confidential 無言の真実
第78話 灯僥act.11-another,side story「陽はまた昇る」
アイガー Eiger 標高3,970m
ベルナーアルプスの一峰でスイスを代表する山。
北斜面は高さ1,800mの岩壁で、グランドジョラス、マッターホルンと共にアルプスの三大北壁と呼ばれている。
初登攀は1938年、ドイツのアンドレアス・ヘックマイアーとルートヴィッヒ・フェルク、オーストリアのハインリヒ・ハラー、フリッツ・カスパレクが達成。
初登攀で辿った7月21日~24日のルートは高低差1,781m、メンバーの名前から「ヘックマイアー・ルート」と命名された。
ビル名 警視庁本部庁舎
階数 地上18階
高さ 74.3m(最高部高さ83.5m)
竣工 1980年(昭和55年)
パソコンの検索結果2つ見つめた記憶と頭脳の計算は確信を告げた。
だって83.5は1,781の約4.69%で1割も無い、金曜日の日中は凍結も無かった。
それに竣工から30年以上なら壁に経年劣化の窪みもある、そこを素手だけで登降できる男が周太に問いかけた。
「そんなこと訊いて良いのか周太、金曜日は周太が本庁に居たって言ってるのと同じだよ?俺に話していいのか、守秘義務だろ?」
綺麗な低い声が訊いてくれる「守秘義務」は暴露も誘ってしまう。
それくらい自分も解かっている、だからこそ今夜に全て懸けるまま問いかけた。
「僕が話したら英二も話してくれるでしょ、だから…英二、どうして本庁の壁をスーツ姿でクライミングしていたの?」
英二はヘックマイアー・ルートを完登している、それも記録的な短時間だった。
クライミング歴1年でヘックマイアールートを踏破した男、そして素手の登攀技術はボルダリングで磨いている。
普通なら専用シューズを履くところを英二は硬い登山靴のまま登っていた、スピードも速くて警視庁山岳会長も褒めていた。
あれから半年経った今はもっと技術力は上がっているはず、アイガー北壁すら超える実力と度胸には庁舎の壁など問題にならない。
そして「目を逸らした一瞬で消える」ことも可能だ、途中の階の出入りが出来ることを英二ならきっと知っている。
そんな全てを問い質したい、それなのに君はなんてずるいんだろう?
「俺に尋問するために今夜は一緒にいてくれるんだ、周太?」
ほら訊き返すその貌その声さらした肌もなんて君はずるいんだろう、こんなに綺麗で傷だらけだなんて?
白皙なめらかな肌の肩あわい擦過傷はザイル痕、警察学校の山岳訓練で滑落した自分を背負ったザイルが食いこんだ。
濡れた髪かきあげた額の生え際は小さな刺し傷、巡回していた鋸尾根の雪崩まきこまれ転落したときヘルメット割れた痕。
左腕の皮膚かすかな引き攣れは火傷、訓練の奥多摩山中に落雷した樹の発火元に濡れたウィンドブレーカーごと腕突っこんだ。
そして上気した時だけ現れる頬の傷、積雪期富士の救助中に雪崩から飛んだ氷塊が切りつけた。
『最高峰の竜の爪痕だな、俺の御守だよ?』
そう君は笑ってくれた、そんな全ては自分の為でもある。
だって君が山岳救助隊になったのは肩のザイル痕、自分を救けてくれたことが始まりだ。
『山の警察官っているのかな?』
そう訊いてくれた君に山岳救助隊を教えてしまったのは自分、そして君は山の世界を選んだ。
この選択は山への憧憬も大きくて、そのために無数の傷だらけになりアイガーも完登した。
けれど山に生きる根本は自分が植えたのだと本当は自負している、だから止めたい。
だって英二、あなたが山で笑う瞳も顔も大好きだ、だから山だけに生きて?
