バブル時代に、呑むや歌うや、博打、買春なんかに入れあげていて、自己投資をしてこなかったのは、それこそ自己責任である
どうも誤解されていると思うのだが、ひねくれ爺ということである。事実、「ひねくれ爺」というkeywordで検索すると拙ブログがひっかかってくるようである。これはブログを開設している本人のみがわかるようになっているシステムだからである。なんというkeywordでこのくだらないブログがひっかかってくるのかが、わかるようになっているのだ。もっとも、今日こんな記事を書いたから、余計「ひねくれ爺」の検索語でひっかかるようになったか・・・トホホ。自業自得とはこのことである。
しかし、これには笑ってしまう。なぜか。他者評価ということを気にしなくなってから数年たつが、あっそうか、そういうことか、そう思われているかということでもって、久しぶりに他者評価ということに思いを致したからである。
もう忘れていたことである。論文の出来具合なら気にしてきた。この数年間は。師匠がいたからである。あるいは、こっちは今でもそうだが、郷土史の先輩方であり先生方である。評価がかなり厳しいからである。それはそれで勉強になるし、まったく気にしないのでは、いけない。いけないというのは、独りよがりになるからである。
天に向かってつばシテいるようなものだ。
あるいは独善というものである。
その辺りは、いくらバカでもわかっている。わかっているから謙虚に行動している。つまり、学べるときは学ぶというstyleである。だから、他人から学んでばかりいる。
昨日、非常勤講師をしている大学の教授の研究室に年度始めの挨拶を兼ねて、お茶のみに行っていた。授業の後である。その教授とは、一緒に共同論文(道徳教育)も書かせていただいたので、かなりフランクに話をさせていただく。ありがたいものである。こんな私でも相手をしてくださる。
いろいろと話をしていた。
そして今月から老人大学に通うことにしたのですよん、と報告した。そしたら、「教える方でしょ?」と言われた。「え?」となった。「違いますよ、生徒ですよ、生徒」と申し上げた。
大笑いになった。
なったが、その後、生涯教育の話題になった。非常勤講師をしている大学でも生涯教育が話題になっているのだそうだ。大学教育の全世代向けカリキュラムの開放というのが、安倍首相によって標榜されているからである。文科省も動き始めている。
コメディアンの「きんちゃん」が、73歳で駒澤大学仏教学部に社会人受験をして、合格をしたのもそういう動きを示している。
ありがたい時代になったものである。
私もそういう時代の恩恵を受けているからである。
まさに生涯学習の時代である。もうそういう時代が来ているのである。それだけ、元気な爺婆が多くなってきたのである。
定年制度をなくしてしまぇ、そんなに元気な爺婆が多いのならという話があるのも知っているが、それはいかがなものか。なんだか、定年制度をなくしてしまって、また経済論者がよからぬ陰謀を企んでいるような気がするのだが。つまり、年金制度が破綻するからというめちゃくちゃな論理でもって、我々高齢者から年金を剥奪しようっていう魂胆が見えているからである。年金というのは、コツコツと毎月自分で払ってきたものである。さらに個人年金保険も、私は支払ってきたから、それはそれで大変であったのである。全部税金から払ってもらっているわけではないのだ。
自己責任論というのが流行しているが、自分で個人年金もやってきたから今の私があるのだ。ある意味、投資である。堀江貴文が、爺婆たちが稼げる時に自己投資をなぜしなかったのか?自己責任ではないかということをこの間あるテレビ番組で言っていたが、基本的には堀江貴文に賛成である。
なんでも国家の責任にして、老後も国家が面倒みるのは当たり前だというのも世間にはある。
だとしたら、消費税は35%あたりにするしかない。税金を上げて、福祉国家にするというのならわかる。世界にはそういうことをやっている国があるからである。月収の殆どを税金にして、あとは病院も学校も老後も全部無料にしている国である。田口ランディさんの作品で知った。
ちょっと引用してみよう。
スウェーデンといえば北欧の福祉先進国だ。その最先端の老人福祉施設を見学するツアーだという。
