木立闇明ける晩秋はらはらと
トワイモア歌うはこれか青天井
どこまでも白き峰々遠き里
つばくろも猛暑も去ってみる群青
夜半の秋窓を閉じればただ寂々
昼寝せば布団抱えて夜半の月
床延べて家蚊と二人夜半の月
秋うららキチョウ道行ここかしこ
野ざらしとなりし空蝉かしらのみ
秋の日や胸の渇きもつのる夕
赤とんぼ野は緑なり嶺白し
木立闇明ける晩秋はらはらと
トワイモア歌うはこれか青天井
どこまでも白き峰々遠き里
つばくろも猛暑も去ってみる群青
夜半の秋窓を閉じればただ寂々
昼寝せば布団抱えて夜半の月
床延べて家蚊と二人夜半の月
秋うららキチョウ道行ここかしこ
野ざらしとなりし空蝉かしらのみ
秋の日や胸の渇きもつのる夕
赤とんぼ野は緑なり嶺白し
礼儀をもって党を収めん 裏金隠蔽不問じゃよ ハアコリャコリャ
石橋叩く打出の小槌 ひと焉んぞ廋さんや ハアコリャコリャ
改むるには憚らないで 朝令暮改のスピード感 ハアコリャコリャ
苦節万年講釈しても 巧言令色鮮なし仁 ハアコリャコリャ
石橋築く腐和雷同は 義を言い飾る信無きなり ハアコリャコリャ
未だに仁を好む者居ぬ 新造石橋ひびの音 ハアコリャコリャ
あしたに道をぶち上げ廻り 夕べの椅子で死んだふり ハアコリャコリャ
朽木だったし糞土の垣だ 石も破れりゃただの礫 ハアコリャコリャ
椅子を獲ったら豹変為して コメツキバッタの宙返り ハアコリャコリャ
痴者は楽しみ陣者はアジる 椅子取りゲームのアッパッパ ハアコリャコリャ
痴者は惑わず陣者憂えず 幽者恥無し同じ舟 ハアコリャコリャ
他人の助けで石橋わたる 飾って為すのは命乞い ハアコリャコリャ
同じて和せぬ在庫の一掃 カチカチ山の泥造舟 ハアコリャコリャ
平時を壊す獪力乱心 過ぎたるよりは中庸よ ハアコリャコリャ
布団位置変えつ名月夜もすがら
眼鏡なくタクワン三切れ三重に見え
名月や寝茣蓙で浴びし熱帯夜
かぐや姫送ってくだされ爺の床
笹団子齧りつ見上ぐ月待茶
月見上ぐ兎追いしや凍てし里
南中の高き輝きまぶしけり
窓開けてひかり身に浴ぶ熱帯夜
青葉城恋歌うたいつ見上ぐ夜半の月
名月や側臥で感ず月の圧
光浴び一夜共にす寝茣蓙かな
名月も年増となりぬ丑三つ
名月を背中にも見せてやり
とんだ一夜だった。月を見上げつつ「スペースカーボーイ」のラストシーンを思い出したのが拙かったのだ。核弾頭を地球外への軌道に乗せた宇宙飛行士(名前が出て来ない)が夢だった月に到着し岩にもたれて地球を見ながら絶命したシーンである。月を見上げていた孤爺と重なって眠りに入ろうとするとビビビッとフレーズが湧く。こうなると般若心経を唱えようと光明真言を唱えようとマインドフルネスを行なおうと無駄なのだった。嵐が過ぎ去るのをひたすら堪忍辛抱我慢の時間、で寝不足であるが本日は最高気温35℃の猛暑日の予報だから耄碌しない程度にグダグダする!。しかし、お茶菓子が無い、欲しい。
八月はほぼ熱中症警戒アラート出っ放しで猛暑日も続きフイールドには出かける気分にもならず我が生涯初めてのエアコンを使った部屋で終日過ごす事態となったのだ。狭い室内で出来る事は限られているのに猛暑で気分だけはゲンナリしていては現金は生る訳も無く注目の新札は二種類、拝んだだけである。八月末になり、ようやく降雨があったりし猛暑日からは解放されると思いきや、今度は連日の雨の乱れ打ちで後半も閉門蟄居どころか閉口蟄居の手太楽である。それにつけてもおやつは軽~く、ではなくフイールドの状態を想像すると溜息も出ないのだった。
