萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第9話 朝靄act.1名残 ― side story「陽はまた昇る」

2011-09-23 21:59:48 | 陽はまた昇るside story

なごりの時




第9話 朝靄act.1名残 ― side story「陽はまた昇る」

車窓を街並みが流れていく。ぼんやりと英二は扉の窓に凭れて、外へ視線を向けていた。
公園に向かう湯原とは、駅でわかれた。

「じゃあ」

短く、それだけを湯原は言った。再会の言葉も、別れの言葉も無かった。
微笑みがただ、透ける様にきれいだった。

どんな結論が出るのかは、まだ解らない。
あまり考えたくも無かった。

窓に頭を、ごつっとぶつけた。ふっと穏やかで潔い香りが、頬を撫でる。
残り香が、英二の髪から肌から、かすかに滲んでのぼっていた。
朝は腕の中にあった、穏やかな温もり。今は切ない痛みになって、胸裡で未練と一緒に蹲っている。

人の記憶は、どのくらい保存が効くのだろう。
けれど拳銃を見る度、制服に袖を通す度、湯原の記憶は何度も再生されるだろう。
毎日再生されていたら、記憶はきっと消えてはくれない。

ときおり、横顔に視線が掠めていく。
女の子たちの視線を浴びる事に、英二は慣れている。
普段なら微笑み返す位はするけれど、今はとてもそんな気分になれない。

想いが通じても、一緒に居れない事もある。そんな事は、昔は知らなかった。
かわいいなと思って微笑めば、大概の女の子と恋愛が出来た。
こんな容貌だから、老若男女から視線を受けるけれど、本当に受け止めたい視線には、出会えなかった。

無言でも居心地の良い隣。それがどんなに得難いものか、英二はよく知っていた。
けれど、想いが通じたのに、その隣とは一緒に居られない。
6ヶ月間ずっと考えて、納得して、覚悟してきた。それでも、なせ、どうしてと思ってしまう。

車窓に、なつかしい駅舎が見えてきた。降りて、改札を抜けると、見慣れた景色が待っている。
けれど今までとは、なんだか違う景色に見えた。
昨夜はほとんど眠っていない。けれど、その所為じゃない事は、英二には解っている。
満たされたものと、それと同じ位の喪失感が、心も感覚も、変えてしまった。

瀟洒な住宅街を、ぼんやり歩く。木洩日さす街路樹の、葉が淡く黄色い。
昨日、あの公園で見上げた梢も、こんな色になっていた。
その下で座っていた、湯原の横顔が、きれいだった。

英二はため息をついた。こんなところにも、あの隣が佇んでしまう。
もう何を見ても、自分の想いから逃げられないと、思い知らされる。


「ただいま」

一声かけて、玄関で靴を脱ぐ。見馴れた色の煉瓦敷きに、見慣れた家族の靴が並んでいる。
日常の風景だけれど、今は何を見ても非現実に感じる。
昨夜の事が、腕に髪に残っている。その記憶を手放したくなくて、目に映る現実を、心が拒絶してしまう。

こんなことでは駄目だと、解っているのに。胸の底から、ため息が吐かれた。
玄関先に座り込んだまま、今、閉めたばかりの扉を眺める。
ここを開いて、あの隣へと戻りたい。ぼんやりと思いながら、身動きが出来ない。

「おかえり、英二」

明るい声が頭から降って、英二は見上げた。快活な姉の笑顔が、隣に立って見下ろしている。
見馴れた姉の笑顔は、ほっとする。英二はすこし笑った。

「ただいま、姉ちゃん」

自分とよく似た笑顔で、姉が微笑んでいる。その瞳がすこし考え、また笑った。
姉は、何かを気付いたのかもしれない。それも今は、どうでも良かった。
今の自分はどんな顔をしているのだろう。

「お茶の支度して、父さんも母さんも待ってるよ」
「おう、ありがと」

微笑んで、英二は立ち上った。
湯原は今頃、母親に真実を告げているだろう。自分も、家族に向き合わなくてはならない。
拒絶され泣かれても、考えを変えられない自分を、よく知っている。だからこそ、家族に拒絶される事が怖い。
拒絶されたら、考えを変えなければ、家族には受け入れてもらえない。
けれど自分に嘘をつく事は、英二には出来ない。家族の許へ二度と、帰れなくなるかもしれない。

 独りになるかな、俺は

湯原の母にも拒絶され、家族にも拒絶されたら。英二の隣には誰もいなくなるだろう。
それでも、家族に真実を告げたい。
黙っていれば済む事かもしれない、けれど、湯原は母親と向き合っている。
湯原と同じように、英二も向き合いたかった。

6ヶ月間、躊躇い続けたリスク。
そのリスクを湯原は、昨夜共に背負おってくれた。
今、家族に真実を告げる痛みと、湯原は向き合っている。だから英二も向き合いたい。
もう二度と湯原に逢えないかもしれない。ならばせめて、リスクも痛みも、共に背負いたかった。

リスクと痛みだけの繋がりなんて、不幸だと嗤われるかもしれない。
独りになるかもしれない。
それでも英二は、湯原と繋がっていたかった。

荷物を自室に置いて、スーツのままで英二はリビングに降りた。
扉を開けると、淹れたてのコーヒーの香が頬を撫でた。

「おかえりなさい、英二」

卒業おめでとうと母が微笑んだ。自分と似た、きれいな母の笑顔に、英二は胸が痛んだ。
この笑顔を、きっと自分は壊すだろう。まだ何も知らない母の笑顔が、眩しかった。
ありがとうと微笑み返して、いつもの席に座る。父は先に座って待っていた。
実直な笑顔を向けて、おめでとうと言いながら、英二を見た。そして少し怪訝な顔で、また笑った。

「スーツのジャケットくらい、脱いで来ればいいだろうに」

英二は黙って笑った。
これから真実を話さなくてはならない。そうしたらもう、この家に二度と帰れないかもしれない。
今が家族と、最後に会う時になるかもしれない。自分のきちんとした姿を今、見ておいて欲しかった。

母がコーヒーを運んでくる。勧められて口元へ運ぶと、芳香が漂う。
今朝のインスタントのドリップコーヒーとは、比べ物にならない良い品だろう。
けれど、湯原が淹れてくれた今朝のコーヒーが、英二には懐かしかった。
コーヒーの一杯にも、あの隣が佇んでしまう。朝には抱きしめていた、穏やかな空気の記憶が、今、胸を裂いていく。

 あいたい 会いたい 今、逢いたい

きれいな切長い眦に熱がうかぶ。零れて一滴、頬を伝っていく。
涙が、軌跡を一筋、描いて顎へ伝い、落ちて砕けた。
自分がこんな風に泣くなんて、英二は思っていなかった。こんな事は、初めてだった。

目を上げると、父も母も、隣に座る姉も、驚いて自分の顔を見つめている。
今、自分はどんな顔をして、家族の前で座っているのだろう。
当たり前のように居ると思っていた、家族だった。でも今はもう「当たり前」だと思えない。
本当はずっと、この家族の許を、帰る場所にしておきたい。
それでも自分の心には、嘘は吐けない。英二は、口を開いた。

「俺、大切な人が出来た」

父も母も、驚いた顔になった。そしてすぐに笑った。
でもまだ、半分しか英二は話していない。ひとつ息を吸って口を開こうとした時、母が微笑んだ。

「どんなお嬢さんかしら。英二がこんなに真剣に話すなんて、本当に素敵な方なのでしょう?」

どんなお嬢さん―
そう思うのが普通だろう。母の嬉しそうな顔が、胸に、突き刺すように痛い。
それでも、真実を告げたい。
あの公園で今、たった一人の家族と向き合う湯原の痛みを、自分も分かち合って、繋がっていたい。