「本庁の壁でクライミングなんて真面じゃないな、でも周太は見たのか?」
ほら訊いてくる声も瞳も哀しげに自嘲する、こんな貌するのは山じゃない場所の所為だ。
都心の真中コンクリートの壁なんか登るからこんな貌になってしまう、いまビジネスホテルの一室も君に狭すぎる。
もっと広い空の場所、白銀の山に駈けた笑顔あんなに眩かったのに陰翳ばかり昏い貌が哀しい、その痛みに尋ねた。
「英二、僕の見間違いだって言うの?」
「金曜は俺、本庁に居たよ、」
綺麗な低い声で答えてくれる顔は端整なまま美しい。
けれど頬ひとつ薄紅あわい傷うかんでくる、そして傷だらけの素肌を気づかせる。
スラックス履いた脚は隠されて、けれど向きあう上半身の素肌に傷きらめかせながら美しい微笑は続けた。
「山岳警備隊の研修会があったんだ、午後は警視庁のメンバーでミーティングだったよ。吉村先生も救急法の講師でいらしてた、」
きれいな低い声が答えてくれる、これは事実ありのままだろう。
そして「答え」なんて本当は言っていない、だって「居た」だけでクライミングの有無は無視している。
こうして事実のまま隠匿して嘘を吐く、この美しい謀略者を崩したくて尋ねた。
「後藤さんと光一もだよね、後藤さんは山岳救助の技能指導官で警視庁山岳会長、光一は山岳レンジャーの小隊長だし。他は誰がいたの?」
「原さんがいたよ、所轄の山岳救助隊の代表で、」
また事実を答えて綺麗な眼差し微笑んでくれる。
これも嘘じゃない、それでも隠そうとする核心を見つめ尋ねた。
「他には?…所轄も関わるから原さんがいたんでしょう、それなら所轄の上の人は?」
山に生きる君の笑顔が好き、だから全て話して秘密を止めて?
大雪のニュース画面のなか救助活動する君は眩しかった、だから尚更に君の秘密も危険も止めたいと願う。
雪けぶる青い登山ウェアの笑顔はどこまでも明るく綺麗だった、その変わらない笑顔に宝物だと思い知らされたから穢れないで?
あなたの笑顔が護れるのなら自分は孤独で構わない、この唯ひとつの想い綺麗なまま抱かせていてほしい、だからどうか全て話して?
「地域部長の蒔田さんもいらしたよ、周太のお父さんの同期だって言ってた、」
綺麗な低い声がカードひとつ捲ってみせる、その貌は優しい微笑に深い。
この言葉も事実だろう、そして「父の同期」であること曝け出した意図がある。
きっと英二のアリバイの鍵は「蒔田」だ?
「…蒔田さんと英二、親しいの?」
どうか本当のこと話してほしい、そして危険はもう止めて?
そんな願い見つめるソファは狭くて傷痕まばゆい白皙の肌は近い、まだ濡れた髪はランプに雫きらめかす。
林檎ひとつと向き合う上半身裸の肌から石鹸くゆらせて深い森の香ほろ苦い、この香に幸せな夜たちは懐かしい。
その記憶の最初はこの部屋だった、それから見つめ続ける唯ひとりは美しい笑顔で告げた。
「青梅署で何度かお会いしてるよ、奥多摩交番に勤めている時にお父さんと話すこともあったって言ってた、」
ほらまたカード1枚捲ってみせる、こうして核心から逸らすつもり?
そんな意図が見えてしまうから哀しい、そして示された過去に推測が時を遡る。
『奥多摩にも桜は咲くよ、』
そう教えてくれた笑顔は泣いていた、あのときも桜は頭上に満開だった。
あの花に泣いていた男の輪郭あざやかになる、やっぱり自分と話していたのは蒔田徹警視長だ?
―地域部長があのひとなんだ、それならお父さんのことも知って、
蒔田警視長は父を知っている、それなら父の死も探しているかもしれない。
あのとき笑顔は泣いていた、あの涙は真実だと自分は知っている、そして言葉に想ってしまう。
あのひとは父のこと本当に好きだった、そして後悔していた、そう辿らす納得から問いかけた。
「英二、なぜ蒔田さんの執務室からボルダリングする必要があったの?」
父の友人がいる部屋に何の目的があったのか?
