萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第2話 暁闇、居場所 ― side story「陽はまた昇る」

2011-09-05 20:59:34 | 陽はまた昇るside story
暁の直前が、最も深く昏い闇
太陽の目覚めた光と、眠る月の最期の欠片が道標



暁闇、居場所 ― side story「陽はまた昇る」

デスクライトの淡い光が、扉下の隙間から射して足元を照らす。
いつものように。この隣は今夜も勉強しているのだろう。
きっと一途な心のままに努力して、そして警察官になろうとしている。
この隣の瞳はいつも一途で純粋で真直ぐで、けれど穏やかな静けさに佇む繊細な瞳。
あの瞳なら今の気持ちを解ってくれる、なんだかそんな気がして英二は扉の前に立っていた。

今の気持ち。
きっと誰もが気づかない、こんな自分がなんて考えているのかなんて。
だって自分は今までずっと、ウソついて生きてきた。
自分の本音も言いたい事も全て、自分で無視して押し殺して。
何も感じないフリをして、要領良く生きればいいと決めてきた。
そうして自分すらも騙して楽して生きようと思っていた。

ほんとうは直情的すぎる自分、そういう自分のままでは生き難いって思った。
だから自分すら誤魔化して、真剣に生きることは諦めていた。
けれどもう、そんな生き方こそが苦しいと気がつかされてしまった。
だってもう、この隣での日々に気づかされている。

この隣の、一途に見つめる瞳。不器用でも真摯に生きる姿勢に憧れている。
いい加減な生き方をしてきた、でも本当はずっと嫌だった。
こんな不器用で直情的だけれど、でも、自分のままで本音で素直に生きい。
だからこの隣みたいに、何かに懸けられたら。自分だって自分らしく生きられるかもしれない。
この隣みたいに、自分も何かを懸けて生きたい。だから警察官の道に懸けようと本当は思い始めていた。

けれど本当についさっき、1つの嘲笑のお蔭で壊された。

「きれいな人形、虚栄心を満たす道具。だから都合よく使えないなら、役立たず」

そんな嘲笑がついさっき、自分の警察官への道を壊して去った。
だからもう今更きっと遅い…痛切な後悔がつぶやきになって英二の口から零れた。

「…解っているんだ、俺が悪いって」

そう、自分が悪い。
だって本音で生きていく勇気を持てなかったのは、自分自身の弱さだから。
そしてウソついて要領いいフリして楽に逃げた、そんな弱さは自分の責任。そう解っている。
そんな自分に近付いて利用して、そして満足していた彼女達。そんな彼女達ばかりを責められない。
だって自分すら誤魔化した、そして逃げて誰にも向きあわなかった。
そう、自分の事すらも「全部他人事」と冷たい壁を作って、傷つかないように籠っていた。
そんな冷たい生き方をする自分に、誰が本気で向き合おうとするだろう?

けれど、さっきの嘲笑は。

「…許せない、どうしても…本当に、許せない」

そう。許せない。
きっと一生もう許せない、だって自分は直情的だから。

もう自分は本当は向き合い始めている、ただ「真剣に生きたい」それだけの願いに。
だから今この目の前にある「警察官」として真剣に生きる覚悟を始めている。
だってその覚悟こそが自分に示してくれると信じはじめている。
生きる意味、生きる誇り。そして自分が誰かの為に生きられるかもしれない道。
そして自分にとって必要なもの全て、大切に掴むための「鍵」

ほんとうの自分は直情的で身勝手で、ほしいものは絶対に掴んで離さない。
だから今はもう何したって、その「鍵」を掴もうと考え始めている。
だってきっと「鍵」だけが自分の生きる道を示してくれる。だから今それを離すなんて出来ない。

それでも。自分は寂しがりや過ぎて。そんな弱い自分は求めに応じてしまった。
「妊娠した死にたい」そう言われたから。命がけで傍に来てと、自分は呼んでもらえたと思った。
そんなふうに命がけで呼ばれるのなら、本当は外見だけじゃなくて求められている?そう信じてしまった。

けれど、全て嘘だった。
そして、あの女は軽い気持ちで自分から、「鍵」を奪って踏みつけにした。

だから許せない。
直情的で身勝手な自分の心は、自分の邪魔をする存在は許さない。
だからもう、あの女だけは。一生許すことなんか出来ない。

「…許せない…こんなの、嫌だ…」

ぽつんと本音がこぼれて、英二はため息をついた。
そのため息にすら、許せない黒い気持ちは出ていってくれない。
こんなになるまで自分でも知らなかった。こんなに許せない程に自分は誇りを持っていたこと。
だから余計に今は辛い。自分の誇りを踏みにじられた痛みと重さが、憎しみと怒りになって止まらない。

こんな気持ちを今夜は独り抱えなくてはいけない?
それが苦しくて辛くて哀しくて、だから今ずっとここに立っている。
いまは何時なのだろう?仄暗さに目を細め、腕の時計を見ると0時の分針が過ぎていくところだった。
もう深夜遅い時間、こんな時間にノックしても良いのだろうか?

