「人生観を変える」ことである。つまりプラグマティズムである。
中高年になって・・・という事でもって書き出すと、まるでタレントの「きみまろ」さんのようだ。しかし、事実、私も中高年であるから他人事ではない。
CMで「きみまろ」大兄が出てくるのがある。ほら、あれである。イケメンの若い男性(綾野剛)が、これまたこの世にまたとないような美女にスペアリブを出す。美女はにっこりしてそれをいただく。ところが、「きみまろ」大兄が同じようにリブではなく、ブリを出す。美女の顔がとたんに変わる。食べたくないのだ。拒絶である。確か、東京ガスかなにかのCMだったような気がする。ロケは、珈琲亭 ルアン(大森駅の近くの喫茶店)だそうである。
気がするというのは、記憶が確かではないからだ。それに私はコーヒーを好まない。だからなんだったか忘れた。ま、忘れることは多々あって、数学の公式も、英単語も怪しくなってきた。怪しくなってきたから、常に復習をしていないとバイトの塾からもお払い箱になっちまう。バイトももう来なくていいからと言われるまで、やっているつもりである。なにしろ趣味でやっているバイトである。全部そうである。生きがいにもなっているからである。
忘れたというと、これって、中高年時代を生きるコツのような気がする。欲望に関することは、すべて忘れた方がよろしい。雑多なあれこれ、猥雑なこと、つまらないこと、くだらないこと、美人のこと等々は、すべからく忘れてしまったほうがよろしいようだ。
なぜか。
中高年になって、自殺する事件がけっこうあると知ったからである。会社をリストラされたとか、起業を志して挫折したとか、借金まみれで死んでお詫びをしたとか、失恋したとか、なかには配偶者に捨てられたからという方もあるという。合掌するしかない。
自殺というのは、ダーウインの進化論からすると考えられないことであるそうだ。科学者の本で知ったような気がする。なんという科学者の本だったか、それも忘れた。今更、専門外のことだから、再度リサーチする意欲はない。だからこのまま書き進める。
進化論からすれば、適応可能な形質や行動が自然選択の結果進化したのだそうだから、自殺というのは非適応的な形質や行動は淘汰されなければならないということになる。だとしたら、ちょっとおかしい。
適応可能な行動は、その結果子孫を残すことに結びつく。だから、子どもを道連れに自殺するなんてことは、進化論から見れば、あり得ないことになる。特に母親は、子どもを自分の分身のように思っている風潮があるから、よけい道連れになってしまう。いけない。そういうことはやっちゃいけない。
もっとも、日本は子育ての責任を母親に押しつけて恥じない風潮もあるから、これは改めなければならない。母親も、ちょっと子育ての責任を考え過ぎることがあるから、これも改めたほうがよろしい。電車の中で、悪さをしている幼児をちょっと注意しただけで、逆ギレしてしまう若い母親がいるけれど、あれは子育てについて余程自信があるからである。すべて自分の責任と考えるから、そうなるのである。
しかし、進化論の立場からだけ自殺を考えることは無理がある。
例えば、飢饉とかあって、絶対的に食料が不足したときは、やはり老人とか親の方から子どもに食料を与えて子どもを生かすようにするだろう。私だってそうする。子どもも、孫もかわいいからである。この先、用の無い私だからである。姥捨て伝説というのはそういうことであろう。哀しいことであるが。
しかし、この場合は自殺とはいわない。ある種の子孫を残したいいう意欲でもある。
自殺については、内閣府の統計によると下記のようになっている。
(http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/toukei/pdf/h26joukyou/s1.pdf)
1 総数(表1関係)
平成26年中における自殺者の総数は25,427人で、前年に比べ1,856人(6.8%)減少した。
性別では、男性が17,386人で全体の68.4%を占めた。
2 年齢階級別自殺者数(表2関係)
「60歳代」が4,325人で全体の17.0%を占め、次いで「40歳代」(4,234人、16.7%)、「50歳代」(4,181人、16.4%)、「70歳代」(3,508人、13.8%)の順となっている。
3 職業別自殺者数(表3関係)
「無職者」が15,163人で全体の59.6%を占めて最も多く、次いで「被雇用者・勤め人」(7,164人、28.2%)、「自営業・家族従業者」(1,840人、7.2%)、「学生・生徒等」(874人、3.4%)の順となっており、この順位は前年と同じである。
4 原因・動機別自殺者数(表4関係)
原因・動機が明らかなもののうち、その原因・動機が「健康問題」にあるものが12,920人で最も多く、次いで「経済・生活問題」(4,144人)、「家庭問題」(3,644人)、「勤務問題」(2,227人)の順となっており、この順位は前年と同じである。
総数が25,427人というのはいただけない。
死んだらアカンのである。
こんなにいるのだ。
アカン、アカン。
原因で、「健康問題」にあるものが12,920人で最も多く、次いで「経済・生活問題」(4,144人)、「家庭問題」(3,644人)、「勤務問題」(2,227人)ともある。
わかるような気がする。
しかし、しかし死んじゃいけない。死んだらそれっきりである。
「健康問題」で死にたくなるというのはわかるような気がする。絶望しかなかったら、そういうことを判断するのであろうから。
それでも、健康問題で死にたくなるというのは、アタマの理解であって、病気になった身体が自分で判断するのではない。そいつを忘れてはならない。アタマが判断するのだ。それから具体的に行動するのである。
アタマが、身体を抹消させようとするわけである。
だから、本当に健康問題でもって死ぬわけではない。屁理屈であると言われてもいい。私は、それでも自殺を防止したいからである。
「経済・生活問題」(4,144人)、「家庭問題」(3,644人)、「勤務問題」(2,227人)というのもいただけない。
他人が関わっているからである。
もう、そんなのどうだっていいではないか。
他者との関係性でいちいち死んでいたら、いのちがいくつあっても足りない。そう思うのだったら、「人生観を変える」ことである。つまりプラグマティズムである。
今まで、キリキリしながら、他人のために働いてきたのである。他人というのは、会社や学校、組織というのがあるだろう。それが辛くて、生きるに値しないと判断するのだったら、そういう考え方を捨てればいいのである。
他人のために働いてきた、あるいは生きてきたというのなら、もうこれからはオノレの爲に生きていっていいのである。
「人生観を変える」というのは、そういうことである。
アタマが勝手に暗い方にいってしまうのを防止すべきである。脳が未来はない、もうオレは堪えられないと勝手に判断してしまう。それはいくらなんでもお勧めではない。
生き方の転向をしていくことだ。
健康に問題があったら、それをきっかけに生きること、死ぬこと、健康であるということ、それらすべてを考えるきっかけにすることである。いいチャンスをもらったと思えばいい。
自殺以外の選択肢しかないとアタマが判断するから、自殺してしまうのだ。
修士をとらせていただいた武蔵野大学では、そういうことをずいぶん考え、レポートを出させていただいた。死生学、老年学等々である。いいきっかけであった。
そろそろ結論。
「誰だって死ぬまでは生きている」のである。
だったら、それまでは、充実した生き方をしたい。たとえ、「健康」に問題があっても、「経済や生活」「家庭」「勤務」に問題があっても、積極的に行動的に生きることである。
以上である。
今日は古文書講座がある。
どんどん興味のある影印本が増えた。今、私の書庫にあるのが、「土佐日記」「蜻蛉日記」「徒然草」「伊勢物語」「方丈記」である。縮小コピーをして、ノートに貼り付けて、解読作業をしている。
楽しいからやっている。
そうなのである。
行動をしているからである。
じゃぁ・・・・・。
(^_^)ノ””””