萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

不夜城、居場所―another,side story「陽はまた昇る」

2011-09-28 22:54:21 | 陽はまた昇るanother,side story

眠らない街でも、ひとすじの光




不夜城、居場所―another,side story「陽はまた昇る」

初めて周太は、父が殺された場所に立った。
それでもあの夢は蘇らなかった。

ガード下は、どことなく薄暗い。急ぎ足の雑踏が、ただ行き交っていく。
新宿駅の東口と西口を結ぶこの場所で、父は狙撃されて死んだ。
父が最後に立った場所は、この辺りだったのだろうか。周太は足許を見つめた。

目を上げると歓楽街が目に入る。
東洋一の歓楽街という歌舞伎町。ここに約120箇所の暴力団事務所拠点があり、推定1,000人の構成員が居る。
父を殺害した犯人もここに居た、けれど今はもう居ない。
服役後、組から追放された事までは調べられた。その後はまだ解らない。

父が殉職した夜は、新聞配達の音で明けた。
被弾する父の血塗れた幻は、幼い周太を眠らせなかった。ただ自室の天井を見つめ、バイクの音に朝だと気付いた。
そっと玄関を開けてポストへ向かい、新聞をこっそり取り出した。
自室で広げ、父の記事を探した。そこには犯人の名前と所属暴力団の名が記されていた。

周太は母に黙って、父の記事を集め続けた。
ただ真実を知りたかった。

犯人を担当した弁護士は、威嚇発砲が偶然当たったと主張し、認められた。
懲役13年。それが与えられた刑罰だった。そして態度良好により刑期を切り上げられ、釈放された。
父は死んだ。けれど犯人は生きて、今もどこかで暮らしている。

周太は踵を返し、巡回の続きへと歩き出した。
ガードを出た脇に、一人のホームレスがぼんやり蹲っている。
以前は何をしていたのか、今はもう解らない襤褸を着ていた。

巡回を終えて、所属の新宿駅東口交番に戻った。
おつかれと当直の若林が声を掛けてくれる。この先輩の体格は威圧的だが、笑顔は穏やかだった。

東口広場に立つ交番は、格好の待合わせ場所になっている。そのため、地理指導や遺失物等の届出が非常に多い。
そして歌舞伎町にも近い為に、喧嘩の仲裁も多いという。
穏やかな笑顔と立派な体格は、きっと適任だろう。

おつかれさまですと答えると、若林が話しかけてきた。

「卒配初日だが、特錬の話がもう来たぞ。射撃だそうだ」

やっぱり来たと周太は思った。
警視庁は警察署、機動隊、交通機動隊など所属ごとに「特錬」が居る。
「特別訓練員」の事で、年に1~2回行われる剣道大会、駅伝大会、その他色々な大会に出る選手たちの事を言う。
署の特練なら経験者は間違いなく入ると、警察学校で白石助教に言われていた。
若林は気さくに笑って、訊いてきた。

「普通は2年目以降が多いらしいが、湯原は全国大会の実績があるらしいな」
「はい、」

あまり本当は、この手の話はしたくない。自分を宣伝するような事は、周太は得意ではなかった。
周太の短い返事にも、若林は気にせず話を続けた。

「11月の大会だが、あまり時間が無い。術科センターに明日から通っていいとの事だ」

新木場の警視庁術科センターには、大きな射撃場がある。
新宿から新木場まで40分程かかる。勤務の合間に行く事になるのだろう。
詳細はまた署で説明があると言われ、日勤扱いで新宿署へ戻る事になった。


新宿署へ向かう途次、ガード下をまた通った。
先程のホームレスはまだ蹲ったまま、ぼんやり座り込んでいる。
これから寒くなる季節はどうするのだろう。そんな事を考えながら通り過ぎた。

父も射撃の特錬だったと聞いた。そしてオリンピックの代表選手になった。
射撃の名手が交番勤務で終わる訳が無い事を、今の周太は知っている。
父はここで撃たれた。その時の父が所属していた部署は、まだ知らない。

