『田の草を手が漉き埋める覚えなく』
『半世紀経ちて忘れぬ田草取り』
『田草取る翌日に痛し肘と腿』
『草取りて水濁りたる青田かな』
アブが飛来し始めた。周辺に牛などはいないから生息数は多くはないが、多い時は10匹くらいが群がってくる。駐車場に到着した時間帯に多く見られるのだが、不思議なことに人体より車のボンネットやタイヤに集中するのだ。
理由は判然としないが走行直後でタイヤもボンネットも温度が高いからだと推理している。こういう時は容易に捕まえる事が可能だ。少年時代、牛に群がっているアブを掬い取って、羽だけ千切って放していたが、今もその手順が抜けない。父がやっていたことを見習ったわけだけれど、思うに「大切にしている家畜の血を吸いにくるなんて!」と処罰の意味があったに違いない。
手にとってまじまじと頭部を見つめれば、どこかで見たような顔だ。縄文式土器の土偶にこんなデザインがあったはずで、あれは宇宙人説もあるが小生はアブ説を唱えたい。
まっ、どうでもいいことだけど猛暑しのぎにはなる・・・。アブはいいとばっちりだが、このアブと言えば撮影中に脚を残して逃げてしまった。美脚ではなかった。
草刈りの途中、涼むために立ち寄ったカラスザンショウの幹に琥珀が鈴なりだった。正しく言えば琥珀に見える樹液が沢山吹き出ていたのだ。カラスザンショウの樹液は初めてだから、本当に樹液かどうか確証はない。ちなみに幹には蟻の往来が活発だったがどの一匹さえ関心を示さないのだ。食料にならないのは確認できた。
触れると硬いものもあるし、ゆっくりと潰せる硬さのものもある。一見、大きなイクラか水飴の様にも見えるが、こういうものが地中に埋もれて琥珀に変性していくんだなを髣髴とさせるに十分な琥珀色の樹液だ。なんだか枕状溶岩の成り立ちと同じような感じだが、集めてコレクションしても楽しめる色合いと形だった。
暑さと疲労で息も絶え絶えの時、こんなことでも十分気分転換にはなる。
またもや車道で吸水している。いつもは徐行運転で通るのだが、今回は撮影した。と言うのも単一の種類ではなかったからだ。
カラスアゲハ、ジャコウアゲハ、モンキアゲハ、クロアゲハが6匹降りたり舞ったりしながら吸水していたのだ。地表面に浅く水のある場所は多々あるのだが、吸水する場所は大体決まっている。今回は吸水する場所を取り合っていた。5cm10cmの距離である。
ミネラルの摂取と関係があるとの記憶があるが、そういえば清水に相当するような綺麗な水を吸水する場面は見ていない。フイールドで出会う吸水は、周囲に腐食質が多い場所である様に感じる。
アオスジアゲハは群がって吸水しているのは盛夏によく出会うのだが、今回の様に何種類も一同に会するのは久しぶりだ。お陰でモンキアゲハは初めて撮影できたのだ。
『猛暑日に身ごとぶつけて陣を取る黒い花びら水原狭し』 わっかるかなあ…。
動物も植物も厳しい現実の中で生きている姿を垣間見た。葉を綴った卵のうらしきところから蟻が黒い物を運び出している。それを見つめているのは親蜘蛛なのか捕食者としての蜘蛛かは不明だが、食べることは命を頂戴することに他ならないシーンに思える。
栗の木の二又の窪みには松の幼樹が育っていた。梅雨時の水分で発芽成長できたのだろうが、この暑さの中どこまで生き長らえるのか、ここも風前の灯である。恵みはあるけれど、その中には生老病死が例外なく存在している。
近郊の境内の棕櫚の木だったか、桜が生えて花を咲かせるのがニュースになっていた。本来の命を繋ぐべき所とは異なる場所で、生を受け生き長らえている個体もあるけれど、こういうのは例外中の例外だ。とは言え生命力の強さを感じないわけにはいかない。
29日未明、二時半頃か激しい雨が降った。梅雨の時期にもこんな降雨はなかったが、ようやく猛暑から一息つける。何よりも十分な雨量になっただろうから生きとし生きるものには恵みの雨だ。今日は一日、家に足止めでも文句は言えない。