八月末4日間の総雨量は700mmを越え、これは記録だそうだが記録など糞の役にも立たない。晴れてしまえば老いぼれた孤爺はフイールドの後始末、特に水源地、送水設備、水系の補修と思わぬ作業が目白押しで既に便秘状態になっているだろう。目白押しは可愛いけれど便秘ウンコが押しているのを想像するだけで「押忍!」と気合を入れねばならないのだった。情の深い鬼年増に見込まれた小僧のように戦々恐々とフイールドと対峙する日が近い。まあ、それはそれとして閉口蟄居の日々、どうにもならない時間つぶしにビビビッと天頂光輪、いいえ天頂降臨したのは昨年度は改訂できなかった資料を補足改訂する事だった。これでようやくお暇地獄から抜け出る事が出来た。
その気になりさえすれば集中できる孤爺なので、良く言えばそうだけれど実態は「待てない性格」の精で精力と時間をつぎ込む羽目になった訳で、我ながら哀しい性に泣いた。それでも良くしたもので見やすいように図表を作成しベースにする概念などを補足充実させて閉口蟄居中に完成を見たのである。写真は試しプリントで体裁を見た一冊であるが、PCに保存してある内容をプリントして閉じれば完成するのだ。校正しつつ確認のプリントをしたりして用紙もインクも不足してしまい補充しないと製本できない。まあ、急ぐ事も無いけれど今まで以上に見やすくなったと自負できる一品になった。
一応、情報提供者用に10部製作して配布のつもりだけれど用紙は500枚、インクは2セット必要だから経費は1万円程度必要になるのだろう。考えてみれば閉口蟄居の中、1万円で遊べたのだから安いと言えば安い。しかし四日間にわたるPC作業は易くは無かった。さして労働強度も無いのに熟睡できた事、出来た事、これも神仏、水神様の思し召しなのだろう。しかし雨天続きで冷蔵庫は空っ呆、乏し飯で頑張ったのであったわい。
庭の林檎の樹の手入をしなくなってから久しい。摘果はそこそこ行うが農薬や肥料は使わない。それと言うのもジャムにする熱意や需要が減ったからなのだ。果実は実っても放任だから順次落下するけれど、そうなると「もったいない!」と拾って食するのであるが、これがまた手間なのであった。果実は小振りで吸汁被害を受けた箇所は腐食が進み使い物にならない果実もある。外皮もまた市販品のように綺麗に出来る事も無い。「食べる」意識があった頃は摘果もし袋も掛けたので小振りながら綺麗な果実を得られたけれど、手間を掛けない昨今の果実は写真のようなものになる。
それでいつも思うのはリンゴの産地の実成りの状態だ。テレビや写真で見ると袋も掛けないで大玉の綺麗な果実が鈴なりの画像はよく目にする。摘果し肥料を施していれば果実も育つけれど果実や葉の被害は放任ではまずアウトだろう。それで商品とするには農薬も適切に使用しなければならないはずなのだが、その効果は自分の処の果実と比較すると驚くに値する。リンゴやナシ、カキなどは皮ごと食べる小生なので残留農薬はちとばかり気にするけれど小年金高齢の孤爺ともなれば残留農薬の蓄積など意に介しても居れん。病害虫に侵された玉だって腐植部を切り除けば口に納められる。
かくして不揃いの切り分けリンゴに唇寄せて「リンゴ園の林檎はどうして綺麗なのだろうか!」と幼い疑問を胸に秘め不揃いの断片を口にするのであった。写真の品種は紅玉だが受粉樹のフジは更に実成りが悪い。まあ、後発品種だけにそれだけ御母日傘を必要とするのだろう、くらいは察しているのだった。「だからどうした⁉」と言われれば引っ込んで昼寝するしかない孤爺である。まあ、永世孤爺の称号は手にしたからそれで良し!かも。カモカモバンビーノ、であるコッタ、テラコッタ・・・。