…でも、あの黒目がちの瞳に今、あいたい

そう、今すぐにあいたい。
なんでかなんて解らない、でも今あの瞳にあって話さなかったら。きっと自分は後悔する、そんな気がしてならない。
だってきっと、あの瞳になら言わなくても解ってもらえる。そんな気がしてならない。

「…うん、」

ちいさく英二は頷いて、ひとつ呼吸した。
そして長い指を軽く握った右手の甲を、隣室の扉に向ける。
そうして、ちいさな逡巡の後に英二は扉をノックした。

「湯原、…俺。宮田」

自分の声がかすかに震えた。
けれど呼んだ名前には、どこか温かさが心に響く。
どうかお願いだ。この扉を開いて俺を受入れて欲しい―そんな縋るような想い。
そんな想いに見つめる扉が、そっと静かに開いた。

…扉、開いた

だめ、かと思っていた。
だって自分はこの隣の制止を振り解いて、脱走してしまったから。
あのとき怒鳴ってくれた声も瞳も、ほんとうに真剣で真心からだと解っていた。
それなのに自分は愚かな嘘に騙されて、真剣な真心をも裏切ってしまった。

…けれど、扉、開けてくれた

静かに開いた扉から、黒目がちの瞳が見上げてくれる。
その瞳が訊いてくれる「…どうした、だいじょうぶ?」そんな問いかけるような瞳。
この瞳に、こうして訊いてほしかった。うれしくて英二は、すこしだけ微笑んだ。
その微笑みを見つめて、湯原は少し体をずらしてくれた。

「…入って」

入れてもらえる。
こんな深夜に来た自分を、さっき振りほどいた自分を。
こんなふうに受入れてくれる場所が、隣にいてくれた。
うれしくて微かに笑って、英二は頷いた。

「うん、…」

英二は扉の内に入ると、ひっそり扉を閉めた。
それを見つめながら、湯原は机の前に座ってベッドを英二に指差した。

「適当に座って」
「うん、ありがとう」

答えながら英二は靴を脱ぎ、湯原のベッドに腰掛けた。
ぐるっと部屋を英二は見渡した。この隣の部屋に入るのは今夜が初めてになる。
デスクライトだけの仄暗い明りにも、整頓された部屋の様子が見てとれる。
きっと端正な性格のままに、湯原は生活態度も端正でいるのだろう。思ったままを英二は口にした。

「部屋、きれいだな」
「みんな似たようなもんだろ」

そんなふうに素っ気なく言って、湯原は机の教本を広げてしまった。
その教本を押える手が、シャツの袖で半分程隠れている。どうやらシャツは少しサイズが大きいらしい。
それが何だか可愛いな、素直に思いながら英二は首を傾げた。
やっぱり湯原は、どこか華奢だ。

術科の時いつも湯原は、ずば抜けている。
走っても速くて持久力もある。武道も強くて大柄な英二でも負けてしまう。
毎晩と風呂で見る体は筋肉にしなやかに覆われている。
そんな筋肉質でいるけれど腰回りや手首は華奢で、長めの足は引締まりながらも細い。
どこかやっぱり華奢な印象がある。

…骨格のせいかな?

そう思いながら英二は、机に向かう湯原の横顔を眺めていた。
ページをゆっくり繰る指先が、デスクライトの淡い明りに光って見える。
ぼんやりと英二は、その指先をただ眺めていた。

深夜0時すぎ。夜の闇と静謐の底に寮全体が沈んでいる。
この部屋だって音楽もテレビも無い狭い空間、けれど穏やかな静謐が心地いい。
時折ページを捲る音だけが部屋に響く。
こういう静謐は英二は好きだった。

― 俺は絶対に警察官にならなきゃいけない理由があるんだ

湯原の理由は何なのだろう?
ほんとうは訊いてみたいと英二は思ったが、それは出来ないとも思った。
ぼんやり見つめる湯原の横顔。その教本の文字を追う瞳の真剣さが眩しい。
この静かな空気の中で、その眼差しだけが動いていた。

