一夜の境界

黎明の懐、嵐痕 ― another,side story「陽はまた昇る」
今、なんて、宮田は言ったのだろう?
聴いてはいけない事を、非現実的な事を、言われたような気がする。
それなのに、さっきまで泣いていた宮田は、もう、いつものように、周太に笑いかけた。
「お前の隣が好きだ。一緒に居る、穏やかな空気が大好きなんだ」
一体、何を、言っているのだろう。
何を言われているのか、よく分らない。
こんなきれいな笑顔で、宮田は、何を言っているのだろう?
いったい何が起きているのか、解らない。それでも、宮田が話してくれる事は、きちんと受け止めたい。
周太はゆっくり瞬いて、すこし息を呑んだ。右手で左手首を触って、時計は外してあったと思いだした。
頼らずに、自分で受け留め考えなさいと言う事かな。そう思った時、覚悟がすとんと落ちて、心が落ち着いた。
穏やかな空気が、普段通りに流れ始めた。
「警察学校で男同士で。普通じゃない、そんな事は最初に気付いた。
こういう想いが、生き難いことだとも知っている。
けれど、諦める事も出来ない。気持を手放そうとしても、出来なかった。
ただ隣で、湯原の穏やかな空気に触れている。それだけの事かもしれないけれど、俺には得難い居場所なんだ」
周太は静かに聴いている。かすかな月明りが、正面の顔を横から翳す。
正面から見つめる宮田の顔は、いつもよりも大人の男の顔になっていた。
「ご両親を大切にする、湯原が好きだ。
辛い事にも目を背けない、戦う強い湯原が好きだ。
繊細で、不器用なほど優しい湯原が好きだ。
頑固だけれど端正な、真っ直ぐな湯原が、俺は好きだ」
どうしよう、と周太は思った。
どうしてこんなに、きれいな笑顔で宮田は、こんな事を言うのだろう。
「俺はずっと、適当に生きていた。要領良く楽していた。
けれど本当は、誰かの役に立ちたかった。
誰かの為に何かできたら、どうして生きているのかも、分るかもしれない。
けれど、自分だけでは何もできなくて、警察学校に入って自分を追い込んだ」
そんなふうに甘い考えだから最初は脱走したし。宮田が笑うと、かすかに周太も微笑んだ。
こんな時でも、穏やかさが居心地良い。
ダウンライトと月の、やわらかい光の空間で、宮田の想いが言葉にされていく。
「警察学校で、どんなに辛い訓練や現実があっても、湯原が隣で受留めてくれた。
湯原の隣が、俺の居場所だと思った。
けれど、真っ直ぐに生きている湯原を、引き擦り込みたくないと思った。だから伝えないつもりだった。
けれど、安西に拘束された湯原を見て、明日は無いと思い知らされた。
警察官の俺には、明日があるのか分らない。だから、今この時を大切に重ねて、俺は生きたい」
― 明日があるのか分らない。だから、今この時を大切に重ねて、俺は生きたい
本当にそうだと思う。
警察官として生きることを選んでしまったら、明日を見つめる事も出来ない。
「今」この時を見つめて、重ねていくことしかできない。
「湯原の隣で、俺は今を大切にしたい。
湯原の為に何が出来るかを見つけたい。そして少しでも多く、湯原の笑顔を隣で見ていたい」
こんなにきれいな笑顔で、こんなふうに言われたら、身動きなんか、出来ない。
周太の黒目がちの瞳から一滴、涙がこぼれた。
「宮田、」
ぼそりと周太は呟いた。
うん、と小さく返事して、長い指が眦に触れる。涙を拭ってくれる指が、心地良い。
ずっとこのまま触れていて欲しいと、自然に思っている自分がいる。
それでも周太は、言わなくてはならない。声を喉から押し出し、周太は言った。
「俺は、母を、置き去りに出来ない」
悲しそうな声がこぼれ出した。普段の自分の声と全く違う、感情に揺れる声。
自分で自分の声に驚いているのに、宮田は静かに聴いてくれている。
この静かな優しさが好きだと、こんな時なのに思ってしまう。
「父が殉職した時、母とふたりで約束をしたんだ。
これからは2人、助けあって生きよう。
お互い、隠し事をしないと約束しよう。隠し事は、人の間に溝と壁を作ってしまうから。
この約束のお蔭で、俺は母と向き合って、ここまで生きてこられた」
微笑んで、宮田が言った。
「湯原の母さんらしい、良い約束だな」
「…ん、」
頷いて周太は、すこし安心して宮田を見つめた。
かすかな微笑みが、周太の口元に浮かんだ。
「だから、母には宮田との事、隠せない。
警察官の道を選ぶ時、俺は母を泣かせてしまった。もう、泣かせられない。
だから、もし、宮田との事を母が拒絶したら、俺は母を選んでしまう」
周太の、瞳の底が熱くなり、瞳の表に水の膜がうすく張っていく。
それでも宮田の顔を、周太は見つめた。
「だから今、そうなったら、俺は明日すぐに母に話すだろう。
それで拒絶されたら、もう二度と宮田に、逢えなくなる。そうしたら、もう、隣に居られない」
頬伝って一滴、零れて砕けた。
「俺だって、宮田の隣で変われた。笑うことを、少しずつ取り戻せた。
誰かに、理解してもらえる事は嬉しいと、宮田が俺に教えてくれた。
誰かの隣が、居心地良いんだと、俺はお前の隣で、知ったんだ」
涙と一緒に、想いが言葉になって零れてしまう。
涙のなかで、真直ぐ宮田を見つめ、周太は言ってしまった。
「お前の隣が、好きだ。
明日があるか解らないなら、今、俺は、宮田の隣に居たい」
カーテンの隙間から、淡い月の光が射しこんだ。
自分の頬に当たる光が、すこし眩しくて温かかった。
― 俺、湯原の親父さんみたいな警官、目指したい