父と同じように射撃の特錬に選ばれた。
オリンピック代表になる事は無くても、警視庁での進路は父とほぼ同じ道だろう。
父が歩いた道を、追体験して辿る。それしか父の殉職にある真実は解らない。
その為に周太は今、ここにいる。


夕暮が降りてくる。
ふと振り返ると、歌舞伎町にネオンの原色が点り始めていた。
夜が迫る時、この町の本番が目覚める。
この街の歓楽に遊ぶ事はないだろう。けれど、そこに蹲る闇とは向き合わざるを得ないだろう。

― 人の闇と付き合う仕事

遠野教官の言葉どおりだと、周太は思う。
自分で望んで選んだ配置先は、特に闇が多い場所だと解っている。
父が殉職した現場だと思うと、その闇は濃密さを増して圧しかかった。

ガード下を抜けて、周太は空を見上げた。
高層ビルの頂上の、ライトが点灯し始めた。たしか民間障害標識という名前だった。
摩天楼に囲まれて、大勢の人が歩いている。
けれど周太は孤独だった。

6ヶ月、いつも隣に居た笑顔が懐かしい。
ちょっと馬鹿じゃないかと思うけれど、きれいな優しい笑顔が好きだ。
この雑沓も並んで歩いていた。そんな時でも静かで、やさしいあの隣が好きだ。

今どうしているのだろう。
宮田の赴任先は今頃は、きれいな黄葉が山里を彩っているのだろう。
きれいな空気で、星も見えるだろうなと思う。

でも今、周太には星は見えない。
目的のために選んだこの場所は、昨日までとの落差が大きすぎる。
昨日までの時間が、夢だったのではないかと思えてくる。
周太の唇がかすかに動いて、小さな声が零れた。

「宮田、」

雑沓に紛れて誰にも聞えない。
寂しさが募った。けれどふと、一軒の明りが目に入った。見覚えがある。

「あ、」

宮田と行ったラーメン屋だった。あれは何度目の外泊日だったろう。
懐かしさに周太は微笑んだ。
こんな所でも、あの隣は佇んでくれている。

非番の日が来たら、あの公園に行けばいい。
あの書店に行って、本を買おう。一昨日行った、あのラーメン屋で昼を食べよう。
自分がここを選んだ、もう一つの理由を周太は思い出した。胸が、ゆっくり温かくなる。
孤独ではないという事が、こんなに嬉しい。

空をまた見上げると、暗さに慣れた目に一つだけ星が見えた。
汚れた空気で遮られてはいるけれど。本当は、星は今も見えている。宮田の見上げる空と同じ数だけ。


新宿署に着くと、射撃の特別訓練員に選抜された旨の、正式な話があった。
明日からのスケジュールなどを教えられて、寮に戻ると夕食の時間になっていた。
食堂に入ると、同じ教場出身の深堀が、トレイを受取っている所だった。
おつかれさまと笑って、一緒に食べようと誘ってくれた。

「東口交番、どんな様子だった?」
「ん、道案内が一番多かったかな。百人町は?」
「外国の人、やっぱり多かったよ」

発音が上手く聞きとれなくて困った事など、にこにこ話してくれる。
深堀とこんなふうに話すのは、周太は始めてだった。

「巡回行ったら、アジア系のお店多かった。近くのアパートは多国籍みたい」
「じゃあ深堀には適任なんだ。何ヶ国語、話せるのだっけ」

他愛ない会話が楽しくて、緊張がほぐれてくる。
周太は少し、自分で驚いている。気さくに話が出来るように、何時の間に自分はなったのだろう。
やっぱり宮田の隣に居たからなのかな。そんな事を思いながら、焼魚に箸を伸ばした。
きれいに骨を外しながら相槌をうっていると、不意に深堀が黙った。
なんだろうと目を上げると、深堀は不思議そうな顔をしていた。