ふと安らいでいる自分に英二は気がついた。
この静かな空間で互いに無言でも、ちっとも息苦しくない。

…今までの彼女や友達には、こんな気持なかったな

なんだか落ち着いて、穏やかな静謐が楽でいる。
こんなふうに居心地が良いなんて、嫌な奴の隣ではあるわけがない。
なぜこんなに居心地いいのかな。訝しがりながら時計を見ると、2時を過ぎようとしていた。
いつの間にこんなに時間が過ぎたのだろう?英二は慌てて湯原に話しかけた。

「あの、湯原。ごめん、時間気がつかなくて」

英二の声に、微かに湯原の顔がこちらに向いた。
けれど瞳は教本に向けたままで、湯原は呟くやくように言ってくれた。

「…構わない。気が済むまで、ここに居ていいから」

そしてまた繰ったページに蛍光ペンですっと線を引いた。
その伏せた瞳の大きな黒目に、ライトの光が映っているのが英二に見えた。
見つめる視線の真中で、黒目がちな瞳の横顔は静謐に佇んでいる。
その静けさはただ穏やかで、そして優しかった。

そう。この優しさに、自分はあいたかった。だってもう気づいていたから、この隣の本当の姿に。
まだ部屋に入ったことは無くても、毎日を壁一つ向こうで暮らしている。
そんな壁一つでは、この隣の気配までは消せやしない。
そして気づいてしまった、この隣が抱いている一途な純粋な想い。
それから真摯で端正な静謐と、その底に隠した穏やかで繊細な優しい心。

聴いてほしいな、自分の気持ち。
そんな想いの底から、ごく自然に英二の口が開いた。

「彼女にさ、妊娠した死にたいって、言われたんだ」

見つめる視線の真中で、静かな横顔が教本から顔を上げてくれる。
そして黒目がちの瞳がこちらに向いた。
その瞳が訊いてくれる「…そんな大変なことだったんだね、だいじょうぶなの?」きっとこんな感じ。
なんでだろう、言葉が無くても解る気がする。そんな想いに英二の目がふっと和んだ。
さあ聴いてもらおう。ちょっと唇を引き結んで英二は、また口を開いた。

「でも、嘘だった。全部」

そう、ウソだった全部。
でも自分もウソつきだった。そんな自嘲に英二は微笑んだ。
その自嘲すら見つめて、ただ静かに湯原は聴いてくれている。
なんだか嬉しいな、うれしくて微かに笑うと英二は続けた。

「警察学校を辞める覚悟の意味も、俺の気持も。彼女は解らなかった…そういう女に釣合う男なんだよな、俺は」

そんな自分は嫌いだ。
そんな想いごと吐くように言って、英二は唇をちょっと噛んだ。
ここからは謝りを伝えたい、真直ぐに英二は黒目がちの瞳を見つめた。

「そんな茶番に、皆まで巻き込んだ俺は、馬鹿だ」

言った途端に、心から熱が迫あげた。
その熱に喉の奥が熱く詰まる、けれど英二はそれを呑みこんだ。
それでも目まで昇った熱だけは、ひとすじ頬に奔って落ちてしまった。

「…湯原は、真剣に俺を止めてくれたのに…俺、最低だよな」

…ごめん、湯原

呟いた喉が詰まっていく、英二は長い指の右掌で口を押さえこんだ。
その掌に温かな滴が零れおちてくる。その熱はあふれて手首を伝う。
もう涙が止まらない。

こんなふうに自分が泣くなんて?
いったいどれくらいぶりだろう、自分がこんなふうに泣くなんて。

ずっと要領良く生きてきた、ずっと自分にすらウソついて誤魔化して。
だって本音で生きることは自分には難しかった、直情的すぎて率直な事しか言えない自分だから。
そんな率直さは誰も受けとめなかった、だって自分の外見でいつも人が近づいてくるから。
この外見と本音のギャップ、それがいつも周りを失望させる。それが苦しくて仮面を作ってしまった。

ただ綺麗、それ相応に優しくてお洒落で、都合よく合わせてくれる男。
難しいことなんか言わない、ただ楽しいことしか言わない、そんな気楽に話せる男。

けれど本当はその底にあるのは「全てが他人事だから関係ない」そんな冷たいイイ加減さ。
そう割り切ってしまえば楽だった。だって何も感じなければ良い、無感覚なら痛みも無い。
そうしていつのまにか、冷酷な無感動な自分になっていった。

