萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

黎明の懐、嵐痕 ― another,side story「陽はまた昇る」

2011-09-23 17:40:38 | 陽はまた昇るanother,side story
一夜の境界
※後半R18(露骨な表現は有りませんが念の為)



黎明の懐、嵐痕 ― another,side story「陽はまた昇る」

今、なんて、宮田は言ったのだろう?

聴いてはいけない事を、非現実的な事を、言われたような気がする。
それなのに、さっきまで泣いていた宮田は、もう、いつものように、周太に笑いかけた。

「お前の隣が好きだ。一緒に居る、穏やかな空気が大好きなんだ」

一体、何を、言っているのだろう。
何を言われているのか、よく分らない。
こんなきれいな笑顔で、宮田は、何を言っているのだろう?

いったい何が起きているのか、解らない。それでも、宮田が話してくれる事は、きちんと受け止めたい。
周太はゆっくり瞬いて、すこし息を呑んだ。右手で左手首を触って、時計は外してあったと思いだした。
頼らずに、自分で受け留め考えなさいと言う事かな。そう思った時、覚悟がすとんと落ちて、心が落ち着いた。
穏やかな空気が、普段通りに流れ始めた。

「警察学校で男同士で。普通じゃない、そんな事は最初に気付いた。
 こういう想いが、生き難いことだとも知っている。
 けれど、諦める事も出来ない。気持を手放そうとしても、出来なかった。
 ただ隣で、湯原の穏やかな空気に触れている。それだけの事かもしれないけれど、俺には得難い居場所なんだ」

周太は静かに聴いている。かすかな月明りが、正面の顔を横から翳す。
正面から見つめる宮田の顔は、いつもよりも大人の男の顔になっていた。

「ご両親を大切にする、湯原が好きだ。
 辛い事にも目を背けない、戦う強い湯原が好きだ。
 繊細で、不器用なほど優しい湯原が好きだ。
 頑固だけれど端正な、真っ直ぐな湯原が、俺は好きだ」

どうしよう、と周太は思った。
どうしてこんなに、きれいな笑顔で宮田は、こんな事を言うのだろう。

「俺はずっと、適当に生きていた。要領良く楽していた。
 けれど本当は、誰かの役に立ちたかった。
 誰かの為に何かできたら、どうして生きているのかも、分るかもしれない。
 けれど、自分だけでは何もできなくて、警察学校に入って自分を追い込んだ」

そんなふうに甘い考えだから最初は脱走したし。宮田が笑うと、かすかに周太も微笑んだ。
こんな時でも、穏やかさが居心地良い。
ダウンライトと月の、やわらかい光の空間で、宮田の想いが言葉にされていく。
 
「警察学校で、どんなに辛い訓練や現実があっても、湯原が隣で受留めてくれた。
 湯原の隣が、俺の居場所だと思った。
 けれど、真っ直ぐに生きている湯原を、引き擦り込みたくないと思った。だから伝えないつもりだった。
 けれど、安西に拘束された湯原を見て、明日は無いと思い知らされた。
 警察官の俺には、明日があるのか分らない。だから、今この時を大切に重ねて、俺は生きたい」

― 明日があるのか分らない。だから、今この時を大切に重ねて、俺は生きたい

本当にそうだと思う。
警察官として生きることを選んでしまったら、明日を見つめる事も出来ない。
「今」この時を見つめて、重ねていくことしかできない。

「湯原の隣で、俺は今を大切にしたい。
 湯原の為に何が出来るかを見つけたい。そして少しでも多く、湯原の笑顔を隣で見ていたい」

こんなにきれいな笑顔で、こんなふうに言われたら、身動きなんか、出来ない。
周太の黒目がちの瞳から一滴、涙がこぼれた。

「宮田、」

ぼそりと周太は呟いた。
うん、と小さく返事して、長い指が眦に触れる。涙を拭ってくれる指が、心地良い。
ずっとこのまま触れていて欲しいと、自然に思っている自分がいる。
それでも周太は、言わなくてはならない。声を喉から押し出し、周太は言った。

「俺は、母を、置き去りに出来ない」

悲しそうな声がこぼれ出した。普段の自分の声と全く違う、感情に揺れる声。
自分で自分の声に驚いているのに、宮田は静かに聴いてくれている。
この静かな優しさが好きだと、こんな時なのに思ってしまう。

「父が殉職した時、母とふたりで約束をしたんだ。
 これからは2人、助けあって生きよう。
 お互い、隠し事をしないと約束しよう。隠し事は、人の間に溝と壁を作ってしまうから。
 この約束のお蔭で、俺は母と向き合って、ここまで生きてこられた」

微笑んで、宮田が言った。

「湯原の母さんらしい、良い約束だな」
「…ん、」

頷いて周太は、すこし安心して宮田を見つめた。
かすかな微笑みが、周太の口元に浮かんだ。

「だから、母には宮田との事、隠せない。
 警察官の道を選ぶ時、俺は母を泣かせてしまった。もう、泣かせられない。
 だから、もし、宮田との事を母が拒絶したら、俺は母を選んでしまう」

周太の、瞳の底が熱くなり、瞳の表に水の膜がうすく張っていく。
それでも宮田の顔を、周太は見つめた。

「だから今、そうなったら、俺は明日すぐに母に話すだろう。
 それで拒絶されたら、もう二度と宮田に、逢えなくなる。そうしたら、もう、隣に居られない」
  
頬伝って一滴、零れて砕けた。

「俺だって、宮田の隣で変われた。笑うことを、少しずつ取り戻せた。
 誰かに、理解してもらえる事は嬉しいと、宮田が俺に教えてくれた。
 誰かの隣が、居心地良いんだと、俺はお前の隣で、知ったんだ」

涙と一緒に、想いが言葉になって零れてしまう。
涙のなかで、真直ぐ宮田を見つめ、周太は言ってしまった。

「お前の隣が、好きだ。
 明日があるか解らないなら、今、俺は、宮田の隣に居たい」

カーテンの隙間から、淡い月の光が射しこんだ。
自分の頬に当たる光が、すこし眩しくて温かかった。

― 俺、湯原の親父さんみたいな警官、目指したい
  警官は精神的に削られるだろ。それでも周りの人を忘れない男に、俺もなりたい
  お前の親父さん、俺は尊敬する

宮田だけが、父を警察官として男として、素直に見つめて尊敬してくれた。
父に貼られた「殉職」のレッテルを壊してくれた。
そして「殉職者遺族」に苦しんだ、自分と母をも救ってくれた。

気づくといつも、隣で笑ってくれていた。
他人といる事が重荷だった自分に、誰かといる温かさを教えてくれた。
気づくと自分の顔が、微笑んで笑えるようになっていた。
きれいな笑顔が隣に佇んで、人と話す喜びを思い出させてくれた。

宮田が隣に来てくれなかったら、自分は孤独の冷たさに苦しんだだろうと今は解る。
それは父の望む生き方では無いと、今なら解る。

宮田の笑顔にどれだけ、救われてきたのだろう。

6ヶ月間、宮田が逡巡していたリスクを、自分も共に背負いたい。
笑顔と、隣に誰かが居る温かさをくれた、宮田に何かしてやりたかった。

母をまた、泣かせるかもしれない。
それでも、明日があるか分らないなら尚更、今この隣を突放す事なんて、出来ない。

「俺も明日家族に話すよ。俺の場合は、報告であって許可じゃないけれど」

宮田は微笑んで言った。

「明日、湯原の母さんが、どんな結論を出しても、俺は全部受け留める。
 湯原の全部を大切に想う、湯原の隣が居心地良くて好きだ。
 そういう湯原を育ててくれた人を、悲しませる事は俺には出来ない。俺は湯原の母さん、好きなんだ」

周太は笑った。少し悲しいけれど、心は明るく澄んでいた。
母までも受け留めてくれる、宮田をやっぱり好きだと思った。
切長い目を少し細めて、英二は微笑んだ。

「どんな結論でも、俺はきっと、湯原を大切に想う事は止められない。
 隣に居られなくても、何があっても。きっと、もう変えられない。
 ただ、湯原には笑っていて欲しい。どんなに遠くに居ても、生きて、幸せでいてくれたら、それでいい」

男女なら子供が生まれ家庭が築ける。けれど男同士では、何を生めると言うのだろう。
まだ何も、解らない。リスクばかりを背負うのかもしれない。
それでも、この隣に居る「今」を、周太は突放す事も、聴かなかった事にも、出来ない。
もう二度と、逢えないかもしれない。だからこそ尚更「今」を諦める事なんて出来ない。

宮田は掌で、周太の頬をつつんだ。長い指でそっと涙を拭いていく。
掌の温もりが、涙ですこし冷えた頬を暖めていく。長めの前髪の下で、周太は、真直ぐ宮田を見つめた。
静かに毀さないように、宮田は呟いた。

「周太、」

初めて呼ばれた名前が、かすかに震える。
名前を呼ばれる事が、気恥ずかしくて、嬉しい。こんな想いは、知らなかった。
額に宮田の掌が当てられ、そっと前髪を掻きあげる。生際の小さな傷を、長い指がかすかに触れた。

「俺が、つけた傷だ」

そっと宮田の唇が、傷痕に触れる。かすかな震えが周太の体を覆い始めた。
扉の角でぶつけた小さな傷。初めてあの公園に行った日の、朝に出来た傷だった。
あの日がなかったら、今、どうなっていたのだろう。

周太の瞳を、宮田が覗き込んでくる。その視線が、胸を射すように熱い。
いまから何が起きるのだろう。
こんな事は慣れていない、初めての事。不安にすこし震える、けれど、決意と温かな想いが指先まで満ちている。

唇を、長いきれいな指がなぞる。震えを打ち消したくて、周太はかすかに唇を結んだ。
軽く目を瞑ると宮田は、唇を重ねた。

重ねられた唇が熱い。
かすかに喘ぐように、周太の唇に震えが生れた。こういうの慣れてない。どうしていいか解らない。
静かに唇が離れていく。周太は、ゆっくり瞳を見開いた。

「…こういうの、俺、慣れて、いないから」

らしくない、たどたどしい物言いが震える。自分の声が、違っている。
何もかもが途惑う、どうしたらいいのだろう。
微笑んで宮田は、また周太の唇を指でなぞる。

「慣れていなくて、良かった。俺が初めてで、良かった」

宮田が初めて。本当にそうだと思う。
こんなに近く隣にいる事も、触れられる事も、全てが周太には「初めて」。
誰かが自分だけを見つめている事が、こんなに嬉しくて、そして怖い。

「他人事だと、思っ、て」

かすかな震えに乱れた言葉が、唇から零れる。
いつものように宮田は笑って、唇を重ねた。やわらかな震えが、宮田の唇に受けとめられる。
ふれる唇のかすかな間で、胸刺すような熱と穏やかな安らぎが、周太にしのびこむ。

明日なんて、解らない。今はただ、居心地の良い隣と、ひとつの時間と感覚を共にしたい。
なにも解らないけれど、与えられた、穏やかな安らぎと切なさを、記憶したい。
もし明日から、二度とこの時間が与えられなくても、記憶だけは刻みつけてしまいたい。
離れなくてはいけないと、解っているから、尚更に「今」が欲しい。

白いシャツの肩を、長い指の掌で包んで、抱き寄せられる。
震えは微かなままで、うまく出来ない呼吸に、周太は途惑う。
首筋が熱い、きっともう赤くなっている。その首筋に、頬寄せられる感触が、なめらかに触れた。
体が、ゆっくりと抱きしめられていく。

喧嘩も弱いくせに、一度も殴り返せなかったくせに。その宮田の腕が、ほどけない。
どうしてなのか解らない。こんなの、ずるい。途惑って混乱して、それでも、穏やかさに周太は抱きしめられていた。
宮田に抱きしめられたまま、静かにベッドへ周太は沈められた。

「きれいだ」

呟いた宮田の唇が、惹きつけれられるように静かに、周太の首筋にふれる。
思わず宮田の両肩を、掌で押し戻そうとするけれど、力が抜かれてしまっている。ただ掌に伝わる熱が、熱い。
ひとの体温がこんなに幸せだと、今までは知らなかった。

白いシャツの胸元に、長い指が掛けられた。鼓動が大きく弾んで、周太の息が一瞬つまった。
長い指は、ボタンをはずして降りて行く。肌に指先がかすかに触れて、周太は怯えた。

「…ぅっ、」

小さな声に、宮田はゆっくりと顔を上げ、周太の瞳を覗き込んだ。
きれいな切長い目が、少し不安そうに揺れた。

きれいな笑顔で笑って欲しい。そのために今、こうされる事を望んでいる。
覚悟が周太を、真直ぐに見つめ返させ、宮田に微笑んだ。穏やかな空気が、重ねた肌の間にやわらかく香った。
切長い目が微笑んだ。繊細で優しくて、静かな、きれいな笑顔だった。
こんな時でも、この隣は繊細で優しい。

この隣が、好きだ。本当に本当に、ずっと、隣に居られたらいい。

唇をふれるように重ねられる。震えが、周太の唇を躊躇わせている。
それでも震えを押して、宮田は深く重ねた。深く重ねた唇が、熱い。
長い指が、白いシャツを絡めとって、肌を淡い光にさらしていく。

逃げたいという想いと、このままずっと隣に居たい想いが、途惑い混乱させる。
穏やかな覚悟と、きれいな笑顔が、周太の身動きを封じこめていく。

肩に、唇をよせられて、長い指の掌で抱き寄せられる。
鍛えて隠した華奢な骨格の体も、孤独にもう戻れない心も、全てが曝け出されてしまう。
父が殉職してから独りで戦ってきた、盾も鎧も外されて、砕かれそうで、怖い。どうなってしまうのだろう。
逃げたい― 怯えが、全身に廻っていく。

「周太は、きれいだ」

頬寄せて、宮田が囁いた。
漲った瞳で見上げると、涙の膜の向こうで、きれいな笑顔が周太を抱きとめた。
ああ、この笑顔が好きだ。思った途端に、全身の強張りが解けた。
優しさに抱きとられていく体に、途惑ったままの瞳が瞬いて、眦から雫がこぼれた。

こんなに優しく抱きとめられたら、どうなるのだろう。
ひとりでも立っていられるのだろうか。

肩に背に腕に、熱い唇が触れていく。刻みつけられる熱さが、怖い。
けれどそれ以上に、求められる幸せが、周太の心を解いてしまう。
きれいな笑顔を大好きだと、素直に思ってしまう自分がいる。
ずっと隣に居たい。その為なら、体まで差し出している自分がいる。

父の無残な遺骸、誓った約束。
華奢な骨格は、射撃の衝撃に耐える事も厳しくて、それでも鍛えた、約束を果たす為の体。
それなのに、この笑顔の為に、迷わず差し出してしまった。

こんなに怖くて、怯えても、痛みがあったとしても。この笑顔の求めに、応えてしまう自分がいる。
沢山のものをくれた、いつも隣にいた優しい、きれいな笑顔。
その笑顔の為になら、今までの全てを壊しても、傷ついても、きっと後悔はしない。

触れられる髪、頬、唇、肌。
優しくて静かで、きれいな笑顔と気配が、熱になって感覚を刻む。
こんな事は慣れていない、途惑いと怯えが混乱させる。けれど周太には、全てがいとしかった。
初めての感覚と時間と感情が、周太を包んで、浚っていく。



シャワーの湯が、あたたかい。
頭からふり注ぐぬくもりに、すこし周太の心がほどけてくる。
目覚めた瞬間に、宮田と目が合った。心が張り詰めて、身動きできなくなりそうだった。
けれど、いつも通りの宮田の笑顔は、やさしかった。

昨夜の事が夢だったのか、現実だったのか。「いつも通り」で、心が揺れて解らなくなる。
節々が鈍く痛む体は、普段と違う違和感が、気怠い。
ふと見た胸元に、赤い痕が刻まれていた。
ああやっぱり現実だったんだ。思った途端に、胸の底が迫りあげた。

淡く赤い痣が、湯気を透かして体中に見える。
裂傷のような哀しみと、穏やかで面映ゆい歓びが、散らされた痣に疼いて、熱い。
いつのまに、こんなに刻まれたのだろう。知らず呟きがこぼれた。

「こんなに、なぜ」

呟いた声が、普段と違っている。自分の声なのになぜ、驚きが周太を打った。
たった一晩で、声も体も変えられてしまった。どうして、何が、自分の身に起きたのだろう。
途惑いが、涙に変わって、頬へ零れ落ちた。
シャワーの水量を強くする。ふりそそぐ温かさの中で、顔を覆って周太は泣いた。


ワイシャツとスラックスを身に着けると、すこし気持が落着いた。
前髪を揚げると、やわらかく濡れて、すぐに額を覆ってしまう。
鏡の中の自分が、昨日と別の表情でこちらを見ている。
前髪がおりた顔は、昔の自分の顔に、すこし似ていた。父が殉職する前の、自分の顔。
これで、いいのかもしれない。

浴室の扉を開くと、あたたかな香が漂った。
パン買ってきた、と宮田が笑いかけてくれる。屈託のない、きれいな笑顔。
ああやっぱり、この笑顔が好きだな。周太はぼんやりと微笑んだ。

