あた子の柿畑日記

田舎での日々の生活と趣味のレザークラフトについて

実家の片付け

2020-05-03 21:44:28 | くらし
 話はさかのぼって、古い家の解体の前に片付けのことを。

 すべて弟夫婦にお任せしてたのだけど、何か必要なものがあるといけないから一緒に見てーと義妹からお願いされて、何回か実家に足を運びました。(一日ですむと思ったのに~)

 母は戦中派で、物が捨てられない世代だったので、生前は、なんでもぼろぼろになるまで活用していました。ときどき西洋の昔話に出てるぼろをまとったおばあさんのように思えたものです。だけどそういったぼろ布は思いの外少なくて、自分で処分したようでした。下着類も入院用に整えたのか、新しい物がきちんとしまわれていました。

 台所は10年ほど前の手術直後に、何ヶ月かわたしも一緒に住んでいたときに、使い勝手がいいように整理したのですが、ほぼそのときのままでした。だけど、食器類の多かったこと。

 整理はしていても押入やらタンスやら食器棚やらに詰め込んでいたあらゆる物を引っ張り出したら、出るわ出るわ。

 一緒にこんなものも出てきましたよ。

 使わなくなったカーテンに爪くらいの卵。割れているところを見るとちゃんと孵化したらしいです。そして

 残念、ぼけてるわ。主のいない部屋で5年も守っていてくれたのかしらねえ。

 

 タンスの中からは

 わたしが小学6年生の家庭科で作った洋服カバーです。たしかデザインも教科書通りではなく自分が考えたもの。あの頃から凝り性だったかも。

 何十年もの間大切につかってくれたんだなあ。

 タンスの中にはきれいな服だけが残っていました。状態がいいのでネットのフリマで売ることも考えましたがー

 結局はこのボックスに入れてきました。どなたかのお役に立てればいいです。

 

 何冊もの大学ノートは母の日記です。父も日記を書いていましたがそれはすでに処分しました。

 母は何でも記録しておく人で、農作業の記録から細々とした買い物の出費から、よく前のノートを引っ張り出して確かめていました。多分、子どもが知っていてもいいことが書いてあるのだろうとは思いましたが、読まずに処分しようと、これはわたしも義妹も一致した考えでした。

 たくさんの写真類は

「いらない。」とわたし。

「いいの?」と義妹。

 婦人会や会社の仲間と日本国中旅行して、集合写真がそれこそ分厚い本くらい出てきました。が、こんな写真誰も興味を持たないでしょう。むしろ義妹のほうが若い頃の母を興味深く見ていました。

「ばあちゃんて、きれいな人だったのね。」

「わたしはひいばあちゃん(わたしの祖母)に似とるんよ。ほら」

 祖母の写真を見て、義妹は何とも言えず困っていましたわ。ひいばあちゃんは美人じゃないのです。わたし鏡を見るたびに優しかった祖母を思い出しています。

 でも、これは資料的価値があるんじゃない?とっておこう。と義妹が選び出したのは

 戦後間もなくの消防団と手押し?ポンプの写真

 祖父が乗っていたオート三輪

 



 ああ、こんなに小さかったのか。よく後ろの荷台に乗せてもらいました。舗装もされてない道を走ると、まるでトランポリンのように体が飛び跳ねたっけ。スリル満点でおもしろかったけど、今なら大事故になりますね。だからわたしたちは「ばたんこ」とよんでいたのです。

 祖父は病気で寝込むまで運転していましたが、車の横を中学生が走って追い抜いていったとか。(今なら大迷惑)

 父も母も多趣味で、関連する道具もけっこうたくさんありました。 

 父の趣味は盆栽(主にさつき) 読書 美術鑑賞 

 本を集めるの、好きだったようです。一冊何千円もする豪華本はわたしが頂きましたが、運ぶのも一苦労で、トラオとウマオに手伝ってもらってようやく部屋の中に積み上げました。まず自分の家を片付けないとしまうところがない。



 母の趣味は押し花 手芸 洋裁 ・・・・

 新品の小さな額は、押し花を入れて、父が通うデイサービスの入居者に誕生祝いとして贈っていました。

 わたしが「もっと続ければいいのに」と言っていた書道。

 途中でやめてしまったのです。予想以上に上手でした。

「ばあちゃんはえらかったねえ。仕事をしながらいろんなことをして。」と義妹。

 (優しいお嫁さんで良かったねえ。)

 自宅で縫製の仕事をしながら、編み物、山菜採り、餅つき、野菜作り 花作り。手作りのきなこ、ふりかけ・・・できたものは子どもたちに分けてくれて、実家へ行くたびに何らかの食べ物をもらって帰っていました。

