バー様連中である
大都会の駅にたまに行くことがある。行きたくないのだが、たまに用事がある。主として郷土史の会でしか、最近は電車に乗らない。乗らないから、駅が珍しい。珍しいから、乗降客を眺めてぼんやりしていることがある。駅のロータリー付近である。
あまりぼーっとしていると、お巡りさんとか、ボランティアの方から声をかけられる。「なにかお困りですか?」っていうわけだ。世の中は親切な人もいるものだ。その都度感激するのである。徘徊と間違われているのだろうとは感じる。感じるが、しょうがない。そう見えるのだから。そう見えるということは、甘んじて運命を受諾するしかない。
この間なんか、電車の中で席まで譲っていただいたっけ。若い女性に。マイッタね。こんな汚ぇ爺にである。しかも、手までとっていただいたっけ。感謝感激雨あられである。
しかし、あああああああああああああ、オレってそんなに爺に見えるんだとがっかりもした。したが、ま、それはそれ。死ぬまでは誰しも通る道だ。嫌だと言ってもしかたなし。
むしろ、無理して若返っている方が問題である。
高齢者の集うサイトに趣味人クラブというのがある。そこに、高齢者大型バイクtouringの会なるものがある。たくさんある。ありゃ~と思った。
爺になっても大型バイクであちこち行くのかと不思議な感覚になったからである。爺ばかりではない。婆もいるのだ。たまげたねぇ。マイッタ。一本取られてしまった。
しかし、危険じゃないか。
なんでか。判断力と技能がついていっていないだろうと推察するからである。柔道と一緒である。パワーあふれる若人と太刀打ちできるワケがない。勘違いをしてしまって、対等に戦ったら死んじまう。
アンチエイジングというのとは、ちょっと違っている。
大都会の駅前でぼーっとしていると、さらにがっくりしてしまう。
たいていの仕事人たちは(つまりサラリーマン)、殆ど同じ格好をしている。ドブネズミ色をしたスーツを着て、誰も彼も同じようなビジネスバッグを持って、忙しそうに早歩きをしている。せかせか、せかせか歩いている。ご苦労様なこったと思う。
しかし、なにをそんなに焦っているのだろうかとも思う。
時間から時間までめいっぱい稼がなくちゃアカンからだろう。それでもって、生活しているんだからしょうがないと言えばしょうがないのである。
しかし、その時間から時間まで拘束されるというのは、ある意味、組織とか会社とかに時間を切り売りしてその代わりにカネをもらっているのだ。
いろんなしがらみもあるのだろう。
人間関係も複雑だろうし、成果も求められるし、評価もされる。嫌なことも多いだろう。
本当にご苦労様である。
もっと言えば、時間を盗まれているわけである。組織とか、会社とかに。
「時間泥棒」に囲まれて生きているのである。
自営業の方々はそんなに窮屈ではないだろう。自分の意志である程度判断し、行動できるからである。
しかし、他人に使われている人間は、時間を他人から盗まれている。だから嫌だ、もうこんなことはしたくないっていうことで、逃避するのはやさしい。誰でもできる。だからといって、本当に実行してしまったら、それは生活破綻を意味する。収入は大切である。我慢も大切である。
エンデの「モモ」という作品には、時間泥棒というのが出てくる。
この作品は、そういうことを十分考えさせてくれる。童話だから、誰でも簡単に読むことができる。これがいい。大人の童話である。一度読んでも、なんのことが書いてあるのか最初はわからなかったが、爺になってようやくわかるようになった。むろん推薦者の養老孟司センセの紹介もいいから、再読して(再購入)いるだけだが。
時間泥棒というと、老人大学とか老人クラブにもいる。他人のことを根掘り葉掘り聞いてくる爺婆たちである。出身地は?とか、以前の職業は?とか、住まいは?とかいう類いの質問である。
私はいっさいノーコメントである。そんなことに答える必要は無い。
以前のことなんか、それこそ関係がないだろうに。
生年月日を聞いてくるのは、個人情報をなんだとこころ得ているのだろうか。これって、爺婆になってすることがないからである。あるいは茶飲み話のお菓子と同レベルの話である。
さらに、何が腹立たしいというと、バー様連中である。オノレのことは一言も言わずに、他人の個人情報を知りたがる。
これって、オナゴ特有の現象であろう。
基本的におしゃべりなのだ。他人のことをあれこれ聞き出して、値踏みをしているのである。それが残された唯一の楽しみなのである。バカバカしい。
ねぇ、ねぇここだけの話だけど・・・・と、そうやって寂しいクチを慰めるわけである。
現役時代の仕事なんてなんだっていいだろうに。
その年になって、まだ自慢したいのか?って思う。まったくつける薬がない。そう思う。
他人のことに興味関心を持っているより、もっとやることがあるだろうに。自分の時間をたいせつにしまひょと思うからである。
余生は待ってくれないからである。
時間が無いのである。お互いに。いつ死ぬかわからんではないか。だから、他人に手もみしながら、スリスリ近寄って、無理して友達をつくることもないのである。無理は禁物である。自然体が一番いい。
少なくとも時間泥棒にはならないだろうから。
今日は天気がいい。
しかし、私はこれから再検査で大病院に行く。5週間に一回の割合で行く。こっちは時間泥棒ではない。しょうがないから行く。
でないと死んじまう。
もっともアレか。
誰だって最後は死ぬのである。
早いか、遅いかだけだ。
なにも焦るこたぁ~ねぇのだ。
ふふふふふふ。
じゃぁねー!
(^_^)ノ””””