「湯原、雰囲気なんか変わった?」

思わず、魚に箸を突き刺してしまった。
けれど深堀は気付かずに、卒業式の日となんか違うねと笑っている。
こんな時、顔に出にくい方で良かったと思う。

どうしていきなりそんな事を言われるのだろう?
雰囲気変わった心当たりなんて、有りすぎて。自分でも途惑っている時なのに。

昨日、立川から戻って、新宿駅の洗面で前髪を上げた。
ネクタイもきちんと締めて鏡を見た。
それでも自分の顔は、卒業式の、あの夜の前とは違っている。
どうしようと思ったけれど、でも嫌な顔じゃなかった。

けれど同期に、こんなふうに図星を言われてしまうと、余計に途惑う。
全部もう宮田のせいだ。けれど今それを言える訳がない。
どうしたらいいのだろう、こんな事には慣れていない。

そうだ。こういう時は、質問で返せばいいか。
周太は深堀に訊き返した。

「どう変わった?」

とりあえず黙りこむのは避けられた、ちょっと安心して水のコップを手に取った。
そうだなあと深堀は考えながら口を開いた。

「なんか宮田に、ちょっと似てきたかな」

水に口つける前で良かったと、周太は思った。もし後だったら、きっと盛大に吹きだしていた。
それにしても図星をついてくる。首筋がいつ熱くなるかと不安になる。
コップをトレイに戻しながら、そっと溜息を吐いた。
なぜそう感じるのだろう。周太は訊いてみた。

「どうして宮田?」
「うーん、いつも一緒に居たからかなあ」

いつもどおりの人好さげな微笑みで、深堀が答えた。
いつも一緒、確かにそうだった。けれど改めて言われると、なんだか恥かしい。
困ってしまう、けれど深堀は何も気付いていないようだった。
そうだねと深堀は頷いて、口を開いた。

「宮田も随分と変わったよね、穏やかに落着いてさ。うん、湯原に似てきたよ」

どうしてこんな恥かしい事を、にこにこと同期に言われるのだろう。
これは一体何の罰ゲームなのかと思ってしまう。
首筋が少し熱くなってきた。いま食べている煮物の味も、なんだかよく解らない。
もう全て宮田のせいだ。どうしたらいいのだろう。

困惑してもう、何言っていいのか解らない。
周太はすっかり途方に暮れながら、箸だけ動かしていた。
それでも深堀は、にこにこと頷いた。

「でもそういうの、羨ましいよ」

意外な事を言われた。
思わず周太は、ぼそりと言った。

「そうかな」

そうだよと笑って、深堀は言った。

「一緒に居てさ。お互いに良い影響与えられるって、良い関係だよ」
「良い関係?」

思わず訊き返してしまった。
本当は宮田との関係を、今はもう他人に堂々とは言えない。後悔なんてしないけれど、少し胸が刺される。
それでも、あの隣を諦める事は出来ない。
どんなに痛くても、やさしい静かな笑顔から離れられない。今だって会いたい。

良い関係だよ。
深堀は相変わらず、人の好い笑顔で答えてくれた。

「宮田も湯原も、話しやすくなった。なんかね、雰囲気良くなったと思う」

そうかなと周太が言うと、深堀が微笑んだ。

「正直に言うとさ、俺、ちょっと苦手だったから。
 宮田は、気さくだけど本音が分かりにくかった。湯原は周りに無関心な感じがしてさ。
 でも今は二人とも話しやすいよ。だから俺、湯原と同じ配属で嬉しいんだ」

率直に言ってごめんと謝りながら、深堀が煮物の鶏団子をくれた。
良い奴なんだなと周太も嬉しくなった。

「いや、ありがとう」

周太は微笑んだ。
深堀が笑い返して、感心したように言った。

「良い笑顔するね、湯原。なんか宮田みたい」

宮田の笑顔って良いよねと、にこにこ深堀は焼魚をほぐし始めた。
首筋が見られていなくて良かったと、周太は心から思った。
深堀は良い奴だけれど、なかなか油断が出来ない。


