半年にわたって、ピースボートでもって世界一周をしてくるという方がいる
昨日もいい一日を過ごさせていただいた。
塾の研修会が昨日の午前中にあった。義務研修なので、バイト代に入っている。だから受講するために行ってきた。ささやかな、ホントにささやかなバイト代しかもらえない。しかし、それなりに責任はある。あるから研修くらい行かないとバチが当たる。当たるのは宝クジの方がいいから、かのうことなら、宝クジがいい。
塾では若い講師が多い。みなそれなりに真剣である。こういうのはいい。実にためになる。民間会社が経営している学習塾である。だから、成績をあげる、志望校に合格させるというのは、至上命題である。成果も求められる。講師の力量アップということでは、 成果を上げないと、倒産してしまうから真剣である。当然、どの程度の指導力があるかという点で、保護者・生徒はシビアに評価しているからこそ真剣である。 こういう世界でもう一度教育を見直すことができるというのは、いいことであった。今更ながらであるけれども、退職してからも良い刺激になる。そして、それは非常勤講師をしている大学の学生たちにフィードバックできる。一石二鳥である。だからやっているだけである。バイトというと歯科衛生士の専門学校でもやっているのだが、こっちは書かない。悪しからず。
さて、現役時代の研修は、自分でやる研修と、教育委員会がやる研修とふたつあった。後者の研修もそれなりに勉強になった。それなりになんて書くと叱られるな。どうせ教育関係者なんて誰も見ていないだろうけど、ホントに勉強になった。感謝している。
しかし、一番血となり肉となったのは、前者の自分でやる研修であった。「学ぶモノこそ教える資格あり」である。自分で学ぼうという意欲がないとなんにもならないからである。なにをやったかというと、大学や専門学校の通信教育であった。あったとい うのは、今はやっていないからである。仕事をしながら、やっていたのである。中央仏教学院、放送大学大学院、武蔵野大学大学院とやっていた。退職してから城西国際大学大学院(この3月に健康上の理由で3年次退学)ときたわけである。今は、老人大学に行っている。さらに、郷土史の会の古文書講座(上級)、居住地でやっている古文書講座(初級)、中国語講座二つ(全部初級)、居住地の歴史講座、柔道教室なんかに行っている。つまり生涯教育である。それぞれの学校、大学、社会教育講座にはそれなりに意味があるし、あった。それなりにである。それだけである。他人に誇るものもなにもありゃしない。自己満足である。 それでもいいのである。
つまり、「目標値を高く設定しない」ということである。それが生涯学習をやるコツである。
塾とはここが違う。塾は目標値を高く設定していかないとならない。でないと、高い塾の費用を出している保護者に申し訳ない。ここが民間の経営している組織と、生涯教育では異相である。そもそも本質が違っている。
退職したら目標は「ゆるく設定する」ことである。それがコツである。結果を追いかけることを主目的にしてはならない。なんとしても目標をクリアするというように自分を追い込んではならない。プロセスを楽しめればそれでいいのである。
通信教育でも、通学生でも大学を4年間で卒業するとか、大学院ならばなんとしてでも博士号を取得するという決めつけは良くない。
高い目的や目標を持つのもいいが、「そのうち出来ればいいや」くらいがちょうどいい。気持ちが楽になる。費用対効果なんていうのも考えないことだ。そういうように自分を追い詰めないことである。
老後は時間がたっぷりある。それは間違いがない。現役時代とは当然違っている。だからと言って、頑張り過ぎないことである。健康をムシして頑張っても、具合が悪くなったら元も子もない。若い世代だってそうだ。頑張り過ぎて、健康を害して取り返しのつかないことになってはいけない。私は、その点で挫折してしまったからである。頑張り過ぎると健康を害するということにうかつにも考えが及ばなかった。最後の大学には、最初からご縁がなかったのであろう。お世話にはなったが、その程度のバカ爺であったというだけである。諦めが肝心である。ハイ、サヨウナラ!である。去るときは去るしかないのである。
年齢が上がれば、病気やケガのリスクは当然上がる。疲れやすくなる。絶対にクリアするぞ!とか、ねじり鉢巻きで張り切り過ぎないことである。
「行かれる時だけ行こう」という程度に目標をゆるく設定しておけばいいのである。ゆったり自分のペースでやればいいのだ。
そういう意味で、この4月に入学した老人大学はいい。目標は、「行かれる時だけ行こう」だからである。行きたくない時は、行かない。老人大学の事務室も言っていた。「あまり無理をしないでくださいね」って。そうなのだ。別に卒業を目標にしているわけではないからである。コミニュケーションと、老後の過ごし方を学んでいるだけである。やることがねぇから行っているだけだろうと、皮肉を言う方もおられるに違いない。収入とはまったく結びつかないからであろう。
結果よりも過程を楽しむというのは、そういう成果主義者には理解できないのだろう。
だって、もういいではないか。現役時代は、どれだけ血眼になって仕事をしてきたのだというのだ。しがらみとか、成果とか、目標値とか、出世とか、複雑な人間関係とか・・・そんなのもう良いではないか。卒業したのである。仕事人間社会から。仕事人間社会なんていうのは、ある意味ではエンデの「モモ」が描いている時間泥棒の世界でもある。
もう時間泥棒に捧げる時間はない。時間はオノレのためだけに使いたいのである。あるいはささやかなボランティアでもって使いたい。老人クラブがそれである。この4月から最年少会員で入会したが。
シニア世代は真面目な人が多い。
それに長い間の仕事人間時代の癖があって、成果を性急に求める。かけたお金は成果をつけて回収したいっていうような人が多い。
それはいかがなものか。
老人大学で、今年の12月から半年にわたって、ピースボートでもって世界一周をしてくるという方がいる。これである。これ。
こういう時間の過ごし方をしていきたいものである。
成果なんてないからである。
塾とは違う世界であるからだ。
今日も良い天気である。
静かに読書でもして、穏やかに過ごすつもりである。
私の周囲には、時間泥棒がいなくなったからである。
(^_^)ノ””””