宮田が浴室へ行くと、周太は携帯電話を取り出した。
発信履歴を久しぶりに開けて、家にコールする。しばらくして、母の穏やかな声が迎えてくれた。

「お母さん?俺。…うん。大丈夫だよ。
 今から、こっちに来られる?…うん。わかった。
 そう、あの公園に一緒に行こうよ。…じゃあ、門の前で」

短く済ませると、閉じて携帯をポケットに入れた。
今日この後、母に話さなくてはならない。

ふと見ると、冷蔵庫の上に、備付けのドリップ・コーヒーがあった。
一緒に置かれたマグカップに、袋を開けてセットする。
電気ポットの湯を、ゆっくり注いでいく。
湯が香ばしい薫りに変わって、カップの底へ落ちていく音が静かな部屋に響く。

ふいに目の底が熱くなった。
自分も宮田を通して、変わってしまった。コーヒーを見ただけで、そんな事を考える自分がいる。
変えられてしまうほど、自分は宮田の隣を求めてしまったのか。

―あと数時間後には離れてしまうのに、なぜ、

今更気づいても、どうしていいのか分らない。



コーヒーに、味がしない。
買ってきてくれたパンも、なんだかよく解らない。
本当に、どうしてしまったのだろう。

マグカップを抱えたまま、ぼんやりと隣を眺めてしまう。
気怠さが、体と心を捕まえて離さないままでいる。
こんな事には、慣れていない。

昨夜のような事は、周太には初めての事だった。
クラスメイトの会話など聞いて、おぼろげに知ってはいたけれど、興味も大して無かった。
そんな事よりも、頭を使う用事が他に沢山ありすぎた。
進路と勉強、射撃の訓練、家事の手伝い。どれも忙しくて、他人に構う余裕が無かった。

嫌だった訳では無い。この隣に座る、きれいな笑顔が喜ぶのなら、何でもしてやりたかった。
たくさんの物を周太にくれた、宮田の笑顔が好きだと、素直に認められる。
本当は、隣で見ていたいと、ずっと思っていた自分がいる。
昨夜は、それを思い知らされた。もうすぐに離れなくてはならない、今更になって。この現実に、心が軋みそうになる。

ぼんやり眺めている視線の先で、宮田のきれいな口元が微笑んだ。

「そんなに見つめる位、俺、かっこいいかな」
「…ん、」

生返事を返しかけて、周太は我に返った。
ふざけるな。と視線で答えて見返すと、宮田は首を傾げて、きれいに笑った。
その笑顔が、こころに沁みるように、好きだと思った。
切なくて、苦しい。それでも、周太は素っ気なく言った。

「宮田、ほんとに馬鹿なんだな」
「まあね、馬鹿ですけど」

笑って宮田はコーヒーを啜っている。
こんなに、きれいな笑顔をしているのに。なぜ、俺の隣なんか選んだのだろう。
もっともっと、普通に幸せになれるのに。もっと似合う相手がたくさん居るのだろうに。
選ばなくて良い選択肢を、選ばせてしまったと、きれいな笑顔に罪悪感を感じてしまう。
それでも本当は、この隣に、周太は居たかった。

「ほんと、ばかだ」

呟いて、涙がこぼれた。心と体が触れた数の分だけ、軋んで痛い。
もうすぐ、離れなくてはならない。
それなのに、声も体も変えられてしまった。
こんなふうに変えられたまま、独りにされたら、どうしていいのか解らない。

眦に雫が浮かび上がる。あふれあがる涙は、頬伝って顎で零れ、おちて砕ける。
こんなに泣いたら困らせると、思うほど止まらなくなる。
こんなふうに泣いたのは、父が殉職したあの夜が最後だった。

独りで居たのに、宮田の隣が居心地良い事を知ってしまった。
知ってしまったら、もう、今さら独りには、きっと戻れない。

それでも自分は、母の選択肢に従うだろう。
父を失った母を、ひとり置き去りになど出来る筈がない。
母を泣かせてまで選んだ、父の無残な遺骸に誓った生き方を、今更変える事は出来ない。

頬をあたたかさが包んだ。宮田が目の前で見つめていた。
驚いて、涙が一瞬止まった。ゆっくり瞬くと、あふれる熱さは治まっていく。
周太は微笑んで言えた。

「あの公園で、母と待ち合わせするから」

普段通りに、落着いて声が出せた。

外泊日の度に、いつも座っていた公園。
ただ座って、本を読んでいただけ。けれど隣でいつも、宮田が笑っていた。
それだけの場所だけれど、周太には大切な居場所だった。

母は何と言うのだろう。
哀しませたくはない、けれど偽る事はもっとできない。
穏やかで聡明な母の、心に任せるしかないと解っていても。
今この隣に佇む、きれいで優しい笑顔に、未練が残ってしまう。

もし隣に居られないなら、それで終わる。
痛みと記憶を抱いたまま、時折それを眺めても、普通に警察官として生きていく。
けれどもし、隣に居ることが許されるのなら。普通ではない生き方を、選ぶ事になる。それは容易い道ではないだろう。
それでも、選んでいいのなら、この隣を居場所にしたい。
愚かだと嗤う人も多いだろう。けれど、他人に心開く事が難しい自分には、この居場所は得難くて、手放せない。

不意に喉の渇きを感じた。口の中にコーヒーの香りが戻ってくる。
泣いて、すこし落着いたのかもしれない。

「コーヒー淹れてくる」

ぼそっと言いながら、少し笑って、周太は立ち上がった。
部屋に光が差し込んで、白い壁が淡くオレンジ色に彩られていく。
あたたかな湯気が、香ばしく立ち昇って、視界をすこし揺らして消えた。
無言でいても、ゆるやかな空気が寛いで、いつものように穏やかで温かい。

明日があるのか解らない。この一瞬後も解らない。
ならば今この時を、大切に過ごしていたい。
宮田の隣に居るのは、これで最後かもしれない。
だから尚更に、今この一時を見つめていたいと、周太は思った。

マグカップをとる手の、捲った袖の影に、赤い痕が腕にのぞいた。
いつか、この痕は消えてしまうのだろう。
けれど記憶までは、消してしまう事は、きっと出来ない。心なら、尚更に。

もうじきこの新宿での勤務が始まる。
今居るこの場所を、通る事もあるだろう。
あの公園、一緒に行ったラーメン屋、書店。どこも通るかもしれない。
そのたびに、切なさは蘇られさせて、辛いだろう。
それでも何も知らないでいるより、今の方がずっといい。





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黎明の懐、蒼嵐 ― another,side story「陽はまた昇る」

2011-09-23 02:08:17 | 陽はまた昇るanother,side story
いつもの終わりとはじまり



黎明の懐、蒼嵐 ― another,side story「陽はまた昇る」

卒業式は、青空の下だった。
携帯に、アドレスと電話番号が教場全員分、記憶された。こういうのは嬉しいと、素直に思えた。
頑なだった自分が、この6ヶ月間で変わった。父が殉職する前の、あたたかさが少し、今は思い出せる。
6ヶ月間、ずっと隣にいた笑顔は、今日も隣を歩いている。

「昼、何食いたい?」
「ん、ラーメン」

またかよと、宮田がいつものように笑う。
どの店に行こうかと、いつものように隣で、端正な顔が考えている。
いつもは宮田に任せているけれど、今日は周太は、自分で選びたかった。

「最初に行った店がいい」

ぼそりと周太は言った。
きれいな切長い目が、少し驚いたように瞠かれ、すぐに笑った。

久しぶりに入った店は、温かい湯気が迎えてくれる。
スーツ姿が多い店内は、前に来た時と同じ空気で、寛いでいた。

「卒業式、無事に終わって良かったな」
「ん、」

本当にそう思う。
教場の全員が、自分の誇りと警察官の誇りを掛けていた。校長や教官、学生達は受け留めてくれた。
警視総監は、まあ、あんなものかもしれない。
そういう警察内部での率直な感想は、こういう公共の場では話せない。
けれど宮田はたぶん、率直な感想も、言わなくても解っている。

「湯原さ、なんで新宿、選んだ?」
「家から近いし、馴れているだろ」

少しぼかしながら、話をする。他愛ない会話が楽しい。
宮田だと、なぜか自然と話す事が出来る。

父の殉職から、自分は人が変わってしまった事を、周太は自覚している。
周囲の好奇と憐憫が、大嫌いだった。父本人を見ようとしない「殉職」ばかりが一人歩きした。
父は「殉職」の為に生きたのではないと、怒鳴ってやりたかった。父の人生を、否定されたと思った。

― 俺、湯原の親父さんみたいな警官、目指したい
  警官は精神的に削られるだろ。それでも周りの人を忘れない男に、俺もなりたい
  お前の親父さん、俺は尊敬する

けれど宮田が、父を真直ぐ見てくれた。
普通の家庭で健やかに育った、宮田の素直な笑顔。人を真直ぐに見る、素直な心。
宮田の素直な笑顔が、父を、周太と母を、救ってくれた。

ラーメン啜る端正な口元を、なんとなく周太は眺めた。
この口が開いてくれた、たくさんの言葉。周太を何度、救ってくれただろう。
単純で子供っぽくて、訳わからない事も言うけれど。それでも宮田が隣に居る事が、好きだ。

けれどもうじき、この隣とも離れなくてはならない。
自分はこの新宿に着任する。けれど宮田は、山村の駐在所を希望した。

―俺は、さみしがりだから。新宿とか渋谷とか賑やかなところがいいって思っていたけど。
 実力からいうと、田舎の小さい交番で、一からやるのもいいかなって
 意外とまじめに考えているんだな
 ほめてくれんの?
 ん、まあ、感心したよ。実力がないのを自覚しているなんて

校内警邏の当直室で、話した通りに、宮田は田舎の小さな駐在所へ行く。
あの時もつい、混ぜっ返してしまったけれど。あんなふうに話してもらえて、本当は嬉しかった。
他人が傍に居ると寛げない周太が、なぜか宮田が隣に居ても、楽だ。
宮田が笑顔で隣に居ると、自然と笑っている自分が、不思議だった。
少しずつ笑顔が増える周太に、教場の皆が話しかけてくれるようになっていた。

もし宮田が隣に居なかったら、警察学校での6ヶ月間は、こんなに充実して楽しかったとは思えない。
大学までと同じように、能力を尊敬されても、友人にはなってくれなかっただろう。
それでも構わないと、前は思っていた。
けれど今は、宮田が隣に居る事を、居心地良く感じている。

「湯原さ、ここの味、気に入ってるんだ?自分から店を選ぶなんて、初めてだろ」

俺もここ好きなんだけど。
ラーメンを啜りながら、宮田が笑いかけた。
確かに気に入ってはいる。けれど、ここに来たかったのは、それだけの理由とは違う。
けれどそれを言うのは、気恥ずかしい。周太は短く「まあね」と答えた。



いつものように公園に来て、いつものベンチに座って本を読む。
木々の葉摺れが陽光を揺らしさしかかる。緑が囲むこの場所で、ゆっくりページを捲るのが周太は好きだった。
捲るページの白が、光の明滅でモノトーンに瞬いた。眩しさに瞳を細めて周太は顔を上げた。

「あらすじの続き、教えてよ」

振り返ると、宮田が笑いかけていた。木洩日がゆらめく緑の光の中で、きれいな笑顔が咲いている。
この笑顔が好きだなと思いながらも、周太の口調は素っ気なかった。

「自分で読めばいいだろ」

宮田はいつも、邪魔をしないタイミングで声を掛ける。今も、顔を上げた時、自然に声を掛けてくれた。
こういう気遣いが、宮田は優しい。少し微笑んで周太は、本を膝に置いた。

「いいじゃん。湯原が怪我した外泊日にさ、途中のままだろ」

重ねて宮田は、強請ってくる。きっと、今日訊かなかったら続きが聴けるか分らないと、解って言っている。
警察官は、危険に身を晒す仕事だから。明日なんて解らない。
これから現場に立つ自分達には、次の約束が果たされる補償は、どこにもない。それを痛いほど、周太は知っている。
隣の笑顔がいつも通りに明るい。この笑顔の為なら、出来る事なら何でもしてやりたいと思う。
でも周太は、仕方ないなという目をして、目次を眺めて口を開いた。

「オペラ座は巨大なカラクリ箱なんだ。怪人は、自分諸共そこへ彼女を閉じ込める」

淡々と、いつもの口調で語っていく。目次を眺める横顔に、宮田の視線を感じる。
随分熱心に聴いてくれるのは、よほど知りたかったのだろうか。
ほのかに湿った風に、穏やかな森の匂いがした。秋の気配が濃い。優しい静かな隣は、周太を寛がせてくれる。

「怪人は歌姫に跪いて愛を乞うんだ。
 恋人の命と引き換えに脅迫してでも、彼女を引きとめようとする。
 けれど、必死でかばい求めあう二人を、怪人は開放して、自分は姿を消した」

「湯原だったら、どうする?」

急に訊かれて、周太は宮田の顔を見た。

「もし自分の為に、巨大なカラクリ箱を作って閉じ込めて、跪いて愛してるっていわれたらさ。湯原だったら受け入れる?」

宮田の問いかけに、周太は一瞬詰まってしまった。
そんな事、考えた事が無かった。
そんなふうに、誰かに求められた事は、今までに一度も無い。
どうしてこんな事、訊くのだろう。少し途惑って、思わず素っ気ない口調になった。

「俺、解らない」

宮田は少し首傾げて、考え込むような顔になる。
緑と淡い黄色がふる木蔭で、淡く照らされた宮田の顔は、端正で、真剣な瞳が目を惹かれてしまう。
こんな時、美形は得だなと周太は思う。つい話して疑問を解いてやりたくなる。
周太は微笑んで、言った。

「そんなふうに、誰かに求められた事なんか、ないから。だから俺、解らないんだ」

自分で言って、すこし寂しくなった。
警察学校に来るまで、周太は特に親しい友達が出来なかった。
父の殉職以来、他人と距離を置くようになった事と、母を置いてまで一緒に居たいような友人とは、出会えなかった。

頬撫でて馳せていく、樹林の風がやさしい。周太は風に目を細めた。
穏やかで、静かで優しい空気が、隣に座っている。
明日からはもう、この空気が遠くなる。不意に周太は寂しい気持ちになった。
こんなにも、宮田の隣が好きになっている自分に、すこし途惑ってしまう。

梢の太陽が、ゆっくり斜めに傾いでいく。
透明だった光に、淡いオレンジ色が混じり始めた。いつもだったら「帰ろうか」と立つ時間がやってくる。
この隣から、立ってしまうのが、勿体無い。周太は、帰り難く思っている自分に、気がついた。

「オールで呑むか」

静かに宮田が言った。
それ何だろう。周太が宮田を見ながら考えていると、宮田は微笑んだ。

「大学の時にさ、サークルやコンパで終電逃すと、仲間と朝まで呑んだんだ」
「朝まで、て凄いな。部活でなら少し呑んだけど」

周太は答え、すこし考えた。
今日は卒業式だからと、母は待っているだろう。急に外泊したら、悪いと思う。
けれど、いつも隣で見てきた、このきれいな笑顔も、明日からは隣にいない。
昨日までは毎日、隣で眺めながら勉強できた。その当たり前が、明日から消えてなくなる。
ゆっくり話せるのは、今夜の後は、いつになるのか解らない。

「いいよ」

ぼそりと周太は言い、本を開いた。答えたのに、宮田が湯原の顔を覗き込んでくる。
どうしたのだろう、宮田を怪訝そうに見て、周太は言った。

「呑むんだろ、朝まで。ゆっくり話す時間、今夜の後はいつか解らないし。場所とか宮田に任せるから」

言いながらページにまた目を戻してしまった。なぜか俯けた首筋が、熱くなっている。
我ながら理由が解らなくて、途惑う。
宮田は笑って、携帯を胸ポケットから出した。



訪れたビジネスホテルは、瀟洒でシンプルな雰囲気だった。
ソファになるサイドベッド付きの部屋は、機能的で、居心地が良さそうに感じた。

「学生の時、ここに泊まって仲間と呑んだんだ。終電逃した時に、実家通学の仲間とだけど」

言いながら、宮田は荷物をおろした。卒業式の後だから、身の回りの物などで、いつもより荷物が多い。
そのおかげで、急に外泊を決めたが、着替えなどで困る事は無い。
周太は室内を見回した。実家から通学していた周太は、外泊の必要が無かったから、初めてで物珍しかった

「こういうところ、俺は初めて来たから」
「湯原、外泊って初なんだ?」
「ん、」

初めての事で、なんとなく周太は楽しかった。母ひとりにする事は申し訳ないけれど、こういう機会はそうある事ではない。
申し訳なさそうに、宮田が訊いてくれた。

「急に外泊決めたけど、湯原の母さん、大丈夫か」
「良かったわね楽しんで。て言われたけど」

何の事はないふうに、周太は笑った。
そうか、と宮田も笑い返してくれる。相変わらず端正で、すこし無邪気なきれいな笑顔だった。
良い笑顔だなと、いつもながら思う。いつも隣で笑っていた、きれいな宮田の笑顔。
けれど明日からは、遠くなる。寂しいと、周太は感じた。
誰かの隣から離れる事を、こんなふうに思った事は初めてだった。

「夕飯、なに食いに行きたい?ラーメンは、昼に食ったから無しな」

言いながら宮田が、いつも通りに笑った。
急に訊かれても、周太には何の案も浮かんでこない。こういうのは、慣れていなかった。



風呂を済ませて部屋着に着替え、ソファに落着くと、寮での時間と同じ、寛いだ空気になった。
コンビニで買ってきた缶ビールの、冷えた感触が掌に快い。
いつも隣で喋ってきたが、一緒に酒を呑む事は初めてだった。
何もかもが、周太には初めてで、楽しい。ほどよい酔いが、今まで話してこなかった事も、話題にのぼらせる。

