離れても隣に

緑翳の下、秋風の雫 ― another,side story「陽はまた昇る」
抱き寄せられた肩が、あたたかい。
吹く風が淡い黄葉を、ゆっくり降らせながら頬を撫でていく。
居心地が良くて、このまま眠ってしまえたらいいなと思う。本当は昨夜、あまり眠れなかった。
「周太、」
かすかな声が耳元で呟いた。
きれいな低い声が、こんなに懐かしくて嬉しい。自分はきっと、一昨日の夜からどうかしていると周太は思う。
けれどそれでいいと、素直に「今」に添ってしまう。
周太。名前をまた呼ばれて、長い指の掌が周太の左頬を包んだ。頬にそっと掛けられた掌が、あたたかい。
おろした前髪に長い指を絡ませながら、宮田は頬を寄せてくる。
ふれられている事が、恥かしいけれど嬉しい。
きれいな切長い目が、至近距離から瞳を覗きこんでくる。こんなに近いと緊張する隙も無いのかなと、ぼんやり見ていた。
その目の前で、切長い目がゆっくり瞑られた。
やわらかな熱が唇にふれる。
一昨夜の事が夢では無かったと、同じ感触に確かめてしまう。
ああ全部やっぱり、現実だったんだ。
怯えと痛みに裂かれても、あたたかで透明な甘さが嬉しかった、一昨夜に刻まれた記憶。
一夜の記憶がこんなにも、自分を変えてしまっている。
これから自分は、どうなってしまうのだろう。
今日の午後には、卒業配置先の新宿署へ入る。
罵声、暴力、汚職、事故。きらびやかな光の底にも、倦怠わだかまる副都心。
けれどこの街には、宮田の記憶が残っている。
隣にこうして居られるのは、あと2時間位だけれど。やさしい静かな隣の記憶が、街のあちこちに佇んでくれる。
目的の為に選んだ赴任先。きっとこの街で、辛い真実に向き合う事になる。
それでもきっと、この記憶があるなら大丈夫と思える。
やわらかな熱が深くなる。恥かしいけど嬉しい、けれど周太はすこし焦った。
自分の赴任先にある公園、もし同僚に見られたら困る。
喘ぐように少し顔を逃がしたけれど、やわらかい髪ごと長い指が絡めとって、離してはくれない。
あたたかさが嬉しくて、流されてしまう。それでも小さな声が零れた。
「…っぅ」
ゆっくりと唇が離れて、周太は目を開いた。眦から一すじ、涙が頬をおりていく。
きれいな唇がそっと涙にふれて拭うと、やさしい笑顔が周太の瞳を覗き込んだ。
「泣き虫、」
嬉しそうに宮田が言った。
ゆっくり瞳を瞬かせてから、周太は口を開いた。
「宮田の責任だから」
そうだなと宮田がきれいに笑う。
こんなふうに素っ気なく言っても、どうしていつも嬉しそうに笑ってくれるのだろう。
周太はたまに、きれいな笑顔に途惑ってしまう。
こんなにきれいな笑顔の隣に、自分が居てもいいのだろうか。
けれど自分から離れるなんて、きっともう出来ない。
目を上げると、やさしい静かな笑顔が見つめていた。
ああもう、どうでもいいや。あんまり嬉しくて、考えても無駄だと周太は思った。
本当はもう、心は決まっている。
座りなおして隣の顔を眺める。
相変わらずの笑顔で、隣は見つめ返している。けれどふと周太の目が止まった。
宮田の左頬が、ほんの微かだけれど赤い。
そっと周太は手を伸ばし、触れてみる。底の方に微かな熱が残っている。
「叩かれたのか、宮田」
まあねと何でも無いように、宮田は笑った。
その笑顔が周太に刺さる。
普通の幸せな家庭の、宮田の家。
男同士なんて普通じゃない事、拒絶されて当たり前だと思う。
普通に幸せだった家に、影を落としてしまった。その重さが周太を責める。
それでも、この隣を手放す事なんて出来ない。自分勝手だと思っても、周太は自分に嘘がつけなかった。
笑いながら宮田は、きれいな切長い目を和ませた。
「羨ましい、って父に言われたよ」
意外な言葉だった。どういう事なのだろう、周太はすこし茫然と隣を見つめた。
きれいな唇を微笑ませたまま、宮田は口を開いた。
「生きる事に、誇りと意味を教えてくれた人」
湯原の事をそう話したんだ。笑って言われて、周太は少し気恥ずかしかった。
自分はそんなに立派な事は、出来ていないと思う。けれど、そう話してくれた宮田が、嬉しかった。