そう、無感動なら人間じゃない。
そんなのは人形に過ぎない道具に過ぎない。

―きれいな人形。虚栄心を満たす道具、都合よく使える便利な存在―

そうだ、彼女達が言う通りだ。
自分はずっと人形だった、都合よく喋って動いて快楽まで与える。
そして虚栄心を満たしてくれる、そんな「きれいな人形」
そんな虚栄心にすら縋ってしまうほど自分は孤独が怖かった。
だって本音で生きたら周りが失望する、誰もいなくなって孤独になる。それが怖かった。
そんな幼稚な自分だから、そんな人形になってしまった。

けれどもうそんな生き方は嫌だ

そう嫌だ本当は嫌だ、だって俺だって人間だ。
人間だから自由に考えたい想いたい感じたい、そして本音で言葉を言ってしまいたい。
そうして自分の生きる誇りを見つけたい、生きる意味に出会いたい。
そんなふうに真剣に生きて出会いたい、自分だけの帰るべき居場所に。

けれど人形になりさがって、他人の真剣さを笑ってきた自分は変われない?
いったい今まで自分は何をしてきたんだろう?

ずっと押殺し続けた想いが、涙になって頬を覆っていく。
ずっと本当はこうして泣きたかった、けれど泣く場所も自分には無かった。

そうして俯いて泣く顔の傍に、ふっと温もりを感じた。
その感覚に静かに顔を上げると、白いシャツの胸元が佇んでいる。
そのまま見上げると、黒目がちの瞳が間近く見つめていた。

「…湯原、」

見つめる瞳へと英二は呼びかけた。
呼びかけた瞳が、ふっと優しい笑顔を浮かべてくれる。
そして落ち着いた声が、そっと湯原の唇から零れた。

「…いいから。泣けよ?」

白いシャツの腕がゆっくりあげられる。
その腕がぎこちないけれど、優しく英二の頭を抱き寄せてくれた。
抱き寄せられた頬に、コットンのシャツが触れてくれる。
その感触が穏やかで、静かに心のどこかが解かれてしまう。そんな想いが目に熱を昇らせてくる。
そっと閉じた瞳から、ゆるやかに熱が溢れだした。

…泣ける、

やっと泣ける場所が見つかった。
うれしくて英二は、温かい腕に抱かれて泣いた。

涙、止まらない。
そんな涙の底から英二は、小柄な体を抱きしめて泣いた。
いま縋っているのは自分よりずっと小柄な体、けれど精一杯に腕を伸ばし抱いてくれる。
こんな人形だった自分を受けとめて、ただ静かに泣かせてくれる温もり。

こんなに温もりが嬉しいなんて知らなかった、こんなに誰かの体温が嬉しいなんて知らなかった。
こんなふうに体温を重ねる幸せを、自分は何も知らなかった。

いま縋っているこの体と心は。
学科も体力測定も、自分よりずっと勝れて真剣に生きている。
自分と同じ年しか生きていない、それでもこんなに差がある。
そんな差に甘やかされるように、いま自分は縋ってしまっている。

けれど縋って抱きしめるから、もう気づいてしまう。
この縋っている小柄な体は、ほんとうは華奢でか細い。
こうして筋肉で覆っているけれど、でも骨格が細くて繊細でいる。

そして泣いている自分に重ねてくれる心は、どこまでも純粋で繊細で子供の心。
そんな心こそが「きれい」だと自分は気づいてしまう、解ってしまった。

この縋っている体と心の真実は、ほんとうは、繊細で純粋で、華奢で、そして美しい

自分の様なうわべの「きれい」じゃない。
持って生まれた純粋さ、そして鍛えた勁さで支える真摯な想い。
そんな本当の美しさが、この縋っている体と心には隠されている。
そして本当はきっと知られない、哀しみと努力がそこにはある。

そんな隣に比べて、自分はどう生きていた?
そんな不甲斐ない自分は嫌だ―その想いに胸灼かれる熱が生まれ始めた。

…負けたくない

自分に負けたくない、弱さに逃げたい心に負けたくない。
だからもう決めた「本音で生きる」

きっと自分が本音で生きることは楽じゃない、そう解っている。
だって本音の自分は思った事しか言えない出来ない、それは周りに合わせ難いことになる。
けれど。そんなふうに正直に素直に生きられたら。

