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そういえば今期は「梅採り」に誘われてもいたし、これは降雨で流れたのだったが、そこに既に兆候があったのを気付くべきだったのだ。フイールドの梅も青梅として日を経るに従い無くなったのだが先端部は残ったままでこれが完熟して落ちてくる。こんな梅は誰も利用しないので小生が二つや三つは齧って消費していたのだが今期は数があった。「もったいない」だけでなくジャムにしたら「ルバーブジャム」の美味しさに負けないジャムになるだろうと拾い集めてジャムに加工する事二回、ピューレにしてみた一回、齧ったのは数回と例年になくしつこくまとわりついたのが恨みをかったようである。
まあ、「仏の顔も三度」と言うから酸度に期待してまとわりつかれた完熟梅にすれば「お爺の顔は一度」でも多すぎるのだろうて。因みに梅は完熟しても酸度は高い。因みに完熟梅のジャムも讃度は高得点で讃々九度でも良いのだった。
さて、落下した完熟梅の中からひときわ色艶のよろしい一個を選び出し好色お爺「ガブッ」としたまでは良かったものの同時に「プチッ!」と音がして上の前歯、差し歯だったのが折れてしまったのだ。あーあ、後悔先に立たず、前歯を先に断ってしまったのだった。
悔しいのなんの歯を立てただけの完熟梅、賞味する気にもなれず腹を立てゴミ箱にぶん投げてやった。折れた差し歯はブラブラするが外れない。そのまま食事の何と不便な事か。奥歯で噛もうとしても前歯にもあたるので咀嚼も不自由になった。治療しなけらばならない事態だから予約をしたのだが3日後の金曜日。そして無事仮り歯も入り次の治療日まで10日余りの翌日土曜の夜にまたもや外れてしまったのだ。自分ではどうする事もならず月曜日に電話して指示を仰がねばならなくなったが歯科が混んでいれば何日後になるのか見当もつかない。
鏡を見れば前歯の掛けた高齢者が蠢いている。全く不気味で小泉八雲の「怪談」を思わせる。しかし人生である。幾つになっても学ぶことはあるもので「生きながらえて熟した生命体を粗末に扱って遊んではいけない!」と教えてくれたのに我が身は姥捨て山だ。しかしである、時代小説で寝落ちするのが昼間の姥捨て山セルフデイサービスでくたびれた好々爺の日々なのだが、たまにはしどけた完熟梅さんの術中に嵌っても「良いか…」と読後熱望する自分もいるのであって小人はなんともはや救われないのであった。ハイ、ここは小説の読み過ぎ妄想なのでありますが「過ぎたるは猶及ばざるが如し」エチゴサッテモウシタモウシタ・・・。
閑話休題、ここで木久扇師匠のごとく回路が復旧した。翌週月曜の午後急遽受診が出来て抜けた差し歯は仮歯として用いることになったのだが一日半、歯を外していたばっかりに歯肉が覆いはじめ差し入れるのに難渋する羽目になった。痛い思いをして整えたのだったが、その日の夕食時には「動いている」感があって翌日の朝食時には再びすっぽ抜けてしまった。連日の補修では気後れして瞬間接着剤で急場を凌ごうかと思ったものの、なにぶん歯の事である。歯医者に任せるべきだと思いなおし急遽再診してもらったのだ。
幸いにもと言うべきだろう、差し歯を建てる芯棒が出来上がっていて一週間早く芯を建てる事が出来たのだ。これに仮歯を装着して新しい差し歯を待つことになった。終わってみればしつこい呪いの祟り事は繕いを早める結果となって、まあ、人間万事塞翁が馬であったわい。
しかしなんだ小人たる者、四十にして惑わず、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず、とも言われても「矩を踰えたかどうか判らん」のである。童謡にもある「煮えたかどうだか食べてみた。まだ煮えない」に学び「食べてみた」だけなのにィ・・・。だがここで怖ろしい懸念が生じた。小生のガラケー、青息吐息だし半年後にはサービス終了なので交換しなければならないのだが映画「スマホを替えただけなのに」を見てしまった。あんな事態になったら打つ手も無い。ガラケーかスマホか、それすら恐ろしく、まあ、この国の社会的弱者は苦渋の中で生きなければならんのだった。