年をとって、病気になって、できることをひとつひとつ手放して、最後は草引きが一番楽だと言っていましたが、入院してからも病院の花を眺め、院内のコンサートを欠かさず聞きに行き、教会でチャプレンのお話を聞き、工作をし、ろくろを回して粘土で花瓶まで作っていました。わたしでさえしたことがないのに。昏睡状態に陥る直前まで何かをしていたのです。

 その生き様こそが記憶に残すべきこと。形ある物は何もいらないと思います。だけど、母が長女のために編んでくれた靴下はまだ残っています。

 昔、近所に花の好きなおばあさんがいて、狭い土地にびっしりと花を植えていました。花に埋もれるように世話をしているおばあさんに声をかけて、シモツケソウをもらったら良かった、と後悔しているわたしです。おばあさんがなくなった後、その土地はあっという間に掘り起こされて、コンクリートで固められてしまいました。

 そのとき思ったのです。どんなに大切にしても、残った人に興味がなかったら、たちまち壊されたり捨てられたりするのだと。

 だったら、自分で捨てられない物は後に残しておいてもいいのではないか。今は実家の片付けと称して親とけんかしながらたまった物を整理する人もいるらしいですが、親が生きているうちはけんかしてまで捨てさせなくてもいい、暮らしやすいように整理整頓だけしてあげて、親が亡くなったら容赦なく捨てたらいいのではないかと。

 そうはいうものの遺品の中にはわたしにも捨てられない物があって、とりあえず家に持って帰りましたが(もちろん、弟の家の納屋にも)まずは自分の家を整理しないことには・・・・

 

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わらぶき屋根の家の思い出

2020-05-02 02:06:44 | くらし
 ひゃあ~ ついにゴールデンウィーク突入ですね。
 
 不要不急の外出を避けるように、との、3月、4月でしたがー
 
 実家の、亡き父母の住んでいたスペースを取り壊すとのことで、何度か桜三里を越えました。
 
 毎年今頃になるとナニワイバラの花が屋根まで這い上がっていた実家
 
 
 母が大好きだったバラです。
 それもすべて取り除かれて更地になった我が家。ふらっとやってきた甥っ子も交えて、外で立ち話。思い出話が尽きませんでした。
 
 すみません、ここからはぐだぐだと長話が続きますので、さらっと読み飛ばしてください。
 
 ぼうぼうだった前庭の植物はほとんど切り倒されて亡くなっていました。
 「イブキは?」
 「あれは残しとったんじゃけど、土建屋がいつの間にかおがして(掘り起こして)しもて、気がついた大工が真っ青になっとった。いらん、いらん、気にせんでええ、言うといた。」
 方言丸出しの会話に、弟の奥さんの東京弁が混じります。
 「ハナスオウも残したかったのだけど、ばらばらになっちゃって。」
 
 ハナスオウはわたしが物心ついた頃からあったと思います。わたしあの、強烈な赤紫の色はあまり好きではありませんでした。今はなかなかいいなあと思いますけど。
 こんな花。とある場所にまだ咲いていましたので、きれいなところだけ撮ってきました。
 
 
 
 
 同じく子どもの頃からあって好きだった花
 白の椿。もうシーズンは終わりかけですが、まだ咲いていました。
 
 当時の木が残っているとすれば樹齢は70歳以上。だけど弟と二人で記憶をたどっていくと、元の場所にあった椿ではないとわかりました。元の木を移植したのか、子孫を移植したのか。
 
 
 
 夕日をあびてほんのりピンク
 
 思い出した、今この木があるところは元々は田んぼだったのです。梅雨頃、赤い小さな蛇が泳いでいたなあ。
 子どもというのはこんなくだらないことを鮮明に覚えているものですね。
 
 「そばの柿は西条柿?」
 「いや、富有じゃ。
 西条柿はあれ。あのへんまで田んぼが斜めにあった。」
 そうだ細いあぜ道があって、実のならないアケビがからんでいたっけ。
 
 このへんに母屋があって、玄関を入ると左に座敷があって、土間の奥にかまどがあって・・・・ 記憶に残る一番古い家は、弟とわたししか知りません。
 
 小さな小さなわらぶき屋根の家でした。うちの前も後ろにも瓦葺きの大きなおうちがありました。
 うちは貧乏でしたが、器を持って豆腐を買いに行く時代。お金があっても贅沢のしようもない田舎でしたので、貧乏だという引け目は感じませんでした。
 
