若き日の 走りが記録
走り書き録 事件記者
コーヒーは 炒るのが命
居るの害の地 汚染地区
デパートの 地下寄る話し
近寄る歯無し のぞき穴
トノサマバッタか、竹を地際から切断するために、落葉を払って地表面を出していたらバッタが現れた。竹の葉が堆積した中で越冬していたらしい。
今日の最高気温は8.5度、降霜こそ無かったものの、地表を寒気から保護していた竹林は消えたから、むき出しの地表だ。感心したのは、この寒さにもかかわらず30cmは飛び跳ねられた事だ。動きは鈍く「寝ぼけていても身を守る」、そんな気持ちが伝わってきた。
作業が済んだ場所で笹の枯葉を被せておいたが、無事に春を迎えるのだろうか。この時期に昆虫は全く出会うことが無いから、少々嬉しくもあった。そう言えば、今日は小鳥の鳴き声が全く無かった。「小鳥鳴」とか書いて「たかなし」と読むだったか、記憶があやふやだが、猛禽類の影も見えなかったのにどうしてだろう。記憶を辿ると、鳥の鳴き声が全くしない日も時々あるのだが理由は不明だ。
寒風を避けて谷間の竹を伐る藪のうぐいす地鳴きの大寒
ジョウビタキなぜに我追う植樹する日当たり温き斜面の枝で
裸木の明るき森で除伐する凍える日々も蚋無き嬉し
操りの無二の世界を押し出され里山にいる我は小さき
寒旱だったけれど集水升から水は溢れているのに、バルブを閉められていた不条理を解消すべく、降雨があったのに意を決し、モンキースパナ持参でバルブの開放に出かけた。ところがである、バルブは開放になっていて肩透かしを食ってしまった。骨折り損だったけれど水が戻ったから「良し」としよう。
ここのメダカは全滅してしまったが、救いは上部の丸太ダムが干上がらず、わずかばかりの水溜りにメダカは生き残ってくれた。これが出水とともに流下してくれればシーズンには回復するだろう。やれやれだったが、蛍やトンボの幼虫は生き残っているのかどうか未確認だけれど、寝床を荒らすわけにもいかず、活動期までお預けだ。
最終段の水泥地は未完成のままだが、風害木を使って堤の護岸処理を行えば完成する。とは言え、現段階では除竹作業中だから、3月頃までお預けである。
年が明けて三週間も経ってしまったから、ミカンやお神酒、御幣などは消えてしまったけれど、年明けしばらくはなかなかの風情だった。
今年も豊年満作を祈って、新年に田の神さまをお祭りする事は、農耕稲作の民の伝習でも在っただろうが、こういう祭った現場を見る事は難しくなっている。いま祭っている世代が消えてしまえば失われてしまう伝統行事だ。
具体的かつ科学的な反映があるということではないけれど、生活や心の在りようとして必要なことだろう。小生が田舎にいた時代、田の神さまに神事をしていたかどうかは承知していないが、それは雪深い里であるから、このような形でのお祭りは無理だった事くらいは理解する。
祖父母、両親の時代、新年の仏壇や神棚に田の神さまを祭っていたのだろうか。
さーて、何だったか忘れた。滅多に無い機会だったのに洋食を前にしたら撮影する余裕がない。フォークとスプーンは外側からなのか内側からなのか訊ねる始末だった。
北欧からの客人が、年末年始に我が家の食事だけでは食った気がしないだろうからと、フイールド至近のレストランで昼食にしたのだ。
午前中は竹切り作業をさせたのだけれど、彼曰く「フォレスターが食べる食事ではない」との事だった。まあ、確かにその通りで、松の内というのに作業着姿の三人が、披露宴もすると言う店内にいたのでは店も困っただろう。ただ、他に客もおらず貸切と同じだったのが救いだ。
スープからデザートまでの中で記憶にあるのは、メインは魚の「鱸」だったということだけである。美味しかったかどうかは、ナイフとフォークの使い方に集中した心理状態では無理である。似合わない事の極致だった。