「朽木は彫るべからず」と言えども彫刻するで無ければ使い道はある。今回、朽ちるに任せた集積場から護岸用資材として活かしたけれどまだ残りがあるし設えの必要な場所もある。重い材を曳き護岸に据え杭を打つ作業などそうそう続けたくもない作業であるけれど「だーれもやらず。じゃあ誰がやる?」と自問すれば自分しかいないのだった。てなもんや三度笠で何時もの顛末に相成ったのだ。
この日は曳きだすだけで任務終了とした。たかだか10本を曳きだし並べただけだけれどやはり疲労感が出て来る。牽引器をどれだけキコキコしただろうか。太い材で300φの長さ4mであるから水分たっぷりの古材は数百キロに達しているはずである。太すぎる材3本は2mに切断してみたがこれを50mほど曳かなければならないし泥濘部で据え付け作業もせねばならない。眺めているだけでは進まないのが人生である。
先日「当事者が研究者」という番組を観た。なかなか面白い内容で「捨てる国あれば拾う人あり」みたいな状況は興がつのったのだ。考えてみれば小生だって「当事者で研究者」であろう。姥捨て山での孤老にてコロッといくかどうかの保証は無いもののカエルやトンボに研究されている。もちろんそこにはアカデミックのかけらも無い棄民としてのかけらだがスッタモンダモヤモヤ感を持ちつつ蠢いている状況は近いと言えるだろう。寄る辺のない結果として結局は放置された朽木を曳きだし活用するなんて事は期せずしてSDGsに適っていようし、その意味では姥捨て山の孤爺と言えど最先端な行動なのである、とイチゴサッテモウシタモウシタ・・・。