フイールドへの途中に山神様の洞が在るのだが特段の注意もせず通っているけれど、いざ到着となればそれなりのルーティンは必要なのである。基本的に身に着けるのはスマホと財布、キーホルダー及び外傷キットだけれどベルトで装着する夏場のアイテムは蚊取り線香と飲料水及び蒸散冷却出来る帽子が三種の神器、いいえ山守の仁義として必須アイテムである。これは他者に対してではなくあくまで自分自身の為である事が孤爺としての孤爺たる所以でもある。
今期は特別暑いし、この暑さが来期以降も続くだろうからそうなると「特別の暑さ」でも無くなるけれど、それはそれ、アイテムの性能向上と変更は無理なので備えは現状維持であって、それで対応が難しければ自宅蟄居謹慎でイジイジしているしかない好々爺になってしまう。まあ、居爺居爺であることは間違いないのだ。
さて、飲料水の用途として傷を洗う場面も想定すると新鮮な水が望ましいのだがリスクとしては熱中症の方が高いので今期の携行飲料水は水道水と塩分タブレットの組み合わせだけでなく、梅干しと紫蘇シロップまたは梅シロップを合わせ飲用にしている。熱中症予防タブレットを容器に入れて溶かすのが簡便だけれど、折々に梅味、紫蘇味、オリゴ糖味などを組み合わせておけば飽きがこない。自宅で熱中症予防で飲用するドリンクも作り置きはしないけれど梅干し水を梅シロップか紫蘇シロップと混合してまあ、即席の経口補水液である。この場合も吸収率が良い混合比など考慮外であって、全てが適当なのだ。とは言え糖質の取り過ぎだけは多少の注意はする。
ここの処、最高気温は35℃前後をウロウロしていて昨日は36℃に達した。こうなると外出なんて思慮の外であってひっそりと閉門蟄居するしかない。庭は草茫茫だがこの高温炎天下ではさすがに控える。昔々「梅雨明け十日」なんて言われていたのが近頃では「夏明け十月」と気象庁が言っているとか言ないとか…。台風一過の爽やかな青空も望むべくもない温暖化の結果である。
「アリとキリギリス」は皆さんご承知の童話と言うか寓話だろうが「アリとアブヅカ」なんて一編もあるのだった。今期はことのほか虻の量が多くてフイールドの駐車場に到着すればドアを開ける前からお迎えが来る。まあ、阿弥陀三尊様のご来迎ではないから許容範囲なのだが煩い。煩わしいのには血圧が上昇するし作業中に見舞われると一匹でもしつこさには辟易する。特に水域に立ち込んで抜去や土木を行いゴム引き手袋が泥汚れ状態の時は捕殺に手間取りウンザリもするのだ。
だからこそ車両に群がりくる虻を捕獲してあり塚、というより巣穴近くに置いてみたいけれど今期は黒蟻の巣穴を発見できないのだった。地表面の高温化で出入り口や巣を移動させた可能性もある。そこで林道の舗装面に置いとくのだが帰宅前に覗けば蟻が群れている。どこからこんなに集まるのか巣穴のところまでストーカーはしなかったけれど撮影だけはしてみた。まあ、眺めて涼やかな心境になる絵ではないけれど蟻さんの食糧貯蔵の熱意には感心するし一方、この国の自給率と貯蔵量を知るともう「矢尽き刀折れた」状態と言わざるを得ない。大丈夫ではないですよ。太平ではなく大変です。
今期初となる蝉の脱け殻を見つけたのが12日の事で勿論、種の判断は出来ない。例年だとフイールドの行き帰りにくぐるバイパス直下の桜並木で最初の鳴き声を聞くのであるが、そこでの鳴き声も無くフイールドでも聞いてはいない。と言ったところでこの猛暑振りで熱中症警戒アラート出ずっ張りの今日この頃ではリスクが高くなる野外活動も爺害活動も厄介活動も控えめである。
