asylum 今ひと時を

第78話 灯僥act.8-another,side story「陽はまた昇る」
ルームライトのオレンジ色に記憶の自分が泣いてしまう。
いまは師走、けれど夏の終わりと秋の自分が今ここにいる。
卒業式の夜と父の殺害犯と向きあった夜、どちらも哀しくて痛くて、けれど独りじゃない。
あの二夜のまま同じビジネスホテルの一室に座りこんで、そして同じに傍にいる端整な笑顔が訊いた。
「周太、隣に座ってくれないの?」
せっかく二人掛けのソファなのにな?
そんなふう笑いかけてくれる声に鼓動が弾んでしまう、あの声の隣に今も座れたら幸せだ。
けれど今は間近に見られてしまいたくない、その願い顔あげたテーブル越しの笑顔に鼓動また疼く。
―きれい、英二は…やっぱり僕には綺麗にしか見えない、
切長い瞳が自分に笑ってくれる、あの涼やかな静穏は父と似ていて見つめてしまう。
けれど父よりも華やいだ陰翳まばゆく惹かれる、この眼差しは嘘吐きで秘密に真実を隠しこむ。
きっと金曜日にも企みひとつ笑っていた、そんな笑顔は誘惑すら美しくて大人の男で、自分と違い過ぎる。
「ごはん食べるには窮屈でしょ、英二の体大きいから…」
違いに羞んだまま自分の声が応える。
窮屈なのは本当で、向きあう人の体が大きいことも本当、けれど理由はそれじゃない。
―もし隣に座ったら頬を診てしまうよね、英二なら、
今日、自分は上官に殴られた。
あれから2時間程しか経っていない、腫れは冷やして治めては来た。
けれど時間の経過また痣が浮くかもしれない、それでも知られたくない願いに周太は微笑んだ。
「…家でも食事の時は向いあいだし、」
答えながら包み開いて家の時間が懐かしくなる。
曾祖父が作ったクラシカルな家のダイニング、あのテーブルで一緒に食事した最後は3ヶ月ほど前だ。
あのとき英二の祖母もいてくれた、自分の看病のため来てくれていて、だから二人きり食事したのは最後いつだろう?
―葉山の夜が最後だね、5ヶ月も前…アイガーの前で、
この人のために料理を作った幸せは遠くなってしまった。
この人が愛するのは自分だけ、そう信じていた幸せな海を今も憶えて抱いている。
あのとき拾った貝殻は守り袋に入れていつも持ち歩く、けれど5ヶ月に幸せは遠くなった。
『この桜貝、海の底から離れないでここまで来たんだろ?俺たちも離れないで一緒に来たよ、こんなふうに俺たちずっと一緒に離れないでいよう、』
ほら海の約束が笑ってくれる、けれど離れてしまった。
あの夏の終わりに遠い国の雪山で約束は息絶えた、そう解っている。
『約束だよ?俺は何があっても君から離れない。ずっと、永遠にだ、』
本当に離れていないの?