警官は精神的に削られるだろ。それでも周りの人を忘れない男に、俺もなりたい
お前の親父さん、俺は尊敬する
宮田だけが、父を警察官として男として、素直に見つめて尊敬してくれた。
父に貼られた「殉職」のレッテルを壊してくれた。
そして「殉職者遺族」に苦しんだ、自分と母をも救ってくれた。
気づくといつも、隣で笑ってくれていた。
他人といる事が重荷だった自分に、誰かといる温かさを教えてくれた。
気づくと自分の顔が、微笑んで笑えるようになっていた。
きれいな笑顔が隣に佇んで、人と話す喜びを思い出させてくれた。
宮田が隣に来てくれなかったら、自分は孤独の冷たさに苦しんだだろうと今は解る。
それは父の望む生き方では無いと、今なら解る。
宮田の笑顔にどれだけ、救われてきたのだろう。
6ヶ月間、宮田が逡巡していたリスクを、自分も共に背負いたい。
笑顔と、隣に誰かが居る温かさをくれた、宮田に何かしてやりたかった。
母をまた、泣かせるかもしれない。
それでも、明日があるか分らないなら尚更、今この隣を突放す事なんて、出来ない。
「俺も明日家族に話すよ。俺の場合は、報告であって許可じゃないけれど」
宮田は微笑んで言った。
「明日、湯原の母さんが、どんな結論を出しても、俺は全部受け留める。
湯原の全部を大切に想う、湯原の隣が居心地良くて好きだ。
そういう湯原を育ててくれた人を、悲しませる事は俺には出来ない。俺は湯原の母さん、好きなんだ」
周太は笑った。少し悲しいけれど、心は明るく澄んでいた。
母までも受け留めてくれる、宮田をやっぱり好きだと思った。
切長い目を少し細めて、英二は微笑んだ。
「どんな結論でも、俺はきっと、湯原を大切に想う事は止められない。
隣に居られなくても、何があっても。きっと、もう変えられない。
ただ、湯原には笑っていて欲しい。どんなに遠くに居ても、生きて、幸せでいてくれたら、それでいい」
男女なら子供が生まれ家庭が築ける。けれど男同士では、何を生めると言うのだろう。
まだ何も、解らない。リスクばかりを背負うのかもしれない。
それでも、この隣に居る「今」を、周太は突放す事も、聴かなかった事にも、出来ない。
もう二度と、逢えないかもしれない。だからこそ尚更「今」を諦める事なんて出来ない。
宮田は掌で、周太の頬をつつんだ。長い指でそっと涙を拭いていく。
掌の温もりが、涙ですこし冷えた頬を暖めていく。長めの前髪の下で、周太は、真直ぐ宮田を見つめた。
静かに毀さないように、宮田は呟いた。
「周太、」
初めて呼ばれた名前が、かすかに震える。
名前を呼ばれる事が、気恥ずかしくて、嬉しい。こんな想いは、知らなかった。
額に宮田の掌が当てられ、そっと前髪を掻きあげる。生際の小さな傷を、長い指がかすかに触れた。
「俺が、つけた傷だ」
そっと宮田の唇が、傷痕に触れる。かすかな震えが周太の体を覆い始めた。
扉の角でぶつけた小さな傷。初めてあの公園に行った日の、朝に出来た傷だった。
あの日がなかったら、今、どうなっていたのだろう。
周太の瞳を、宮田が覗き込んでくる。その視線が、胸を射すように熱い。
いまから何が起きるのだろう。
こんな事は慣れていない、初めての事。不安にすこし震える、けれど、決意と温かな想いが指先まで満ちている。
唇を、長いきれいな指がなぞる。震えを打ち消したくて、周太はかすかに唇を結んだ。
軽く目を瞑ると宮田は、唇を重ねた。
重ねられた唇が熱い。
かすかに喘ぐように、周太の唇に震えが生れた。こういうの慣れてない。どうしていいか解らない。
静かに唇が離れていく。周太は、ゆっくり瞳を見開いた。
「…こういうの、俺、慣れて、いないから」
らしくない、たどたどしい物言いが震える。自分の声が、違っている。
何もかもが途惑う、どうしたらいいのだろう。
微笑んで宮田は、また周太の唇を指でなぞる。
「慣れていなくて、良かった。俺が初めてで、良かった」
宮田が初めて。本当にそうだと思う。
こんなに近く隣にいる事も、触れられる事も、全てが周太には「初めて」。
誰かが自分だけを見つめている事が、こんなに嬉しくて、そして怖い。
「他人事だと、思っ、て」
かすかな震えに乱れた言葉が、唇から零れる。
いつものように宮田は笑って、唇を重ねた。やわらかな震えが、宮田の唇に受けとめられる。
ふれる唇のかすかな間で、胸刺すような熱と穏やかな安らぎが、周太にしのびこむ。
明日なんて、解らない。今はただ、居心地の良い隣と、ひとつの時間と感覚を共にしたい。
なにも解らないけれど、与えられた、穏やかな安らぎと切なさを、記憶したい。
もし明日から、二度とこの時間が与えられなくても、記憶だけは刻みつけてしまいたい。
離れなくてはいけないと、解っているから、尚更に「今」が欲しい。
白いシャツの肩を、長い指の掌で包んで、抱き寄せられる。
震えは微かなままで、うまく出来ない呼吸に、周太は途惑う。
首筋が熱い、きっともう赤くなっている。その首筋に、頬寄せられる感触が、なめらかに触れた。
体が、ゆっくりと抱きしめられていく。
喧嘩も弱いくせに、一度も殴り返せなかったくせに。その宮田の腕が、ほどけない。
どうしてなのか解らない。こんなの、ずるい。途惑って混乱して、それでも、穏やかさに周太は抱きしめられていた。
宮田に抱きしめられたまま、静かにベッドへ周太は沈められた。
「きれいだ」
呟いた宮田の唇が、惹きつけれられるように静かに、周太の首筋にふれる。
思わず宮田の両肩を、掌で押し戻そうとするけれど、力が抜かれてしまっている。ただ掌に伝わる熱が、熱い。
