reservation 沈黙と約束

第78話 灯僥act.7-another,side story「陽はまた昇る」
どうか君、今だけは真実のまま傍にいて?
「こんな…ごめんね英二、雪のなか寒かったよね、」
黄昏の雪のベンチもう冷えてゆく、昏くなる、こんなところ独り待ってくれていた。
独り座りこんで木下闇とけるよう黒いコートの肩は凍える、それでも抱きしめた温もり鼓動する。
このベンチにふたり初めて座った時もこうして抱きしめた、あの夏に帰りたい願いに今も抱きついてくれる。
自分より長い腕が回され腰から抱きしめられる、背中ふれる掌も大きい、けれど瞳開かない泣顔に周太は微笑んだ。
「ごめんね…ずっと待ってたの?」
きっと待っていた、そう解かる。
きっと一度は公園を出たのだろう、だって足跡が往復している。
いま雪埋もれるベンチに朝から座っていた、そして午後に一度ここから離れてまた戻ってきた。
そんな行動は雪の足跡が教えてくれる、それでも本当にずっと待ち続けてくれた人は瞳瞑ったまま微笑んだ。
「待ってたよ周太、ずっと逢いたかった、」
ほら、待ってくれていた。
ベンチ離れても自分を待ち続けている、それは今日だけじゃない。
ずっと心ベンチに座ったままで待っている、この同じ想いの腕が自分を抱きしめ告げてしまう。
「待ってたよ周太、俺ずっと周太を待ってた、周太…いかないで、」
自分も待っていた、ずっとあなたを待っていた、だから行きたくない。
この願いずっと告げたいまま夏は消えて、秋に想い確かめ冬に焦がれて、春は生死の境に泣いた。
もうじき一年になる春の雪崩、あのとき泣いた夜をあなたは知らなくて、そしてアイガーの夏に泣いた夜もあなたは知らない。
もう幾度あなたを待つたび泣いたのだろう、そして今は自分が待たせてしまった痛み穿たれるまま長い腕に抱きしめられ懐かしい声が告げてくる。
「行かないで周太、このまま俺から離れないで、行くな周太もういかないで、」
行きたくない離さないで、このまま本当は攫ってほしい。
そんな願い唯ひとつだけ告げてしまいたい、けれど告げられない声が瞳深く温まる。
それでも言えない、だって十四年ずっと探してきた父の欠片もう少しで掴める、そんな今もう退けない。
それでも縋ってくれる体温は温かで鼓動ごと募る、だから今ひと時を願いたいまま大好きな名前に微笑んだ。
「ん…英二、公園もう閉まるから行こう?」
「嫌だ、」
駄々捏ねて腕そっと力こめてくれる、この声に力に明日が消えてしまう。
だって今この腕を離したら二度と逢えなくなるかもしれない、だから自分こそ本当は嫌だ。
『伊達巡査部長と湯原巡査に謹慎を命じる、明後日の正午ここに出頭しろ、』
謹慎処分を自分は受けた、それなのに寮を脱け出し来てしまった。
また命令違反をしたのだと自分は罰せられるだろう、その果てに自分はどうなるのか解らない。
そして今もう巻き込んでしまった人に謝りきれない、この自分の身勝手のために伊達はどうなってしまうのだろう?
こんな不安に明日は解らない、明後日も解らない、けれど怖いのは二度と逢えなくなることだけで、だから離れたくない。
―英二、このまま行きたくないのは僕の方なんだ…それでも、ね、
このまま傍にいたいどこにも行きたくない、それでも自分は自分で選んだ。
父を知りたい、だから全てを選んだのは自分、この選択どれも「あの男」が作りあげたレールかもしれない。
そう今は解かり始めている、けれど父が生きていた時間すこし見つめられた今日は現実で、だから逃げたくない明日と笑いかけた。
「大丈夫だよ英二、今夜は僕お休みなんだ…だから英二が帰る時間まで一緒にいるよ?」
あの場所へ必ず帰らなくてはいけない、けれど今ひと時は一緒に休ませて?