ゆっくり瞑目して、英二は目を上げた。
目の前で、両親が楽しそうに笑っている。隣の姉の顔は見えないけれど、笑顔だろうか。
すこし唇引き結んでから、英二は静かに口を開いた。

「警察学校の同期で、首席卒業した男なんだ」

空気が止まった、と思った。
きれいな母の笑顔が、強張って消えていく。実直な父の笑顔が少し険しくなった。
目の前で、端正な母の唇が震えるように開いた。

「冗談、でしょう?英二」

怯えるような、救いを求めるような、母の目。こんな母の表情を、英二は初めて見た。
沢山の彼女を次々と連れてきても、いつも笑顔で迎えてくれていた。
母の目が、痛い。これからきっと泣かせてしまう。

冗談だよと言えば、全て上手くいくのかもしれない。
けれど家族を「当たり前」では無いと気付いた今は、真っ直ぐに家族と向き合っていたい。
何よりも、自分の気持ちを偽る事など、出来ない。
真直ぐ母の目を見て英二は、静かに言った。

「本気だよ」

強く鈍い音がして、英二の頬が叩かれた。

初めて、母に手を上げられた。
叩いた手を上げたまま、母が泣いている。
頬に鈍い痛みが広がっていく。その衝撃以上に、叩かれた現実が痛い。

「不潔よ…っ」

初めて聞く母の叫び声が、痛い。
いつも美しい母の顔が冷たく強張っている、こんな貌は初めて見た。
ただ「人に迷惑さえ掛けなければ良い」と「手元にいれば良い」、この2つを守って母の理想に逸れないこと。
それが母を喜ばすと知っているから、刃向わないで生きてきた。
母に嫌われることが怖かったから。

美しい賢い息子、自慢の息子。

そう言って母は英二を愛してくれる。
けれどそれは「理想通り」を英二が演じてきたからだと、自分が一番知っている。
ただ母が喜ぶように、要領良いフリしてただ笑って生きていた。だから拒絶されなかったことは当然だ。
その母が今、全身で英二を拒絶している。

―責められて当然だ、

英二は唇をかみしめた。
ずっと嘘を吐いていた、この母に本音を言ったこともなかった。
それが今、突然に本音を告げた。それだけでも母に拒絶され責められても仕方ない。
しかもこの本音は「母の理想」と真逆のこと、それどころか世間的にも受容れられ難いこと。
この母が受容れてくれる訳が無い、そんなこと解っていた。

このことはずっと考えていた、湯原への想いを自覚した時から。
そして昨夜、選択をした瞬間に覚悟は肚に落とされた。そのまま今も帰省の道で考えてきた。
6ヶ月考え続けたリスクは、現実に今、この目の前で、哀しんでいる。

解ってはいたこと、けれど痛い。
覚悟は出来ている、それでも今、現実になれば哀しい。
とっくに諦めていた「受容」けれど本当は微かな望みを持っていたから、今、母の声が痛い。

「どうして、なぜ、そんな事を言うの?英二あなた、いつも女の子を沢山連れてきていたじゃない?」
  
震える母の声が、沈黙の上に圧し掛かる。
父はただ黙って座っていた。隣の姉は、どんな顔を今しているのだろう?
震える声は次々と、母の唇から溢れだしていく。

「あなたちょっと疲れているのよ、英二。
 きっと警察学校で男だけの生活だったから、自分で勘違いしているだけよ。
 ねえ、きっとそうに決まっているわ。だからもう、忘れましょうよ、英二」

独り決めした母の顔が、悲しい自己満足の笑顔を浮かべている。
こんな母の顔は見たくなかった、けれどこれは、自分が追い込んだ顔だった。
どんなふうに自分が愛されてきたのか?それが今もう逃げられない現実に思い知らされる。

「英二?私の言うことを聴いて頂戴、今までずっと、言うこと聴いてくれたじゃないの?それで笑顔を見せて?」

言うこと聴いてきた、今までは。
でも納得して聴いていたわけじゃない、本当は言いたいことが一杯あり過ぎた。
それなのに、こんな時にまで、こんなふうに言われたらもう、諦めるかしかない。

どうして、俺の言葉を聴かないで、母の言うことだけを聴いてと言うの?

こんなところから解ってしまう、母の愛は独善的でしかない。
この独善に嫌われたくなくて、要領良いフリして自分は生きることを選んでいた。
けれど、もう戻れない。もう今の自分は素顔で生きることを選んだから。
叩かれた頬のままで、英二は母の瞳を静かに見つめ、言った。

「6ヶ月間考えた。自分には、嘘は吐けない」

息子の真っ直ぐな目に、母の瞳が引き攣ったように怯えた。
ああこの母を苦しめている。罪悪感が、重たく英二の胸裡に座り込んでいく。それでも自分は、偽れない。

「親戚にご近所に、なんて言い訳すればいいの?
 お願いよ英二、今ならまだ間に合うわ。そんなおかしな事、気持ち悪い事、もう止めて」

不潔、気持悪い―母の言葉が、心を刺していく。
何度も自分で考えた事だった。普通じゃない、おかしいと思おうとした。
けれど、日を重ねるごとに、あの隣の居心地は穏やかで、安らいでいった。
自分の感覚を、安らいでいく心を、誤魔化す事なんて出来なかった。
一体、どんな言い訳と言葉が、諦めさせてくれるのだろう。

「気持ち悪いとは、思えないよ、私」

静かに隣から声が響いた。振向くと、姉が微笑んでいた。
自分とよく似た姉の、微笑みが温かい。姉は言葉を続けた。

「私、英二の気持ち、わかるから。私のいま好きな人、妻子持ち。好きって言っても、憧れみたいなものだけど」
 
父と母が呆気にとられている。
予想外な援護射撃だと、英二も姉の横顔を見つめた。

「好きになろうなんて、思わなくても、好きになってしまうでしょう?
 恋に堕ちるなんて、相手を選んで出来るものじゃないわ。
 どんなに気持を誤魔化したって、自分に嘘なんてつけない。惹かれてしまったら、もう、不可抗力だわ」
 
自分とそっくりな、切長い目が真直ぐに両親を見つめている。
明朗で快活な姉の、知らない一面。不思議な、けれど納得出来る、姉の一面だった。
力無い目で、母が顔を上げた。

「どうして、ふたりともそんな事を言うの?
 どうして普通に、相手を選んでくれないの?
 子供が家庭を持って、普通に幸せになることを願って、何が悪いの?私は間違っているかしら」

姉の目がすうっと細くなった。穏やかで優しい、けれど強い眼差しは、英二も初めて見る姉の表情だった。
静かだけれど強い声で、姉は言った。

「お母さん、私は普通に結婚したいわ。
 今の相手はそんな事、出来はしない。彼は何も知らないし、知らせるつもりもないの。
 でも、もし彼が独身だったら、ちょっと頑張りたかったけどね。英二の様に」

落ち着いた姉の声が、静かにリビングに響く。
父は黙って座っている。その隣で母の目がすこし、落ち着きを取り戻し始めた。
正直に言うとね、と姉は言葉を続けた。

「英二が、誰かをそこまで大切に想うなんて、意外だった。
 ちょっと手を伸ばせば、簡単に恋愛も出来る。英二は要領が良いから、そんな冷たさもあったでしょう?
 けれど、それでは相手だって、本気で英二を大切にしないわ。あのままだったら、女遊びが好きな独身男で一生終わったと思う」

母の目が途惑ったように、隣の父の顔を見上げた。父は黙って、姉の顔を見つめ聴いている。
二人を見つめ返しながら、姉は笑った。

「英二が、本気で誰かを想える方が奇跡。幸運だわ。
 このまま女遊び好きな独り者になるより、身持ちが固くなる分、ずっとマシね」

姉の言うとおりだと、我ながら英二は思う。あのままだったら、きっといい加減な人生だった。
この姉は自分とそっくりの顔だけど、よく見てくれている。姉の気持ちが、ありがたかった。
姉は、やわらかく微笑んだ。

