エリートの本質見たり言うだけの番長すする乞食のお粥
塾頭は嘆き切なり蓮の上塾生じゅくじゅくお白州まがい
まつりごと携らずと古来より鶏頭もいぬ牛尾が群れる
すりすりと八岐大蛇へ二股もミツマタほどの繊維など無き
エリートの本質見たり言うだけの番長すする乞食のお粥
塾頭は嘆き切なり蓮の上塾生じゅくじゅくお白州まがい
まつりごと携らずと古来より鶏頭もいぬ牛尾が群れる
すりすりと八岐大蛇へ二股もミツマタほどの繊維など無き
踏み荒らし支柱抜かれし植栽地千夜は一夜環境教育
環境の負荷は意に無き催しに水辺は崩れ命採り減る
見渡せば雑木雑草ひとからげ踏まれて禿地消えた植生
さえずりの響く谷間にピシピシと別れを告げて樹は傾きぬ
傾けば辞世の歌を響かせて大樹地に落つわれ頭垂る
地響きを伝え大樹は静かなり年輪見れば我の半分
枝払い直に伸びたる幹姿除伐といえど迫るものあり
以前、喰い残された尻尾だけ採集して、シロマダラの現物と思っていた物は「シロマダラ」に間違いないようだ。たまたま、市の環境局から送られてきたパンフレットの中に生息動植物の紹介があって、その中に「シロマダラ」の写真が掲載されていたのだ。掲載写真より青みがかっているけれど、さてどうだか?。
何年も前になるが、越冬中のシロマダラ3匹を現認していながら、カメラが無かったから撮影できず、後日携行した時は、再度覆いを剥ぐ事がかわいそうで撮影しなかった。肥料袋を持ち上げたらいたのだが、思わず「紐よ、紐。斑の紐よ!」と言う、あの小説の台詞が浮かんだほどである。蛇と言うより「何で海蛇がここに?」という感覚だった。
撮影しなかった事は残念の極みだ。採集して動物園の爬虫類館に持ち込めばよかったと思っても後の祭りである。夜行性だし、もう出会う事は無いのだろうな…。
フキノトウ頭が見えて嬉しかりツクシ探すも空振り雨水
名のみとはよく言いたれど寒波でも陽射しは上がる木の芽膨らむ
スッパシのロゼット赤く盛り上がり分けて覗けば花穂おくるみ
風回る竹に鋸刃は挟まれて風の息待つ我も一息
気分転換に、斜めになってしまったヒノキをようやく1本処理できた。自然に倒れても人の入らない斜面とは言え「まさか」もあるから処理できてホッとした。作業開始前にチェーンソーの研磨を、研磨機を使用して行う心算だったのだが、手間を惜しんで手研ぎにしたため予想通りの顛末になった。
手研ぎの癖?というか、左右同じような切れ味に成り難いのである。切断すると左に切り入ってしまう。左右の刃先の磨耗も一様にならない。このため受け口を形成しても、かならずしも追い口からの切込みが水平に進まずツルの形成に影響するのだ。
小径木ならさほどの影響は無いのだが、1尺を越える径になると狙った位置にツルを作るのが困難になって、伐倒時に余計なストレスを生じさせてしまう。今回もツルの形成に難が出て、重心が偏移しているにも関わらず手間取ってしまった。
セオリーから言えば、斜め樹は重心方向に伐倒させないのが安全則だが、両脇を立ち木が押さえて伐倒方向の移動は出来ない状況だった。伐倒は樹の一本一本の条件が一様でないから、いつも新米木aワーカーである。
竹欲しき欲しいとこだけ持ち去りて後は捨て置く山荒れ姿
手を入れて入り易きに山なれば人手で荒れる里山の今日
入り合いは消えて約無き使い振り採り合う欲で里山無残
採り尽し汚染地のごと人寄らぬ山菜消えてさえずりさやか
除竹していた所に、時折楽しみにチョコッとくるH氏と立ち話になった。小生より樹木や植物に詳しいから、話しついでに名前を教えてもらったりしながら稜線に上がってガックリとなってしまった。
根元がビール瓶ほどになったツルグミ3本が狙われて除伐されていたのだ。この道も刈り払いや竹伐りなどをしながら維持していたので、除伐したのは会友ではない。
ツルグミは大きく頭上で常緑の葉を広げていたから「不要・迷惑」と切除したのだろうと推理するが、先に周囲の竹から除伐すべきのが順序だろう。その後、草本・木本の選択的除伐するくらいの知恵はなかったのだろうか。
ほとんど口に入る事はないのだが、赤い美味しい実が春に熟すし、残しておいて何の不都合もない樹種なのに残念だった。誰だか不明だけれど、継続的に手入れはしないが、余計なお節介をする輩は存在する。