この空蝉は至近の遊水地で見つけたものだが鳴き声は聞いていない。例年夏の最初に聞くのはクマゼミの大音量だけれど、クマゼミの初音よりもここ数年はハルゼミの鳴き声が無く、台風で倒れたテーダ大松5本を超える数を育てて点在させてきたがやはりまとまった林としての環境が無いと無理なのかどうか、それとも既に絶滅してしまったのだろうか、クマゼミより気にかかるが樹には掛かってはくれないハルゼミだった。
そんなボンヤリの折、少しの晴れ間を縫ってフイールドに出かけたのだが図書館裏のケヤキ林とバイパス下の桜の並木、フイールドでクマゼミの合唱を聴く事が出来た。まあ、初音ではあるけれど「ますます暑い夏本番到来!」てなもんや三度笠、であって嬉しくも無い猛暑下である。
擁壁の何カ所かにイワタバコが定着しているのだが小生にとっては初めて見る花である。昔々、自宅の庭石にイワタバコを付着させたいと思った事があったのだが必要な水分の維持が難しそうなので断念したから身近でイワタバコを見たことが無かった。それが通りすがりに観察できるなんてこれはまさに祝着至極なのである。園芸種なのかどうか分からないけれど桃色や水色があったような記憶があるのだがさーてどうなのか、既に脳軟化症や耄碌、認知障害進行中の孤爺であれば正しい回路にはなかなか接続できない、と言うより回復は困難と覚悟すべきなのだろう。被災地のように復興の希望がある訳でも無し、あちこちの政府のように劣化の一途をたどる過程でもある。
しかし、しかしながらである。やはり人生捨ててはいけない悪あがきもするのであって。いわゆる回想療法を模倣してキャンデーズを聴いてみた。何と何と我が青春のみぎり、既に青春の輝きとしての発露もあった頭部に響く歌ではないか。ヒット中の頃はたまたま耳に入ってきた程度のお付き合いだったのだがしっかりと聴いているとこれは大変危ない歌詞でもあると思ったのだ。それをテンポ良い音楽に乗せ三人一声のようなコーラスは単なるアイドルの域を超えている。だからこそ努力は大変なものであったのだろうし「普通の女の子になります!」の台詞は普通の高齢者になれなかった孤爺には良ーく理解できたのであった。まあ、イワタバコとは全く関係のない展開だが、斑痴呆が存在する我が身、回想療法の飛び火と理解されたい。お陰様で小学生の頃2年だけ同級だった転校生を思い出したのだ。今頃、どうしているのだろうね。
しかしなあ、こうも猛暑を超え酷暑が続いてはイワタバコも煙を出して消え果てるのではないかと気になるのだが朝から28度越えの日々では水見回りにも行く気になれん。いーや、出かけてはならない気象条件だろう。この程度の配慮・注意できている我がもとに先日、姉が電話をよこしたのだが合言葉は「死んでも命があるように…」だ。
何回「これで終了!」と思った事だろう。だがやはり神経生理学上に於いても「慣性の法則」というものはあるのだった。もうどうにも止まらない、と言うより良く言えば製麺機から麺が出て来る状態、尾籠な言い方をすればウンコが出てくるように次の脅迫的課題が浮かんでくる。今回も休む間もなく「使う事のない作務衣の生地をサイドボタンノースリーブに転用して敵を取る!」と意趣は明確にあったのだから「草臥れる・・・」訳にはいかなかった。
まずは作務衣の糸切りから開始して全てのパーツにばらし身頃は前と後ろ用に、袖は見返し分がどうにか切り取れるので使う事にした。前回のサイドボタンノースリーブはどう考えても説明図が誤っているとしか思えず、似たようなデザインの別掲載の説明図を参考にして作成できたのである。ただ身丈は生地の切れ端を作りたくなかったから長さはそのまま使ったけれど、これはこれで別物にも思える。サイズは140で女児向けとしたけれどデザインそのものはどちらでも利用可能だろう。
