トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

棚田部の除草 2

2024-10-31 | 水辺環境の保全

 棚田部の除草二日目。 一般的に「除草」と言えば「抜き取る」とか「刈り払う」とか、最近では「除草剤を撒く」のが多くなったけれど生物生産緑地ではこのような始末は出来難い。除草剤も使うが今の処はワルナスビの根絶のためにスポット散布だけであって「抜き取り」もオオカナダモのように特定の草本木本になる。

 今回の棚田の除草は猛暑の夏と豪雨の気象が相まって作業日数が大幅に減少した結果、フイールドは荒れるがままだった。水域には陸地からランナーで進入した植物体の全盛期になってしまい「除草」とは言うものの「鍬を打ち込んで曳き上げる」除草なのである。座布団1枚程度の面積の抜去除草でも渾身の力を込め陸まで運ばねばならない。長靴は泥の中で足場は悪く「踏ん張る」必要があるから膝には通常の除草なんかより多大の負荷が掛かっているだろう。湿布とサポーターが欠かせなくなった。冬季に常用していた保温サポーターがいくら探しても見つからず古いのを仮に使っているけれど、ここはやはり新しいサポーターを購入するのが膝を保つ事になるのだろう。

 さて棚田部の最終日「本日中に決着をつける!」との意気込みで田に入ってはみたものの、意気が上がらず息が上がる。正直言って「詰まんない作業」なのである。既に日陰になった水域にはトンボの飛翔も無くツチガエルやヌマガエルも姿が無くなった。ニホンアカガエルは11月中も姿を見せるけれど顔はシャープなので、小生がファンになったとは言えないレベルなのだが隣国の女優のオタマジャクシ顔を思い出せないから寂しい。以前にも触れたがあの「オタマジャクシ顔風」の顔が何とも可愛いのだが、こういう表現は適切では無いと思いつつ「やっぱりそう見えるから可愛い」のである。しかしKポップで人気だった頃のブロマイドやポートレートは均一すぎて魅力が無い。

 まあこういう事は、いつもの耄碌言動のひとつだけれど孤爺にとっては初体験の「押し」なのである。でもまあ「沼」に嵌る熱中さはなくともシリーズのドラマは消去していない。そんな日常で沼に嵌らずとも泥に嵌った日々が続いて、ともかく棚田部はすっきりした。水域の植物体を上げる事でヤゴの最適越冬場所を撤去してしまう事と相成ったけれど、だからと言って水域に侵出させたままでは来季の作業が倍増する。少しでも増えない様に日々微力を注入せねばならない。我が身体髪膚はアフリカ出の始祖から始まって両親により生まれ出でたのだが、このフイールドは我が困難辛苦の汗と痛みで出来上がっておって、それに支えられた生物生産緑地なのである。

     


棚田部の除草

2024-10-30 | 水辺環境の保全

 この日、泥水池の陸地中央にぽっかりと口を開けた漏水トンネルを「危険なので早めに埋め立てよう…」と開口部を広げてみたけれどあまりにも蒸し暑くなって棚田部の除草にトンズラしてしまった。予報では30℃で実測値は29,1℃まで上がったのだから10月中盤では辟易する気温だ。

 棚田部の除草は水際から水域に侵入著しいウシノヒタイとチゴザサがほとんどで、四本鍬を打って摺動させながら根こそぎ引寄せて引き揚げるのを繰り返すのである。これも前かがみの姿勢と引寄せるのに踏ん張らねばならないから膝には堪えるのであるけれど3日ほど休息させたから多少は大丈夫だろう。まあ、穴埋め用に土を掘り一輪車で運び投入する作業よりは多少は軽い作業になるはずだ。それでも全てのチゴザサが抜け切れる訳も無く、多少は残るのでこれらは田圃に入って手抜きとなるのだった。結局のところ、この手間が大きくて棚田の全周囲を始末できず1辺と半分ほどが残ってしまった。残ったのは全てがチゴザサのコロニーなので少々手ごわい。