そんな想いに涙が止まった。

ほら覚悟したから涙も止まった、微笑んで英二はシャツの胸から頬を離した。
その胸を見つめながら視線をあげて、黒目がちの瞳に微笑んだ。

「もう、治まったから。ありがとう、湯原」

そう素直に礼を告げて英二は微笑んだ。
けれど湯原は小首を傾げて、ぼそっと言った。

「…いや。ベッドに涙の染み、付けられたくなかっただけ…シャツならすぐ、洗えば済むだろ」

そう言いながらも、湯原の首筋が少し赤らんだ。
あ、きっと照れている。
きっと照れて恥ずかしくて、そんな言い訳をしている。
なんだか可愛くて可笑しい。そんなふうに微笑みながら、また英二は口を開いた。

「あと、退学届。隠してくれたんだろ」
「…退学を勧めたなんて、人聞き悪いだろ。それだけ…」

英二の前に立ったまま、湯原はそっぽを向いてしまった。
ほら、すっかり恥ずかしがっている。
なんだか拗ねた子供みたいだ、思いながら英二は続けた。

「遠野教官に聴いたんだ。辞めさせたくない、って言ってくれて。ありがとう」
「…いや。いなくなられたら、やっつけられないし。お前の為にやったんじゃない」

そう言う湯原の首筋が、デスクライトの灯りにも赤くなるのが見えた。
白いシャツからのぞく襟足を、あざやかな紅潮が昇っていく。
どうやらこの隣は、首筋がいちばん素直らしい。
素直じゃないけど可愛らしいな。つい英二の悪戯心が頭をもたげてくる。

前ならきっと言わなかったかもしれない。
でも今さっき決めた「本音で生きていく」
だからこんなことでも思ったままに言ってしまう。ちょっと笑って英二は言った。

「なんかお前って、ツンデレ?」

言われた横顔の、黒目がちの瞳が一瞬大きくなる。
あ、この顔かわいいな。
そう見つめている横顔が、ちょっと拗ねたような口調で言った。

「…誰が、どう、デレてんだよ」

そっぽ向いたまま、湯原は机に戻ってしまった。
なんだか本当可愛いんだな、ちょっと良い気分で英二は微笑んだ。
微笑んで見つめる湯原の胸元を、デスクライトのあわい光が照らしている。
その淡い光は湿り透ける生地の向こうに、うすく肌を仄見せた。
すっかり英二の涙で、シャツを濡らしてしまったらしい。

あんなになるまで、泣かせてもらったんだな。
悪いことしたと思って眺めていると、その襟元のボタンが2番目まで外されている。
いつも湯原は、きっちりと制服もジャージも襟を詰めている。
けれど今は外されているボタンが珍しくて、開いた襟元をなんとなく英二は眺めていた。

「…なに?」

そんな視線を見咎めたのか、湯原が怪訝そうに訊いてくる。
なんて答えよう?一瞬そう思った。けれどさっき決めた「本音で生きていく」
だから思ったままを言えばいい、英二は少し笑ってそのまま答えた。

「襟元を寝る前は開けるんだな、湯原。それと、久しぶりに見たなと思って。湯原の私服はさ」
「…それより、やる事あるだろ。今は」

ちょっと素っ気なく湯原は言って、机から立ち上がった。
はぐらかされたのかな?そう思っていると、英二はノートとペンを渡された。
なんだろうかと見上げると、湯原は英二に言った。

「職務質問の課題、やらないと」

ほんとうは明日は、職務質問の実習テスト。
その課題のために自分は、湯原とパートナーを組まされた。
この「職務質問」は警察官には大切な任務の一つ。
けれどたぶん自分は警察官にはなれない。もう規則違反の脱走をしてしまったのだから。
ほんとうは諦めたくない、けれどたぶん。そんな想いに英二は口を開いた。

「でも、俺、たぶん…たい」

退学じゃないかな。
そう言いかけた英二は、黒目がちの瞳に睨まれた。

「望まなくても、俺とお前はパートナ―なんだから。やってくれないと困る」

そう言って湯原は、ペンとノートを携えて英二の隣に座ってしまった。
座ったベッドの隣で湯原はノートを開いて、英二に示して渡してくれる。
そこには、調べ考えたメモが端正に整理されて書きこまれていた。
ほんとうに努力して、この隣は勉強をしている。そう感心しながら読んでいると、ふいに英二は閃いた。

「あ、そういえば俺。教官の職務質問には、自然に話しちゃったんだよ」
「それ、どういう風だったか教えて」
「うん、…まずな、静かに話しかけられたな?」

思いだしながら英二は、ゆっくり答えていく。
それを湯原は素早くペンを奔らせて、メモをとっていった。
その指先を眺めながら英二もペンを握りこんだ。
もう退学かもしれないけれど、この課題は終えていきたい。そう素直に思えた。
最期なら尚更に想い遺さないように。せめて一つくらいは全力で取り組めたらいい。