まあ、さすがに青い菊のデザインの作務衣で人前に出る事は憚れるし室内で着用する趣味には少々齟齬があった柄だった。この生地は頂き物を活用してみた物だったから子ども向きに転用した事で生地も祝着至極であろうぞ。
崖の肩線に列植した木本の年数は様々で実生樹も含まれている。その中でもチョウの幼虫の食樹としての柑橘樹はまだ小さいので少なからず手入れが必要だ。日陰に強いと言っても全日日陰では成長は望めないので大きい樹木の、この日はトチノキやクリの枝が被さっている部分を整枝剪定して多少は日光が当たるようにしていたのだけれど、崖の肩線から落ちたところの急斜面にあるガクアジサイが開花していた。
花色は写真のような桃色で日照の悪い場所でもあるのでヒョロ枝に数個の花を見せていた。場所柄、作業できる場所でも無く植え付けは不可能で自然発生したピンク系統とも考え難く思える。園芸種の鉢植えが枯れ死した物を根鉢もろとも崖に棄てた可能性も考えなければならないのだが、このまま打ち捨てるにはもったいない花でもあった。株ごと掘り上げるには危険で転落防止措置を講じなければ掘り取れない場所でもあるし、枝を切って刺し穂なら可能性もあるのだがアジサイに興味は無いし、でもでも花としてはいいえ、ガク色としては捨てがたいガクアジサイである。
林道の真ん中に黒い物体があったのを通りすがりに目にとめたのだが停車して確認する幅は無いので通り過ぎ広くなった場所に停車させて徒歩で現場に戻ったら案の定、カラスの死骸だった。山域の活動に入って長いけれど野生動物の喰い散らかしされた残骸を見る機会は殆どないのだ。鳥類で食痕は羽毛だけでサギの捕食された現場では長い脚だけが残っていた程度でしかない。四つ足では沢のゴミ溜まりの下で尾骨の長い骨格だけになった一体を見ただけで、野生動物の死骸はホントに目に留まらないのである。
今回のカラスの捕食体、太腿と内臓だけが綺麗に失われており大胸筋は食べられてなかった。そこで気になったのは「捕食者はだれか⁉」と言う事だけれど鳥なのか四つ足なのかどっちだろう。捕食者が鳥類ならば羽毛を抜くはずと理解しているしアライグマやキツネならば頭部も齧るだろうし、そこで思い出したのは野猫ではないかと言う推理である。捨てられて野猫となった個体数は確認できただけでも4個体ほど存在するので「猫かなあ…」が孤爺の暇つぶしに推理した顛末だ。
獰猛なカラスも餌となりて消ゆ
連日の小雨模様を幸いとして孤爺さんは夜鍋をしてまた未明から粛々と孤軍奮闘、甚平作りに励んでいるのであった。そういう状態だと待てない孤爺さんは飯抜きをしたくなるのだがこれ以上の老衰は避けたい。まあでも、夜間の漏水は避けられそうも無いので受容と寛容の精神で臨むしかないのが人生だなあ。さて、そんな訳で台所では立食で済ますかと雑炊が早いので仕掛けたのだが直ぐに気分は変り「そうだ!リゾットが良い!」となったものの材料は無し。そこでなんとかあり合わせてリゾット風紛い物で誤魔化したのであった。でも美味しさは犠牲にしないのが大和男の心意気なのである。
前日の残りご飯をフライパンで煮たてイナゴの佃煮、粒コーン、魚肉ソーセージ、インゲン、粉チーズで煮込み、黒コショウを掛けて実食する。心はミシン掛けにあるのだが「旨い!」を感じる余裕もあるのだ。食べながら何時もの妄想、いいえ降臨レシピは「イナゴご飯」であった。「蜂の子も虫、イナゴも虫」であるから炊き込みごはんで美味しいはずだ。既にハチの子飯は30年も食べていない。「昆虫食は世界を救う」はずであるからして老衰も夜間の漏水からも救ってくれるだろうと早速夕食に炊き込んでみた。