そんなこと解かりきっている、きっと「あの男」観碕征治に関わる何かを英二は掴みに行った。
だって蒔田なら観碕も探れる立場にある、ノンキャリアから警察官僚に昇った男の実力ならそれくらい容易い。
そして、そんな男すら操るかもしれない笑顔が今この目の前に座っている。
「蒔田部長の部屋には行ったよ、でも何しに行ったと周太は思うんだ?」
また綺麗な低い声が訊き返す、その眼差し穏やかに深く美しい。
この瞳に見つめられたら誰も信じてしまうだろう、だから確信できるまま答えた。
「お手伝いとか英二はあるよね、そのメンバーなら、」
後藤副隊長、吉村医師、原巡査部長、国村警部補、そして蒔田警視長。
このメンバーでは英二が階級から年次まで一番下になる、それは雑務を引受けると同義だ。
雑務を引受けるなら行動の機会も多い、そうして生まれる「自由」に綺麗な低い声が笑いかけた。
「俺がいちばん下っ端だから?」
「コピー取るとか飲み物を買いにとか…動ける機会たくさんあるよね、英二は、」
想ったまま答えながら願ってしまう、もう正直に話してほしい。
解りきってしまう前にすべて話してほしい、だって話してくれることは信頼なのに?
―だって英二、僕も男なんだよ?自分でなんとかしたいプライドは僕にもあるんだ、
男なら自分の始末くらい自分でしたい、それが誇りだ。
だから父のこと追いかけるのも自分で遂げたい、そう願うのは高望みだろうか?
そんな想いと見つめる真中で父そっくりの眼差しは瞬いて、穏やかな低い声きれいに微笑んだ。
「コピー取りに蒔田さんの部屋に行ったよ、コーヒーも買いに出たけど。俺は普通に廊下を歩いてエレベータに乗ったよ、周太?」
微笑んで答えながら濡れた髪から雫こぼれる。
ダークブラウン艶やかな髪なまめかしい、白皙端整な貌は穏やかに笑っている。
どこまでも華やかで深い美貌は惹きこます、この笑顔は「あの男」観碕も崩すのだろうか?
こんなふう何も答えないで沈黙の嘘吐いて、そして置き去りのまま。
「英二、明日も訓練があるんでしょう?」
微笑んで問いかけた真中で切長い瞳ひとつ瞬かす。
きっと意外な言葉だったろう、そんな不意打ちの貌すぐ綺麗に笑った。
「あるよ、雪山の登攀訓練に行くんだ、」
雪山の君の笑顔、見たいな?
この本音そっと呑みこんで鼓動から軋みだす。
こんな時まで想ってしまうなんて自分は盲目だろう、そして結局は片想いだ。
だって結局この人は自分を信じてくれない、男として対等に認めてくれないから何ひとつ話してくれない。
―でも僕は好きなんだ、英二ばかり見つめて…どうして、
どうして自分はこんなに唯ひとりを想うのだろう?
この人は自分を信じていない、解かってくれない、そして一人危険に駈けていく。
そうして置き去りにされる哀痛なにひとつ解かってくれない、それなのに自分は今日すべて懸けて来てしまった。
だって置き去りにされる哀しみ誰より知っている、だから唯ひとり想う人に同じ苦痛を教えたくなくて黙秘と微笑んだ。
「もう寝ないと…僕も寝るね、」
見つめて微笑んで林檎そっと手を放す。
掴まれた右手するり解けて放される、もう動き妨げるものはない。
そんな想いごとソファ立ち上がりカーディガン脱いで、たたんで椅子に置くとベッドもぐりこんだ。
「…っ、」
ほら、ブランケットの温もりに涙もう零れる。
カットソーの袖ぎゅっと握りしめて瞳つむって、けれど涙あふれてシーツに融ける。
こんなふう自分は泣いてしまう、これは寂しさと悔しさと、それから護りたい唯ひとつの願いだ。
―英二、僕が今日どうして来たのか本当のこと話したら話してくれるの?
謹慎処分を破って今日ここに来てしまった、この事実を告げたら君は真実を話すだろうか?
今ここにいる覚悟を告げたなら君は自分を認めるだろうか、置き去りにされる痛み気づくだろうか。
そんな想いに涙ひとつ零れてシーツ青く染みてゆく、ただ静かに染まってゆく雫の時に物音たち聞えだす。
林檎を置く音、皿を重ねる音、ハンガーにタオル掛ける音。
低く高く、ちいさく大きく、音たち様々に身じろいで大好きな人の気配くゆらせる。
この空気ずっと感じていたい、そんな願いまた呟いた心ため息吐いて、気づいた物音に唇が言った。
「ちゃんとベッドでねたら?」
今ソファをサイドベッドに支度しようとしてたでしょ?