そんな願いごと抱きしめる黒いコートの肩すこし震えて綺麗な低い声がねだった。
「それなら朝まで傍にいてよ、だって…俺の帰る場所は周太だ、」
いま離れられない、だって離れてしまったら次いつ逢える?
そう同じに願ってくれていると声に肩に伝わらす、この唯ひとりに覚悟ひとつ微笑んだ。
「ん…ちゃんと外泊許可とってね?」
このまま外泊してしまったら「謹慎」にならない。
それくらい解かっている、そして処分は厳しくなるだろう。
それでも今この時だけは唯ひとり唯ひとつ想い見つめていたい、そんな願いに白皙の泣顔は瞳ひらいた。
「周太、ほんとに今夜は一緒に居てくれるのか、急にいなくなったりしない?」
切長い瞳が自分を映す、この眼差し何も変わらない。
冴えるよう澄みきった深い瞳は惹きこむ、そして深み穏やかに泣いている。
どこか寂しそうなのに陰影ごと華やいで深い、その孤独に寄添いたい願い笑いかけた。
「ん、ちゃんと一緒にいるよ…だから許可きちんとしてね、光一や黒木さんを困らせたりしないで?」
「もちろんだよ周太、ちゃんと上司には連絡しないとな?」
きれいな低い声笑って腕そっと解いてくれる。
その仕草ふわり深い森の香くゆらせて、また秋の山が懐かしくなる。
―雲取山のブナの木、今ごろ雪の中だね…きれいだろうな、
大らかな梢に空を抱くブナの古木、あの巨樹に逢いたくなる。
あの根元でふたり見つめた約束は幸せだった、あれから一年と少ししか経っていない。
それなのに今もう自分たちは遠くなってしまった、そんな現実の記憶を見つめながら微笑んだ。
「英二、あのね…僕と一緒だって言わないでくれる?その…ごめんね?」
自分の行動は守秘義務がある、それ以上に今は「言わないで」くれることが相手も護る。
だって「知らない」なら罪の連座は免れるだろう?そんな願いに切長い瞳は綺麗に笑ってくれた。
「誰にも言わないよ周太、泊る場所も言わない、秘密の逢引きってどきどきするだろ?」
こんな時そんなこと言ってくれちゃうの?
「あい…」
逢引き、だなんて途惑わされる、こんな古風な言葉は意外で不意打ちだ。
そして「どきどき」してしまう自分が恥ずかしくて、くるり背を向けた後ろ通話が始まった。
「おつかれさまです、国村さんの推理通りだよ?出先で熱がでたので一晩休ませてください、明日の朝7時には戻ります、」
ほら、相変わらず嘘も笑っている声は低く綺麗だ。
この声ずっと逢いたかった、こんなに嘘吐きだと知っているのに綺麗で切なくなる。
だから明日を棄てても逢いたくて約束ひとつに来てしまった、この責任すら負わせる痛みに携帯電話を開いた。
―連絡しなかったら伊達さん心配するよね、でも知らないほうが責任も僕だけで、
いま謹慎処分を受けている、それなのに寮を勝手に出て来てしまった。
そんな全ては監視カメラに収められているだろう、廊下にエントランスにレンズは仕掛けられている。
もう今ごろ脱走は気づかれたろう、その責任を伊達は「知らない」で通して誤魔化してほしい、そして母にも及ばないでほしい。
―家にも連絡とかされるのかな、僕がいなくなったこと…お母さん、
脱走したなら行先は実家、そう考えるだろうか?
そんな考えは短絡的すぎるだろう、それなら別の行先にどこを考えられるのか?
―きっと今までの外泊先を調べるよね、それなら河辺のビジネスホテルか家、雲取山の小屋だけ、
この3ヵ所を外泊届に記したことがある、他は無い。
もしかしたら青梅署にも迷惑かけてしまうだろうか、山小屋にも何かあるだろうか。
思案しながら携帯電話を指先が操作する、そして見つけたアドレスに毎日の定期便を綴った。
To :湯原美幸
本文:今日もおつかれさま、また残業かな?
