九胞は喜寿に達した者あればそろえて皆は還暦を過ぐ
若き日の兄と結べぬ古希の人過ぎし年月知らぬ人生
高齢の門前に立つこの身でも童の記憶ふるえて生まる
ふるさとは若きに離したわれ故に父母の晩年聞く痛み有り
九胞は喜寿に達した者あればそろえて皆は還暦を過ぐ
若き日の兄と結べぬ古希の人過ぎし年月知らぬ人生
高齢の門前に立つこの身でも童の記憶ふるえて生まる
ふるさとは若きに離したわれ故に父母の晩年聞く痛み有り
№1温水田 №2温水田 №3作付け
№4作付け №5作付け №6作付け
棚田は4枚に田植えをしたが猪に食害されて収穫は皆無となった。稲穂を食べ荒らした後も来襲して、今は稲藁さえ消えてしまっている。あろうことか作付けしてなかった水面を覆っていたミズアオイも、今はすっかり痕跡さえなくて泥田の有様だ。ミズアオイも食料としてしまったようである。
会友は「稲がだめならレンコン、あるいはクワイを植えるか」などと話していたが、この有様をみて作付けする徒労を理解したようだ。この棚田は当初の思惑通りに「水生生物のリザーブタンク」として維持するのが、この里山の利にかなっている…のだと思うことにした。と言うより、思わざるを得ない猪の被害状況なのである。
と思いつつ、やっぱり稲の作付けは思い切れない。収穫よりもトンボや蜘蛛の食料生産用に欲しい環境的植生だろう。言わば、水だけの田として維持するにしても水稲の存在は「命の循環」に欠かせない要素とも思うからだ。さてさて素面の御曹司が弁慶のごとく暴れた、六段の舞台は大晦日となった。
小生が伐採した樹ではないが、切り位置が高くベンチにもならないし、子どもたちが乗り上がって怪我でもしたら困るから、ベンチになる高さで伐り直しをした。
新しい刃は良く切れて、切り粉を吹雪のように噴出してくる。鑑賞するわけにはいかない局面だけど、感じているだけでも気持ちは良い時間だ。
「新しい刃は良く切れて」の裏を返せば「研ぎ直しが下手糞」と言うことにもなるのだけど、目立ては何度やっても同じようにはいかない難しさがある。新品の刃を装着して丸太を切断すると、自重で切断できるくらい良く切れるが、一旦目立てを済ますと切り粉が微妙に変わってくる。新品同様の切れ味を感じるのは10回に一回くらいの頻度だろうか。
何回か目立てを続けた刃は、研ぎ手の癖が顕著になってくる。小生の場合は左に切り溝が寄っていく事と言えるが、これは左右の切れ刃の仕上がりが均等でないことに由来する。
それを承知で、修正する心算で目立てを行うのだが、いまだ解決しない。今回の切り直しは水平切りなのだが、やはり傾斜がついてしまった。
侵入竹の除伐しながらも、立ち枯れした木の伐採が必要になる時がある。大抵は除竹してから処理するのだが、空間が欲しいので一本除伐したが、結果は「掛かり木」となり、外したらまた「掛かり木」となってしまった。
一回だけは、真竹の樹冠に掛かるのは必至だったのだけれど、ヒノキの枝に掛かってしまったのは誤算、と言うよりコントロール不足だった。杉の木なら枯れ枝は大概折れて落ちてくれるのだが、ヒノキはしぶとく何時までも残っている。掛かっている枝の太さは牛乳瓶の太さも無いのだが、しっかりと絡み付いて落としてくれない。
結局、ロープを掛けて引き落としたが、今度は真竹に掛かってしまった。倒す方向は厳密に意識して作業をするけれど、上部の枝の狭い間を通らせるのは慎重さが必要だ。「掛かり木」にしたくないと思えば思うほど「掛かり易くなる」、ここにもマーフィの法則が出てしまうのだ。
今日は初冬日を記録した。道理でフイールドは一面の霜景色、止水域はことごとく氷結、ここまでは既に見慣れた光景なのだが、「やっぱり!」と思わせたものは靴裏の感触である。地面がカチカチなのだ。
バイオトイレの蛇口の下は氷筍が出来ている。蛇口の水滴は凍結していて、滴り落ちてはいなかったが、それまでに成長した氷の柱は18リットルの缶の高さより高くなっていた。初冬日とはいっても、昨日、一昨日のような身を切られそうな体感はなかった。日中は10度を越えたし、何よりも風が無かったのが良かった。
そうは言っても、午後になると風が強まってくる。昔聞いた歌詞に「風に吹かれておとうが消えた。峠の向こうに霞んで消えた」のごとく、小父さん達も昼を食べると霞のごとく消え去る昨今なのである。特に薪は背負ってないし、火も着いてはいないのだけれど、泥舟に乗っているのは共通かなあ…。
ヒノキ林の侵入竹除伐の、倒す場所確保のための空間がようやく繋がり、それによって林の一部が露出してきた。
ヒノキの肥大は悪く、当然と言えば当然だけれど、葉は上部に申し訳程度、帽子のようにしか茂っていない。すべて孟宗竹と競合した結果であるけれども、竹の全伐が済んで日射量が回復すれば、多少は葉の茂り方も回復する事を期待している。
今日は季節風が強く寒い一日だった。先日の初氷観測の日でも凍結しなかったトンボ池が凍結していた。寒いはずである。こんな日は作業を中止すると、途端に寒さを感じてしまう。気象記録の最高気温は8℃に達しなかったが、これは市内の気象台での数値、拠点小屋に到着した時の外気温は、小屋の温度計で0℃を指していたし、昼食時は5℃だったのだ。
