋は7ヶ月前と変わらない、7ヶ月前も卒業式で大学の同期数人とここで呑んだ。
あのときと同じシンプルで清潔な部屋、けれど穏やかな空気が違う、そんな違いの真中シャツ姿に英二は笑いかけた。
「湯原、さっきから見まわしてるけどこの部屋、気に入らない?」
「え…いや、」
ふり向いて黒目がちの瞳が見つめてくれる。
まだ濡れた髪やわらかに額おおって眼差し透かす、その頬あわく赤い。
湯あがりの紅潮やさしい顔は幼くて、そんな全て見慣れた6ヶ月の相手は微笑んだ。
「珍しくて見てる、こういうとこ初めて来たから…きにいってる、」
すこし恥ずかしそうな微笑と答えが嬉しくなる。
そして見えてくる相手の大学時代を確かめたくて訊いてみた。
「湯原は外泊って初なんだ?」
「ん、」
短く頷いてくれる答えに正直ほっとする、だって「外泊って初」だ?
『そんなふうに誰かに求められたこと、ないから、』
そう公園のベンチでも言っていた通り外泊する相手もいなかった。
けれど今ここで初めてを過ごす笑顔は言葉すくなくても楽しげで、無邪気で嬉しくなる。
―誘って良かったな、こんな笑顔を見せてもらえてさ、
初めて来たから「きにいってる」と笑ってくれた、その無邪気な笑顔ただ嬉しい。
こんなふうに自分が笑わせてあげたい、何度も「初めて」を楽しませてあげたい、そして笑顔を見せてほしい。
そんな願い見つめるから明日が軋みだす、この夜が明けたら次いつ「初めて」をあげられるか解らない、この現実に尋ねた。
「急に外泊決めたけど、湯原の母さん大丈夫か?湯原が帰って来るの楽しみにしてたんだろ、」
母子ふたり家族で親戚もいない、そんな母親は息子の帰りを待っている。
もう夫を亡くして息子しか彼女にはいない、それなのに自分が今夜を奪ってしまった。
こんな自分の我儘ほんとうは許されない、それでも今夜を願いたかった本音に黒目がちの瞳は微笑んだ。
「よかったわね楽しんでって言われたけど…なんか母うれしそうだったけど、」
いつもと変わらない口調、笑顔、けれど明日には遠くなってしまう。
そんな実感に軋みながらも告げられた言葉すこし安堵して笑いかけた。
「湯原の母さん、嬉しそうだったんだ?」
「ん…なんか、ね、」
頷きながらテーブルの缶に手を伸ばしてくれる。
水滴あわいオレンジ色ひとつ取り、かつん、プルリング引くと訊いてくれた。
「あの、…のんでいいか?のどかわいた、」
なんだか照れている?
そんなトーン見つめる真中で長い睫伏せてしまう。
どうして「のんでいいか?」で恥ずかしがるのだろう?そんな含羞が可愛くて笑った。
「ちょっと待って?」
笑いかけ自分も缶ビール手にとらす。
プルリング開くとテーブル越し、こん、缶に缶ぶつけ笑いかけた。
「はい乾杯、呑んでいいよ?」
こうして一緒に乾杯ってしてみたかった。
そう今また気づかされる前で黒目がちの瞳が微笑んだ。
「ん、…かんぱい?」
ほら、その「?」って言い方ちょっと狡いだろう?
本人まるで自覚なんか無い、けれど自分にはいつも狡かった。
そんな想い気づかない相手はオレンジ色の缶そっと口つけ微笑んだ。
「のみやすい…ありがとな宮田、」
ほらまた「ありがとな」の飴くれてしまう。
いつも生真面目で無表情に近い湯原、だけど笑うと可愛い。
そう気がついてから笑わせたくて色んなこと探してきた、だから今日も選んだ酒に笑いかけた。
「湯原ってオレンジの飴よく口に入れてるだろ、だからオレンジのカクテルが良いかな思ってさ、」
「ん…おいしい、」
素直に頷いてまた口つけてくれる、その頬すこし紅色を明るます。
もう酒に赤くなりだしている、そんな笑顔が幸せになるまま永遠を願いたい。
―あと一晩は隣にいれるんだ、だから今を笑って記憶したいな?
今ここで君が笑う、その笑顔だけ今夜は見ていたい。
もう明日には遠く離れてしまう、次いつ会えるか解らなくて寂しい、だから今を記憶したい。
どんなに今日が遠くなっても逢えなくても笑顔ひとつ記憶に見つめられるなら多分、自分は幸せだ。
たぶん幸せだ、君を知らないまま生きるよりずっと幸せだ、だから今も知りたくて記憶の相手に笑いかけた。
「湯原なら東大も余裕で行けたんだろ、なぜ行かなかった?」
警察学校でも首席だった、たぶん小学生の頃から首席だろう?