今夜も無理しすぎないでね、お母さんは努力家だから僕は心配にもなります。
夕食きちんと食べないとダメだよ?朝もごはんシッカリ食べてね、お昼は不定期みたいだし。
お正月の予定まだ解らないけど年越の支度の手伝いには帰りたいなって考えています、また連絡するね。
いつもと変わらない他愛ない文章、それでも母と自分を繋いでくれる。
こんなメールの遣り取りは卒業配置から毎日の習慣になった、だからもう1年以上が経つ。
それだけ母とも遠くなってしまった今を謝りたい、だって母が昇進して残業するのは孤独の為だと解っている。
「…ごめんねお母さん、でもありがとう、」
想い唇こぼれて送信ボタン押す。
この母に寂しい想いさせても自分は今を選んだ、そして今日は十四年を叫べた。
こんな今にまた気づかされる、自分が叫んだ想いは願いは母も同じかもしれない?
―お母さん、お母さんも僕みたいに叫びたい?
夫は人殺しじゃない、そう母も叫んでいる。
そして母ならもう一つ叫ぶだろう、きっと母なら誇らかに笑って叫んでくれる。
“ お父さんの妻で幸せよ? ”
そんなふうに母が笑ってくれたのも今ここにあるベンチだった。
今この背後で電話している人、あの人と生きたいと願い告げた日に母も父を話してくれた。
そんな秋の初めが自分も母も変えてゆく、この変転の涯に幸せはあるのだと信じていたい、でも明日が解らない。
明日、あの寮の一室に戻れば何が待っているだろう?
―伊達さんの信頼も僕は壊したかもしれない、もう今ごろ、
今日、伊達は自分を謝らせないでくれた。
自分が主張したこと全てを聴いてから上官へ頭下げてくれた、けれど自分には頭下げろと言わなかった。
共に処分を受けると上官へ告げて庇ってくれた、それなのに謹慎処分を破ったことは真直ぐな厚意への裏切りだ。
こんな自分を伊達はもう信じてくれない、そう想うと気管支また迫り上げそうで息呑みこんだ背に大好きな声が呼んだ。
「周太、電話終わった?」
ほら、呼ばれただけで鼓動もう弾む。
この声で名前を呼んでほしかった、それだけの理由で自分はパートナーを裏切った。
こんな自分だから「性格から向いていない」と言われてしまう、その不向きすら今は誇らしい。
だって自分の全ては唯ひとりの笑顔だ、こんな自分勝手な弱さ自覚する誇りに振りむいて微笑んだ。
「ん、終ったよ…公園出よう?」
笑いかけた真中に白皙の笑顔が来てくれる。
黄昏ふる木洩陽にダークブラウンの髪きらめかす、黒いコートの長身は影も長い。
まっすぐ自分だけを見つめて黒い影は歩み寄る、濃やかな睫の陰影に深く穏やかな瞳は微笑む。
まだ残る雪を踏んで美しい笑顔の翳やってくる、そして自分を包みこんで綺麗な低い声が笑いかけた。
「周太、出たらどこ行きたい?」
名前を呼んで長い白い指そっと伸ばされる。
からめとられ右手が包まれてゆく、その冷たい肌に愛しくて泣きたくなる。
こんなに手が冷たくなるまで待っていてくれた、そんな唯ひとりは繋いだ手をコートのポケットにしまいこんだ。
「…あ、」
零れた声ごとポケットの手そっと握りしめられる。
初めての冬もこうして手を繋いでくれた、あの幸福なぞるまま大好きな声が笑った。
「周太こそ手が冷えてるよ、まだ雪残ってるし寒いもんな?」
もし自分の手が冷たいのなら緊張と不安と、そして記憶の所為だ。
こうしてコートに手を繋いだ幸せの記憶、あの時に戻りたい願いが指先から冬になる。
あの冬の初めは互いに唯ひとり見つめていられた、それは小さな世界で無知で現実ひとつ解っていない。
それでも幸せだった、もう今は知ってしまった現実に戻れないと解っていて、だからこそ愛しい記憶に微笑んだ。
「ん…寒いね?寒いなか待たせてごめんね、英二、」
「雪の寒いのは好きだよ、」
綺麗な低い声が応えてコートの手そっと温かい。
この手ずっと離さないでいられたら、そう願いながらも明日の朝には離れてしまうだろう。
そうして互いに現実へ戻される、その戻る願いのために今夜どうしても確かめなくてはいけない。
英二、金曜日に本庁の壁を登っていたのはなぜ?