そんな物音に言葉つい出てしまった、だって自分だけベッドで眠るなんて申し訳ない。
『雪山の登攀訓練に行くんだ、』
そう教えてくれたから疲れ残させたくないと願ってしまう。
そして予定たち考えだす、たしか公園の電話で光一に言っていた。
『明日の朝7時には戻ります、』
明日7時に戻ってから訓練に出かけるのなら、たぶん現地一泊はするだろう。
それは雪中のビバークかもしれない、訓練というなら宿泊施設など使わないだろう?
そんな予定を想うとベッド独り占めなど出来ない、それ以上に寄りそいたい願いに足音が来た。
「入るよ、周太?」
綺麗な低い声が告げて衣擦れ近づく、ほらブランケット持ち上げられる。
背中まだ向けたままで貌は見えない、けれど隣に横たわった温もり抱きしめてこないから解かる。
―僕が怒ってると想ってるんだ、だから抱きしめないでいる、
自分がつっけんどんな言い方してしまった、だから距離すこし置いてくれている。
そんな気遣いが今は哀しい、だって今夜が明けたら再会は解らないのに?
「…ん、」
カットソーの袖で頬ぬぐい涙はらう。
かちり、スイッチの音にルームライト暗くなる、これなら泣顔も口許の痣も気づかれない。
だから今このベッドに向きあっても何も見つけられずに済む、その安堵ひとつ溜息くるり隣に向いた。
「…周太、こっち向いてくれるんだ?」
ほら薄闇に大好きな声が呼んでくれる、あわい灯りに笑ってくれる。
この笑顔に逢いたくて今日は来た、だから最後まで見つめていたい傍にいたい。
ほんとうは確かめて止めたかったこと多すぎて、けれど今ひと時の幸せに笑いかけた。
「ん…せっかくいっしょにいるから、ね、」
ああ僕ったらやっぱり話し方から照れてる。
こんなだから男として認めてもらえない、そんな含羞に綺麗な声ほころんだ。
「周太の顔見られるの俺も幸せだよ、周太、」
またそんな口説いてくれるんだから?
だけど今もう抱きしめてくれない、この距離感は遠慮だろうか。
そんなにも自分は隔てる態度してしまった、そんな想い哀しくなるけど安心もする。
だって今夜このままベッドのなか抱きしめられてしまったら?その想像ごと安堵と羞恥に微笑んだ。
「…あの、今日はお昼なに食べたの?」
「五目丼と中華そばだよ、あの店に行ってきたんだ、」
綺麗な低い声が答えてくれる、その言葉は日常が懐かしい。
あの店でいくど自分は食事したろう、その全てに温かだった俤に笑いかけた。
「ん…おやじさん元気だった?」
「元気だよ、周太のこと久しぶりに会いたいって言ってた、今度は一緒に行こうな周太?」
ほら他愛ない約束に笑いかけてくれる。
ふたりベッドひとつ横たわって向きあう暗がり、大好きな笑顔は日常ありふれた約束をくれる。
この約束を今の自分は頷けないと解っている、それでも今だから約束したい、どうかいつか叶えばいい。
「ん、一緒に行こうね英二…僕もおやじさんに逢いたいな、」
明日ここを出たら解らない、だから尚更に約束ひとつ今ほしい。
この大好きな人とあの笑顔に逢いに行く、その約束を今この時だから抱いていたい、杖にしたい。
そうして約束に再会はあるのだと希望を抱けたなら今ここで泣かないで済む、そんな願いごと笑いかけた。
「英二、公園の他はどこか行ったの?」
「花屋も行ったよ、周太が大好きなあの花屋、」
切長い瞳が微笑んで教えてくれる場所また日常だ。
だから気づけてしまう、こんなふうに自分を探し歩いてくれたのだろうか?
そんな相手だから嘘も秘密も何もかも赦してしまいたくなる、そう想える唯ひとり見つめて微笑んだ。
「ん…おはなやさん元気だった?」
「周太に逢いたいって言ってたよ、また二人で来て下さいって伝言だよ、周太?」
「ん、また一緒に行きたいな…ベンチに座って、ラーメン食べてお花屋さんに行って、」
微笑んで見つめて約束を紡ぎあう、そのどれも日常ありふれた場所でいる。
けれど今の自分から遠い場所、それでも他愛ない日常に今夜を満たして幸せでいたい。
いまは明日なんて遠くていい、この願いに他愛ない話で唯ひとり見つめさせていて?