そう訊きたい、だけど今の自分に訊く資格なんて解らない。
だって自分は人を撃ってしまった、傷つけてしまった、そんな自分の手が赦されるなんて想えない。
―ごめんなさい英二、僕は人を殺してはいないけど傷つけたんだ、
『湯原、なぜ射殺しなかった!』
ほら2時間前の怒声また聞えだす、あの言葉に自分は従ってなどいない。
これからも自分は射殺などしない、だって今は父の選択ごと覚悟も勇気も抱いている。
『僕たちが狙撃する任務は死刑の断罪ではありません、現場の救命と逮捕です、』
そう答えた自分の声は現実だ、あの言葉に嘘など欠片も無い。
自分は殺すためではなく「救命」援けるために犯人を撃った、けれど犯人の手も足も二度と動けないかもしれない。
―ごめんなさい、僕はあなたの自由を結局は奪ったかもしれないんだ…あの店のご主人よりも、
ほら、あの店の主が歩く姿が映りこむ。
父を殺害してしまったラーメン屋の主人、あの人も歩く時いつも足すこし引きずる。
あれは安本が狙撃し逮捕した結末で、それでも安本は彼の懲役刑から更生、社会復帰と全てを負ってきた。
あんなふうに自分は犯人を援け続けるなど出来ない、それなのに手足を壊し障害者にして裁きの場に放りこんでしまった。
『SAT隊員が捜査官として司法の執行者であることは死刑執行人でもあるということだ、特に狙撃手なら、』
殴りつけ上官が言った言葉は本当は、優しいのかもしれない。
いっそ殺されてしまう方が楽なのかもしれない、だって生きることは苦しみだって存在する。
それは父の殺害犯が歩く姿にあざやかだ、けれど、あの傷だらけの手には苦しみと同時に喜びもある。
―火傷も包丁の切り傷もあるけど、でも美味しいご飯で笑わせてくれて…だからどうかあなたも生きて、
心ひとり今日のことへ廻ってしまう、あの犯人にも希望ひとつ信じていたい。
この自分の手は確かに彼の自由を奪ってしまった、傷だらけにしてしまった、それでも傷にこそ希望を祈りたい。
こんなふうに祈ることすら父は出来なくて、だからこそ今あの場所から逃げたくない願いは今この向き合う人にも支えられている。
―英二が僕に救急法と弾道実験のファイルをくれたお蔭なんだ、あの人を殺さずに済んだのは、
あのファイルを贈ってくれたのは5月、もう7ヶ月も前だ。
あれから葉山の海でした約束は幸せだった、そしてアイガーの夜に「唯ひとり」の約束は消えた。
それでも自分は唯ひとりしか想えない、こんな時間の経過に泣きたいテーブルに大好きな声が笑ってくれた。
「周太が並べてくれると美味そうになるな、周太の料理が食べたくなる、」
ほら、こんなこと言ってくれるから離れられないのに?
こんな言葉どれも嘘吐いていない、本当に願って言ってくれている。
けれど他の人を見つめてしまった笑顔なのだと解っている、それでも大好きな笑顔に缶ビールさし出した。
「あの…はい、」
「ありがとう周太、」
綺麗な低い声が笑って受けとってくれる、その長い指そっと手にふれる。
ランプまばゆい白い指、けれど強靭で救命に逞しい手は綺麗で、きれいすぎて泣きたくなる。
だって自分の手は現実に人を傷つけてしまった、それでも命は救えた幸せにすこし背を伸ばし微笑んだ。
「はい…あの、いただきます、」
いま口に入れてしまえば黙っていても赦される。
そんな想いすら気恥ずかしくなるのは狙撃した慙愧と、片想いの自覚の所為だ。
かつん、
プルリング引く音が響いて端整な唇が缶くちづける。
引き締まった口許は薄紅あわく華やがす、あの美しい唇に愛された記憶もう数えきれない。
そんな幸せを見つめて首すじ熱く逆上せだす、こんなこと恥ずかしくて困って、けれど今はただ哀しい。
―英二、もう僕は英二に愛される資格なんてないの、それなのに今も光一とのこと責めてるのも本当で…ごめんね英二、
ふたりきり食膳に着くランプの光、そんな時間と空気に7月の幸せが愛おしい。
海で貝殻に約束した幸福は今も抱いている、それでもアイガーの夜に消えて壊れたのだと今もう解かる。
だって自分こそ今日は罪を犯した、それが裁かれない司法の免罪であることが尚更に赦されない罪となって竦ませる。
「周太、今日はのど飴いくつ食べた?」
ほら、大好きな声に呼ばれて鼓動が竦む。
呼ばれて嬉しくて、嬉しい分だけ今日の現実が哀しくなってしまう。
だって目の前のビール持つ手はこんなに綺麗だ、そして愛しいまま周太は微笑んだ。
「ん…ふたつ?」
「俺にもくれる?持ってるんだろ、」
穏やかな笑顔きれいに見つめてくれる、それが嬉しいから居た堪れない。
あの眼差しは自分が今日何をしたか知っているのだろうか?