ひとの体温がこんなに幸せだと、今までは知らなかった。
白いシャツの胸元に、長い指が掛けられた。鼓動が大きく弾んで、周太の息が一瞬つまった。
長い指は、ボタンをはずして降りて行く。肌に指先がかすかに触れて、周太は怯えた。
「…ぅっ、」
小さな声に、宮田はゆっくりと顔を上げ、周太の瞳を覗き込んだ。
きれいな切長い目が、少し不安そうに揺れた。
きれいな笑顔で笑って欲しい。そのために今、こうされる事を望んでいる。
覚悟が周太を、真直ぐに見つめ返させ、宮田に微笑んだ。穏やかな空気が、重ねた肌の間にやわらかく香った。
切長い目が微笑んだ。繊細で優しくて、静かな、きれいな笑顔だった。
こんな時でも、この隣は繊細で優しい。
この隣が、好きだ。本当に本当に、ずっと、隣に居られたらいい。
唇をふれるように重ねられる。震えが、周太の唇を躊躇わせている。
それでも震えを押して、宮田は深く重ねた。深く重ねた唇が、熱い。
長い指が、白いシャツを絡めとって、肌を淡い光にさらしていく。
逃げたいという想いと、このままずっと隣に居たい想いが、途惑い混乱させる。
穏やかな覚悟と、きれいな笑顔が、周太の身動きを封じこめていく。
肩に、唇をよせられて、長い指の掌で抱き寄せられる。
鍛えて隠した華奢な骨格の体も、孤独にもう戻れない心も、全てが曝け出されてしまう。
父が殉職してから独りで戦ってきた、盾も鎧も外されて、砕かれそうで、怖い。どうなってしまうのだろう。
逃げたい― 怯えが、全身に廻っていく。
「周太は、きれいだ」
頬寄せて、宮田が囁いた。
漲った瞳で見上げると、涙の膜の向こうで、きれいな笑顔が周太を抱きとめた。
ああ、この笑顔が好きだ。思った途端に、全身の強張りが解けた。
優しさに抱きとられていく体に、途惑ったままの瞳が瞬いて、眦から雫がこぼれた。
こんなに優しく抱きとめられたら、どうなるのだろう。
ひとりでも立っていられるのだろうか。
肩に背に腕に、熱い唇が触れていく。刻みつけられる熱さが、怖い。
けれどそれ以上に、求められる幸せが、周太の心を解いてしまう。
きれいな笑顔を大好きだと、素直に思ってしまう自分がいる。
ずっと隣に居たい。その為なら、体まで差し出している自分がいる。
父の無残な遺骸、誓った約束。
華奢な骨格は、射撃の衝撃に耐える事も厳しくて、それでも鍛えた、約束を果たす為の体。
それなのに、この笑顔の為に、迷わず差し出してしまった。
こんなに怖くて、怯えても、痛みがあったとしても。この笑顔の求めに、応えてしまう自分がいる。
沢山のものをくれた、いつも隣にいた優しい、きれいな笑顔。
その笑顔の為になら、今までの全てを壊しても、傷ついても、きっと後悔はしない。
触れられる髪、頬、唇、肌。
優しくて静かで、きれいな笑顔と気配が、熱になって感覚を刻む。
こんな事は慣れていない、途惑いと怯えが混乱させる。けれど周太には、全てがいとしかった。
初めての感覚と時間と感情が、周太を包んで、浚っていく。

シャワーの湯が、あたたかい。
頭からふり注ぐぬくもりに、すこし周太の心がほどけてくる。
目覚めた瞬間に、宮田と目が合った。心が張り詰めて、身動きできなくなりそうだった。
けれど、いつも通りの宮田の笑顔は、やさしかった。
昨夜の事が夢だったのか、現実だったのか。「いつも通り」で、心が揺れて解らなくなる。
節々が鈍く痛む体は、普段と違う違和感が、気怠い。
ふと見た胸元に、赤い痕が刻まれていた。
ああやっぱり現実だったんだ。思った途端に、胸の底が迫りあげた。
淡く赤い痣が、湯気を透かして体中に見える。
裂傷のような哀しみと、穏やかで面映ゆい歓びが、散らされた痣に疼いて、熱い。
いつのまに、こんなに刻まれたのだろう。知らず呟きがこぼれた。
「こんなに、なぜ」
呟いた声が、普段と違っている。自分の声なのになぜ、驚きが周太を打った。
たった一晩で、声も体も変えられてしまった。どうして、何が、自分の身に起きたのだろう。
途惑いが、涙に変わって、頬へ零れ落ちた。
シャワーの水量を強くする。ふりそそぐ温かさの中で、顔を覆って周太は泣いた。
ワイシャツとスラックスを身に着けると、すこし気持が落着いた。
前髪を揚げると、やわらかく濡れて、すぐに額を覆ってしまう。
鏡の中の自分が、昨日と別の表情でこちらを見ている。
前髪がおりた顔は、昔の自分の顔に、すこし似ていた。父が殉職する前の、自分の顔。
これで、いいのかもしれない。
浴室の扉を開くと、あたたかな香が漂った。
パン買ってきた、と宮田が笑いかけてくれる。屈託のない、きれいな笑顔。
ああやっぱり、この笑顔が好きだな。周太はぼんやりと微笑んだ。
宮田が浴室へ行くと、周太は携帯電話を取り出した。
発信履歴を久しぶりに開けて、家にコールする。しばらくして、母の穏やかな声が迎えてくれた。
「お母さん?俺。…うん。大丈夫だよ。
今から、こっちに来られる?…うん。わかった。
そう、あの公園に一緒に行こうよ。…じゃあ、門の前で」
短く済ませると、閉じて携帯をポケットに入れた。
今日この後、母に話さなくてはならない。
ふと見ると、冷蔵庫の上に、備付けのドリップ・コーヒーがあった。
一緒に置かれたマグカップに、袋を開けてセットする。
電気ポットの湯を、ゆっくり注いでいく。
湯が香ばしい薫りに変わって、カップの底へ落ちていく音が静かな部屋に響く。
ふいに目の底が熱くなった。
自分も宮田を通して、変わってしまった。コーヒーを見ただけで、そんな事を考える自分がいる。