 裏の家との境に石垣があって、こんな花が咲いていました。
 
 
 祖母は、このキランソウや、ドクダミやヨモギを干して薬湯として飲んでいました。
 
 炊事場を出ると少し離れたところに井戸があって、手押しポンプでくみ上げていました。同じ村に住む伯母のところは、つるべの共同井戸でしたから、まだましだったのかなあ。洗濯物を濯ぐとき時、ポンプを押すのは子どもの役目でした。井戸からかなり離れたところに風呂場とトイレとがあって、そこへはバケツで水を運んでいくのです。それも子どもなりに持てる量を運んでいました。開発途上の国の子どもたちと同じです。
 
 台風通過後の朝、屋根の藁が飛んで青空が見えていたこともありました。あんな状況でも子どもは寝たんだねえ。
「台風の後、飼うとったヤギが死んで・・・」と弟。
「台風の雨風で死んだんじゃと思うとったのに、その前にひがんばなを喰わせたんじゃと。それをばあちゃんが(母)が死ぬ前に言うてー 60年もたって初めて知った。」
 今となってはもう、笑い話ですが、母が打ち明けなかったのは気がとがめたからなのか、ヒガンバナに毒があると、年をとるまで知らなかったからなのか?
 「だれも教えんかったんかねえ、」とわたし。
 亡き母は戦時中に小学校、中学校と過ごしました。ろくに勉強はしなかったようです。ヒガンバナのことなんか、先生も教えなかったのかもしれません。みんなその日その日を生きていくのに懸命な時代だったのでしょう。修学旅行にはおむすびと梅干しの弁当を持って、山を越えて今の久万高原町に歩いて行ったそうです(信じられない!)代用教員の先生は、お金持ちの子どもだけをひいきしたとよく話していました。
 
 
 こんなふうに不便な暮らしだったけれど、つらいと思ったことはありません。祖父は歩いて小一時間かかる山に果樹を植えていました。収穫を手伝う母について行って一日中遊びほうけて、祖母や母や従姉妹と歩く帰り道は、ハンミョウを追いかけたり、リンドウを摘んだりして楽しかった。
 
 戦時中の飢えを経験している母は、食べられる野草をよく知っていて、いろいろ教えてくれました。
 おやつはふかしたサツマイモ、塩ゆでのジャガイモ、はったい粉(煎った麦の粉)、焼き米(田植え用の籾の残りを煎ったもの。)庭の柿やユスラウメやしゃしゃぶ(グミ)
 

 考えてみたら、まだわたしの記憶に残る時代(さほど遠くない昔)に、そんな暮らしがあったのです。そして戦時中の暮らしを親から聞いて知っているのが今の高齢者です。多少の不便や不足には堪えられるはず。
 
 今年の子どもたちは突然の休校で卒業式もろくにできなかったけど、戦時中は卒業証書ももらえない学生はたくさんいたそうです。勉強の遅れが心配される今年の子ども。けれど、あの時代に子どもだった母は、愚かな人ではなかったけど、学問的には驚くほど無知でした。学業半ばで戦地に赴いた学生もたくさんいました。
 父は志願兵として南方戦線に行き、飢餓地獄から生還しました。

 その後、我が家は当時はまだ珍しかった最新の文化住宅に替わりました。あの「うさぎごや」欧米人にと揶揄された家です。だけど、蛇口をひねれば水が出て、寒い思いをしてトイレや風呂に行かなくてもいいようになりました。
 松山市の会社に勤めていた父は、いち早く街の文化を我が家に持ち込んでいたようで、うちには物心ついたときからサンタさんが来たし、手押し式の石油コンロなども早くから使っていました。
 
 後は高度成長の波に乗って暮らしは便利になる一方。そんな時代にわたしは大きくなりました。
 平和と豊かさと便利さにどっぷり浸かっていたその最中の突然のコロナ禍を、戦争にたとえる人もいます。不足する物資、食料、経済の停滞、行動の制限など、確かに似通ったところはあります。
 ちがうのは、敵が見えないこと。日常生活の一部に入り込むが故に、みんなが同じ方向を向いて戦えないことです。恐怖のあまりウィルスと戦う最前線の人を攻撃したり、排他的になったり、自分のためだけに物を買い占めたり・・・・物のない時代にはお金持ちも貧乏人も贅沢をしようもなかったけれど、今は困窮の度合いがはっきりと分かれること。
 
 やっかいなことです。けれど
 
 これからは、何が大切なのか、そぎ落とすべき飾りは何か、真剣に考える人が多くなるような気がします。よりよい社会の仕組みも生まれるかもしれません。
 
 
 










 
 
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