―英二なら知っているかもしれない、僕が来ない理由を探して、
あのベンチ、待合せ時間に自分は着けなかった。
その理由を英二なら探したろう、その為にも公園から一度は出ていった。
そんなふう想えて視線そっと逸らし立ち上がり、ダッフルコートのポケット入れた手に香やわらいだ。
「…ぁ、」
忘れかけていた、林檎ひとつ持ってきている。
『周、りんごは医者いらずって言うくらい体に良いんだよ…うさぎさんに切ってあげるね?』
幼いころ父はそう言ってよく林檎を剥いてくれた。
そしてこの秋にも看病に来てくれた英二の祖母が林檎すりおろしてくれている。
だから家に置いてあった林檎をコートのポケット入れて持ってきた、自分も食べさせてあげたくて。
「周太、」
呼ばれて振り向こうとして長い腕が背から抱きしめる。
ふわり樹木のような香ほろ苦く頬かすめて抱きこめられてしまう、そして温もり包まれる。
―あったかい英二、だから…もうやめて、
温かい、だから抱きしめないでほしい。
今こんなふう抱きしめられたら叫びたくなる、どうか攫ってと泣いてしまう。
だって今日もう幾度そう願ったろう、このまま連れて行ってほしい本音と14年の願い苛まれる。
「すこし熱っぽいんだろ、周太?先に風呂すませてくれていいよ、楽になるから、」
ほら優しい言葉が抱きしめる、この温もりに甘えて楽になってしまいたい。
それでも自分は責任がある、だって自分はもう一人を巻き込んでしまった。
『班長、責任は湯原の指導係でパートナーである私にあります。同じ処分を私に下さい、』
上官に殴られた自分を庇ってくれた、あのひとを自分は裏切れない。
だって一度も謝れとは言わないでくれた、あの真直ぐ凛とした眼差しは裏切れない。
―僕が選んだ道を裏切りたくない、僕を一度でも好きになったこと英二に後悔してほしくないから、
もう他の人を抱いてしまった人、嘘吐きな人、それでも自分は唯ひとり愛している。
この想いもう変えられないのだろう、きっと最期の瞬間まで結局は愛して名前を呼ぶのだろう。
そんな相手だから今を俯きたくない、もう今が最期かもしれないなら幸せも現実も向きあいたくて周太は微笑んだ。
「ありがとう英二、でも英二こそ先に入って…冷えちゃったでしょ、」
想い微笑んで抱きしめてくれる手に掌そっと重ねてみる。
ふれる長い指の手は大きくて温かい、この手が自分をずっと護ってくれた。
もう他の人を抱いてしまった手、それでも自分を護ってくれた手は真実だと信じていたい。
ずっと自分を護ってくれた、それすらも本当は別の理由かもしれなくて、けれど信じたい願いに笑ってくれた。
「だったら周太、一緒に入ろ?もうずっと一緒に入ってないよ、」
もう、こんなときにまでえっちなこと言わないで?
今こんなに泣きたいの堪えているのに可笑しな日常を笑ってくれる。
こんな人だから自分は惹かれて逢うたび呼吸するたび好きになった、そんな幸せごと羞んだ。
「…いっしょにはいるのはだめです」
「じゃあ周太から入ってよ?そうしないと俺、周太を連れこむの我慢できそうにないよ?」
綺麗な低い声が笑って抱きしめる、こんな台詞いくど実家の風呂場で聴いたろう。
あの幸せだった時間は今もう遠い、それでも懐かしい一室のひと時に肯い微笑んだ。
「ごはん食べたらはいります…だからちょっとはなれて?」
「このまま食べたらいいよ、ね、周太?」
大好きな声が笑って、ふわり体が浮んで抱き上げられる。
こんなふうに軽々と自分を抱いてしまう腕、この逞しい腕に甘えていられた時間が愛おしい。
けれどもう今は離れていく、そんな明日の朝を想いながらソファに下ろされてすぐ身をひるがえした。
「あ、周太?」
呼び止められて、けれど向かいに一人座りこむ。
この殴られた頬を気づかせたくない、だから離れた席すぐ缶ひとつ手にとりプルリング引いた。
かつん、
もう口つけてしまえば無理に抱き上げるなんてしないでしょ?