―あんな危ないこと二度としないで英二、僕のためなら絶対にもうしないで、
ほら心もう願い訴えだす、けれど今まだ声に問えない。
訊くなら訊けるべき時がある、その瞬間を今夜こそ捕まえて止めてしまいたい。
だって止めなかったら怖い、この人が危険を冒してゆく涯に待つ現実が怖くて止めたくて、だから全て懸けて逢いに来た。
「周太、夕飯はデパ地下で買ってくか、二人きりでゆっくり食いたいな?」
ほら、また笑ってねだってくれる笑顔がまぶしい。
こんなふう自分を求めて笑ってくれる、この笑顔は自分の宝物だから護りたい。
そのために今夜は何を出来るだろう、そして明日もその先も何すればいい?そんな願いと笑いかけた。
「ん、ふたりきり良いね、」
ふたりきりが良い、この願いきっとずっと変わらない。
だから今日も今夜も明日その先も懸けるだろう、何もかも棄てて懸けて唯ひとり見つめ続ける。
だって結局どうしても唯ひとり恋して愛している、どんなに嘘吐きでも怖くても不安でも、それでも唯ひとつ色褪せない約束ごと護りたい。
“ 北岳草を見せてあげる、きっと周太が大好きな花だよ? ”
だから英二、今夜なにひとつ想い君に伝えない。
(to be continued)
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第78話 灯僥act.7-another,side story「陽はまた昇る」
どうか君、今だけは真実のまま傍にいて?
「こんな…ごめんね英二、雪のなか寒かったよね、」
黄昏の雪のベンチもう冷えてゆく、昏くなる、こんなところ独り待ってくれていた。
独り座りこんで木下闇とけるよう黒いコートの肩は凍える、それでも抱きしめた温もり鼓動する。
このベンチにふたり初めて座った時もこうして抱きしめた、あの夏に帰りたい願いに今も抱きついてくれる。
自分より長い腕が回され腰から抱きしめられる、背中ふれる掌も大きい、けれど瞳開かない泣顔に周太は微笑んだ。
「ごめんね…ずっと待ってたの?」
きっと待っていた、そう解かる。
きっと一度は公園を出たのだろう、だって足跡が往復している。
いま雪埋もれるベンチに朝から座っていた、そして午後に一度ここから離れてまた戻ってきた。
そんな行動は雪の足跡が教えてくれる、それでも本当にずっと待ち続けてくれた人は瞳瞑ったまま微笑んだ。
「待ってたよ周太、ずっと逢いたかった、」
ほら、待ってくれていた。
ベンチ離れても自分を待ち続けている、それは今日だけじゃない。
ずっと心ベンチに座ったままで待っている、この同じ想いの腕が自分を抱きしめ告げてしまう。
「待ってたよ周太、俺ずっと周太を待ってた、周太…いかないで、」
自分も待っていた、ずっとあなたを待っていた、だから行きたくない。
この願いずっと告げたいまま夏は消えて、秋に想い確かめ冬に焦がれて、春は生死の境に泣いた。
もうじき一年になる春の雪崩、あのとき泣いた夜をあなたは知らなくて、そしてアイガーの夏に泣いた夜もあなたは知らない。
もう幾度あなたを待つたび泣いたのだろう、そして今は自分が待たせてしまった痛み穿たれるまま長い腕に抱きしめられ懐かしい声が告げてくる。
「行かないで周太、このまま俺から離れないで、行くな周太もういかないで、」
行きたくない離さないで、このまま本当は攫ってほしい。
そんな願い唯ひとつだけ告げてしまいたい、けれど告げられない声が瞳深く温まる。
それでも言えない、だって十四年ずっと探してきた父の欠片もう少しで掴める、そんな今もう退けない。