(to be continued)
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第78話 灯僥act.11-another,side story「陽はまた昇る」
アイガー Eiger 標高3,970m
ベルナーアルプスの一峰でスイスを代表する山。
北斜面は高さ1,800mの岩壁で、グランドジョラス、マッターホルンと共にアルプスの三大北壁と呼ばれている。
初登攀は1938年、ドイツのアンドレアス・ヘックマイアーとルートヴィッヒ・フェルク、オーストリアのハインリヒ・ハラー、フリッツ・カスパレクが達成。
初登攀で辿った7月21日~24日のルートは高低差1,781m、メンバーの名前から「ヘックマイアー・ルート」と命名された。
ビル名 警視庁本部庁舎
階数 地上18階
高さ 74.3m(最高部高さ83.5m)
竣工 1980年(昭和55年)
パソコンの検索結果2つ見つめた記憶と頭脳の計算は確信を告げた。
だって83.5は1,781の約4.69%で1割も無い、金曜日の日中は凍結も無かった。
それに竣工から30年以上なら壁に経年劣化の窪みもある、そこを素手だけで登降できる男が周太に問いかけた。
「そんなこと訊いて良いのか周太、金曜日は周太が本庁に居たって言ってるのと同じだよ?俺に話していいのか、守秘義務だろ?」
綺麗な低い声が訊いてくれる「守秘義務」は暴露も誘ってしまう。
それくらい自分も解かっている、だからこそ今夜に全て懸けるまま問いかけた。
「僕が話したら英二も話してくれるでしょ、だから…英二、どうして本庁の壁をスーツ姿でクライミングしていたの?」
英二はヘックマイアー・ルートを完登している、それも記録的な短時間だった。
クライミング歴1年でヘックマイアールートを踏破した男、そして素手の登攀技術はボルダリングで磨いている。
普通なら専用シューズを履くところを英二は硬い登山靴のまま登っていた、スピードも速くて警視庁山岳会長も褒めていた。
あれから半年経った今はもっと技術力は上がっているはず、アイガー北壁すら超える実力と度胸には庁舎の壁など問題にならない。
そして「目を逸らした一瞬で消える」ことも可能だ、途中の階の出入りが出来ることを英二ならきっと知っている。
そんな全てを問い質したい、それなのに君はなんてずるいんだろう?
「俺に尋問するために今夜は一緒にいてくれるんだ、周太?」
ほら訊き返すその貌その声さらした肌もなんて君はずるいんだろう、こんなに綺麗で傷だらけだなんて?
白皙なめらかな肌の肩あわい擦過傷はザイル痕、警察学校の山岳訓練で滑落した自分を背負ったザイルが食いこんだ。
濡れた髪かきあげた額の生え際は小さな刺し傷、巡回していた鋸尾根の雪崩まきこまれ転落したときヘルメット割れた痕。
左腕の皮膚かすかな引き攣れは火傷、訓練の奥多摩山中に落雷した樹の発火元に濡れたウィンドブレーカーごと腕突っこんだ。
そして上気した時だけ現れる頬の傷、積雪期富士の救助中に雪崩から飛んだ氷塊が切りつけた。
『最高峰の竜の爪痕だな、俺の御守だよ?』
そう君は笑ってくれた、そんな全ては自分の為でもある。
だって君が山岳救助隊になったのは肩のザイル痕、自分を救けてくれたことが始まりだ。
『山の警察官っているのかな?』
そう訊いてくれた君に山岳救助隊を教えてしまったのは自分、そして君は山の世界を選んだ。
この選択は山への憧憬も大きくて、そのために無数の傷だらけになりアイガーも完登した。
けれど山に生きる根本は自分が植えたのだと本当は自負している、だから止めたい。
だって英二、あなたが山で笑う瞳も顔も大好きだ、だから山だけに生きて?