変えられてしまうほど、自分は宮田の隣を求めてしまったのか。
―あと数時間後には離れてしまうのに、なぜ、
今更気づいても、どうしていいのか分らない。

コーヒーに、味がしない。
買ってきてくれたパンも、なんだかよく解らない。
本当に、どうしてしまったのだろう。
マグカップを抱えたまま、ぼんやりと隣を眺めてしまう。
気怠さが、体と心を捕まえて離さないままでいる。
こんな事には、慣れていない。
昨夜のような事は、周太には初めての事だった。
クラスメイトの会話など聞いて、おぼろげに知ってはいたけれど、興味も大して無かった。
そんな事よりも、頭を使う用事が他に沢山ありすぎた。
進路と勉強、射撃の訓練、家事の手伝い。どれも忙しくて、他人に構う余裕が無かった。
嫌だった訳では無い。この隣に座る、きれいな笑顔が喜ぶのなら、何でもしてやりたかった。
たくさんの物を周太にくれた、宮田の笑顔が好きだと、素直に認められる。
本当は、隣で見ていたいと、ずっと思っていた自分がいる。
昨夜は、それを思い知らされた。もうすぐに離れなくてはならない、今更になって。この現実に、心が軋みそうになる。
ぼんやり眺めている視線の先で、宮田のきれいな口元が微笑んだ。
「そんなに見つめる位、俺、かっこいいかな」
「…ん、」
生返事を返しかけて、周太は我に返った。
ふざけるな。と視線で答えて見返すと、宮田は首を傾げて、きれいに笑った。
その笑顔が、こころに沁みるように、好きだと思った。
切なくて、苦しい。それでも、周太は素っ気なく言った。
「宮田、ほんとに馬鹿なんだな」
「まあね、馬鹿ですけど」
笑って宮田はコーヒーを啜っている。
こんなに、きれいな笑顔をしているのに。なぜ、俺の隣なんか選んだのだろう。
もっともっと、普通に幸せになれるのに。もっと似合う相手がたくさん居るのだろうに。
選ばなくて良い選択肢を、選ばせてしまったと、きれいな笑顔に罪悪感を感じてしまう。
それでも本当は、この隣に、周太は居たかった。
「ほんと、ばかだ」
呟いて、涙がこぼれた。心と体が触れた数の分だけ、軋んで痛い。
もうすぐ、離れなくてはならない。
それなのに、声も体も変えられてしまった。
こんなふうに変えられたまま、独りにされたら、どうしていいのか解らない。
眦に雫が浮かび上がる。あふれあがる涙は、頬伝って顎で零れ、おちて砕ける。
こんなに泣いたら困らせると、思うほど止まらなくなる。
こんなふうに泣いたのは、父が殉職したあの夜が最後だった。
独りで居たのに、宮田の隣が居心地良い事を知ってしまった。
知ってしまったら、もう、今さら独りには、きっと戻れない。
それでも自分は、母の選択肢に従うだろう。
父を失った母を、ひとり置き去りになど出来る筈がない。
母を泣かせてまで選んだ、父の無残な遺骸に誓った生き方を、今更変える事は出来ない。
頬をあたたかさが包んだ。宮田が目の前で見つめていた。
驚いて、涙が一瞬止まった。ゆっくり瞬くと、あふれる熱さは治まっていく。
周太は微笑んで言えた。
「あの公園で、母と待ち合わせするから」
普段通りに、落着いて声が出せた。
外泊日の度に、いつも座っていた公園。
ただ座って、本を読んでいただけ。けれど隣でいつも、宮田が笑っていた。
それだけの場所だけれど、周太には大切な居場所だった。
母は何と言うのだろう。
哀しませたくはない、けれど偽る事はもっとできない。
穏やかで聡明な母の、心に任せるしかないと解っていても。
今この隣に佇む、きれいで優しい笑顔に、未練が残ってしまう。
もし隣に居られないなら、それで終わる。
痛みと記憶を抱いたまま、時折それを眺めても、普通に警察官として生きていく。
けれどもし、隣に居ることが許されるのなら。普通ではない生き方を、選ぶ事になる。それは容易い道ではないだろう。
それでも、選んでいいのなら、この隣を居場所にしたい。
愚かだと嗤う人も多いだろう。けれど、他人に心開く事が難しい自分には、この居場所は得難くて、手放せない。
不意に喉の渇きを感じた。口の中にコーヒーの香りが戻ってくる。
泣いて、すこし落着いたのかもしれない。
「コーヒー淹れてくる」
ぼそっと言いながら、少し笑って、周太は立ち上がった。
部屋に光が差し込んで、白い壁が淡くオレンジ色に彩られていく。
あたたかな湯気が、香ばしく立ち昇って、視界をすこし揺らして消えた。
無言でいても、ゆるやかな空気が寛いで、いつものように穏やかで温かい。
明日があるのか解らない。この一瞬後も解らない。
ならば今この時を、大切に過ごしていたい。
宮田の隣に居るのは、これで最後かもしれない。
だから尚更に、今この一時を見つめていたいと、周太は思った。
マグカップをとる手の、捲った袖の影に、赤い痕が腕にのぞいた。
いつか、この痕は消えてしまうのだろう。
けれど記憶までは、消してしまう事は、きっと出来ない。心なら、尚更に。
もうじきこの新宿での勤務が始まる。
今居るこの場所を、通る事もあるだろう。
あの公園、一緒に行ったラーメン屋、書店。どこも通るかもしれない。
そのたびに、切なさは蘇られさせて、辛いだろう。
それでも何も知らないでいるより、今の方がずっといい。


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※後半R18(露骨な表現は有りませんが念の為)

黎明の懐、嵐痕 ― another,side story「陽はまた昇る」
今、なんて、宮田は言ったのだろう?
