10年ぶりとかの最強寒波到来だとか。生まれも育ちも豪雪地帯の小生としては驚く事も無く思いだすのは「三八豪雪」である。この時は上越線が一週間は埋もれたままだったろう。集落も全て雪の下で除雪で屋根から上げた雪の山で通りは電線を跨いで通らねばならなかったし家の出入り口は二階の窓からという家も多かったのだ。
実家は家の前の電線が邪魔で階段を掘り進め玄関から出入りしていたが雪の段々は使うに応じて角が丸くなる。早朝の新聞配達員は度々滑り落ちて玄関戸に当たるから「新聞が来た!」と明確に分かったものである。
上越線を開通させるための除雪列車は前面がロータリー車で蒸気機関車で押していた。見渡す限りの雪原の向こうから汽笛が聞こえ吐き出す黒煙が見えてくると子ども心でも「万歳万歳!」したのだった。開通してからは全国各地から保線区員が動員され駅構内の除雪作業に当たる事になるのだが郷里の駅に救援列車で降りたのは九州管区の職員で手に手に竹箒と塵取りを持って降車してきたのにはびっくりしたものだ。九州在住では積雪4m越えなど想像もつかなかったのだろうと今でも思い出される。
他の除雪車両はラッセル車が容易に思いだされるけれど「ジョルダン」とか「マックレー」なんて車両も構成されていたはずで、降雪の少なくなった現在は活躍している車両などあるのだろうか。これも懐かしい。
さて当然、雪の便りを聞けば郷里を想いだすのは自然の成り行きでついでに郷土の食事も記憶の端に上がる。てなもんや三度笠でこの日は昼食に一時間ほどを掛けて郷土食を再現してみた。手に入らなかった食材は「朧豆腐」と「あまんだれ」で「アマンダレ」はナラタケの方言だけれど栽培種では無いからヒラタケで代用した。市販のヒラタケはエノキをホダ木にして栽培したのと比較すると香りが全く無い!と言って良いほど異なるものだ。まあしかし、贅沢は言えない。
魚沼のコシヒカリに大根菜の微塵炒めをまぶして「菜飯」とする。ハーブ塩をひとつまみ入れ炒めたから少しだけお洒落だ。まあ、気分でしかないのだが・・・。丼飯にすると量が多いので大きめのご飯茶碗にしてトッピングは「しょうゆの実」、「イナゴの佃煮」、「食用菊の甘酢和え」で、これは冷蔵庫で保存していた自家製だ。
前日から用意したのは「ゼンマイ」で、普通は熱湯で戻しながらアク抜きするのだけれど今回は常温水で戻しながらアク出しを一昼夜行った。水換えも5回ほど行い灰汁水の吸水を出来るだけ防ぎ最終回のみ80℃でアク抜きである。
加工する時に茹でてあるから「戻すのに高温は必要ない」との理屈なのだが、ネットの情報を閲覧していると「戻してアク抜きする」段階で「沸騰させる」と記述してある記事がいくつかあった。この人たちは実際に調理した事があるのかどうか怪しいものだと正直、思ったのだ。そんな扱いをしたら溶けてしまいかねない。
さて、このゼンマイに添わせたのは車麩である。これも郷里のメーカー品だがゼンマイは次兄の加工品だ。もう一品「さらしえごの味噌漬け」も添えたかったけれど既に「エゴ」の手持ちは無く新潟の海岸で採集されたエゴを味わうには地元まで出向くしかなくなった。折に触れ郷里の食材を送り続けてくれた長兄・次兄・次姉らも既に80歳の大台を超えた身になって栽培や採集からは手を退いたので食材の調達は難しくなった。
それでもフイールド行きを寒波襲来にかこつけてさぼったおかげで久しぶりのまともな食事を食する事が出来たのだ。あの三八豪雪の折り、集落もひっそりと雪に埋もれて人々は穴倉住まいみたいなものだったのだが麦飯にしょうゆの実や野沢菜漬け、大根汁などで食を摂りつつ春を待ったのだ。今日日みたいに大騒ぎなどしなかったなあ。