【⑭巴御前終焉の地】
②埴生護国八幡宮とその周辺 ③ふるさと歩道(義仲進軍の道) ④いにしえの街道(歴史国道)① ⑤いにしえの街道(歴史国道)② ⑥いにしえの街道(歴史国道)③ ⑦源平ライン
⑧倶利伽羅古道とその周辺 ⑨猿ヶ馬場とその周辺 ⑩倶利伽羅不動寺とその周辺 ⑪弓の清水・般若野古戦場 ⑫越後より砺波山へ ⑬葵塚・巴塚古墳群 ⑭巴御前終焉の地
信濃国の豪族・中原兼遠の娘と伝えられており、常に義仲のそばにいて共に戦った女武者。
その生涯は謎に包まれており、「平家物語」によれば「色白く髪長く、容顔まことに優れたり」という美人で、「強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)」であったという。
「源平盛衰記」には、倶利伽羅峠の戦いで義仲軍の一隊の大将として活躍。
近江国粟津ヶ原での義仲最期の戦いでは、味方が残り数騎となっても勇敢に戦い、義仲とともに死ぬことを願ったが、義仲に諭され泣く泣く落ち延びていったという。
平家追伐のため信州より兵を起し、越後を経て、越中に入った木曽義仲の妻巴御前は、砺波山の合戦(1183)で活躍したが、京都に入った義仲もやがて都を追われ敗死後は和田義盛を頼った。
しかし、義盛も和田の合戦で戦死したので、かつて砺波山で一緒に戦った友人である石黒太郎光弘を頼ってこの地を訪れ、福光城の近い一角(天神町)に草庵を建て尼僧となり「兼生尼」と号し定住した。91歳で入寂と伝えられる。
その跡に1本の松を植えたが、樹齢を重ね巨松となり傘状に広がり地域の人達の幸せを祈ってくれている。この地を巴塚と称し町民に親しまれている。
◎2024年10月15日編集 富山県にて 写真19枚
福光駅前の石碑・・・「巴御前終焉の地」と刻まれています。
石碑裏面の「巴御前の軌跡」
福光で兼生尼として晩年を過ごし(57歳~91歳)宝治元年(1247年)10月22日に91歳で亡くなりました。
街中の「巴塚の松」と「巴塚」
巴御前(兼生尼)の遺体が葬られている「巴塚」
樹齢約750年を超える老松の「巴塚の松」
巴御前 辞世の句・・・「まぼろしよ 夢よと変わる 世の中に など涙しも つきせざるらん」・・・いにしえの街道、峠(天池)茶屋跡にて
福光城址栖霞園・・・福光城は石黒太郎光弘が在城していました。
福光城址の石碑
栖霞園の入口
小矢部・倶利伽羅源平の郷 埴生口にある「巴の松」
福光の巴塚公園の巴松の苗を植樹されたもの。