「警察学校に行ってから英二、ずっと良い男になった。
 英二を変えてくれたのは、その彼なのでしょう?だからきっと、彼は英二には必要なパートナーだと、私は思うわ」

父がため息を吐いた。実直なその顔は、すこし疲れて見えた。
外資系の自動車会社に法務のエリートとして、真面目に勤め続けている父。普通の常識に生きる父には自分はどう映るのだろう。
すこし寡黙だけれど、温かい懐を持つ父が、英二は好きだった。けれどもう、呆れられたかもしれない。
母は真っ赤な目をして、姉と英二を見つめて、言った。

「私には今は、わからない」

母のこんな姿は、本当は見たくなかった。それでも自分は選んで、家族と向き合った。
やさしい嘘を吐いて、家族を欺き続けるよりも、真実で向き合う方が、ずっといい。
大切な家族だからこそ、英二は嘘を吐きたくなかった。もう仮面の自分で接することは止めたい。
目の前の両親を、英二は見つめた。もう二度と会えないかもしれない。きちんと顔を記憶して、言った。

「ごめん、父さん、母さん」

二人とも黙っている。
寡黙なままの父の目と、泣き腫らした母の目。自分はこれから、この目と向き合っていく。
辛い、と思う。それでも、あの隣でみつけた想いを、裏切る事は出来ない自分を知っている。
もう選んでしまった。けれど両親に伝えたい事がある、英二は口を開いた。

「警察官の俺には、明日があるのか分らない。危険に身を晒していく仕事だから」

母の目が瞠かれて、漲り、涙があふれる。父の眉間が顰められ、真剣な視線が英二を見つめ返した。
ふたりだけの親の目を真直ぐ受け留めて、英二は言葉を続けた。

「明日があるか分らないなら、今この時を大切に重ねて、俺は生きたい。
 いつかなんて約束は、俺には出来ない。
 だから、大切な人に出会えたなら、俺は今、その人を見つめていたい」

リビングの窓から風が吹き込んだ。風は英二の髪を撫で、かすかに、穏やかで潔い香がこぼれた。
静かで穏やかな空気が、ふっと英二の隣に寄り添った。今きっと、湯原も母と向き合っている。
離れていても、同じ時を共有できる事が嬉しいと思った。

「警察官として、男として。生きる事に、誇りと意味を教えてくれた人だよ」

落ち着いた声が、ゆっくりと話す。
叩かれた頬のままで、英二は微笑んだ。

「無言でいても居心地の良い、そういう相手なんだ。
 あいつの笑顔の為に何かしたい、生きていてよかったと思えた。
 初めて、誰かの為に、何かしたいと、出来るかもしれないと、そう思えた」

静かな午後の太陽が、リビングを暖かく照らしだした。いつの間にか昼時も過ぎている。
黙ったままの両親へ、英二は微笑んだ。
 
「俺を生んでくれて、育ててくれて。ありがとう」

母は両手で顔を覆って、肩を震わせた。
その白い掌から、とめどなく涙が零れていく。

―やっぱり泣かせてしまった、

自分の為に母が泣いたのを見たのは、英二は初めてだった。
今までは母の機嫌を壊さないことが、母を大切にすることだと想っていた。
だから当然、母が英二の為に泣くことなどある訳が無い。

この涙の意味は多分、普通の母親の愛情ではないと知っている。
この母が自分をどう想って接してきたのか、自分が一番知っているから。
だから解かっている、もう母は英二を赦すことは無い。

この母は理想の息子という「美しい人形」を愛している。
だから今日も、受け容れては貰えないと最初から解っていた。

それでも本当は、すこしだけ期待していた。
それでもやっぱり与えられたのは「拒絶」だけだった。
最後に母を抱きしめたい。けれど今はもう、触れる事も許してくれないだろう。

きっと母は、息子を赦さない。
もうこれで、この家には帰れない。ここは自分の帰るべき場所では無くなった。

この確信は苦い、孤独の寂寥感が痛い。
それでも嘘を吐いて、都合よく騙し続けるよりもずっと良い。
本当の自分を少しでも両親に示せた、その正直な喜びと伝えられた勇気が温かい。
大切な存在だからこそ、偽りのまま終わりたくないから。




(to be continued)



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コメント (2)
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黎明の懐、嵐痕 ― another,side story「陽はまた昇る」

2011-09-23 17:40:38 | 陽はまた昇るanother,side story
一夜の境界
※後半R18(露骨な表現は有りませんが念の為)



黎明の懐、嵐痕 ― another,side story「陽はまた昇る」

今、なんて、宮田は言ったのだろう?

聴いてはいけない事を、非現実的な事を、言われたような気がする。
それなのに、さっきまで泣いていた宮田は、もう、いつものように、周太に笑いかけた。

「お前の隣が好きだ。一緒に居る、穏やかな空気が大好きなんだ」

一体、何を、言っているのだろう。
何を言われているのか、よく分らない。
こんなきれいな笑顔で、宮田は、何を言っているのだろう?

いったい何が起きているのか、解らない。それでも、宮田が話してくれる事は、きちんと受け止めたい。
周太はゆっくり瞬いて、すこし息を呑んだ。右手で左手首を触って、時計は外してあったと思いだした。
頼らずに、自分で受け留め考えなさいと言う事かな。そう思った時、覚悟がすとんと落ちて、心が落ち着いた。
穏やかな空気が、普段通りに流れ始めた。

「警察学校で男同士で。普通じゃない、そんな事は最初に気付いた。
 こういう想いが、生き難いことだとも知っている。
 けれど、諦める事も出来ない。気持を手放そうとしても、出来なかった。
 ただ隣で、湯原の穏やかな空気に触れている。それだけの事かもしれないけれど、俺には得難い居場所なんだ」

周太は静かに聴いている。かすかな月明りが、正面の顔を横から翳す。
正面から見つめる宮田の顔は、いつもよりも大人の男の顔になっていた。

「ご両親を大切にする、湯原が好きだ。
 辛い事にも目を背けない、戦う強い湯原が好きだ。
 繊細で、不器用なほど優しい湯原が好きだ。
 頑固だけれど端正な、真っ直ぐな湯原が、俺は好きだ」

どうしよう、と周太は思った。
どうしてこんなに、きれいな笑顔で宮田は、こんな事を言うのだろう。

「俺はずっと、適当に生きていた。要領良く楽していた。
 けれど本当は、誰かの役に立ちたかった。
 誰かの為に何かできたら、どうして生きているのかも、分るかもしれない。
 けれど、自分だけでは何もできなくて、警察学校に入って自分を追い込んだ」

そんなふうに甘い考えだから最初は脱走したし。宮田が笑うと、かすかに周太も微笑んだ。
こんな時でも、穏やかさが居心地良い。
ダウンライトと月の、やわらかい光の空間で、宮田の想いが言葉にされていく。
 
「警察学校で、どんなに辛い訓練や現実があっても、湯原が隣で受留めてくれた。
 湯原の隣が、俺の居場所だと思った。
 けれど、真っ直ぐに生きている湯原を、引き擦り込みたくないと思った。だから伝えないつもりだった。
 けれど、安西に拘束された湯原を見て、明日は無いと思い知らされた。
 警察官の俺には、明日があるのか分らない。だから、今この時を大切に重ねて、俺は生きたい」