風呂を済ませて自室に戻ると、21時前だった。
デスクライトを点けると、システム手帳と携帯を取り出した。自分のシフトを確認して、特錬のスケジュールも加える。
丸一日休める日は、なかなか少なそうだ。
宮田のシフトと合わせられるだろうか。少し不安になる。

それでも、会う予定を考えられている。今、それ自体が嬉しい。
手帳を眺めて考えていると、携帯の着信ランプが灯った。

液晶を見なくても、着信音で誰なのか分かる。
すぐに開いて耳に当てた。

「はい、」
「俺だけど、」

きれいな低い声が聴こえる。
この声を、いつからこんなに好きだと、思うようになったのだろう。

「勤務のシフト分ったから。メモしてくれる?」
「こっちもシフト分かる」

答えながら手帳を開いて、ペンを持った。
自分のシフトに宮田のシフトを加えていく。休みが合いそうな日が、2回位ありそうでほっとした。

電話の向こうから、楽しそうな気配が伝わった。
笑っているのかなと思って、すこし気恥ずかしくなった。もう気配だけで解るようになっている。
どれだけ一緒に居て、ずっと隣を見ていたのだろう。

― いつも一緒に居たからかなあ

深堀に言われた通りだな、と改めて思う。
いつも気がつくと、宮田は隣で笑っていてくれた。
やさしい静かな笑顔の、隣が好きだ。
昨日会ったばかりなのに、今もう会いたい。スケジュール帳の、休みが重なる日が嬉しかった。

「…なんか宮田、笑ってる?」

周太の問いに、宮田の声が嬉しそうになった。

「うん。ちょっとさっき、藤岡がさ。俺の事、なんか湯原と雰囲気が似てきた。って言ったんだ」
「え、」

なんで藤岡までそんな事を言うのだろう。
二人にも言われるなんて、そんなに解りやすいのだろうか。途惑いが周太の首筋を熱くする。
それでも、宮田は嬉しげに続けた。

「お前ら仲良いだろ、いつも一緒に居たしって言われてさ」

本当にその通りだと思う。けれどそんなに、二人揃えたように言わなくたっていいだろうに。
途惑いばかりが大きくなる。こんなこと慣れていないのに。
けれど宮田は、のんきに笑っている。そんな電話の向こうに、少しだけ周太は腹が立った。
ぼそっと周太は言ってやった。

「俺も、同じ事を深堀に言われた」

えっと息を呑む声が聞えた。珍しく宮田を驚かせてやれたらしい。
周太は、ちょっと満足だった。

「お互いに良い影響与えられるって良い関係だよ、って」

深堀がそう言ってくれたよと、周太は笑った。
電話の向こうから、少し照れたような気配が伝わってくる。

「俺もさ、同じ事を藤岡に言われた」

離れているのに、同じ時に同じ事を言われている。
おかしくて、そしてなんだか嬉しい。
離れていても、同じような時を過ごせている。そんな隣がいてくれる事が、嬉しかった。

今日は初めて、父の絶命した場所に立った。
幼い日の絶望と、濾過されたような今の悲しみと、犯人への鋭い感覚。
人の闇に向き合う事が、心を重くしていった。

けれど今、こうして自分は笑っている。
この隣があれば、自分は大丈夫だと思っていた。それは本当だと今、思える。
闇に向き合っても、闇に捕まえられずに、自分は居られるのかもしれない。

今もう、逢いたい。



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山黄葉、居場所― side story「陽はまた昇る」

2011-09-28 21:29:54 | 陽はまた昇るside story

季節がすこし早い場所




山黄葉、居場所― side story「陽はまた昇る」

活動服に着替えて、胸ポケットに絆創膏などを入れた。
指が長いせいか、英二は書類など紙で手を切り易い。学生時代も大抵、ポケットに2,3枚入れていた。
ハンカチを取出した時、オレンジ色のパッケージが一緒に出てきた。手に取り英二は微笑んだ。
立川駅での別れ際、湯原がくれたのど飴だった。それも一緒に胸ポケットへと仕舞った。

