生きている上で、変わらないものってありますか?
第七回現代仏教塾 「死後・輪廻はあるか」Ⅰ東洋大学名誉教授 森章司・輪廻は仏教の大前提
第七回現代仏教塾 「死後・輪廻はあるか」Ⅱ近代仏教学の「無記」の誤解・東洋大学名誉教授 森章司
「痴呆老人」は何を見ているか(オレのことじゃよ)
久しぶりにヒット作に接した。読んでいると、実に気分がよくなる。快適になる、あるいは今までのデタラメな生き方を反省させてくれる書籍である。こころが晴れ晴れとする。福祉関係、介護関係の仕事をしている方には、読んで当たり前のような本かもしれない。しかし、風呂の中で読み始めて、ベッドの中でも読み、さらに書庫でも読み、とうとう再読までしている。今は。
虜になった。
その本の名前を紹介しよう。
『「痴呆老人」は何を見ているか』 著者:大井 玄 発行:新潮社(新潮新書)価格:¥ 735(税込)である。著者は東大医学部の教授。れっきとした医師でもある。この本は、岡野守也という仏教心理学会の会長であった先生のところで出していた終末期医療の冊子に連載されていたことを知って買ったのである。なんでかというと、岡野守也センセは、私の修士論文のテーマでもあったからである。大仰にも「岡野守也論」とまで名付けて書いたのだった。仕事をしながらであった。だからまだまだ記憶が生々しいのである。
もっとも、この大井先生の本は、古本チェーンで買った。108円であった。ありがたいかぎりである。実に。
中身は以下のようなことが書かれている。ちょっと要約を書いてみる。
・沖縄には「ぼけ老人」がいない。
・人間関係がうまくいかなかったり、生きていくことに不安を感じるストレスがなければ、被害妄想や徘徊などの症状はあらわれない。
・欧米型の個人の「自立」をたいせつにする文化と、日本の「つながり」をたいせつにする文化では「老い」や「生きる」ということの価値や意味が違い、「私」のあり方が違う。この文化の差が認知症人口の割合に大きく関係する。
・認知症になった人は、不安や恐怖によって今までよりも生きにくくなることを防ぐために、自分が一番しあわせと感じる仮想世界をあたらしく構築して、その中で生きている。
以上のようなことを、「老い」とはなにか、「私」とはなにか、日本はどういう文化なのか、いま、社会はどういう状態にあるのか、文化や社会を作った歴史はどういうものだったか、ひきこもりはなぜ起きるのか等々の問題について、優しく語りかけてくださっている。
ありがたい限りである。
しかも、あえて「痴呆老人」という言葉を使っている。
それは以下のような理由による。要約である。
・本書では2004年3月に行政・法律の公的名称となった『認知症』よりも『痴呆症』のほうが、認知症の実態や問題点をより的確に表せることがあるという視点が出されている。それは認知症が他の学術分野の認知概念と混同されて紛らわしいということもあるが、認知症だと痴呆症・老人ボケに比べて『人格的な変容・年齢的な衰退・一般社会(客観世界)から自意識が離れる感覚』といった要素が加味されにくいということがある。
・痴呆症や老人ボケという言い方は、知的能力が低下した高齢者を侮蔑する差別的表現であるということから『認知症』への名称変更が為されたが、(程度の違いは様々でも)誰もがなり得る自然な老化プロセスの一つとして認知症を捉える時には、痴呆やボケといった呼称のほうが伝わりやすいこともある。認知症というとどうしても医学的・客観的な病名の無機質な印象となり、ライフサイクルの老年期に位置づけられる『一度獲得された知能の段階的な衰退』や『人間関係・生活環境への適応性の変化』といった視点が抜け落ちやすくなる。
・自分が認知症を発症することの恐怖感や嫌悪感は、先進国の競争社会であるほど強いという指摘が為されるが、それは『自我中心の自己責任社会=現代』において“わたし(自我・人格)”を失っていく認知症というものが、人間の尊厳や価値を侵食する疾患だと認識されやすいから。青年期に佐久平で『寝たきり老人・ボケ老人の医療』を経験することで、アメリカ留学で確立した競争主義的な自己アイデンティティや能力主義的な世界観が激しく揺さぶられた。
・認知症を発症したり寝たきりになったりした無力な老人の姿は、『自己の自立性・自尊心』を失う将来の自分の姿と重なり、自尊心や自立性を支えている『自我(私)の意識・自己の能力』が無効化してしまう恐怖や空虚をイメージさせた。現代社会は良くも悪くも、私がどんな人間であるか、私にはどんな能力や実績があるか、私の行為や決断にどのような責任が生まれるのか、私が幸福なのか不幸なのかという『自己中心の世界』であり、“私(自己)”という自意識や責任主体が確立していない限りは社会的・経済的・対人的に有効な行為が何もできない構造になっている。
どうであろうか?