― 明日があるのか分らない。だから、今この時を大切に重ねて、俺は生きたい

本当にそうだと思う。
警察官として生きることを選んでしまったら、明日を見つめる事も出来ない。
「今」この時を見つめて、重ねていくことしかできない。

「湯原の隣で、俺は今を大切にしたい。
 湯原の為に何が出来るかを見つけたい。そして少しでも多く、湯原の笑顔を隣で見ていたい」

こんなにきれいな笑顔で、こんなふうに言われたら、身動きなんか、出来ない。
周太の黒目がちの瞳から一滴、涙がこぼれた。

「宮田、」

ぼそりと周太は呟いた。
うん、と小さく返事して、長い指が眦に触れる。涙を拭ってくれる指が、心地良い。
ずっとこのまま触れていて欲しいと、自然に思っている自分がいる。
それでも周太は、言わなくてはならない。声を喉から押し出し、周太は言った。

「俺は、母を、置き去りに出来ない」

悲しそうな声がこぼれ出した。普段の自分の声と全く違う、感情に揺れる声。
自分で自分の声に驚いているのに、宮田は静かに聴いてくれている。
この静かな優しさが好きだと、こんな時なのに思ってしまう。

「父が殉職した時、母とふたりで約束をしたんだ。
 これからは2人、助けあって生きよう。
 お互い、隠し事をしないと約束しよう。隠し事は、人の間に溝と壁を作ってしまうから。
 この約束のお蔭で、俺は母と向き合って、ここまで生きてこられた」

微笑んで、宮田が言った。

「湯原の母さんらしい、良い約束だな」
「…ん、」

頷いて周太は、すこし安心して宮田を見つめた。
かすかな微笑みが、周太の口元に浮かんだ。

「だから、母には宮田との事、隠せない。
 警察官の道を選ぶ時、俺は母を泣かせてしまった。もう、泣かせられない。
 だから、もし、宮田との事を母が拒絶したら、俺は母を選んでしまう」

周太の、瞳の底が熱くなり、瞳の表に水の膜がうすく張っていく。
それでも宮田の顔を、周太は見つめた。

「だから今、そうなったら、俺は明日すぐに母に話すだろう。
 それで拒絶されたら、もう二度と宮田に、逢えなくなる。そうしたら、もう、隣に居られない」
  
頬伝って一滴、零れて砕けた。

「俺だって、宮田の隣で変われた。笑うことを、少しずつ取り戻せた。
 誰かに、理解してもらえる事は嬉しいと、宮田が俺に教えてくれた。
 誰かの隣が、居心地良いんだと、俺はお前の隣で、知ったんだ」

涙と一緒に、想いが言葉になって零れてしまう。
涙のなかで、真直ぐ宮田を見つめ、周太は言ってしまった。

「お前の隣が、好きだ。
 明日があるか解らないなら、今、俺は、宮田の隣に居たい」

カーテンの隙間から、淡い月の光が射しこんだ。
自分の頬に当たる光が、すこし眩しくて温かかった。

― 俺、湯原の親父さんみたいな警官、目指したい
  警官は精神的に削られるだろ。それでも周りの人を忘れない男に、俺もなりたい
  お前の親父さん、俺は尊敬する

宮田だけが、父を警察官として男として、素直に見つめて尊敬してくれた。
父に貼られた「殉職」のレッテルを壊してくれた。
そして「殉職者遺族」に苦しんだ、自分と母をも救ってくれた。

気づくといつも、隣で笑ってくれていた。
他人といる事が重荷だった自分に、誰かといる温かさを教えてくれた。
気づくと自分の顔が、微笑んで笑えるようになっていた。
きれいな笑顔が隣に佇んで、人と話す喜びを思い出させてくれた。

宮田が隣に来てくれなかったら、自分は孤独の冷たさに苦しんだだろうと今は解る。
それは父の望む生き方では無いと、今なら解る。

宮田の笑顔にどれだけ、救われてきたのだろう。

6ヶ月間、宮田が逡巡していたリスクを、自分も共に背負いたい。
笑顔と、隣に誰かが居る温かさをくれた、宮田に何かしてやりたかった。

母をまた、泣かせるかもしれない。
それでも、明日があるか分らないなら尚更、今この隣を突放す事なんて、出来ない。

「俺も明日家族に話すよ。俺の場合は、報告であって許可じゃないけれど」

宮田は微笑んで言った。

「明日、湯原の母さんが、どんな結論を出しても、俺は全部受け留める。
 湯原の全部を大切に想う、湯原の隣が居心地良くて好きだ。
 そういう湯原を育ててくれた人を、悲しませる事は俺には出来ない。俺は湯原の母さん、好きなんだ」

周太は笑った。少し悲しいけれど、心は明るく澄んでいた。
母までも受け留めてくれる、宮田をやっぱり好きだと思った。
切長い目を少し細めて、英二は微笑んだ。

「どんな結論でも、俺はきっと、湯原を大切に想う事は止められない。
 隣に居られなくても、何があっても。きっと、もう変えられない。
 ただ、湯原には笑っていて欲しい。どんなに遠くに居ても、生きて、幸せでいてくれたら、それでいい」

男女なら子供が生まれ家庭が築ける。けれど男同士では、何を生めると言うのだろう。
まだ何も、解らない。リスクばかりを背負うのかもしれない。
それでも、この隣に居る「今」を、周太は突放す事も、聴かなかった事にも、出来ない。
もう二度と、逢えないかもしれない。だからこそ尚更「今」を諦める事なんて出来ない。

宮田は掌で、周太の頬をつつんだ。長い指でそっと涙を拭いていく。
掌の温もりが、涙ですこし冷えた頬を暖めていく。長めの前髪の下で、周太は、真直ぐ宮田を見つめた。
静かに毀さないように、宮田は呟いた。

「周太、」

初めて呼ばれた名前が、かすかに震える。
名前を呼ばれる事が、気恥ずかしくて、嬉しい。こんな想いは、知らなかった。
額に宮田の掌が当てられ、そっと前髪を掻きあげる。生際の小さな傷を、長い指がかすかに触れた。

「俺が、つけた傷だ」

そっと宮田の唇が、傷痕に触れる。かすかな震えが周太の体を覆い始めた。
扉の角でぶつけた小さな傷。初めてあの公園に行った日の、朝に出来た傷だった。
あの日がなかったら、今、どうなっていたのだろう。

周太の瞳を、宮田が覗き込んでくる。その視線が、胸を射すように熱い。
いまから何が起きるのだろう。
こんな事は慣れていない、初めての事。不安にすこし震える、けれど、決意と温かな想いが指先まで満ちている。

唇を、長いきれいな指がなぞる。震えを打ち消したくて、周太はかすかに唇を結んだ。
軽く目を瞑ると宮田は、唇を重ねた。

重ねられた唇が熱い。
かすかに喘ぐように、周太の唇に震えが生れた。こういうの慣れてない。どうしていいか解らない。
静かに唇が離れていく。周太は、ゆっくり瞳を見開いた。

「…こういうの、俺、慣れて、いないから」

らしくない、たどたどしい物言いが震える。自分の声が、違っている。
何もかもが途惑う、どうしたらいいのだろう。
微笑んで宮田は、また周太の唇を指でなぞる。

「慣れていなくて、良かった。俺が初めてで、良かった」

宮田が初めて。本当にそうだと思う。
こんなに近く隣にいる事も、触れられる事も、全てが周太には「初めて」。
誰かが自分だけを見つめている事が、こんなに嬉しくて、そして怖い。

「他人事だと、思っ、て」

かすかな震えに乱れた言葉が、唇から零れる。
いつものように宮田は笑って、唇を重ねた。やわらかな震えが、宮田の唇に受けとめられる。
ふれる唇のかすかな間で、胸刺すような熱と穏やかな安らぎが、周太にしのびこむ。

明日なんて、解らない。今はただ、居心地の良い隣と、ひとつの時間と感覚を共にしたい。
なにも解らないけれど、与えられた、穏やかな安らぎと切なさを、記憶したい。
もし明日から、二度とこの時間が与えられなくても、記憶だけは刻みつけてしまいたい。
離れなくてはいけないと、解っているから、尚更に「今」が欲しい。