材料は写真の通りなのだがまたもや待てない性格ゆえの準備不足でニンジンが欠けてしまった。いろどりが寂しいけれど鮮やかな色彩満載のコース料理一食を楽しんでも最後は一色に変換されるのであるからしてニンジンが無くても中長期的には何の支障も無いのである。味付けはイナゴの佃煮任せだったので少々薄味仕立てだが年齢を考慮すれば減塩はベストだ。炊き込んだイナゴの歯ごたえは佃煮時とほとんど変わらず、この点が不満と言えば不満で、奥歯の不調で好きな固いものを控えなければならず、バリバリ齧りたいイナゴも炊き込んでも少々固めだったのは裏目で恨めしい。まあ、冷や飯喰いでないだけ有難いのう。
それもこれもご先祖様のご加護のお蔭でありがたや!。食べて快腸ミシンも快調泥浚い不調・・・。
玄関の庇、雨樋カバー内に営巣を初めて20年くらいたつイソヒヨドリ。同一個体が20年も営巣するとは思えないから代替わりしているのだろうが、もちろん確認など不可能なのだった。今までの撮影は庇直ぐ上の小窓窓枠に箱を挟みこみあけた穴からデシカメで撮影していたのだ。いわゆる「出っ歯の亀さん」ならぬ「出箱の爺さん」をやったのだが端的には隠し撮り、盗撮なのであった。それでもお縄頂戴に至らないのは自宅内という限定空間に由るのだろう。育雛期間、午後の数時間を費やして餌を咥えて降りた瞬間を撮影していたのだが加齢とともにその根気が薄れて来る。その上、座布団を当てては居ても肘は痛くなるし肩は凝るし首にも堪らない苦痛をもたらす姿勢のなのでここ数年は撮影しなかった。まあ、一言で言えば我慢我慢の匍匐狙撃兵に近い。
ところが思いもかけずトレイルカメラを付与していただく事になってチャレンジ再会したのである。トレイルカメラで撮影・確認したかったのは冬の夜、塒として飛来している水鳥の確認と夏の夜間に飛来している恐らくヤマシギらしいのだがその確認に使えると判断して少しだけだが高級機が入手出来たのだ。しかし冬鳥は来期になるし夏の夜間は時期的に早い。そこで今期も巣材を運んでいるイソヒヨドリの営巣・育雛、特に給餌回数や餌の種類を巣立ちまでの期間すべてを撮影する気概を持って準備を急いだのだ。
餌を運ぶ頃になっての設置では放棄される心配があるし、巣材を運ぶ頃合いなら多少はリスクは減るだろうと思いつつ、日中の出入りする時間帯に造作をする訳にはいかない。いきおいセットは暗くなって出入る心配がない時間となった。しかし初めてのトレイルカメラとの付き合い、撮影するためには通常のデジタルカメラのような簡便さが無かった。夜間にセットしたカメラを翌日の夜まで待ってから画像を確認して再セットの繰り返しを何日か要して出た結論は「この条件での撮影は用をなさない」と言う事で残念無念の結果である。
カメラと巣への入り口までおよそ150cmあるがトレイルカメラの性質上撮影角度が大きく、そのためイソヒヨドリは小鳥とは言えないものの小さすぎたのだった。その上、機敏な動きで巣を出入りするのでカメラの検知速度に勝りONにならなかったり撮影開始してもすでに遅く巣内に入ってしまい姿なし、飛び立ってしまい姿無しの画像ばかりになった。時折写し込まれる鳥自体も小さいので拡大しても詳細は判り難いのであった。自動式で撮影・記録するためには現在の位置関係では光学式ズーム機能を要したカメラで無いと役に立たないと判断するしかない。