「本庁の壁でクライミングなんて真面じゃないな、でも周太は見たのか?」
ほら訊いてくる声も瞳も哀しげに自嘲する、こんな貌するのは山じゃない場所の所為だ。
都心の真中コンクリートの壁なんか登るからこんな貌になってしまう、いまビジネスホテルの一室も君に狭すぎる。
もっと広い空の場所、白銀の山に駈けた笑顔あんなに眩かったのに陰翳ばかり昏い貌が哀しい、その痛みに尋ねた。
「英二、僕の見間違いだって言うの?」
「金曜は俺、本庁に居たよ、」
綺麗な低い声で答えてくれる顔は端整なまま美しい。
けれど頬ひとつ薄紅あわい傷うかんでくる、そして傷だらけの素肌を気づかせる。
スラックス履いた脚は隠されて、けれど向きあう上半身の素肌に傷きらめかせながら美しい微笑は続けた。
「山岳警備隊の研修会があったんだ、午後は警視庁のメンバーでミーティングだったよ。吉村先生も救急法の講師でいらしてた、」
きれいな低い声が答えてくれる、これは事実ありのままだろう。
そして「答え」なんて本当は言っていない、だって「居た」だけでクライミングの有無は無視している。
こうして事実のまま隠匿して嘘を吐く、この美しい謀略者を崩したくて尋ねた。
「後藤さんと光一もだよね、後藤さんは山岳救助の技能指導官で警視庁山岳会長、光一は山岳レンジャーの小隊長だし。他は誰がいたの?」
「原さんがいたよ、所轄の山岳救助隊の代表で、」
また事実を答えて綺麗な眼差し微笑んでくれる。
これも嘘じゃない、それでも隠そうとする核心を見つめ尋ねた。
「他には?…所轄も関わるから原さんがいたんでしょう、それなら所轄の上の人は?」
山に生きる君の笑顔が好き、だから全て話して秘密を止めて?
大雪のニュース画面のなか救助活動する君は眩しかった、だから尚更に君の秘密も危険も止めたいと願う。
雪けぶる青い登山ウェアの笑顔はどこまでも明るく綺麗だった、その変わらない笑顔に宝物だと思い知らされたから穢れないで?
あなたの笑顔が護れるのなら自分は孤独で構わない、この唯ひとつの想い綺麗なまま抱かせていてほしい、だからどうか全て話して?
「地域部長の蒔田さんもいらしたよ、周太のお父さんの同期だって言ってた、」
綺麗な低い声がカードひとつ捲ってみせる、その貌は優しい微笑に深い。
この言葉も事実だろう、そして「父の同期」であること曝け出した意図がある。
きっと英二のアリバイの鍵は「蒔田」だ?
「…蒔田さんと英二、親しいの?」
どうか本当のこと話してほしい、そして危険はもう止めて?
そんな願い見つめるソファは狭くて傷痕まばゆい白皙の肌は近い、まだ濡れた髪はランプに雫きらめかす。
林檎ひとつと向き合う上半身裸の肌から石鹸くゆらせて深い森の香ほろ苦い、この香に幸せな夜たちは懐かしい。
その記憶の最初はこの部屋だった、それから見つめ続ける唯ひとりは美しい笑顔で告げた。
「青梅署で何度かお会いしてるよ、奥多摩交番に勤めている時にお父さんと話すこともあったって言ってた、」
ほらまたカード1枚捲ってみせる、こうして核心から逸らすつもり?
そんな意図が見えてしまうから哀しい、そして示された過去に推測が時を遡る。
『奥多摩にも桜は咲くよ、』
そう教えてくれた笑顔は泣いていた、あのときも桜は頭上に満開だった。
あの花に泣いていた男の輪郭あざやかになる、やっぱり自分と話していたのは蒔田徹警視長だ?
―地域部長があのひとなんだ、それならお父さんのことも知って、
蒔田警視長は父を知っている、それなら父の死も探しているかもしれない。
あのとき笑顔は泣いていた、あの涙は真実だと自分は知っている、そして言葉に想ってしまう。
あのひとは父のこと本当に好きだった、そして後悔していた、そう辿らす納得から問いかけた。
「英二、なぜ蒔田さんの執務室からボルダリングする必要があったの?」
父の友人がいる部屋に何の目的があったのか?