漏水トンネル陥没部の始末

2024-10-29 | 水辺環境の保全

 作業の選択は折々に決めるけれど優先されるのはリスクの高さである。やはり危険が大きい範囲は早急に処理して納めたい。そんな事で片脚を落して判明した陥没孔を埋めたてるべく開口部を広げてみたのだが予想通り深くて広い。小生が匍匐前進できる大きさの傾斜洞になっている。傾斜角から棚下の吐水口に繋がっているのは明白だった。

 そうなると投入すべき土砂の量は一輪車で何十回も運ばねばならない量になるし、その量は泥水地に積み上がった浚渫土では全く不足だ。あわよくば高くなった浚渫土の投棄場所にと皮算用していたものの数日では終わりそうもないのである。その上この日は30℃予想の夏日状態で穴の確認をしただけで嫌気が生じてしまった。結局は伐採した樹木を被せてとりあえずは先送りだ。気温が涼しくなってからボチボチ考える事にした。小生以外は立ち入らない部分なのでとりあえずの人身被害は避けられるけれど構造破壊につながる空洞なのでそれが懸念事項だ。

     

 


泥水池内の草抜き終わった・・・

2024-10-28 | 水辺環境の保全

 ようやく泥水池のある棚の草抜きが終わった。水域内のチゴザサやアシカキなど、匍匐性でランナーを伸ばしつつ株を大きくしていくタイプなのでコナギみたいに簡単には済まない。手抜きで元株を握ってしまえばある程度の広がりを排除出来るものの、節毎に発根して成長していくのでそれだけ手かきを多くせなばならない。特にアシカキは全草に細かいささくれがあり肌に触るとヒリヒリする微細な傷を発生させるし絡んでくるし厄介なのはこの上も無いのだった。

 そこで四本鍬を打ち込んでユサユサと摺動させ根付きを緩ませつつ掻き集めて陸に上げる事を繰り返し行うのだった。水域内では脚を捕られやすいし陸に上がる位置は何処でも今までの泥浚いで高くなっていてウントコショ、ドッコイショの手太楽、その上、今回の集積はフジバカマが全滅した範囲の嵩上げを行いつつ処理する事にしたので掻き曳いて上げた泥土と根茎を引きずって並べていくのだった。まあ、黙々と行うしかない作業で、ようやく泥水池の在る棚の除草が終わったのであった。さすがにくたびれて一日の休みを入れるのだがワクチン休みになるのでもあった。


7回目のオオカナダモ抜去

2024-10-27 | 小人閑居して憮然

 この国は税金盗人も外来種プレゼンターも誠におおらかで節操なく、だからこそわが青春のみぎりより頭頂部脱毛が進んだのはこのようなストレスによるであるから手の施しようもない。上の池のオオカナダモの抜去は今期7回目になった。前回は9月16日だったから一カ月を経過したものの気温水温の低下で繁殖速度は遅くなって足浴バケツに1/3程度の量であった。

 昨季はグズグズしているうちに飛来した水鳥の胃袋に収まったようで「ヤレヤレ助かった!」と思ったけれど根は残っていたようで春になったらしっかりと発生していたから、今期は根ごと残さず抜去したのである。これで水鳥の餌を減じた事になるけれど、本来はありえない藻であるし残して置けばおっつけ池中がオオカナダモに乗っ取られ在来生物も生存不可能になる。11月になると水温も下がりオオカナダモ自体も水底に横たわるから抜去しずらくなるので早めに抜去となった。

 今回の抜去で今期は終了だけれど今までの経験則から「根ごと抜去していても必ず多発する」ので根絶は厄介なオオカナダモなのだ。投入していった人物を丑の刻参りの対象にしたいけれど人物の特定が出来ないので新しい稲わらで人形を作ってみたところで役には立つまいて。陰陽師も近くに居ないしなあ・・・。


泥水地の刈り払い、泥水池1の草浚い・・・

2024-10-26 | 水辺環境の保全

 今期は沈泥地のフジバカマは全滅だった。初期はここかしこに萌えだしたのだがカサスゲに席巻されて消えてしまった。昨季まではカサスゲの倍も背丈を伸ばして開花したのだが嫌地現象があるのか湿潤のストレスによるものか孤爺にはとんと分からないし既に「とんと昔があったとさ。フジバカマもノアザミも既に消えたそうな・・・」なんて糸口かもしれない。