そんな意図ごと啜りこんだオレンジあまい香とアルコール弾けて、痛んだ。
「ぃっ…、」
殴られた傷にオレンジ沁みて痛い、口のなか切れた傷痕は開いている。
けれど痛いなんて顔したら気づかれる、だからただ綺麗に笑いかけた。
「おいしいね、このお酒…英二が選んでくれたけど、なんていうの?」
オレンジが周太は好きだよな?そう言って選んでくれた香は甘くて痛い。
こんなふうオレンジは傷に沁みるくらい解かっていた、それでも選んでくれたこと嬉しかった相手は幸せに微笑んだ。
「ミモザだよ、前にも飲んだの憶えてる?」
その酒の名前、もう遠くなっていた。
この酒を飲ませてくれたとき意味も教えてくれている、それが嬉しかった。
そして哀しい記憶もある、それでも幸せだった記憶の方が多い酒に笑いかけた。
「ん、憶えてるよ?…けっこんしきのおさけって英二、言ってたね、」
「よかった、周太が憶えてくれていて、」
ほら、また嬉しそうに笑いかけてくれる。
涼やかで陰翳あざやかに華やぐ切長い瞳、あの眼差し喜ばせたくて酒また口つける。
あまくて、傷じくり沁みて痛んで、それでも甘やかな香と笑顔に今ひととき酔って幸せでいたい。
だって笑顔は今が最期かもしれない、この大好きな笑顔は遠い国の山すら登ってしまう人、そして明日からもっと遠くなる。
『謹慎を命じる、明後日の正午ここに出頭しろ、』
謹慎命令まで違反して自分は逢いに来た、だって今が最後かもしれない。
SAT狙撃手でありながら命令背いた処罰は軽くないだろう、そのリスクは除隊処分だけで終わらない。
たぶん警察を去ることになるのが「普通」だろう、その涯には父や祖父と同じ運命を「あの男」観碕は下すだろうか?
―だから英二、この部屋を出たら僕はもう帰れないかもしれないんだ、
祖父はパリ大学で「客死」した、過労の心臓発作だと田嶋教授は言っていた、けれど真相は?
その答えは父の死「殉職」と同じかもしれない、その答えを知っている人だから自分を殴ったのだろう。
『おまえは犯人に報復されるかもしれんのだぞ?』
上官が静かに怒鳴った「報復」あの本当の意味は?
(to be continued)
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第78話 灯僥act.8-another,side story「陽はまた昇る」
ルームライトのオレンジ色に記憶の自分が泣いてしまう。
いまは師走、けれど夏の終わりと秋の自分が今ここにいる。
卒業式の夜と父の殺害犯と向きあった夜、どちらも哀しくて痛くて、けれど独りじゃない。
あの二夜のまま同じビジネスホテルの一室に座りこんで、そして同じに傍にいる端整な笑顔が訊いた。
「周太、隣に座ってくれないの?」
せっかく二人掛けのソファなのにな?
そんなふう笑いかけてくれる声に鼓動が弾んでしまう、あの声の隣に今も座れたら幸せだ。
けれど今は間近に見られてしまいたくない、その願い顔あげたテーブル越しの笑顔に鼓動また疼く。
―きれい、英二は…やっぱり僕には綺麗にしか見えない、
切長い瞳が自分に笑ってくれる、あの涼やかな静穏は父と似ていて見つめてしまう。
けれど父よりも華やいだ陰翳まばゆく惹かれる、この眼差しは嘘吐きで秘密に真実を隠しこむ。
きっと金曜日にも企みひとつ笑っていた、そんな笑顔は誘惑すら美しくて大人の男で、自分と違い過ぎる。
「ごはん食べるには窮屈でしょ、英二の体大きいから…」
違いに羞んだまま自分の声が応える。
窮屈なのは本当で、向きあう人の体が大きいことも本当、けれど理由はそれじゃない。
―もし隣に座ったら頬を診てしまうよね、英二なら、
今日、自分は上官に殴られた。
あれから2時間程しか経っていない、腫れは冷やして治めては来た。
けれど時間の経過また痣が浮くかもしれない、それでも知られたくない願いに周太は微笑んだ。
「…家でも食事の時は向いあいだし、」
答えながら包み開いて家の時間が懐かしくなる。
曾祖父が作ったクラシカルな家のダイニング、あのテーブルで一緒に食事した最後は3ヶ月ほど前だ。
あのとき英二の祖母もいてくれた、自分の看病のため来てくれていて、だから二人きり食事したのは最後いつだろう?