そうなるとカモやシギなどはイソヒヨドリより何倍も大きい体格ではあるけれど夜間の赤外線撮影と距離的にも10mを越える条件下では役立つ映像が撮影できるかどうか心もとない。シカやイノシシ、テンやアライグマのような哺乳動物なら楽なのだろうけれど撮影したところでどうと言う事も無し。さーて、苦労したカメラ取付架台と太陽光発電パネルの設置、トレイルカメラ本体の扱い、どうする⁉・・・。実はカメラを取り付けたフラワースタンドのもう片方、向こう側底面に見える木製直方体の物体はイソヒヨドリ用の巣箱なのだ。快適性で勝るはずで使ってくれると思っていたのだが今期も目もくれなかった。ここの中で営巣してくれれば巣内カメラを購入するつもりだったけれど頓挫中。人生、宝くじも当たらないし姥捨て山の孤爺だし、我が周囲に前向きの兆しはひとつとて無し。これって前世のなんの因果かいなあ。
さて11日、修理に出したカメラが戻ってきた。PCと接続できなかった理由はソーラパネル充電用のコードだったのだが説明書にはどれがどのコードなのかの説明がないので素人には判るはずもない。どのメーカーもコスト削減のために説明書を簡略化する傾向があるし、スマホを例にとればネットで閲覧できるタイプは100ページもあったりするから理解はするけれど今回のトレイルカメラの取説は省略し過ぎに感じた。それはともかくPCと繋がせるために四苦八苦したのだが画像をファイルしてもブログ画面に取り込めないのだ。
動画だからと予想はしても色々と登録するのもリスクがあるし面倒で、とりあえずはカメラでPCモニター上の部分を切り取ってみた。画質は下がるがイソヒヨドリのオスメスの区別はつく。しかしこれは修理前の画像なので給餌体勢でもなさそう、ましてや運び込む餌の種類は判明しないだろうなと少々ヤケッパチだ。とりあえずは数日はそのままにして様子見である。一応、スマホとの連携が済んだので毎回外さなくても画像のチェックは出来るはずなのだが我が人生、何処に石っころが転がっているか判らんから、はたしてどうだかまあ、台所にも芋の煮っころがしがあるしなぁ・・。
この日、夜半まで降雨でフイールドは濡れているから出かけるのは止めて久しぶりにバンビーノガーデンに行ってみた。半年ぶりくらいになるだろうか。小生、生まれも育ちも由緒正しき雅な南魚沼の米作水飲み百姓が出自であるにもかかわらず農作業にはとんと興味が湧かない。既に出来上がった体系を踏襲するだけでは面白くも無いのだ。フイールド作業は年年歳歳定型作業はあるけれど作物では無いのでその場その場での対応が必要でここが面白いのである。目的は「生物生産型の森づくり・環境保全」なのだが、ある意味「創出・創成」的部分が大きい。ここに「他をもって代えがたし」の面白味と魅力があるのだが実態は自転車操業・水商売。まあ、丁稚で追い回しと言う処が妥当だろう。
ウダはそのくらいにして出かけた理由はテーブルの再塗装であった。従前、出かけた折りに白く塗装した皮膜が剥がれて天板の腐食が始っている。最初の油性塗料の上に水性塗料を塗付したので皮膜の耐久性が損なわれてしまった。そこで今回、フイールドで柵の再生作業で使った油性塗料の残りで仕上げに行ったのである。缶詰の空き缶にスチールたわしを入れて、これで表面の皮膜残渣を取り除いた。電動工具があれば造作もない作業だけれど文明の利器は持っていないのであった。この被膜取り、ワイヤーブラシより肌を傷めないしサンドペーパーより簡単で安上がりだ。
塗装は念入りに木地に吸収される部分には何度も塗装を重ねて大小のテーブルの塗装を終えた。これで数年は持つはずである。乾燥して出来上がりが気になるところなれど、そのうち出かける機会もあるだろう。