「湯原、東大とか余裕で行けたんだろ。なぜ行かなかったんだ」
「大学は近所に行こうって、決めていたから」

なるべく母をひとりにしたくなかった。
警察学校に入れば全寮制で、必然的に家を離れる。母子二人の家庭で、ひとり家に残すのは、本当は辛かった。
それでも、警察官になる事は止められなかった。

無言の時間が流れても、息苦しくならない。いつものように隣は、静かで優しい空気に佇んでいる。
宮田が弁償した白いシャツを、今日も周太は着ている。着心地が良くて好きだった。
いつも通りの空気だけれど、いつもと少し違う。呑みなれないビールの所為だろうか。
すこし酔いに頬が熱る、ふっと周太は微笑んだ。

「遠野教官、仏頂面が照れくさそうだった」

挨拶の時、一言も口を利かずに敬礼し、握手していた。その顔がもう今、懐かしい。
あの時、珍しく泣きそうになった自分がいて、6ヶ月間の意味を気付かされた。

「横暴で自分勝手で。遣りたい放題、言いたい放題、サディストで時代遅れで、無っ駄に偉そうな鬼教官」

言い終わって、声上げて宮田は笑った。
周太も可笑しくて、目を細めた。

「最低、最悪の鬼教官?」
「そう、」

宮田の相槌で、周太は声上げて笑った。
なんだか可笑しくて、嬉しかった。こんなふうに笑ったのは、父の殉職以来だった。

「…かわいい」

宮田の呟きが聴こえた。どうしていつも、宮田はこんな事を言うのだろう。
素っ気ない声が、周太の口から出た。

「なに、見てるんだよ」
「湯原の笑顔、最高かわいいな」

本当に、宮田は馬鹿なんだと思う。
入寮前に校門で会った、あの初対面の時から、こんな事ばかり言ってくる。

「だから眼科行けよ馬鹿」

抑揚無く周太が言ってやっても、宮田はまた笑った。
他愛ない会話が楽しい。これだって、昨日までは日常だった。けれど明日からは、日常の風景では無くなる。
周太はふと、すこし前の授業を思い出した。

「教官の手錠、見たの覚えているか」

―退職するその日まで君たちと共にある。いわば手錠は警察官の分身だ

初任地の希望を出す前に、教場で遠野が示した、傷だらけで少し歪になった錆黒い手錠。
傷と歪みと、黒ずみ鈍い光沢が、犯罪に立ち向かった数と危険を語っていた。
捜査一課で生きていた遠野の、姿が本当に現れていたと思う。
宮田は周太を見て、答えた。

「手錠は分身だ。あの言葉は本当だなと思った」
「ん、」

自分の手錠は、どんなふうになるのだろう。
父の手錠を見た記憶が、周太の口を開かせた。

「父の手錠は、傷だらけだった。
 遺体を迎えに行った時、同僚の人が見せてくれたんだ。
 傷がたくさんあった、けれど、歪みも、錆も、無かった」

父の、誠実な笑顔が思い出される。唇と眉が、よく似ていると母は言う。
自分は父のように殉職はしない、けれど、父の手錠が相応しい警察官になりたい。

「父は毎日、きれいに磨いていたのを、覚えてる」
「湯原も磨いていたよな」

頷いて微笑むと、周太は黙って缶ビールに口をつけた。
静かな時間が穏やかにおりてくる。宮田は片膝を立てて、頬杖をついた。
窓から、月が昇るのが見える。寮の窓からも、よく眺めたな。そんな事を考えている端から、昨日がもう懐かしい。
ぼんやりしていると、急に宮田が口を開いた。

「『いざよい』って、どう書くんだ」
「なに急に」

ぼそっと周太は答えたが、立ち上がった。ベッドに腰を下ろすと、ベッドサイドに備え付けられたメモ帳をとった。
宮田が横から覗きこんでくる。

「『十六夜』と『不知夜』」

ペンで示した後、はい、と周太は宮田にメモを渡した。
へえと眺めながら、宮田は窓枠に凭れて空を見あげている。
満月をすこし過ぎた月が、大きく淡い光を降らせている。いつものように、今日も宮田は傍で月を眺めている。
「いつものように」は今日で終わる。
明日からは、宮田の隣は誰が居るのだろう。ぼんやりと周太は考えていた。



ベッドのかすかな軋みで、周太は目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。
久しぶりのアルコールが効いたかな?考えていると、隣で人影が静かに起き上がった。

「宮田?」

起き上がりかけた背中に、声を掛けた。
周太の右掌は、長い指を掴んでいた。どうしてこうなったのだろう。
解らないまま、とりあえず手を離して、周太も起き上がった。
背を向けたままの宮田が、悪いなと答えた。

「起こしたな、ごめん。ちょっと風に当たろうかな」

宮田の声が、かすかに震えるのが、周太には解った。
そっと宮田の眦にふれた。温かい感触が指に沁みてくる。やっぱり泣いていた、周太は静かに涙を拭きとっていく。

「また泣いているのか、宮田」

本当によく泣く。今度は、どうしたのだろう。
こんなふうに、素直に泣ける宮田が好きだなと、周太は思う。それだけの繊細な素直さを、宮田は持っている。
すこし可笑しそうに、周太は英二の目を覗きこんだ。

「泣き虫。怖い夢でも見たのかよ」

無言でただ、涙だけが宮田の頬を伝っていく。
それでも周太は促す事もしないで、そっと涙を拭った。いつものように。

宮田の頬を、言葉が溢せない代りの様に、涙だけが零れていく。
こういうときは、思う存分に泣かせてやる方が良い。周太は、ぎこちなく宮田の頭を抱きしめた。

宮田が脱走した夜も、同じようにシャツをハンカチ代わりに差し出した。
5か月ほど前の事なのに、もっと遠い昔に感じられる。それだけ濃密な時間を、警察学校で過ごしていた。
その隣でいつも、きれいな笑顔が佇んでいた。それが今、泣いている。
この隣の哀しみを、周太は分けて持ってやりたいと思った。

「言えよ、宮田」

ぼそりと周太は言った。いつものように。
宮田は、ゆっくりとシャツから顔を上げて、周太を見た。きれいな切長い目が、漲って月の光を映していた。
どうしてこんなに、きれいな目をするのだろう。
健やかに素直なまま育った、宮田の透明な心が、瞳から覗けるようだった。

ちゃんと話を、聴いてやりたい。
どうしてこんなに哀しむのか、周太は宮田の哀しみを、享けとめてやりたかった。
こんなふうに泣きながら、それでも静かで優しい隣を、好きだなと周太は、素直に思った。

かるく瞑目して瞠いて、宮田は周太を真っ直ぐに見つめた。

「お前が、好きだ」




今、なんて、宮田は言ったのだろう?





(to be continued)




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黎明、暁降 ― side story「陽はまた昇る」

2011-09-22 22:39:01 | 陽はまた昇るside story
自分で選択して、そこにいる



黎明、暁降 ― side story「陽はまた昇る」

まどろみの微かな後で、英二は目を開いた。
ぬくもりとゆるやかな鼓動が、この腕に抱きしめられている。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。今この時が、最後かもしれない。今の一瞬を全て記憶したくて、眠ることも惜しかった。

顎をくすぐる髪がやわらかに、穏やかで潔い香をよせてくる。
暁の光が淡く照らして、腕のなかに眠る頬を、英二に見せた。
涙の軌跡が、なめらかな頬に描かれている。昨夜の全ては現実だと、思い知らされる。

6ヶ月間、躊躇い続けたリスクの重荷を、とうとう背負わせてしまった。
真直ぐ端正に生きてきた湯原を、引き擦り込んでしまった。その現実に胸裡が裂かれて傷む。
けれど、想いを伝えて享けとめられた、その幸せが温かくて、手放せないでいる。

―父が殉職した時、母とふたりで約束をしたんだ
 これからは2人、助けあって生きよう
 お互い、隠し事をしないと約束しよう 隠し事は、人の間に溝と壁を作ってしまうから
 この約束のお蔭で、俺は母と向き合って、ここまで生きてこられた

湯原の母に、告げなくてはならない。
穏やかな彼女の、息子とよく似た、黒目がちの瞳が懐かしい。彼女はなんて言うのだろう。

腕に眠る温もりを、そっと抱きしめて頬寄せる。
肌と肌の間に、ぬくもりが穏やかに籠められて、ゆっくり心がほどけていく。
目の底に熱が生れて、眦から零れ落ちた。

ぬくもりが穏やかだと、知ってしまった。
もう二度と逢えないかもしれない、この隣の為に、知ってしまった。
自分はもう二度と、こんな幸せを抱きしめる事なんて、出来ないかもしれない。
きれど、きっともう、諦める事なんか出来ない。明日が解らないなら、尚更に出来ない。

警察官として現場に、もうすぐに立つ。
明日には英二は、初任地へと発たなくてはならない。
湯原はこの新宿に着任する。おなじ東京でも、英二は遠い山村の駐在所へ向かう。
のどかな田舎だが山岳救助の現場に立つ。危険の無い警察官の現場など、どこにも無い。

「山岳救助、」

呟いて、英二は山岳訓練の日を思い出した。崖から転落した湯原を、救助するために崖を降りた。
全身を泥と傷だらけにした湯原を、背負って崖を登った。湯原の重みを受けた、背中の記憶が、今も残っている。
あの重みが、今はこの腕のなかで眠っている。

こんなに近くに居るのに、腕の中に居るのに。あと数時間で、手放さなくてはならない。
もうこんなふうに、隣に寄り添う事は、出来ないかもしれない。
思うほど「今」がいとしくて、胸裡が裂かれる痛みすらも、穏やかだった。

腕のなかで、やわらかな髪が揺れた。

「…ん、」

かすかな吐息を零して、黒目がちの瞳が開いた。
おはようと、いつものように英二は笑った。

「…あ、おはよ、う?」

言いかけて、首筋が見る間に赤くなっていく。
昨夜を思い出して、状況に途惑い始めたのだろう。落ち着いた普段とのギャップがかわいくて、英二は微笑んだ。
黒目がちの瞳が揺れている。こういうの慣れていない、と呟きが聞こえそうだ。
困っていると解るけれど、どうするのか見てみたくて、英二はわざと黙っていた。

腕の中で、首筋も顔も、淡く赤く染める様子が、いとしかった。
知ってしまった湯原の想いが、6ヶ月間の逡巡を全て毀して、選んだ「今」。
容易ではない選択をした、そのリスクを解っているのに。 それでも「今」が、幸せで愛しくてならない。
それでも本当に、自分は手放す事が、出来るのだろうか。

「起きる」

ぼそっと湯原が言った。
そっと英二が腕をほどくと、身じろぎして湯原は背を向けた。首筋は、淡く赤くなっている。
いつも会話の合間に、湯原は首筋を赤く染めていた。かわいいなと、いつも見馴れた赤い首筋。
この隣にある淡く赤い色が、昨夜を越えた今は、眩しい。

もう一度だけ、抱きしめたい。
それでも英二の腕は動かなかった。未練をこれ以上、増やしたくなかった。
起き上がろうと、ゆっくり体を起しかけて、湯原は眉を顰めた。

「…痛い」

それでも起こした背中が、淡い暁の光にあらわになった。淡く赤い痕が、なめらかな肌に散っている。
刻み込んだ昨夜の記憶が、湯原の体に軌跡を残していた。
きれいだ、と見つめながら、負わせたリスクが、痛い。

けれど、その痛みにすら、微かな喜びが生れてしまう。
たとえ今が最後になって、離れてしまっても。この痛みの記憶は、湯原と共有できる。
痛みで繋がるなんて、愚かだと嗤われるだろう。けれど、この隣と繋がっていられるのなら、何だって構わない。
こんなふうに誰かを手に入れたいなんて、思った事はなかった。

勝手で残酷だと、自分を責めたくなる。
それでも、どうしても、この隣と少しでも繋がっていたいと求めてしまう。

―オペラ座は巨大なカラクリ箱なんだ
 怪人は、自分諸共そこへ彼女を閉じ込める

昨日、湯原に訊いたあらすじは、怪人の恋愛に狂気を感じた。
けれど今、痛みで湯原と繋がろうとする自分と、どこが違うと言うのだろう。
もし違うと言えるなら、怪人は歌姫に求められなかったけれど、自分は湯原に求めてもらえた、その違い。
相手を傷つける痛みは同じでも、相手も望んでくれた、その喜びが、理性を少し麻痺させている。

それでも今は、麻痺されたままでいたい。
あと数時間で離れて、もう二度と逢えないかもしれない。
だから尚更、今だけは、愚かさも麻痺も、許してしまいたかった。

淡く赤い痕を刻まれた背中が、ぼんやりと気怠げに、座ったままで佇んでいる。
きっと途惑って、身動き出来なくている。背中を見ても、湯原の考えている事が解る。
英二は微笑んだ。いつもの調子で言ってみる。

「きれいだな、」

肩口から少しだけ、湯原が振り返った。黒目がちの瞳が、長い睫毛の翳で途惑っている。
それでも、いつもの口調で抑揚無く言い捨てた。

「…だから早く眼科行けよ馬鹿」



近所のパン屋で買ってきた、クロワッサンが予想外においしかった。
備付けのインスタントコーヒーを淹れて、簡素な朝食をとる部屋は、あたたかな朝の光が静かで、穏やかだった。
いつになく気怠げな隣は、時折ぼんやりと、英二を眺めている。冗談に英二は笑って言った。

「そんなに見つめる位、俺、かっこいいかな」
「…ん、」

生返事が返りかけて、黒目がちの瞳が焦点を取り戻した。
ふざけるな。と聞えそうな視線で跳ね返されて、英二は軽く首傾げて避けた。
素っ気ない口調で、湯原が言う。

「宮田、ほんとに馬鹿なんだな」

まあね馬鹿ですけど。笑って英二はコーヒーを啜った。
湯原は少し微笑んで、寂しげに呟いた。

「ほんと、ばかだ」

初めて聞く、寂しい悲しい声だった。
胸に刺さって、痛い。こんな声を、英二は聴いた事が無かった。

黒目がちの瞳が揺れて、眦に雫が浮かび上がる。
あふれあがる涙は、頬伝って顎で零れ、おちて砕ける。
長い睫毛が潤って、朝の光に縁どられて瞬いた。

両掌で湯原の顔を包んで、英二は見つめた。もう、こんなに近くで見つめる事も、出来ないかもしれない。
繊細で勁い視線が、涙の紗がかかって揺れている。
この一瞬の記憶を、全部覚えておきたい。英二は、ただ見つめていた。

黒目がちの瞳が、ゆっくり瞬いて、英二を真っ直ぐに見る。
繊細で勁い視線は、いつものように微笑んだ。

「あの公園で、母と待ち合わせするから」

普段通りの落着いた声で、湯原が言った。

あの公園で気付いた、居心地の良い隣。
あの日、あのベンチに座っていなかったら、今はどうなっていたのだろう。
今日、あの場所で、決断がひとつ、委ねられていく。

隣に居られないなら、それで終わる。
痛みと記憶を抱いたまま、時折それを眺めても、普通に警察官として生きていく。
けれどもし、隣に居ることが許されるのなら。普通ではない生き方を、選ぶ事になる。それは容易い道ではないだろう。
それでも、選んでいいのなら、この隣を居場所にしていたい。

「コーヒー淹れてくる」

ぼそっと言いながら、少し笑って、湯原が立ち上がった。
部屋に光が差し込んで、白い壁が淡くオレンジ色に彩られていく。
あたたかな湯気が、香ばしく立ち昇って、視界をすこし揺らして消えた。
無言でいても、ゆるやかな空気が寛いで、いつものように穏やかで温かい。

今のこの瞬間が、二度と逢えない別れになるかもしれない。
こんな時でも、この居心地が良い隣は、穏やかで静かで、優しい。

きっと、もう、諦めきれない。
どんな言い訳をしたら、自分を言い聞かせられるのだろう。
6ヶ月間と、昨夜と、刻み込んだ記憶。どうしたら、消す事が出来るというのだろう。

学生時代の懐かしかったこの場所が、今この時間に佇んでいる。
この隣と遠く離れた時。この場所の前を通ることすら、自分には出来ないだろう。

この新宿で勤務する湯原は、どう思うのだろう。訊いてみたいけれど、英二は訊けなかった。
この隣の時間を、いつものように穏やかに過ごしていたかった。

きっと何度も、今の瞬間を思い出す。
懐かしくて還りたくて、きっと何度も思うのだろう。





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黎明、不知夜月 ― side story「陽はまた昇る」

2011-09-21 21:06:55 | 陽はまた昇るside story
記憶の数だけ重ねて
※後半1/3以降R18(露骨な表現はありませんが念の為)



黎明、不知夜月 ― side story「陽はまた昇る」

ダウンライトだけの部屋に、カーテンを透かした月明かりが淡い。
まだ、眠ってしまいたくない。今日の終わりを引き延ばしたくて、英二は目を瞑れなかった。

隣に眠る小柄な背中を、そっと抱きしめた。
あたたかな熱と、鼓動とが、白いシャツを越えて伝わってくる。湯原に掴まれたままの指が熱い。
体温が、穏やかで潔い香りを燻らせ、英二の髪に沁みていく。
こんなふうに穏やかな気持で、抱きしめるのは、きっと湯原が、最初で最後になる。

無言でも、眠っていても、居心地の良い隣。
ただ傍に居るだけで、穏やかさに満たされる。
それがどんなに得難いものか。この今も、蝕んでくる痛みに、思い知らされている。

6ヶ月、いつも当たり前に隣に居た。昨日までは。
いま抱きしめる体の白いシャツを、英二が詫びに渡したのは、もう遠い昔に思える。
殴られたことも、口論したことも、他愛ない会話も、時間の経過以上に遠い。