―葉山の夜が最後だね、5ヶ月も前…アイガーの前で、
この人のために料理を作った幸せは遠くなってしまった。
この人が愛するのは自分だけ、そう信じていた幸せな海を今も憶えて抱いている。
あのとき拾った貝殻は守り袋に入れていつも持ち歩く、けれど5ヶ月に幸せは遠くなった。
『この桜貝、海の底から離れないでここまで来たんだろ?俺たちも離れないで一緒に来たよ、こんなふうに俺たちずっと一緒に離れないでいよう、』
ほら海の約束が笑ってくれる、けれど離れてしまった。
あの夏の終わりに遠い国の雪山で約束は息絶えた、そう解っている。
『約束だよ?俺は何があっても君から離れない。ずっと、永遠にだ、』
本当に離れていないの?
そう訊きたい、だけど今の自分に訊く資格なんて解らない。
だって自分は人を撃ってしまった、傷つけてしまった、そんな自分の手が赦されるなんて想えない。
―ごめんなさい英二、僕は人を殺してはいないけど傷つけたんだ、
『湯原、なぜ射殺しなかった!』
ほら2時間前の怒声また聞えだす、あの言葉に自分は従ってなどいない。
これからも自分は射殺などしない、だって今は父の選択ごと覚悟も勇気も抱いている。
『僕たちが狙撃する任務は死刑の断罪ではありません、現場の救命と逮捕です、』
そう答えた自分の声は現実だ、あの言葉に嘘など欠片も無い。
自分は殺すためではなく「救命」援けるために犯人を撃った、けれど犯人の手も足も二度と動けないかもしれない。
―ごめんなさい、僕はあなたの自由を結局は奪ったかもしれないんだ…あの店のご主人よりも、
ほら、あの店の主が歩く姿が映りこむ。
父を殺害してしまったラーメン屋の主人、あの人も歩く時いつも足すこし引きずる。
あれは安本が狙撃し逮捕した結末で、それでも安本は彼の懲役刑から更生、社会復帰と全てを負ってきた。
あんなふうに自分は犯人を援け続けるなど出来ない、それなのに手足を壊し障害者にして裁きの場に放りこんでしまった。
『SAT隊員が捜査官として司法の執行者であることは死刑執行人でもあるということだ、特に狙撃手なら、』
殴りつけ上官が言った言葉は本当は、優しいのかもしれない。
いっそ殺されてしまう方が楽なのかもしれない、だって生きることは苦しみだって存在する。
それは父の殺害犯が歩く姿にあざやかだ、けれど、あの傷だらけの手には苦しみと同時に喜びもある。
―火傷も包丁の切り傷もあるけど、でも美味しいご飯で笑わせてくれて…だからどうかあなたも生きて、
心ひとり今日のことへ廻ってしまう、あの犯人にも希望ひとつ信じていたい。
この自分の手は確かに彼の自由を奪ってしまった、傷だらけにしてしまった、それでも傷にこそ希望を祈りたい。
こんなふうに祈ることすら父は出来なくて、だからこそ今あの場所から逃げたくない願いは今この向き合う人にも支えられている。
―英二が僕に救急法と弾道実験のファイルをくれたお蔭なんだ、あの人を殺さずに済んだのは、
あのファイルを贈ってくれたのは5月、もう7ヶ月も前だ。
あれから葉山の海でした約束は幸せだった、そしてアイガーの夜に「唯ひとり」の約束は消えた。
それでも自分は唯ひとりしか想えない、こんな時間の経過に泣きたいテーブルに大好きな声が笑ってくれた。
「周太が並べてくれると美味そうになるな、周太の料理が食べたくなる、」
ほら、こんなこと言ってくれるから離れられないのに?