そんなこと解かりきっている、きっと「あの男」観碕征治に関わる何かを英二は掴みに行った。
だって蒔田なら観碕も探れる立場にある、ノンキャリアから警察官僚に昇った男の実力ならそれくらい容易い。
そして、そんな男すら操るかもしれない笑顔が今この目の前に座っている。
「蒔田部長の部屋には行ったよ、でも何しに行ったと周太は思うんだ?」
また綺麗な低い声が訊き返す、その眼差し穏やかに深く美しい。
この瞳に見つめられたら誰も信じてしまうだろう、だから確信できるまま答えた。
「お手伝いとか英二はあるよね、そのメンバーなら、」
後藤副隊長、吉村医師、原巡査部長、国村警部補、そして蒔田警視長。
このメンバーでは英二が階級から年次まで一番下になる、それは雑務を引受けると同義だ。
雑務を引受けるなら行動の機会も多い、そうして生まれる「自由」に綺麗な低い声が笑いかけた。
「俺がいちばん下っ端だから?」
「コピー取るとか飲み物を買いにとか…動ける機会たくさんあるよね、英二は、」
想ったまま答えながら願ってしまう、もう正直に話してほしい。
解りきってしまう前にすべて話してほしい、だって話してくれることは信頼なのに?
―だって英二、僕も男なんだよ?自分でなんとかしたいプライドは僕にもあるんだ、
男なら自分の始末くらい自分でしたい、それが誇りだ。
だから父のこと追いかけるのも自分で遂げたい、そう願うのは高望みだろうか?
そんな想いと見つめる真中で父そっくりの眼差しは瞬いて、穏やかな低い声きれいに微笑んだ。
「コピー取りに蒔田さんの部屋に行ったよ、コーヒーも買いに出たけど。俺は普通に廊下を歩いてエレベータに乗ったよ、周太?」
微笑んで答えながら濡れた髪から雫こぼれる。
ダークブラウン艶やかな髪なまめかしい、白皙端整な貌は穏やかに笑っている。
どこまでも華やかで深い美貌は惹きこます、この笑顔は「あの男」観碕も崩すのだろうか?
こんなふう何も答えないで沈黙の嘘吐いて、そして置き去りのまま。
「英二、明日も訓練があるんでしょう?」
微笑んで問いかけた真中で切長い瞳ひとつ瞬かす。
きっと意外な言葉だったろう、そんな不意打ちの貌すぐ綺麗に笑った。
「あるよ、雪山の登攀訓練に行くんだ、」
雪山の君の笑顔、見たいな?
この本音そっと呑みこんで鼓動から軋みだす。
こんな時まで想ってしまうなんて自分は盲目だろう、そして結局は片想いだ。
だって結局この人は自分を信じてくれない、男として対等に認めてくれないから何ひとつ話してくれない。
―でも僕は好きなんだ、英二ばかり見つめて…どうして、
どうして自分はこんなに唯ひとりを想うのだろう?
この人は自分を信じていない、解かってくれない、そして一人危険に駈けていく。
そうして置き去りにされる哀痛なにひとつ解かってくれない、それなのに自分は今日すべて懸けて来てしまった。
だって置き去りにされる哀しみ誰より知っている、だから唯ひとり想う人に同じ苦痛を教えたくなくて黙秘と微笑んだ。
「もう寝ないと…僕も寝るね、」
見つめて微笑んで林檎そっと手を放す。
掴まれた右手するり解けて放される、もう動き妨げるものはない。
そんな想いごとソファ立ち上がりカーディガン脱いで、たたんで椅子に置くとベッドもぐりこんだ。
「…っ、」
ほら、ブランケットの温もりに涙もう零れる。
カットソーの袖ぎゅっと握りしめて瞳つむって、けれど涙あふれてシーツに融ける。
こんなふう自分は泣いてしまう、これは寂しさと悔しさと、それから護りたい唯ひとつの願いだ。
―英二、僕が今日どうして来たのか本当のこと話したら話してくれるの?
謹慎処分を破って今日ここに来てしまった、この事実を告げたら君は真実を話すだろうか?
今ここにいる覚悟を告げたなら君は自分を認めるだろうか、置き去りにされる痛み気づくだろうか。
そんな想いに涙ひとつ零れてシーツ青く染みてゆく、ただ静かに染まってゆく雫の時に物音たち聞えだす。
林檎を置く音、皿を重ねる音、ハンガーにタオル掛ける音。
低く高く、ちいさく大きく、音たち様々に身じろいで大好きな人の気配くゆらせる。
この空気ずっと感じていたい、そんな願いまた呟いた心ため息吐いて、気づいた物音に唇が言った。
「ちゃんとベッドでねたら?」
今ソファをサイドベッドに支度しようとしてたでしょ?