徹底的・かつ根源的な問題を我々(私だけか・・・)に突きつけてはいないだろうか。
それは「生老病死」である。
まったくそのとおりであって、我々人間は「生老病死」から逃げ出すことはできないからである。何度でも、何度でもこの問題は我々を攻めてくる。忘れようとしても、太平洋の波のように繰り返し繰り返し迫ってくる。
「だからどうしろというのだ?」と言いたい方もおられるかもしれない。
無駄である。そんなことを考えても。いかにもマニュアルだけで仕事をしてきた人間だけが考えそうなことである。「だからどうしろというのだ?」という対処方法は。
「生老病死」から逃れる手段は無い。
まさか宗教じゃあるまいし、そんなインチキ臭いことを書いているのではない。しかも、私は輪廻転生を信じない。天国も地獄も信じない。生まれ変わりを説く宗教もあるが、逃げているだけである。死んだら終わりである。遺された家族だけだ。哀しむのは。だから、今を充実させて生きるしかないと思っているだけである。今、今、今の連続が一生である。この今という一瞬を大切にして、悔いのない生を送るしかないでないか。後悔ばかりしていては、たまったもんじゃない。あるいは、第二の人生だとか、博士号を取得したいとか、有りもしない未来を夢見て、無駄なカネを使ったり、時間を浪費したりしてはならんと思っているだけである。
生涯学習は、そういう意味でもって志向してはならないと思ってこれまで微々たる歩みではあるが、やってきた。思うとおりにならなかったが、それはそれで仕方がない。評価は他人がするものである。能力が無かったから大学院博士課程を修了することができなかったというだけである。三年もいたのに、満期退学すらできなかった劣等生である。表向きは、健康問題で退学したが、他にも理由はある。ま、低評価であったというだけである。稀有な劣等生であっただけである。その間の事情について書きたいことは山ほどあるが、もう書かない。三年間の大学院生活でたまりにたまったゴミは、段ボール二十箱になった。全部捨てた。おかげで、私の書庫は実にきれいになった。これで良かったのだ。過ぎ去ったことはきれいさっぱり忘れるにかぎる。マジに。勝負はこれからである。郷土史愛好家として、あちこち出没することにしたからだ。
しかし、それでも誰でもなり得るのが「痴呆や呆け」なのである。要約したように、「自然な老化プロセスの一つとして認知症を捉える時には、痴呆やボケといった呼称のほうが伝わりやすいこともある」とも書かれている。
ここのところが一番重要だ。
それを名称変更してみても無駄である。
本質は変わらない。差別的表現だと言って忌み嫌う方もいるだろうが、かえって本質をついているから、名称変更をしたのかもしれない。そう私は思っている。
現代人は、「生老病死」から逃げている。直視したくないのである。だから老いることを極端に嫌うし、いつまでも若く見られたいと焦る。焦ったあげくアンチエイジングというわけで、無理な、あるいはハードなトレーニングをして、心臓病で死んだりする。本末転倒である。結論と原因・理由がひっくり返っている。
まるで私の大学院生活のようだ。
もっともあれか。
そもそも最初から結論と原因・理由がひっくり返っていたからなぁ~。
これくらいにしよう。
今日は朝から雨である。
Gymにでも行って、ささやかに過ごすつもりである。14日にある中学校で交通安全講話をしてくるから、その資料を宅急便で送る。膨大な資料になる。さらにパワーポイントを使って講話をするから、その配付資料も送る。中学校の先生にも電話で印刷をお願いしておいた。県の安全教育推進委員をやれと言われているので、やらせていただいているだけである。やることがあるだけ感謝である。
今日も一日快適でありますように。
(^_^)ノ””””
道徳的意識は、戦争の明証性が平和への確信によって乗り越えられる場合に限って、冷笑するような政治の視線に耐えることができる。そうした確信は、戦争と平和を対立させるただの反定立の戯れによって獲得されるものではない。戦争に由来する諸帝国の平和もまた、戦争に基づいている。-全体性と無限-