こんな言葉どれも嘘吐いていない、本当に願って言ってくれている。
けれど他の人を見つめてしまった笑顔なのだと解っている、それでも大好きな笑顔に缶ビールさし出した。
「あの…はい、」
「ありがとう周太、」
綺麗な低い声が笑って受けとってくれる、その長い指そっと手にふれる。
ランプまばゆい白い指、けれど強靭で救命に逞しい手は綺麗で、きれいすぎて泣きたくなる。
だって自分の手は現実に人を傷つけてしまった、それでも命は救えた幸せにすこし背を伸ばし微笑んだ。
「はい…あの、いただきます、」
いま口に入れてしまえば黙っていても赦される。
そんな想いすら気恥ずかしくなるのは狙撃した慙愧と、片想いの自覚の所為だ。
かつん、
プルリング引く音が響いて端整な唇が缶くちづける。
引き締まった口許は薄紅あわく華やがす、あの美しい唇に愛された記憶もう数えきれない。
そんな幸せを見つめて首すじ熱く逆上せだす、こんなこと恥ずかしくて困って、けれど今はただ哀しい。
―英二、もう僕は英二に愛される資格なんてないの、それなのに今も光一とのこと責めてるのも本当で…ごめんね英二、
ふたりきり食膳に着くランプの光、そんな時間と空気に7月の幸せが愛おしい。
海で貝殻に約束した幸福は今も抱いている、それでもアイガーの夜に消えて壊れたのだと今もう解かる。
だって自分こそ今日は罪を犯した、それが裁かれない司法の免罪であることが尚更に赦されない罪となって竦ませる。
「周太、今日はのど飴いくつ食べた?」
ほら、大好きな声に呼ばれて鼓動が竦む。
呼ばれて嬉しくて、嬉しい分だけ今日の現実が哀しくなってしまう。
だって目の前のビール持つ手はこんなに綺麗だ、そして愛しいまま周太は微笑んだ。
「ん…ふたつ?」
「俺にもくれる?持ってるんだろ、」
穏やかな笑顔きれいに見つめてくれる、それが嬉しいから居た堪れない。
あの眼差しは自分が今日何をしたか知っているのだろうか?
―英二なら知っているかもしれない、僕が来ない理由を探して、
あのベンチ、待合せ時間に自分は着けなかった。
その理由を英二なら探したろう、その為にも公園から一度は出ていった。
そんなふう想えて視線そっと逸らし立ち上がり、ダッフルコートのポケット入れた手に香やわらいだ。
「…ぁ、」
忘れかけていた、林檎ひとつ持ってきている。
『周、りんごは医者いらずって言うくらい体に良いんだよ…うさぎさんに切ってあげるね?』
幼いころ父はそう言ってよく林檎を剥いてくれた。
そしてこの秋にも看病に来てくれた英二の祖母が林檎すりおろしてくれている。
だから家に置いてあった林檎をコートのポケット入れて持ってきた、自分も食べさせてあげたくて。
「周太、」
呼ばれて振り向こうとして長い腕が背から抱きしめる。
ふわり樹木のような香ほろ苦く頬かすめて抱きこめられてしまう、そして温もり包まれる。
―あったかい英二、だから…もうやめて、
温かい、だから抱きしめないでほしい。
今こんなふう抱きしめられたら叫びたくなる、どうか攫ってと泣いてしまう。
だって今日もう幾度そう願ったろう、このまま連れて行ってほしい本音と14年の願い苛まれる。
「すこし熱っぽいんだろ、周太?先に風呂すませてくれていいよ、楽になるから、」
ほら優しい言葉が抱きしめる、この温もりに甘えて楽になってしまいたい。
それでも自分は責任がある、だって自分はもう一人を巻き込んでしまった。
『班長、責任は湯原の指導係でパートナーである私にあります。同じ処分を私に下さい、』
上官に殴られた自分を庇ってくれた、あのひとを自分は裏切れない。
だって一度も謝れとは言わないでくれた、あの真直ぐ凛とした眼差しは裏切れない。
―僕が選んだ道を裏切りたくない、僕を一度でも好きになったこと英二に後悔してほしくないから、
もう他の人を抱いてしまった人、嘘吐きな人、それでも自分は唯ひとり愛している。
この想いもう変えられないのだろう、きっと最期の瞬間まで結局は愛して名前を呼ぶのだろう。
そんな相手だから今を俯きたくない、もう今が最期かもしれないなら幸せも現実も向きあいたくて周太は微笑んだ。
「ありがとう英二、でも英二こそ先に入って…冷えちゃったでしょ、」
想い微笑んで抱きしめてくれる手に掌そっと重ねてみる。
ふれる長い指の手は大きくて温かい、この手が自分をずっと護ってくれた。
もう他の人を抱いてしまった手、それでも自分を護ってくれた手は真実だと信じていたい。
ずっと自分を護ってくれた、それすらも本当は別の理由かもしれなくて、けれど信じたい願いに笑ってくれた。
「だったら周太、一緒に入ろ?もうずっと一緒に入ってないよ、」
もう、こんなときにまでえっちなこと言わないで?