そう思わされる生真面目なひとは首すこし傾げながら口開いた。
「大学は近所って決めてたんだ、なるべく母を独りにしたくないから…警察学校は全寮制だし卒業後も単身寮だろ、」
必然的に家を離れる、だから傍にいられる時は離れない。
そんな言葉に母子ふたりの家庭は見える、それでも湯原は警察官になる事を止めなかった。
こんなふうに辛い選択いくつして湯原はここに居るのだろう?そんな疑問に缶ビール口つけ考えこむ。
―なぜそこまで拘りたがる、そこまで大切な母親がいちばん悲しむことをなぜ選ぶ?
きっと湯原は父親を愛しているのだろう、昔も今も。
だからこそ父親の道を辿ろうとしている、けれど「なぜ?」と想ってしまう。
どうして「なるべく母を独りにしたくない」くせに最も孤独にする進路を選んでしまった?
―なんか矛盾だよな、俺には解らないことかもしれないけど、
ほっと息吐いてアルコールかすかに香らす、こんな無言の時間も寛げる。
いつもの穏やかで静かな空気は向かいのソファに佇む、その真中いる白いシャツ姿が温かい。
このシャツも「初めて」だった、自分が泣いた弁償にこのシャツ贈ったのは初めてあのベンチ座った日だ。
そして通り雨ふるベンチに想い自覚した、あれから見つめ続ける貌は少しずつ笑うこと増えて、けれど離れてしまう。
もう今夜が最後だ、だからこそ記憶ひとつでも増やしたくて笑いかけた。
「湯原、湯原の父さんってどんな警察官だった?」
「ん…警察官だった父?」
穏やかなトーン応えながら見つめてくれる、その頬さっきより紅い。
やっぱり酒あまい体質なのだろう、こんなところ初心でまた好きになる。
―酒の飲み方とか教えたくなるな、なんでも俺が教えて、笑わせて、
まだ10歳前で父親を亡くしたから教われなかった、それは酒だけじゃないだろう。
そんな全てから自分が護りたくなる、けれど今より近づけない相手は穏やかに唇開いた。
「父が亡くなった夜…迎えに行ったとき父の手錠を見たんだ、父の同期って人が見せてくれて、」
ほら、言葉に心臓また掴まれる。
まだ話し始めたばかり、それでも掴まれる想いに穏やかな声は続けた。
「傷がたくさんあったけど歪みも錆も無かった、きれいに磨いてたんだと思う…万年筆とか本とか綺麗に大事にするひとだから、」
静かな声に写真の記憶が映りこむ。
端正な笑顔だった、真直ぐな眼差しから誠実で切長の瞳が美しい。
物言いたげなすこし厚めの唇と意思の強そうな眉間、そして穏やかな優しい温もりが息子と似ている。
似ている、だから不安になる予見に缶ビール飲みくだし笑いかけた。
「書斎の本棚、ほんと綺麗だって俺も想ったよ?どの本も大切に読みこんである感じで、」
本当に自分もそう思うよ?
そう笑いかけた真中で黒目がちの瞳も微笑んでくれる、その唇そっとカクテルに口づけた。
何も言わない、けれど微笑んだ瞳に長い睫に想いは解かる、そんな静かな時間くるみだす。
―こういう空気が良いな、ほんとに、
無言でも優しい時間、この温もりに座りこみ片膝たてて頬杖つく。
片胡坐の窓辺すこしカーテン開いて薄明るい、ネオン照らす空は明るくて、けれど月は昇る。
あわいグレーの空にも月光まばゆい、こんな月を寮の窓からも眺めていた、そんなこと考えている端から昨日がもう懐かしい。
「湯原、いざよいってどう書くんだっけ?」
懐かしい言葉を声にして今また訊きたい。
いざよい、そんな言葉を初めて教えてくれたのもこの隣だった。
『いざよい月のいざようは何の意味だと思う?…ためらいって意味、今日は月が出るの遅かっただろ?だからためらう月、』
ためらう、なんて今の自分そのままだ。
離れる時間ためらって今夜も誘ってしまった相手は黒目がちの瞳すこし微笑んだ。
「ん…なに急に、」
「ためらう月って湯原が教えてくれたろ、漢字も教えてよ?」
笑いかけた真中で小柄なシャツ姿が立ちあがってくれる。
見まわしてすぐベッド腰掛けサイドテーブルのメモ帳にペン動かす、その横顔がランプに優しい。
―きれいだな、
やっぱりこの隣は綺麗だ。
そんな確認に鼓動から疼きだす、だって今こんな近く居るのに?
