【⑬葵塚・巴塚古墳群】
②埴生護国八幡宮とその周辺 ③ふるさと歩道(義仲進軍の道) ④いにしえの街道(歴史国道)① ⑤いにしえの街道(歴史国道)② ⑥いにしえの街道(歴史国道)③ ⑦源平ライン
⑧倶利伽羅古道とその周辺 ⑨猿ヶ馬場とその周辺 ⑩倶利伽羅不動寺とその周辺 ⑪弓の清水・般若野古戦場 ⑫越後より砺波山へ ⑬葵塚・巴塚古墳群 ⑭巴御前終焉の地
倶利伽羅山のふもと 葵塚・巴塚古墳群は、標高約85mの丘陵先端部に立地し、円墳と方墳から成っています。
古墳群は形態や立地条件から、約1,400年前の古墳時代の終わり頃に築造されたと考えられます。
この古墳群に、いつの頃からか「葵塚」と「巴塚」の伝承を重ねて、現在の石碑が建てられたものと見られています。
古墳が立地する丘陵では、今から約800年前の平安時代末に、源平合戦が繰り広げられた場所です。
この戦いは「倶利伽羅の戦い」と呼ばれ、源義仲(木曽義仲)は燃えさかる松明を角につけた約牛500頭を敵陣に突入させる、世に名高い「火牛の計」を用いて、人数では劣勢であったが勝利を納めた。
葵と巴はともに義仲の愛妾であり、武将であった。
葵は倶利伽羅の戦いで討死し、巴は義仲が討たれる日まで戦い、後に尼になり91歳の生涯を過ごした。・・・※解説板より
◎2024年10月15日編集 富山県・岐阜県にて 写真18枚
★巴御前(長野県日義村 徳音寺 蔵)・・・木曽義仲の愛妾で、絶世の美女と言われた。また武道の達人でもあり、源軍の武将として活躍しました。(小矢部・倶利伽羅源平の郷 埴生口にて)
★小矢部市 葵塚・巴塚古墳群 解説板
ここには巴塚・巴葵寺跡・葵塚があります。
整備された遊歩道
右に進むと巴塚があります・・・まずは巴塚へ向かいます。
【巴塚(巴御前)】
信濃国の豪族・中原兼遠の娘と伝えられており、常に義仲のそばにいて共に戦った女武者。
その生涯は謎に包まれており、「平家物語」によれば「色白く髪長く、容顔まことに優れたり」という美人で、「強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)」であったという。
「源平盛衰記」には、倶利伽羅峠の戦いで義仲軍の一隊の大将として活躍。
近江国粟津ヶ原での義仲最期の戦いでは、味方が残り数騎となっても勇敢に戦い、義仲とともに死ぬことを願ったが、義仲に諭され泣く泣く落ち延びていったという。
「源平盛衰記」によると、信濃に落ち延びた後、鎌倉に召し出され和田義盛の妻となったが、和田一族が滅ぼされた後には、倶利伽羅峠などでともに戦った石黒氏を頼って越中に住み、91歳で亡くなったと伝えられている。
★木曽義仲と巴御前の像・・・・宮ノ越・義仲資料館にて
★巴塚(巴御前)
解説板より
〇碑文・・・巴は義仲に従ひ源平砺波山の戦の部将となる。晩年尼となり越中に来り91歳にて死す
〇由来・・・源平合戦の後、和田義盛と再婚した巴御前は豪勇を誇った朝日奈三郎義秀を生んだが、その後未亡人となり後生を福光城主の石黒氏に託した。
石黒氏とは共に倶利伽羅合戦において平軍を攻めた親しい間柄であった。
尼となり兼生と称し宝治元年10月22日没し石黒氏が此の地に巴葵寺を建立したと伝えられている。
巴塚から分岐点まで戻り左側の「葵塚」へ向かいました。・・・途中 巴葵寺跡がありました。
【巴葵寺跡】・・・巴塚と葵塚の中間にあります。石黒光弘の計らいで、この地に巴葵寺を建立したのちに長禄年間戦火の為焼失したと伝えられています。
【葵塚(葵御前)】
葵御前は常に義仲のそばにいて共に戦った女武者で、各地を転戦し足取りを残している。
倶利伽羅峠の戦いに加わるが、討ち死にする。
その生涯は謎に包まれています。
葵御前は木曽義仲の武将の一人で、倶利伽羅の戦いで討死したので、屍をこの地に埋め葬ったと伝えられています。
葵塚は少し高いところにありました。
葵塚・・・後ろに墓標の松の木がありました(今は朽木となっています)。
解説板より
〇碑文・・・葵は寿永2年5月砺波山の戦に討死す。屍を此の地に埋め墳を築かしむ。
〇由来・・・葵は義仲の部将となり、倶利伽羅の戦に討死したので屍をこの地に埋め弔ったと伝えられている。
墓標の松跡は葵塚のすぐ後ろにありました・・・いまは朽ちています。