今こんなに泣きたいの堪えているのに可笑しな日常を笑ってくれる。
こんな人だから自分は惹かれて逢うたび呼吸するたび好きになった、そんな幸せごと羞んだ。
「…いっしょにはいるのはだめです」
「じゃあ周太から入ってよ?そうしないと俺、周太を連れこむの我慢できそうにないよ?」
綺麗な低い声が笑って抱きしめる、こんな台詞いくど実家の風呂場で聴いたろう。
あの幸せだった時間は今もう遠い、それでも懐かしい一室のひと時に肯い微笑んだ。
「ごはん食べたらはいります…だからちょっとはなれて?」
「このまま食べたらいいよ、ね、周太?」
大好きな声が笑って、ふわり体が浮んで抱き上げられる。
こんなふうに軽々と自分を抱いてしまう腕、この逞しい腕に甘えていられた時間が愛おしい。
けれどもう今は離れていく、そんな明日の朝を想いながらソファに下ろされてすぐ身をひるがえした。
「あ、周太?」
呼び止められて、けれど向かいに一人座りこむ。
この殴られた頬を気づかせたくない、だから離れた席すぐ缶ひとつ手にとりプルリング引いた。
かつん、
もう口つけてしまえば無理に抱き上げるなんてしないでしょ?
そんな意図ごと啜りこんだオレンジあまい香とアルコール弾けて、痛んだ。
「ぃっ…、」
殴られた傷にオレンジ沁みて痛い、口のなか切れた傷痕は開いている。
けれど痛いなんて顔したら気づかれる、だからただ綺麗に笑いかけた。
「おいしいね、このお酒…英二が選んでくれたけど、なんていうの?」
オレンジが周太は好きだよな?そう言って選んでくれた香は甘くて痛い。
こんなふうオレンジは傷に沁みるくらい解かっていた、それでも選んでくれたこと嬉しかった相手は幸せに微笑んだ。
「ミモザだよ、前にも飲んだの憶えてる?」
その酒の名前、もう遠くなっていた。
この酒を飲ませてくれたとき意味も教えてくれている、それが嬉しかった。
そして哀しい記憶もある、それでも幸せだった記憶の方が多い酒に笑いかけた。
「ん、憶えてるよ?…けっこんしきのおさけって英二、言ってたね、」
「よかった、周太が憶えてくれていて、」
ほら、また嬉しそうに笑いかけてくれる。
涼やかで陰翳あざやかに華やぐ切長い瞳、あの眼差し喜ばせたくて酒また口つける。
あまくて、傷じくり沁みて痛んで、それでも甘やかな香と笑顔に今ひととき酔って幸せでいたい。
だって笑顔は今が最期かもしれない、この大好きな笑顔は遠い国の山すら登ってしまう人、そして明日からもっと遠くなる。
『謹慎を命じる、明後日の正午ここに出頭しろ、』
謹慎命令まで違反して自分は逢いに来た、だって今が最後かもしれない。
SAT狙撃手でありながら命令背いた処罰は軽くないだろう、そのリスクは除隊処分だけで終わらない。
たぶん警察を去ることになるのが「普通」だろう、その涯には父や祖父と同じ運命を「あの男」観碕は下すだろうか?
―だから英二、この部屋を出たら僕はもう帰れないかもしれないんだ、
祖父はパリ大学で「客死」した、過労の心臓発作だと田嶋教授は言っていた、けれど真相は?
その答えは父の死「殉職」と同じかもしれない、その答えを知っている人だから自分を殴ったのだろう。
『おまえは犯人に報復されるかもしれんのだぞ?』
上官が静かに怒鳴った「報復」あの本当の意味は?
(to be continued)


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