またこうして寄り添って、眠る事なんて出来るのだろうか。
明日があるか解らない、警察官の道を選んでしまった自分達に、どんな約束が出来るのだろう。
男女の仲なら「結婚」という約束ができる。共に生きる意思を、自分自身と相手と、家族や社会に示せる。
けれど男同士では、何の約束ができるのだろう。
どんなに一緒に居たいと願っても、隣に居たいと願っても。あがきたいけれど、約束すらできない。

制服を着る時、拳銃を持つ時、手錠を見るたびに、きっと湯原を思い出す。
警察学校で過ごした隣の、6ヶ月間の記憶は、警察官として生きる限り、毎日蘇るだろう。
きっともう、忘れる事も出来ない。

切長い英二の眦に、ふっと熱が浮かび上がった。
後から後から、熱はあふれて顔を横切って、頬伝って流れて行く。
このままだと、止まりそうにない。
顔でも洗って、夜風に当たろう。英二はそっと体を起しかけた。

「宮田?」

起き上がりかけた背中に、落着いた声が掛けられた。
掴まれたままだった指から、湯原の掌が離れる。去っていく温もりは、寂しさを募らせた。
今、振向いたらきっと、困らせてしまうだろう。英二は背を向けたまま、笑って言った。

「起こしたな、ごめん」

ちょっと風に当たろうかな、言いながらベッドを降りようとした時、眦に温かい感触がふれた。
視界の端で、指が涙を拭きとっていく。自分の長い指よりも小さな指。
さっきまで英二の手を掴んでいた指が、涙を拭いている。

「また泣いているのか、宮田」

いつもと同じ落着いた声。
わずかに濡れた髪が淡く光っている。入校時より伸びた、長めの前髪が額を覆って、最初に会った時を思い出させた。
入寮前に校門で会った、繊細で勁い、きれいな眼差し。あの時が、今この時に繋がるなど思っていなかった。
前髪の下で、瞳が繊細で勁い。すこし可笑しそうに、その瞳が英二の目を覗きこんだ。

「泣き虫。怖い夢でも見たのかよ」

怖い夢、そうかもしれない。
明日、この隣から、離れてしまう。田舎の駐在所とは言っても、危険が無いなんて事はない。新宿署の湯原は尚更だ。
警察官である以上、危険に身を晒す生き方しか選べない。
6ヶ月間、毎日を受け留めてくれた、穏やかな隣の空気。それが無くても自分は、そこに立っていられるのだろうか。

無言でただ、涙だけが英二の頬を伝っていく。
それでも湯原は促す事もしないで、そっと拭ってくれる。いつものように。

触れたい。想いは痛切に、英二の胸裏を裂いていく。
こんなに近くにいるのに、触れる事を許せない。明日からは、近くにさえ居られないのに。
言葉が溢せない代りの様に、涙だけが零れていく。

そっと湯原が動き、ぎこちなく英二の頭を抱きしめた。
白いシャツが頬に当たる。脱走した夜と同じように、シャツをハンカチ代わりに差し出してくれる。
あの夜に、この隣の居心地の良さを、初めて知った。
あの時、この隣の居た扉を叩かなかったら、こんなふうに泣かずに済んだのかもしれない。
けれどもし、この隣を知らないままだったら、英二は警察官の道を放りだしていただろう。
なによりも、無言でも居心地の良い隣を、知らないでいたくない。苦しくても泣いても、今の方がずっといい。

「言えよ、宮田」

ぼそりと湯原が言った。いつものように。
けれど、何を言えるというのだろう。ゆっくりと英二はシャツから顔を上げて、湯原を見た。
黒目がちの瞳が、ちゃんと聴くからと話しかけてくる。

言ったら、どうなるのだろう。
6ヶ月間ずっと隠しても、降り積もった想い。
一度口にしたら、きっと堰を切ってながれてしまう。自分を留める、自信なんて無い。
こんなふうに、誰かを想っても触れず、ただ想いだけを抱きしめた事は、英二には初めてだった。

― 誰かに、そんなふうに求められた事、ないから

午後の公園での会話が、胸を掠めた。安西の事件で、拘束された湯原を見た時の想いが、蘇る。
何も伝えないまま、湯原と別れたくない。
何も出来ないけれど。自分以上の幸せを願うほど、あなたを大切に想っている人間がいると、伝えたい。

警察官で男同士で。普通じゃないと言われても、文句は言えない。
嫌われるかもしれない、二度と会えなくなるかもしれない。
けれど、明日が解らないなら、今この時に、あなたを求める人間がいる事を伝えたい。

かるく瞑目して瞠いて、英二は湯原を真っ直ぐに見つめた。

「お前が、好きだ」



黒目がちの瞳が、一瞬で大きく瞠かれた。

きっと動揺して驚いて、混乱しているな。目だけでも英二には、湯原の心がわかる。
大きくなった瞳が、かわいいと思った。そして英二の肩の力が抜けた。
いつものように、英二は湯原に笑いかけた。

「お前の隣が好きだ。一緒に居る、穏やかな空気が大好きなんだ」

湯原は聴いてくれている。
いつもより少し驚いているけれど、穏やかな空気が普段通りに流れ始めた。
ああこういう所が好きだ。英二は穏やかな気持ちで、ゆっくり話し始めた。

「警察学校で男同士で。普通じゃない、そんな事は最初に気付いた。
 こういう想いが、生き難いことだとも知っている。
 けれど、諦める事も出来ない。気持を手放そうとしても、出来なかった。
 ただ隣で、湯原の穏やかな空気に触れている。
 それだけの事かもしれないけれど、俺には得難い居場所なんだ」

湯原は静かに聴いている。かすかな月明りが、正面の顔を白くうつしだす。
静かな表情が、とてもきれいだと英二は見つめた。

「ご両親を大切にする、湯原が好きだ。
 辛い事にも目を背けない、戦う強い湯原が好きだ。
 繊細で、不器用なほど優しい湯原が好きだ。
 頑固だけれど端正な、真っ直ぐな湯原が、俺は好きだ」

少しずつ、目の前の黒目がちの瞳が、揺れていく。
きっと今、湯原を追い込んでいる、困らせている。
解っているけれど、口を吐いた言葉は、もう取り消す事も止める事もできない。

「俺はずっと、適当に生きていた。要領良く楽していた。
 けれど本当は、誰かの役に立ちたかった。
 誰かの為に何かできたら、どうして生きているのかも、分るかもしれない。
 けれど、自分だけでは何もできなくて、警察学校に入って自分を追い込んだ」

そんなふうに甘い考えだから最初は脱走したし。
英二が笑うと、かすかに湯原も微笑んだ。こんな時でも、穏やかさが居心地良い。
ダウンライトと月の、やわらかい光の空間で、想いが言葉に変わっていく。

「警察学校で、どんなに辛い訓練や現実があっても、湯原が隣で受留めてくれた」

長い睫毛の向こうで黒目がちの瞳が迷っている。
かすかな明りに揺れる瞳が、きれいだと思いながら英二は言った。

「湯原の隣が俺の居場所だと思った。
 けれど、真っ直ぐに生きている湯原を引き擦り込みたくないと思った、だから伝えないつもりだった。
 けれど、安西に拘束された湯原を見て、明日は無いと思い知らされた。
 警察官の俺には、明日があるのか分らない。だから、今この時を大切に重ねて、俺は生きたい。
 湯原の隣で、俺は今を大切にしたい。
 湯原の為に何が出来るかを見つけたい。そして少しでも多く、湯原の笑顔を隣で見ていたい」

ゆっくりだけれど、一息に言って英二は、ほっと息をついた。
6ヶ月間言いたかった想いが、やっと解放された。
想いを、届けたい人へ伝えられた。
嫌われるかもしれない恐怖はあるけれど、もどかしさは消えて、英二の心は穏やかだった。

湯原の白いシャツの肩が、かすかに震えている。
怖がらせたのだろうか。不安になった英二は、俯く顔をそっと覗きこんだ。
黒目がちの瞳から一滴、涙がこぼれた。

「宮田、」

ぼそりと湯原が呟いた。
触れても嫌われないだろうか、不安がすこし翳ったが、英二は長い指を頬に伸ばした。
そっと涙を拭って、どうしたと目だけで黙って問いかける。
湯原が口を開いた。

「俺は、母を、置き去りに出来ない」

悲しそうな声がこぼれ出した。
普段の湯原からは想像がつかないような、感情に揺れる声。
けれど英二は、これが本来の湯原なのだと、自然に受け留めていた。

「父が殉職した時、母とふたりで約束をしたんだ。
 これからは2人、助けあって生きよう。
 お互い、隠し事をしないと約束しよう。隠し事は、人の間に溝と壁を作ってしまうから。
 この約束のお蔭で、俺は母と向き合って、ここまで生きてこられた」

湯原の母の、穏やかな微笑みが懐かしい。
英二は彼女の、湯原と同じように薫る穏やかな空気と、そっくりの瞳が好きだった。
微笑んで、英二は言った。

「湯原の母さんらしい、良い約束だな」
「…ん、」

頷いて湯原は、すこし安心したような瞳で英二を見つめた。
かすかに微笑んで、湯原は言葉を続けた。

「だから、母には宮田との事、隠せない。
 警察官の道を選ぶ時、俺は母を泣かせてしまった。もう、泣かせられない。
 だから、もし、宮田との事を母が拒絶したら、俺は母を選んでしまう」

黒目がちの瞳に、水の膜がうすく張っていく。
漲った瞳で、湯原は英二を見つめている。

「だから今、そうなったら、俺は明日すぐに母に話すだろう。
 それで拒絶されたら、もう二度と宮田に、逢えなくなる。そうしたら、もう、隣に居られない」
  
頬伝って一滴、零れて砕けた。

「俺だって、宮田の隣で変われた。笑うことを、少しずつ取り戻せた。
 誰かに、理解してもらえる事は嬉しいと、宮田が俺に教えてくれた。
 誰かの隣が、居心地良いんだと、俺はお前の隣で、知ったんだ」

黒目がちの瞳が泣いている。
泣きながら、真っ直ぐに英二を見つめて、湯原は言った。

「お前の隣が、好きだ。
 明日があるか解らないなら、今、俺は、宮田の隣に居たい」

カーテンの隙間から、淡い月の光が射しこんだ。
湯原の頬を白く映えさせて、涙の軌跡を英二の前に曝してみせた。
濡れた瞳が光って、黒目が際立っている。青みきれいな白が縁取って、瞳が映えて深い。

 きれいだ

英二は目の前の顔が、いとしかった。

6ヶ月間、逡巡していたリスクを、とうとう湯原にも背負わせてしまう。英二の胸が軋んだ。
この痛みは、一生忘れられず、苦しむだろう。
それでも、どんな言い訳が、今この時を、諦めさせてくれるのだろう。

快活な姉の顔が、ふいに英二の心を掠めた。父と母の笑顔も思い出される。
罵られて、泣かれて、もう家族と呼んで貰えなくなるかもしれない。
それでも、今この時を手放す事なんて、出来なかった。

俺も明日家族に話すよと、英二は微笑んで言った。

「俺の場合は、報告であって許可じゃないけれど」

家族が反対しても、自分は諦められない事を、英二はよく知っている。
何度も考えて、考えて、それで出した答えには、嘘はつけない。

「明日、湯原の母さんが、どんな結論を出しても、俺は全部受け留める。
 湯原の全部を大切に想う、湯原の隣が居心地良くて好きだ。
 そういう湯原を育ててくれた人を、悲しませる事は俺には出来ない。俺は湯原の母さん、好きなんだ」

湯原が笑った。少し悲しそうで、きれいな明るい笑顔だった。
切長い目を少し細めて、英二は微笑んだ。

「どんな結論でも、俺はきっと、湯原を大切に想う事は止められない。
 隣に居られなくても、何があっても。きっと、もう変えられない。
 ただ、湯原には笑っていて欲しい。どんなに遠くに居ても、生きて、幸せでいてくれたら、それでいい」

その隣に、本当は自分が居たい。けれど、それを望む事は、欲張りすぎるかもしれない。
リスクだらけの中で、想いが通じた。それだけでも今は幸せだった。

男女なら子供が生まれて、そこから家庭も、幸せも、生れる可能性がある。
けれど男同士では、そこから何が生まれると言うのだろう。
まだ何も、解らない。リスクばかりを背負うのかもしれない。
それでも、この隣に居る今、この時を、触れないでいる事なんて、出来ない。
もう二度と、逢えないかもしれないのなら。尚更に今を、諦める事なんて出来ない。

英二は掌で、湯原の頬をつつんだ。長い指でそっと涙を拭いていく。
頬の温かみが、掌を幸せな感触で迎えてくれる。
長い睫毛が微かに震えても、湯原は目を伏せなかった。長めの前髪の下で、繊細で勁い視線は真っ直ぐだった。
静かに毀さないように、英二は呟いた。

「周太、」

初めて呼んだ、名前がかすかに震える。
額に掌をあてて、そっと前髪を掻きあげる。生際には、ちいさな傷痕があった。 
扉の角でぶつけた小さな傷。初めてあの公園に行った日の、朝に出来た傷だった。

「俺が、つけた傷だ」

そっと英二は唇を寄せた。傷からは、あたたかな湯原の熱と、かすかな震えが伝わってくる。
黒目がちの瞳が、見つめている。この瞳がいつも隣にいた幸せを、これから幾度、思い知らされるのだろう。
覗きこんだ黒目がちの瞳は、すこし震えて、けれど決意と温かな想いが満ちている。

 ずっと隣に居たい

長い指で、目の前の唇をなぞる。いつもただ見つめていた、すこし厚めで物言いたげな唇に、初めて触れた。
指の下で今は、震えを打ち消すようにすこし、結ばれている。
軽く目を瞑って、英二は唇を重ねた。

重ねた唇の向こうに、かすかに喘ぐような震えが生れた。
こういうの慣れてない―そんな呟きが聞こえそうで、英二はそっと顔を離した。
きれいな二重瞼がおりて、長い睫毛がふるえている。
しばらくじっと見詰めていると、ゆっくり黒目がちの瞳が見開いた。

「…こういうの、俺、慣れて、いないから」

らしくない、たどたどしい物言いが震えている。普段の素っ気ない物言いは、どこへ行ったのだろう。
微笑んで、英二はまた唇を指でなぞった。

「慣れていなくて、良かった」

俺が初めてで良かった。黒目がちの瞳へ呟いて、英二は自分の独占欲の強さに、胸が軋んだ。
もしも明日、湯原の母が拒絶をしたら、二度と逢わない。
そうしたらきっと、いつか誰かが、湯原の隣で同じ事をするかもしれない。
そうなったら自分は、耐えられるのだろうか。

「他人事だと、思っ、て」

かすかな震えに少し乱れた言葉が、目の前の唇から零れる。
いつものように英二は笑って、唇を重ねた。やわらかな震えが、英二の唇を受けとめる。

明日なんて、解らない。
今はただ、居心地の良い隣と、ひとつの時間と感覚を共にしたい。
今この腕に与えられた、穏やかな安らぎと切なさを、抱きしめて記憶したい。
もし明日から、二度とこの時間が与えられなくても、記憶だけは刻みつけてしまいたい。

記憶だけで生きていけるのか。
英二には解らないけれど、抱きしめる今この時を、後悔する事は決して無い。
諦める事も、手放す事も出来なかった。
離れなくてはいけないと、解っているから、尚更に「今」が欲しい。

鍛えられて華奢を隠した肩を、抱き寄せる。
ほのかな震えと、うまく出来ない呼吸の音が、英二に伝わってくる。

頬寄せた首筋の、熱が高い。
明りの下で見たら、きっときれいな赤に染まっているのだろう。
小柄な体を抱きしめたまま、そっとベッドに沈んだ。

ダウンライトに仄かに照らされた、周太の首筋は紅潮に染まっていた。
きれいだと呟いた唇が、淡く赤い肌へ惹きつけれられて、静かにふれる。
英二の両肩に、掌の感触がやわらかく降りた。周太の掌から伝わる熱が、熱い。
ひとの体温がこんなに幸せだと、今までは思わなかった。両肩の熱が、いとしかった。
白いシャツの胸元を、長い指がボタンをはずして降りて行く。指先に触れる肌が、なめらかで熱かった。

「…ぅっ、」

小さな声に、英二は周太の顔を見た。
乱れた前髪のふる顔は、紅潮した頬と熱っぽい瞳が、幼げで儚い。
愛しさが募った。

明日の結論次第では、手放さなくてはいけない。だのに、すこし触れただけで、愛しさが殊更に募っている。
このまま触れあってしまったら、離れる事が出来るのか、不安になる。

周太の瞳を英二は見つめた。真っ直ぐで繊細で勁い視線は、迷いなく英二を見つめ返してくれる。
黒目がちの瞳が微笑んだ。穏やかな空気が、重ねた肌の間に漂う。安らぎが英二を抱きとめていく。
こんな時でも、この隣は繊細で優しくて、勁くて穏やかだ。

この隣が、好きだ。
本当に本当に、ずっと、隣に居られたらいい。

唇をふれるように重ねる。
やわらかな唇の震えを押して、英二は深く重ねた。深く重ねた唇が、熱い。
長い指が、白いシャツを絡めとって、肌を淡い光にさらしていく。首筋と同じように、肌は淡い赤に染まっていた。
桜が咲いたみたいだな、英二は微笑んだ。

逞しさのある肩に、唇をよせて掌で抱き寄せる。華奢な骨柄が指先から曝される。
片手で拳銃を操るには、骨格は華奢にすぎて感じた。
繊細で快活で、華奢だった少年の、積みあげた努力と悲しみと、痛みが、英二の胸にそっと寄り添ってくる。
全てを抱きとめたい。そうしたら少しだけでも、痛みを分けられるのだろうか。

「周太は、きれいだ」

頬寄せて、英二は囁いた。
抱きとられていく体に、途惑ったままの瞳が瞬いて、眦から雫がこぼれた。





(to be continued)


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第9話 黎明 act.2― side story「陽はまた昇る」

2011-09-20 22:40:00 | 陽はまた昇るside story
記憶の場所、君に



第9話 黎明 act.2― side story「陽はまた昇る」

この部屋に湯原がいる、不思議だけど。

冷蔵庫とテレビ付カウンター、椅子、窓際のフロアーランプ、ソファ、セミダブルベッド。
ビジネスホテル標準の部屋は7ヶ月前と変わらない、7ヶ月前も卒業式で大学の同期数人とここで呑んだ。
あのときと同じシンプルで清潔な部屋、けれど穏やかな空気が違う、そんな違いの真中シャツ姿に英二は笑いかけた。

「湯原、さっきから見まわしてるけどこの部屋、気に入らない?」
「え…いや、」

ふり向いて黒目がちの瞳が見つめてくれる。
まだ濡れた髪やわらかに額おおって眼差し透かす、その頬あわく赤い。
湯あがりの紅潮やさしい顔は幼くて、そんな全て見慣れた6ヶ月の相手は微笑んだ。

「珍しくて見てる、こういうとこ初めて来たから…きにいってる、」

すこし恥ずかしそうな微笑と答えが嬉しくなる。
そして見えてくる相手の大学時代を確かめたくて訊いてみた。

「湯原は外泊って初なんだ?」
「ん、」

短く頷いてくれる答えに正直ほっとする、だって「外泊って初」だ?