 そうなるとカサスゲをのさばらしておく理由がなく、刈り払って跡に泥地となった池内の草浚いで出た物を集積せねばならない。既に池の周囲は泥上げし堆積した泥土が土手になっていて作業が行い難くなっている。カサスゲを刈り払い今期の用は済んだミソハギも刈り払い、作業を行いやすくしたのだ。その後に泥水池1に立ち入って四本鍬でチゴザサを根株ごと掻き集めようとしたものの夏場に繁殖したのちに10号台風のゲリラ豪雨で泥土の堆積著しく抜根しようとする四本鍬をすり抜けてしまう。もともとの根茎と草丈を埋めた泥土の抵抗は作業を厄介にしているのだった。

 それでも掻き集められる部分は曳きあげて残った植物体は手抜きをする、水深はほぼ無いにも等しい泥地となったしまったから今夏、ここに集まって塒にしただろうヤマシギの群れの撮影は当然無理だったのだ。入手したトレイルカメラは無用の長物になってしまったが、それでも次期までに泥浚いが出来て水深が復活すれば可能性が出て来るだろう。なんやかんやと望ましくない事態が続くがフジバカマが全滅した事で跡地に泥土を積み上げられる余地が出来たのは保全作業にとっては少しばかり役に立つ。。


今日の素労風努「特濃厚濃密ヨーグルト」

2024-10-25 | 何よりの楽しみ

 牛乳を毎日コップ一杯は至難であって、涼しくなればチャイ風にして飲用するけれど少々面倒くさいのだ。そこで乳製品は発酵させてヨーグルトにしたうえ、キムチや糀と混ぜたお惣菜風にし毎食食べるけれどヨーグルトの水分を抜くのもいささか面倒に感じる。そこで最初から「ホエーの生じない濃厚で濃密なヨーグルトを作るにはどうすればよいのか」なんて課題がまだら痴呆現在進行形の中でたまたま回路が繋がって「ビビビッ!」と来たのである。その発端は「ギリシャヨーグルト」で、小生は実物は知らないがなにか固さが勝ると言う様な話を思い出したのだ。

 店頭にギリシャヨーグルトは並んでいるかも知れないものの「さらに勝る一品」は先祖伝来雅な越後の水飲み百姓の出自と沽券に掛けても達成しなければご先祖様に恥ずかしい。本来、水飲み百姓であっても「百姓」と言われた誇りは保たねばならん。聞くところによると「百姓」は差別用語で放送禁止用語だそう職業蔑視を糊塗する本末転倒である。百姓をやってみればわかるけれど単細胞では成り立たない奥深さがあるからだ。その上、身をもって事に当たらねば出来ない仕事でもあって小生は「百姓」に燦然と輝く後光を見るのである。そもそも一次産業は国家国民の命の綱、生命線である

 さて、またもや馬鹿さ加減を晒してしまったが孤爺の思考は乳酸菌様の意向に沿ったものとなって大成功となったのである。まずはスキムミルク一袋を温めたミルク1ℓに十分に撹拌し溶かし込み、種菌も混合させてヨーグルトメーカーで24時間保温発酵させた。通常は8時間程度なので3倍の時間を掛けたことになる。その結果、ホエーは大匙1杯程度しか出て来ず、容器を横倒ししても流れ落ちない固さになっていた。例えれば「絹ごし豆腐」程度の固さなので容器を反転すればそのままの形で出て来るだろう。食味は長い発酵時間なので酸味が強くなっているが弱い甘味も感じられる。これにジャムや蜂蜜を掛ければスイーツになる出来栄えだった。冷蔵庫にあったのは梅とリンゴのジャムだけだったのでひと匙添えて試食した。