それでも離れてしまう、あと24時間すれば笑って別れて、けれど約束ひとつ何も無い。
「いざよいはね、十六夜と不知夜…はい、」
穏やかな声に瞳ゆっくり瞬いた前、メモひとつ示してくれる。
その手が自分より小さい、この手に護りたいとまた願って、けれど手ひとつ掴めない。
「ありがと、2つも書き方あるんだな?」
微笑んで立ちあがり歩みよる、その一歩ごとベッドの微笑に近くなる。
示されたメモに手を伸ばして、その指先すこし触れた温もりに呼吸ひとつ窓際へ離れた。
「漢字が違うと印象が変わるな、同じ月で同じ読み方なのに、」
笑いかけ眺めながら窓枠へ凭れこむ。
ふれた背にシャツ透けてガラスが涼しい、カーテンはざま見あげた月は満月すこし過ぎている。
いつものように今も隣の傍近く月を仰いで、けれど明日からは隣に誰もいない哀惜に振り向いた。
「湯原、」
振向いて呼んで、けれど俯いたまま返事がない。
どうしたのだろう?歩みより覗きこんで、その長い睫伏せた顔に微笑んだ。
「…寝ちゃったのか、」
座ったまま眠りこんだらしい、前にもこんなこと何度かあった。
警察学校の寮でもそうだった、湯原の実家に泊まった夜もこんなふう眠りこんだ。
電池切れのよう急に眠りこむ墜落睡眠、こんなところ幼い子供みたいだ?そんな寝顔に笑いかけた。
「…最後までかよ、こんなとこ見せて…困るよ?」
本当に困ってしまうのに?
その想いごと抱えあげベッド横たわらせて、抱えた頭の髪ふわり指に絡みつく。
やわらかな感触は肌から沁みてしまう、そんな感覚が未練のまま残りそうで怖い。
「…ごめんな、」
この想い謝りたくて声になる、だって迷惑だろう?
指先すら未練がましい自分の想いは世間で蔑まれることもある、それが湯原の傷になったら?
そう想うから何ひとつ触れられない、それでも見つめてしまう寝顔は紅潮なめらかな頬に睫の翳が蒼い。
きれいで息が止められる、この想いごと寝顔きっと幾度も繰返し思いだす。
―もう寝顔見ることも無いんだ、これからは、
この寝顔は今夜が最後、だから今夜きっと眠れない。
そんな想いに視線は眠れるひと見てしまう、その小さな右掌に微笑んだ。
「ペン握ったまま寝ちゃったのか、湯原?」
前もこんなことあった、あれは湯原の実家の部屋だった。
今と同じように本を持ったまま眠りこんで、その本を片付けようとした手を掴まれてしまった。
もしまた手を握られたら今夜は困るかもしれない?けれどペン持ったままではベッドをインクで汚してしまう。
―また手を握られたら俺、どうするんだろう?
ボールペン握ったままの手にためらう、けれど本当は望んでいる。
そんな本音に小さな掌そっと解いてペンを抜く、途端また手を掴まれた。
「…またかよ、」
ため息吐いて、だけど本当は嬉しい。
こんなふう手を繋いでくれた、それなら言訳ひとつ自分に赦していい?
その思案しながら腕伸ばしてサイドテーブルにペン戻し、寝顔の右手を見つめた。
「あったかいな、」
繋がれた手から体温やわらかに息づかす、この温もり今夜は手放さなくて赦される。
そんな言訳に隣そっと横たわった至近距離、あどけない寝顔はランプの燈に前髪を透かす。
その生え際ちいさな傷痕は知っている、あのベンチ初めての朝に自分が扉ぶつけてしまった痕だ。
もう一度、あの日に戻れたらいいのに?
「傷つけてごめんな、でも…俺のこと思い出してくれる?」
ちいさな傷痕に願い声になる、けれど聴いてもらえない。
寝顔に言葉は聴かれない、そのまま明日に別れて隣から離れてしまう。
それでも傷痕を見るとき少しは自分を想い出してくれるだろうか、その願いごと小柄な背を抱きしめた。
「…あったかいな湯原は…す」
好きだ、
そう言いかけて飲みこます、だって仕方ない。
たとえ告げても迷惑かけるだけ、嫌われるかもしれない、それなら黙ってただ抱きしめたい。
いま眠って何も言ってもらえない、それでも前髪ふれあうまま穏やかな深い香やさしくてオレンジが甘い。
寝息の呼吸ごと柑橘こぼれだす、ゆったりした鼓動、体温のぬくもり、抱きしめるシャツ透かして触れられる。
香も鼓動も温かい、やさしい温もり穏やかで安堵ゆるやかに満ちていく、こんなふうに抱きしめられる隣の今が幸せだ。
この隣に、居たい。
(to be continued)
※2011.09.20掲載「黎明、木洩日の翳 ― side story「陽はまた昇る」加筆校正Verです
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