静かな話声とペンを走らす音が静謐に響く。
静かに明るんでいく窓辺で、隣に座って頭寄せる二人は、時間を忘れ始めていた。
こんなふうに一緒に何かを出来ること。
それも真剣に隣と一緒に向き合うことは、いいな。
そんな想いの温度を楽しみながら、英二は微笑んで隣と課題を考えた。


なれない音が聴こえる。
目覚ましだろうか?ちょっと止めてしまいたい。
そんなふうに英二は、音の方へと長い腕を伸ばした。

けれど、長い指が音の近くへ伸びた時、先に音が止まった。
それでも伸ばした指は勢いで、そのまま時計に降りていく。
その指先に穏やかな温度がふれた。
なんの温度だろう?
なにかなと怪訝に瞼を見開くと、目覚まし時計のスイッチに手が乗せられている。

「あ、」

その手を見た瞬間に戻った記憶が、英二の頭をきちんと覚醒させた。
そう自分は昨夜、隣の部屋で徹夜勉強をしていた。

…あのまま眠っちゃったのか、俺

シーツに頬つけて隣を英二は見た。
その視線のすぐ近くに、穏やかな寝顔がやすらかな眠りに横たわっている。
たぶん目覚ましを止めても、眠ったままなのだろう。
少し頭を動かして見回すと、ベッドにはノートは広がりペンが床に落ちていた。

ほんとうに寝落ちしたらしい。
見るとデスクライトも付いたままだった。
そっと起き上がるとスイッチを消して、英二はベッドを振り返った。
ベッドでは湯原はまだ眠っている、その寝顔に英二は声をかけた。

「おい、湯原?」

けれど英二の声にも目を醒まさない。しっかり熟睡しているらしい。
その軽く瞑った瞼から、頬に睫毛の翳が落ちている。
やわらかそうな前髪がかかる額は清らかで、つい目を惹かれてしまう。
惹かれるままに英二は、ベッドに頬杖ついて寝顔を眺めた。
眺める頬の肌理がなめらかで、どこか湯原を幼く見せている。

…寝顔、かわいいな

起きている時は生意気だけど寝ていると無邪気だな。
そんなふうに、ぼんやり英二は眺めていた。
けれど見つめた唇に、英二は少しどきりとした。見つめる唇はすこし厚めで、なんだか妙に艶っぽい。
ちょっと受口なせいだろうか?そう見つめていた唇が、微かに震えた。

「ん…、」

小さな呻き声と同時に、黒目がちの瞳が開かれる。
そうして見開かれた瞳が、間近く眺めていた英二と視線が合った。
まだ眠たそうな瞳のままで、湯原の唇が言葉をこぼした。

「…なに見てんの、宮田」
「あ、いや」

なに見ていたのか?
きっと言ったら、怒られるだろうな。
そう思いながら英二は、慌てて頬杖を解いた。そのまま立ち上がると、体が少し強張っている。
ゆったり伸びをしながら、英二は湯原に謝った。

「ベッドまで邪魔して、悪かったな」
「ん、まあ、…ちょっと狭かったかな」

それはそうだろう。
英二は身長が180cmはある、また伸びたかもしれない。
いくら細身でも、それは邪魔だったに違いない。素直に英二は謝った。

「だよな、ごめん」

謝って英二が頭を上げると、湯原はもうジャージに着替えていた。
いつのまに着替えたんだろう?素早いなと眺めている英二を湯原が促した。

「ほら、早く着替えろよ。職質の打合せしよう?」

そう言いながら、潔くカーテンをよせて湯原は窓を開けた。
ふっと草木の香をふくむ風が部屋に流れ込んでくる。
さしこむ太陽から部屋に光満ちていく、まぶしさに英二は目を細めた。
開けた窓から身を乗り出し、湯原は空を見上げている。
見上げながら落ち着いた声が、英二に微笑むように言った。

「いい天気だな」
「ああ、うん。いい天気だな」

返事しながら英二は、ぼんやり湯原の唇を眺めていた。
なんでだか解らないけれど、つい見てしまう。
きっと昨日までなら、こんなふうに率直に見つめない。
けれど今はもう素直に生きると決めている、だから視線すら正直だ。