聴いてはいけない事を、非現実的な事を、言われたような気がする。
それなのに、さっきまで泣いていた宮田は、もう、いつものように、周太に笑いかけた。
「お前の隣が好きだ。一緒に居る、穏やかな空気が大好きなんだ」
一体、何を、言っているのだろう。
何を言われているのか、よく分らない。
こんなきれいな笑顔で、宮田は、何を言っているのだろう?
いったい何が起きているのか、解らない。それでも、宮田が話してくれる事は、きちんと受け止めたい。
周太はゆっくり瞬いて、すこし息を呑んだ。右手で左手首を触って、時計は外してあったと思いだした。
頼らずに、自分で受け留め考えなさいと言う事かな。そう思った時、覚悟がすとんと落ちて、心が落ち着いた。
穏やかな空気が、普段通りに流れ始めた。
「警察学校で男同士で。普通じゃない、そんな事は最初に気付いた。
こういう想いが、生き難いことだとも知っている。
けれど、諦める事も出来ない。気持を手放そうとしても、出来なかった。
ただ隣で、湯原の穏やかな空気に触れている。それだけの事かもしれないけれど、俺には得難い居場所なんだ」
周太は静かに聴いている。かすかな月明りが、正面の顔を横から翳す。
正面から見つめる宮田の顔は、いつもよりも大人の男の顔になっていた。
「ご両親を大切にする、湯原が好きだ。
辛い事にも目を背けない、戦う強い湯原が好きだ。
繊細で、不器用なほど優しい湯原が好きだ。
頑固だけれど端正な、真っ直ぐな湯原が、俺は好きだ」
どうしよう、と周太は思った。
どうしてこんなに、きれいな笑顔で宮田は、こんな事を言うのだろう。
「俺はずっと、適当に生きていた。要領良く楽していた。
けれど本当は、誰かの役に立ちたかった。
誰かの為に何かできたら、どうして生きているのかも、分るかもしれない。
けれど、自分だけでは何もできなくて、警察学校に入って自分を追い込んだ」
そんなふうに甘い考えだから最初は脱走したし。宮田が笑うと、かすかに周太も微笑んだ。
こんな時でも、穏やかさが居心地良い。
ダウンライトと月の、やわらかい光の空間で、宮田の想いが言葉にされていく。
「警察学校で、どんなに辛い訓練や現実があっても、湯原が隣で受留めてくれた。
湯原の隣が、俺の居場所だと思った。
けれど、真っ直ぐに生きている湯原を、引き擦り込みたくないと思った。だから伝えないつもりだった。
けれど、安西に拘束された湯原を見て、明日は無いと思い知らされた。
警察官の俺には、明日があるのか分らない。だから、今この時を大切に重ねて、俺は生きたい」
― 明日があるのか分らない。だから、今この時を大切に重ねて、俺は生きたい
本当にそうだと思う。
警察官として生きることを選んでしまったら、明日を見つめる事も出来ない。
「今」この時を見つめて、重ねていくことしかできない。
「湯原の隣で、俺は今を大切にしたい。
湯原の為に何が出来るかを見つけたい。そして少しでも多く、湯原の笑顔を隣で見ていたい」
こんなにきれいな笑顔で、こんなふうに言われたら、身動きなんか、出来ない。
周太の黒目がちの瞳から一滴、涙がこぼれた。
「宮田、」
ぼそりと周太は呟いた。
うん、と小さく返事して、長い指が眦に触れる。涙を拭ってくれる指が、心地良い。
ずっとこのまま触れていて欲しいと、自然に思っている自分がいる。
それでも周太は、言わなくてはならない。声を喉から押し出し、周太は言った。
「俺は、母を、置き去りに出来ない」
悲しそうな声がこぼれ出した。普段の自分の声と全く違う、感情に揺れる声。
自分で自分の声に驚いているのに、宮田は静かに聴いてくれている。
この静かな優しさが好きだと、こんな時なのに思ってしまう。
「父が殉職した時、母とふたりで約束をしたんだ。
これからは2人、助けあって生きよう。
お互い、隠し事をしないと約束しよう。隠し事は、人の間に溝と壁を作ってしまうから。
この約束のお蔭で、俺は母と向き合って、ここまで生きてこられた」
微笑んで、宮田が言った。
「湯原の母さんらしい、良い約束だな」
「…ん、」
頷いて周太は、すこし安心して宮田を見つめた。
かすかな微笑みが、周太の口元に浮かんだ。
「だから、母には宮田との事、隠せない。
警察官の道を選ぶ時、俺は母を泣かせてしまった。もう、泣かせられない。
だから、もし、宮田との事を母が拒絶したら、俺は母を選んでしまう」
周太の、瞳の底が熱くなり、瞳の表に水の膜がうすく張っていく。
それでも宮田の顔を、周太は見つめた。
「だから今、そうなったら、俺は明日すぐに母に話すだろう。
それで拒絶されたら、もう二度と宮田に、逢えなくなる。そうしたら、もう、隣に居られない」
頬伝って一滴、零れて砕けた。
「俺だって、宮田の隣で変われた。笑うことを、少しずつ取り戻せた。
誰かに、理解してもらえる事は嬉しいと、宮田が俺に教えてくれた。
誰かの隣が、居心地良いんだと、俺はお前の隣で、知ったんだ」
涙と一緒に、想いが言葉になって零れてしまう。
涙のなかで、真直ぐ宮田を見つめ、周太は言ってしまった。
「お前の隣が、好きだ。
明日があるか解らないなら、今、俺は、宮田の隣に居たい」
カーテンの隙間から、淡い月の光が射しこんだ。
自分の頬に当たる光が、すこし眩しくて温かかった。
― 俺、湯原の親父さんみたいな警官、目指したい
警官は精神的に削られるだろ。それでも周りの人を忘れない男に、俺もなりたい