 そして半分は一晩更に水抜きしてみた。いつも通り、仕掛けに盛ったのだが何時もとは異なり半量しか盛れなくて「まあ。試しだから…」と一晩おいてみた。やはり嵩の目減りは無くホエーも大匙一杯程度溜まっているだけである。小匙で掬い口に入れてみるとほぼ「ヨーグルトチーズ」であった。庫内のヨーグルトチーズと食べ比べしてみると食味はほとんど変わらない。これを更に加熱し「蘇」になるまで調理してみようかどうしょうかとまたまた迷いが生じて来る。加熱すれば乳酸菌は死滅するし蘇にする意味があるのかどうか人生、煩悩とは切り離せないものである。


泥水池3の除草

2024-10-24 | 水辺環境の保全

 お天気に恵まれてこの日も繁茂したイネ科の野草の抜去に励んだ。池の面積も大きいし抜去するにしても四本鍬で打ち掻く事の連続だから体の全面は泥だらけで、当然眼鏡も泥が張り付いている。清水が無いのでそのまま作業続行であるが緻密な作業では無いので支障は無いのだ。抜去した物を場外搬出一カ所で済ませたかったものの体力気力の限界もあって残りの部分は泥水池内の陸地部分の低いところに集積する。おっつけ威之志士様の跋扈蹂躙に見舞われる事だろうが泥土も結構な量を根回りに抱えて引き揚げてきたから数年すれば低い部分は数センチは土で高さが上がる。

 水面を開いて改めて眺めれば「大きい池だなあ」としみじみするのだった。暑い盛り、まだ多くの種類が飛翔している頃に水面を開けば居ながらにして極楽とんぼとなっただろうが今夏は別格の猛暑で作業日数も格段に減りその分、水域の荒れ方が激しいのは致し方なしである。沈泥池付近にはマユタテアカネくらいしか見られなくなって、時折はオニヤンマが通り過ぎていく。十月も中旬だと言うのにまだ蝉が鳴いているが盛夏のように全フレーズの鳴き方は無い。今頃鳴いていてもお嫁さんは居ないだろうに…秋深し、である。

 孤爺は黙々と猛暑とゲリラ豪雨の置き土産に老後の日々を使うのだったが労後の一杯は人参ジュースがよろしかろうと初めて購入してみたら糖分たっぷりで、これでは生人参をスライスして醤油麹をまぶした方が良いのでもう買わない。左下の小さい写真は作業開始前の沈泥池と泥水池3である。沈泥池の泥の堆積、泥水池の侵入野草の繁茂の様子が判ろう。


泥水池3の除草

2024-10-23 | 水辺環境の保全

 泥水池3への侵出植物の勢力は旺盛で精力減退の孤爺としてはますます辟易するのであるが、そうそうしょぼくれても居れないので一大決心をして褌は既に使わないからゴムの緩くなったパンツを上げズボンで押さえ池に入ったのだった。世間大方の心象ではチャッチャと抜き取る程度のイメージなのだろうがそうは問屋が卸さない、降ろさなくても降り気味なのがゴムが弱ったパンツなのである。まあ、それは横に置いといて草勢のすさまじさは手抜きなど出来る状態では無いのだった。この夏の猛暑でも水の切れなかった水域は侵入植生の勢いは半端ではない、のであるがこれが本来の野生野草というものであって最適な状態と言わなくても「まあまあ」に保つにはそれなりの活動努力が必須である。しかし今夏の暑気はすさまじく耄碌気味のご老体を晒すことは出来なかった結果でもある。

 そんな手太楽で軒並みランナーを伸ばし上になり下になりしつつ水面を覆ってしまった。手で抜こうにも葉や茎に細かいざらつきがあって素肌だと傷になるし、結局は四本鍬を打ち込んで引寄せ引寄せ溜まった頃合いで引きずって陸に上げ場外搬出となる。根回りには泥を抱えていてそれらを一緒に移動させるので重い事重い事、難儀この上も無いのである。水域の中は浮力も多少は作用するし底との接地面は泥土なので潤滑剤代わりになるのだが脚が抜けにくい。だから「オットットーッ!」は絶対発生させてはならない環境下での作業だ。