扉を開けて廊下へ出ると、窓に青空が広がっている。
昨夜は豪雨だった。新宿では晴れていたのに、青梅署に着いて夕食頃から降り出した。
夜半の雨は、英二には懐かしい。
初めての外泊日前夜、湯原に昼は何が食べたいか訊いた。あの夜も強く雨が降っていた。

昨夜は、初めて湯原に電話をした。
雨の音を聴きながら、あの日があって良かったと湯原に言った。
そうだねと答えた声が、電話越しにも恥かしそうで、懐かしかった。
昨日会ったばかりで、昨夜も声を聴いたばかりだけれど、今もう会いたい。

警察学校に入ってから6ヶ月間。湯原の顔を見なかった日は無かった。
外泊日も一緒に新宿へ立ち寄って、帰りも新宿で会えた。それとなく帰りの時間を訊いて、京王線改札で一緒になれた。
今日からは暫く顔を見られない。朝だというのに、寂しくなる。
それでも初めての勤務は、緊張感で背筋を伸ばしてくれた。

御岳駐在所は二人勤務だった、強靭な雰囲気の所長が優しい笑顔で英二を迎えた。
元は山岳救助レンジャーだという岩崎は、気さくな性格らしく何でも教えてくれた。
駐在所の説明を一通り済ませると、一服しようと声掛けられて、英二は茶を淹れた。
のんびり茶を啜りながら、岩崎が訊いた。

「卒配でここを志願するなんて、山が好きなんだ?」

御岳駐在所では、署員は山岳救助隊として活動をする。
警視庁山岳救助隊は、青梅・五日市警察署と管轄駐在所の署員、第七機動隊山岳救助レンジャーで構成される。
卒配先に決まった時、遭難の通報が入ると直ちに奥多摩交番に招集されて、捜索と救助に当たると教えられた。
田舎の駐在所とはいえ、経験者しか選ばれないような部署だった。

それなのに、山岳部経験も無い自分が選ばれた。
駄目もとで希望を出し、選ばれて嬉しかった。けれどなぜ自分が選ばれたのか、英二は不思議だった。
少し考えて英二は、率直に答えた。

「山岳訓練で、同期が崖から落ちた事がありました」
「それがここを志望した動機?」

はいと答えて、思い出しながら要点を話した。

「他の同期を助けようとして、彼が代りに転落したんです。
 前夜の雨が地盤を緩めていて、踏張った足が滑り落ちたのが原因でした」
「大雨の後か。かなり滑落しただろう?」

穏やかな目で岩崎は頷いてくれる。
少し父さんと似ているかな、と思いながら英二は続けた。

「崖下の谷川近くまで転落しました。足の負傷で自力は難しい状態でした。
 それで、教官の許可で装備を利用して、私が崖下へ降りました」
「ふん、足場が大変だったろう?」

足場は無かったですと笑って、英二はひとくち茶を啜った。
湯呑を掌に包みながら、岩崎が言った。

「なぜ自分が行こうと思ったんだい?」

好きだったから。とはさすがに英二でも、ここでは言えない。
けれど後半の理由だったら、言っても構わない。

「絶対に自分が助けたいと思ったんです」

あの時、他の誰でもなく自分が助けたかった。
だから下山の時も本当は、ずっと自分が背負って降りたかった。
それが出来ない自分が不甲斐なくて、湯原を背負って平然としていた遠野の言葉を、ずっと考えていた。

―背負い方、歩き方を知っているだけだ

あの後、怪我した湯原を助けたくて、いつも階段では湯原を背負って昇り降りした。
救護の教本も読み込んで、包帯の巻き方や応急手当も練習した。
湯原の為と思って始めたけれど、やってみると意外と性に合った。