お前の親父さん、俺は尊敬する
宮田だけが、父を警察官として男として、素直に見つめて尊敬してくれた。
父に貼られた「殉職」のレッテルを壊してくれた。
そして「殉職者遺族」に苦しんだ、自分と母をも救ってくれた。
気づくといつも、隣で笑ってくれていた。
他人といる事が重荷だった自分に、誰かといる温かさを教えてくれた。
気づくと自分の顔が、微笑んで笑えるようになっていた。
きれいな笑顔が隣に佇んで、人と話す喜びを思い出させてくれた。
宮田が隣に来てくれなかったら、自分は孤独の冷たさに苦しんだだろうと今は解る。
それは父の望む生き方では無いと、今なら解る。
宮田の笑顔にどれだけ、救われてきたのだろう。
6ヶ月間、宮田が逡巡していたリスクを、自分も共に背負いたい。
笑顔と、隣に誰かが居る温かさをくれた、宮田に何かしてやりたかった。
母をまた、泣かせるかもしれない。
それでも、明日があるか分らないなら尚更、今この隣を突放す事なんて、出来ない。
「俺も明日家族に話すよ。俺の場合は、報告であって許可じゃないけれど」
宮田は微笑んで言った。
「明日、湯原の母さんが、どんな結論を出しても、俺は全部受け留める。
湯原の全部を大切に想う、湯原の隣が居心地良くて好きだ。
そういう湯原を育ててくれた人を、悲しませる事は俺には出来ない。俺は湯原の母さん、好きなんだ」
周太は笑った。少し悲しいけれど、心は明るく澄んでいた。
母までも受け留めてくれる、宮田をやっぱり好きだと思った。
切長い目を少し細めて、英二は微笑んだ。
「どんな結論でも、俺はきっと、湯原を大切に想う事は止められない。
隣に居られなくても、何があっても。きっと、もう変えられない。
ただ、湯原には笑っていて欲しい。どんなに遠くに居ても、生きて、幸せでいてくれたら、それでいい」
男女なら子供が生まれ家庭が築ける。けれど男同士では、何を生めると言うのだろう。
まだ何も、解らない。リスクばかりを背負うのかもしれない。
それでも、この隣に居る「今」を、周太は突放す事も、聴かなかった事にも、出来ない。
もう二度と、逢えないかもしれない。だからこそ尚更「今」を諦める事なんて出来ない。
宮田は掌で、周太の頬をつつんだ。長い指でそっと涙を拭いていく。
掌の温もりが、涙ですこし冷えた頬を暖めていく。長めの前髪の下で、周太は、真直ぐ宮田を見つめた。
静かに毀さないように、宮田は呟いた。
「周太、」
初めて呼ばれた名前が、かすかに震える。
名前を呼ばれる事が、気恥ずかしくて、嬉しい。こんな想いは、知らなかった。
額に宮田の掌が当てられ、そっと前髪を掻きあげる。生際の小さな傷を、長い指がかすかに触れた。
「俺が、つけた傷だ」
そっと宮田の唇が、傷痕に触れる。かすかな震えが周太の体を覆い始めた。
扉の角でぶつけた小さな傷。初めてあの公園に行った日の、朝に出来た傷だった。
あの日がなかったら、今、どうなっていたのだろう。
周太の瞳を、宮田が覗き込んでくる。その視線が、胸を射すように熱い。
いまから何が起きるのだろう。
こんな事は慣れていない、初めての事。不安にすこし震える、けれど、決意と温かな想いが指先まで満ちている。
唇を、長いきれいな指がなぞる。震えを打ち消したくて、周太はかすかに唇を結んだ。
軽く目を瞑ると宮田は、唇を重ねた。
重ねられた唇が熱い。
かすかに喘ぐように、周太の唇に震えが生れた。こういうの慣れてない。どうしていいか解らない。
静かに唇が離れていく。周太は、ゆっくり瞳を見開いた。
「…こういうの、俺、慣れて、いないから」
らしくない、たどたどしい物言いが震える。自分の声が、違っている。
何もかもが途惑う、どうしたらいいのだろう。
微笑んで宮田は、また周太の唇を指でなぞる。
「慣れていなくて、良かった。俺が初めてで、良かった」
宮田が初めて。本当にそうだと思う。
こんなに近く隣にいる事も、触れられる事も、全てが周太には「初めて」。
誰かが自分だけを見つめている事が、こんなに嬉しくて、そして怖い。
「他人事だと、思っ、て」
かすかな震えに乱れた言葉が、唇から零れる。
いつものように宮田は笑って、唇を重ねた。やわらかな震えが、宮田の唇に受けとめられる。
ふれる唇のかすかな間で、胸刺すような熱と穏やかな安らぎが、周太にしのびこむ。
明日なんて、解らない。今はただ、居心地の良い隣と、ひとつの時間と感覚を共にしたい。
なにも解らないけれど、与えられた、穏やかな安らぎと切なさを、記憶したい。
もし明日から、二度とこの時間が与えられなくても、記憶だけは刻みつけてしまいたい。
離れなくてはいけないと、解っているから、尚更に「今」が欲しい。
白いシャツの肩を、長い指の掌で包んで、抱き寄せられる。
震えは微かなままで、うまく出来ない呼吸に、周太は途惑う。
首筋が熱い、きっともう赤くなっている。その首筋に、頬寄せられる感触が、なめらかに触れた。
体が、ゆっくりと抱きしめられていく。
喧嘩も弱いくせに、一度も殴り返せなかったくせに。その宮田の腕が、ほどけない。
どうしてなのか解らない。こんなの、ずるい。途惑って混乱して、それでも、穏やかさに周太は抱きしめられていた。
宮田に抱きしめられたまま、静かにベッドへ周太は沈められた。
「きれいだ」
呟いた宮田の唇が、惹きつけれられるように静かに、周太の首筋にふれる。