白いシャツの肩を、長い指の掌で包んで、抱き寄せられる。
震えは微かなままで、うまく出来ない呼吸に、周太は途惑う。
首筋が熱い、きっともう赤くなっている。その首筋に、頬寄せられる感触が、なめらかに触れた。
体が、ゆっくりと抱きしめられていく。

喧嘩も弱いくせに、一度も殴り返せなかったくせに。その宮田の腕が、ほどけない。
どうしてなのか解らない。こんなの、ずるい。途惑って混乱して、それでも、穏やかさに周太は抱きしめられていた。
宮田に抱きしめられたまま、静かにベッドへ周太は沈められた。

「きれいだ」

呟いた宮田の唇が、惹きつけれられるように静かに、周太の首筋にふれる。
思わず宮田の両肩を、掌で押し戻そうとするけれど、力が抜かれてしまっている。ただ掌に伝わる熱が、熱い。
ひとの体温がこんなに幸せだと、今までは知らなかった。

白いシャツの胸元に、長い指が掛けられた。鼓動が大きく弾んで、周太の息が一瞬つまった。
長い指は、ボタンをはずして降りて行く。肌に指先がかすかに触れて、周太は怯えた。

「…ぅっ、」

小さな声に、宮田はゆっくりと顔を上げ、周太の瞳を覗き込んだ。
きれいな切長い目が、少し不安そうに揺れた。

きれいな笑顔で笑って欲しい。そのために今、こうされる事を望んでいる。
覚悟が周太を、真直ぐに見つめ返させ、宮田に微笑んだ。穏やかな空気が、重ねた肌の間にやわらかく香った。
切長い目が微笑んだ。繊細で優しくて、静かな、きれいな笑顔だった。
こんな時でも、この隣は繊細で優しい。

この隣が、好きだ。本当に本当に、ずっと、隣に居られたらいい。

唇をふれるように重ねられる。震えが、周太の唇を躊躇わせている。
それでも震えを押して、宮田は深く重ねた。深く重ねた唇が、熱い。
長い指が、白いシャツを絡めとって、肌を淡い光にさらしていく。

逃げたいという想いと、このままずっと隣に居たい想いが、途惑い混乱させる。
穏やかな覚悟と、きれいな笑顔が、周太の身動きを封じこめていく。

肩に、唇をよせられて、長い指の掌で抱き寄せられる。
鍛えて隠した華奢な骨格の体も、孤独にもう戻れない心も、全てが曝け出されてしまう。
父が殉職してから独りで戦ってきた、盾も鎧も外されて、砕かれそうで、怖い。どうなってしまうのだろう。
逃げたい― 怯えが、全身に廻っていく。

「周太は、きれいだ」

頬寄せて、宮田が囁いた。
漲った瞳で見上げると、涙の膜の向こうで、きれいな笑顔が周太を抱きとめた。
ああ、この笑顔が好きだ。思った途端に、全身の強張りが解けた。
優しさに抱きとられていく体に、途惑ったままの瞳が瞬いて、眦から雫がこぼれた。

こんなに優しく抱きとめられたら、どうなるのだろう。
ひとりでも立っていられるのだろうか。

肩に背に腕に、熱い唇が触れていく。刻みつけられる熱さが、怖い。
けれどそれ以上に、求められる幸せが、周太の心を解いてしまう。
きれいな笑顔を大好きだと、素直に思ってしまう自分がいる。
ずっと隣に居たい。その為なら、体まで差し出している自分がいる。

父の無残な遺骸、誓った約束。
華奢な骨格は、射撃の衝撃に耐える事も厳しくて、それでも鍛えた、約束を果たす為の体。
それなのに、この笑顔の為に、迷わず差し出してしまった。

こんなに怖くて、怯えても、痛みがあったとしても。この笑顔の求めに、応えてしまう自分がいる。
沢山のものをくれた、いつも隣にいた優しい、きれいな笑顔。
その笑顔の為になら、今までの全てを壊しても、傷ついても、きっと後悔はしない。

触れられる髪、頬、唇、肌。
優しくて静かで、きれいな笑顔と気配が、熱になって感覚を刻む。
こんな事は慣れていない、途惑いと怯えが混乱させる。けれど周太には、全てがいとしかった。
初めての感覚と時間と感情が、周太を包んで、浚っていく。



シャワーの湯が、あたたかい。
頭からふり注ぐぬくもりに、すこし周太の心がほどけてくる。
目覚めた瞬間に、宮田と目が合った。心が張り詰めて、身動きできなくなりそうだった。
けれど、いつも通りの宮田の笑顔は、やさしかった。

昨夜の事が夢だったのか、現実だったのか。「いつも通り」で、心が揺れて解らなくなる。
節々が鈍く痛む体は、普段と違う違和感が、気怠い。
ふと見た胸元に、赤い痕が刻まれていた。
ああやっぱり現実だったんだ。思った途端に、胸の底が迫りあげた。

淡く赤い痣が、湯気を透かして体中に見える。
裂傷のような哀しみと、穏やかで面映ゆい歓びが、散らされた痣に疼いて、熱い。
いつのまに、こんなに刻まれたのだろう。知らず呟きがこぼれた。

「こんなに、なぜ」

呟いた声が、普段と違っている。自分の声なのになぜ、驚きが周太を打った。
たった一晩で、声も体も変えられてしまった。どうして、何が、自分の身に起きたのだろう。
途惑いが、涙に変わって、頬へ零れ落ちた。
シャワーの水量を強くする。ふりそそぐ温かさの中で、顔を覆って周太は泣いた。


ワイシャツとスラックスを身に着けると、すこし気持が落着いた。
前髪を揚げると、やわらかく濡れて、すぐに額を覆ってしまう。
鏡の中の自分が、昨日と別の表情でこちらを見ている。
前髪がおりた顔は、昔の自分の顔に、すこし似ていた。父が殉職する前の、自分の顔。
これで、いいのかもしれない。

浴室の扉を開くと、あたたかな香が漂った。
パン買ってきた、と宮田が笑いかけてくれる。屈託のない、きれいな笑顔。
ああやっぱり、この笑顔が好きだな。周太はぼんやりと微笑んだ。

宮田が浴室へ行くと、周太は携帯電話を取り出した。
発信履歴を久しぶりに開けて、家にコールする。しばらくして、母の穏やかな声が迎えてくれた。

「お母さん?俺。…うん。大丈夫だよ。
 今から、こっちに来られる?…うん。わかった。
 そう、あの公園に一緒に行こうよ。…じゃあ、門の前で」

短く済ませると、閉じて携帯をポケットに入れた。
今日この後、母に話さなくてはならない。

ふと見ると、冷蔵庫の上に、備付けのドリップ・コーヒーがあった。
一緒に置かれたマグカップに、袋を開けてセットする。
電気ポットの湯を、ゆっくり注いでいく。
湯が香ばしい薫りに変わって、カップの底へ落ちていく音が静かな部屋に響く。

ふいに目の底が熱くなった。
自分も宮田を通して、変わってしまった。コーヒーを見ただけで、そんな事を考える自分がいる。
変えられてしまうほど、自分は宮田の隣を求めてしまったのか。

―あと数時間後には離れてしまうのに、なぜ、

今更気づいても、どうしていいのか分らない。



コーヒーに、味がしない。
買ってきてくれたパンも、なんだかよく解らない。
本当に、どうしてしまったのだろう。

マグカップを抱えたまま、ぼんやりと隣を眺めてしまう。
気怠さが、体と心を捕まえて離さないままでいる。
こんな事には、慣れていない。

昨夜のような事は、周太には初めての事だった。
クラスメイトの会話など聞いて、おぼろげに知ってはいたけれど、興味も大して無かった。
そんな事よりも、頭を使う用事が他に沢山ありすぎた。
進路と勉強、射撃の訓練、家事の手伝い。どれも忙しくて、他人に構う余裕が無かった。