林床の根笹を根絶するためにヒコバエを刈り払っていた時、落葉の堆積した斜面の中に白い物が見えた。卵の殻と思ったのだがキノコだった。
初めて見る キノコだ。頭部は金平糖状態、軸はオニの棍棒みたいに見える。こんなキノコに出会えるのも徘徊している賜物であろうか…。良い子にしていたら出会うことも知る事も無いのだから。
とは言っても「見たから」「出会ったから」それが何なの?の世界ではあるけれど「不思議の国の俺っス」には浸れる。
図鑑で確認すると、イボイボの様子は「シロオニタケモドキ」に近いが淡黄褐色ではない。「シロオニタケ」とすると軸にある凹凸が多すぎる。「ササクレシロオニタケ」とすると色が不適合だ。
変異や個体差の可能性もあるが、同定しようなどとは思わないで「楽しむ」のが一番だと、またまた思い知らされた。出会いの多くは「一期一会」なのだから。
思わず「美味いか!」とつぶやいた。ツイッターはやらないけど「つぶやき」はする小生だ。この頃出没する野良君がアゲハの吸水地点で狩りをしたのだ。集団で吸水している地点から、やや離れて吸水していたアゲハを狙っていた。車を止めて見ていたら一瞬だった。「花びらのサラダのようなものか」と思った次第である。
他のアゲハは一斉に舞い上がったが、数分もしないうちに落ち着いて吸水を始める。野良君も辛抱強く期をうかがっているが、こちらは蚊の餌に付き合いきれないから後にする。
この野良君、眼光鋭く決して気を許してくる気配はないが接近を拒絶しない。山の中の「一人もん同士」と思われているのか、トホホの気分もしてくる野良である。栄養状態は良好なのか毛並みも色艶も美しい。ノラネコのうらぶれた雰囲気はないのだ。蚤はいたけど「孤高」として「利口」だ。小生に蚤はいないが「糊口」で「利己」ある。やっぱりトホホだ。
山百合が咲いた。何年ぶりに見たのか思い出せない。昨年まで何年かに渡り、支柱を立てて刈り取らぬように倒れぬようにしたのも裏目に出て、ことごとく持ち去られてしまった。
花期を前にして掘り取っても「枯れるだけ」と言うのが判らないらしい。今年は「絶滅した」と割り切って放置したのが幸いしたみたいだ。
ただ若い山百合だから背丈も花も小振りだ「百花繚乱」「咲き誇る」なんて形容とは無縁な大きさだけど、やはり存在感がある。
何より、近くになると山百合特有の香りが鼻腔をくすぐるのが懐かしい。少年時代には頭痛の種になるほど嗅いだ香りだ。この株の横には大きい茎が花とつぼみを着けて倒れていた。地際に食害を受けて折れてしまったのだが、その部分は黄変していても上部は生きていて小さいながらも花を着けている。「頑張れ山百合!」そんな気分だ。
でも一方では、歌の文句でないけれど「匂い厳しい山百合の触れてみろよと、あの魅惑」なんて雰囲気もある。里山ではあるが深山幽谷に迷い込んだ気分もするのだ。
目覚めれば明けぬしじまを突き破りヒグラシ交わす今日も猛暑だ
もうあかん猛暑の日々に朦朧ともうろく寸前孟秋の山
昼日中セミの音も無き木陰にて肩で息する休息の時
ウグイスのさえずり聞こゆ夏の谷更に暑かり汗吹きやまず
6月28日に刈り払ったエリアに再再度真竹が生えてきた。植樹した幼樹にはカナムグラやクズの蔓が蔽っている。連日の猛暑に日陰で活動をしたいのだけど、そうもいかず刈り払うことにした。本当に竹の再生力には感心する。ここで撤退したら「元の木阿弥」だから、延々と徒労を続けることになる。
周辺を半分ほど片付けて息絶え絶えで一休みしてからの作業開始直後、M氏が小父さんの記念樹にと植えた八重桜を根元から切断してしまった。埋もれた若木を刈り払う事はままあるし、数年育てた若木でも手元が狂ったり、思わぬキックバックで失ったりするのもままあるのだ。
今回は記念樹だっただけに「大失態」としか言いようがない。涼しくなったら代わりの苗木を植栽しなければと思っているが、こういうのは「代替え」では意味が半減してしまう。許しては貰ったのだが、ここを刈るたびに思い出すことになる失態だ。猛暑の中の寒い一時でありました。