 バランスを崩し「オットットーッ!」ともなれば足の一歩が出ないのでそのまま泥中に身を投げ出す事になる。そうなったら最後、着替えが無いのでスッポンポンで運転し帰宅だ。過去には厳冬期に棚田の氷で滑り沈してカメラまで損なった前科があるから油断はしないのである。この時は周囲は無人だった事を幸いに畦で衣服を脱ぎ絞り、運転席には肥料袋を敷き帰宅したのだった。すぐさま湯を張り入浴したのである。そんな手太楽にならぬためには曳き出す速度は遅くするけれど仕方がない。この日も抜き始めて残り1/3程度の処で作業は終了させた。

 少し早めに終了したのは極厚のコピー用紙が必要だったからで、これは街中の文具店まで行かないと入手できないのだった。購入できれば現在製本中の資料が完成させられる。隣り沢からの取水が不可能となった暁には我がこのフイールドは終焉の時であって、言わば過去帳になるかならないかの瀬戸際でもあるのだ。そんななんやかんやで日々是好日には遠い労後であり達成感も無ければ起精漢でも無くなった。色即是空空即是色、万物の中の塵芥のような輪廻の中の微塵に過ぎない存在は、それでも姥捨て山で栄光の夢を見るのを捨てきれないが梅の栄枯を見ている程度のレベルだ。


なんて骨体・ご老体・・・

2024-10-22 | 小人閑居して憮然

 フイールドの駐車場に入ったとたん異常に気が付いた。稲架ニ掛が倒れているのである。前日は所用で休んだし時折立ち話している親父さんも「昨日は足を向けなかった」と言っているので二晩寝ていたのか一晩だったのか知る由も無いがまあ、降雨に合わなかったのは幸いだった。孤爺としては水域の草抜きをするために出かけたのであって、こんな始末に手間暇を掛けたくなかったけれど「見て見ぬふり」も出来ない。前日は多少は強い風も吹いた気象条件だから風で倒れた事も考えられるものの、人為的に竹の支え一本を蹴飛ばせば倒れる構造でもあるし威之志士様の猪突猛進ひっかけではさらに容易に倒れるはずだ。しかし稲穂の被害は無いので獣害ではないだろう。前日に倒れたと推測すると日曜日だったから入域した人による悪戯も考えられる。

 理由や原因を推測しても稲架に掛かる訳も無く、やるべき水域の除草を後回しにして復旧させることにした。そんなに手間暇を掛けたくないし再び倒れさせるのも脱穀の日時が近づいている事もあり避けたい。とりあえずすぐ倒れてしまう三脚で稲架を構成し補強に中央部に前後からつっかえ棒、ここではつっかえ竹であるが固定して足払いを掛けられても全体が倒れ難いよう補強した。残りは稲束を掛けるだけで終わり。雨よけに頬かむりさせてあったものの固定してある紐を解いて結わえてまで行う気にもなれず終了とした。架け替えている間、湿っぽさが気にはなったが、ただでさえ日当たりの悪くなった沢内の広場の木陰に据えてあった稲架は同じ場所でなく周囲が開けて風通しの良いところに据えたから乾燥は早くなるはずだ。


沈泥池4,5の除草

2024-10-21 | 水辺環境の保全

 泥水池の前衛、沈泥池の泥浚いを終えた。まあ、水面を開けた程度の泥浚いであったものの、堆積した量が半端ではなかったしもう一層を浚うとなると泥を上げる場所に事欠くし、一所だけに手間暇をかけては全体最適化が果たせない。泥水池の状態悪化払拭もさることながら取水堰の掘り出しも急がないとおっつけ送水が止まる。気は焦れども身体動かず・・・・・。

 何んと思おうと身体を動かさない限り保全作業は進まないのであってヨタヨタユルユルと手足を動かし片付けるのであった。この日、除草を開始した泥水池5は一連の池の中で最終池に当たり、役割は放水路との段差を少なくする役割であったけれど、トンボやカエルは頓着しないし環境を好めば水が切れない限りは産卵したりするので、やはり水面を開け湛水している様に漏水部を潰すなどの配慮はしなければならない。