北欧では、日本人のコーディネーターのHさんが私たちをアテンドしてくれた。スウェーデンに暮らして三九年になるという六十五歳の男性だ。
Hさんによると、スウェーデンの労働者の平均給与は約二十万円くらい。そのうちの三五パーセントは税金である。よって、生活費は十二万~十三万円ほど。
しかし、家賃に二五パーセント、食べ物に一二~十三パーセント、娯楽には二五パーセントの消費税がかかる。いやはや、スウェーデン人の生活は楽じゃない。日本人のほうがはるかにお金持ちである。高消費税がかかるから物価も高い。ミネラルウォーターが空港で五〇〇円もした。とてもこの国で買い物する気にもならない。
しかし、病院はタダ、教育も大学までタダ、保育所も、養老院も費用は国が負担する。
「だから、スウェーデンでは老後の心配をしている人間はいない。日本人みたいに貯金なんかしないんだ。貯金してもしょうがないから、あればあるだけ使ってしまう」
Hさんの言葉に私は思わず問い返した。
「本当に老後の心配はないんですか?」
「ないですよ。私も年金生活者ですが、十分に年金で暮らしていけます。スウェーデン人は弱者を切り捨てないんです。どんな人にも人間としての尊厳があると考えています。その人がお金をもっているかもっていないか、地位があるか地位がないか、役に立つか立たないか、そういうことで人間を判断しません。その人が存在するということは、他の誰とも同じように個別のことであり、その意味において人間は平等だと考えているんです」
かつてスウェーデンはたいへん貧しい農業国で、政治的には右寄りの資本主義社会だったという。とても意外だった。あまりに国が貧しく、国民の生活が大変なので、国民は左寄りの社会民主党こそ自分たちの政党だと支持し、選挙によって政権交代が行われた。現在のスウェーデン人の社会福祉政策はこの社会民主党が作ってきたものだ。税金を重くして、貧しい人も、障害のある人も皆が平等に生きていける社会、それがスウェーデン人が目指した福祉国家だと言う。
「うらやましいな・・・・」
思わずため息が出た。
「ソ連が崩壊して、もうロシアに対する脅威もなくなったので軍事費も福祉に当てています。日本も軍事費を福祉に当てられればいいのにね」
そんなことは今の日本では考えられない。政府は福祉を削ってでも軍事費に当てるだろう。
スウェーデンは第一次大戦、第二次大戦の時も中立の立場をとってきた。いまはEUに加盟しているが、経済的には分離していてスウェーデン国内でユーロ貨幣は使えない。うっかり日本で換金してしまった私は焦った。ユーロが入って来てもスウェーデンにとって利益はないそうだ。独自の道を歩む国だなあ、と思った。
首都のストックホルムを抜けると、広々とした草原。田舎だ。店にも商品は少ない。確かにこの国にはあまり物欲を刺激するものがなかった。私が訪れたときは夏至祭のさなか。遅い春の訪れに花は咲き乱れ、スウェーデンの一番美しい季節だという。太陽は午後一〇時頃まで沈まない。白夜のなかで人々は遅くまで集い、歌い、つかの間の太陽を楽しんでいた。
( 「寄る辺なき時代の希望 人は死ぬのになぜ生きるのか」田口ランディ著より)
以上である。
どうだろうか。
なんでもかんでも国家がやれというのなら、ある程度の自己責任論が出てきて当然なのである。こういう時代なのである。身を切る思いがなくて、要求ばかりしていていいのだろうかと思うからである。
身銭を切っているから、可能なこともあるのだ。
それをなんでもかんでも、オノレは遊んでいて、後始末は国家がやれっていうのはムシが良すぎる。若い時、あるいは中年時代に遊んでいて、爺婆になってから責任は国家にありというのは、天下の暴論である。
堀江貴文も言っている。
バブル時代に、呑むや歌うや、博打、買春なんかに入れあげていて、自己投資をしてこなかったのは、それこそ自己責任であると。
彼の発言は、この間いろいろと批判されたが、文脈からいうとそういうことなのだ。
こんなことばかり書いているから、「ひねくれ爺」というkeywordに化けてしまうのだ。
わかっちゃいるけど、やめられねぇ~っていうやつだ。
だからひねくれているってか。
わはははっははっはははっはは。
もうここらあたりでやめよう。
ますます快調に書きまくってしまうから。
じゃぁ~ねぇ~。
(^_^)ノ””””