そんな物音に言葉つい出てしまった、だって自分だけベッドで眠るなんて申し訳ない。
『雪山の登攀訓練に行くんだ、』
そう教えてくれたから疲れ残させたくないと願ってしまう。
そして予定たち考えだす、たしか公園の電話で光一に言っていた。
『明日の朝7時には戻ります、』
明日7時に戻ってから訓練に出かけるのなら、たぶん現地一泊はするだろう。
それは雪中のビバークかもしれない、訓練というなら宿泊施設など使わないだろう?
そんな予定を想うとベッド独り占めなど出来ない、それ以上に寄りそいたい願いに足音が来た。
「入るよ、周太?」
綺麗な低い声が告げて衣擦れ近づく、ほらブランケット持ち上げられる。
背中まだ向けたままで貌は見えない、けれど隣に横たわった温もり抱きしめてこないから解かる。
―僕が怒ってると想ってるんだ、だから抱きしめないでいる、
自分がつっけんどんな言い方してしまった、だから距離すこし置いてくれている。
そんな気遣いが今は哀しい、だって今夜が明けたら再会は解らないのに?
「…ん、」
カットソーの袖で頬ぬぐい涙はらう。
かちり、スイッチの音にルームライト暗くなる、これなら泣顔も口許の痣も気づかれない。
だから今このベッドに向きあっても何も見つけられずに済む、その安堵ひとつ溜息くるり隣に向いた。
「…周太、こっち向いてくれるんだ?」
ほら薄闇に大好きな声が呼んでくれる、あわい灯りに笑ってくれる。
この笑顔に逢いたくて今日は来た、だから最後まで見つめていたい傍にいたい。
ほんとうは確かめて止めたかったこと多すぎて、けれど今ひと時の幸せに笑いかけた。
「ん…せっかくいっしょにいるから、ね、」
ああ僕ったらやっぱり話し方から照れてる。
こんなだから男として認めてもらえない、そんな含羞に綺麗な声ほころんだ。
「周太の顔見られるの俺も幸せだよ、周太、」
またそんな口説いてくれるんだから?
だけど今もう抱きしめてくれない、この距離感は遠慮だろうか。
そんなにも自分は隔てる態度してしまった、そんな想い哀しくなるけど安心もする。
だって今夜このままベッドのなか抱きしめられてしまったら?その想像ごと安堵と羞恥に微笑んだ。
「…あの、今日はお昼なに食べたの?」
「五目丼と中華そばだよ、あの店に行ってきたんだ、」
綺麗な低い声が答えてくれる、その言葉は日常が懐かしい。
あの店でいくど自分は食事したろう、その全てに温かだった俤に笑いかけた。
「ん…おやじさん元気だった?」
「元気だよ、周太のこと久しぶりに会いたいって言ってた、今度は一緒に行こうな周太?」
ほら他愛ない約束に笑いかけてくれる。
ふたりベッドひとつ横たわって向きあう暗がり、大好きな笑顔は日常ありふれた約束をくれる。
この約束を今の自分は頷けないと解っている、それでも今だから約束したい、どうかいつか叶えばいい。
「ん、一緒に行こうね英二…僕もおやじさんに逢いたいな、」
明日ここを出たら解らない、だから尚更に約束ひとつ今ほしい。
この大好きな人とあの笑顔に逢いに行く、その約束を今この時だから抱いていたい、杖にしたい。
そうして約束に再会はあるのだと希望を抱けたなら今ここで泣かないで済む、そんな願いごと笑いかけた。
「英二、公園の他はどこか行ったの?」
「花屋も行ったよ、周太が大好きなあの花屋、」
切長い瞳が微笑んで教えてくれる場所また日常だ。
だから気づけてしまう、こんなふうに自分を探し歩いてくれたのだろうか?
そんな相手だから嘘も秘密も何もかも赦してしまいたくなる、そう想える唯ひとり見つめて微笑んだ。
「ん…おはなやさん元気だった?」
「周太に逢いたいって言ってたよ、また二人で来て下さいって伝言だよ、周太?」
「ん、また一緒に行きたいな…ベンチに座って、ラーメン食べてお花屋さんに行って、」
微笑んで見つめて約束を紡ぎあう、そのどれも日常ありふれた場所でいる。
けれど今の自分から遠い場所、それでも他愛ない日常に今夜を満たして幸せでいたい。
いまは明日なんて遠くていい、この願いに他愛ない話で唯ひとり見つめさせていて?
(to be continued)
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