
流水では更に傷める可能性があるから、頭部のタオルに噴霧して気化冷却を期待するスプレーの用意もあったのでスプレーしながら汚れを落としてみた。翅色は着色していたので「当たり!」と喜んでみたものの腹節の色彩は芳しくない。それでも翅色と腹節の赤銅色から「マルタンヤンマ」と決めたのだった。他人に教える訳でも無し「思い込み」で一向にかまわないのである。
たとえ認識不足で誤認であったとしても事実である必要もなく実物だと思う「喜び」こそが明日の英気を養ってくれる。小生にすれば「千歳一遇」の機会なのである。まあ「嘘も方便」病ん坊、認亡、頓ボで構わん。
朱里エイコの「愛は旅びと」の一節、「どこまでがあなたで どこまでがあたしか ふたりともわからなくなる」なんて歌詞があるがさしずめ「どこまでがさぎょうで どこまでがあそびか おじいにはわからなくなる」と歌ってみる。まだ歌えたから耄碌は少ない、はずだ。
さて子細に観察しようにも傷みが進んでいて胸部の色彩は分かりにくい。それでも他の種も含めてだが実物を手にするなどシーズンにあるかないかの事なのである。そんなことで作業継続は不可能、横道にそれてしばらく遊んだのだ。もう一生懸命作業を行うような歳でも無し「二度童」であるがゆえに「童の遊びは仕事である!」。
それにしても我が世の春、いいえ、我が世の夏を謳歌していた虫たちの亡骸が目につく頃に入ったのだなあ。