「私には、そんな人が居なかった。良い学校を出て良い会社に入り、良い妻を迎える。
それで人生は無事に過ぎていくと、ただそれだけだった。誇りも意味も、私の人生には見つかっていない」
父はこんな風に言うんだ。少し切ってから宮田は続けた。
「誇りと意味をもって生きられたら、人生を悔いることは無いだろう。
男なら人間なら、そんなふうに生きてみたいと憧れさせられた。そう言ってさ。
俺の事をさ、雰囲気が変わったな、良い男になった。そんなふうに言ってくれた」
宮田の父の言うとおりだと、周太も思う。
宮田は本当に雰囲気が変わった。出会った頃の要領の良い冷たさは、今もうどこにも無い。
静かでやさしい強さが、切長い目に湛えられている。
これが本来の宮田なのだろうと、周太は思う。
それでさ、と宮田は嬉しげに微笑んだ。
「きっと彼は良い男なのだろう。写真は無いのか、って父は言うんだ。
それで写真を見せたら、きれいな良い顔だな、って褒められたから」
そんなふうに言われて、恥かしいけれど嬉しい。周太の首筋がすこし熱くなった。
けれどふと周太の心に引っかかった。
「写真てなに?」
どうしてそんなもの見せられたのだろう。
写真を撮ったことなんて、いつあったのだろう。周太の記憶には無い。
少しバツが悪げに、けれど悪戯っぽく宮田が笑っている。
「いや。一昨日の昼間に、ここでさ」
「ここで?」
どういう事だと目で問い詰めると、まいったなと笑って、宮田は携帯を取り出した。
メモリーを呼び出してから、周太の前に差し出した。
「良く撮れているだろ?」
画面を覗き込むと、自分の横顔が写っていた。
緑の木々が輪郭いろどった、すこし俯き加減の横顔。周太が、自分でも知らない顔だった。
「これ本読んでいる時?」
「うん。きれいだな、と思ってさ」
どうして、すぐそう云う事を言うんだろう。
恥かしくて削除してやろうとしたが、保護ロックがかけられて操作できない。
お見通しだよと笑って、宮田に携帯を取り上げられてしまった。
「うちの父、そのうち三人で呑みに行きたいって」
「…ん、」
そんなふうに、宮田の父に認められて嬉しい。
無事に勤めて、家庭を守っている宮田の父。きっと立派な大人の男なのだろう。
警察官で男同士でなんて、未来どころか明日も解らない。
世間一般から見たら、異様な事だと解っている。それなのに、そんな立派な人に受け留めてもらえた。
周太は嬉しかった。
けれど宮田の頬は腫れている。誰かが拒絶をした事は、明らかだった。
隣の頬を見つめると、笑いながら宮田は左頬を示した。
「母はね、予想通りで、これ」
それが当然の反応だと、周太は思う。
宮田の母はきっと、宮田に似た美しい人なのだろう。そのひとを追い詰めた事が、悲しい。
黙って唇を噛んで、周太は涙をこらえた。
そんな周太に笑いかけて、宮田は続けた。
「でもさ、姉ちゃんは図星指してきた」
「お姉さんが?」
新宿で偶然、会った事がある。宮田と一緒に母の誕生日祝いを選んでくれた。
快活な笑顔で、宮田そっくりの美人だった。
一つ上だと聞いたけど、どこか大人びて落着いた雰囲気が、もっと年上のようにも感じた。
「新宿で会った時さ、俺、湯原の隣ですごく良い顔していたらしい」
それで解ったって言われた。笑いながら宮田が周太を見つめた。
そんなふうに言われるような顔を、自分の隣でしてくれているのか。周太には意外で恥ずかしくて、嬉しかった。
「姉ちゃんさ、湯原のこと好きだなって言うんだ」
「…なぜ?」
お姉さんは随分と、意外な事を言ってくる。
油断ならない姉なのだと、宮田が以前言っていた事が思い出された。
なぜだと思う?と訊きながら、宮田が答えた。
「瞳がきれいだから。そして俺を良い男にしてくれたから」
宮田もそうだけど、どうしてそう云う事をお姉さんまで言うのだろう。
姉弟そろって周太を途惑わせ、気恥ずかしくさせてくる。けれど本当は、周太は嬉しかった。
首筋をすこし赤くしながら、小さく呟いた。
「…そうなんだ」
もう家族まで、巻き込んでしまった。
ただ一夜の時が、自分も家族も、何もかもを変えていく。