嫌だった訳では無い。この隣に座る、きれいな笑顔が喜ぶのなら、何でもしてやりたかった。
たくさんの物を周太にくれた、宮田の笑顔が好きだと、素直に認められる。
本当は、隣で見ていたいと、ずっと思っていた自分がいる。
昨夜は、それを思い知らされた。もうすぐに離れなくてはならない、今更になって。この現実に、心が軋みそうになる。

ぼんやり眺めている視線の先で、宮田のきれいな口元が微笑んだ。

「そんなに見つめる位、俺、かっこいいかな」
「…ん、」

生返事を返しかけて、周太は我に返った。
ふざけるな。と視線で答えて見返すと、宮田は首を傾げて、きれいに笑った。
その笑顔が、こころに沁みるように、好きだと思った。
切なくて、苦しい。それでも、周太は素っ気なく言った。

「宮田、ほんとに馬鹿なんだな」
「まあね、馬鹿ですけど」

笑って宮田はコーヒーを啜っている。
こんなに、きれいな笑顔をしているのに。なぜ、俺の隣なんか選んだのだろう。
もっともっと、普通に幸せになれるのに。もっと似合う相手がたくさん居るのだろうに。
選ばなくて良い選択肢を、選ばせてしまったと、きれいな笑顔に罪悪感を感じてしまう。
それでも本当は、この隣に、周太は居たかった。

「ほんと、ばかだ」

呟いて、涙がこぼれた。心と体が触れた数の分だけ、軋んで痛い。
もうすぐ、離れなくてはならない。
それなのに、声も体も変えられてしまった。
こんなふうに変えられたまま、独りにされたら、どうしていいのか解らない。

眦に雫が浮かび上がる。あふれあがる涙は、頬伝って顎で零れ、おちて砕ける。
こんなに泣いたら困らせると、思うほど止まらなくなる。
こんなふうに泣いたのは、父が殉職したあの夜が最後だった。

独りで居たのに、宮田の隣が居心地良い事を知ってしまった。
知ってしまったら、もう、今さら独りには、きっと戻れない。

それでも自分は、母の選択肢に従うだろう。
父を失った母を、ひとり置き去りになど出来る筈がない。
母を泣かせてまで選んだ、父の無残な遺骸に誓った生き方を、今更変える事は出来ない。

頬をあたたかさが包んだ。宮田が目の前で見つめていた。
驚いて、涙が一瞬止まった。ゆっくり瞬くと、あふれる熱さは治まっていく。
周太は微笑んで言えた。

「あの公園で、母と待ち合わせするから」

普段通りに、落着いて声が出せた。

外泊日の度に、いつも座っていた公園。
ただ座って、本を読んでいただけ。けれど隣でいつも、宮田が笑っていた。
それだけの場所だけれど、周太には大切な居場所だった。

母は何と言うのだろう。
哀しませたくはない、けれど偽る事はもっとできない。
穏やかで聡明な母の、心に任せるしかないと解っていても。
今この隣に佇む、きれいで優しい笑顔に、未練が残ってしまう。

もし隣に居られないなら、それで終わる。
痛みと記憶を抱いたまま、時折それを眺めても、普通に警察官として生きていく。
けれどもし、隣に居ることが許されるのなら。普通ではない生き方を、選ぶ事になる。それは容易い道ではないだろう。
それでも、選んでいいのなら、この隣を居場所にしたい。
愚かだと嗤う人も多いだろう。けれど、他人に心開く事が難しい自分には、この居場所は得難くて、手放せない。

不意に喉の渇きを感じた。口の中にコーヒーの香りが戻ってくる。
泣いて、すこし落着いたのかもしれない。

「コーヒー淹れてくる」

ぼそっと言いながら、少し笑って、周太は立ち上がった。
部屋に光が差し込んで、白い壁が淡くオレンジ色に彩られていく。
あたたかな湯気が、香ばしく立ち昇って、視界をすこし揺らして消えた。
無言でいても、ゆるやかな空気が寛いで、いつものように穏やかで温かい。

明日があるのか解らない。この一瞬後も解らない。
ならば今この時を、大切に過ごしていたい。
宮田の隣に居るのは、これで最後かもしれない。
だから尚更に、今この一時を見つめていたいと、周太は思った。

マグカップをとる手の、捲った袖の影に、赤い痕が腕にのぞいた。
いつか、この痕は消えてしまうのだろう。
けれど記憶までは、消してしまう事は、きっと出来ない。心なら、尚更に。

もうじきこの新宿での勤務が始まる。
今居るこの場所を、通る事もあるだろう。
あの公園、一緒に行ったラーメン屋、書店。どこも通るかもしれない。
そのたびに、切なさは蘇られさせて、辛いだろう。
それでも何も知らないでいるより、今の方がずっといい。





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黎明の懐、蒼嵐 ― another,side story「陽はまた昇る」

2011-09-23 02:08:17 | 陽はまた昇るanother,side story
いつもの終わりとはじまり



黎明の懐、蒼嵐 ― another,side story「陽はまた昇る」

卒業式は、青空の下だった。
携帯に、アドレスと電話番号が教場全員分、記憶された。こういうのは嬉しいと、素直に思えた。
頑なだった自分が、この6ヶ月間で変わった。父が殉職する前の、あたたかさが少し、今は思い出せる。
6ヶ月間、ずっと隣にいた笑顔は、今日も隣を歩いている。

「昼、何食いたい?」
「ん、ラーメン」

またかよと、宮田がいつものように笑う。
どの店に行こうかと、いつものように隣で、端正な顔が考えている。
いつもは宮田に任せているけれど、今日は周太は、自分で選びたかった。

「最初に行った店がいい」

ぼそりと周太は言った。
きれいな切長い目が、少し驚いたように瞠かれ、すぐに笑った。

久しぶりに入った店は、温かい湯気が迎えてくれる。
スーツ姿が多い店内は、前に来た時と同じ空気で、寛いでいた。

「卒業式、無事に終わって良かったな」
「ん、」

本当にそう思う。
教場の全員が、自分の誇りと警察官の誇りを掛けていた。校長や教官、学生達は受け留めてくれた。
警視総監は、まあ、あんなものかもしれない。
そういう警察内部での率直な感想は、こういう公共の場では話せない。
けれど宮田はたぶん、率直な感想も、言わなくても解っている。

「湯原さ、なんで新宿、選んだ?」
「家から近いし、馴れているだろ」

少しぼかしながら、話をする。他愛ない会話が楽しい。
宮田だと、なぜか自然と話す事が出来る。

父の殉職から、自分は人が変わってしまった事を、周太は自覚している。
周囲の好奇と憐憫が、大嫌いだった。父本人を見ようとしない「殉職」ばかりが一人歩きした。
父は「殉職」の為に生きたのではないと、怒鳴ってやりたかった。父の人生を、否定されたと思った。

― 俺、湯原の親父さんみたいな警官、目指したい
  警官は精神的に削られるだろ。それでも周りの人を忘れない男に、俺もなりたい
  お前の親父さん、俺は尊敬する

けれど宮田が、父を真直ぐ見てくれた。
普通の家庭で健やかに育った、宮田の素直な笑顔。人を真直ぐに見る、素直な心。
宮田の素直な笑顔が、父を、周太と母を、救ってくれた。

ラーメン啜る端正な口元を、なんとなく周太は眺めた。
この口が開いてくれた、たくさんの言葉。周太を何度、救ってくれただろう。
単純で子供っぽくて、訳わからない事も言うけれど。それでも宮田が隣に居る事が、好きだ。

