『散紅葉霜と相席年の明け』
『敷き紅葉霜にまみれて縮みたり』
『立春の日も射してこぬ照樹林』
『枯れ寄れば野辺の送りか葉は回る』
『竹失せてコクランは消え山萌える』
『切り株にタオル敷き座し生姜湯』
『魔法瓶開けて一木眺めおる』
『裸木を倒してなぞる株の歳』
『竹伐れば寒蔓しかと引き止める』
『かじかんだ指温めつつ刈り刃砥ぐ』
倒したシイの木の枝葉の処理をしようと近寄った時、キラッと光が目に飛び込んできた。発光点をみたら、それはメタリックカラーの蝶だった。
夏の終わり頃にはウラギンシジミ(2)やアオタテハモドキ(3)のような金属光沢を持つ蝶を見たことはあるが、早春に目に止まるのは初めてだった。
花の色もそうなのだが青系の色は写真では掴みにくい。実視より印象の薄い色合いで記録されてしまう。画像処理の泣き所なのだろうか。
さて名前だが、ルリシジミの類かムラサキシジミの類か、まあどうでもいいか。この手はいっぱいあるようだし…。ムラサキシジミだった。6~10月まで年2~4回発生とのことだが越冬した個体だろうか。
それはともかく、今日も目の保養をさせてもらった。 2010/02/24
七重八重花はさけども山吹のみのひとつだになきぞかなしき 兼明親王
七重八重ハナは垂れても鼻元に汁ひとつ無き舐めて始末す
わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも 大伴旅人
我が物に梅の花散るひさかたの采女と逝きの流れ来たかも
今日も正体不明、謎の物体を二つも見つけてしまった。幹と接しているところは樹皮と同化しているようにも見えるし、本体は木質系のようだ。二箇所ともヒサカキの幹だった。
一方、柿の枝を剪定した場所にバッタが刺さっていた。「百舌のはやにえ」と言うけど、早春にやるのかどうか秋の行動とばかり思っていたのだ。まだ生きていたから「変な止まり方をするものだ」と不審に思って顔を近づけて判ったのだが…。
落葉掻きをしていたらキノコが転がり出てきた。落ち葉に埋もれて気がつかなかったのだが、三箇所ほど発生した場所があった。帰宅して調べてみたら「カラムラサキハツ」のようだ。食毒不明だが「辛い」のだそうだ。今度みつけたらかじって確認しよう。
「サプライズ」と言うにはささやかであるが、多少の驚きと感動が伴ったのだし普段の場所だからこんなものだろう。来週には一周年を迎える「肋骨完全乖離骨折」なんてサプライズではないだけ喜ばしいのだ。でも、これはハプニングと言うべきか…。
侵入竹除伐もいささか飽きて雑木林の光量調節をはじめて二日目。ようやく林床に光りが届き始めた。常緑樹が多いので冬でも光が届かない。夏場は落葉樹の大木が葉を茂らすからもっと暗くなったのだ。ようやく樹冠が開いてくれた。
写真では緩斜面にしか見えないがスキー場なら遠慮する傾斜だ。樹齢は更新して若木の森にしたいのだが、大きな木はどれも高く伸び太い枝を広げているから切り倒しても倒れてくれない環境にある。木に登って枝を切り落としてから幹を倒す、なんて芸当はもう恐くてできないのだ。
いきおい中規模の常緑樹を除伐することになるが、必ず掛かり木となってはかどらなかった。それでも二日間で一面だけは見違えるようになったが、まだ細かい枝葉の処理はこれからだ。
林床に堆積している枯葉を除いてみると、下は結合力の弱い砂利層で僅かに腐食質があるだけだ。葉の分解も土の生成も遅れた表層だった。時期的には遅きに失した感もあるが、軽く落ち葉掻きをして今シーズンの植生の変化は観察せねばなるまい。
歩いても崩れない表層になるにはどれくらいかかるのだろう。下草や生物の営みと太陽光だけが頼みだ。姿を消していた植物が現れてくれるだろうか。保証は無いけど出現したらご褒美そのものだ。時は慈悲と無慈悲を内包しているなあ。
左褄でも わが身のうしお
好いた殿御にゃ 砂に描く ハア コリャコリャ 弥生姐さん
満ちるの待つも 時間は知らぬ
待つは帰ろの 心地かな ハア コリャコリャ 淡木
昨日逢うたが 今日もう寂し
一刻千愁 寄せる波 ハア コリャコリャ さざれ石
春でも無いのに のたつく波に
胸の高鳴り 気の塞ぎ ハア コリャコリャ 実習生
ガラガラドンは 三匹通る
跡を追うても 波が消す ハア コリャコリャ トロル
春未だき襟裳岬の流氷は溶けず流れず昆布養う とろろ
浅蜊っ子寄せては返す渚かな つづら
山桜の枝先を覘いて、何気に足元に視線を落としたら目に入った一輪。「もしや!」と思って秘密の場所まで足をのばしたら満開だったのだ。足元一面に畳2枚ほど青い花のカーペットだった。若い頃ほど胸が妖しくならないが、それでも好きな春の花だ。青いご飯茶碗は今でも胸が妖しくときめく。
ツユクサもそうだが青系の花は写真に撮ると似ても似つかない発色になってしまう。写真では実物の美しさは届かない。
春は黄系の花色が目立つ中で青系は異色とも言えそうだが、名前も「オオイヌノフグリ」では異色中の異色だろう。安易に口に出来ない発音だけど、フグリと言っても伝わらなくなったのが昨今だ。
しかし命名した学者は誰だか知らないが「ママコノシリヌグイ」同様、発想の貧弱さを感じる。今風に言えば「品格がない」となるのだろうか。
アゲハの食草にと移植したカラスザンショウは冬だから葉を落としているが、葉のついていたところは猿面そのものだ。それぞれ似ているようで全く同じでないところが面白い。
今日も暇をこいてしまった。