 それは気配り・見守りなどの実効の無い作業だけでは済まないのだった。侵入したヒザカキやウシノヒタイなどを四本鍬で打ち込み引き上げ残ってしまった一部は立ち込んで手抜きした終了。面積的には小さいものの踏ん張る作業の連続だと安静時に「膝に負担を掛けてるなあ…」と思わさるを得ず、起きて湿布を貼る夜になってしまった。こんな日々を続ければ回復不可能のダメージを形成しかねないのは理解していても我が日々は「やるべきかやらざるべきか…」なんて岐路の選択肢は無いのであって小説の主人公はいかなる境遇でも活字仮想現実であり幸福である。我、姥捨て山の孤爺であるかぎりは活爺懸想現実なので身体苦痛からは逃れられない。


沈泥池の泥浚い四日目で一応の終了…

2024-10-20 | 水辺環境の保全

 沈泥池水域の泥浚いがようやく終わった。とは言え水面を出した程度で水面の下にはもう一浚い出来る泥の層があるけれど「とりあえず終了として」他の水域の手当てに移りたい。実際はもう一度、仕上げの泥浚いを行うべきなのだが、既に浚渫土の壁が高くなっていて作業がやり難い。ここで四苦八苦するより他の水域の手当てを優先した方が全体最適化には役立つのである。

 そんな事で四日目にして作業は終了させた。他の水域内の除草を済ませ水面を露出させておかねばトンボ出現期最後の産卵行為に支障が出て来るから秋たけなわではあるけれど水域内の除草が最優先だ。「除草」と表現すれば邪魔者扱いに聞こえてしまいかねず除草部分を頼りとした生き物も多いのであって、実際の目的は「水面を開く」事にある。隣り沢の取水堰の発掘も最大の懸念事項であるもののご老体はひとつだけで分割する訳にもいかず、折々の優先事項を判断しつつ作業をし続けるしかないのが姥捨て山なのだった。

 現在の作業も足場の悪い環境で終始「踏ん張る」事が必須なのでおっつけ膝に負担の影響が出てくるはずだ。環境も身体も「復旧可能」な範囲に維持管理する事の大切さ重要性を日々、身をもって体験し体現する人生の夕暮れ時でもあるのだった。「枯葉よー」が「孤爺よー」に重なる。


二点位置流れ・昆虫スコイぜ!「赤い花なら曼殊沙華、赤い虫ならアキアカネ」

2024-10-19 | 小父のお隣さん

 棚田周囲に侵出したウシノヒタイやチゴザサを四本鍬で掻き取っていたところ、赤いものが動いている。「なんだろう⁉」と視点を合わせたらそれはバッタだった。バッタ科というよりキリギリス科になるのだろうが、当然小生には同定できる能力は無い。もしかしたらS先生が来場されるかも、と思って虫篭に入れていたのだが来なかったので同定は出来ず。

 自宅で図鑑対照してみたもののツユムシなのかクサキリなのかクビキリなのかとんと分からないのだった。体長を参考にしてクサキリかクビキリかなあ、と詰めれたけれどそれで頓挫した。まあこの際、同定はどうでも良くて赤い個体であることが珍しいのである。大半が草色か褐色だから赤い体色は貴重と言えば貴重なのである。まあ、フイールドには赤とんぼ以外に赤い昆虫が時たま出現する・・・ていどの驚きというか「ヘェー!」なのであった。

     


今日の薄幸食「北秋田なっつ」もどき膳

2024-10-19 | 何よりの楽しみ

 薄幸食にしてはご馳走すぎる嫌いがあるけれど低年金高齢の孤爺としては好き嫌いは言えない立場で、寂しい懐と頭頂部では贅沢も出来ない。その一方でこう言う献立を食したくても銭金積んで食べられる訳も無し、すべてはわが身阿修羅さまか千手観音様のようにその身を駆使て達成しなければ口に入らないのである。