けれどもうじき、この隣とも離れなくてはならない。
自分はこの新宿に着任する。けれど宮田は、山村の駐在所を希望した。

―俺は、さみしがりだから。新宿とか渋谷とか賑やかなところがいいって思っていたけど。
 実力からいうと、田舎の小さい交番で、一からやるのもいいかなって
 意外とまじめに考えているんだな
 ほめてくれんの?
 ん、まあ、感心したよ。実力がないのを自覚しているなんて

校内警邏の当直室で、話した通りに、宮田は田舎の小さな駐在所へ行く。
あの時もつい、混ぜっ返してしまったけれど。あんなふうに話してもらえて、本当は嬉しかった。
他人が傍に居ると寛げない周太が、なぜか宮田が隣に居ても、楽だ。
宮田が笑顔で隣に居ると、自然と笑っている自分が、不思議だった。
少しずつ笑顔が増える周太に、教場の皆が話しかけてくれるようになっていた。

もし宮田が隣に居なかったら、警察学校での6ヶ月間は、こんなに充実して楽しかったとは思えない。
大学までと同じように、能力を尊敬されても、友人にはなってくれなかっただろう。
それでも構わないと、前は思っていた。
けれど今は、宮田が隣に居る事を、居心地良く感じている。

「湯原さ、ここの味、気に入ってるんだ?自分から店を選ぶなんて、初めてだろ」

俺もここ好きなんだけど。
ラーメンを啜りながら、宮田が笑いかけた。
確かに気に入ってはいる。けれど、ここに来たかったのは、それだけの理由とは違う。
けれどそれを言うのは、気恥ずかしい。周太は短く「まあね」と答えた。



いつものように公園に来て、いつものベンチに座って本を読む。
木々の葉摺れが陽光を揺らしさしかかる。緑が囲むこの場所で、ゆっくりページを捲るのが周太は好きだった。
捲るページの白が、光の明滅でモノトーンに瞬いた。眩しさに瞳を細めて周太は顔を上げた。

「あらすじの続き、教えてよ」

振り返ると、宮田が笑いかけていた。木洩日がゆらめく緑の光の中で、きれいな笑顔が咲いている。
この笑顔が好きだなと思いながらも、周太の口調は素っ気なかった。

「自分で読めばいいだろ」

宮田はいつも、邪魔をしないタイミングで声を掛ける。今も、顔を上げた時、自然に声を掛けてくれた。
こういう気遣いが、宮田は優しい。少し微笑んで周太は、本を膝に置いた。

「いいじゃん。湯原が怪我した外泊日にさ、途中のままだろ」

重ねて宮田は、強請ってくる。きっと、今日訊かなかったら続きが聴けるか分らないと、解って言っている。
警察官は、危険に身を晒す仕事だから。明日なんて解らない。
これから現場に立つ自分達には、次の約束が果たされる補償は、どこにもない。それを痛いほど、周太は知っている。
隣の笑顔がいつも通りに明るい。この笑顔の為なら、出来る事なら何でもしてやりたいと思う。
でも周太は、仕方ないなという目をして、目次を眺めて口を開いた。

「オペラ座は巨大なカラクリ箱なんだ。怪人は、自分諸共そこへ彼女を閉じ込める」

淡々と、いつもの口調で語っていく。目次を眺める横顔に、宮田の視線を感じる。
随分熱心に聴いてくれるのは、よほど知りたかったのだろうか。
ほのかに湿った風に、穏やかな森の匂いがした。秋の気配が濃い。優しい静かな隣は、周太を寛がせてくれる。

「怪人は歌姫に跪いて愛を乞うんだ。
 恋人の命と引き換えに脅迫してでも、彼女を引きとめようとする。
 けれど、必死でかばい求めあう二人を、怪人は開放して、自分は姿を消した」

「湯原だったら、どうする?」

急に訊かれて、周太は宮田の顔を見た。

「もし自分の為に、巨大なカラクリ箱を作って閉じ込めて、跪いて愛してるっていわれたらさ。湯原だったら受け入れる?」

宮田の問いかけに、周太は一瞬詰まってしまった。
そんな事、考えた事が無かった。
そんなふうに、誰かに求められた事は、今までに一度も無い。
どうしてこんな事、訊くのだろう。少し途惑って、思わず素っ気ない口調になった。

「俺、解らない」

宮田は少し首傾げて、考え込むような顔になる。
緑と淡い黄色がふる木蔭で、淡く照らされた宮田の顔は、端正で、真剣な瞳が目を惹かれてしまう。
こんな時、美形は得だなと周太は思う。つい話して疑問を解いてやりたくなる。
周太は微笑んで、言った。

「そんなふうに、誰かに求められた事なんか、ないから。だから俺、解らないんだ」

自分で言って、すこし寂しくなった。
警察学校に来るまで、周太は特に親しい友達が出来なかった。
父の殉職以来、他人と距離を置くようになった事と、母を置いてまで一緒に居たいような友人とは、出会えなかった。

頬撫でて馳せていく、樹林の風がやさしい。周太は風に目を細めた。
穏やかで、静かで優しい空気が、隣に座っている。
明日からはもう、この空気が遠くなる。不意に周太は寂しい気持ちになった。
こんなにも、宮田の隣が好きになっている自分に、すこし途惑ってしまう。

梢の太陽が、ゆっくり斜めに傾いでいく。
透明だった光に、淡いオレンジ色が混じり始めた。いつもだったら「帰ろうか」と立つ時間がやってくる。
この隣から、立ってしまうのが、勿体無い。周太は、帰り難く思っている自分に、気がついた。

「オールで呑むか」

静かに宮田が言った。
それ何だろう。周太が宮田を見ながら考えていると、宮田は微笑んだ。

「大学の時にさ、サークルやコンパで終電逃すと、仲間と朝まで呑んだんだ」
「朝まで、て凄いな。部活でなら少し呑んだけど」

周太は答え、すこし考えた。
今日は卒業式だからと、母は待っているだろう。急に外泊したら、悪いと思う。
けれど、いつも隣で見てきた、このきれいな笑顔も、明日からは隣にいない。
昨日までは毎日、隣で眺めながら勉強できた。その当たり前が、明日から消えてなくなる。
ゆっくり話せるのは、今夜の後は、いつになるのか解らない。

「いいよ」

ぼそりと周太は言い、本を開いた。答えたのに、宮田が湯原の顔を覗き込んでくる。
どうしたのだろう、宮田を怪訝そうに見て、周太は言った。

「呑むんだろ、朝まで。ゆっくり話す時間、今夜の後はいつか解らないし。場所とか宮田に任せるから」

言いながらページにまた目を戻してしまった。なぜか俯けた首筋が、熱くなっている。
我ながら理由が解らなくて、途惑う。
宮田は笑って、携帯を胸ポケットから出した。



訪れたビジネスホテルは、瀟洒でシンプルな雰囲気だった。
ソファになるサイドベッド付きの部屋は、機能的で、居心地が良さそうに感じた。

「学生の時、ここに泊まって仲間と呑んだんだ。終電逃した時に、実家通学の仲間とだけど」

言いながら、宮田は荷物をおろした。卒業式の後だから、身の回りの物などで、いつもより荷物が多い。
そのおかげで、急に外泊を決めたが、着替えなどで困る事は無い。
周太は室内を見回した。実家から通学していた周太は、外泊の必要が無かったから、初めてで物珍しかった

「こういうところ、俺は初めて来たから」
「湯原、外泊って初なんだ?」
「ん、」

初めての事で、なんとなく周太は楽しかった。母ひとりにする事は申し訳ないけれど、こういう機会はそうある事ではない。
申し訳なさそうに、宮田が訊いてくれた。

「急に外泊決めたけど、湯原の母さん、大丈夫か」
「良かったわね楽しんで。て言われたけど」

何の事はないふうに、周太は笑った。
そうか、と宮田も笑い返してくれる。相変わらず端正で、すこし無邪気なきれいな笑顔だった。
良い笑顔だなと、いつもながら思う。いつも隣で笑っていた、きれいな宮田の笑顔。
けれど明日からは、遠くなる。寂しいと、周太は感じた。
誰かの隣から離れる事を、こんなふうに思った事は初めてだった。