「…ん?」

ふと英二は、妙に目覚めが爽やかなことに気がついた。
たぶん寝たのは明け方近く、それでもすっきりしている。
それに昨夜の自分は、本当に心が重たかった。

許せない。
そして自責と後悔それから憎悪と怒り、孤独。
あの女を許せたわけじゃない、もう一生許せないだろう。それが自分の本当の性分だから。
けれど暗い心が今は、どこか穏やかな静謐に明るんでいる。

昨夜あの女に騙されたと解った瞬間、孤独と憎悪に自分は掴まりかけた。
そんな暗い腕に掴まりかけながら、ぼんやりと暗い道と廊下を歩いていた。
そしてこの部屋の扉から、ひとすじ光が暗い視界に映りこんだ。

たぶんきっと。
その光に扉を叩いて、そして扉が開かれた。あの瞬間からだろう。
自分の心はきっと解かれはじめて、穏やかな静謐に甘やかされた。
そして目覚めた今はもう、自分の心に穏やかな静謐が明るい。
そんな自分はもう、人形なんかじゃない。

そう、もう人形じゃない。
だって人形はあんなふうに泣かない、そしてこんなふうには笑わない。
そして心には穏やかな静謐が明るい温度を持っている。
こんな温かい心を持って、人形である訳が無い。

穏やかな静謐に居心地のいい温度。その居心地を、自分にくれたのは?



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靄、あわいの底 ― side story 「陽はまた昇る」

2011-09-05 06:10:19 | 陽はまた昇るside story
靄の底には、こころが沈んでいる



靄、あわいの底 ― side story 「陽はまた昇る」

湯気のあわいに視界が霞む。

「あっちい…」

扉を開けると、渇いた空気が体を撫で、汗がひいていく。浴場の湯気が英二と共に、脱衣場へ流れ込み室内が霞んだ。
扉を閉めると靄は治まっていく。やや晴れた靄の向こうに、小柄な人影が現れた。

「湯原か?」

振り返る人影に、すっと笑みを浮かべ英二は歩み寄った。

「…なに?」

湯原は少し眉しかめ、一歩体を引いた。

「いや、俺の着替。そこなんだって」

そんなに嫌うなよと呟きながら、タオルに手を伸ばす。
湯原は手早く体を拭き、ジャージを履きながら抑揚無く言った。

「俺、宮田って苦手だし」
「あー、そうですか」

するりと躱し英二は、隣を見ながら口を開いた。

「今日は、ありがとうな」
「なんの話?」

湯原は身仕度の手を止めないが、構わず英二は続けた。

「さっきの立てこもりの時さ、肩貸してくれた」
「礼を言われる様な事じゃない」

ジャージを履いた英二は、体ごと隣へ向合った。その気配に湯原の視線が動く。
タオルを握ったまま、英二は話しかけた。

「俺さ、あの時ほんとに、膝が立たなかった」

ゆっくり瞳を瞬かせ、湯原が振り向く。黒めがちの瞳が英二を見上げ、やや厚い唇が問いかけた。

「やっぱり、怖かった?」
「ああ、怖かった」

頷き英二は、率直に言った。

「だから、肩寄りかかった時、安心した」
「…そうか」

ありがとうと重ねて礼を告げると、ふと英二は湯原の肩を見た。

「華奢そうなのに、力あるんだな。お前」
「急に、なに?」

英二は感心そうに、ふうんと小さく声をあげた。
問うように見つめる黒目がちの瞳に、英二は首を傾げた。

「お前、着痩せするんだな。湯原」
「…ん、よく、言われる」

ちょっと眉しかめ湯原は、目を逸らしながら体背けるように、Tシャツに腕を伸ばした。
その右腕に、指の感触が触れる。

「…え、」

振り返った湯原の目に、白く長い指が置かれている。黒目がちの瞳を見開き、英二を見詰めた。かまわず英二は、その腕を離さない。

「あ、ちょっと触らせて」

湯原の黒めがちの瞳が揺れたが、そのまま英二は腕を掴んだ。
固い弾性の感触に掌が押し返される。やっぱり、と感心したように英二は軽く頷いた。

「筋肉質なんだな、意外と」

すごいなと英二は笑いかけたが、もがくように掌から腕は抜かれた。逃れた右腕を左手で庇うように掴むと、湯原は英二を見上げた。

「やたら、触るなよ」

黒目がちの瞳から、きつく視線が投げられた。
その額を、濡れたままの前髪が覆っている。普段は露わにした聡明な額が隠れて、きれいな二重瞼と黒目がちの瞳が際立つ。いつもは硬質に感じる湯原の顔が、やけに繊細に見えた。