―うまいじゃん宮田
 練習したんだ。川でさ、俺、遠野にボロクソ言われただろ
 ふーん。ちゃんとやるんだ、宮田も

湯原にも褒められて嬉しくて余計に頑張った。それと同時に山岳救助隊を知って進路に選んだ。
そうして気付くと、救助関連は学科も実習も一番身に付いていた。

湯原の怪我が治ってからも時折、練習させろと言っては背負った。
あの背中の温もりが懐かしい。湯原は今頃、どうしているのだろう。
ぼんやり湯呑を眺めていると、岩崎が微笑んだ。

「俺もいつもね、絶対に助けたいと思って山へ入るよ」

同じだな、と英二に笑ってくれた。この先輩は好きだな、と英二は思う。
交番勤務は、先輩によって当たり外れがあると聞いていた。
そんな事よりも英二は、自分の目的にあう場所と思って青梅署管轄を志願した。
自分の実力なら小さな交番と言ったけれど、本当は目的があるから選んだ場所。自分の適性を活かして目的を果たせる進路だろう。
どれも湯原を助けたくて学んだこと、選んだ道。結局自分は湯原がいつも中心だ。我ながら仕方ないなと思うけれど、悪くない。


初めての巡回に自転車で行く。
駐在所にはパトカーが1台常駐している。それでも隘路が多い山里では、自転車の方が小回りがきく。
山間の小さな平地に、畦道と渓流を曳いた用水路がはしる。田を渡る風が、稲の香に馥郁として心地良かった。
ずいぶんと黄葉が広がって、秋の風情が山を染めている。

やっぱり秋が早いのだなと思って、昨日の新宿でみた黄葉が懐かしかった。
ほのかな風に散る黄葉が、やさしく見える。
緊張に穏やかさが忍び入って、すこし心がほぐれた。

山道の入り口にさし掛かった時、不意に啜るような細い声が聞えた。
子供の声だろうか。自転車を止めて、崖の上を透かして見る。その視界に、青っぽいものが映った。
誰か人が蹲っている。怪我を負って動けないようだった。
自転車から降り英二は山道を登った。昨夜の雨で道が滑りやすい、山岳訓練の時もこんな足許だった。

慎重に足を運び、すこし平らな場所へ這い上がると、男の子が蹲っていた。
6、7歳くらいだろうか。泥だらけになった膝小僧に、擦り傷が出来ている。
驚かさないようにゆっくり近付いて、片膝で座ると静かに声を掛けた。

「どうした?」

泣きながら男の子が顔を上げた。頬にも薄く血が滲んで、痛々しい。
大丈夫だよと声をかけながら、英二は取出したティッシュで顔を拭いてやった。膝も拭くと、血がまだ止まっていない。
絆創膏をポケットから出して貼り、男の子の顔を覗き込んだ。

「迷子になったのかな」

小さな男の子は泣きじゃくって、話も出来ない。
こういう時はどうしたらいいのだろう。途方に暮れた英二に、ふっと立川駅での事が思い出された。
胸ポケットを探って、オレンジ色のパッケージから一粒を取出した。

「はい、」

男の子に差し出すと、嗚咽が止まった。
オレンジと蜂蜜の香が、二人の間に漂っている。涙目で英二を見上げて、途惑ったように首を傾げている。
切長い目を和ませて、英二は微笑んだ。

「はい、あーんしな」

素直に男の子が開いた口に、飴を入れてやる。爽やかな甘い香が広がって、男の子は微笑んだ。
良かった、男の子の笑顔が嬉しかった。
英二は微笑んで、男の子の目を覗き込んだ。