 であるからして「北秋田のなっつ」もどきを夜鍋して刻み漬け込んで、ようやく試食の日となった。ここは郷里南魚沼の新米で食したのであるが、これも郷里の米であるから贅沢の内には入らないだろう。てなもんや三度笠の結果、献立は南魚沼のコシヒカリ新米ご飯、ナスの味噌汁、お惣菜は金時草のお浸しになっつをまぶしたサラダ風、フルーツとして柿である。

 まずは炊き立てのご飯をひと口食べて見る。これだけでもお茶碗一杯はいけるけれど「なっつもどき」と合わせて二口目にようやく試食となった。なっつもどきを漬け込んで上がってきた液は捨て、食材だけにしたからほぐせば容易にご飯と混じってくれるのだった。このまま混ぜ込んでお握りも「旨いはず!」と思いつつ、それはまたの御愉しみだ。結局はそれだけで一杯を食べ終えてしまい次は金時草となっつのサラダ風である。

 当地では金時草は店頭に並ばないから庭に多年草扱いで生えているけれど、元はと言えば春の開花に「アサギマダラが吸蜜に来る」記事を見てから植え付けしたのだが、大元は畑を借りていた頃にも栽培していたから既に30年も前の話だ。春の開花は南国ではない為か冬季には地上部が枯れ、春に萌えだしても蕾はつかず、目論見はオジャンだったし小生はおじんになったし普段の食事はオジヤかおかゆのかつかつの日々と相成ったのである。本来「なっつ」には漬物の旨さが凝縮されているからこれを調味材として混ぜればそれだけで旨い一品が出来る。この味は「美味しい」のではなく「旨い!」のであった。献立の反省点と言えば「蛋白質の不足」と言えるけれど一食や二食くらい蛋白質が少なくてもそもそもの人体髪膚の稼働には影響はしない。生命体細胞は融通が利くのだし精米体細胞は美味しいのである。

 残りのナスの味噌汁とフルーツは単なる付け足しになってしまい、無くても満足な夕食になっただろう。次なる混ぜご飯でお握りの試食には生姜漬けを刻んで足して喰ってみよう。寒い日のお握りに最適になるはずだ。

    


沈泥池泥浚い三日目

2024-10-18 | 水辺環境の保全

 遅々として進まない泥浚いなのである。まあ、父として合格点でもなかった孤爺であるから致し方なしだ。で、三日目にしても我が身体髪膚「痛し仕方なし」の状態にはまだなっておらず、この点は祝着至極なのであるが泥浚いそのものも度重なるゲリラ豪雨で砂泥の堆積はすさまじく、執着地獄での行為でなければ完結しそうもない。「頑張る!」と檄を入れたところで既に辟易しているのが実態なのである。

 蛮勇を振るうほど若くも無く体力も減退しては粛々と行為を続けるしかないのであってまあ、これも一種のストーカーに近いだろうなあ…と自嘲するだけである。それでも行わなければ容易に環境は破綻するし頑張れば孤爺が破綻する。やはりハムレットの台詞「やるべきか、やらざるべきか⁉」と言うに近いけれどどっちを選択しても破綻はついてくるから浮世だのう・・・。賽の河原の童子の石積みもそうだが姥捨て山の二度童・孤爺の日々も似たり寄ったりになってしまった。

 長柄のジョレンで泥浚いを続けても積み上げる場所は自分の周囲であり泥浚いした面積に比べれば小さいので、どうしても高さが増す。そうなると泥を積み上げるのに苦労をする羽目になって、それがますます辟易感を顕在化させるのだった。場所を変えて泥上げし易い位置で作業を開始すれば後々、場外搬出しなければならない折りに一輪車に積載する手間が増すし、洗濯の回数もまして見かけには良いところは無いんだなあ…これが。

 そのうえ、泥浚いもさることながら埋没した取水地の復旧も喫緊の懸念課題に間違いは無いけれど当局の担当者を現地案内して既に半月、どうなる事やら皆目見当もつかないし、どろさらいを一通りすませば当てのない水源地の取水升探索に砂礫掘りをしなければならん。砂金など出ぬ地質だしまあ、膝肩腰が痛くなって他は何も得られず頓挫のシナリオがちらちらする・・・。