それでも縋ってくれる体温は温かで鼓動ごと募る、だから今ひと時を願いたいまま大好きな名前に微笑んだ。
「ん…英二、公園もう閉まるから行こう?」
「嫌だ、」
駄々捏ねて腕そっと力こめてくれる、この声に力に明日が消えてしまう。
だって今この腕を離したら二度と逢えなくなるかもしれない、だから自分こそ本当は嫌だ。
『伊達巡査部長と湯原巡査に謹慎を命じる、明後日の正午ここに出頭しろ、』
謹慎処分を自分は受けた、それなのに寮を脱け出し来てしまった。
また命令違反をしたのだと自分は罰せられるだろう、その果てに自分はどうなるのか解らない。
そして今もう巻き込んでしまった人に謝りきれない、この自分の身勝手のために伊達はどうなってしまうのだろう?
こんな不安に明日は解らない、明後日も解らない、けれど怖いのは二度と逢えなくなることだけで、だから離れたくない。
―英二、このまま行きたくないのは僕の方なんだ…それでも、ね、
このまま傍にいたいどこにも行きたくない、それでも自分は自分で選んだ。
父を知りたい、だから全てを選んだのは自分、この選択どれも「あの男」が作りあげたレールかもしれない。
そう今は解かり始めている、けれど父が生きていた時間すこし見つめられた今日は現実で、だから逃げたくない明日と笑いかけた。
「大丈夫だよ英二、今夜は僕お休みなんだ…だから英二が帰る時間まで一緒にいるよ?」
あの場所へ必ず帰らなくてはいけない、けれど今ひと時は一緒に休ませて?
そんな願いごと抱きしめる黒いコートの肩すこし震えて綺麗な低い声がねだった。
「それなら朝まで傍にいてよ、だって…俺の帰る場所は周太だ、」
いま離れられない、だって離れてしまったら次いつ逢える?
そう同じに願ってくれていると声に肩に伝わらす、この唯ひとりに覚悟ひとつ微笑んだ。
「ん…ちゃんと外泊許可とってね?」
このまま外泊してしまったら「謹慎」にならない。
それくらい解かっている、そして処分は厳しくなるだろう。
それでも今この時だけは唯ひとり唯ひとつ想い見つめていたい、そんな願いに白皙の泣顔は瞳ひらいた。
「周太、ほんとに今夜は一緒に居てくれるのか、急にいなくなったりしない?」
切長い瞳が自分を映す、この眼差し何も変わらない。
冴えるよう澄みきった深い瞳は惹きこむ、そして深み穏やかに泣いている。
どこか寂しそうなのに陰影ごと華やいで深い、その孤独に寄添いたい願い笑いかけた。
「ん、ちゃんと一緒にいるよ…だから許可きちんとしてね、光一や黒木さんを困らせたりしないで?」
「もちろんだよ周太、ちゃんと上司には連絡しないとな?」
きれいな低い声笑って腕そっと解いてくれる。
その仕草ふわり深い森の香くゆらせて、また秋の山が懐かしくなる。
―雲取山のブナの木、今ごろ雪の中だね…きれいだろうな、
大らかな梢に空を抱くブナの古木、あの巨樹に逢いたくなる。
あの根元でふたり見つめた約束は幸せだった、あれから一年と少ししか経っていない。
それなのに今もう自分たちは遠くなってしまった、そんな現実の記憶を見つめながら微笑んだ。
「英二、あのね…僕と一緒だって言わないでくれる?その…ごめんね?」
自分の行動は守秘義務がある、それ以上に今は「言わないで」くれることが相手も護る。
だって「知らない」なら罪の連座は免れるだろう?そんな願いに切長い瞳は綺麗に笑ってくれた。
「誰にも言わないよ周太、泊る場所も言わない、秘密の逢引きってどきどきするだろ?」
こんな時そんなこと言ってくれちゃうの?
