【⑫越後より砺波山へ】
②埴生護国八幡宮とその周辺 ③ふるさと歩道(義仲進軍の道) ④いにしえの街道(歴史国道)① ⑤いにしえの街道(歴史国道)② ⑥いにしえの街道(歴史国道)③ ⑦源平ライン
⑧倶利伽羅古道とその周辺 ⑨猿ヶ馬場とその周辺 ⑩倶利伽羅不動寺とその周辺 ⑪弓の清水・般若野古戦場 ⑫越後より砺波山へ ⑬葵塚・巴塚古墳群 ⑭巴御前終焉の地
越後より進軍してきた木曽義仲軍は越中越後の国境であり北陸道を見渡せる地(宮崎)を通り越中国に入りました。
般若野の戦いに関する史跡として、義仲が弓で地を穿つと清水が生じ将士の喉を潤したとされる高岡市中田常国地区の弓の清水・般若野古戦場のあと、砺波平野を経て倶利伽羅への進軍しました。
これらの史跡はいずれも湧水点の連なる庄川扇状地の辺縁部に相当し、北陸道の主道であった中田通り(呉羽山・般若野・倶利伽羅峠)が通っていた。
◎2024年10月15日編集 富山県にて 写真27枚
宮崎城址、鹿島神社、常国大悲寺観音堂、移田八幡宮、午飯岡碑、川田八幡宮、柳原石碑、鷲尾神社
★宮崎城址・・・県内最古の山城である。越中越後の国境近く、東は親不知の嶮、西は黒部川扇状地、北には富山湾を隔てて能登半島を望み、真下には日本海側の交通幹線の北陸道をふまえる城山地塊(標高249メートル)の山頂から山腹を利用して築かれた、天嶮と交通要地を押さえた防塞である。
東は親不知の嶮
西は黒部川扇状地、北には富山湾を隔てて能登半島
二の丸跡
宮崎城址 石塁
★北陸宮御墳墓・・・平家討伐の令旨を受けた木曽義仲が宮崎城の豪族宮崎太郎の一党とともに、後白河法皇の第二皇子「以仁王」の第一皇子「北陸の宮」をこの陣営に迎え入れて奉戴し、越中進攻と入京の足掛かりを固めた城である。
★鹿島神社・・・鹿嶋神社は、宮崎城の地に位置す るところから、要害の鬼門よけと、 尾根からの攻口を守る禁足地として 境内の鹿島樹叢とともに、歴史の城 将や加賀の前田氏に保護され、佐味 郷(朝日町内)の守護神ともなって いた。
木々に囲まれた参道の奥に、彫刻の施された、なかなかに立派な拝殿。
★弓の清水・般若野古戦場
別途 ⑪弓の清水・般若野古戦場 にて掲載しています。
よって、義仲軍は現在の高岡市般若野地区にある弓の清水(ゆみのしょうず)周辺で勝利した(般若野の戦い)後、砺波を通って倶利伽羅峠に向かったと想定されます。
★常国大悲寺観音堂・・・本堂の観世音菩薩は木曽義仲公の守護佛で寿永2年般若野合戦ののち常国山に祀ってあったものを当寺に移した。
★移田八幡宮(いかだはちまんぐう)・・・寿永2(1183)年5月、木曽義仲軍は平維盛軍と北陸で戦いとなります。木曽義仲の乳兄弟・今井兼平はここで戦勝祈願をしました。
白い⇔部分に書いてありました。
★午飯岡碑 ・・・1183年(寿永2年)木曽で兵を挙げて京を目指していた義仲は、五万の軍勢を引きつれて般若野から砺波山へと向かった。ちょうど昼ごろ小島を通りかかり、少し小高い岡をみつけ午飯にした場所。
小島には、その義仲が午飯(ひるいい=ひるめしのこと)を食べたと言い伝えられている場所があり、高さ2m、面積約50㎡の小高い石塚だったが圃場整備事業の際に取り壊され、石碑のみが元の位置から約200m東に離れた現在地に移築された。
★川田八幡宮 ・・・午飯岡で一息入れた後、西宮森の川田八幡宮で戦勝祈願をして倶利伽羅山の合戦にのぞんだといわれている。
★義仲 上洛への道・・・源義仲軍(五万)は川田八幡宮より石動の町や埴生口の道へと進む時の柳原を通るルートと小矢部川を渡り松永への鷲尾神社(鷲ヶ瀬)の道に分かれます。
★柳原石碑・・・木曽軍が控えた芹川近く。源義仲隊(二万)、樋口隊(四千)、余田隊(三千)、源行家(一万)がここを通ったと思われます。この後樋口隊は竹橋へ、余田隊は金峯坂へ。源行家(一万)は志雄山(志保山)へ。
★鷲尾神社・・・「鷲尾神社」は鷲ヶ瀬という、これまた進軍ポイントの地名の地に建つ神社。
今井隊(六千)、巴隊(三千)、根井隊(四千)がここを通り小矢部川の鷲ヶ瀬あたりを渡り、今井隊は蓮沼方面へ、巴隊は松永方面へ、根井隊は南黒坂方面へ向かった思われます。
鷲尾神社の碑・・・後ろの公民館は「鷲島公民館」
鷲ヶ瀬の碑・・・鷲瀬碑のある鷲尾神社付近は小矢部川から東へ500メートル程離れている。