『そんなふうに誰かに求められたこと、ないから、』

そう公園のベンチでも言っていた通り外泊する相手もいなかった。
けれど今ここで初めてを過ごす笑顔は言葉すくなくても楽しげで、無邪気で嬉しくなる。

―誘って良かったな、こんな笑顔を見せてもらえてさ、

初めて来たから「きにいってる」と笑ってくれた、その無邪気な笑顔ただ嬉しい。
こんなふうに自分が笑わせてあげたい、何度も「初めて」を楽しませてあげたい、そして笑顔を見せてほしい。
そんな願い見つめるから明日が軋みだす、この夜が明けたら次いつ「初めて」をあげられるか解らない、この現実に尋ねた。

「急に外泊決めたけど、湯原の母さん大丈夫か?湯原が帰って来るの楽しみにしてたんだろ、」

母子ふたり家族で親戚もいない、そんな母親は息子の帰りを待っている。
もう夫を亡くして息子しか彼女にはいない、それなのに自分が今夜を奪ってしまった。
こんな自分の我儘ほんとうは許されない、それでも今夜を願いたかった本音に黒目がちの瞳は微笑んだ。

「よかったわね楽しんでって言われたけど…なんか母うれしそうだったけど、」

いつもと変わらない口調、笑顔、けれど明日には遠くなってしまう。
そんな実感に軋みながらも告げられた言葉すこし安堵して笑いかけた。

「湯原の母さん、嬉しそうだったんだ?」
「ん…なんか、ね、」

頷きながらテーブルの缶に手を伸ばしてくれる。
水滴あわいオレンジ色ひとつ取り、かつん、プルリング引くと訊いてくれた。

「あの、…のんでいいか?のどかわいた、」

なんだか照れている?
そんなトーン見つめる真中で長い睫伏せてしまう。
どうして「のんでいいか?」で恥ずかしがるのだろう?そんな含羞が可愛くて笑った。

「ちょっと待って?」

笑いかけ自分も缶ビール手にとらす。
プルリング開くとテーブル越し、こん、缶に缶ぶつけ笑いかけた。

「はい乾杯、呑んでいいよ?」

こうして一緒に乾杯ってしてみたかった。
そう今また気づかされる前で黒目がちの瞳が微笑んだ。

「ん、…かんぱい?」

ほら、その「?」って言い方ちょっと狡いだろう?

本人まるで自覚なんか無い、けれど自分にはいつも狡かった。
そんな想い気づかない相手はオレンジ色の缶そっと口つけ微笑んだ。

「のみやすい…ありがとな宮田、」

ほらまた「ありがとな」の飴くれてしまう。
いつも生真面目で無表情に近い湯原、だけど笑うと可愛い。
そう気がついてから笑わせたくて色んなこと探してきた、だから今日も選んだ酒に笑いかけた。

「湯原ってオレンジの飴よく口に入れてるだろ、だからオレンジのカクテルが良いかな思ってさ、」
「ん…おいしい、」

素直に頷いてまた口つけてくれる、その頬すこし紅色を明るます。
もう酒に赤くなりだしている、そんな笑顔が幸せになるまま永遠を願いたい。

―あと一晩は隣にいれるんだ、だから今を笑って記憶したいな?

今ここで君が笑う、その笑顔だけ今夜は見ていたい。
もう明日には遠く離れてしまう、次いつ会えるか解らなくて寂しい、だから今を記憶したい。
どんなに今日が遠くなっても逢えなくても笑顔ひとつ記憶に見つめられるなら多分、自分は幸せだ。

たぶん幸せだ、君を知らないまま生きるよりずっと幸せだ、だから今も知りたくて記憶の相手に笑いかけた。

「湯原なら東大も余裕で行けたんだろ、なぜ行かなかった?」

警察学校でも首席だった、たぶん小学生の頃から首席だろう?
そう思わされる生真面目なひとは首すこし傾げながら口開いた。

「大学は近所って決めてたんだ、なるべく母を独りにしたくないから…警察学校は全寮制だし卒業後も単身寮だろ、」

必然的に家を離れる、だから傍にいられる時は離れない。
そんな言葉に母子ふたりの家庭は見える、それでも湯原は警察官になる事を止めなかった。
こんなふうに辛い選択いくつして湯原はここに居るのだろう?そんな疑問に缶ビール口つけ考えこむ。

―なぜそこまで拘りたがる、そこまで大切な母親がいちばん悲しむことをなぜ選ぶ?

きっと湯原は父親を愛しているのだろう、昔も今も。
だからこそ父親の道を辿ろうとしている、けれど「なぜ?」と想ってしまう。
どうして「なるべく母を独りにしたくない」くせに最も孤独にする進路を選んでしまった?

―なんか矛盾だよな、俺には解らないことかもしれないけど、

ほっと息吐いてアルコールかすかに香らす、こんな無言の時間も寛げる。

いつもの穏やかで静かな空気は向かいのソファに佇む、その真中いる白いシャツ姿が温かい。
このシャツも「初めて」だった、自分が泣いた弁償にこのシャツ贈ったのは初めてあのベンチ座った日だ。
そして通り雨ふるベンチに想い自覚した、あれから見つめ続ける貌は少しずつ笑うこと増えて、けれど離れてしまう。

もう今夜が最後だ、だからこそ記憶ひとつでも増やしたくて笑いかけた。

「湯原、湯原の父さんってどんな警察官だった?」
「ん…警察官だった父?」

穏やかなトーン応えながら見つめてくれる、その頬さっきより紅い。
やっぱり酒あまい体質なのだろう、こんなところ初心でまた好きになる。

―酒の飲み方とか教えたくなるな、なんでも俺が教えて、笑わせて、

まだ10歳前で父親を亡くしたから教われなかった、それは酒だけじゃないだろう。
そんな全てから自分が護りたくなる、けれど今より近づけない相手は穏やかに唇開いた。

「父が亡くなった夜…迎えに行ったとき父の手錠を見たんだ、父の同期って人が見せてくれて、」

ほら、言葉に心臓また掴まれる。
まだ話し始めたばかり、それでも掴まれる想いに穏やかな声は続けた。

「傷がたくさんあったけど歪みも錆も無かった、きれいに磨いてたんだと思う…万年筆とか本とか綺麗に大事にするひとだから、」

静かな声に写真の記憶が映りこむ。
端正な笑顔だった、真直ぐな眼差しから誠実で切長の瞳が美しい。
物言いたげなすこし厚めの唇と意思の強そうな眉間、そして穏やかな優しい温もりが息子と似ている。

似ている、だから不安になる予見に缶ビール飲みくだし笑いかけた。

「書斎の本棚、ほんと綺麗だって俺も想ったよ?どの本も大切に読みこんである感じで、」

本当に自分もそう思うよ?
そう笑いかけた真中で黒目がちの瞳も微笑んでくれる、その唇そっとカクテルに口づけた。
何も言わない、けれど微笑んだ瞳に長い睫に想いは解かる、そんな静かな時間くるみだす。

―こういう空気が良いな、ほんとに、

無言でも優しい時間、この温もりに座りこみ片膝たてて頬杖つく。
片胡坐の窓辺すこしカーテン開いて薄明るい、ネオン照らす空は明るくて、けれど月は昇る。
あわいグレーの空にも月光まばゆい、こんな月を寮の窓からも眺めていた、そんなこと考えている端から昨日がもう懐かしい。

「湯原、いざよいってどう書くんだっけ?」

懐かしい言葉を声にして今また訊きたい。
いざよい、そんな言葉を初めて教えてくれたのもこの隣だった。

『いざよい月のいざようは何の意味だと思う?…ためらいって意味、今日は月が出るの遅かっただろ?だからためらう月、』

ためらう、なんて今の自分そのままだ。
離れる時間ためらって今夜も誘ってしまった相手は黒目がちの瞳すこし微笑んだ。

「ん…なに急に、」
「ためらう月って湯原が教えてくれたろ、漢字も教えてよ?」

笑いかけた真中で小柄なシャツ姿が立ちあがってくれる。
見まわしてすぐベッド腰掛けサイドテーブルのメモ帳にペン動かす、その横顔がランプに優しい。

―きれいだな、

やっぱりこの隣は綺麗だ。
そんな確認に鼓動から疼きだす、だって今こんな近く居るのに?
それでも離れてしまう、あと24時間すれば笑って別れて、けれど約束ひとつ何も無い。

「いざよいはね、十六夜と不知夜…はい、」

穏やかな声に瞳ゆっくり瞬いた前、メモひとつ示してくれる。
その手が自分より小さい、この手に護りたいとまた願って、けれど手ひとつ掴めない。

「ありがと、2つも書き方あるんだな?」

微笑んで立ちあがり歩みよる、その一歩ごとベッドの微笑に近くなる。
示されたメモに手を伸ばして、その指先すこし触れた温もりに呼吸ひとつ窓際へ離れた。

「漢字が違うと印象が変わるな、同じ月で同じ読み方なのに、」

笑いかけ眺めながら窓枠へ凭れこむ。
ふれた背にシャツ透けてガラスが涼しい、カーテンはざま見あげた月は満月すこし過ぎている。
いつものように今も隣の傍近く月を仰いで、けれど明日からは隣に誰もいない哀惜に振り向いた。

「湯原、」

振向いて呼んで、けれど俯いたまま返事がない。
どうしたのだろう?歩みより覗きこんで、その長い睫伏せた顔に微笑んだ。

「…寝ちゃったのか、」

座ったまま眠りこんだらしい、前にもこんなこと何度かあった。
警察学校の寮でもそうだった、湯原の実家に泊まった夜もこんなふう眠りこんだ。
電池切れのよう急に眠りこむ墜落睡眠、こんなところ幼い子供みたいだ?そんな寝顔に笑いかけた。

「…最後までかよ、こんなとこ見せて…困るよ?」

本当に困ってしまうのに?
その想いごと抱えあげベッド横たわらせて、抱えた頭の髪ふわり指に絡みつく。
やわらかな感触は肌から沁みてしまう、そんな感覚が未練のまま残りそうで怖い。

「…ごめんな、」

この想い謝りたくて声になる、だって迷惑だろう?
指先すら未練がましい自分の想いは世間で蔑まれることもある、それが湯原の傷になったら?
そう想うから何ひとつ触れられない、それでも見つめてしまう寝顔は紅潮なめらかな頬に睫の翳が蒼い。
きれいで息が止められる、この想いごと寝顔きっと幾度も繰返し思いだす。

―もう寝顔見ることも無いんだ、これからは、

この寝顔は今夜が最後、だから今夜きっと眠れない。
そんな想いに視線は眠れるひと見てしまう、その小さな右掌に微笑んだ。

「ペン握ったまま寝ちゃったのか、湯原?」

前もこんなことあった、あれは湯原の実家の部屋だった。
今と同じように本を持ったまま眠りこんで、その本を片付けようとした手を掴まれてしまった。
もしまた手を握られたら今夜は困るかもしれない?けれどペン持ったままではベッドをインクで汚してしまう。

―また手を握られたら俺、どうするんだろう?

ボールペン握ったままの手にためらう、けれど本当は望んでいる。
そんな本音に小さな掌そっと解いてペンを抜く、途端また手を掴まれた。

「…またかよ、」

ため息吐いて、だけど本当は嬉しい。
こんなふう手を繋いでくれた、それなら言訳ひとつ自分に赦していい?
その思案しながら腕伸ばしてサイドテーブルにペン戻し、寝顔の右手を見つめた。

「あったかいな、」

繋がれた手から体温やわらかに息づかす、この温もり今夜は手放さなくて赦される。
そんな言訳に隣そっと横たわった至近距離、あどけない寝顔はランプの燈に前髪を透かす。
その生え際ちいさな傷痕は知っている、あのベンチ初めての朝に自分が扉ぶつけてしまった痕だ。

もう一度、あの日に戻れたらいいのに?

「傷つけてごめんな、でも…俺のこと思い出してくれる?」

ちいさな傷痕に願い声になる、けれど聴いてもらえない。
寝顔に言葉は聴かれない、そのまま明日に別れて隣から離れてしまう。
それでも傷痕を見るとき少しは自分を想い出してくれるだろうか、その願いごと小柄な背を抱きしめた。

「…あったかいな湯原は…す」

好きだ、

そう言いかけて飲みこます、だって仕方ない。
たとえ告げても迷惑かけるだけ、嫌われるかもしれない、それなら黙ってただ抱きしめたい。
いま眠って何も言ってもらえない、それでも前髪ふれあうまま穏やかな深い香やさしくてオレンジが甘い。
寝息の呼吸ごと柑橘こぼれだす、ゆったりした鼓動、体温のぬくもり、抱きしめるシャツ透かして触れられる。
香も鼓動も温かい、やさしい温もり穏やかで安堵ゆるやかに満ちていく、こんなふうに抱きしめられる隣の今が幸せだ。

この隣に、居たい。



(to be continued)
※2011.09.20掲載「黎明、木洩日の翳 ― side story「陽はまた昇る」加筆校正Verです


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第9話 黎明 act.1― side story「陽はまた昇る」

2011-09-20 00:12:00 | 陽はまた昇るside story
木洩陽の翳、いつも



第9話 黎明 act.1― side story「陽はまた昇る」

いつも座ったベンチに今も座っている。

いつものように新宿で降りて、ラーメン屋に行って公園に来た。
いつものように隣で湯原は本を読み、自分は背凭れぼんやり空を仰ぐ。
けれどいつもよりお互いの荷物が少し大きい。

卒業式が終わった。

警視庁警察学校教官として出席した遠野に最後の挨拶した。
それから教場の皆で少し喋って携帯番号とアドレスを交換し、各方面ごと迎えのバスで卒業配置先へ向かった。
明日は休日の今日は卒配先で着任挨拶の後、初休暇に実家へ戻る途中を新宿で降りた。
そして湯原と待ち合わせて、いつものコースを辿っている。

もう「いつものように」は今日で終わる。

この現実ごと仰いだ緑の翳が額に落ちる、ゆれる木洩陽まぶしく温かい。
時折ゆっくりページ繰る音が静かに聴こえる、この光も音も好きだ。
そんな想いに空を見上げるまま顔を少し傾けて、そっと隣を見た。

―きれいだな、

やっぱり綺麗に見えてしまう、こんなふう視界から本音を思い知らされる。
落着いて静かな横顔の輪郭とる木々の葉が淡く黄色もう染まらす。
もう秋が近い、こんな時の流れに心がついていけない。

だって初任地は遠く離れてしまった。

―遠いよな、西と東の端同士だ、

自分は山間部の警察署を希望し湯原は新宿署、歩き慣れた街で実家に近いことが湯原の理由だった。
だから湯原は卒業配置後もこの新宿にいる、着任したら湯原は一人でもここに座るのだろうか?

―独りで座ったらなに考えるんだろ?

そんな想いごとスーツの胸押えた内ポケットには湯原の番号とアドレスが携帯に入っている。
会いたければ会える距離、けれど隣に居られる訳じゃない約束ひとつ無い。
どんな約束が出来るのかも解らない、だって湯原の父は死んだ。

『父は警察官だった、でも殉職したんだんだ、』

殉職した夜も帰宅したら息子に本を読み、妻の手料理と会話を楽しむつもりだったろう。
きっと幸せな約束いくつもあったろう、それでも湯原の父親は帰れなかった。
約束をしても果たす事が出来るのか?警察官にはその確約すら無い。

次、なんて約束が自分たちは出来る?