「あい…」
逢引き、だなんて途惑わされる、こんな古風な言葉は意外で不意打ちだ。
そして「どきどき」してしまう自分が恥ずかしくて、くるり背を向けた後ろ通話が始まった。
「おつかれさまです、国村さんの推理通りだよ?出先で熱がでたので一晩休ませてください、明日の朝7時には戻ります、」
ほら、相変わらず嘘も笑っている声は低く綺麗だ。
この声ずっと逢いたかった、こんなに嘘吐きだと知っているのに綺麗で切なくなる。
だから明日を棄てても逢いたくて約束ひとつに来てしまった、この責任すら負わせる痛みに携帯電話を開いた。
―連絡しなかったら伊達さん心配するよね、でも知らないほうが責任も僕だけで、
いま謹慎処分を受けている、それなのに寮を勝手に出て来てしまった。
そんな全ては監視カメラに収められているだろう、廊下にエントランスにレンズは仕掛けられている。
もう今ごろ脱走は気づかれたろう、その責任を伊達は「知らない」で通して誤魔化してほしい、そして母にも及ばないでほしい。
―家にも連絡とかされるのかな、僕がいなくなったこと…お母さん、
脱走したなら行先は実家、そう考えるだろうか?
そんな考えは短絡的すぎるだろう、それなら別の行先にどこを考えられるのか?
―きっと今までの外泊先を調べるよね、それなら河辺のビジネスホテルか家、雲取山の小屋だけ、
この3ヵ所を外泊届に記したことがある、他は無い。
もしかしたら青梅署にも迷惑かけてしまうだろうか、山小屋にも何かあるだろうか。
思案しながら携帯電話を指先が操作する、そして見つけたアドレスに毎日の定期便を綴った。
To :湯原美幸
本文:今日もおつかれさま、また残業かな?
今夜も無理しすぎないでね、お母さんは努力家だから僕は心配にもなります。
夕食きちんと食べないとダメだよ?朝もごはんシッカリ食べてね、お昼は不定期みたいだし。
お正月の予定まだ解らないけど年越の支度の手伝いには帰りたいなって考えています、また連絡するね。
いつもと変わらない他愛ない文章、それでも母と自分を繋いでくれる。
こんなメールの遣り取りは卒業配置から毎日の習慣になった、だからもう1年以上が経つ。
それだけ母とも遠くなってしまった今を謝りたい、だって母が昇進して残業するのは孤独の為だと解っている。
「…ごめんねお母さん、でもありがとう、」
想い唇こぼれて送信ボタン押す。
この母に寂しい想いさせても自分は今を選んだ、そして今日は十四年を叫べた。
こんな今にまた気づかされる、自分が叫んだ想いは願いは母も同じかもしれない?
―お母さん、お母さんも僕みたいに叫びたい?
夫は人殺しじゃない、そう母も叫んでいる。
そして母ならもう一つ叫ぶだろう、きっと母なら誇らかに笑って叫んでくれる。
“ お父さんの妻で幸せよ? ”
そんなふうに母が笑ってくれたのも今ここにあるベンチだった。
今この背後で電話している人、あの人と生きたいと願い告げた日に母も父を話してくれた。
そんな秋の初めが自分も母も変えてゆく、この変転の涯に幸せはあるのだと信じていたい、でも明日が解らない。
明日、あの寮の一室に戻れば何が待っているだろう?
