老後は楽しむのが一番いい
昨日もいい一日であった。
感謝している。まことにまことに。そして、これからも「昨日はいい一日であった」と書き出していこうと思っている。たとえそうでなくても、そういう書き出しでいこうっと。
昨日、東洋一の規模を誇る居住地の大病院に行ったのである。5週間に一度の再検査である。結果は「極めて良好」というdoctorのご託宣であった。だから嬉しいのである。根が単純だから、かなり嬉しい。血液検査の結果もかなり詳しいのが、あっというまに出てくる大病院である。予約診療であるが、個人病院とはワケが違う。最先端医療も行っている大病院である。NHKにも何度も出てくる。あまりにも巨大で、ビッグデータというシステムを使って、私の身体なんて、隅から隅まで知っている病院である。参る。バカな私よりも詳しいのだ。こんなに詳しいと気持ち悪くなっちまう。私の死期も知っていたりして(マサカ・・とほほ)。
ま、死ぬときは、100%お世話になるから、文句の言いようもない。アリガタヤ、アリガタヤと合掌している他ない。
もう一つあった。
塾である。楽しいもんだ。昨日の夜である。7:35から9:10まで。全員男子生徒であった。英語が三人。小学校の四年生が国語と算数。久しぶりに国語を担当させていただいたから、楽しかった。最近は数学と英語が多いからである。専門外である。だからなかなか苦しい。苦しいけど、もうこれで四年目になるから、自学自習してきた成果も少しだけ出てきた。これが楽しい。高校生の英語も分かるようになってきたからである。
たいしたレベルではないのは最初から知っている。つまり私の能力である。最初からである。ふれあいの喜びというのが楽しいからやっている。
いや、話題はそんなことではない。小学生四年の男子がどうしても、概数の計算で先に進めないでいたので気になっていたのである。四捨五入で理解が今一歩であった。知人の小学校のセンセにどうやって教えているのか?と聞いたが、回答が間に合わなかった。間に合わなかったが、私なりに工夫して昨日は教えてみた。
そしたらできた。嬉しかったねぇ~。まったく。
小学生クンは、なかなか優秀である。だから、なんでも先へ先へと進んでいく。ワークブックをドンドンやっていくのである。これはこれでいいと思うのだが、躓いたときにどうやって指導するかということは小学生相手にはやったことがない。
だから良い経験になった。
これでまた非常勤講師をしている大学で、学生たちに語りかけることができる。躓いた子どもへの指導という観点からである。
つまらないことばかり考えているなぁと言われるかも知れない。しかし、そういうつまらないことに興味関心を持てるかどうかというのが、良い教師になれるかなれないかの分岐点になる。それでないとアカンと思っているくらいである。
だから、爺・婆になったら、どんなにつまらないと他人から言われてしまうことであっても、興味関心を持つことである。
大それた野望を持って爺・婆生活を送ることはない。
ただし、私は挫折したけど。博士になりたいという野望を持ってしまったからである。これは反省している。なにがなんでも博士号を取得してみたかったから、焦ってしまったのである。朝も早くから、夜も遅くまでゴミ論文を書いていたからである。
高齢者が大学に入って、勉強する時代になってきた。私立大学では、学生の1/3が老人だという大学もあるという。東京の西部にある大学である。
老人が入学することによって、大学経営は安定する。そりゃそうだ。少子高齢化であるからだ。
それに私もそうだったが、若い学生たちの刺激になる。高い学費を払ってわざわざ大学に来ているのだから、授業だって疎かにはしない。かなり積極的に学ぶ。そうなのだ。なんかになろうとか、就職したいとかまるで関係ないからだ。いまさら、どこに就職できるというのだろうか。そんなことを言ったら基地外にされてしまう。
学部生時代であった18歳のころは、可能な限りサボることばかり考えてきたが、爺になったらそうはいかない。高額の学費がもったいないからである。わはははっははははである。てめぇで払っているのだから、実に真面目である。費用対効果というやつである。あんまり好きではない用語ではあるが。
しかし、爺になったからと言って、なにも無理して生涯学習をやらねばならぬというのでは如何なものか。
生きがい追求とか、無理をしてまでやる必要はない。
他人の猿まねをして、無理して通学したり、通信教育で大学に入ったりして、それを義務化しないことである。
要するに「我が道を行く」でいいのである。
ただし、一番良く無いことがある。
年取ったから、病気になったから、配偶者が死んでしまったから、世の中がつまらないから等々の理由でもって、出不精になっちまうことである。
やってみればいいのである。
行動である。
くよくよ悩む必要はサラサラないのである。
やるべきか、止しといたらいいだろうか、とーま君のようにいまさら大学なんか行って笑われんじゃないだろうかとか言わないことである。自己弁護はしないことである。
老人クラブだって、老人大学だっていいじゃないか。
なんでも気楽にやってみればいい。
友達ができたらできたでそれでいい。できなかったら仕方がないのである。黙って本でも読んでいればいいのである。
要するに、他者は他者、オレはオレ。退職したのだから好きなようにやることである。
何をやったらいいのか、それがわからないというのだったら、拙ブログのようなくだらないものを斜めに読みながら、あざ笑っていればいいのだ。
それでいいではないか。
爺・婆になったのである。
好きなように生きることである。
今日は、90歳になった義母のお祝いを夜にやる。
一病息災。義母も**という病を抱えて90歳になった。見習いたいものである。できるのである。そういう生き方が。
義母は、老人大学の大先輩でもあるけど。
昨日はいい一日であった。
そして今日もいい一日でありたい。
そう思う。
心底からである。
(^_^)ノ””””