唯そんな思案に木々の葉摺れから陽光ゆれてさしかかる。
捲るページが光の明滅にモノトーン瞬かす、そんな読書に黒髪ゆれる。
眩しそうに瞳細め顔上げたその手元、紺青色の表装に見覚えがなぞった。

『Le Fantome de l'Opera』

ここに来た最初の日に湯原が買った本、そしてこのベンチで初めて開いていた。
その後、怪我で帰れない湯原につきあった外泊日にあらすじを聞いたけど途中のままだ。
だから今聴いておきたい、そんな願いに微笑んで隣に声掛けた。

「あらすじの続き、教えてよ」

振り返る黒目がちの瞳に光ゆれて明滅する、風おろした前髪が揺らぐ。
きれいだ、そんな想い息止まりそうになって、けれど素っ気ない口調は言った。

「自分で読めばいいだろ」

いつもの素っ気ない口調、けれど微笑んで本を膝に置いてくれる。
いいじゃんと笑って重ねて強請ってみた。

「湯原が怪我した外泊日に途中のままだろ、教えてよ?」

いま聴いておかなかったら、いつ続きが聴けるか分らない。
だって自分の卒配先は青梅警察署御岳駐在所、そこに勤務することは山岳救助隊の所属になる。
もう明日の正午から任務に就く、そして遭難の報があれば自分だって奥多摩山中を駈けるだろう。
もう自分には次の約束が果たされる補償なんて無い、そんな現実に笑いかけた。

「明日の午後には俺、駐在所に就くんだ。もし遭難があれば俺も救助に出るよ、だから今がラストかも?」
「縁起悪いこと言うな、」

ぱしん、切るようなトーン言ってくれる。
その視線も真直ぐ睨むようで、けれど溜息ひとつ湯原は口開いた。

「…オペラ座は巨大なカラクリ箱なんだ、舞台の底には奈落っていう巨大な地下室があって、そこに怪人は自分もろとも彼女を閉じ込める、」

淡々、いつもの口調で話してくれる。
ぶっきらぼうな一本調子、だけど話してくれる温もりに笑いかけた。

「湯原、俺がホントに死ぬかもって思ったから話してくれてる?」

ほんと縁起悪いこと自分で言ってるな?
こんなこと自嘲したくなる、だって幾らか自棄になっている所為だ。
こんなふう肚底で自嘲することは今に始まった癖じゃない、そんな木洩陽のベンチに穏やかな声が言った。

「…それ以上縁起悪いこと言うなら教えない、また……」

また、そう言いかけた頭上を風わたる。
葉擦れ鳴らせて梢ゆらぐ、ひらり舞いふる葉に光に黒髪あわく艶めかす。
ひるがえる前髪から黒目がちの瞳こちら見つめる、その貌どこか儚くて腕伸ばしかけて、けれど止めた。

―ダメだ、抱きしめるとか絶対に、

男が男を抱きしめる、なんて「おかしい」だろう?

同性愛は差別される、蔑まされる。
そんな現実には絶対に惹きこめない、想い募るほどこんなことダメだ。
そう自分も何度も考えてきた、そうして自分を止めている、けれど自分は蔑まされても構わない。

この腕、伸ばして抱きしめてしまえたら良いのに?

「また、って何、湯原?」

ほら、なんとか普通に話せる、だから今も唯笑っていればいい。
こうして隣に座り話せるだけで今は幸せだ、そんな想いに唇そっと開いた。

「だから、また続きを…」

言いかけて、また途切れてしまう。
何を言ってくれるのかな?そう目だけで問いかけた真中で睫そっと伏せてしまう。
木洩陽ゆれる顔へ長い睫は影ゆらす、その青い陰翳に惹きこまれる真中で唇は再び開いた。

「…奈落で怪人はね、歌姫に跪いて愛を乞うんだ…恋人の命と引き換えに脅迫して、」

話しだす言葉に考えてしまう。
さっき言いかけた「また続き」はこのことだろうか、そんな思案とベンチ凭れこむ。
ゆるやかに頬なでる風は深く穏やかな香やわらかい、これは森の匂いだろうか?
香も風も穏やかなベンチは寛げる、この居場所をくれる隣の声が優しい。

「脅迫して泣いて贈物して、いろんなことで彼女を引きとめるんだけど…必死でかばいあう二人を怪人は解放するんだ、自分は姿を消して、」

跪いたら、愛を求められるだろうか?

そんなに簡単に得られるなら自分はいくらでも土下座する。
けれど自分はそれすら赦されない、求めたら湯原を傷つけるに決まっている。
大切だから求めない、それでも訊いてみたい誘惑が木洩陽のした英二の口を開かせた。

「湯原だったら、どうする?」

何がだろう?そんな眼差しが見つめてくれる。
もう目だけでも何を言いたいのか解るようになった、それほど6ヶ月は自分に深い。
この隣で過ごした半年間どれだけ大切な時間が積まれたか?思い知らされるまま笑いかけた。

「もし湯原のために巨大なカラクリ箱を作って閉じ込めて、跪いて愛してるっていわれたらさ、湯原ならどうする?」

受け入れるだろうか、それとも拒絶する?
その答えただ知りたい問いに静かな声は言った。

「…俺、解らない、」

静かで、けれど素っ気ない。

こんな言い方は前から変わらない、けれど不安になってしまう。
自分が失敗したのかもしれない、その不安に首傾げさせられ考えこまされる。

―俺の下心が見透かされたのかな、そんなつもり無いとは言い切れないし、

不安になる隣の表情はとくに見えなくて、けれど木洩陽にやわらかい。
濃やかな緑と黄色あわい光に横顔が明るます、こんなふうに樹影に見るとき湯原は綺麗だ。
もし青梅署まで来てくれて一緒に山登ったら?そんな想像ついしかけた真中で黒目がちの瞳が微笑んだ。

「そんなふうに誰かに求められたこと、ないから…だからわからない、」

穏やかに微笑んだ瞳、でもどこか寂しい。

『主人がね、亡くなった後なの。でも周、最近は笑うようになったわ、宮田くんのこと話す時によく笑って、』

そんなふうに話してくれた湯原の母も寂しげに微笑んだ。
警察学校に来るまで親しい友達はいない、そんな息子に親として心配だったろう。
孤独でも端正に生きる息子と寂しさにも微笑む母、それは寂しくて端正で綺麗だ、だから自分は求めない。

―でも俺のこと話すとき笑ってくれたなら、なにか最後に今日は、

きっと友人と遅くまで飲み明かすことも湯原は無かったろう?
頑固で気が強い孤独でも構わない、けれど本当は繊細で穏やかな本質は優しい。
この本質に気付かない相手といても寛げないだろう、それでも自分なら楽しんでもらえる?

―誘ったら笑ってくれるかな、

頬なで馳せていく樹林の風がやさしい、いま言葉ないけれど寛いでいる。
隣は本を持ったまま風に目を細めさす、その穏やかな空気が愛しくて鼓動を軋ませる。
この空気は明日から遠い、そんな現実に少しでも今日この時間を引き延ばしてしまいたい。
だって警察官は明日どうなるのか解らない、この一瞬後さえも本当は解らなくて、だから尚更に誘って良いのか解らない。

―でも湯原の母さん待ってるよな、でも、

母子の時間を奪ってもいいのだろうか?

そう思うと声が出ないまま梢の太陽ゆっくり斜め傾いでいく。
透明だった光に淡いオレンジいろ混じりだす、いつも「帰ろうか」と立つ時間がやってくる。
だけどまだこの隣から立てない、穏やかな空気に未練が居座って身動き出来ない。

今を引き延ばしてしまいたい、唯ひとつ願うまま声が出た。

「オールで呑むか、」

言ってしまった、でも断られるだろう。

きっと母親と約束があると言わる、そう解かる諦めに微笑んでしまう。
だって最初から「フラれる」と解って誘うなんて初めてだ?
こんな初めてすら嬉しいまま笑って続けた。

「大学の時にさ、サークルやコンパで終電逃すと仲間と朝まで呑んだんだ、そういうの今日やらない?」
「朝まで、て凄いな…部活ですこしなら呑んだけど、」

応えてくれる顔すこし笑ってくれる、この笑顔も明日からは隣にいない。
昨日までは毎日いつも隣で眺めていた、その当たり前が明日から消えてなくなる。
こんなこと今更だけれど「当たり前」なものは無い、そんな初めて咬んだ傷みに隣は言った。

「いいよ、」

ぼそり、ひとこと告げて横顔すこし俯かす。
また本を開いてページ繰る、そんな横顔の「いいよ」は何を指してくれるのだろう?
量りかねて隣の顔を覗きこんで見た真中、いつもの落着いた瞳は怪訝そうに見つめ言ってくれた。

「呑むんだろ朝まで…ゆっくり話すの今夜の後はいつか解らないし…場所とか任せる、」

言いながらページにまた目を戻してしまう、けれど俯けた首すじ微かに赤い。
いま恥ずかしがってくれている?そんな反応とくれた予定に空気また温まりだす。

―今日がすこし引き延ばせたな、

今日はまだ終わらない、それが嬉しいまま携帯を胸ポケットから出して開く。
電話帳のメモリー久しぶりに眺めながら「ゆっくり話す」こと叶う場所を考えてビジネスホテルの番号止まる。
ここは学生時代に終電を逃すと泊まっていた、シングルルームでもソファベッドを使って2、3人なら安価で気楽に呑める場所だった。

この懐かしい場所を湯原に見てもらえたら?

そう想いながらまた気づく、懐かしい場所を誰かに見て欲しいと思うことは今、初めてだ。




(to be continued)
※2011.09.20掲載「黎明、木洩日の翳 ― side story「陽はまた昇る」加筆校正Verです


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上弦月の上、越風― another,side story「陽はまた昇る」

2011-09-19 21:15:37 | 陽はまた昇るanother,side story

見慣れた光景の現実




上弦月の上、越風 ― another,side story「陽はまた昇る」

すこし傾きかけた陽が、低く射しこんで部屋を照らす。
自室で手錠を磨きながら、周太は教場での事件を思い出していた。

― どうして、警官になりたかったのか、わかりました
  誰かの役に立ちたかったんです
  人の為に尽くそうなんて、かっこ悪い事、言えなかったけど
  もし誰かの為になにかできたら、どうして生きているのか、分かるかも

宮田が毅然と言った時、周太はただ見つめてしまった。
出会った頃は大嫌いだった。要領良い人間らしい冷淡さが、偽善者にも見えていた。
犯罪の緊迫した現場で、あんなふうに言えるとは思わなかった。

周太は自分にも少し驚いていた。
夜明け前から、何時間も続いた安西の拘束。心身の消耗は酷いのが普通だろう。
その渦中にあって、冷静な自分がいた。遠野教官が撃たれた時も、驚いたがショックは少ない。
繰り返し見た、父の夢。
狙撃される瞬間は、現実には見ていないのに、夢は現実の様に再現される。
死んだ父の想いが、夢に現れたのだろうか。それとも、無残な父の遺体から、脳が作り上げた幻だったのか。
その夢の残像のように、現実の状況を冷静に見つめる自分がいた。

拳銃は、現実でも夢でも、脅かし傷つけようと現れる。
けれど今はもう、どちらを見ても、冷静な自分がいる。
夢に苦しんだ頃は、逃げることだけを考えていた。
けれど今は、戦うことを決めて、掌に拳銃と手錠をもっている。人間は決意によって、強くなれるのかもしれない。

周太は手錠を見つめた。
さっきまで、安西と無理やり繋がれていた手錠は、今は自分の手にある。
もう二度と、あんなふうには捕まらない。

扉が叩かれ、周太は目を上げた。
開いた扉から、宮田が入ってきた。綺麗な顔の憔悴しきった表情に、周太の胸がきつく押され、痛い。

「俺。入っていいか」
「もう、入っているだろ。だったら訊くな」

間髪いれずに素っ気なく、いつものように返してやる。
「いつものように」は、人を安心させる。馴染んだ日常は、寛げる空気を作りやすい。
一瞬驚いて、すぐに宮田が少し微笑んだ。

「…っわ、ひでえな」
「それくらいが宮田には、丁度良いだろ」

普段通りに手厳しく言って、周太は宮田を見上げた。切長い目が、少し腫れている。
救急搬送される遠野を見送った時、教場の皆が、同じような憔悴した顔をしていた。
狙撃現場も、犯罪者の狂気も、銃口向けられる事も。誰もが初めての事、それが普通で当然だろう。
憔悴するのが普通で、正常だ。その方が良い。

「屋上で話そう」

立ち上がりながら、周太は宮田に微笑んだ。
たぶんまた、優しい顔になっている。



屋上の空は明るい。見上げると、ほっと息をつける。
宮田の話を聞きながら、周太は遠くを眺めていた。すこし傾きかけた日が、頬を照らして温かい。
聞き終わって、周太は口を開いた。

「これが現実の、流れる血なんだ。そう思って見ていたよ」
「湯原は今までに、見た事があったのか」
「目の前で人が撃たれたのは、俺も初めてだって」

静かに周太は微笑んだ。

「父さんの時は、瞬間は見ていないだろ。現実には、ね」

『現実には』言葉に気付いたのか、宮田が周太の目を見つめる。
周太は少し微笑み返した。

「何度も夢でうなされた。小さい頃からずっと、毎晩毎晩。夜中に吐くことが、幾度も続いた」

自分の声が落着いている。
思い出すのも辛かった、父の無残な夢を、こんなふうに話せる。
向き合い続けた十数年が、無駄では無かったと思えた。

「交番は避けて道を歩き、警官やパトカーから目を背けた。
 それでも夢は終わらなかった。
 テレビ、映画、小説。警察や拳銃を描いた全てから、目を背けても。それは続いた。
 泣いて、泣いて、涙もだんだん麻痺していくようだった。
 逃げられない、と思った。
 逃げられないなら、戦って、向き合うしかないじゃないか」

きれいな切長い目が、真っ直ぐに見つめて聴いている。

「苦しくて苦しくて、戦って楽になるなら、
 少しでも早く向き合いたかった。だから、射撃部のある高校を選んだんだ」

ゆっくり一つ瞬いて、ひとつ息を吐く。周太は宮田を真直ぐ見た。

「初めて拳銃に触れた日の夜、夢は見なかった。それからはもう、その夢は見ていない」

周太は少し微笑んで、宮田を見上げた。

「宮田。俺は本当は弱い。弱くて弱くて、だから強くならなくては、生きられなかった。
 強くなったと思っていた。けれど、結局は安西に銃を盗られた」

ほんの少し、自嘲が混じる。それでも周太は、穏やかだった。
青い空を眺めていると、風が頬を撫でていく。父の笑顔がふっと周太の心に現れ、消えた。
右掌で左手首をふれると、秒針が動く感触が伝わる。自然と周太は微笑んだ。

「俺は、強くなりたい」

風音が流れる静かな屋上で、周太の落着いた声が、低く響いた。
黙ったまま、宮田と並んで遠い雲を眺めている。隣の肘が、相変わらず触れそうに近い。
宮田の隣に居ることが、周太は少しも嫌じゃない。
当たり前のように、隣に居てくれる宮田を、今は大切に思える。

本当は、安西の前で宮田が立ちあがった時、周太の心臓は鼓動を忘れた。
僕を撃って下さい。だなんて言わないで欲しかった。
もし宮田がここで死んだら。そう思った時、感じた事のない感情が周太を打っていた。

泣き虫なくせに、宮田は繊細な優しさが、強い。
そんな宮田を今は、大切な存在だと素直に認められる。
きれいな笑顔のままで、幸せになって欲しい。そう思っていた自分に気付かされた。

木々わたる風の、梢揺らすざわめきが聞える。
無言のまま並んでいても、息苦しくない。宮田の気配は静かで、優しい。
周太は隣を見上げた。きれいな笑顔が、いつも通りに返ってくる。だいぶ立て直せた様子に、周太は少し安心した。

眼下に校門が見える。
あの場所で出会った時は、こんなふうになるとは思わなかった。
大嫌いだと思った、軽薄で冷淡で端正な顔。けれど、こうして今、隣合わせに立っている。

お互い反発しても、制限された空間では、嫌でも向き合わざるを得なかった。
この警察学校で出会って、隣で一緒の時間を過ごした。そうして積まれた時間が、心を解いてしまった。
もっと自由で、楽な場所で出会っていたら、隣でこうしている事も無かっただろう。

柵に凭れる隣の横顔に、真っ白い雲の落とす影が、穏やかに横切っていく。
隣には、安らぎが自然に立っている。風が心地よくて周太は目を細めた。

「湯原は、強いよ」

宮田の声に、周太はすこし振向いた。見つめて、宮田が微笑んだ。

「拳銃、自分で取り返しただろ。湯原は」

慰めてくれるんだ。素直に周太は微笑んだ。
以前だったらきっと、放っておいてくれと自分の殻に籠っただろう。でも今は、宮田の言葉を受取れる。
ありがとう、と微笑んだ周太は、宮田を見つめて言った。

「でも俺は、強くなりたい。拳銃を奪われないほど、強くなりたい」

暫く見つめ、そうかと宮田は微笑んでくれた。
微笑みながら、すこし首傾げて宮田は、周太の瞳を覗きこんだ。

「強くて、きれいだな。湯原は」

どうしていつも、こういう事を宮田は言うのだろう。
きれいな笑顔で、そんなふうに見つめて、男に言うものだろうか。

「男に、きれいって言うものなのか?」
「きれいなら、言うだろ」

そういうものかと言って周太は、遠くへ目を遣り、柵に片頬杖をついた。
お前こそ綺麗じゃないか。周太は宮田を見遣って、かすかに微笑んだ。

「じゃ、宮田も、きれいで強いな」

言って、しまったと思った。首筋が熱くなってくる。また赤くなってしまう。
なぜこうなるのだろう。空へ視線を遣って落着くと、周太は疑問に思っていた事を思い出した。
宮田が周太を教場で見つけた時、宮田は逃げなかった。その理由を知りたい。
周太は口を開いた。