初めての感情と寄せられる想いに、途惑いながらも、あたたかさが周太を抱きとめていた。
周太は一緒に改札を通った。そのまま宮田の乗る、列車のホームへと並んで歩く。
今日はこのまま、新宿署の寮へ向かう。改札に入る必要なんてない。
けれど少しでも長く、隣で顔を見ていたかった。
休日のホームは少し混んでいた。けれど、昼前の下り線に乗る人は少ない。
ゆっくり隣の顔を見上げて、今ひと時を惜しむ事が出来る。
さっき抱きとめられた隣が、今また遠く離れていく。
卒業配置先では、寮生活になる。独身者の場合は通常、所属署の寮生活が基本と教えられた。
所属署が違う以上、離れる事は止むを得なかった。
それでも心通じた今は、あたたかな想いは消えない。
物理的距離は離れていても、心はすぐ隣に居られる。
それにお互い生きている。離れた場所に立っていても、同じ空の下に生きて居られる。
明日が解らないから、約束は出来ない。けれど、会えると信じることは許される。
離れた場所だとしても、同じ時間を刻んでいけることが、周太には幸せだった。
列車がホームに入ってくる。列車の起こす風が、髪を煽った。
振向いて宮田が微笑んだ。
「また、連絡する」
扉が開いて、乗り込むと宮田は扉際に立った。
雑踏できっと聞こえないだろう、けれど周太は小さく言った。
「さびしくなる」
言った端から泣きそうだった。けれど周太は微笑んで、軽く手を上げた。
上げた手の袖元から、淡く赤い痕がわずかに覗く。それを見て、周太の首筋が熱くなった。
しまったと思っていると、不意に腕を掴まれた。
扉が背後で閉じられた。
驚いて目を上げると、すこし悪戯っぽい笑顔がきれいだった。
休日の昼前、列車はちょうど空いていた。
周太は少しむくれていた。卒配先の寮で挨拶があるのに、予定を狂わされて困る。
それでも隣は、幸せそうに笑顔で座っている。周太の腕を引きこんで、宮田が抱き留めた瞬間、扉は閉まった。
「…特急だと降りられないだろ」
ぼそりと言って周太は、ため息を吐いた。
立川駅乗換で、宮田は特急券を買っていた。少しでも長く居たいだろと、宮田は笑っていた。
機嫌良く微笑んで、宮田が話しかけてくる。
「電車代分、今度おごるから許してくれない?」
今度、という言葉を聴けた。
次の休暇がいつなのか、お互い解らないけれど。再会を求められる事だけでも、周太には幸せだった。
けれど周太は、呆れたように言った。
「高くつけるから覚悟しろよ」
「おう、任せとけ」
にっこりと宮田は、きれいに微笑んだ。
ああやっぱり、宮田って馬鹿なんだ。どうしていつもこうなのだろう。
宮田の顔を見つめて、周太は口を開いた。
「宮田やっぱり馬鹿なんだな」
「うん、いいじゃんか」
全く問題ないという顔で、のんきに宮田は笑っている。
仕方ないなと思いながら、すこし喉が痛い事に周太は気がついた。
さっき買っておいた飴を取り出し、オレンジ色したパッケージを少し破く。
一粒とって口に含むと、爽やかな甘い香が穏やかだった。馴染んだ風味に、ほっと心が寛いだ。
「はちみつオレンジのど飴?」
宮田が周太の掌を覗き込んできた。
「かわいいものを食べるんだな、湯原」
こういうの好きなのかと宮田の目が言っている。
確かに好きだけれど。今これを食べなくてはいけない原因は、誰の所為だと思っているのか。首筋が熱くなってきた。
のんきな宮田の顔に、何だか腹が立つ。
「元はと言えば、宮田がっ…」
言いかけて、口噤んでしまった。
何と言えばいいのだろう?言えば言うだけ、自分を追い詰めるに決まっている。
「俺が、なんだよ?」
宮田が話しかけてくる。
周太は俯いたまま、顔があげられない。首筋が相変わらず熱くて、耳まで熱い。
きっと今、真っ赤になっている。
それなのに、隣からの視線が無視できない。
何か言わないといけないと、焦るけれど何て言えばいいのか。
こういう事は馴れていない。途方にくれてしまう。
そうだと周太は思いついた。事実だけ、言えばいいのか。
小さな声で周太は言った。
「…昨日から声が出にくいんだよ」
事実だけしか言っていない。
それなのに、宮田はちょっと口の端だけで笑った。