林の一部とは言え顕わに出来たが、衣服を剥ぎ取って「寒々しい」というより、陽射しが入るようになったから「温かい」感じ方だ。でも一方では「痛々しい」風景でもある。
駐車場に降り立った。もう「うーさぶっ!」と言うしかなかった。体感的には身を切られる様な寒さだ。トンボ池に立ち寄ってみたら全面氷結していた。寒いはずである。
予定では棚田の水路の手直しをする心算で出かけてきたのだが、こころ挫かれる寒さだ。「せっかく出かけてきたのだから」と思い直してスコップとツルハシを携えて手直しをしてきた。こんな寒さだと、さすがに蚋のお出ましは無いから、それだけはありがたい。
帰宅途中の車内から北部の奥山が望まれるのだが、白い山容になっている。それを見て、寒いはずである事を十分納得した。標高は千メートル程度なのに、さすがにクリスマス寒波である。全山真っ白より裸木や地表の色も見えるうっすら雪を被った景色の方が寒く感じてしまうのは小生だけだろうか。
上腕の痛みは冷えると増す。入浴中は痛くないのだ。今日は温感シップを張り、保温サポーターを装着して出かけたが、この寒さでは効果も薄かった。お正月休みで治るかな、治らないかな…、あんまり期待は出来そうも無い。
草の種ズボン飾れば掻き落とす山の帰りの秋の習いよ
干草を踏み固めればサイロにて芋蔓踏みを想う秋の日
新池に入る流れはささ濁り落ちる水音澄みて冬空
掘り上げた池の落葉は様々に浮いて漂い沈みて隠る
会友のA氏が日照支障木を除伐すると言うので留意点を伝え、小生は除竹作業をしていたのだがチェーンソーの切れ味が鈍ってきたから、除伐の現場まで脚を伸ばしてみたところ、倒す事は倒したがチェーンソーが挟まって抜けなくなっていた。これでは「チェーンノー」である。まあ、丁度良いところにご到着したと言う事になるが、年輪を数えると35以上、地上1mで長径45cmあった。
一番の要因は「受け口不十分」に尽きるようだった。そのため何度も刃を入れているうちに倒れて挟まったようだ。広葉樹は重心の位置が明確でなく、倒れる方向も判断しにくいことが多い。今回の樹の倒れる方向は、小生が予想していた方向とは60度程度外れていたのだ。
従前に、周囲の木は除伐しておいたし、この木の大きい下枝は昨年に切断しておいたから、掛かり木になることなく地上に倒れてくれた。会友2人も助っ人に入っていたが、事故につながらなかったのは幸いだった。しかし倒れた場所が散策道だったから、4人で排除作業となった。
チェーンソーの切れ味が鈍っているので、少し早めの昼食としたが、動かないと寒さが身に凍みて、食事も早々に残りの作業開始に立ち上がってしまう。結果は、さすがに全員「くたびれたー!」。
棚田への取水堰を手直ししたついでに、棚田2の拡幅をする。沢の流路との間の畦が氾濫で破壊され湿地状態になっていたのを、堤兼畦を新たに作りなおすことで棚田の面積を広げることが出来た。
作付けはしないから、単なる貯水容量・貯水面積の拡大でしかないけど、水辺環境の少ない周辺の環境にとっては一坪強の拡張でも大きな量である。ただ水路の南側の斜面に生えている樹木が大きくなり過ぎて張り出し、夏季でも棚田の三分の一ほど日陰にしてしまう。
田んぼとして稲作がなされていれば、周囲の斜面の樹木については「裾刈り伐採処理範囲」として他の地主であっても、通知だけで伐採処理できる範囲らしいのだが、放棄田となった今となっては山裾の伐採処理など必要が無くなっている。
稲作はしないから日陰はかまわないのだが、樹木から落ちてくる雨滴が畦を浸食して植物を生やさないし、痩せさせる一方だから除伐を考えなければならない。春にはリョウブ3本を除伐したのだが、更に上部の30年生程度の樹木数本を除伐する必要がある。
急斜面の作業になるから年明けの雨期が来る前の乾燥期がベストだろうと思っているけれど、それなりに心して取り掛かる必要のある危険作業だ。でも、ちょっとだけ心躍る。
クチナシが色付いたので会友が収穫した。植栽したのではなく自生の株だ。例年、初夏の頃には葉が食害されて無残な姿になっていたのを、今年は一回だけ殺虫剤を噴霧した。その後も食害はあったが、丸坊主にはならなく良い実が結実した。
何に使うのかというと、正月の栗きんとんの着色に使うのだそうだ。小生は栗きんとんなど作らないから不用だけれど、生け花やリースには色合いが華やかだろう。会友はご飯もクチナシで着色したものを炊くとのことだったが、西洋料理にサフランを入れて着色する料理があったような…、クチナシで代用できるのだろうか。もっとも色は似せても薬効は無理である。
クチナシはひっそりと森の中にあるから採集する人は会友くらいだが、千両の赤い実が着いた枝は、12月になるとことごとく切り取られて消えていく。どうも正月飾りをつくるために集めとって行くみたいなのだ。どっちも冬の楽しみが減じてしまうことには変わりが無いし、鮮やかな色の消えた裸木の目立つ林内は寂しいものだ。