「なぜ、逃げなかった。あの時、宮田は逃げられた筈だ」

綺麗な笑顔で、ごく自然に宮田は答えた。

「湯原を残しては、行けなかった」

治まりかけた周太の首筋が、また熱に染まっていく。首筋に視線を感じる、きっと宮田が見ている。
梢わたる風が、屋上まで緑の香りを吹き上げた。周太の髪が乱され、額にかかっては揺らされる。
言葉も無いまま、夜の影が屋上に降り始めた。
僅かに湧きだした黒雲に、上弦の月が昇っていく。流れる空気は静かで、穏やかだ。

卒業したら、この隣はどれくらい遠くなるのだろう。
卒業すれば、死や暴力と隣り合わせの日常が、現実になる。

―ちょっと身の上話をしただけで、心を許したとでも?人間の見方が単純すぎるんだよ

遠野教官の言葉は、本当だった。
一度しか言葉を交わしていない安西に、無防備だった自分がいる。
俺はまだ甘い。他人の事など興味ないと、言っている場合ではない。

父が殉職した時のように、他人との関わりは、傷つけられる事がたくさんある。
けれど、宮田と関わらなければ、人の温もりを知る事も、きっとなかった。
温もりを失うことを、恐れる気持ちも得るけれど。知らないままよりは、ずっといいと今は思える。
隣に誰かがいる事は、優しい強さをくれる事もある。

― もし誰かの為になにかできたら、どうして生きているのか、分かるかも

もう宮田は、周太にしてくれた事がある。
その事を宮田に教えるのは、今はまだ気恥ずかしくて、周太には出来そうにない。



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闇夜の始、あいの風 ― another,side story「陽はまた昇る」

2011-09-18 20:09:20 | 陽はまた昇るanother,side story

あなたが笑うとあたたかい




闇夜の始、あいの風 ― another,side story「陽はまた昇る」

医務室の扉を、そっとノックして周太は扉を開けた。

「失礼します」
「あら。警邏にお迎え、御苦労さん」

帰り支度を済ませた立花校医が、にっこり周太に微笑んだ。

「打撲と内出血だけだから。よく冷やしてあげてね」
「はい、わかりました」

保冷器に入れた氷と、湿布の替えを手渡してくれる。受取って周太は、宮田を振り返った。
頬の絆創膏と、肩から肋に巻かれた包帯が痛々しい。喧嘩の仲裁だなんて、本来、宮田の柄ではない。
具合が気になるが、こんな時は、怪我の程度を言うのはプライドを傷つけるだろう。
普段通りの声で、周太は宮田に声を掛けた。

「立てるか?」
「…ああ」

静かに隣に肩寄せ、宮田の腕に周太は体を潜らせた。
宮田の方が上背がある分、小柄でも力はある周太には、支えやすい。

「傷を当てないように、寄りかかって」

思ったより体重がかかってこない。
怪訝に思って振り仰ぐと、宮田がぼんやり立っていた。

「早くしろよ」

促すと、宮田は唇すこし噛んで、寄りかかった。すこし拗ねたような表情が、端正な顔を子供っぽく見せている。
なんでまた拗ねているんだろう。かっこわるいとでも考えているのだろうか。
そんなこと、気にしなくていいのに。


医務室を出、寮へ歩いていく。
かすかな非常灯の明りが、宮田の白い頬を照らした。うすく泣いた痕がある。
相手が何人がかりだろうが、負けた事は男なら、誰だって悔しいだろう。
泣いた痕を見ないように、周太は真っ直ぐ前を見たまま、黙って宮田を支えて歩いた。

急に、隣の影が揺れて、掛っていた体重が外れた。足許に宮田が蹲っている。
周太はかがみ込んで宮田の顔を覗きこんだ。長い指の手が、口元を押えこんでいる。

「宮田?」
「…吐きそう」

近くのトイレへと抱えていくと、宮田は洗面台に手を突いた。
激しい咳込みを繰り返した後、口を漱ぐ。唾液以外は出なかったようだが、さっぱりした顔になった。
タオルを渡して、周太は宮田の額に掌を当てた。熱は無いようだ。

「頭、痛いとかあるか?」
「いや、無い。すこし気持悪かっただけ」

打撲などによる脳障害の症状に、嘔吐感がある。まさか大丈夫だろうとは思っても、周太は気がかりだった。
側頭部や後頭部にも、そっと掌を当ててみる。打撲傷は触った感じには無いようだ。

「頭、打ったとか殴られたりは?」

さすがに、それは防御してたから。答えながら宮田が少し笑った。
訓練であれだけ受身を練習すれば、普通に防御は出来るだろう。それでも頭部はやはり心配だった。

「触っているところ、痛むか?」
「大丈夫だって」

洗面台から顔上げて、宮田が笑った。いつも通りの、屈託のない笑顔が周太の心配を解いていく。
良かった。ほっとして微笑んだ周太に、きれいな笑顔で宮田が言った。

「かわいいよな、やっぱり」

こんな時にまで、宮田は何を言い出すのだろう。やっぱり宮田は、馬鹿なのだろうか。
周太の首筋に熱が昇る、もう間違いなく赤くなるだろう。こんな時にまで出るなんて、この癖も無神経だ。
もう宮田なんか置いていってやれ。一人で廊下へ歩きながら、周太は抑揚無い声で言い捨てた。

「だから、お前はやく眼科行けって」
「う、痛っ…」

呟きに振り返ると、宮田が頭を押さえている。
やはり頭を打っているのか。周太は、すぐに踵を返した。

「宮田?」

覗きこんだ宮田の顔が、にやっと悪戯っぽく笑った。

「心が痛いかなー、なんて?」
「…馬鹿。心配するだろ」

本当にこいつは馬鹿なんだ。周太は呆れながらも、宮田の腕に体を差し入れ支えれた。
薄暗い廊下を少し歩くと、宮田の部屋に着いた。
それなのに宮田は扉を開かない。見上げるとまた、ぼんやりしている。

「部屋、着いたけど」
「あ、」

すこし慌てて、宮田は自室の扉を開けた。
送らせて悪かったな、と言いながら、氷やタオルの入った袋を受取ろうとする。
それを無視して周太は、そのまま宮田の部屋へ入り、デスクライトを点けた。

「ちょっと借りる」

宮田の机に荷物を下ろす。途惑うような視線が、宮田から向けられているのが解る。
視線を横顔に感じながら、氷を細かめに砕いていく。この方が傷への当たりが柔らかいだろう。
さっさと手当の準備をしながら、ぼそり周太は言った。

「ちょうど休憩時間だから」
「え、」

意外そうな顔をして、宮田はまだ扉の前に立っている。
随分と宮田は、ぼんやりしている。こんな様子を放っては、周太は行けなかった。

「手当てしていくから横になって」

羽織った制服の上着を脱ぎ、宮田はベッドで仰向いた。
その隣に周太は腰をおろし、腫れた肩にタオルをかける。その上から氷嚢を当てた。

「氷の重さ、傷に響くようなら調整するから」

肩が少し、熱を持っているようだ。氷嚢の冷たさが心地良いのか、宮田は目を瞑った。
ふっと宮田が口を開いた。

「俺さ、警官続けるの、もう駄目かもしれないって思ったんだ」
「ん、」

そう思うのも無理はない。厳しい訓練を受けたにも関わらず、高校生に負けたら、プライドが傷ついて当然だろう。
今は黙って、思いを吐き出させてやりたかった。周太は静かに相槌をうった。

「じゃあ辞めるか、辞められるか? 遠野にそう訊かれたよ」

自分は辞められなかったと、遠野は言うんだ。
医務室での遠野教官との会話を、なぞるように宮田は話していく。

― 辞める事が責任を取る事じゃない。
  ずっと背を向けて来た事と決着をつける。それしか筋を通す方法はない
  君も笑顔で行くと決めたんなら、それを通せばいいじゃないか
  甘くなんかない、警察官が笑顔でいる事は一番難しい事だ

瞑った目を開き、宮田が見上げてきた。
きれいな切長い目に、うっすらと雫の膜を張った痕がある。

「ずっと背を向けて来た事と決着をつける。そう言われた時、俺、湯原を思い出した」

なぜ?と短く周太は尋ねた。宮田は自分の何を思いだしてくれたのだろう。
切長い目を少し和ませて、宮田は言った。

「警察と拳銃から、背を向けないで湯原は、ここに来ただろ。お前って格好いいよな」

宮田が微笑んで見上げてくるのを、周太は少し茫然と見つめた。
父が殉職した痛みも、越えようとした痛みも、宮田が解ってくれていた。その事が周太の胸裡をほどいていく。
こんな事は今までに無かった。途惑ってしまう。
嬉しい気持に途惑う。誰かに理解してもらえる事が、嬉しいだなんて知らなかった。

「俺もさ、笑顔で通してみるよ。難しい事だけど」

きれいな笑顔で話す宮田は、昨日より大人の男の顔になっている。
暴力や死と隣り合わせの、警察官としての生活。普通の生活で笑っている事と、笑顔の意味が全く違う。
憎悪や悲哀、虚偽。その渦中に警察官は日常を送ることになる。それでも笑顔を忘れない事は、容易い事ではない。
けれど今は、少しからかってでも笑わせてやりたい。周太は少し混ぜっ返した。

「でも宮田、今日も泣いただろ」

素っ気ない言葉が出たが、右手は宮田の頬に近付けて、指でそっと涙を拭った。
宮田の眦に湧き出た涙が、周太の親指に浸透していく。
あたたかいと涙を感じながら、かすかに周太は微笑んだ。

「泣き虫」
「…それ、言うなって」

少し困った顔で、宮田が笑った。
デスクライトの淡い光の下で、きれいな切長い目の瞳がよく見える。少し切ない翳がその瞳を掠めた。
傷が痛むのだろうか。腕の時計を見ると、交替時間まで15分だった。その前に氷を替えて行った方が良さそうだ。

「そろそろ、交替だな。行く前に氷、替えていくから」
「おう、悪いな」

また氷を細かめに砕く。氷嚢を詰めながら、視界の端で宮田を見ると、ぼんやり天井を見つめている。
こんな時に、独りにするのは可哀想にも思う。けれど、こんな時は独りで越えた方が、男としては良い。
周太は口を開いた。

「宮田なら、なれるよ」
「え、」

宮田がゆっくり半身を起こした。デスクライトが傷だらけの体を照らしている。
痛々しい姿に、周太の胸裏が疼く。誰かのこういう姿は辛い、出来れば見たくはない。
それでも目を上げて、周太はいつもの声で言った。

「笑顔の警察官、宮田ならなれるって。宮田の笑顔、きれいだから」

すこし微笑んで、周太はまた手元に視線を落とした。
自分が笑った顔が、今、窓に映って見えて、どきっとした。
映った自分の顔が、母とそっくりの、穏やかな優しい頬笑み。その自分の表情に、周太は途惑っていた。

 あんなふうに俺、笑えるんだ

父が殉職した時から、母以外の人間にあんな顔をしたことは無かったと思う。
一体いつから、あんな顔で笑えるようになったのか。
肘で体起こしたまま、宮田は呟いた。

「なれるかな」
「ん、…努力もかなり、必要だとは思うけど」

なんだよと宮田は笑い、仰向けに寝転がった。屈託のない笑顔は、いつも通りに咲いている。
いくらか心を立て直せたのだろう、良かったなと思った途端、周太の胸裡があたたかくなった。
なぜ自分がこんな風に、宮田の事で安心するのだろう。解らない、他人がここまで気に掛るなんて、慣れていない。
周太が隣に座ると、微笑みかけて宮田は言った。

「俺も、決着つけてみるよ。笑顔の」
「ん、」

周太はタオルの場所を定め、患部を包むように氷嚢をあてがう。
今は本当は、なんとなく、あまり宮田に顔を見られたくない。けれど、下から覗きこまれたら、隠しようがない。
こんな時、あまり顔に出ない事が、ありがたいと思う。周太の途惑いに気付かない様子で、ごめんと宮田が口を開いた。

「休憩時間、仮眠とりたかっただろ?ごめんな」

そんな事、気にしなくていいのに。
ベッドから立ち上がり、周太は制帽を手に取った。

「俺も、宮田に面倒見てもらったから。これで貸借りチャラな」

制帽を被りながら言い、周太は扉に手を掛けた。

「また休憩の時、様子見に来るから」

すこし微笑んで、周太は扉を閉めた。薄暗い廊下を歩き出すと、静寂に自分の足音が響く。
しばらく歩いて、周太は、ふっと膝が崩れ落ちそうになった。
一体、なんなのだろう。壁に寄りかかって周太は息をついて、ゆっくり瞬いた。
今見たばかりの、きれいな宮田の笑顔が、心に掛っている。なぜ自分は、この笑顔に捕われているのだろう。
そんなにも、自分は宮田の無事に、安心しているのだろうか。こういうのは慣れていない、よく解らない。

― ずっと背を向けて来た事と決着をつける。そう言われた時、俺、湯原を思い出した
  警察と拳銃から、背を向けないで湯原は、ここに来ただろ。お前って格好いいよ

独りで、自分が信じる道をただ、真直ぐに歩いてきた。誰に理解されなくても、構わないと思っていた。
けれど、宮田が理解して、認めてくれていた事が、こんなに嬉しい。
理解してくれる人が、無事で傍に居ることが嬉しい。
宮田が隣に居る事が、当然のように今はなっている。
けれど今、傷だらけの宮田を見た時に、思い知らされた何かが、周太の中にあった。

― 誰かが隣にいるのって、悪くないでしょう?

宮田が実家に遊びに来た日の、母の言葉が思いだされた。




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木洩日の下、曙風 ― another,side story「陽はまた昇る」

2011-09-17 23:38:33 | 陽はまた昇るanother,side story

夜闇に芽吹き、曙光が花開かせる




木洩日の下、曙風 ― another,side story「陽はまた昇る」

目覚めると周太は、宮田の腕に包まれていた。

どういうことなのだろう。瞳だけ動かして、周太は驚いた。
自分の右掌が、指の長い掌を握っている。いつの間にか、宮田の手を握って眠ってしまったらしい。
いったい、どうしてこの状況なのか。周太には全く記憶がないが、申し訳なくて身動き出来ない。
目だけ動かして見た時計は、5時を指している。

もう少し、寝ていてもいいか。
ほっと息をつき、周太は体から力を抜いた。
宮田は熟睡しているようだ。背中から伝わる、熱と、微かに響く鼓動が心地良い。
温もりが穏やかに周太を寛がせてくれる。

 人って、あたたかいんだな

人の体温が心地良い事を、周太は初めて知った。
幼いころには、両親に抱かれて眠ってはいたが、その記憶は遠くて思いだせない。
頭の後ろに、ちょうど宮田の顔があるらしい。時折、規則正しい寝息が聞こえてくる。
以前にも、似たような事があった気がした。

宮田が、脱走した夜だ。職務質問の勉強をしながら、そのまま眠ってしまった事がある。
あの時は、夢と現実のあわいで、気の所為だろうと思っていた。
今、現実に抱きしめられる感覚が、あれも現実だったのかと思わせる。
その感覚は穏やかで、居心地が良い。それが周太にとって不思議だ。

 他人に触れられる事が、居心地良いなんて

他人が隣にいる事、触れられる事。今まで、周太は避けていた。
父の殉職以来、周囲の視線に交じった同情や好奇。それらに傷つけられる事は、もうたくさんだった。
ひとりの方が楽でいい、そう思うようになっていた。

けれど今、これだけ宮田に触れられているのに、嫌だとは思えない。
ふと気がつけば、宮田は毎日部屋へ来る。そして、周太の至近距離に座りこんで、時折に触れてくる。
それが嫌なら、相手を叩きだしてしまう自分を、周太は知っている。
宮田を、当たり前のように受け入れている自分に、周太は気がついた。

 宮田が隣にいても、触れられても、居心地が悪くない

どうしてなのだろう。かすかな眠りに浸りながら、周太は怪訝だった。
背中で気配がすこし動き、周太の首筋に肌が触れる。
瞳を動かして見ると、白い額を周太の襟元に埋めて、宮田は眠り込んでいた。
白い額の温もりが、周太に浸みてくる。与えられる温度を、居心地良く感じている自分に、周太は途惑った。

途惑いが、熱になって首筋を這い上がってくる。
きっと首筋が赤くなってしまう。それを宮田に悟られるのは、なんとなく悔しい。 
そっと宮田の腕を抜け、周太はベッドから降りた。



着替えて階下へ降りると、朝の光がリビングに満ちていた。
母はもう、庭へ出ているのだろう。野菜鋏を持つと、玄関にそっと置かれた古い下駄を履いて、周太は外へ出た。
小道を彩る草花が、下駄ばきの素足に朝露を落としてくる。
瑞々しい木洩日の下で、母は小さな菜園の手入れをしていた。

「お母さん、おはよう」

周太の声に、おはようと微笑んで母は立ち上がった。

「よく眠れた?」
「ん、よく眠れた」

答えながら、随分と目覚めが爽やかな事に気付いた。
そういえば、宮田と徹夜したまま眠った朝も、やけに目覚めは爽やかだった。
これはなんなのだろう、途惑い周太は、菜園の中に座りこんだ。