意外と、かわいい顔してんじゃん

そう思った時、軽い既視感に英二は眉を歪めた。

― 勁い、黒目がちの瞳

「あ、」

入寮前の下見に来た、あの時だ。
確かめるように隣を見ると、素早くTシャツを着終えた湯原は、襟元をタオルで拭っている。その横顔を、英二は確かに知っていた。

「なあ、湯原」
「まだ、なにかあるの」

素っ気ない態度にも、構わず英二は続ける。

「入寮前にさ、校門で会っているよな。俺達」

湯原の手が止まった。黒目がちの瞳は微かに揺れたが、また手は動かす。

「…ああ、」

やっぱり、と英二は髪を掻き上げた。

「制服貸与の時さ、俺が振り返って話しかけたの。覚えているか」
「ん、」

そっぽ向いたまま、湯原の手がまた止まる。その横顔を見つめ、英二は言った。

「俺あの時、無視かよって言ったけど。お前、無視したわけじゃないんだろ、本当は」

湯原は黙りこくっている。英二は畳みかけるよう続けた。

「俺が初対面の顔したから、お前、途惑ったんだろ」

そうだろうと問いかけると、湯原は顔をこちらに向け瞳を上げた。視線を外さぬよう、英二は口を開いた。

「髪、」

黙ったまま、視線だけで湯原が問いかける。一つ瞬き、英二は一息に言った。

「ばっさり切ったな、前髪まで。印象変わっていて、解らなかった」

黒目がちの瞳がゆっくり瞬き、英二を見、また伏せられる。
その唇から少しかすれた声が洩れた。

「…たくなかったから」
「え、?」

かすれた声は小さく、英二は聞き返した。一瞬、逡巡が湯原の顔を掠める。
それでも湯原は、今度は明確に答えた。

「顔で、舐められたくなかったから」

― 結構かわいい顔、してんだからさ

あの時の言葉か。英二は首筋に掌を当てた。
黙ったまま、英二を見詰める硬質な視線。「かわいい」は、こんな硬い目をするような男が、ただ言われて喜ぶ言葉だとは、言えそうにない。
口の端を曲げ英二は、ごめん、と詫びた

「…いや、気付かせてもらって、良かったから」

詫びはいらないと呟き、湯原はその綺麗な二重瞼を伏せた。その奥で、瞳が微かに揺れているのが、隣立つ近さで見てとれる。英二はふと微笑んで、言った。

「湯原のこと舐めている訳じゃない。でも、好きだな」
「…え、」
「お前の顔、俺は好きだけど」

伏せた瞳が大きく見上げられた。見開かれた瞼の二重が、より鮮やかに浮かんでいる。英二は悪戯ぽく笑った。

「ほら、やっぱりかわいい」
「…んだよ、お前」

黒目がちの瞳を少し尖らせ、湯原は睨んでくる。だが、うなじは紅潮に染め上げられていく。

きれいだな

その紅色に英二の目は惹かれる。
注がれる視線に、途惑ったような湯原の手が、首筋を庇うよう隠した。

男のうなじなんか、なんで俺、見るんだ

解らない、なんだか調子が狂う。英二は首筋を撫でながら、我ながら首傾げたい思いだった。特に何の言葉も浮かばないまま、何か話しかけようと口を開いた。


「あ、湯原、」

湯原の唇が一瞬開いた。

「…」

だが言葉は零れず、すぐ唇は引き結ばれた。黙りこくったまま身仕舞をすると、湯原は廊下への扉に手を掛けた。

「…おやすみ」

ぼそっと呟き、湯原は出ていった。

「あ、」

急いで荷物を掴み、英二も廊下へ出た。やや照明が落とされた廊下は、薄暗い。
それでも視線の先、湯原の姿はすぐに捕まえられた。窓から薄く月明かりが射す廊下を、小柄な背中は少し性急な足音で去っていく。

「…」

何も言えないまま、小柄な背中は廊下の角を曲がり、視界から消えてしまった。遠くで扉が開く音が鳴り、足音も消えた。

なにやってんだ、俺

ため息をつき、廊下の窓に英二は凭れた。やはり調子がおかしい。肩口に顎を乗せるよう、窓の外を見上げた。
見上げた先の中空に、大きく月が架かっている。

きれいだな

月を見たのは久しぶりな気がする。しばらく見上げると、踵を返し英二は部屋へ向かった。
自室の扉に手をかけた時、左隣の扉の下、淡く漏れた光が目に入る。

あいつ、何してるんだろう

一瞬迷った後、英二は自室の扉を押しあけた。

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