―伊達さんの信頼も僕は壊したかもしれない、もう今ごろ、
今日、伊達は自分を謝らせないでくれた。
自分が主張したこと全てを聴いてから上官へ頭下げてくれた、けれど自分には頭下げろと言わなかった。
共に処分を受けると上官へ告げて庇ってくれた、それなのに謹慎処分を破ったことは真直ぐな厚意への裏切りだ。
こんな自分を伊達はもう信じてくれない、そう想うと気管支また迫り上げそうで息呑みこんだ背に大好きな声が呼んだ。
「周太、電話終わった?」
ほら、呼ばれただけで鼓動もう弾む。
この声で名前を呼んでほしかった、それだけの理由で自分はパートナーを裏切った。
こんな自分だから「性格から向いていない」と言われてしまう、その不向きすら今は誇らしい。
だって自分の全ては唯ひとりの笑顔だ、こんな自分勝手な弱さ自覚する誇りに振りむいて微笑んだ。
「ん、終ったよ…公園出よう?」
笑いかけた真中に白皙の笑顔が来てくれる。
黄昏ふる木洩陽にダークブラウンの髪きらめかす、黒いコートの長身は影も長い。
まっすぐ自分だけを見つめて黒い影は歩み寄る、濃やかな睫の陰影に深く穏やかな瞳は微笑む。
まだ残る雪を踏んで美しい笑顔の翳やってくる、そして自分を包みこんで綺麗な低い声が笑いかけた。
「周太、出たらどこ行きたい?」
名前を呼んで長い白い指そっと伸ばされる。
からめとられ右手が包まれてゆく、その冷たい肌に愛しくて泣きたくなる。
こんなに手が冷たくなるまで待っていてくれた、そんな唯ひとりは繋いだ手をコートのポケットにしまいこんだ。
「…あ、」
零れた声ごとポケットの手そっと握りしめられる。
初めての冬もこうして手を繋いでくれた、あの幸福なぞるまま大好きな声が笑った。
「周太こそ手が冷えてるよ、まだ雪残ってるし寒いもんな?」
もし自分の手が冷たいのなら緊張と不安と、そして記憶の所為だ。
こうしてコートに手を繋いだ幸せの記憶、あの時に戻りたい願いが指先から冬になる。
あの冬の初めは互いに唯ひとり見つめていられた、それは小さな世界で無知で現実ひとつ解っていない。
それでも幸せだった、もう今は知ってしまった現実に戻れないと解っていて、だからこそ愛しい記憶に微笑んだ。
「ん…寒いね?寒いなか待たせてごめんね、英二、」
「雪の寒いのは好きだよ、」
綺麗な低い声が応えてコートの手そっと温かい。
この手ずっと離さないでいられたら、そう願いながらも明日の朝には離れてしまうだろう。
そうして互いに現実へ戻される、その戻る願いのために今夜どうしても確かめなくてはいけない。
英二、金曜日に本庁の壁を登っていたのはなぜ?
―あんな危ないこと二度としないで英二、僕のためなら絶対にもうしないで、
ほら心もう願い訴えだす、けれど今まだ声に問えない。
訊くなら訊けるべき時がある、その瞬間を今夜こそ捕まえて止めてしまいたい。
だって止めなかったら怖い、この人が危険を冒してゆく涯に待つ現実が怖くて止めたくて、だから全て懸けて逢いに来た。
「周太、夕飯はデパ地下で買ってくか、二人きりでゆっくり食いたいな?」
ほら、また笑ってねだってくれる笑顔がまぶしい。
こんなふう自分を求めて笑ってくれる、この笑顔は自分の宝物だから護りたい。
そのために今夜は何を出来るだろう、そして明日もその先も何すればいい?そんな願いと笑いかけた。
「ん、ふたりきり良いね、」
ふたりきりが良い、この願いきっとずっと変わらない。
だから今日も今夜も明日その先も懸けるだろう、何もかも棄てて懸けて唯ひとり見つめ続ける。
だって結局どうしても唯ひとり恋して愛している、どんなに嘘吐きでも怖くても不安でも、それでも唯ひとつ色褪せない約束ごと護りたい。
“ 北岳草を見せてあげる、きっと周太が大好きな花だよ? ”
だから英二、今夜なにひとつ想い君に伝えない。
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