高歌一曲 明鏡を掩う
昨日の少年 今は白頭 唐・許渾「愁思」
肩の疼きに耐えかねて深夜放送のリスナーとなり睡眠の質が低下したままの孤爺であるが、一方では懐かしい歌曲や興味深い対談や講演の耳福も有ったりして覚醒著しく、ますます睡眠の質が落ちていく今日この頃なのだ。故に「春眠暁を覚えず」なんて諺の適用は全く無いのだった。思春期の頃、真空管式ラジオにかじりついて聞いていた当時の歌謡は未だに好みではあるものの、この頃は「アジアの歌姫」の歌声が心地よく感じる。しかし二つの漢詩をアジアの歌姫の歌声に重ねると「スターと言えど胸に穴が開いたままだったような」の想いもする「シルキーボイス」だ。流行していた当時は聴く機会など無かったのだが睡眠の質が悪化した現在は穏やかになる心地がする。年末以来深夜、長らくポッカリ目覚めて見えても現実はうずいているのだが「眠らなければ!」的な思いも無く「目が覚めたらそこは花園だった」なんて恐怖心も無いのだが、これは耄碌の恩恵なのであろう。
春心 花と共に発くを争うこと莫れ
一寸の相思 一寸の灰 唐・李商隠「無題」
春は巡り来ても春心はカエルやトンボへのそれだけになった老境である。ただ世界は姥捨て山だけではないのでトンボの飛翔を真似て複眼で世界を見れば争う事ばかりで、敢て争いを前面に出す狂犬も出現している。しかし古来よりその先頭に立たされるのは蛙に近い立場の命だけであるのも事実だろう。前掲の「一寸の相思 一寸の灰」なんて詩句は「一寸の兵役 一寸の灰」としか思えない孤爺なのだが、だからこそ「花と共に発く事を争うこと莫れ」なんて世情は平和そのものなんだろうなあと感じる。「老兵は消えさるのみ」なんて達観した人物も存在したけれど吾輩は未だに自転車操業・水商売をやらなければならず、これも老兵の兵役みたいなもんであろう。実労の身体感覚は長いのだが「光陰、矢の如し」は若き日々より速く過去に遠ざかっている。