「夕飯、なに食いに行きたい?ラーメンは、昼に食ったから無しな」

言いながら宮田が、いつも通りに笑った。
急に訊かれても、周太には何の案も浮かんでこない。こういうのは、慣れていなかった。



風呂を済ませて部屋着に着替え、ソファに落着くと、寮での時間と同じ、寛いだ空気になった。
コンビニで買ってきた缶ビールの、冷えた感触が掌に快い。
いつも隣で喋ってきたが、一緒に酒を呑む事は初めてだった。
何もかもが、周太には初めてで、楽しい。ほどよい酔いが、今まで話してこなかった事も、話題にのぼらせる。

「湯原、東大とか余裕で行けたんだろ。なぜ行かなかったんだ」
「大学は近所に行こうって、決めていたから」

なるべく母をひとりにしたくなかった。
警察学校に入れば全寮制で、必然的に家を離れる。母子二人の家庭で、ひとり家に残すのは、本当は辛かった。
それでも、警察官になる事は止められなかった。

無言の時間が流れても、息苦しくならない。いつものように隣は、静かで優しい空気に佇んでいる。
宮田が弁償した白いシャツを、今日も周太は着ている。着心地が良くて好きだった。
いつも通りの空気だけれど、いつもと少し違う。呑みなれないビールの所為だろうか。
すこし酔いに頬が熱る、ふっと周太は微笑んだ。

「遠野教官、仏頂面が照れくさそうだった」

挨拶の時、一言も口を利かずに敬礼し、握手していた。その顔がもう今、懐かしい。
あの時、珍しく泣きそうになった自分がいて、6ヶ月間の意味を気付かされた。

「横暴で自分勝手で。遣りたい放題、言いたい放題、サディストで時代遅れで、無っ駄に偉そうな鬼教官」

言い終わって、声上げて宮田は笑った。
周太も可笑しくて、目を細めた。

「最低、最悪の鬼教官?」
「そう、」

宮田の相槌で、周太は声上げて笑った。
なんだか可笑しくて、嬉しかった。こんなふうに笑ったのは、父の殉職以来だった。

「…かわいい」

宮田の呟きが聴こえた。どうしていつも、宮田はこんな事を言うのだろう。
素っ気ない声が、周太の口から出た。

「なに、見てるんだよ」
「湯原の笑顔、最高かわいいな」

本当に、宮田は馬鹿なんだと思う。
入寮前に校門で会った、あの初対面の時から、こんな事ばかり言ってくる。

「だから眼科行けよ馬鹿」

抑揚無く周太が言ってやっても、宮田はまた笑った。
他愛ない会話が楽しい。これだって、昨日までは日常だった。けれど明日からは、日常の風景では無くなる。
周太はふと、すこし前の授業を思い出した。

「教官の手錠、見たの覚えているか」

―退職するその日まで君たちと共にある。いわば手錠は警察官の分身だ

初任地の希望を出す前に、教場で遠野が示した、傷だらけで少し歪になった錆黒い手錠。
傷と歪みと、黒ずみ鈍い光沢が、犯罪に立ち向かった数と危険を語っていた。
捜査一課で生きていた遠野の、姿が本当に現れていたと思う。
宮田は周太を見て、答えた。

「手錠は分身だ。あの言葉は本当だなと思った」
「ん、」

自分の手錠は、どんなふうになるのだろう。
父の手錠を見た記憶が、周太の口を開かせた。

「父の手錠は、傷だらけだった。
 遺体を迎えに行った時、同僚の人が見せてくれたんだ。
 傷がたくさんあった、けれど、歪みも、錆も、無かった」

父の、誠実な笑顔が思い出される。唇と眉が、よく似ていると母は言う。
自分は父のように殉職はしない、けれど、父の手錠が相応しい警察官になりたい。

「父は毎日、きれいに磨いていたのを、覚えてる」
「湯原も磨いていたよな」

頷いて微笑むと、周太は黙って缶ビールに口をつけた。
静かな時間が穏やかにおりてくる。宮田は片膝を立てて、頬杖をついた。
窓から、月が昇るのが見える。寮の窓からも、よく眺めたな。そんな事を考えている端から、昨日がもう懐かしい。
ぼんやりしていると、急に宮田が口を開いた。

「『いざよい』って、どう書くんだ」
「なに急に」

ぼそっと周太は答えたが、立ち上がった。ベッドに腰を下ろすと、ベッドサイドに備え付けられたメモ帳をとった。
宮田が横から覗きこんでくる。

「『十六夜』と『不知夜』」

ペンで示した後、はい、と周太は宮田にメモを渡した。
へえと眺めながら、宮田は窓枠に凭れて空を見あげている。
満月をすこし過ぎた月が、大きく淡い光を降らせている。いつものように、今日も宮田は傍で月を眺めている。
「いつものように」は今日で終わる。
明日からは、宮田の隣は誰が居るのだろう。ぼんやりと周太は考えていた。



ベッドのかすかな軋みで、周太は目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。
久しぶりのアルコールが効いたかな?考えていると、隣で人影が静かに起き上がった。

「宮田?」

起き上がりかけた背中に、声を掛けた。
周太の右掌は、長い指を掴んでいた。どうしてこうなったのだろう。
解らないまま、とりあえず手を離して、周太も起き上がった。
背を向けたままの宮田が、悪いなと答えた。

「起こしたな、ごめん。ちょっと風に当たろうかな」

宮田の声が、かすかに震えるのが、周太には解った。
そっと宮田の眦にふれた。温かい感触が指に沁みてくる。やっぱり泣いていた、周太は静かに涙を拭きとっていく。

「また泣いているのか、宮田」

本当によく泣く。今度は、どうしたのだろう。
こんなふうに、素直に泣ける宮田が好きだなと、周太は思う。それだけの繊細な素直さを、宮田は持っている。
すこし可笑しそうに、周太は英二の目を覗きこんだ。

「泣き虫。怖い夢でも見たのかよ」

無言でただ、涙だけが宮田の頬を伝っていく。
それでも周太は促す事もしないで、そっと涙を拭った。いつものように。

宮田の頬を、言葉が溢せない代りの様に、涙だけが零れていく。
こういうときは、思う存分に泣かせてやる方が良い。周太は、ぎこちなく宮田の頭を抱きしめた。

宮田が脱走した夜も、同じようにシャツをハンカチ代わりに差し出した。
5か月ほど前の事なのに、もっと遠い昔に感じられる。それだけ濃密な時間を、警察学校で過ごしていた。
その隣でいつも、きれいな笑顔が佇んでいた。それが今、泣いている。
この隣の哀しみを、周太は分けて持ってやりたいと思った。

「言えよ、宮田」

ぼそりと周太は言った。いつものように。
宮田は、ゆっくりとシャツから顔を上げて、周太を見た。きれいな切長い目が、漲って月の光を映していた。
どうしてこんなに、きれいな目をするのだろう。
健やかに素直なまま育った、宮田の透明な心が、瞳から覗けるようだった。

ちゃんと話を、聴いてやりたい。
どうしてこんなに哀しむのか、周太は宮田の哀しみを、享けとめてやりたかった。
こんなふうに泣きながら、それでも静かで優しい隣を、好きだなと周太は、素直に思った。

かるく瞑目して瞠いて、宮田は周太を真っ直ぐに見つめた。

「お前が、好きだ」




今、なんて、宮田は言ったのだろう?





(to be continued)




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