告げられる事実、隠される真実

夕寂、 告白・秘密― side story「陽はまた昇る」
夕暮の淡い光が教場を照らす。
放課後の静けさの底に、英二と湯原は座っていた。遠野の告白が、頭を廻る。
― 妻が指名手配中の容疑者と一緒にいるからです
男は過去に、警察官を殺して服役しています
妻は彼の幼馴染でした、そして逮捕したのは私です
― 事件の関係者と結婚したという事ですか
はい、本来あってはならない事です
遠野は、正直苦手だ。こんな横暴な大人に会った事はなかったから。
けれど遠野は、いつも誤魔化さない。弱点を曝せるほど強い。
初めて、絶対に勝ちたい相手が見つかったと思った。
ただ、知りたかった。遠野に何があったのか。
けれど、こんなに大きな問題だとは、思っていなかった。
湯原に、父親の事を皆の前で話させた、あの時と同じじゃないか
ひとつ開けたむこうに座る、湯原の顔を、見られない。
ため息をつき、英二は目を閉じた。
「俺、また失敗したな」
「…失敗?」
落着いた声が、すこし後ろから低く響く。
いつも通りの声音が、英二をすこし和ませた。けれど目を閉じたまま、英二は口を開いた。
「言いたくない事を、皆の前で話させた」
やや息を呑んで、英二は言葉を続ける。
「湯原の時と同じ事、また、やったんだよな」
何も苦労せず悩む事もなく、要領よく生きてきた自分は、訊かれて困る事なんてなかった。
訊かれる事が、痛みを穿つ事になるなんて、知らなかった。
― これからは普段なら出会う事のない 凶悪犯に立ち向かう
大切な人の命を奪われ、打ちひしがれた遺族の前に立たなければならない
現場に立ったら、その悲しみを訊かなくてはならない。
自分は本当に、警察官として相応しいのだろうか。
かすかに気配が動き、かたんと椅子引く音が響く。
すぐ隣に、穏やかな空気がふっと揺れた。
「宮田、」
落着いた声が、隣から降ってくる。けれど英二は、目を瞑ったままでいた。
普段通りの口調で、湯原が言った。
「遠野教官、笑っていたから」
「遠野が、笑う?」
意外さに英二は、目を開け見上げてしまった。黒目がちの瞳がふっと微笑んだ。
「かすかだけど笑ってた」
すっきりしたんじゃないのかな、教官も。言いながら湯原は、隣の机に浅く凭れた。
「…そっか」
英二も椅子に凭れかかり、ほっと息を吐いた。
ゆっくりと西日が教場に射しこんでくる。英二の机に、隣から影が翳し始めた。
ぼそりと湯原が言った。
「俺も、すっきりしたから」
隣を見上げると、黒目がちの瞳がこちらを見ている。
軽く口元を結び直してから、湯原はまた唇を開いた。
「父さんの事、拳銃の事。話して、すっきりした」
抑揚のない声で言うと、湯原の目は伏せられた。
英二の切長い目許に、かすかな熱が浮かぶ。
「…ありがとう、な」
周りを気遣える男になりたい。湯原の父の事を、英二は思い出していた。
目許の熱が、頬つたって落ちていく。
俺って、こんなに泣くヤツだったかな
警察学校に来てから、泣いたり怒ったりした。前はただ笑ってばかりいたのに。
でもこういうのも、悪くないよな。
思いながら、涙拭こうと手の甲を上げかけた時、不意に、すべらかな感触が頬に触れた。
湯原の指が、そっと眦を拭っている。
「湯原、」
覗き込む顔が、ほんの少し近い。
教場を照らす西日の、陽射しが頬におちて明るんだ。
きれいに涙拭っていく指の、触れる温かさが、英二の心を浸食していく。
これ以上、触れられたら。求めたい心を諦める事なんて、出来るのだろうか。
「ほんと泣き虫だよな、宮田は」
「…じゃ、もう泣かね」
涙拭い終わった指が、軽く目許を叩く。
その指を、英二の長い指が絡めとってしまった。
触れてしまいたい、もっと
心が軋んでいくのを、英二は唇噛み締める。
目の前の、黒目がちの瞳が、怪訝そうに覗き込んだ。
「宮田?」
どうしたと、落着いた声が訊いてくれる。
こんな時でも、湯原との空気はどこか穏やかで、やさしい。
握りしめた指に、英二は目を落とした。その手首の、青い袖が目に入る。
警察官の制服を、自分も湯原も着ている。
― 俺は絶対に警察官にならなきゃいけない理由があるんだ
警察学校内の禁則。
男同士の恋愛沙汰なんて、きっと退職だけの問題ではない。
傷つけたくない、失いたくない。湯原の想いを叶えてやりたい。
願っていいなら、湯原の穏やかな空気を、壊されたくない。
この隣の空気が、俺は好きだ
何も求められない、英二は目を閉じた。
「だいじょうぶか?宮田」
結んだままの唇を、英二は少し綻ばす。
目を開くと、普段通りに笑って、湯原の顔を見上げた。
「今日の授業の、復習しようぜ」
「その前に、手、離してくれない?」
淡々と湯原は言い、繊細なくせに勁い視線で、英二の顔を覗き込んだ。
黒目がちの瞳を、長い睫毛が翳す。西日を横顔に受けて、頬おちる睫毛の影が鮮やかだった。
きれいだ
至近距離で見せられて、英二は少し複雑な気持ちになった。
思わず口を吐いて、言葉が零れた
「やっぱり湯原、かわいいよな」
「そんなこと言うの、宮田くらいだよ」
眼科行った方が良いんじゃない。落着いた声で言いながら、湯原は自席に戻ってしまった。
さっさとノートや教本を、湯原は鞄に詰めていく。
「学習室行くんだろ?早く支度しろよ」
「おう、」
湯原が触れた目許に指をあてると、どことなく温もりが残っている。
教本を鞄に入れながら、遠野の言葉が思い出された。
― 狭い取り調べ室でのやりとりが、被疑者の人間観を今後の人生を左右する
ここで被疑者が人生を投げたならば、その者は再び罪を犯す
取り調べが最後の砦だと言うのは、そういう意味だ
湯原のような想いをする人が、少しでも減ってほしい。
手を動かしながら、英二は言った。
「俺さ、取調の名人になりたいな」
かちりと鞄の蓋が閉じる音がし、落着いた声が答えた。
「宮田なら、なれるよ」
おう、なるぞ。言いながら、英二は微笑んだ。
「湯原に言われると自信、持てるよなあ」
「ただし、努力がかなり必要だと思うけど」
喋りながら並んで、扉を出ていく。歩き出した廊下を、夕暮のオレンジ色が濃く照らしていた。