思わず宮田の両肩を、掌で押し戻そうとするけれど、力が抜かれてしまっている。ただ掌に伝わる熱が、熱い。
ひとの体温がこんなに幸せだと、今までは知らなかった。
白いシャツの胸元に、長い指が掛けられた。鼓動が大きく弾んで、周太の息が一瞬つまった。
長い指は、ボタンをはずして降りて行く。肌に指先がかすかに触れて、周太は怯えた。
「…ぅっ、」
小さな声に、宮田はゆっくりと顔を上げ、周太の瞳を覗き込んだ。
きれいな切長い目が、少し不安そうに揺れた。
きれいな笑顔で笑って欲しい。そのために今、こうされる事を望んでいる。
覚悟が周太を、真直ぐに見つめ返させ、宮田に微笑んだ。穏やかな空気が、重ねた肌の間にやわらかく香った。
切長い目が微笑んだ。繊細で優しくて、静かな、きれいな笑顔だった。
こんな時でも、この隣は繊細で優しい。
この隣が、好きだ。本当に本当に、ずっと、隣に居られたらいい。
唇をふれるように重ねられる。震えが、周太の唇を躊躇わせている。
それでも震えを押して、宮田は深く重ねた。深く重ねた唇が、熱い。
長い指が、白いシャツを絡めとって、肌を淡い光にさらしていく。
逃げたいという想いと、このままずっと隣に居たい想いが、途惑い混乱させる。
穏やかな覚悟と、きれいな笑顔が、周太の身動きを封じこめていく。
肩に、唇をよせられて、長い指の掌で抱き寄せられる。
鍛えて隠した華奢な骨格の体も、孤独にもう戻れない心も、全てが曝け出されてしまう。
父が殉職してから独りで戦ってきた、盾も鎧も外されて、砕かれそうで、怖い。どうなってしまうのだろう。
逃げたい― 怯えが、全身に廻っていく。
「周太は、きれいだ」
頬寄せて、宮田が囁いた。
漲った瞳で見上げると、涙の膜の向こうで、きれいな笑顔が周太を抱きとめた。
ああ、この笑顔が好きだ。思った途端に、全身の強張りが解けた。
優しさに抱きとられていく体に、途惑ったままの瞳が瞬いて、眦から雫がこぼれた。
こんなに優しく抱きとめられたら、どうなるのだろう。
ひとりでも立っていられるのだろうか。
肩に背に腕に、熱い唇が触れていく。刻みつけられる熱さが、怖い。
けれどそれ以上に、求められる幸せが、周太の心を解いてしまう。
きれいな笑顔を大好きだと、素直に思ってしまう自分がいる。
ずっと隣に居たい。その為なら、体まで差し出している自分がいる。
父の無残な遺骸、誓った約束。
華奢な骨格は、射撃の衝撃に耐える事も厳しくて、それでも鍛えた、約束を果たす為の体。
それなのに、この笑顔の為に、迷わず差し出してしまった。
こんなに怖くて、怯えても、痛みがあったとしても。この笑顔の求めに、応えてしまう自分がいる。
沢山のものをくれた、いつも隣にいた優しい、きれいな笑顔。
その笑顔の為になら、今までの全てを壊しても、傷ついても、きっと後悔はしない。
触れられる髪、頬、唇、肌。
優しくて静かで、きれいな笑顔と気配が、熱になって感覚を刻む。
こんな事は慣れていない、途惑いと怯えが混乱させる。けれど周太には、全てがいとしかった。
初めての感覚と時間と感情が、周太を包んで、浚っていく。

シャワーの湯が、あたたかい。
頭からふり注ぐぬくもりに、すこし周太の心がほどけてくる。
目覚めた瞬間に、宮田と目が合った。心が張り詰めて、身動きできなくなりそうだった。
けれど、いつも通りの宮田の笑顔は、やさしかった。
昨夜の事が夢だったのか、現実だったのか。「いつも通り」で、心が揺れて解らなくなる。
節々が鈍く痛む体は、普段と違う違和感が、気怠い。
ふと見た胸元に、赤い痕が刻まれていた。
ああやっぱり現実だったんだ。思った途端に、胸の底が迫りあげた。
淡く赤い痣が、湯気を透かして体中に見える。
裂傷のような哀しみと、穏やかで面映ゆい歓びが、散らされた痣に疼いて、熱い。
いつのまに、こんなに刻まれたのだろう。知らず呟きがこぼれた。
「こんなに、なぜ」
呟いた声が、普段と違っている。自分の声なのになぜ、驚きが周太を打った。
たった一晩で、声も体も変えられてしまった。どうして、何が、自分の身に起きたのだろう。
途惑いが、涙に変わって、頬へ零れ落ちた。
シャワーの水量を強くする。ふりそそぐ温かさの中で、顔を覆って周太は泣いた。
ワイシャツとスラックスを身に着けると、すこし気持が落着いた。
前髪を揚げると、やわらかく濡れて、すぐに額を覆ってしまう。
鏡の中の自分が、昨日と別の表情でこちらを見ている。
前髪がおりた顔は、昔の自分の顔に、すこし似ていた。父が殉職する前の、自分の顔。
これで、いいのかもしれない。
浴室の扉を開くと、あたたかな香が漂った。
パン買ってきた、と宮田が笑いかけてくれる。屈託のない、きれいな笑顔。
ああやっぱり、この笑顔が好きだな。周太はぼんやりと微笑んだ。
宮田が浴室へ行くと、周太は携帯電話を取り出した。
発信履歴を久しぶりに開けて、家にコールする。しばらくして、母の穏やかな声が迎えてくれた。
「お母さん?俺。…うん。大丈夫だよ。
今から、こっちに来られる?…うん。わかった。
そう、あの公園に一緒に行こうよ。…じゃあ、門の前で」
短く済ませると、閉じて携帯をポケットに入れた。
今日この後、母に話さなくてはならない。
ふと見ると、冷蔵庫の上に、備付けのドリップ・コーヒーがあった。
一緒に置かれたマグカップに、袋を開けてセットする。
電気ポットの湯を、ゆっくり注いでいく。