一日一日を大切に過ごして下さい。そして、『今日はいい事がある。いい事がやってくる』『今日はやりたい事が最後までできるんだ』この事を思って生活してみて下さい。
ミヒャエルは「神に似た者は誰だ?」を意味する。ミヒャエルは、大天使の中で唯一、その名が問いなのだ。悪魔はこの問いに答えられない。これが大天使の剣である。アダムとは「私は似る」を意味する。この私(自我)が神の像に似せて造られたものである。それはエックハルトがいう"魂の火花"なのだ。
■「分かち合えば分かち合うほど、神はわしらに分かち合うものを与えてくれる。わしらは他人と分かち合うとき、本当は神と分かち合っているんだ。」【ラコタ族長老ノーブル・レッド・マン】
あなた方、朝、眼がさめるのは当りまえだと思っているね。それが当りまえでない証拠に、いつか時が来れば、どうしても眼のさめない朝が来る。それは、あっちへ行っちまうことになるんですよ。よく考えなさいよ。
哲学者達も確かに終末論を利用して、やはり平和を告げる。とはいえ、哲学者達が最終的な平和を導き出すのは理性からである。ところが、理性なるものはかつても現在も、戦争の直中で働いてきたものなのだ。哲学者達は、こうして、政治の上に道徳を基礎づけることになる。-全体性と無限-
生きるための智慧が生涯学習にはある
損得勘定というものが、人間関係を希薄にしている。そう思う。クチさえ開けば、メリットがあるとか、デメリットだからやらないとか聞かされて... goo.gl/TnzZhF
2012年8月4日 養老孟司氏による特別講演「むし・信州・わたしの壁」 blog.goo.ne.jp/tym943/e/ea8b5…
反知性主義には2つあって、「歴史なんて学びたくない、直観でモノ言うぜ」が反知性的主義のは言うまでもないけど、「おれの学問が絶対、同じ語彙で話さないやつは無知」と条件反射的に返すのも反知性主義であって、本当の知性は、なぜここで言葉がすれ違うのか考えるものだと思います。
禅定寺木造十一面観音立像:近世以降曹洞宗の禅寺となっているが、元来東大寺の末寺であった。平等院や藤原摂関家ともゆかりの深い寺院で、本尊を始めとし、平安時代にさかのぼる仏像群を有することでも知られる。道長全盛期には広大な所領を有した。 pic.twitter.com/UUNbhqHt99
大型連休の日本から海外への旅行先で、韓国が最大の落ち込み。やはり「親日国」への比率が高まっています。本日2面。夕刊フジ・アンドロイド版→ow.ly/8iHAY。iPhone/iPad版→ow.ly/aQ8pJ
「学校基本調査」の各種学校の統計を見ていたら,自動車操縦系の入学者が減っていることに気づく。いわゆる自動車学校だが,若者のクルマ離れの反映かな。
たまたま複雑な社会に生れ、なるたけ御多分に洩れぬ様に物事に処している御蔭で複雑になった人間の、複雑なのは現代人の特権だという様子ほど見ていてうんざりするものはない。何んという醜態だろう。ただ意志を紛失しているというに過ぎないではないか。
(川端康成)
高校生の公務員就職率マップ(2014年春)。大学を見限って,公務員を志望する生徒が増えているんだって。地方の進学校で。これ,Jジャーナルの連載でやればよかったな。 pic.twitter.com/lzKZfCO6uu
自動車教習所が窮地に! 「免許離れ」が深刻化 | 産業・業界 - 東洋経済オンライン toyokeizai.net/articles/-/2858 言われているわ。
シニア層が「でかけなくなる」理由 mamion.net/2013/07/%e3%82… @mamionさんから
中学校長を懲戒免職=女性教諭にわいせつ行為―千葉県教委(時事通信) - Yahoo!ニュース headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150406-…「30代の女性教諭にわいせつ行為をしたとして、千葉県袖ケ浦市の市立蔵波中学校の男性校長(59)を同日付で懲戒免職処分」。