「周太、声大きかったから」
何気ないふうに、さらっと言う。
どうしていつもこうなのだろう。首筋の熱が頬まで昇る、きっともう真っ赤だ。
周りが聞いても普通の会話だけれど、それが逆に恥ずかしくてならない。
それにそんなに、大きな声は出していないと思う。
一昨夜の時、怯えと不安で声は詰まってしまった。出ない声が喉で裂けて、呼吸が掠れて痛かった。
体だけではなく声ですらも、拒絶も抵抗も出来なかった。
心も体も怖くて痛くて、けれど温もりが嬉しくて、止めて欲しくなくて。どうしていいのか解らなかった。
気付いた時には、透明な甘さと熱が体の芯に刻みこまれていた。
初めての事に、今だってこんなに途惑っているのに。
宮田はたまに、残酷だ。
けれど隣では今も、きれいな笑顔は静かで優しい。
この隣から離れたくないと、思っている自分がいる。心だけじゃなくて体も、傍に居たい。
今回は、日程が幸運だった。
卒業式と着任挨拶の翌日が、ちょうど休日に当たった。それで休暇で、時間がとれた。
もし翌日が平日だったら、着任挨拶のまま卒業配置先での勤務が始まっていた。
そうしたら、一昨夜のような事は無かっただろうと思う。
その方が楽だったのかもしれない。
仲の良い同期で、初めての仲良い友人。たまには会って一緒に呑んで、他愛ない話をする。
寮での日々とあまり変わらない気持で、過ごせていただろう。
家族にとってもその方が、きっと気楽だった。
―周の痛みをきちんと理解できる人、周の笑顔を願って笑わせてくれる人
そして周が寛いで一緒に居られる人。そう簡単には見つけられない
周がひとり孤独でいるより、誰かが隣に居てくれる方が、ずっと幸せだとお母さん思ったの
母の言葉が心をよぎる。
ああ本当にそうだと、素直に思えた。自分と母にとっては、幸せな事なのだ。
宮田の母には本当に、顔向けできなくて辛い。けれど、いつか会えたら嬉しい。
この隣を産んで育んでくれたひとを、否定する事なんか出来ない。
他愛ない話をするうちに、列車が駅に着いた。
一緒に降りるけれど、宮田は乗換えて先へ行き、周太は折返して新宿へ帰る。
今日別れたら、いつ次の約束が出来るのか解らない。
今は一緒に歩いている隣を見上げた。きれいな切長い目は、真直ぐ前を見ているけれど潤んで光っている。
ああやっぱり泣き虫だ。周太はすこし微笑んで、オレンジ色のパッケージを取り出した。
一粒、取り出す。
「帰り気をつけ、」
言いかけた宮田の口に、飴を投げて放りこんでやった。うまく口に納まると、爽やかで甘い香が広がる。
涙ぐんだまま驚いている目許を、指で拭ってやった。
「泣くなよ宮田」
「ありがと、」
言いかけた宮田の掌に、ぽんとオレンジ色のパッケージを乗せてやった。
やわらかな熱が、周太の掌を暖める。そっと手を離して周太は微笑んだ。
「これやる」
オレンジ色のパッケージを、宮田は眺めて笑った。
良かった笑ってくれた。周太も微笑み返した。
「待っているから」
言い残して、周太は自分の乗車ホームへと歩き出した。
宮田は周太に笑いかけてくれた。
「待っている」と言えるのは、いいなと思う。
連絡待っているから、あう日を待っているから、「いつか」を待っているから。
明日が解らないから約束は出来ないけれど、求めても良い事が嬉しい。
約束したい相手が居ることは、あたたかく穏やかだった。
上り列車に乗る。まだ気怠さは体に残るけれど、心が充ちて穏やかだった。
車窓がゆっくりと動き始めた。宮田との距離が遠く離れていく。
けれど心だけは、一番近くに隣に居ることを知っている
。
孤独でも目的を果たせるのなら、それで構わないと思っていた。
けれどそれは、本当に父が願っていた事じゃない。宮田がくれた6ヶ月間が、気付かせてくれて今はそう解る。
もうじき目的を果たす場所に着く。
自分は迷うかもしれない。その瞬間を手に入れた時、自分を制する事が出来るのか不安もある。
けれどもう今は、やさしい静かな隣の気配が、あの街には佇んでくれている。
きっと自分は道を外さない。死なない警察官で、自分はいたい。
強くなりたい。