「名前は言えるかな?」
「…たなか、しゅうすけ」

へえと英二は笑った。
この子も「しゅう」と呼ばれているのだろうか。遠い市街地にいる、懐かしい隣を英二は思い出した。

「しゅうすけ。良い名前だな」
「うん、」

笑って、男の子は英二の手を握った。警戒を解いてもらえたようだった。
足許は相変わらず、昨夜の雨に緩まっている。手をつないで降りるのは、危険かもしれない。
英二は活動服の上着を脱ぐと、背中を男の子に差し出した。

「おんぶで行こう。しっかり掴まって」

うんと素直に頷いて、男の子が背に飛び乗った。
男の子の上から活動服を羽織って、袖を子供の肩から股に斜め通す。その袖を自分の肩上と脇下から斜めに縛った。
少し体を傾けてみると、子供の体は固定されている。背負い紐の代りになりそうだった。
英二は背中に声を掛けた。

「ちゃんと手を組めよ」

男の子の手が喉元で組まれたのを確かめて、立ち上がると軽い。
湯原を背負った重みが懐かしかった。

駐在所に戻ると岩崎がすぐに、田中さんとこの子だと連絡を入れてくれた。
待っている間、水道で顔や手足を拭いて、絆創膏を貼り直してやった。
名前の字を訊くと「田中秀介」と自分で漢字で書いて見せた。1年生だから書けるよと、得意げに秀介は笑った。
そのまま機嫌良く、英二に話しかけてくる。

「山の斜面にね、あけびがあるんだよ」

それ採りに行ったら滑っちゃった。言いながらポケットから薄紫色の実を出して見せた。
薄紫色の厚い皮と、中に覗く白い果実が瑞々しい。初めて見た英二には珍しかった。
英二を見上げて、秀介は嬉しそうに笑った。

「これね、妹が好きなんだ」

大切そうに仕舞おうとする秀介に、思いついて英二はティッシュを1枚差し出してやった。
どうするのだろうと首傾げた秀介に、英二は笑いかけた。

「これでくるんでおけよ。その方が実が壊れにくいから」

そうかと頷いて、ありがとうと秀介は受取った。
無邪気で明るい笑顔が、幼い頃の湯原の笑顔を思い出させた。
こんなところにも、あの隣が佇んでいる。思うだけで心が温かかった。
こんなにいつも思い出せるなら、寂しいけれど大丈夫かもしれない。


青梅署の独身寮に戻ると、すぐ夕食の時間だった。食堂には遠野教場で一緒だった藤岡が先に座っていた。
山岳救助レンジャーを希望する藤岡は、青梅署を志願して配置されている。
宮田、と気さくに声を掛けられて、英二はその前に座った。

「初日から宮田、活躍したらしいな」

何のことだろう。怪訝に首傾げていると、藤岡が笑って英二の肩を叩いた。

「ほら、子供を崖から助けたって」
「あ、その事か」

大した事じゃないよと笑って、英二は味噌汁を啜った。
ほっとする香に、腹減っていたんだなと思う。箸を動かしながら、藤岡の話を聞いた。

「卒配初日なのに、対応がしっかりしていたってさ。ちょっと噂になってたよ」
「そんな大した事じゃないよ」

笑って英二は煮物を摘んだ。
湯原の実家に泊まった朝も煮物があった。湯原の手料理、旨かったなと思いながら箸を運ぶ。
からりと藤岡が笑った。

「俺なんかさ、午後ずっと柔道指導の手伝い」
「あ、鳩ノ巣駐在は柔道指導あったよな。さすがヤワラ」

他愛ない会話だけれど、同期と話すのは良いものだった。
初日の緊張が少しほぐれてくる。
藤岡も箸を動かしながら、話を続けた。

「俺さ、山岳救助レンジャーに行きたいだろ」
「うん。山岳訓練の時にも話していたな」

訓練の時、川で流された中仙道を助けようと、最初にロープを離したのは藤岡だった。
けれど中仙道を捕まえたのは、湯原だった。本当に何でも、湯原は良くできる。
今頃あっちも飯かなと考えていると、藤岡が口を開いた。