 まるで、宮田と眠るのが好き、みたいじゃないか

雑草を無心に抜こうとしても、首筋を熱が這い上ってくる。この癖、なんとかならないのだろうか。
考えていると、母が穏やかに口を開いた。

「良い子ね、宮田くん」
「そう、かな」

母の声に目を上げると、夏野菜の繁る葉に、朝露が光っていた。
きれいだなと眺めた、滴る緑の向こうで、母が微笑んだ。

「お母さん、宮田くん好きだな」

笑顔がきれいな人は誠実だもの。言いながら、母は籠へと野菜を摘み取り始めた。
母の言う通りかもしれない。宮田は子供っぽいけれど、裏表がない率直さがある。

「聞いたら宮田、きっと喜ぶよ」

答えながら周太も立ち上がり、朝食の分だけ野菜を採り始める。久しぶりの野菜鋏の感触が、懐かしい。
今朝は茄子炒めもいいかな、と考えていると、さらりと母が言った。

「宮田くん、周の事とても好きなのね」

思わず母の顔を見ると、黒目がちの瞳が楽しげに、朝陽に光っている。
どうして母はそう思うのだろう。一晩でも、母には何かが解るのだろうか。
ふっと宮田の腕の温もりが思い出されて、周太は目を伏せた。

「そうかな?」
「抱きしめて眠るのは、好きな人だけよ」

摘んだばかりのトマトが、地面に落ちた。
呼吸が心臓へ逆流して、息が詰まる。こんな風に驚いたのは、周太には初めての事だった。
けれど母は、明りが点いたままだから消しに行ったのと、何でもない事のように続けた。

「なんだか微笑ましくて、お母さん嬉しかった」

言われてみれば、デスクライトは消えていた。
気恥ずかしくて、顔が上げられない。その視線の先に、トマトが転がっていた。
畑の軟らかな土のお蔭で、割れずに済んだらしい。そっと拾い上げて、母の籠に入れる。
ぼそりと周太は言った。

「宮田いつも、気付くと隣にいるんだ」

父の殉職以来、親しい友人を作らなかった周太には、宮田の距離感が普通なのか、よく解らない。
それでも、成人の男同士でそんなのは、珍しいような気もする。
よく解らない、こういう事に慣れていない。途惑って周太は、母の黒目がちの瞳を見返した。
母は、穏やかに微笑んだ。

「誰かが隣にいるのって、悪くないでしょう?」

周のこと、そんなふうに想ってもらえて、お母さん嬉しいな。
言いながら、ふと母は足許に目を遣った。周太の履く、古い下駄を見ている。

「お父さんの下駄、履いてくれるのね」

父が遺した品々は、どれもそのままで母は大切にしている。
この家も、父が生まれ育った家だった。古いけれど木造の温もりと、年重ねて磨かれた清々しさが、周太は好きだ。
庭もほとんど、父が眺めた頃と変わっていない。

「履かないと、下駄は傷むから」

ちょっと大きいんだけどねと周太は微笑んだ。
警察官として男として、立派だった父の面影が、この家には佇んでいる。
大好きだった父に、いつか自分も追いつける日がくるのだろうか。
ふっと周太の胸裡に、宮田の言葉が思い出された。

― 俺、湯原の親父さんみたいな警官、目指したい
  警官は精神的に削られるだろ。それでも周りの人を忘れない男に、俺もなりたい
  お前の親父さん、俺は尊敬する

「お母さん、俺、宮田を父さんの部屋に案内した」

そうなの、と黒目がちの瞳が問いかける。
少し微笑んで、周太は続けた。

「宮田、父さんみたいな男になりたい、て言うんだ」

誰もが、殉職した父を同情の目で眺める。そこには好奇の目が混じる事もある。
射撃のオリンピック選手で、有能で、優しかった父。その全てが「殉職」に隠されてしまう。
「殉職」というレッテルだけで、父を見られる事が周太は辛かった。
けれど宮田は、先輩として男として父を見てくれる。そのことが周太は嬉しい。

「かっこいい人だなって、父さんの写真見てた」

お父さん素敵だから。
言って嬉しそうに母が笑う。その顔が、年を忘れたように初々しい。

「心が健やかな人は、素敵ね」

木洩日ふる緑の翳で、母の白い頬があかるい。
陽射しに、すこし目を細めて、そっと母が言った。

「お父さんの部屋に、誰かを招いたのは、初めてね」

重厚で、かすかに甘い。父の香が遺されたままの部屋。
大切な父の空間は、他人に触れられたくはなかった。
けれど、宮田を招き入れる事を、ごく自然に周太はしてしまった。

「宮田くんに来てもらって、お父さんも喜んだわね」

真っ直ぐな人がお父さん好きだから。
黒目がちの瞳が、曙光に揺れて光って見える。すこし、陽射しが強くなってきた。



採ってきた野菜を、水張った盥で洗う。トマトときゅうりは氷水に浸け置いた。
味噌汁の出汁を火にかけながら、母に茶を淹れる。
周は手際いいわね。と感心しながら、のんびり母は茶を啜っていた。
リビングの白い壁を、あたたかい陽光の色が明るませる。窓からの風が、木蔭の涼を静かにはこんでいた。
やっぱり家は居心地が良い。ふっと周太は微笑んだ。

茄子の味噌炒めを火から降ろした時、リビングの扉が開いた。
おはようございます、と宮田の声が背後で爽やかに響いた。
きっと笑顔も爽やかなんだろう。周太は、毎日見ている顔をふっと思い出した。

「すみません、ゆっくり眠らせて頂いて」
「よく眠れたなら、嬉しいわ」

二人の会話を背後に感じながら、周太は手早く卵焼きを巻いていく。

「お、うまそうじゃん」

急に隣から声がした。振り返ると、おはようと宮田がいつもの顔で笑った。
あまり急に声かけないで欲しい。宮田は気配で邪魔しないが、無防備をついてくるから周太は内心、途惑う。
何か手伝えることある?と訊きながら、手元を覗きこんだ宮田が感心した。

「へえ、手際良いな」

周は手際良いのよと、母もリビングから笑う。
父が亡くなり母が仕事へ出るようになって、周太は料理も覚えた。
仕事で疲れるだろう母を、少しでも楽にしたくて、どうしたら手際よく出来るのか、工夫を考えてきた。
隣に立ったまま、宮田は周太の手元を眺めている。こういうのは何だか緊張して、落着かない。
つい素っ気ない言い方で、惣菜の皿を宮田に押しつけた。

「この皿、運んだら座っててくれる?」

おうと機嫌良く答えて、宮田は運んでくれた。
屈託なく微笑まれると、なぜか罪悪感が募ってしまう。周太は客用の湯呑に、新しい茶を淹れた。
湯呑を味噌汁の盆に一緒に載せて、運ぶついでに、宮田の前に湯呑を置く。

「お、うまい」

一口啜って、宮田が周太に微笑んだ。
きれいな笑顔が、いつもより何となく眩しい。庭で母と交わした会話の所為だろうか。
なんとなく調子が狂う、けれど、そんなに嫌じゃない。それが周太には不思議だった。



食事の後片付けを済ませて、周太は二階へ上がった。
朝の穏やかな光に、階段の手摺が鈍い光沢を見せている。見慣れていた光景が、懐かしくて慕わしい。
警察学校に入ってから、家の光景は懐かしく、すこし切なく見える。家を離れるのは、こういう事なのだろう。
自室の扉を開けると、宮田はネクタイを締めている所だった。周太を見、きれいに宮田は微笑んだ。

「湯原、料理うまいんだな」
「ん、そうかな」
「湯原の母さん、嬉しそうに話してた。いつも助かってるって」
「ん、…」

答えながら、周太は少し、落着かない気持になった。
手を握ったまま眠ってしまったのは、何故だったのだろう。目覚めて抱いた疑問が、靄のように気にかかる。
けれど、訊くのも何だか恥ずかしい。周太が逡巡していると、宮田が口を開いた。

「湯原の背中って、なんか安心するんだよな」
「…は?」

きれいな切長い目が、すこし悪戯っぽい表情になっている。
こういう時は大概、途惑う事を宮田は言う。周太は少し身構えた。

「昨夜お前さ、本を手に持ったままで、寝落ちしたんだよ」

そういえば目覚めた時、本が手の傍に落ちていた。
そこに置いたから、と机を指さして宮田は続けた。

「本を片付けてやろうと手を開かせたら、逆にお前に手、握られてさ」

嘘だろう。と周太は思った。
けれど見透かされたように、嘘じゃないからなと宮田に念押しされた。

「仕方ないから、そのまま隣で寝かせてもらったから」

いくら寝ぼけていても、なんで宮田の手を握ってしまったのだろう。
周太は自分でも訳が解らない。けれど、目覚めが爽やかだったことは、確かだ。
切長い目をすうっと細めて、宮田が笑いかけた。

「湯原の体温、居心地良いんだよな。おかげで良く眠れた」

こんな事を話しているのに、宮田の端正な顔は涼やかだ。
こういう時、どんな顔をしていいのか、周太には解らない。

― 抱きしめて眠るのは、好きな人だけよ

母の言葉が思い出されて、どきりと周太の心が躓いた。
首筋がまた熱くなってくる。机の上の本を、周太は手に取った。
なんだか宮田の顔を見れない。そのまま周太は、ぼそっと呟いた。

「本、書斎に戻してくるから」

自室の扉を開けたまま、父の書斎の扉を開いて、閉めた。
カーテンを開けると、明るい朝の光が部屋にあふれる。本を書棚に戻すと、書斎机の写真を手に取った。
朝陽に照らされた父は、優しく微笑んでいる。

「父さん。俺、こういうの慣れてなくて」

何だか調子が狂う。自分は宮田を、どう思っているのだろう。
気がつけば、いつも隣に宮田はいる。

― 誰かが隣にいるのって悪くないでしょう?

庭で母に言われた通りだと思う。
宮田が隣にいるのは、決して嫌じゃない。

寮の部屋で二人きりになっても、宮田は息苦しさを感じさせない。
周太が本を読んでも、勉強していても、宮田の気配は邪魔をしてこない。
集中が途切れた時、ふっと目を上げるタイミングで、いつも話しかけてくる。

 意外と、宮田は繊細なんだよな

教場では賑やかにしているが、周太と二人だと物静かだ。
黙っている時はどこか翳さして、端正な顔が大人の男になっている。
子供っぽい時もあるけれど。

いつの間にか、宮田が隣で座っていることが、周太の日常になっている。
それが不思議で、けれど嫌じゃない。
むしろ最近は、寮の部屋で一人になると、静かさが気になるようになっている。

 俺は宮田の隣を、気に入っているのかな

最初は大嫌いだった。
要領の良い人間らしい、努力する人間を嘲笑うような冷淡さが、透けて見える笑顔が嫌いだった。
端正な顔だけに、余計に冷淡に見えた。その顔を壊してやりたくて、いつかやっつけてやろうと思っていた。

でも脱走した夜から、冷淡な空気が消えた。
父の事を話してから、宮田の距離が近づき始めた。
女子寮侵入の証拠探し以来、宮田は毎日、周太の部屋へ来るようになった。
今は、裏表の無い屈託のない笑顔が、周太のきつい警戒心をそっとほどいて隣に居る。

思えば、宮田が隣に居るようになって、結構長くなっている。
山岳訓練で怪我をした時は、世話をあれこれ見てくれた。
そういえば、あの頃から、触れられる事が多くなっていった気がする。
他人に触れられる事が苦手なはずなのに、周太はなぜか拒絶しないでいる。

 なんであいつ、触れてくるんだろう

父の安楽椅子に座りこんで、周太は片膝を抱えた。かすかに遺る父の気配が、周太を静かに受け留めてくれる。
こんなふうに、ぼんやり誰かの事を考えるなんて、周太には初めてだった。



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夕寂の許、凪風 ― another,side story「陽はまた昇る」

2011-09-16 21:58:59 | 陽はまた昇るanother,side story

当然のようにある事の、あやうさ



夕寂の許、凪風 ― another,side story「陽はまた昇る」

夕暮の淡い光が、机に落ちかかった。部活動の声が遠く聞こえる。
がらんとした教場で、斜め前に座っている宮田の背中が、ゆっくりとうなだれた。

「俺、また失敗したな」
「…失敗?」

周太の問いに、宮田が続ける。

「言いたくない事を、皆の前で話させた。…湯原の時と同じ事、また、やったんだよな」

斜め後ろからでは、顔はよく見えない。それでも背中の表情が、宮田の落ち込みを伺わせる。
もうすこし、近くに行った方が話しやすそうだ。周太は立ち上った。
すぐ隣へ歩み寄ると、宮田は腕組み、目を瞑っていた。

「宮田、」

声をかけても、瞑った目は開かない。相当、落ち込んでいるのだろう。
以前の宮田からは、こんな姿は想像できなかった。それとも今の姿が、本来の宮田なのだろうか。
普段通りの口調のまま、周太は口を開いた。

「遠野教官、笑っていたから」

きれいな切長い目が開き、見上げてきた。

「遠野が、笑う?」
「かすかだけど笑ってた。すっきりしたんじゃないのかな、教官も」

すこし微笑んで、周太は隣の机に浅く凭れた。

「…そっか」

宮田も椅子に凭れかかり、ほっと息を吐いた。
幾分は落ち着いたのか、空気がすこし穏やかになっている。

誰かの隣で、こんなふうに周太が立つのは、いつ以来だろう。
父が殉職して以来、同情や好奇を向けられる事が煩わしくて、少しずつ、他人とは距離をとるようになった。
ここに、警察学校に来てから、少しずつ肩の力が抜けて行くように感じる。

目の前で、宮田の短めの髪が、夕陽に光っている。
端正な横顔は、落着いた表情を見せていた。
本当に、少し前とは別人のような、良い顔をするようになったと、周太は思う。

父の話を、無理に引き出させたのは、宮田だった。
宮田の無神経さに、腹が立った。普通であることが当然だと信じている様な、ぬるい人間に何が解るのだろう。
警察官の危険な現実を教えてやればいい、覚悟が出来ないなら辞めろ。そう思って父の事を話し始めた。
けれど、話したら少し、すっきりしていた。

-強くなれ

遠野教官の言葉が、周太を受け留めたからかもしれない。
そして、宮田が父を受け留めてくれた。

-俺、湯原の親父さんみたいな警官、目指したい
 警官は精神的に削られるだろ。それでも周りの人を忘れない男に、俺もなりたい
 お前の親父さん、俺は尊敬する

殉職を同情するのではなく、先輩として男として、宮田は父を見てくれた。
そういう精神の健やかさが、宮田の良いところだと周太は思う。

あの時、周太は宮田に救われた。その事を、まだ伝えていない。
気恥ずかしいけれど、今が伝える時かもしれない。
ぼそりと周太は言った。

「俺も、すっきりしたから」
「…え、」

端正な顔が見上げてくる。
軽く口元を結び直してから、周太はまた唇を開いた。

「父さんの事、拳銃の事。話して、すっきりした」

抑揚のない声で言うと、周太は目を伏せた。
父も学んだ警察学校で、殉職した父の事を話せたのは、良い供養だったのかもしれない。
宮田は何も知らずに話させたけれど、そう思うと少し、感謝したくなる。

「…ありがとう、な」

宮田の声が、かすかに震えている。
切長い、きれいな目許から涙があふれ、頬つたって落ちていく。
周太は、そっと指で眦を拭ってやった。

「ほんと泣き虫だよな、宮田は」

本当に宮田は、よく泣く。その素直さが、周太には少し眩しい。
素直に涙流すことを、周太はもう、捨ててしまっていた。
父が殉職したあの日、多くのものを捨てさった事を、改めて思い知らされる。

「…じゃ、もう泣かね」

宮田の微笑んだ呟きに、周太は涙拭った指で、軽く目許を叩いてやった。
その指を、宮田の長い指が絡めとってしまった。

「宮田?」

どうしたのだろう。
宮田は時々、こんなふうに触れたがる。

― 俺は、寂しがり屋だから

スキンシップが少し過剰なのは、一人ではない事を、感触でも納得する為かもしれない。
気がつくと、宮田が目を閉じている。具合でも悪くなったのだろうか。

「だいじょうぶか?宮田」

だが宮田は、目を開くと、普段通りに笑って、周太の顔を見上げた。

「今日の授業の、復習しようぜ」
「その前に、手、離してくれない?」

淡々と周太は言いながら、宮田の顔を覗き込んだ。
切長い目が、一瞬すうっと細くなったが、いつも通りにまた笑った。

「やっぱり湯原、かわいいよな」
「そんなこと言うの、宮田くらいだよ。眼科行った方が良いんじゃない」

落着いた声で言いながら、周太は自席に戻った。赤くなる首筋は、見られたくない。
さっさとノートや教本を、鞄に詰めながら、宮田に声を掛けた。

「学習室行くんだろ?早く支度しろよ」
「おう、」

手を動かしながら、宮田は言った。

「俺さ、取調の名人になりたいな」

屈託なく笑いかけられたら、人は喋ってしまうかもしれない。
鞄を閉じながら、周太は少し考えて言った。

「宮田なら、なれるよ」

嬉しげに宮田が笑った。
本当に表情がよく変わる、素直な情感が宮田の良さかもしれない。
他人と関わるのが苦手な周太でも、裏表ない宮田の傍は、楽だった。

「湯原に言われると自信、持てるよなあ」

気楽な事を言うものだ。
つい周太は、混ぜっ返してやりたくなった。

「ただし、努力がかなり必要だと思うけど」

喋りながら並んで、廊下を歩く。こんなふうに、誰かと他愛なく話しながら歩くのは、悪くない。
周太は少し、宮田の隣を居心地良く思い始めていた。


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