湯が香ばしい薫りに変わって、カップの底へ落ちていく音が静かな部屋に響く。
ふいに目の底が熱くなった。
自分も宮田を通して、変わってしまった。コーヒーを見ただけで、そんな事を考える自分がいる。
変えられてしまうほど、自分は宮田の隣を求めてしまったのか。
―あと数時間後には離れてしまうのに、なぜ、
今更気づいても、どうしていいのか分らない。

コーヒーに、味がしない。
買ってきてくれたパンも、なんだかよく解らない。
本当に、どうしてしまったのだろう。
マグカップを抱えたまま、ぼんやりと隣を眺めてしまう。
気怠さが、体と心を捕まえて離さないままでいる。
こんな事には、慣れていない。
昨夜のような事は、周太には初めての事だった。
クラスメイトの会話など聞いて、おぼろげに知ってはいたけれど、興味も大して無かった。
そんな事よりも、頭を使う用事が他に沢山ありすぎた。
進路と勉強、射撃の訓練、家事の手伝い。どれも忙しくて、他人に構う余裕が無かった。
嫌だった訳では無い。この隣に座る、きれいな笑顔が喜ぶのなら、何でもしてやりたかった。
たくさんの物を周太にくれた、宮田の笑顔が好きだと、素直に認められる。
本当は、隣で見ていたいと、ずっと思っていた自分がいる。
昨夜は、それを思い知らされた。もうすぐに離れなくてはならない、今更になって。この現実に、心が軋みそうになる。
ぼんやり眺めている視線の先で、宮田のきれいな口元が微笑んだ。
「そんなに見つめる位、俺、かっこいいかな」
「…ん、」
生返事を返しかけて、周太は我に返った。
ふざけるな。と視線で答えて見返すと、宮田は首を傾げて、きれいに笑った。
その笑顔が、こころに沁みるように、好きだと思った。
切なくて、苦しい。それでも、周太は素っ気なく言った。
「宮田、ほんとに馬鹿なんだな」
「まあね、馬鹿ですけど」
笑って宮田はコーヒーを啜っている。
こんなに、きれいな笑顔をしているのに。なぜ、俺の隣なんか選んだのだろう。
もっともっと、普通に幸せになれるのに。もっと似合う相手がたくさん居るのだろうに。
選ばなくて良い選択肢を、選ばせてしまったと、きれいな笑顔に罪悪感を感じてしまう。
それでも本当は、この隣に、周太は居たかった。
「ほんと、ばかだ」
呟いて、涙がこぼれた。心と体が触れた数の分だけ、軋んで痛い。
もうすぐ、離れなくてはならない。
それなのに、声も体も変えられてしまった。
こんなふうに変えられたまま、独りにされたら、どうしていいのか解らない。
眦に雫が浮かび上がる。あふれあがる涙は、頬伝って顎で零れ、おちて砕ける。
こんなに泣いたら困らせると、思うほど止まらなくなる。
こんなふうに泣いたのは、父が殉職したあの夜が最後だった。
独りで居たのに、宮田の隣が居心地良い事を知ってしまった。
知ってしまったら、もう、今さら独りには、きっと戻れない。
それでも自分は、母の選択肢に従うだろう。
父を失った母を、ひとり置き去りになど出来る筈がない。
母を泣かせてまで選んだ、父の無残な遺骸に誓った生き方を、今更変える事は出来ない。
頬をあたたかさが包んだ。宮田が目の前で見つめていた。
驚いて、涙が一瞬止まった。ゆっくり瞬くと、あふれる熱さは治まっていく。
周太は微笑んで言えた。
「あの公園で、母と待ち合わせするから」
普段通りに、落着いて声が出せた。
外泊日の度に、いつも座っていた公園。
ただ座って、本を読んでいただけ。けれど隣でいつも、宮田が笑っていた。
それだけの場所だけれど、周太には大切な居場所だった。
母は何と言うのだろう。
哀しませたくはない、けれど偽る事はもっとできない。
穏やかで聡明な母の、心に任せるしかないと解っていても。
今この隣に佇む、きれいで優しい笑顔に、未練が残ってしまう。
もし隣に居られないなら、それで終わる。
痛みと記憶を抱いたまま、時折それを眺めても、普通に警察官として生きていく。
けれどもし、隣に居ることが許されるのなら。普通ではない生き方を、選ぶ事になる。それは容易い道ではないだろう。
それでも、選んでいいのなら、この隣を居場所にしたい。
愚かだと嗤う人も多いだろう。けれど、他人に心開く事が難しい自分には、この居場所は得難くて、手放せない。
不意に喉の渇きを感じた。口の中にコーヒーの香りが戻ってくる。
泣いて、すこし落着いたのかもしれない。
「コーヒー淹れてくる」
ぼそっと言いながら、少し笑って、周太は立ち上がった。
部屋に光が差し込んで、白い壁が淡くオレンジ色に彩られていく。
あたたかな湯気が、香ばしく立ち昇って、視界をすこし揺らして消えた。
無言でいても、ゆるやかな空気が寛いで、いつものように穏やかで温かい。
明日があるのか解らない。この一瞬後も解らない。
ならば今この時を、大切に過ごしていたい。
宮田の隣に居るのは、これで最後かもしれない。
だから尚更に、今この一時を見つめていたいと、周太は思った。
マグカップをとる手の、捲った袖の影に、赤い痕が腕にのぞいた。
いつか、この痕は消えてしまうのだろう。
けれど記憶までは、消してしまう事は、きっと出来ない。心なら、尚更に。
もうじきこの新宿での勤務が始まる。
今居るこの場所を、通る事もあるだろう。
あの公園、一緒に行ったラーメン屋、書店。どこも通るかもしれない。
そのたびに、切なさは蘇られさせて、辛いだろう。
それでも何も知らないでいるより、今の方がずっといい。