「今日の宮田の話を聴いてさ、俺だったら、どうかなって考えた」

ごはんを一口放りこんで、うん、と英二は相槌を打った。
ちょっと箸を止めて、藤岡が英二の顔を見た。

「宮田ってさ、前はもっと、チャラいと思ったんだけど。雰囲気変わったよな」
「うん、まあ、我ながら?」

英二は笑った。いい加減な奴だったと自分でも思う。
もし湯原が隣の部屋じゃなくて、湯原の部屋で泣くことが無かったら。あのまま、要領だけ良くても何も無いままだった。
今日は何時に電話できるだろう、水の入ったコップをとりながら考えてしまう。
少し考えるような顔をして、藤岡が続けた。

「ちょっと宮田、なんか湯原と雰囲気が似てきた?」

水を吹きそうになった。
咽かえって、顔が赤くなる。何でまた藤岡に言われるのだろう。
藤岡とは同じ教場だから話す事はあったけれど、こんな風にゆっくり話すのは初めてだ。
特別に親しかった訳でもなく、班も別だった。

大丈夫かよと、藤岡が水を汲んできてくれた。
受取って飲み干すと、すこし落ち着いた。けれど疑問は落着かない。なぜ藤岡はあんなことを言うのだろう。
小さくため息を吐いて、英二は訊いた。

「どうして、湯原が出てくるんだ?」

逆に藤岡が不思議そうに、英二を見た。

「だってお前ら、仲良いだろ。いつも一緒に居たし」

当然のように藤岡は言った。
そう見えていたのかと思い、まあその通りだなと英二は納得した。
いつもの体育会系な笑顔で、藤岡が言った。

「最初はさ、遠野教官に言われて、仕方なくコンビ組んでたろ」

ああそうだったなと英二は思った。職務質問の実習で組まされた。
けれどあれが無かったら、脱走した夜に湯原の部屋を訪れる事も無かった。
そう思うと遠野が仲人みたいで、英二は可笑しかった。
藤岡が、でもお前ら結局は仲良くなったよなと、笑って続けた。

「なんかさ、湯原は明るくなったよ。宮田は落着いて、頼もしい男になった?」
「そうかな」

そんなふうに見えるんだなと、英二は妙に感心した。そして他人の口から「湯原」と聴く事が、なんとなく面映ゆい。
けれど藤岡は全く気付かないで、生姜焼きを丼飯に乗せながら言った。

「一緒にいてさ、お互い影響しあって成長できるって、良いよな」 

お前ら良いコンビだよな。笑って藤岡は飯を掻きこんだ。
そうかなと返事しながら、英二は笑った。


風呂を済ませて自室に戻ると、21時過ぎだった。部屋のライトを消し、カーテンを開ける。
夜空が星をあざやかに見せて、窓いっぱい広がっていた。ああやっぱり星がきれいだと英二は微笑んだ。
デスクライトだけを点け、手帳を取り出しペンを用意する。それから携帯の着信履歴を呼び出した。
液晶の画面に映る名前に、ふっと微笑んで発信ボタンを押した。

「はい、」

懐かしい声が嬉しかった。
昨日は一緒に午前中を過ごして、夜は電話もした。それなのにもう、こんなに懐かしい。
俺だけど、と言ってから英二は続けた。

「勤務のシフト分ったから。メモしてくれる?」
「こっちもシフト分かる」

あ、たぶん手帳を用意して待っていたんだ。英二はなんとなく解る。
もう声だけでも、考えている事が解るようになっている。

― いつも一緒に居たし

さっき藤岡に言われた通りだな、と改めて思う。
本当に、湯原ばかり自分は見ていたと、我ながら可笑しかった。

「…なんか宮田、笑ってる?」
「うん。ちょっとさっき、藤岡がさ」

手帳に書かれたシフトを眺めながら、英二は話し始めた。
たぶんきっと、今頃は首筋が赤くなっている。





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